守護神、守護霊はどういう目で見ているのか
ただいま生きているっていうことは、天網恢恢疎にして漏らさずの法則、掟、仕組っていうんですか、それもあるんですけど絶対じゃないんです。
本人の生きるただいま、ただいまによって、来世の不運とか幸運を積み上げているわけです。
現界で積んだものは現界に返ってきます。霊界は心の世界ですから、真心をもって、愛をもって、さっき言った三つの法則に則りまして、少々ぶんなぐったりなんかしてみても、その人が善の心でやっている場合には、あんまり地獄には行かないです。
例えば特攻隊で死んだ人たちがいます。私も兵隊さんの除霊なんてよくしますけれども「天皇陛下万歳!!」と言って、母国のために自爆した人たちは、みんないい霊界に行っています。軍服で、起立姿勢で、タッ、タッ、タッ行進している霊界があるんです。
救霊の船に順番に乗りまして、スーッと救われていきます。ほんとに立派な、ピッとして……。武士の霊の場合は、「かたじけのうござる」と言って救われていくんです。
ところが、戦で飢え死にしたり、沖縄戦線とか南方で死んだけど、別に天皇陛下のためにとか、国家のためにとか、国を守るためになんていう気持ちじゃなくて、「ウワーッ、死にたくない」とか、「お腹が減った。ご飯が食べたい!っ!」という気持ちで死んだとしたら、残念の念が残っていますから、その自らの心で縛して、地縛霊になっています。
「あれ、私は死んだはずなのに、何をしてるんだろう」と思って、ふらふらふらふらしている。浮遊霊です。浮遊して、ふらふらふらふらして、死んだということを自覚してないんです。
自分が死んだっていうことがわからないんです。生きていた時の意識のまま、いるんです。だから最初に、「あなたは死んでるんですよ」ということを教えてあげなければいけません。
クリスチャンというのは、死んだらなくなると思っています。
ですから、「死んでるんだ。なくなってるんだ」と言いながら、霊界でずっと泳ぎ続けて生きてるんです。二年でも三年でも、死んだということがわからない。
「死んで、なくなってるんだ」と思って、二、三年ぐらいしても、「死んだはずだけど、なんで生きてるんだろうな」と考えるプロテスタントは多いです。生きている間に知識がないから、そのまんまでいるんです。
話が変な道にいきましたけども、とにかく、こういう形でと神様は全部ビシッと見ておられまして、守護神、守護霊さんも、「天網恢々疎にして漏らさず」という法則に則って、正しい方向に導いていきます。
前世はこうあって、そのハンディキャップでこうなっているとか、前世の貯金で生きているということをよくご存じなんです。そして今、この子がどうやって生きているのかということも。運、不運、生まれながらの幸福とかいうのは、そういう形であるわけです。
それを悟ったら、ただいまただいまを前向きに、想念を明るくして、慈悲の心をもって、口と心と行いで善徳を積んでいく。
自らを向上し、世のため、人のために役立つようなことをさせていただくという気持ちでやっていく。天地の法則がそうですから。
この法則に則っていれば、例えば天理教など信仰を持ったとしましても、あるいは法華経関係でありましても、金光、黒住、クリスチャン、どんな宗教に入ってもいいんです。クリスチャンだから守護して仏教徒は守護しないなんてことはありません。
神様はいろんな次元界に現れていますから、どこの宗門宗派にいるから守護するとかしないなんて、ちっぽけな神様じゃないんです。
この宗派にいたらいいけど、あの宗派は全部地獄だっていうことはないんです。宗派に入っていても、その人が、この法則に則ってやっていれば、死んだらちゃんと地獄に行く人は行くし、天国に行く人は行っています。
T教の人には、T教霊界があります。T教の教えである程度同じような徳を積んでいる人、口と心と行いが合ってる人は、やはり極楽浄土天国界でも想念が近いので、同じくお友達同士で、 T教世界を作っています。
類は友を呼ぶって言います。友は友を、同じような友達が多いです。想念界は近いから、本人がパッと変わればその霊界が変わる。現実界と似てます。やっぱり同じような友達が多いのと同じです。霊界も、そういうふうな者が集まってるんです。
