【第一章】八幡様について(昭和59年7月28日)
宇佐八幡は日本第二の宗廟
【深見先生】究極六時間の燃える闘魂、あっと言うレクチャーという感じでございました(笑)。本日も激しく盛り上がりたいと思います。
そういうことで、お話に入る前に、先週の土曜日、日曜日は一部、二部ともお休みでございまして、その間、突如として宇佐八幡へ参りました。
八幡様というのは、全国に四万八百二十社ですか、数万社ございまして。全国の神社は約十一万社ございますね。
全国で十一万社ある神社の中で、八幡さんというのは四万八百社。圧倒的なシェアを誇っております。どんな業界でも、約二割から三割シェアを占めれば、もう独占状態と言われるところ、神社業界でございましては、まさに三割、四割に近いという圧倒的シェアですね。
なぜこのように八幡様はそれだけのシェアを持っているのか。それだけ功徳が大きいわけですけれども、
八名で行ったわけです、八幡だからというので。往復、やはり宿泊費も込めまして十万円ぐらいかかりますので、あんまり勧めるのもあれだし。しかし、なぜ言ってくれなかったんだということにもなるしということで、「忠ならんとすれは孝ならず、孝ならんとすれば忠ならず」ということで・・・。
で、一通り皆さんに言って、八名の方が集まりました。中には非常に苦しんで行った人もいるんですけれども。その甲斐ありまして、非常にすばらしいご神業だったわけです。
こういう講義でご神業する、ご神業のパターンがございます。それから、マン・ツー・マンで潜在意識をずうっと返っていくご神業もありますけれども、一つ、例えばそこの風土ですね。
例えば日本国ですと、日本国の中心的な風土がございます。日本の風土というものを、産土の神というんですけれども、どういうわけか、広島の人たちの気質と鹿児島県人と熊本、随分違いますね。
東京人と関西人は随分違いますように、その地域地域に人々の性格が随分違うわけです。
もちろん風土が違いますし、歴史的な社会情勢も違うんですけれども、どうもそのあたりの気というんですか、人々の性質の奥にある気というものが、その場所にある一の宮様とか、ご神霊の気によく関連性がございます。
そういうようなことで、大分というところは、まあ行ったわけですけれども、宇佐八幡宮というのは神社では、一番は伊勢神宮です、天照大御神様。
宇佐八幡宮は第二の宗廟といわれまして、日本で第二番目といわれる神社です。
皆様もよくご存じのように、聖武天皇のころ、奈良の大仏ができました。当時、聖武天皇が行基菩薩さんなんかとともに奈良の大仏をつくって、仏様の功徳によって日本国が安泰になりますように、とお祈りした。
鎮護国家の思想です。聖武天皇、持統天皇は、非常に方位方角とか、易とか、神仏に対して崇敬のあった天皇様ですから、その当時、国分寺なんかも作られたわけです。
東大寺の仏像を作るんだけれども銅がない。どうしたらいいかと。そうしたところ、大分県の宇佐八幡のすぐそばの山の中から銅が出まして、その銅であの東大寺の大仏を作ったわけです。
ところが、今度は金が出ない。どうしても、日本中から集めましても金が足りない。
中国から金を買わざるを得ないか、という時に、当時、越中の国の国司でございました大伴家持が、一生懸命、宇佐八幡宮へご祈願を込めましたところ、「その必要はない。金は必ず日本国から出るだろう、外国からは買う必要はない」と神勅が降りました。
外国から買う必要はないと宇佐八幡からご神勅がございましたときに、陸奥の国、金華山ですね。金華山は鹿が有名ですが、仙台の東のほうの金華山というところから金が出ました。それで、日本の国から金が出たと、非常に喜んだ。
大伴家持が、宇佐八幡宮のご祈願を込めまして、ご神託で「海外から金を買わなくても国内から出る」と言われたとおりに、しばらくしましてから、陸奥の国から金がたくさん出ました。孝謙天皇のころです。その金で、あの奈良の大仏はできたわけです。
それを記念しまして、大伴家持が、「海行かば水清く屍 山行かば 草生むす屍 大君の辺にこそ 死なめ顧みはせじ」という、軍歌にございます。
あの「海ゆかば」。あの歌詞は、作詞家が作ったんじゃありません。大伴家持が作りまして、それにメロディーをつけたわけです。これが、「♪海ゆかば~」という歌です。知っているでしょう。
「♪みずく屍~」。今日は歌謡番組ではございませんので歌は省略しますが。その金華山から金が出た。このように、宇佐八幡の功徳によりまして、あの奈良の大仏ができたわけです。
