【第一章】無為にして化す(昭和59年9月29日)
「ものを教える」三つのランク
【深見先生】昭和五十九年九月二十九日、土曜日の講義、久しぶりでございますけれども。
今日は皆さん、「教える」ということについて考えてみたいと思います。人間には、ものを教える、教化するということがございますけれども、この「ものを教える」というものには、三つのランクがあるんです。
どういうランクかと言いますと、一番初歩のランク、一番低いランクと申しますのは、これは「言葉で教える」(板書)でございます。
学校もそうですし、カルチャーセンターもそうですし、どこの宗教団体でもそうです。こういう時にこういう風にしちゃいけないとか、こういう人相の人はこういう風になるから、気をつけなきゃいけないよ、と言葉で教えるわけです。
人間の言葉によりまして、人を教えていくと。これが一番初歩のランクでございます。
それで、その次のランクは何かと言いますと、「不言実行」(板書)です。
何でも、これはこうだよ、こうしないといけないよなんて言うんじゃなくって、ただ黙って行動すると。その黙々と行動するのを見まして、人が自ずから、あー、人間はああしなきゃないと、あの人の黙々と不言実行しているあの行動、黙って行っているあれを見習わなきゃいけないと思うわけです。
人の黙々としている、生きている生き様、これに感動しまして、人は教えられるわけです。その行いに教えられる。精進努力して、一生懸命に生きているその後ろ姿。
お父さんというのは、どういうふうに子供を教育するのか。一生懸命仕事に打ち込んでいるその後ろ姿で、子供は自ずから父に靡くようになる。それが、無形の父親の教えなんだ、教育なんだと、よく言われておりますけども。
お説教するお父さんもいいけども、ただ黙々と一生懸命働いているという後ろ姿に、子供は自然に教えられるものがあるわけです。
不言実行、黙って、言わずして言い、語らずして語っているという教えです。
これはやはり、言葉を乗り越えておりますので、二番目に高い教えと言えるわけです。
「無為にして化す」のが最高の教え
それでは、最高に素晴らしい教えは一体どういう教えかと言いますと……。「無為にして化す」(板書)。
何にもしない、何にもしないんだけれど、その人に会うだけで人が変わると。何にもしないんだけれども、その人に接触するだけで、ただその人と会うだけで、運が開かれて何かハッと自分で教えられるところがある。別に言葉も交わさないし、行いも見ないけど、無為にして化す。
「化する」というのは、質を変える、変化させるという意味です。
大森曹玄さんという人がおりまして、禅宗で有名な、花園大学の校長先生をなさった方で、剣道でも達人の方です。
書道も抜群の方ですけれど、その大森曹玄さんが、「私はこの無為にして化すという人を、生まれてこのかた二人知っております」と言っているんです。
一人は自分を導いてきた師匠の山本玄峰さんであり、もう一人は頭山立助という人だと。
頭山立助というのは……。頭山満さんという人を聞いたことありますか。この頭山満さんという人は、戦前の右翼で、柔術の達人なんですけれども、こういう話が残ってるんです。
ある左翼の暴漢が頭山満に「頭山満、覚悟しろっ!」と、ピストルで殺そうとした。そうしたら、頭山満はその時タバコを吸っておりまして、そのピストルの先に煙をフーッと吹きかけたんだと。あまりに度胸が据わっているので、ブルブルブルブル震えて、ついに発砲できなかったと。
それから「頭山満先生、ぜひ色紙をお願いいたします」と色紙をお願いすると、何をするかって、自分のですね、あまりテープには録音できないようなある部分を克明に描くわけです。男性しかない…。描くわけです。色紙に。
「よく柔に、よく剛に、我が師なり」。堅い時には堅く、やわらかい時にはやわらかく。「よく柔に、よく剛に、我が師なり」といって、描くらしいですね、絵を。
この頭山満一人がいるだけで、すべてのものが収まるという、それだけの傑物した方ですね、有名な人です。