想念の世界だから、不思議なことにそうです。
そういうことで、守護神様、守護霊さんも、そういう法則に則っておりますので、宗門宗派に入っても入らなくても、この法則を理解して生きておりますと、必ず極楽に行きます。
この法則に則っていれば、宗教に入らない人でも極楽に行きますし、則っていなければ、宗教に入っている人でも地獄に堕ちます。法則に合うか合わないかの問題なんです。
守護神様、守護霊さんは、少なくともその法則を理解して守っておられるわけです。
正神界の神霊世界、守護神、守護霊というのは、いいところの世界に行っている霊的存在ですから、正しい道かどうか、正道か否かをご覧になって、そういう意味での幸せの方向へ導くんです。
ですから、守護神、守護霊さんは、本人が法則に合っていて、いいだろうと思った時には守護してくださいますが、法則に合っていなくて、本人にとってマイナスだろうと思う時には、いくらお願いしても全然動いてくれないんです。
何でも一生懸命お願いしていいんですけど、守護神、守護霊さんが動かれる行動原理というものは、全部今言った法則に則っています。
本当のその人の御魂のために、その人の人生のためによかれという慈悲の心で、動かれるのです。守護神様は、そういう目で、その人の人生の幸福、不幸というものをご覧になっている。守護霊さんは、もう少し現実界の身近なことをじっと見守ってくださっている存在です。観点が違うんです。
そのことよく知った上で、「守護神様、善なる心を持って、○○さんにとってよかれと思っております。ですから、明日の、例えば会合だったら会合で、みんながよかったと喜んでくれるようないい会合でありますように」という気持ちで、真心を持って祈るんです。
けれども、一番いい形は、「神様におまかせします」という心です。
こうなってほしいという執着心を持たない、思いを持たないこと。「神様、きっとよくなって、発展するんじゃないかと思いますから、みんなが幸せになりますように、お願いします」と守護神さんにお願いすると、それは愛の心から発して
いますし、思いの執着心はないし、明るく前向きですから、ちゃんと聞いてくださいます。そして会合に行くと、守護神さんがワーッ出てお働きくださって、なんかうまくいったという形になるんです。
その人の、善の心と、明るい気持ちと、執着心がなく、よかれという気持ちが、徳を積むことになりますし、神様が功を与えてくださるんです。
守護神さんが、天照大御神様、あるいはもっと天界の北極の神様にちゃんと報告しまして、点数をつけているわけです。
全部、守護神、守護霊さんが帳簿をつけて、帳簿があるのか、コンピューターのフロッピーにインプットしているのかわかりませんが、意識で全部ご覧になっているんです。刻々のただいまを。
そういう気持ちでしたら、守護はしてくれて同時に徳を積ましてあげてるから、功、御魂の位が上がる。
しかしスッとはいかない。いろいろ紆余曲折を経ながらやっているというその紆余曲折は、因縁がやってるわけです。前世の因果、家の因果によって、軋轢と苦しみが生じるんです。それをそういう目で見ない。因縁ばかりを見ないことです。
ですから守護神様、守護霊様をお出ししましても、守護神様、守護霊さんは、そういう目で見ていますから、どういう時に守護してくださるのか、守護してくださらないのかということをよく理解しなくてはいけません。
お蔭信仰の人は畜生道に堕ちる
お蔭信仰というのがあります。最初は、ご神霊の功徳を理解するために、はっきりとしたお蔭が出た。病気が治ったとか、願いがかなってよかったという形で出るわけですが、人霊ギツネっていますね。
例えばお稲荷さん。豊川稲荷とか伏見稲荷を一生懸命信じて、お稲荷さんにお願いしますと、お金は入ってきますし、仕事はうまくいくし、何かあった時には守ってくれますから、非常にうまくいくんです。
だから商売人は、お稲荷さんを祀る人が多いんです。いい時はいいんです。