皇室を救った宇佐八幡のご神託
もう少し皆さんに有名なことを挙げますと、有名な弓削道鏡がいます。弓削道鏡という者は、歴史上で謎でございますけど、多分これは蝦夷ではなかったのかと言われているらしいです。
彼は孝謙天皇の寵愛を得ていましたが、「あっ、神々様が、私が天皇になれば、日本の国は非常に安泰であると言っておられます。宇佐八幡宮様もそう言っておられます」と孝謙天皇に言ったわけです。孝謙天皇は「本当にそうなのだろうか?本当に神様がそうおっしゃるのなら皇位を譲らざるを得ないが、ひとつこれが真実かどうか、宇佐八幡へ行って確認してほしい」と和気清麻呂公に命じました。
和気清麻呂公が「わかりました」と言って出発しようという時に、道鏡が来て「おまえな、「宇佐八幡宮様は、道鏡が天皇になれと言っていた」と言え。そうすると、これもあげるし、な。位もあげるし、な。それでなかったら、おまえの命はどうなるか、わかっているだろうな」というような感じで、脅し半分、賄賂半分で言ったわけです。
「はい、わかりました」と、一見従順そうに従いまして、宇佐八幡宮へ参りました。当時、宇佐八幡宮には巫女さんがいまして、女の禰宜さんと宮司さんが審神をして、ご神勅を全部受けていました。
和気清麻呂公が道鏡の言葉について尋ねますと「我が国は君臣の別これ定まれり」
——-日本の国は、民と君と家臣の別はおのずから定まっている。
「須く公孫を皇位につけよ」
——-天皇様の子孫か親戚関係を皇位につけなければいけない。
「不逞の輩は速やかにこれを排除すべし」
——-そういうことを言う不逞の輩は、速やかにこれを排除しなさい。
というご神勅が降りたんです。和気清麻呂公は、道鏡から脅されたり、賄賂送られたりしたんですが、天皇様に、そのまま、ありのままを報告した。弓削道鏡は「せっかく賄賂までやったのに、あんなふうに言いやがって。もう少しで天皇になれたのに!」と悔しがって、和気清麻呂公のアキレス腱を切ったんです。足の筋を切りまして、別部穢麻呂とか、彼のお姉さんに、例えば和気ごみための姫とか、ひどい名前をつけまして、こういう名前を名乗れなんて、ひどい仕打ちをしました。
弓削道鏡は、宇佐八幡のご神勅のためにとうとう排斥させられまして、日本は万世一系の天皇家が守られた。
もし、この和気清麻呂公の命を捨てた誠がなければ、日本の国はそういうおかしな歴史を持たざるを得なかった。日本の歴史上に燦然と輝く、和気清麻呂公、忠臣の鏡です。
このように、宇佐八幡宮は日本の国体、歴史において、国家のことに関して危ないときに、ご神勅、ご神示で日本の国を救ってきたのです。
そのような歴史がございまして、宇佐八幡宮は第二の宗廟と言われていますけれども、当時は伊勢神宮よりも宇佐八幡宮を崇敬するという風潮もあったぐらいに、非常に皇室とか人々の崇敬が篤かった。
孝謙天皇の後に桓武天皇が出てまいりまして、事件がよろしくないからということで「七九四ウグイス平安京」、七九四年に、奈良の都から平安京へ、桓武天皇が京都へ都を移したわけです。
以来一千年間、京都に都があったわけですが、「何とかこの宇佐八幡さんのすばらしさを京都にお招きできないものか、わざわざ大分まで行くのは大変だから…・・・・・」ということで勧請しましたのが、僧行教です。この方が、何とか宇佐八幡様、京都に来ていただけませんか、と。これがT先生の前世です。
この方が石清水八幡をお作りになったんです。鎌倉時代になりますと、源頼義が鎌倉に勧請しました。
この人の時代は平家が強かったんですけど、「何とかわが源氏にも繁栄が来ますように…!」と、由比ヶ浜にこの宇佐八幡様を勧請申し上げた。その後、源頼朝公が現在の場所に移したのが、鶴岡八幡です。
このように、源氏の崇敬している産土さん、氏神さんは、この八幡さんなのです。鎌倉時代とか、皇室の危ないときにすばらしい神力を発揮しましたので、八幡様はもう抜群の人気がございまして、全国十一万社ある中で最も人気が高いです。
八幡様のご祭神とは
八幡様のご祭神と申しますのは…… 今日は八幡さんの勉強をいたしますけど。井草八幡神社という神社がすくそばにあります。関東十大神社のうちの一つです。
私たちは進学塾をやっておりまして、毎月産土さんに月参りをしておりますが、井草八幡様は、こちらの気分によってご神霊が随分違います。何度か見たことがあるんですけれども、大きな入道みたいなご眷属がいらっしゃるんです。