で、この頭山満先生に、大森曹玄さんが「頭山先生、ぜひ私たちの会の会長をしてください。頭山先生一人が会長になっていただければ、何もしなくて結構です。頭山先生がいらっしゃるだけで会が収まりますので、ぜひ私たちの会の会長さんになってください」と、頼みに行った。ところがこの頭山満さんは、こう答えたんです。
「ああー、そうか。それだったら、わしよりも、わしの息子の立助が良かろう」と。その立助というのは頭山満の息子でして、何か大事なときには全部頭山満さんは、立助さんに相談した。
その頭山立助っていうのはどういう人かって言いますと、ほとんど無学文盲で、学校は常にビリ、ドンケツでございまして、字もろくに書けない。学校は常に落第すれすれの人で、おまけに病気だった。
そのことを大森曹玄さんもご存じでしたから、「立助さんは今、御病気の様子と承っております」と。「ああそうだよ。しかし、立助は体は病んでおるが、心は病んでおらん」とおっしゃった。
「あっ、そうですか、おっしゃる通りです。それでは仰せに従いまして、立助さんにお願いいたします」と。
そして、この大森曹玄さんは、入院している頭山立助さんのところに行った。「大森曹玄と申します。かくかくしかじかで、頭山満先生から承りましたので、ぜひ私たちの会長にご就任いただきたいと思って、本日はお願いに参りました」と。
頭山立助さんは何してるかって言いますと、布団で寝ておりまして、手を合わせまして、「あ、分かりました」と。それだけなんです。大丈夫なのかと、大森曹玄さんは思いました。
「こういうわけでございますので、ひとつよろしく。いろいろと、諸般の事情がございまして、困難なことも多うございますので、一つよろしくお願いいたします」と、半信半疑、大丈夫なのかと思いながら。
「しっかりとがんばってください」、それだけです。
「どうも失礼いたしました」と言って、大森曹玄さんは病院を出たんですけれども、その後、もうその二週間というもの、頭山立助さんと会ったときから大森曹玄さんはやる気満々で、もうとにかくどんなことでもやれるぞっという、活力とエネルギーがウーッと体から出てきた。
不思議なぐらい。ただ病院ご挨拶しただけで「よろしく」と言っただけなのに、なんとすごいんだと。二週間、体の奥からエネルギーとやる気と情熱と夢と希望が湧いてきて、どんなことでも大丈夫だという気になったらしいんです。
そして、会の運営で問題点がありましたら、また病院に行きまして、「頭山先生、こうこう、こういうふうなわけでございまして、どういうふうにすればよろしいでしょうか」
「あなたのいいようにすればいいでしょう」と(笑)。
「それじゃ、ありがとうございました」と言うだけで、ああしたらいい、こうしたらいいということがパッパッパッパッパと浮かんできて、さあやるぞー!とまた二週間でもひと月でもやる気満々。来て、こう手を合わせるだけ。「○○してください」とかそういうことは何も言わないんですよ。
しかし、大森曹玄さんは禅宗の達人ですから、わかるわけです。何にもしない、「ああそうですか」と言うだけで、全部自分で答えが出てくる。まさに無為にして化す、頭山立助さん。これは植松先生も、大変よく似ておりますね。
ちょっと話題から離れますけど、満州の馬賊で有名な頭目がいまして、無学文盲な、全然学問もない。しかし、その満州の馬賊の中でいろいろいろいろ議論している中で、頭目に「どうですか?」と。
「私はよくわからないけど、あの人の言うほうがいいような気がする」と。で、その人の言うことを採用したら全部うまくいくわけです。
馬賊の頭目で、武術もできなければ学問もなければ、無学文盲に近いんですけど、その人が「こうじゃないかな、この人の言うほうがいいんじゃないかと「思います」と言うだけで、すべてうまくいってるという。
無為にして化するとまではいかない、無為にして動かしているんでしょうね。ちょっと話題がそれましたけど。
まあ、そのように、この頭山立助さんという人は、何にもものを言わない。ただ、「いいんじゃない、あなたの好きなように……。いいんじゃありませんか」と。何も言わないんです、教えないんですよ。
