【第一章】霊界法則に基づく悪因縁の切り方(昭和59年12月29日)
拝んでいるだけで因縁が切れるのか
【深見先生】昭和五十九年十二月二十九日、講義納めの講義でございます。基礎・応用、混合シリーズ、「因縁を切るとは」(板書)。
「因縁を切る」とはどういうことか。
仏教徒なんかですとよく、「私は因縁が深いから」と言って、お経をあげたり、何千日もの行を行うことがあります。ある宗派のお行のセットを見せて頂いたんですけども、非常に演出がうまく立派にできています。
これをやれば因縁が切れるということで、観音経の抜粋、観音経の中の五七になっている部分だけをやっておけば因縁が切れると信じてやるらしいです。
少しでも因縁が切れればいい、悪因縁を除去したいという気持ちがあって。
お行をやって因縁が切れれば手っ取り早くていいから、一日も怠らずやってみよう、と。自分自身で実践できるから、いいんでしょう。【植松先生】遅くなりました、すいませーん。こんばんは。
【深見先生】はーつ。なんのお話ししてましたっけ。そう、因縁を切る…………。
ところが、因縁を切るというのはどういうことかと言いますと、要するに、因縁を切るということは、前世、今世の因果があります。
しかし、因縁というものは、拝んでいるだけ、お行するだけで果たして切れるものなのだろうかと。拝んでお行しただけで本当に因縁が切れるのなら、これはもう私のほうこそ、ぜひやってみたいと思うくらいです。
一つの呪文を上げるとか、行をするとかいうことだけで、因縁が切れるのかどうなのか。
これは、なぜ因縁が来たのか、因縁とはどういうものなのかという原因がわからないのに、ただやればいいですというのは、どうも納得できない。まず「因」とは何か、「縁」とは何か。因縁を切るんだと言っても、原因がわからないと、ほんとに切れるものなのかどうなのか。
【植松先生】フフフ、何か、どうしたの、オホホ、ごめん。
【深見先生】いやいや、一瞬、美貌に見とれまして、言うこと忘れてしまいまして(笑)。
自ら因縁を切った男、清水の次郎長
今お話ししたような行によってではなく、因縁、悪因縁といわれるものを切った人の例をお話ししたいと思います。基礎で、除霊に来た人はお聞きになったと思うんですけども。
一人目は、清水の次郎長さんです。清水の次郎長さんという人は、この因縁を、行ではない方法で見事に切った人です。
ある時、お坊さんが静岡にいらした時に、清水の次郎長さん、たまたま通りかかって、「ああっ!あなたは死期が迫っている。おそらく一年以内に亡くなるでしょう」と予言されたわけです。
次郎長は、「何を言うんだ、こいつは」と思ったんだけど、「いや、私は人の死期だけは見誤ったことがありません。死相鑑定を誤ったことはございません。これだけは、私は自信を持っております」「いやなことを言うな」と。
人相を見て、「あっ、これは寿命がない、死相が出ている」ということがわかるお坊さんが、次郎長のもとを通りかかったわけです。
次郎長は、「何を言うんだ、こいつは。縁起の悪いことを言って、不愉快な奴だ」と思ったんですけれども、その坊さんが嘘を言うような感じではなかったものですから、本当だろうなと。
次郎長さんは、それを聞いて心を改めまして、「寿命が来てるんだったらしかたないようし、同じ死ぬのなら、先祖代々の田地田畑、財産を全部売り払って、バーッと世のためにいいことをして死のう。とにかく同じ死ぬんだったら、自分が思ってることを思いきりやって死のうじゃないか」と考えました。
それで清水の次郎長さんは、お家の財産を全部売り飛ばしまして、地域の人たち、多くの人たちに、それを間配ったわけです。そして、もういつ死んでもいい、これで思い残すことはないと、死期を待っていたわけです。
ところが、一年経っても、二年経っても、三年経っても、全然死なない。次郎長さんは、「ちくしょう!あいつ嘘をつきやがったな。今年死ぬかと思って、もう三年目じゃないか。今度来たら絶対タダじゃおかないから」。
次郎長さんは、前よりも元気になって、ピンピンして、そのお坊さんが来るのを待っていたんです。
