【第三章】刹那最善楽天主義(昭和60年1月12日)
どうしたら三昧の境地になれるのか
パート2に入る前に、今、坂本さんから質問がございまして。
「三昧の境地っちゅーもんになるのには(笑)、どういうふうにやればいいんですか」という質問があったんですが。
それはお答えいたしますと、ねばならないのは嫌だな、辛いな、またこれあるのかと思ったときに、「そうだ!三昧の境地だ!」と、パッと想念を切り替えまして「三昧だ!」と思ってやりますと、完全な三昧じゃなくっても、三昧風。中華三昧ってございましたけれども。
とにかく、もう我を忘れてやっているという状況で、もう、ねばならないとか、義務感とか、責任感とか、そういう思いを脱却しまして。三昧の境地だ!という気持ちで、やろうと努力したら、パッと……。
自らの心で自らを縛しているわけです。一度、私はこういう体験がございまして。前にもお話ししたと思うんですけれども「明日起きて、こうやって、こうやって、こうしなければいけない。この仕事もこうしなきゃならないから、絶対明日、ちゃんとこうやって…」というふうに私は夜、自分自身に言って聞かせてねばならないということが多いもんですから、ここ一番という、そういう義務感と責任感のときに、一生懸命やるんですけども。
そうやって自分に言い聞かせましたら、パッと寝ますと、私の体が紐でこう括られているんです、紐でグルグルに。アレッと思って、ピカピカピカッと体が光りまして、「あれっ、体が縛られてる」と思いまして。それは、自分自身の「ねばならない」という念が御魂に、こう紐でがんじがらめにしてるんです。
ですから、自由というか自在性がなくなりまして、そういう人は体が固いんです。頑固な人とか、ぎこちない人は、体が固いでしょう。
私がこう(体を曲げながら)、何度もお見せしてますが、最近ちょっと固く……………。
ねばならないという日にちが多くなったのかも知れませんが。体が、もうグニャグニャで柔らかいでしょう。
それはやっぱり想念とか、柔軟にものを考えていくというか。この三昧の境地でやりますと、神気が常に自分のほうから出てますので、その「ねばならない」という念で自分自身を縛さない。
自分自身を縛するということは、地縛霊ってありますよね。地縛霊っていうのは、自らで縛してるわけですよ。
クソ、おのれーと。自分の念でですね、恨みとか、執着心とか、クソーとか、嫉妬の念とか、自ら出す念で、自らを縛しているわけですよね。これが地縛霊です。
目標がはっきりしないで、フラフラフラフラしてるのは、浮遊霊です。本人の気持ちがコロコロコロコロする人は、浮遊霊に憑かれやすいし、地縛霊っていうのは、自分でクーッ、頑固な人がやられるんです。
その反対が、柔軟で、明るくて、常に三昧の境地で。只今刻々を楽しんで、喜んで、一生懸命明るく生きている人。じゃあ、どういう風に生きていったら、一番霊的に柔軟で、このガチガチじゃなくって、体も柔らかくって、神気充実するのか。
道とは「満ち満ちている」
これはいつもお話しするんですけど、道というのがございます。
道を成就するとかっていう道は言霊で言いますと、「満ち満ちている」(板書)と。こういうふうに書きまして。満ち満ちている。
満ち潮、欠け潮の。ですから、完全ということはないのであって、完全という状況に向かいまして、徐々に満ち満ちて、充実していっているという、永遠に。
それとですね、ウェイ(way)がありますね。ウェイ(way)、ロード(road)。この、完全な理想、パラダイスへ向かって、その道を、こう、ずっと歩んでいってる。
「道の道とすべきは、常の道に非ず。名の名とすべきは、常の名に非ず」と「老子」にございます。これが道だというところには、もう道はないんだという。その、永遠の真理と。文字や言葉では言えないような、「文字、言葉を乗り越えた真理」(板書)。
ですから神道では、道というのは満ち満ちていく状態。永遠に完璧という。それからダイエーのマークでも、こういうのがあります(板書:)。
これは完全なまん丸ではないです。日本の思想におきましては、完全無欠というのはよくない。一歩退いている。それは満つれば欠くるという思想です。
「満つれば欠くる」(板書)。ダイエーのマークはこういうふうにちょっと切れていて、もう少し発展していく余地が常に残っている。満ち満ちていっているという状態。完璧になりますと、満ち潮になりますと、今度はもう欠けはじめる。
これを易で言いますと、前に説明いたしましたように、「九五の位」。易では、「乾」と「坤」がございまして、乾が天、坤が地を表すと。
そして、天に三つありまして、地に三つありまして、易というのは六つのこれで表すわけです。乾(天)の卦はこの六つがすべて陽なんですけど、その六つのうちでも、下から数えて五番目が最高の位であって、これを九五の位というんです。
「易経」には、君子というものは下から順番に上がっていって、乾の卦の五番目で、天に昇った龍の如き位に達すると書かれている。
ところが乾の一番上に全部行きますと、「亢龍悔いあり」。つまり、一番上まで昇りつめた龍は後は落ちるしかない、ということなんです。というんで、君子の位はどこかといいますと、この五番目でとどまる。この五番目でとどまる、これが君子の位でございます。
一本、六になりますと上へ入る。昇りすぎ龍は必ず落ちますよと。だから常に五番目でとどまる。
ですから、気学でも五黄土星って言いますね。五は中宮、王の位と言います。
手の指も五本です。それから、天照大御神には五人の皇子が生まれました。ですから伊勢は五十鈴川と言いまして、五が中心でございます。
あるいは、画数で言いますと、五は中央部分に進出していくという意味がある。だいたい五という数字というものは、常に、その中央部分に進出していく。真髄とか、物事の中心にどんどん進出していくというのが五の数字でございます。