しかし最後までお蔭信仰です。現実界でよくなったら信じる。いい結果出たから、ありがとうございましたと言ってお布施もする。でも、最後までそれで終わりです。確かにお蔭はありますし、運勢は一時よくなるかもしれませんが、精神面の向上とかはないわけです。
しかしそれは、さっき言った三つの天の法則じゃないところで、強い霊が動いただけです。稲荷とか、天狗とか、蛇とか、お蔭はあっても、発するところは、決して天の法則に合っていないので、御魂の恩頼とか徳分という形にはならないんです。
死んでも、極楽浄土とか、天界といういい世界には行かないです。死んだらどうなるかと言いますと、畜生道に堕ちるんです。お蔭信仰の人は、畜生道に落ちます。
というのは、なぜお稲荷さんを祈るか、なぜお蛇さん、白蛇さんを祈るかというと、生活とお金がよくなってよくなってほしい。
仕事がうまくいきますようにという心です。お稲荷さんは、別に愛がなくても守ってくれるんです。供養をして、お布施をして、礼を正してちゃんと大事にしたら、人々に対する愛でなくても、明るい気持ちでなくても、執着心を持っていても、稲荷大明神なんてお祭りしますと、やっぱり動いてくれます。
執着心の権化で、根暗の極致で、慈悲なんかなくて、憎しみでいっぱいでも、とにかく仕事、仕事、仕事と、仕事のことしか考えていなくても、ちゃんと守護してくれます。
お稲荷さんというのは、さっきの法則が全部ずれてマイナスの地獄想念でも、お蔭を与えてくれますから、ありがたいということで、お祭りするわけです。
御魂は守護神、守護霊に守られて本来の人生を歩んでいるのに、それを横道ですね、自分の煩悩の充足のため、お金のため、あるいは我よしのエゴの追求のためにお蔭をもらって、要するに魂を売ってるわけです。
そういう人が死ぬと、一体どうなるのか。万物の霊長で、神様、仏様の世界で菩薩にもなれる人間が、今度は、稲荷の手下になりまして、稲荷霊界に行きます。
動物よりも下になるんです。だから畜生道に堕ちまして、稲荷の顔、稲荷の姿、稲荷の言葉、稲荷の心です。しっぽが生えまして、顔も稲荷です。もとは人霊ですから、畜生道に入ってるわけです。
本人は、なぜキツネになっているのかわからないんです。お稲荷さんを信心していてよかったなんて言っているうちにポッと死んでしまったら、知らない間に稲荷になっちゃって、「やあ、太郎左衛門ギツネちゃん」「何を言ってんの、花子っぺ稲荷ちゃん」なんて言いながら、稲荷の生活をしている。
ただただ現実界のお蔭とか、はっきりした結果とか、それを追い求めていくというお蔭信仰の結論は、人霊キツネ、あるいは人霊ダヌキです。お願いさえしておけば、自分は努力しなくても、楽をしていてもとにかくお蔭があると。
仏教系は、タヌキが多いです。とにかくチーンとして、ある程度お金を出して、お経をあげておけば因縁が消えるなんて便利でいい、早くていいなんて思って、ちょっと魔法ですね。でもそれは、天地の法則から合わない。だからタヌキです。
結局楽をしようという気持ちが、正しい守護神、守護霊の世界じゃないので、死んだら人霊ダヌキなんです。
精進努力をして、ただいま、ただいまを娑婆即浄土の実践で、口と心と行いで徳を積んで、功をたてるのでなければ、結局、タヌキ、畜生道に陥るわけです。
結局は、自分の煩悩を満たさんがために楽をして、富を得たという本人の想念の世界が、タヌキのような姿になるんです。
だからお蔭信仰のまちがいを正しまして、本質的な人生、何のために生まれてきたのかという人生の本義を理解して初めて、「ああ、そうだったのか。自分のお蔭信仰はまちがってた。お稲荷さんお参りしてたけど、そう言えばそういう気持ちだったな」と。
もっと普遍的な、人が生まれてきた意味、宿命、運命の本質というものを理解して、「ああ、お蔭信仰はまちがってた。本当の信仰、本当の、生きる神に対する自分の道じゃなかった」と信仰心の方向性のまちがいを悔悟しましたら、いつも言いますが、「許すっ」と神様が許されて、人間の姿にパッと戻るわけです。
そうして人間の姿に戻って、本当に人間が行くような霊界に、スッと行く。畜生道から離れるわけです。