そうですね、三メートルぐらいの入道でしょうか。もう一体、ジャイアント馬場のような、ひょろっと立っていた神様を見たことがあります。
入道みたいな大きな、三メートルぐらいの神様と、二・八メートルぐらいのほっそりしている神様。要するに、ジャイアント馬場をもう少し拡大コピーしたような感じで、ひゅっと立ち上がった感じのご眷属です。
井草八幡様のご祭神は、ピカピカ光っていて、衣冠束帯をつけていらっしゃる。平安時代の検非違使長官のようなお姿です。井草八幡さんへ行くと、いつも金色なんです。白山神社さんも産土さんがおられますが、こちらは白色です。
真っ白のご神気ですけど、八幡さんといったら金色だったんです。
ともかくご祭神は、八幡大神と比売大神様です。比売大神様というのはどういうものかといいますと、「多紀理姫、多岐都姫、市杵島姫」(板書)、市杵島姫というのは、要するに弁天様のことです。
天照大御神様と素戔嗚尊様が天の安河原で誓約をした。神道では、誓約を非常に尊重します。素戔嗚尊様が、伊弉諾尊に「海原をしろしめせ」と言われていたんですが、海原の国を整えることもしないで、めそめそしていました。
伊弉諾尊様が「おまえ、何をそんなに泣いているんだ」「母の国に帰りたくて泣いているのです」「そんなだらしないやつは、この国に住んではならない」
母の国といったら、伊弉冉尊様は黄泉の国に行っちゃっていますから、「じゃあ僕、黄泉の国に行きます」って、こういう感じですね。素戔鳴尊は「では、お姉さん(天照大御神)にあいさつしてから、僕は黄泉の国に行きます」。で、お姉さんにあいさつに行ったんです。
ところが、天照大御神様は、「おまえはこの高天原を奪いに来たんじゃないか」「いや、あいさつに来ただけです」
従順な顔をして素戔嗚尊が来たんですけど、天照大御神様は信じられない。「いや、お姉さん、信じてください。うそだと思うのなら、誓約しましょう」と言って、誓約することになりました。
まず、天照大神様が素戔嗚尊の身にはかせる剣を取りまして、狭霧たもうた。噛んで息を吐き出しましたら、そこからお姫様、三姫が出てきた。
次に素戔鳴尊が天照大御神様の首飾りを狭霧たもうたら、五人の皇子様が出てきました。
「見てごらんなさい、お姉さん、私の剣から女神様が出てきたじゃありませんか。私に戦闘意欲がなかったから、女神が出てきたんです。私が勝ちました」と。
「ああ、天照大御神様は、お姿が優しそうだけれども、首飾りから出てきたのは居丈高な男神様だ。お姉さんはやっぱりそういう、見たところは優しそうだけれども、中は男みたいな激しい気持ちを持っていたんですね」…………と。誓約のことは「古事記」に出ています。
宇佐八幡の三姫様は、この天の安河原の誓約で出てきた神様です。比売大神様とは、多紀理、多岐都、市杵島の三姫をセットでお呼びする名前なんです。
ここ(宇佐)に大元山という山があり、その一体を宇佐島と言いますが、この宇佐島にご三体のお姫様が降臨なさったわけです。ですから、ここには昔から、卑弥呼は神功皇后様だったんだとか、邪馬台国は宇佐にあったんだという邪馬台国九州説があります。
他に北九州説、近畿説がありますが、今のところ、邪馬台国は大分の宇佐八幡、宇佐にあったんだという説が、邪馬台国論争の第三位に位置されております。
その宇佐島に降臨なさった市杵島姫様を勧請したのが、厳島神社です。この厳島神社を崇敬しておりましたのが平家です。それから、宗像大社。九州の方はご存じだと思うんですけど、福岡の一の宮の官幣大社です。三つの離れ島に、この多紀理、多岐都、市杵島の三姫がいらっしゃいます。
福岡には宗像大社、筥崎宮、香椎宮という神社がございますけど、皆、蒙古来襲のときにここで頑張った神様です。
このように、宗像大社の神様が三姫です。植松先生もご神業していますと、何度も何度も三姫さんだとか、剣の先の神様だとかおっしゃいます。竹生島の神様も弁天様です。日本三弁天といいまして、厳島神社、竹生島、それから江ノ島弁天、これが日本三弁天。仏教から来ましたのが天河弁才天。
これが大峰山にございます。大峰山といいますと、役行者様が開かれました修験道の根本道場です。厳島神社、竹生島、それから江ノ島弁天。これがいわゆる日本三弁天です。
神功皇后の三韓征伐
普通、八幡さんといいますと、比売大神様を中心にしまして、応神天皇様がいらっしゃいます。応神天皇の時代、百済から王仁博士という人が来まして、漢字とか書道の「千字文」などを伝えました。
