【第二章】継続の祈りが神を呼ぶ(昭和59年10月21日)
ギリギリの境地で祈る
もうひとつ。えー神社の話が出てきたんですけども、いろんな角度でお話ししたいと思うんですけど・・・。ここにいます大ママさんが、前でパチパチ目をしてますけど、よくお百度参りってありますよね。
今言ったそういう神社のところ、本当は神奈備山があって、天界からいろんな神霊がいらっしゃるんですけど、ふつうお百度石という石があるんです。お百度石という石がありまして、こうお百度参りに行く。
神霊と一つになっていく方法ということで、前にもお話ししましたけど、ひとつの法則・・・、今のはね、これはひとつの基本です。
よくお百度参りってします。お百度参りというのは、このお百度石というところからずーっと行って、行ってはこうして、またこういうふうに行って、夜やるわけです。
さんざん大ママさんもやったんですけども・・・。ひとつのことを一願成就。
これは、いろんな祈願があるんですけど、典型的なのは親鸞上人。百日間参籠するっていいまして、あの六角堂にですね、もう自分の人生どうなるんだと、もうとにかくぎりぎりの危機のときです。
危機というかもう、せっぱつまった気持ちで、とにかく親鸞上人は好きな人がいて、今のままでいいのかと、このままで。比叡山で修業してきたけれども、衆生を本当に救っていくのにはこれでいいのかと。
僧侶は僧侶のような格好をして僧侶の説だけ言ってて民衆を救えるのか。奥さんをもつということとこれからの救いということを考えまして、親鸞上人はその六角堂で百日間おこもりしたわけなんです。
とにかく六角堂で百日間おこもりをして、なんとか自分の人生の岐路について道を定めたいと。
ですからね、神様と、神霊と一つになっていくというせっぱつまったところで、百日間おこもりするというのは、「まあ、百日間おこもりしてみよーかなー」っていうんじゃないんですよ。
自分の人生はどうなるのかと、どういうふうな…。僧侶として妻帯するっていうことは、当時にとってはまったく…。本来は前に言いましたように、自分で戒めをもって、持戒、戒めをもって仏道を成就していこうというのが、本来の比叡山でいうところのものだったんですけど。
今やもう、僧侶はその、妻帯しないでいるということで常識化しちゃってるから、親鸞がしようとしたことは、まったく形式からいえば、まあ非常に破綻者ですね、当時から見れば。
親鸞は、でもそれの方が本当だと思うんだと。結婚して子供とか奥さんで苦労してない人間がもっと巷に入っていって、そういう人たちの苦しみがわかるのか、という当時ですから、大きく親鸞上人は決心しまして、なんとか神様か導いていただきたいという、もうせっぱつまったぎりぎりのとこですよね。
ですから、こういうときの出てくる前に、せっぱつまったぎりぎりのところに自分自身を追いつめないと、いくらおこもりしても「百日経って、なんてことなかったな」と(笑)。
おこもりするというのが大事じゃないんですよ。
おこもりしようかという何か、音楽だったら音楽、絵だったら絵、ひとつの仕事だったら仕事、というかたちで、「やるぞ!」といって自分自身を追いつめて、限界ぎりぎりのところまで内面的に盛りあがって、煮つまった状態にしないと本当じゃない。
だから神様は、いつもこの神霊と一つになっていくということをするために、いろんな艱難辛苦をお与えになる。試練を与えられる。そのときのせっぱつまった気持ちで、まあ親鸞上人もそうだったわけです。
そして百日間おこもりしまして九十五日目に・・・、まあ聖徳太子さんがおつくりになったとこですからこの六角堂は、聖徳太子のご神霊が現れて、とにかく汝の言うことを聞きとげよう。
観世音菩薩が汝の、その、玉女となって終生汝の望みをとげさせてあげようと。
観音様の化身の聖徳太子様が親鸞上人に、要するにご神勅を与えて法然上のところで勉強しなさい。
これからの救いは、法然のところでお前は勉強しなきゃいけないんだという聖徳太子の導きによりまして、親鸞上人は行ったわけです。
だから終生自分を導かれたのは、とにかく聖徳太子さんのお蔭だと。本当に学ばせてくれたのは法然上人のお蔭だと。
だから両方大切にしてるんですけど、その法然上人のところに行ってやるという閃きと導きがあったのは、この九十五日目の夜に現れたわけです、百日間おこもりをすると決心して。だから、明日はもう九十五日目だ、あと二日だ三日だという気持ちで、ぎりぎりのところまで追い込まれて、結局親鸞上人に現れたわけでしょ。
そのときはじめて聖徳太子のご神霊に、観世音菩薩の化身の聖徳太子のご神霊に、親鸞上人は出会ってるわけです。このときからなんですよ。いわば浄土真宗の起こりってのはここから起きてきてるわけです。
これを見てみますと、何を教えてるかと。今申しあげたように、自分自身というものを追いつめて、ぎりぎりの状態にきて神様に向かったときに、本当に自分の真剣さ、もうぎりぎりの土壇場にきたときの境地でなければ、そういうものに通じないということです。
ひとつ自分自身の内部を開くわけですから。ですから十和田に行くにしましても、「あー十和田湖。今、もみじきれいだから行こうか」なんて行ったら、とにかく「もみじがきれいだった」だけなんです。