畜生道には、このようにして堕ちるわけです。畜生道に堕ちないにしましても、そういう信仰をしておりますと、そういうご先祖が来るんです。
そういう霊が長年つきますと合体しまして、ご本霊もそうなってしまいます。先祖代々にしてそうです。本人の想念をパッと変えて、本来の信心の天地の法則に目覚めますと、パッと離れます。世界が違うから。その人の守護神、守護霊もまたパッと帰ってくるわけです。
いくら守護神、守護霊さんにお願いしましても、本人の姿勢がまちがっておりますと、お祈りしたことは聞いていますが、聞いているだけです。「なるほどな、なるほど、んー、よくわかった、んー、よくわかった」って言ってじっとしてます。
ほとんど好き勝手をしているのは人霊稲荷なんです。守護神、守護霊にお願いしてもあんまり聞いてくださらない場合は、天地の法則に則って、その人の幸せをご覧になっているからです。
そういう場合は、苦労して、失敗するまで、じっと静観してるんです。だめだったーと思って反省した時に、悔悟しまして、「はー、やっぱり煩悩が出てたな、お蔭信仰になりすぎて、本質からまちがっていた」と反省しますと、守護神、守護霊が「許すっ!」なんて言いまして、またパッと帰ってくるんです。
守護神・守護霊から見た本質的な幸福とは
こういうものを訓練、稽古していきますと、お蔭が出たり出なかったりというのは、どこか違ってるんだということがわかってきます。本質的なお蔭の出方がわかってくるんです。お蔭にも次元があります。同じ幸福感と言いましても、女の子と遊んでいればそれで幸福だという人と、素晴らしい芸術に触れて感動する人がいます。
蓄えたお金でコンサートに行って、バッハを聴いてよかったーという人もいれば、バッハみたいなあんな眠いのに、よくお金を出すねえという人もいるでしょう。
「あんな高いお金を出して、よくサーフィンなんかやるねえ。波にビチャビチ濡れて、お風呂でいいじゃない(笑)」「いや、きみはサーフィンのよさを知らないんだよ。南洋の島国の人々だって、みんな波乗りやってるじゃないか。きみはサーフィンのよさを知らないんだよ」なんて。
あるいは、貯金して貯金して、素晴らしい油絵を買ったとか、辞書を買ったとか。この辞書がほしかったんだ。
これで本が読めると言ってお金を使う、それを幸せだーと感じる人と、女の子とデートして、五人目の彼女ができたなんて言って、それが幸福感になるとか……。
みんな幸福を求めますけど、レベルがあります。幸福感、幸福の追求、美の追求と言いましても、レベルがあります。
守護神、守護霊さんが、その人に対する幸せ、その人に対して与えたいという本当の、本質的な幸福というのは、今言ったような、前世、今世、来世と、霊界の法則、天界の法則をご存じの上で、導かれているのです。
そういう目で人生をとらえ、その人の幸福をとらえて、まちがっているときには、一通り苦労するまでじっとご覧になっています。
金と地位と権力と名誉、煩悩とエゴイズムで、自己中心の魔王のようになってしまって、御魂なんかも消えちゃっている場合は、守護神、守護霊も見放してるんです。
もう他の人を守護するほうがいいなんて言って、見放しはしませんけども、よほど改心するまで見放しておられます。
そういう時は、九分九厘まで悪魔や動物霊に使われている。その人の守護霊はと言ったらタヌキ、その奥の守護神はと言ったら大ダヌキという……(笑)。
背後霊はと言ったらキツネという形で、人祖霊の、ご先祖さんとか……。神様に見放されてるんです。霊線が切れちゃって。いくらお話ししたって、耳貸さないんですから。
だからどんな人でも菩薩になるっていうのはあくまで可能性です。それでも改心して何かすれば、お父さんかお母さんかの徳で改心すれば、またパッと守護神、守護霊が帰ってくるんですけど。
「縁無き衆生は救いがたし」なんて言います。縁がないというのは、そうなっちゃった人のことを縁がないと言うわけです。
神様はすべてを相対的に行う
「天網恢々疎にして漏らさず」と言いますけども、功と徳分によっては、例外が必ず設けられております。そうじゃなければ、ただいまに生きている意味がないですから。
