深見東州の土曜神業録9(Vol.6)

貫き通すのが荒魂の働き

だけども、御魂の素晴らしさというものは、さっき言いました待つ心、松心、需つ心。ですから、Yさんなんていうのは誠に本居宣長さんですので、このあたり研究なさったのか、三千日間もやり通すということは、これも荒魂の働きなんです。

これは、勇気というものが、荒魂が裏返しになりますと、自重、隠忍自重。ぐっと忍耐する。辛抱すると。耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍んで、やり通した。これは荒魂の働きです。

耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍んで、最後までやり通したというのは、この荒魂。荒魂、別名、顕れ出ずる御魂というので顕現していく。

ですから、天照大御神の荒魂というのは、非常に荒々しいという面もありますけど、天照大御神が現実の働きとなって顕れ出ずる、顕れる御魂、荒魂と申します。

ですから、隠忍自重。ぐうーっと辛抱して自重して、一つの物事をやり通す。神の道に志したら、どこまでも貫き通す。荒魂です。

その人の人生のプロセスを見てみまして、どこまで一つのものをやり通したかどうか。途中でふらふらふらふらしたか、しなかったか。あっちへ変え、こっちへ変え、ころころころころしたか。

一つのことを志したら、どんなことがあっても、それがまちがっているかまちがっていなかったかは別といたしまして、やり通したという人は、この荒魂がしっかりしているわけです。

人間に芯が入っている。これが、その人の御魂のよしあし。働きというものは、この荒魂の活動を見たらわかるんだと。

ですから、一つの物事を、どんなことでもやり通した人でないと、荒魂、勇気を持って、その勇猛のその精神がない人というのは、いかなる道も成就できない。

「松心」の話をパート1でお話ししましたけれども、松心というのは、奇魂、和魂、全部ありますけど、まずこの荒魂の本当の隠忍自重して努力する、これがなければだめでございます。そういう我はいいわけです。

我と慢心ということがございましたけれども、その貫き通したというのは、我が強い人がいますけれども、どこまでもという、これはいいわけです。

この我は持たなきゃいけない。神様は、この我は喜ばれている。お釈迦様の言った「天上天下唯我独尊」も、その我というものは涅槃の境地の私という感覚です。これはもちろんいいわけです。

その我と慢心という言葉が簡単ですから、私はもっとかみ砕いて、かみ砕いて言っているんですけど、こういう意味での、どこまでもやり通す、我は強いけどもやり抜くという人がございます。これはいいんです。これがなきゃだめなんです。

松心、すなわち荒魂の活動、どこまでやり通したか。これが、この奇魂、和魂、幸魂をすべて開花していく。人間としてこの世に生まれてきて、神の天命をどこまで果たし通すかというのは、この荒魂の働きです。

平田篤胤は、ですから人間に魅力があります。この荒魂のしっかりしている人は、魅力があるんです。男たるもの、この荒魂のない人間はだめです。

この隠忍自重、勇猛。勇猛の裏返しです。ですから、徳川家康公なんていうのは、荒魂です。発達しているでしょうね。

おそらく織田信長公というのは奇魂です。もう、天才です。

ただし、奇魂があまりに過剰になりますと、ヒステリーになるんです。ですから、知恵が発達している人は、なるべく筋肉を鍛えて、体を鍛えますと緩和されるんです。奇魂過剰の人は、神経過敏でぴりぴりしている人。Iちゃんなんかそうです。

もう、奇魂が過剰。そういう場合は、知恵とか、ひらめきとか霊感はあるんですけれども、いつもぴりぴりぴりぴりしてる。肉体を鍛えますと緩和されていく。

そういうことで、一霊四魂の中での、この荒魂の状況の神鍛え、神試しがあるんですけども、その我は非常にいいわけなんですけれど、物事に着して、執着してしまうという我はよくない。