応神天皇様のお母様は神功皇后です。神功皇后様は、日本の歴史におきまして、初めて海外出兵した日本の皇后様、女性です。別名息長足姫と言います。
植松先生も時々お話しされますように、息長足姫は髪の毛がすごく長くて、海水に自らの髪の毛を流していますと、霊感がパパパッとひらめく。「朝鮮出兵したほうがいいかどうか…。
あ、これは戦をしたほうがいい」。そういう超能力者でした。ですから、神功皇后が卑弥呼だったんだという説があるくらいです。
ですから宗像大社とか厳島神社に来る前に、要するに三弁天という、剣から出てきた神様が、最初に宇佐島へいらっしゃった。そのもとが八幡様です。さらに、神功皇后様というのは、初めて朝鮮出兵しました日本の女性です。
神功皇后様のご主人で仲哀天皇様という方がいらっしゃいました。あると「ああ、このまま日本の熊襲とか隼人と戦ったってだめだ。その陰で新羅の国が糸を引いている。だから、くさいものは元を断たなきゃだめなんだ」ということになり、神功皇后様が、このとき初めて鎮魂帰神術というものを行われました。
武内宿禰という人がいまして、三百六十歳ぐらいまで生きた方です。この武内宿禰が「サニワ」というものを行いました。審神というのは「神様を審(つまびらかにする」と書きます。
正しい神様か悪い神様かを判断するという、これを審神というんです。よくご神業でも、専門用語として「審神」という言葉が出てきます。
神功皇后様にパアーッと神がかりますと、武内宿禰が、「あなたはどちらの神でございますか」「私は天照大御神でございます」なんていう形で、神功皇后に神がかるわけです。
そして、武内宿禰が審神しまして、その神様いわく、「隼人、熊襲と戦ってもだめだ。その元にいる新羅を打たなければだめなんだ」というご神示が降りたわけです。
「わかりました。では、命に替えてでもやります」と神功皇后様が言ったら、仲哀天皇が「おい、よせよ、おまえ、そんなこと。新羅なんかに出兵してどうするんだ。海の向こうにあるんだぞ。そんな怖いことはおれは嫌だよ」と言った。
仲哀天皇様、非常に肝っ玉が小さいといいますか、尻つぼみといいますか、恐がりといいますか、臆病でした。
神功皇后様は神一筋に生きる人でしたから、神功皇后様が神がかりまして、「新羅を撃て!」、仲哀天皇は「そんな、嫌だよ、朝鮮なんて。海の向こうにわざわざ行くなんて。沈没したらどうするんだ、溺れるじゃないか。俺はかなづちだし」なんて言う・・・・・・、そこまで言ったかわかりませんが、とにかく非常に仲哀天皇様は臆病だった。
そんな臆病なことではだめですと、この場で「神去りましぬ」。
「古事記」に「神去りましぬ」と出てきます。即死です。死んじゃったんです。ああ、仲哀天皇が亡くなりましたと。
日本国家を守ろうという偉大なご神示が降りているのに、怖がったものだから、仲哀天皇はその場で死んじゃったんです。それで、神功皇后様が自ら指揮をとって朝鮮出兵した。日本の歴史上初め女性が朝鮮半島に堂々と渡ったわけです。
三韓征伐の時に神功皇后を守りましたのが、住吉大神様です。住吉大神の和魂。前に説明しましたように、神様には一霊四魂がありまして、いろいろと変化なさるんですけど、和魂です。
神功皇后様が朝鮮出兵しましたときに、住吉大神様の和魂様が神功皇后様のそばをガッチリ守りました。そして、住吉大神様の荒魂様が「雨じゃ、必ず「嵐じゃ」とおっしゃるので、朝鮮出兵しました。
神功皇后様が朝鮮の港に来たときに、船の上に雲がビュンビュン巻いて、新羅軍は「ここはすごい」と。戦をする前に、その神力で参りましたということで、神功皇后様は戦わずして勝ったんです。それだけ神力を動かすことができる超霊能者だったんです、神功皇后様は。
このように、住吉大神様が神功皇后様を守られました。大阪の住吉大社。大阪を知っている人は知っていますけど、住吉大社は、三韓征伐がありましてかお祭りされたんです。
大阪で一番立派な神様、住吉大社。兵庫県の西宮の生田神社とか、神戸に詳しい人はご存じですけど、長田神社、それから官幣大社廣田神社というのは、天照大御神の荒魂が、三韓征伐から帰ったときに祭られたものです。
お話は長くなりましたけど、これが神功皇后様です。どこの八幡に行きましても神功皇后様が祭られております。
大阪の住吉大社にもお祭りされています。この神功皇后様が、宇佐八幡宮にお祭りされているわけです。