人の御魂っていうのは。全部運命に左右されているわけじゃないんです。方向性はだいたいは決まっているんですけども、絶対じゃないんです。そうじゃなければ救われません。
神様は絶対的存在ですけれども、されていることは絶対的じゃありません。絶対的存在だからこそ、すべてを相対的にしておられます。絶対的に相対にしてます。
それが、お釈迦様がおっしゃった遺言で、涅槃経にありますが、世の中は変わり続ける、諸行無常です。世の中は変わり続ける。
諸法無我、いろんな法は、これだっていう形にはありません。世の中は変わり続ける。自灯明、法灯明、自らを灯火として、私の言った法を灯火として、精進を怠るなということが残っています。
鎌倉時代の法華経もそうです。話が横道にそれますけども、聖徳太子は法華経をベースにして、法華経精神に則って、神儒仏を使い分けしたんです。憲法十七条を制定して、日本の中央集権国家、今の日本国家の大きな柱をつくった方です。
具体的にこの世の中が幸せになる、具体的にこの世の中が天国になる、そういう社会を理想としたのが法華経精神なんですけども、それをこよなく崇敬しておりましたのが、伝教大師最澄です。
最澄は比叡山をつくりましたが、比叡山の天台法学のベースも、全部法華経です。法華経をベースにしまして、禅、密教、律宗、華厳宗、倫理道徳、こういうたくさんのものを勉強できるようにしたわけです。天台宗は、法華経がベースです。
その比叡山で勉強した日蓮上人が、鎌倉時代に・・・・・・。鎌倉時代は、龍神が動いた時代です。
日本も帝国主義の時、ファシズムの時、龍神が実在していたなんて、本は出てますけど。龍神すごいと言いますが、大したことないです。
龍神様は神様のお使いですから、神様の使うパワーです。龍神がついている人は、必ず「俺は俺は」と言って、ヒゲ、角生えています。自己顕示欲が強くて、必ず権力争い、権力闘争するんです。同時に、龍神がついている人はエネルギー、パワーがありますから、恋愛欲のエネルギー、パワーも強くて、もう何人も、がんばっていたりします。
だから目標四百二十七店なんていう形で(笑)、エネルギッシュに、とにかく拡張、拡張、拡大、拡大っていう形。
組織を大きくして、形を大きくしているというのは、やっぱり龍がついている。発展はしますけども、権力欲です。時代で言いますと、日本の戦争当時です。
右翼でも黒龍会なんて言いましてまさに黒龍がいる。龍と龍の戦いですから。昔は龍神自体もそうだったんです。権力争い。
同時に、帝国主義、それかファシズム。こういうものはまさに龍と龍、権力と権力の争いで、領土争いです。戦いです。戦争はそうなんです。殺し合いです。パワーとパワー、権力と権力です。
鎌倉時代もそうです。聖徳太子さんの時代じゃありませんので、蒙古来襲の際、日本の国がやられるか、乗っ取られるか乗っ取られないという時に、南無阿弥陀仏とか、本質的な神道のあれはなんていうどころじゃありませんから。
とにかく国を守るということで、蒙古が領土を拡大して拡大してっていう世界ですから。こちらも龍が動いてるわけ、世界中に、その当時は。だから日蓮上人も八大龍王が守護しておりますけども、「われ国難の柱とならん」という強いパワーで立ち向かった。
その時代には、日蓮宗が必要だったわけです。
ですから世の中は変わり続ける。聖徳太子さんの時代、伝教大師最澄の時代、それから日蓮上人の時代、時代背景が全部違うんです。ですから動いているご神霊も違うわけです。龍神の時代は、パワーや発展力があります。法華経系は、我こそは我こそはと競争して増やしてます。
日蓮宗系は。龍神だからです。八大龍王、龍神系だから拡大、拡大、拡大、パワー、パワー、パワーなんです。
でも、今は昭和の時代です。これだけ情報が増えてきて、これだけ天界が新しい超高文明っていうんですか、コンピューターとか、非常に高度な文明社会、知性、教育レベルがあがりまして、医学も発達してまいりましたら、新しい悩みごとが生じてきます。