しかし、大森曹玄さんは自分でわかる。シューンとして訪ねて来たけれども、頭山立助さんに会うと、やる気に燃えて、変わっちゃうんです。「しっかりしなさい、がんばりなさい、そんなことではだめじゃないか」なんて言葉はなくても。
御魂の神気が、相手の魂を蘇らせる
ところで、この頭山立助さんなんですが、こういうお話が残っております。
Yさんという書画の鑑定が日本一という人がおりまして。とにかくその人は、本物か贋物かということを見極めることに日本一。その人はちょっと墨をつけまして「(点)」を半紙に書きますと、「うーん、この人はどちらかというと気短かな方ですね。
親子の関係もうまくいってないし、かなり小さいころ苦労してきた方ですね」と、点を書くだけで分かる、という人です。
本物は、本物の墨気、墨の気で全部判断できる。名人が書いた墨の気と、どうしようもない人間が書いた墨の気で、全部本物か贋物かを鑑定できるんです。
ある時、頭山立助さんが字を書いた。頭山立助さんの字は小学生の字よりも下手なんですね。漢字なんてほとんど書けないし、ちょろちょろっと、ミミズが這ったような字なんですけど、額に入れて置いてたわけです。
でその鑑定家、日本一という達人が、その額に入っている字を見た。
するとその鑑定家は、頭山立助さんの字をパッと見た瞬間、五分間、「うーん」と言ったまま動かない。「うーん」、その字を見たまんま、ただただため息をつくばかりで、とうとう四、五分経ちまして、「日本にこれだけの書を書く人がいたんですねー」と言ったらしい。
本当、嘘じゃないんです、この話は。
だから、あの頭山満さんでも大事なときには、「立助、おまえどう思うか。わしはこういうふうに思うんだけど、おまえどう思うか」「いいんじゃないでしょうか」と、そう言われるだけでやる気が出てくる。
さっきの馬賊の頭目じゃありませんけど、頭山満さんでも迷ったことがあったら、立助さんに相談する。学校の成績は、ずーっとビリですよ。いつもこう手を合わせて、字も書けないし、頭も悪いし、病気がちだし……。しかし頭山満さんがそれだけやはり息子の立助さんというものを買ってたわけです。
ですから、頭山立助さんは、まさに無為にして化す達人であったわけです。御魂から神気が出てくる人なんです。その神気が相手の魂を蘇らせる、潜在意識、潜在能力を蘇らせて、勇気を与えるわけです。
とにかく、それだけのものを持ってる人です。神人合一した病人ですね。観念とか頭とか理屈なんていうもんじゃない世界が磨かれた、無為にして化すという人なんです。
体から自然に出てくる慈悲
今一人、皆さんにあの有名な沢庵禅師の話をしたいと思います。無為にして化す達人のもう一人は、沢庵禅師。有名なあの沢庵坊主です。
沢庵禅師は『不動智神妙録』というものを書いておられますけども、この本は、沢庵禅師が柳生但馬守宗矩に与えた本なんです。宗矩というのは、有名な新陰流の、徳川幕府の御指南番だった人です。
それで、この宗矩と沢庵のお話なんですけど、徳川家光の時代です。徳川家光は非常に乱暴と言いますか、豪気な人でございました。宗矩は、そこに御指南してたんですけど、ある時、朝鮮から徳川幕府に虎が送られて参りました。檻の中に入ってる虎が来たんです。
この猛獣を見て、家光は、「むー、これが有名な虎か。本当に虎がりだな(笑)」なんて思ったわけですね。その虎が置いてある将軍様の庭にたくさんの重臣が集まったんですが、その時に、沢庵禅師と但馬守宗矩もそこにいたんです。
「見よ、これが朝鮮から送られてきた虎だ、すごいだろう。但馬守宗矩、おまえどうだ。日ごろ剣術の達人と言われているけれども、この虎を一撃のもとでやっつけることはできないか」と、家光が宗矩に言ったわけです。
そういたしますと、宗矩は悠然といたしまして「殿、お安い御用でございます」
「できるのか」「お安い御用でございます」と、そういうふうに言いまして、みんなの者が、「おーっ!」と一瞬ざわめいた。お安い御用でございますと言うけども……。