そうしましたら、三年ぐらい経って、お坊さんがやって来た。
次郎長さんは「あっ!あいつだ。ちょっと、おいこら坊主。お前、いらんこと言うじゃないか。てめえが言ったことを信じてたのに、三年経ってもピンピンしてるじゃないか。どういうことだ」
「いや、いくらそのように言われても、私は死期を見誤ったことはありません。おそらく、あの時から半年ぐらいして、あなたは何か変わったことをしたでしょう」
「半年と言われると……。そうだ、坊さんと会ってから、こんなことしててもしかたないしなあと決心して、田地田畑、家、財産を全部売り払って、人々のためにあげたんだ」
「あーっ、それですよ。あなたが、先祖代々の財産を全部捨てて、世のために徳を積まれたから、死期が伸びたのでしょう。だから死相が消えたんです」
坊さんが嘘をついている様子ではなかったものですから、次郎長は深く悟り「ああそうだったのか。自分が財産を売り払って人々に尽くしたから、天から寿命をもらったんだ。ありがたいことだ」と。
自分の行ったことが自分の因縁を切ったんだと、次郎長さんにはわかったんです。そういう大きなことがあって、今日名前が残る清水の次郎長さんは、あれだけの人になったわけです。
徳分が人間を強運にする
次に、児玉誉士夫さん。この方は右翼で有名な方で、ロッキード事件とか、いろいろありましたが、児玉誉士夫さんほど運のいい人はいませんでした。
財運にも恵まれていましたし、同じ右翼でいい志を持っていても、亡くなった人、牢屋に入った人、貧乏で終わった人、あるいはいろんな形で志を成就することができなかった不運の人もいるわけです。
児玉誉士夫さんは、あらゆる面で運に恵まれていました。本人の努力、才能、能力ももちろんありますけれども、それにしても、運がなかったら、才能、努力が開花しない人も多いわけです。
児玉誉士夫さんは、それだけ徳がありまして、ロッキード事件では、裁判するかという時に発病しまして、裁判に出頭しないまま死んでいってしまった。結論が出ないまま、自然に病死したわけです。口がきけなくなっちゃった。だから、答えようがないわけです。
ほんとうに嘘じゃないんですから。言語障害でフガフガ言って、ものを言えなくなっちゃったんです。運が強いとみれば、非常に運が強い。いやな思いをしなくて、死んでいったわけです。
児玉誉士夫さんほど運のいい人はいない。ところが、この強運はやっぱり一代だけで築いたものではありませんでした。
児玉誉士夫さんのお父さんか、おじいさんか忘れましたけども、郷里で水害か何か災害があった時に、田地田畑を全部売り払いまして、子孫のため、人々のために喜捨して、全部財産を皆さんのために活用した。
自分のところは無になっても、地域の人たちが苦しい時にそれを使い果たした、ということがあるわけです。その時の陰徳、徳分が残っていたから、児玉誉士夫さんはまさに運のいい人だったんです。
清水次郎長さんも、ヤクザとしては、非常にいい子分に恵まれていた。本人の努力もありましたけども、あれだけ名前が残るというのは、一つの大きな悟り、それだけの陰徳、徳を積んでるわけです。
陰徳と陽徳の違いというのは「陰徳」は人知れず行われた「陰に隠れた徳」で、「陽徳」は、その行いが人々に知られて、理解され、「ああ、ありがとう」と言われるような徳です(板書「陰徳」「陽徳」)。
体施・物施・法施とは
このように、徳には陰徳と陽徳がありますが、今、例にあげた清水の次郎長児玉誉士夫さんの場合は、物の施しですから「物施」(板書)です。それから、信者さんを連れてくるなんていうのは「法施」(板書)です。
神様の道をなるべくたくさんの人に知らせてあげようと、お庭掃除するとか、パンフレットを配るとかいうのは、体でご奉仕するわけですから、これは「体施」(板書)です。
体施の見本はT教です。 T教は、物施と体施が徹底していて、あまり難しい教えはありません。もう実践、実践です。