精神面の悩み。それだけ情報が発達しておりますので、龍神時代というよりも、非常に高度なものが出ている時代です。ですから宗教も芸術も、高度な感覚の世界、あるいは科学、文明、情報の時代になっております。
ということは、そういう天界、霊界が動いてるということなんです。神様の次元がそうなっているということです。
このように時代が変わっておりますから、変わった形でやらなければいけない。聖徳太子の時代、最澄の時代、鎌倉時代、日蓮の時代、今の昭和の時代は、本質というもの、お釈迦様の教えを変化しなきゃいけないわけです。
それをお釈迦様は、世の中は変わり続けると言ってます。諸行無常。一番大事なことで、あらゆるものが変わり続ける、変わり続けるということだけは変わらない、常に相対的だということが絶対的なことなんです。
宿命は変わらないとか、絶対だっていうことは絶対ないんです。相対的だということは、絶対的なんです。仕組とか、運命とか天命とか、宇宙の法則とか天網恢々疎にして漏らさずという機械的に考えてしまうということが、一つの神霊世界、神様、仏様、因縁因果を誤ってしまう。
相対的なものだということを絶対的に知らないから、絶対的なものだと思っちゃって、現実界を誤解してるんですよ。
お釈迦様が亡くなるときにおっしゃったことがよくわかっていたら、仏教の出方も本質も、変化して、生きた形でとらえなければいけないということがわかるはずです。
仏教、お釈迦様の教えに対する咀嚼力です。鎌倉時代のような要素も、それなりに今も生きている面もあります。聖徳太子さんの時代や伝教大師最澄の時代に、共通する面もあります。歴史は繰り返すと言いますけれども、だいたい人間の気持ちとか、社会ってあんまり変わりませんので、今も通用する面もありますけれども、通用しない面もあります。
現代において今どこが一番大事なのかということは、変化しておりますので、不変的なものプラス変化の要素をよく見ていかないと、仏教の咀嚼力、時代背景がわからないと、理解を誤ってしまう。ごく一般的に考えてみましても、言えると思うんです。
ですから、それぞれの宗門宗派がありますけど、ある面はもちろん合っていても、ある面は足りない、現代に合わないところもあります。
変化している様子を分析できないで、お釈迦様の教えの言った最後の諸行無常ということの意味もやはり違いまして、諦めの境地と解釈する場合が多いんですけど。
お釈迦様も、最終的にはそう言ってるんですけど。そういうふうに誤解して、そのものの世界の中で固まっちゃってる。
ある一面性は持ってるんですけども、相対的に考えられない。それで仏教だ、仏教だと言ってるんです。咀嚼力、読解力の差だと思います。
本人が変わることが最も大切
そういうことで、新しい人が来たのでお話の流れが変わりまして、どっかに結論を戻さなきゃいけないんですけど。
とにかく、ただいま、ただいまというものは生きておりますので、生きているということは、前世からの借金と貯金を使いながら、来世への借金と貯金を積んでいるということ。
「天網恢々疎にして漏らさず」と言うように、守護神様、守護霊様は、前世、今世、来世のことをよく理解しておられる。だから神の位にいらっしゃいます。
そういうことをよく理解してる本人がありますと、守護霊さんに菩薩がつきます。ご先祖さんを乗り越えまして、守護霊さんに菩薩がついてる人がいます。
Yさんもそうでしたけど。それはそういう悟りの境地と、娑婆即浄土に近い境
地があるから。明るいですし、あんまり執着心もないし、慈悲の心があります。今言った三つにYさん合ってます。だから菩薩さんというのは守護霊さんでも、それなりの位の人がついてます。
一言で言いますと、因縁を切るとか、あるいは幸せになるとか運命とかありますけれども、ただいま、ただいまの本人が変わらなければ、すべてはだめなんです。
本人が変わるというのが大切です。本人が変わると言う意味が深いですから、簡単に言えば、今の言ったことが、そういうことです。
そういうことで、ちょっとお話も混線しましたけども、とにかく、ただいま、ただいまということにはそういう意味がありますよということをご理解いただきまして、パート2を終わりたいと思います。(拍手)