「我見」が神様を遠ざける

もう一つ、神様が戒められる我と申しますのは、我見でございます。我見、我の見識。私はこう思うという。神様がこうだと言っても「いや、俺はこう思う、こう思う。だって、こういうもんなんだ」と、自分で思い込んでしまう。いくら言っても聞かない。人間は悪い人ではないんだけれども。

ですから、例えば宗教団体に入りまして、 T原理に入りまして、そういうもんだという観念があります。人はどうか知らないけど、自分はこういうふうに生きるんだと。

あの人は素直じゃないねという場合があります。我が強いと。我が強いと言っても、どこまでも信念を貫き通すという我でないんです。

要するに、ごちゃごちゃごちゃ、天の邪鬼で、自分の考え方、見識というものをどこまでも固執する。これは、我です。我見です。

神様が一番嫌うのはこれです。我の執着心と、我の見識。素直に物事を考えてみたらいいんだけれども、自分なりの考え方でしか考えられない。

特に一つの宗教に凝っていた人は、そういう宗教的な発想でしか物を見ていない。ありのまま見たらいいんだけれども、全部そういうふうに、何でもそういうふうに見てしまう。

何でも悪く悪く考えようとしてみたり、憶測して憶測して考えたり。我見、自分の見識というものを持っていて、譲らない。頑固です。頑固に自分の意見を言い張る。

それはいいかもしれないけれど、もっといい考えもあるかもしれない。客観的に聞いて、謙虚に自分を見てみよう、それがないわけです。どこまでも俺はこうだと思ったら、人の言うことを聞けません。人の言う意見を謙虚に耳を貸すということなく、自分の見識をどこまでも主張する。

神様がいくらお話ししても、ご神霊がいくら導いてきても、自分の思った見識、見た目、それを変えることがない。だから、いくらご神業しても、聞いても、この人は伸びないです。その人の観念があるから。

ですから、我見とはもう少し別な言葉でいいますと、固定観念です。固定的な、絵とはこういうものなんだと。音楽はこういうものなんだと。

ご神霊がいくら、神様が新しい発想の世界を出しても、こういうものなんだと。この曲はいい、この曲は良くないと自分で思い込んで、実は他から見たらすごくいい曲なのに、自分は好かないから、これ良くないと破ってしまう。

せっかくひらめいて来た天使も、もうやる気なくしたなんて言って帰ってしまう。どうしてもこの我見が捨てられないんです。我の見識が。固定観念が。

もうとにかく、油は体に悪いと。アルカリ、菜食はいいんだと。お肉はよくないと。イカは十二時間消化されないという固定観念がありまして。確かにそうかもしれませんけれど、そうではない感覚もあるわけです。

気持ちよく食べれば消化される。ジアスターゼ飲めば、消化を助ける何か……。なかなか気がつかないんです、自分で。非常に自分自身でも、あっ、これはと思っていても、知らない間に固定観念が出てきます。

ですから、とらわれないという修業。とらわれない、とらわれないと、こういうご神業しますけれども、それはすぐに人間というものは、一つの物事があって、何かを成就して、できたら、何でもそれに当てはめて物を考えてしまう。

過去の自分に勉強してきたもの、過去に自分がやってきた、そういうものを尺度にして、何でも当てはめて考えてしまうんです。固定観念。これは我です。これは、なかなか気がつかないんです。

何でも素直にはいはい、はいはいと、一見はいはい、わかりました、わかりましたという形で、頭を下げているんですけど、お腹の中では、ああいうふうに言うけど、本当はこうなんだ、ああなんだということが、お腹の中でぶつぶつ出てくる。

これは禅宗の用語で「卑下慢」(板書)と言います。

一見卑下しているようなんですけど。卑下慢と言うんです。

見た目には、はいはい、わかりました、はい、わかりました、おっしゃるとおりですという形で、お腹の中では、そんなこと言って、そんなもんかなんていう形で、俺はこれだけやっているんだから、本当はこうなんだなんていう心がいつもお腹の中に出てくる。