簡単で広まりやすいので、多くの人がいるんですけど。「悪しきを払うて救い給え」 T王命の「♪あーしーきーをー、はーろーうて、救わせたまーえ、T王命お授けて」。こうやるんです。私も今度、もうちょっと研究して、皆さんにT教のお授けの物真似をやってみたいと思います(笑)。
あれは功徳があるんです。病気が治ったり、お蔭があります。簡単です。例えば、「お腹が痛い」「あっ、それは腹黒いからだ」と。
「もっと自分のお腹の中をスキッとさせなきゃ。腹黒いからお腹が痛いんだ」「すみませんでした」と言って寄進をして、「あっ、お腹が治りました」。簡単です。
「足が痛い」「あっ、それは神様に向ける方向性のことだ。足を向ける方向性が違ってるからだ」「はっ、すいませんでした」これで足が治るんです。
「目が痛い」「人の目を欺くからだ。神の目を欺くからそうなるんだ」。
「お腹が痛い。胃がムカムカする」「胴巻きにお金なんか入れて貯め込んでいるから、ものを惜しむ心があるから、胃がムカムカするんです。分かりますか?」「胃が楽になった」と言うんです。非常に簡単です。
「口が痛い」「あっ、人に対して悪いことを言うから口が痛い」。なんでもこのように受け取るんです。簡単です。T教のルールというのは、こういう風に、非常に簡単ですから、分かりいいんです。だから一般の人たちには広まりやすい。
物施としては「悪しきを払うて救いたまえT王命」と言うよりも、別名「屋敷を払うて救いたまえT王命」といって、お屋敷を全部払う、それで救いたまえと言って、みんなお家、財産を全部喜捨、寄進するんです。それから始まるんです。
それから「ひのきしん」(板書)というのがありまして、これは、体施です。「T教」なんてここに書きまして、こうやってこうやってお掃除するんです。
よくあるでしょう、楽器鳴らしながら、駅で一緒にT教と書いて、大掃除してます。ご奉仕、それは非常にいいことなんですけど。
愛の心で発して初めて徳になる
ところが、口と心と行い、これは三つ揃わないと本当じゃないわけです。だいぶ前に私が除霊した人の例をお話ししますと……。二十何歳の結婚適齢期の女性なんですけど、瞼が閉じてくる病気なんです。
手で押さえているといいんですけども、手を外すと瞼が閉じてくる。どこの病院に行っても治らない。歩いていても、眠くなくても瞼が閉じてくるという、筋無力症というんですか。
とにかく瞼が閉じてきて、テープでも貼っておかないと日常生活ができない。難病奇病です。そういう人が来たわけです。
除霊で、彼女についている霊を呼び出しますと、その人のおばあさんが出てきまして、真っ暗なところで「こんなはずじゃない、こんなはずじゃない、こんなはずじゃない、こんなはずじゃない、こんなはずじゃない」と言ってるんです。
なんでかと聞いてみたら、そのおばあさんはT教に入っていて、とにかく人間というものは、体施、物施、法施しなけりゃいけないからということで、家、財産、お屋敷を全部寄付して、毎日ひのきしんしていたそうです。
T教の信者は、ひのきしんの競争をするんです。「私は、ああいうかたちでひのきしんしましたからね」なんて言って、おばあさん同士が競い合ってるんですね。
「私もこういうふうに」と、これ見よがしにお掃除するんです(笑)。むこうから来るのが見えたら、急いで先に行って、これ見よがしにやる(笑)。「私は、ああいうふうに掃除した、こういうふうにお掃除しました」って、全部これです。
本当は、陰徳というのは陰に隠れてやるもので、神様がご覧になっていたらいいというものなんですけど、お互いがそういうふうに競い合いって、ああいうふうにひのきしんした、こういうふうにひのきしんしたって自慢しあっていた。
それだけ家、財産を全部寄付して、毎日ひのきしんをしたから、さぞかしいい天国に行けると思って、期待感と喜びと安心と自信を持って死んだわけです。
ところが、死んでみたら真っ暗な霊界に行った。だから「こんなはずじゃない、こんなはずじゃない」と言いながら、霊界でうろうろしている。それを知らせたいので子孫にかかって、そういう特殊な病気にしているわけです。
「こんなはずじゃない、こんなはずじゃない」と言いながら、瞼の上に霊がのっかってたのか知りませんけども。
