深見東州の土曜神業録10(Vol.4)

八万枚の絵を描き続ける

ところで、佐藤ノブヒコという大阪の絵描きさんが人がおりまして。知ってる人は知ってる、知らない人は知らないんですけど。この人は仏教に対していろんな角度から見ている人で、好んでお地蔵さんを描くんです。

それから「銀河」という花の雑誌の女編集長がおります。この女編集長が古本屋でいろいろとあさっている中で、この佐藤ノブヒコさんの書いている本を見つけました。それで、この人が書いている仏教解釈というのが面白いものですから、感動しまして、すごいことが書いてあると。

それでこの編集長が、佐藤ノブヒコさんにお地蔵さんを挿絵として描いてもらいたいと頼んだんです。何枚ぐらい描くんですかって言ったら、まあ、だいたい二百枚ぐらい描いていただきたいと。

「ほー、その本は何部ぐらい出るんですか」

「本は六万部ぐらい出ております」と。「えーっ」

「ほー、じゃあ、六万部に全部、僕が一冊ずつ全部描きますよ」

普通、挿絵を描くっていいましても、通常、何枚かの挿絵を、一ページに一枚ずつ描きますよね。ところが、六万冊の本、出ている雑誌一号ずつに、全部違った絵を描くと。そんなことできっこないじゃありませんかと。

「いや、そんな六万枚ぐらい。それぐらい描かないと楽しみがないですよ、アハハ」なんて言って。「じゃあ、お願いしますよ」っていうことで、一日、二百七十五枚を三百日間、合計八万枚描いたんです、挿絵を。

一日二百七十五枚のお地蔵さんの挿絵と、それから自分の文章とか詩ですよね。自分なりにこう思っているという詩を、簡単だけどもユニークな詩を、全部違ったものを書いた。

まあ、最後のほう、七万枚か八万枚近くなると、「あ 1、くたびれた。もう、もたない」とか、「もう大変だ」と言ってたらしいですけど、それでも一日も休まないで描き続けまして。八万枚、お地蔵さんの挿絵と文章を描いた、実際。

考えられないでしょう、普通。八万枚も描けますか。今日Sさんの絵を見て、「あー、いいな」って、絵で思い出したんですけど。

まあ、それとこれとは少し違うんですけど。うまく描こうとか、こういう風に描こうとか、そんなことを超えてます。三百日間で八万枚を描いた。そういう雑誌っていうのは恐らく空前絶後でしょうね、季刊誌で。季刊誌ってことは一般雑誌でしょう。

この、佐藤ノブヒコさんというのは、とにかく絵を描くのが楽しくってしかたないんだと。もう、絵を描いているという、それがもういいんだと。

別にそれを描いてみて、自分の名前を出そうとか、あるいは、絵を描くことによって、自分の作品を皆さんに知っていただこうとか、それを買ってもらおうとか、そういうことじゃない。そういう気持ちですと、三百日間、一日も休まないでっていうのは、まず無理です。

どういう気持ちでやれば、一日二百七十五枚を三百日間連続で、八万枚も挿絵を描けるかということは、もう一刻一刻、もう絵を描くのが楽しいと、好きだと。

描いているのが、もう恍惚としながら、もうやっているという挿絵三昧。絵を描く、三昧の境地でなければ、これだけのものはできないと思うんです。

義務感・責任感では続かない

それは私たちの場合でも同じです。ご神業をしなければならないという気持ちでは、絶対にご神業は続きません。講義講習に来る場合でも、毎日毎日神様を礼拝するとか、神人合一を極めねばならないとかいうのも全部そうです。

行けば行くほど奥が深いですし、やればやるほど自分の至らなさということも感じるわけでございまして。それに行き詰まりますと、じゃあ、もう、どうしようかと。ねばならないという気持ちでは、あとが続かなくなっちゃうわけです。

絵を描く、音楽を創るということ、あるいは自分の仕事、いろいろございますけれども、特にこのご神業というものに、神人合一の道とか、自らの境地を高くしていくということは、いろいろ苦しみもあるし、葛藤もあるわけです。

基本的には、ご神業せねばならないという、義務感とか、責任感とか、やろうという意欲、これでは続きません。ご神業が好きだと、講義を聞くのが好きだという気持ちになろう、まずは。そして、ご神業はもう楽しくってしかたないと。

緊張感もありますけども、恐らくこの、佐藤ノブヒコさんも絵を描くときには緊張するでしょう。楽しいんだからといって、やっぱり引き締めまして、集中しなければ、人様に見せるような挿絵とか文章は描けませんから。

しかし、そういうものも乗り越えた、刻々が三昧、絵描き三昧。絵を描くのが楽しいんですよ、それが自分の人生の目的であり、究極であり、結論であり、いつ死んでもいいと。

お金のためでもない、名誉のためでもない、ただただ、ただただ、描かんがために描いていると、絵を描くのが楽しいという。頭じゃないんですよ、そういう境地、三昧の境地で絵を描いている。だから、これだけできる。

そういうことがやりこなせる人っていうのは、絵を上手に描く人は、うまく描く人もいるでしょうけども、そういうふうな三昧の境地から出てくる絵というものは、まさに禅宗の悟りの極致でもあります。

人生、何を為すにしましても、この三昧の境地。刻々、ただそれだけの為さんがためにしている。これ、只今、只今に生きるっていう、一つの意味も、こういうことにあるんでしょうけど。

ただ単なる只今っていうだけじゃ意味はわかりませんので、三昧の境地という意味で今日は見てみたんですけど。そういうふうな気持ちになっておりますと、これはできるわけです。