一見、卑下しているようだけども、お腹の中ではごうごうたる慢心がある。これを卑下慢というんです。禅宗の用語で、卑下慢ひげまん

彼は卑下慢だというと、一見ぺこぺこして、いやあなんて謙虚そうに見えているけども、全然やり方を変えない。全然意見を変えない。

何回注意しても同じことをやっている。もういくら注意したってだめだ、あいつは我が強いというわけです。いくら注意して、はいはいと言うんだけど、また、同じことを繰り返して、自分が思ったとおりにしかしない。

いるでしょう、そういう人。大体人格の十一画の人が多いんですけども。一のつく、十七画も多いですけど。

とにかく卑下慢。自分のこうだと思ったほうにしか、いくら言ってもやらないという人。神様がいくら神勅を出しても、導かれても、それから脱却できないんです。いますね、そういう人。我見、固定観念。

それから、もう一つ怖いのは、倫理・道徳観念。神様というのは、一つの状況で、愛とか真心でやっていたらいいんですけど、これはこうあるべきじゃないと。だって、教科書にそう書いてある、お父さんがそう言っていた。親は、親たる者はこうでなきゃいけない、子はこうでなきゃだめなんだと。

倫理観念、道徳観念というものが、これはある程度社会的ルールとしては必要なんですけども、真心によってやった場合には、例えば相手を殴るとか、蹴り倒すということが善になることもあります。

ところが、真心とか思いやりとか、人はぶっちゃいけないという形で、これは特に日教組などに多いです。ぶっちゃいけない、子供に体罰するのはよくないなんて言いますが、慈悲とか真心で、厳しく叱咤して殴るほうがいい場合もあるわけです。

しかし、そうすべきではないんだと。「べきではない」という倫理観念、道徳観念となる場合は、これは、なかなか神様が働こうと思っても働けない。特にその我執と我見というものが、なかなか自我の中でも捨てにくいものなんです。

神様は「我」と「慢心」と「怠り」を最も嫌う

ちょっと長くなりましたけれど、派生的なことが多すぎたんですが、とにかく、神様が一番人間に対して嫌うのは、まずこの我。簡単にいいますと、俺が俺がという我、私が私がという我。

自己主張と我。とにかく自我です。これが一番神様は嫌がる。

それと慢心です。とにかく慢心している。あたかも自分でやったかのごとく、ご神霊がかかってできたんだけれども、あたかも自分でやったような気持ちになってしまう。

神様が一番嫌がるのは、我と慢心なんです。素朴で素直の逆です。素朴で素直の逆は、我と慢心です。我と慢心ある人間は、絶対ご神霊は嫌がります。

ですから、いくら神様にお願いしても、真心でお願いしても、この我と慢心から発したことは絶対聞きません、神様は。絶対聞かないです。その我と慢心というのは、自分で気がつかないから怖いんです。知らない間に我が出てる。知らない間に慢心になっている。

それと、もう一つ、神様が嫌がられるベスト3のうちの一つは、怠りでございます。ずんだらとか、気許し。もっと具体的にいいますと、気許し、油断です。

油断していたとか、気許してたとか。調子いいときは調子よくなって、神様~とピンチの時は言ったんだけれども、もう調子よく全然波風がなくなったら、まあいいやというので精進努力を怠ります。精進努力の逆ですね。

この我と慢心と怠り、この三つが神様の嫌がるベスト3でございます。逆にいいますと、この三つがなかったら、いつも神様は好いて、どんなことをお願いしても、よしよしと、何でも聞いてくださるんです。

祝詞をあげまして、ご祈願しましても、この三つを、あ、我が出ていないか、慢心していないか、怠りがなかったかと、これを気をつけてやりますと、ご神霊はいつもそばに来て力を貸してくれます。