そうしましたら、この但馬守宗矩は、扇子一本を手に持ちまして、スタスタスタスタと、虎のいる檻の中に入っていった。「ウーッ!」、虎は、何だというんで荒れております。その中に宗矩は入っていきまして、泰然自若として虎を睨んでる。
そして、虎が今や宗矩に襲いかからんとする時に、宗矩は扇子一本で虎の鼻の先をポーンとたたいた。そうすると虎は、へなへなへなへなとなって、檻にへばりついてしまった。悠然として、宗矩は出てきたわけです。みんなはもう拍手喝采です。
「すごい!さすがは新陰流の達人だけあって、眉一つ動かさず、まさに平常心。虎が襲いかかってきても、鼻の先にちょん、扇子一本の気合で虎がへなへなと降参しちゃった。さすが新陰流の達人だけはある」と、家光も感心し、周囲の人たちも驚いた。
それを見ておりました沢庵禅師は、ニヤッと笑いまして、「なーに、宗矩、大したことない。たかがそれぐらいのこと」と言った。家光はそれを聞いて、「沢庵、おまえ、宗矩がこんなすごいことしてるのに、おまえは何をあざ笑っているんだ」
「いやー、大したことない」と。宗矩にとって沢庵は師匠ですから。
「そういうおまえならやれるのか。沢庵、おまえやれるのか。人のこと笑うけど」
「そんなことは簡単なことですよ」沢庵禅師は悠然と言いました。
そして沢庵禅師は墨染めの衣を着まして、檻の中に入っていったわけです。虎はもう回復しております。沢庵禅師は何にも持たないで行きました。
扇子も持たない、悠然として檻の中に入っていきまして、「やあ、虎よ」と。沢庵禅師は自分の掌をペロペロペロペロとなめまして、虎にこう手を出した。虎はニコニコニコニコしまして、沢庵禅師の手をペロペロペロペロなめている。
そこで沢庵禅師、「ようし、よしよしよしよし」と。「なあ、あんな鼻の頭をポンとたたくなんてひどいことするなあ」。虎はニコニコニコニコ喜びまして、沢庵禅師の手をペロペロペロペロなめている。
「力で相手をねじ伏せるというのはまだまだできておらんな」と。
「自らに敵対するもの、自らに噛みついてこようという虎や敵をも味方に引き入れるだけの人間でなければ、達人とは言えない。柳生但馬守宗矩、気合、力で相手をねじ伏せる間は、まだまだじゃなー」と。
柔よく剛を制す、敵も味方に引き入れる、これでなければ、本当ではないということを教えているというお話です。
まさにこれも、無為にして化す、何にもしないで相手を変えていく。自分自身を襲ってくる猛獣といえども変えてしまう。それだけ邪念、「争う」とか、「討とう」という気持ちがない。自らの敵も味方にしてしまうだけの力量がなきゃだめなんだ、これが本当の教えなんだ、と。
誠の道を極めてしがな
それは言葉で教えるのでもないし、不言実行でもない。体から自然に出てくる慈悲です。
その人から出てくるものですよね。これを言ってるわけです。ということで、この沢庵禅師と先ほどの頭山立助さんが、無為にして化すということに関して、典型的な達人であろうかと思います。
それでは私たちがものを教えるという場合、どうすればいいのでしょうか。
歳を取ったら、沢庵のように、立助さんのように無為にして化す人になりたいものですが、私たちはこの「ものを教える三つのランク」を使い分ければいいんです。つまり、ある時には言葉で教え、またある時には不言実行、そしてまたある時には、無為にして化すと。
無為にして化す人が言ったその一言というのは、天地も動かすばかりです。明治天皇様のお歌に「天地も動かすばかり言の葉の誠の道を極めてしがな」というのがありますけど、こういう無為にして化す人が発するその一言、無為にして化する一言には命が宿っております。
これを「言霊」(板書)と言いまして、言葉に魂、霊が宿ってると考えるわけです。
惟神の日本には昔からこの言霊信仰というのがございまして、柿本人麻呂の歌にも、「しきしまの大和の国は言霊のさきはふ国ぞまさきくありこそ」と。
日本の古代からの信仰、言葉というのはそのもの自体が生きている。生命、命があるんだと。
「あ」なら「あ」の言霊があって、魂が宿っているんだと。日本は言霊が幸はう国、言霊が生ける国ですよということを、万葉集の時代から言われておりまして、これは、太古の日本人としてはごく当然のことだったんです。