実は私が除霊するときもそうです。だいたい一日十五時間、十時から二時ぐらいまで、火曜日と木曜日にありまして。

除霊やご神業を十何時間連続でやって、また次に仕事という場合に、ねばならないという気持ちでは絶対続きません。刻々除霊をする、刻々ご神業のお取次ぎをする。

これが人生の目的であるし、究極であるし、いつ死んでもいいんだと。除霊を為さんがために、神様にさせていただいている。

これは自分の好きなものであるし、楽しみであるし、喜びなんだと。神様、これをありがとうございましたと。刻々辛いこと、苦しいこと、それをも楽しんで、三昧の境地でやるわけです。

これはもう、何時間でも続くんです、何回やっても続くんです。それが、精神的に飽きがこない。深見先生は、何時間やっても、やればやるほど元気になるって言いますけども。私も無意識のうちにそうなんですけども、ふと考えてみたら、ああ、そうだなあと。

若かりしころ、おじいさんみたいな言い方しますけども(笑)、そういうふうなことがあって、どんなことがあっても、その三昧の境地で、刻々に、それやっていこうと。そういうときっていうのは気負いもございませんし、それから、こうしてやろうというふうな焦りもございませんし、非常に楽しい。

御魂が喜びまして、守護神、守護霊も、神様も、そのときには一体となっている。この、佐藤ノブヒコさんではございませんけれども、除霊のときも、いつもそういう気持ちでやりますので。

十五時間、何回やっても続く。続かねばならない、ねばならないというときには、もうパッパッパッと、この三段階のギアを切り替えまして、そういう三昧の境地にピタッとなれるわけです。ねばならないというときに大変だと思ったら、もう気持ちが続きませんので。

昧然として進まば、先陽損なう恐れあり

これは老祖様の教えにあるんですけど、三昧の境地の逆はですね……。

昧然まいぜんとして進まば、先陽損なう恐れあり」(板書)です。

つまり、この味然というのは、もう目が見えなくなって、眩まされた状態。さあ、やるぞー、がんばりますよー!という気持ちで、味然としてやるわけです。そういうふうに味然として進んでいけば、先陽を損なう。

先陽というのは先天的にやろうという、先天の陽。この先天というのは目に見えない、霊的なとか、あるいは御魂の世界の部分です。生まれる前から持っている部分の陽。ですから、御魂の部分のフワッとした陽気です。

味然としているものは、先陽を損なう恐れありということは、どういうことかと言いますと、悲壮感が出てきたり、ねばならないという悲壮感が出てきたり。

それから、険しい表情だったり、焦りが出てきたりね、我が出てきたりするわけです。特に、この悲壮感が出てきて、先陽を損なう恐れがあるんで、境地の中の陰の部分、陰の気になってくる。

それは非常に暗いとか、御魂がピカピカ光らないで、何かこう、焦りとか葛藤とか、悲壮感とか侘しさとか、そういうふうなマイナス的な感覚です。

なぜこの、先の陽、フワッとやろうっていう御魂の安らかさとか、穏やかさとかっていうものがなくなるかといえば、味然として進んでいるから。

ですから、競争心とか、やる気というのはあるんですけど、必ずそういうふうに、老子の言うように、最初にワーッと力を出した者は、やがて弱くなっていく。弱い者は、必ず浮上するときが来るという。

この味然として進んでいくというのが、一見やる気を燃やしているんですけれども、無理にやる気を燃やすというふうになりますと、これは続かなくなっちゃって。

やがて虚脱状態とか、フワーッとした形で、最初はがんばるぞ!という気持ちで、ご神業とか、講義とか、よく来るんですけれども。味然として、あまり行き過ぎたために長続きしない。これでは結局、道というものは成就できないわけです。

老祖様の教えで、前に申し上げたと思うんですけれども、ものを成就していくためには、「堅」、「誠」、「恒」(板書)でございまして。

堅というのは堅忍不抜、どんなことがあってもやり通すぞ。神様のために、二万年計画で立派にするぞ。堅固なる意志を持って、何が何でもやり通すぞという。

誠は、常に誠が先に立って、観念とか、権謀術数とか、頭じゃなくって、誠、常に誠で、常に自らも省みて、誠の状態。

恒というのはこれですね、立心偏というのは心ですから、これはお日様が、地面から日が出まして、また沈んでいくという。毎日毎日お日様が出てくるように、恒。恒久平和の恒ですね。これを長続きさせていく。これは神様の道におきましても、仏道におきましても、芸術、武道、全部そうです。

そういうふうに、この堅、誠、恒なんですが、最終的に、どうしたら道が成就できて、ある程度のものができるかといいますと、味然として進むのではなくて、三昧として進めばいいんです。

味然として進むと、必ず悲壮感が起きたりして、霊的にマイナス状態で、まさに続きません。調子に乗ったり、あるいは落ち込んだり、浮き沈みがあります。

ですから、三昧として進む。もう、やっていること自体が楽しい、好きだ、もうそういうふうにしようと。刻々をそういう気持ちで生きていく。

刻々を、三昧の境地で喜んでやっていると。ねばならないという感覚を捨てる。好きだと、無理にでも、ねばならないものだったらそう思う。そういう三昧の境地という世界に、自分があってやるとできるわけです。必ず道が成就できます。

これが、三昧の境地についてということで、ちょっと、私のつまらない体験でございましたけども。この、佐藤ノブヒコさんの、人間としては信じられないようなパワーでございますけど。棟方志功さんも、もう彫刻三昧でございました。

まあ、そういうことで、この三昧の境地ということを、皆さま肝に銘じまして、神様の道というものを、どこまでも続けて、道を成就していただきたい。

この三昧の境地というものを、一つの心の想念の工夫のヒントとして、肝に銘じて理解していただきたいと思います。

それでは、パート1をこれで終わりたいと思います。

どうもありがとうございました(拍手)。