このお婆さんは、そうやって体施、物施を徹底したんですけども、死んで地獄界に行ってるんです。地獄界というより、真っ暗なところに行った。
自分は天国に行ける、極楽浄土に行けると思って死んだんですけど、そうじゃなかった。だから霊界で、もうわからなくなってしまって子孫についた。普通の病気でしたら、病院行けば済むんですけど、そういう病気だったら、なんとか救ってほしいというんで、霊的なほうへ頼ってきます。
だから、孫をそういう病気にした。本人は割り切れないわけです。「いやだ、いやだ、こんなはずじゃなかった。いやだー」なんて言って。
なぜこうなったかと言いますと、この人の発する心です。行いは良かったんです。口も「T王命」と言っていた。心です。
どういう心で物施をしたのか。どういう心で法施をしたのか。体施をしたのか。なぜお家を寄付したのか。なぜ、毎日毎日、ひのきしんという形で一生懸命ご奉仕したのかといえば、そうしたら救われる、そうしたら天国に行けると信じていたからです。
悪いことを積み重ねていると天国に行けない、死んで神様のところに行けない、この世の陽気ぐらし、霊界の陽気ぐらしはできないと信じていたから、やっていたわけです。
だからよく考えてみたら、なぜ物施をするか、なぜ体施をするかが大切なのです。それは、植松先生がいつもおっしゃる、発するところです。その発する
ところがどういうところから出たかなんです。自分が救われたいから、天国に上がりたいからというのは、やっぱり自己中心、我良しの心から発しているわけです。
我良しの心というのは真っ黒ですから、そういう気持ちで物施を行い、体施を行い、ひのきしんをやっていたから、死んだらその想念のまにまに、真っ暗な世界に行くわけです。
霊界というのは、神が裁くんじゃありません。本人の思い、本人の想念、相応のところに行くんです。この人のまちがいはこれです。
なぜパンフレットを配るのか、なぜお掃除をするのか。そうしたら因縁が切れるから、結局因縁を切って自分が幸せになりたいと。
究極的には幸せになりたくないなんていう人はいませんが、これでは、発するところがやっぱり暗いんです。我良し、自己中心の心で体施をして、因縁切りを実践すると、死後の生活はどうなるか、死んでどうなるかと考えますと、やはり、そういう世界に行くわけです。
これが、T教の人のまちがいです。世のため人のために良かれという気持ちで寄進をし、良かれという気持ちで体施をし、良かれという気持ちで人を導いた人は、発するところは真心です。そういう心から発した口と行いをしたら、これが初めて徳になるわけです。徳を積んだということになるのです。
清水次郎長さんも、児玉誉士夫さんのお父さん、おじいさんですか、も、そういう気持ちです。災害を受けた人たちのためにやった。陰徳を積むとか、因縁を切ろうと思ってやったわけじゃありません。
もう、どのみち死ぬんだったら人々の役に立って死のうという気持ちですから、発するところは、善なる心、慈悲、愛の心です。
善なる心、愛で発してるからこそ、徳になるわけです。霊界というのは心の世界と同じですから、良かれという善の心、愛の心、愛念、愛のある人は、なんかすごく温かいなーという感じがします。愛って言うのは温かいんです。太陽のように。
ですから大日如来というのは、大慈大悲、愛の、慈悲の塊、慈悲の化身と言われています。それが大日如来さんにありまして、金剛界、胎蔵界、両方に出ておられるわけです。一生懸命上を向きまして、ますます真理を求めている、真の力。
智恵の力が強いのが胎蔵界です。人々に良かれという慈悲の心、あるいは、世の中に直接的に現れて人々に利益を与える、福を与えていく、利福を与えていく。これは金剛界の仏様ですから、下を向いているわけです。
両方に大日如来さんが現れて主宰しているということは、胎蔵界も、もっと大きくは愛から発した真、愛から発した智恵、金剛界は愛から発した愛であるし、愛から発した直接的な善を行っている。
仏様の位というのは、全部その奥には、大きな愛があります。これから発してなければだめなんです。