ですから私たちは、誠の道というものを、本来、人のあるべき最高の道というものを極めていかなくてはいけません。観念とか概念を入り乱すんじゃなくて、自らの魂というものを磨いていくことで、初めて天地を動かすほどの言葉を発することができるんです。
これをもっと別なことで言いますと、例えば、日蓮上人が「南無妙法蓮華経」というひと言と、S会とかの一人の信者さんが「南無妙法蓮華経、南無妙「法蓮華経」と百回あげるのとでは、言霊がまったく違うんですね。
ご存じのように、日蓮上人は鎌倉で非常に大きな法難に遭いまして。観音経に「念彼観音力刀尋段段壊」というのがありますけども、観音力を信じて念ずれば、刀でその人が殺されるという時に刀が三つにポキポキと折れる。
如く観世音菩薩は素晴らしい妙智力を持っておられるということが、観音経に書いてあるんですけども。
日蓮上人は鎌倉で処刑されるというときに、「南無妙法蓮華経」というそのひと言で、雷がピカピカピカと雷鳴轟きまして、刀に雷が落ちまして、処刑衆が落雷で死んじゃった。
そのように、日蓮上人が、「南無妙法蓮華経」というその言葉は、雷を起こしまして処刑衆にピカピカッと。あまりにすごい法力なんで、処刑する人も恐ろしくなっちゃってできなかった。
それから役行者さんにも、同じようなことがあります。役行者さんが伊豆七島の大島に流されました時、処刑されるという時に、「ちょっと、待ってくれ」と。処刑される時に、「ちょっと刀なめさせてほしい」と言いました。
ペペッペッパーと刀をなめますと、刀が三つにポンポンポンと折れちゃった、と。処刑されるという時に刀が折れたというのは、役行者さんと日蓮上人ですね。
そのように、役行者さんがあげるひと言と、普通の人たちが「南無妙法蓮華経」を百回あげるのとでは、全く違うわけです。それは日々誠の道というものを行っているのか、行っていないのかによって、言霊が違ってくるからです。
まさに役行者さんの言霊は「天地も動かすばかり言の葉」であります。日蓮上人も「南無妙法蓮華経」のそのひと言によって、雷がその人に落ちて死んだし、八百万の神々を動かしうるだけの力があるわけでしょう。まさに天地も動かすばかりです。
そういう誠の道を極めてしがな。極めたいなあという明治陛下のこの歌です。けれども、そういうふうな道に歩んでる人の言葉というのが、本当の言霊になってるわけです。
ですから無為にして化するという今日のお話は、一番レベルの低いのは、ただ単に理屈で、頭で、教えをもって人を導いていく、これは初歩だと。
その次は、そんな言葉じゃなくて、不言実行、黙々とその人の、いわば誠の道ですね、一生懸命歩んでいるその後ろ姿で、人を教えていこうと。その迫力真実の姿に胸打たれる。
さらにそれが進んできましたら、頭山立助さんとか沢庵禅師の言うように、敵も味方に変わっていく、何もしなくても、その人と会うだけで、「やあ」というその言葉によって、人間が勇気づけられて、才能と天性が開花されて、全部自分で答えがわかっちゃう。それだけの神気充実した人であるというレベルなわけです。
こういうふうに、道というものを極めていく。それは観念とか言葉じゃなくって、御魂、魂、潜在意識の奥にある自分というものが、まさに神人合一する。
神上がりする。御魂の輝き、光明、神気というものと常に一体となってる人です。
こういう道に根ざしていることによって、本当に初めて人を教化することができるし、その言葉が天地も動かすばかりの力を持ってくるんだよという。
人々を教化し、世の中をよくしていくとか、教え導いていくということ一つにしましても、これだけのレベル、内容の奥深さがあるんだということをよく心がけた上で、明治陛下の歌にあるように「誠の道を極めてしがな」。誠の道というものを、本来の人が歩むべき真実の道を極めたいね、というのが、私たちの最終的結論として言えることだと思います。
本日は、一回目の講義をこれで終わりたいと思います。
どうもありがとうございました。(拍手)