我と慢心をなくす方法

それでは、この我と慢心をなくすのには、もっと突っ込んだ形で、どうすれば我と慢心がなくなるか。我と慢心がどうすればなくなるか。我と慢心をなくする方法。

一言でいいますと、神様のご神前に向かいますのに、我と慢心に対抗するのにはどうしたらいいかといいますと、感謝、感謝で攻めると。

先ほど申しました三つのことが神様は嫌がります。嫌がるんだったら、では、どうすれば嫌がらないようになるのかと、もう一歩突っ込んで言いますと、神様にお願いします場合に、まず、何でもかんでもお願い、お願いしておりますと、知らない間にこうなってしまうんです。

こうならないためには(我と慢心が出ないためには)、自然のうちにこうなっちゃうから、じゃあどう対抗したらいいかというと、自然のうちにこれが起きないようにするのには、もう感謝、感謝で行くんです。

私が高野山に行ったのではありません。この精進料理がおいしいのはなぜか。高野山のあるおかげ。高野山のあるのはなぜか。それは、弘法大師さんのいるおかげ。

弘法大師さんのおかげで、精進料理もおいしい、お酒もおいしい、ビールもおいしいと。何でもかんでも感謝する。

感謝というのはどういうことかといいますと、こじつけになるかもしれませんけど、「神斜かんしゃ」(板書)というので、神様のほうに傾くというんですかね。

要するに、感謝というのは、ありがとうございましたという形でするんですけども、「神霊の実在を意識で認識している」(板書)。

神様の実在を認めている。神様がいるとわかっているんだろうけども、感謝がないということは、神様のおかげで動いたんだということを実感していないという証拠です。

だから、ご神前に向かいましてご祈願をする前に、大体七〇%ぐらいは、「昨日こういうふうに、こういうふうにありましたのは、これことごとく神様のおかげでございました。

ああいうふうにうまくいったのは、ふだんの僕だったらできなかったんですけども、私のご祈願を聞いていただきまして、ありがとうございました。お願いしていないことまでうまく行きまして、ありがとう「ございました」と。

何でもかんでもいいことがあったら、全部神様のおかげにしてしまうんです。これが先取りの方法。「感謝先取りの方法」(板書)。短く言いまして、「先取りの法」と言います。

何でもかんでも、感謝せざるを得ないような状況でやるんじゃなくて、いいことがあったら、もうすぐ、あっ、これ神様のおかげでございますと。

最初に感謝されると、神様も、そこまでやろうと思ってなかったんだけれども、まあ、そんなに感謝されるんだったら、次もやっぱりやらないと悪いなと思って、守護してくれる。これを先取りの方法と言うんです。

そうでしょう。最初、ぱっと会ったとき、「どうもこの間は、ありがとうございました。君のおかげで本当に助かりました」と言えば、「いやいや、まあ。今度からいつでも言ってくださいよ」という返事が返ってくる。

ところが、ぱっと顔が合った瞬間に、「あの、今度のことは…」なんて言ってお願いしたら、随分失敬な奴だと思うでしょう。

だから、「いや、この間はどうもありがとうございました。非常にいい気持ちでした。カレーライスもちょっと水っぽいと言う人がいましたけれども、僕にはぴったりでした。誠にありがとうございました」と言って。

まず最初に会ったときにね、「本日こんなに健康でいるのは、あのときのカレーライスのおかげだ」なんて、これはちょっと言い過ぎですけど……。

しかし、感謝を先取りして、どんなことでも、「あっ、神様のおかげです」というふうに言いますと、我が出る余地がない。慢心が出る余地がない。

褒められたときが要注意

ということで、人間は感謝しているときには我と慢心が出ない。それから、苦労したり、失敗したり、自分の欠点をぐうーっと反省するときにも、我と慢心は出ないんです。

ところが、何かいいことをしたときとか、何か物事を成就できたときとか、何か素晴らしかったと人から褒められたときが要注意です。

明の時代の有名な本で、「菜根譚」というのがございますけど、我と慢心の入ってくるプロセスを申しますと、「褒められたり、おだてられたりばかりでは、我と我が身に毒を盛るようなものだ」(板書)。

こういうのが『菜根譚』(板書)に出ている。これはもう昔、僕が読んだころはあんまり有名ではなかったんですけれど、最近、企業の人たちが、よくこれを愛読しているらしいです。