ですから数霊も五というのは、君子の位と言われている。常に一歩前でとどまっている、これが君子。一番上に行かないで、常に五番目で止まる。
ですから、それは恐らく、満つれば欠くるなんていうことで、日本では簡単なことわざのような形で言われておりますけども、このバックボーンにあるのは、易の、「易経」の真髄であろうかと思います。常に満つれば欠くる。
ダイエーのマークの五番目の位で、一歩発展の余地を残しながら、精進努力していく。謙虚に、私はまだまだ至りません、足りませんと。満ち満ちているけども完璧じゃない。常にこれであり続けるというのが道なわけです。
最高の菩薩とか、悟りの境地に行くまでに、長いこの道のりを歩いていくんだというのは、菩薩道と言います。菩薩の道を、生まれ変わり死に変わり、一生懸命努力しながら。
高田好胤さん(奈良・薬師寺の元管主。九八年に死去)は「永遠なるものに向かって、永遠に努力し続ける、これを菩薩と言う」と言っています。
永遠なるものに向かいまして、永遠に努力をしつづけている人、これが菩薩というんですよと。こういう道、満ち満ちている。この菩薩道もそうなんです。
道思想の大きな落とし穴
ところが誤解しやすいのは、本当は易はそういう意味を言っているんですけども、「いやあ、まだまだ自分は至りません」と。
「まだまだ自分は未熟でございまして」っていう、なんとなくもっともらしいような、教養と人格のあるっぽい(笑)、謙虚であるような感じでございますけれども。この中国の思想、道思想というものには大きな欠点、落とし穴があるわけです。
というのは、植松先生がおっしゃるように、どこまでも道というものは道でありまして、永遠無窮に道なんです。行き着くところがないわけです。この道の思想の欠点は、どこまでも、いや、まだまだ至らないことでございましてというのが続くところなんです。
これに対して道元さんが、もともと仏様である人間が、なぜ修行して仏にならなければいけないんだ。何の為に生まれてきてるんだという懐疑を持ちました。そうじゃないんだと。
悟りというものも、充実感というものも、一枚悟り、 二枚悟り、三枚悟りと永遠に広がっていくんだと。ただただ、為さんがために為す。只管打坐、座らんがために座る。刻々にそれをしていく姿がその人の仏
様の姿。その人の中に宿る仏様の顕現のお姿がその状態ですよというのは、恐らくこの三昧の境地に近いんじゃないか。
もう、その時その時というのが楽しみであり、喜びであり、本当に人生の究極であり、目的であり、目的地なんです。これが毎日続いている、刻々に。
この歓喜の世界、喜びの世界、これをまた「法悦」(板書)とも言う。この悦というのは喜びです。
あるいは兌宮と言って、気学で言いますと、西の七赤金星で兌宮と言うんですけど。喜びの心ですね、兌の心。ハー、本当に幸せだーという歓喜、喜びの世界。これが神様の世界、神霊の世界なわけです。
それに対しまして、道はどこまで行きましても道でございまして、プロセスでありまして。その道の境地というものは、決して、この喜びと充実と幸福の、涅槃寂静の境地ではないわけです。
例えば、若いころはいろいろ艱難辛苦を経まして、歳を取ってから、あー、よかったと。歳を取って、功成り名を遂げてよかったという満足感もあるでしょう。
それじゃあ、若いころというのは、単なるプロセスだったのかと。
若いころは若いころにしかできない苦しみがあると同時に、若いころでしか楽しめないようなことがあります。歳を取ったら歳を取ったで、年寄りしか味わえないような喜びがあるわけでございます。
若い間に一生懸命苦労して、早死にした人は、じゃあどうなるんだと。一生懸命老後のことを思い、お金貯めまして、貯まったっていうときに死んでしまったり(笑)。
貯めるための努力したために、肉体を酷使しまして死んでしまったと。何のために生きているんだと。
目標、ビジョンはあっていいんでしょうけども、ねばならないという世界に生きており、道の中に常におりますと、道がいったところには、もう歳を取って、寿命がなくて、楽しむ時間ももうないと。
だから一生懸命、精進努力して、道のプロセスを刻々に楽しんで、刻々に充実して。未完成は未完成なままで、今日一日を喜んで、刻々を喜んでいくという、この三昧の境地です。
涅槃寂静の境地と言っても、もう死んで、ああ、極楽へ行けるなんていうんじゃありません。刻々の只今に喜びを得て充実しない人間は、死んでからも最高の世界に行きません。
前に、娑婆即浄土と言いましたけど、娑婆で生きている刻々が、極楽浄土のような喜びと充実に満ちている。
そういうふうに、刻々に、とにかく只今只今に、充実と喜びと生きがいと人生の結論というふうな、そういう境地でいかなかったら、これ、仕上がらないわけでございます。
道の思想というのは、なんか立派なようで「私は、まだまだ修業中でござい「ますよ」というふうに言ってるのが一見よさそうに見えるんですけども。風の道思想の弊害です。いまいち悟りが足りないんです。
道は道としてなければ、物事は成就できないんですけども。そのプロセスの刻々を楽しんで、より充実して、より三昧の境地と充実と終極の喜び、満足度が深くなっていく、大きくなっていく、高くなっていると。
そういう毎日毎日でなければ、ダメなはずなんです。
そうでないと、自分が積み上げてきたものが、例えば一生懸命努力して、苦労して、お金を貯めまして。それが例えば泥棒に入られたとか、あるいは病気で出ちゃったら、「あーあ、何のために貯金したんだ」という気持ちになっちゃうわけです。
貯金する刻一刻が喜びで、貯金のプロセスが幸せだったから、貯金したお金、形、物に心が着さないわけです。そうしますと、お金がなくなろうと、取られようと、そのプロセスが幸せだったら別にいいよと思う。