菜根譚」というんですけど。明の時代です。

明の時代と申しますと、仏教と道教と儒教というのがミックスになりまして、前に言いました「陰隲録」なんかも明の時代にできたんですけど。

この明の時代に、洪自誠という人がおりまして、この人が書いた「菜根譚」。非常にあっさりとした短い文章の中で、含蓄の深い、素晴らしい言葉が多いんです。非常に感動した本なんですが、この「菜根譚」の中で、私の非常に好きな言葉がこれなんです。

「褒められたりおだてられたりばかりでは、我と我が身に毒を盛るようなもの 96 だ」と。いつも褒められている、いつもおだてられてたりでは、我と我が身に毒を盛っていると、毒薬を。何の毒薬か。何の毒薬ですか?

それは我と慢心の毒なんです。ですから、何か調子よくいって、うわーっ、ヒットが出ましたねとか、なかなかいいお方ですねなんて褒められます。調子よかったら、誰でも普通ありのままですよ。

そうですねとそのままにしておりますと、自然のうちに我と慢心が出るんです。

我を出すぞとか、慢心を出すぞなんて誰も思わないんです。意識してする人はいません。自然のうちに、いつも褒められてたり、いつもおだてられたり、素晴らしいですね、素晴らしいですねと言われていますと、潜在意識の私の中に、我と慢心という薹がうわーっと立ってくるんです。

ですから、学問ある人、信仰力ある人、教養ある人は「いやあ、そうじゃご「ざいません」と。

見た目では、「いや、そうじゃございません、とんでもございません」なんて言っているけど、お腹の中では、「それぐらいはできて当然だな」なんていうのは卑下慢です。

そうではなくて本当に神様の前で、この感謝ということをしてる人、「いやあ、できたのは、健康に生きているのも神様のおかげだ。皆さんの協力、皆さんのおかげで…..」。「

お客様は神様でございます」と、三波春夫は言ってますけども。本当に気持ちが、常に、「いや、僕じゃない、まだまだ未熟だ。あの人の尺度のレベルが低かっただけで、もっと素晴らしいものから見たら、自分はまだまだ未熟なんだ」と。

褒められたり、おだてられたりした後というのは、我と我が身にもう毒が入ってますから、常に毒消しで、「違う、もっと立派な人がいるんだ」と自分自身に言って聞かせるんです。

徹底的に自己否定しなかったら、知らない間に我と慢心が出てきます。

神様にいくらお願いしても、ちんともかんとも。最初のうちは純粋でどきどきして、ピンチとか、苦しいときとか、危ないっていうときには、もう何とかっていう形でしますから、神力もうわーっと、神様も感応しまして、すごい神力が出るんですけど、ごく自然に穏やかになりましたら、徐々に神力が弱くなる。

神様にお願いしても、あんまりおかげが出てこなくなる。ありますね。知らない間に、我と慢心が出ている。自分でやれていたんだというふうにして、お願いするときには、一時間ぐらいお願いするんだけど、感謝というのは、ありがとうございましたで、一分もお礼しない。

例えば、ごく自然に褒められる、おだてられるという生活。末っ子とか、それから一人っ子とか、子供にそういうふうにした人間というのは、お腹の中もそうできちゃう。

「褒められたり、おだてられたりばかりでは、我と我が身に毒を盛るようなものだ」と。私はいつもこう思いまして、『菜根譚』のこの学生時代に読んだ本……………。

このフレーズはよく思い出してきました。ああ、そうだったなあと。毒が入っちゃいけない。もっと、もっともっと勉強しなきゃいけない。

もっともっと広い考え方があるはずだ。たまたま神様がおかかりになってできただけで、自分の本質はもっともっとだめなんだと。だから、少しでも、一歩でも神様に申し訳が立つように勉強させていただこう、精進努力させていただこうというふうに、心で、心の襞で思い防御しますと、この毒が消えていく。