周囲のご神業とかいろんな状況で見てて、もうぎりぎりのせっぱつまった気持ちで何とかフタを開けてっていう気持ちで行きますと、バーッと感応するものがあるわけですね。常にぎりぎりのところでないといけないということなんです。
ですから私自身としましても、絶対行くぞっという気持ちで、まあ決心して行ったとき開く。
植松先生は方向を示していただきますけど、みんなそういう気持ちで行くんです。資金的に難しければ難しいほど、周囲の状況が難しければ難しいほど、それを押してバーッと行ったときには何十倍となって返ってきます。
時間もあり、金銭的にもゆとりがあり、とにかく人間的にもバックアップがあって、「どうぞいらっしゃい」なんていったって全然お蔭ないですよ、悠々楽々で。
要するにのんびりとして引き締まってないから通じない。困難を通しでも来たっというのが大事なんです。
これ、前に言いましたように、「至誠天に通ず」。もう、神霊と一つになるには、この「誠」、これしかないんだというお話ししましたよね。口と心と行いだと同じ誠でも、至誠天に通ず。
「至誠にして動かざること、未だこれあらざるなり」と孟子でいうように、至誠。もうあらゆる教え、ひとことで言えば「誠」だよと。ですからこのおこもりのことも、誠というものをこういうかたちで表現してるんですよ。
継続して祈る
もうひとつここで言えますことは、同じ誠でも、百日間という日にちに注目していただきたい。これはご神霊と一つになっていくっていう、もうひとつの基本原則がありまして、それは一言でいえば「継続して祈り続ける」ということです。
ですから、お百度参りというのは結局まあ、百度お参りをすることですが、その前にまず二十一日祈願というのがあります。ふつう神社では、二十一日祈願。
これがひとつの願いに対して、一願に対して二十一日。二十一日が無理だったら七日間ですね。どういうわけか七の倍数。七か十四日か二十一日。三七、二十一ですね。二十一日祈願というものをやるわけです。
お百度参りって聞きますけど、二十一日祈願っていうものを知らなかったかもしれませんけど、とにかく二十一日間、雨の日も風の日も一日も休むことなくつづけることになってる。そうですね、神社でお参り。まあ親鸞上人の場合百日間のおこもりでしたけれども、九十五日目に現れた。
えー、今残っておりますもうひとつのお話としまして、一刀流をつくりました伊藤一刀斎、一刀流の達人ですね。
その人が一刀流をあみ出すについて、剣術でいろいろ修業してもできなかったので、二十一日間ですかね、鶴岡八幡宮にお百度参りしたわけですよ。二十一日祈願をはじめたわけです。
そうして、毎日毎日毎日毎日、われに剣術の極意を授けたまえって言って、鶴岡八幡宮に日参をいたしまして、毎日毎日お百度を踏みまして、二十一日祈願か百日間か忘れましたけれども、やりました、伊藤一刀斎。
最後の満願の日にその鶴岡八幡宮から下りてきましたときに、なんか黒い人影が見えたんで、なんだろうなと思ってね、人影がバーッと来たんでバッとこう、切っちゃった。
なんだったんだろうなあ、あの影はと思って。それであとで、あくる日に見に 2 きたら、人が死んでたわけですよ。結局この、伊藤一刀斎を狙いにきた刺客かなんかだったわけです。
はー、なんか影が来たなと思ってさっと切っただけだったんだけど、人を切ったとは思わなかったわけです。なんか影がふたつぐらい来たから、夜でしょ、恐いからなんかこうバッと切っちゃった。
あくる日、なんだったんだろうかと思って見に行ったら死体があった。満願の日にそういうことがあったわけです。
それで、そのときの呼吸、どういうふうに自分が、パッと切るのは無意識でやっちゃたけども、そのときのあり方をさずかった。自分が何秒という短い時間の間に、ふたりの人間を切ってたわけですよ。
狙ってた人間をね。あのときの呼吸は、「あっ、じゃあ鶴岡八幡に私が日参して、百日間か二十一日間祈願した満願の日に起きたことだから、これ、鶴岡八幡宮が私に、剣法の極意を授けたまえと祈りつつ日参した満願の日にお教えになったんだ」と。
その経験をもとにしまして、伊藤一刀斎はその一刀流をあみ出したわけなんです。これも実話として残っております。
まあ今、鶴岡八幡行ったって、ご神霊がいまいち冴えない、邪気の方が多いんですけれども、当時ですから。剣術の武士の神ですからね、八幡さんは。とにかく伊藤一刀斎はそれで、一刀流を開発した。
そのように、継続して毎日毎日毎日毎日ひとつのお願いというものを、継続して祈りつづけることによって聞いていただけるという法則なんです。
だから一日パッとお願いして聞いてくれなかったとか、神様にお願いしたけれども全然聞いてくれなかったとか言いますけど、本当にこの誠というもので口と心と行いをしまして、ひとつのお願いをしていいとか悪いとか、結果が出るとか、決して世のため人のためになり自分自身のためになる悪いお願いじゃなかったら、どんなことでも、この「至誠天に通ず」「至誠にして動かざること未だこれあらざるなり」というぐらい、本当によくきいてくれます。
それ一回か二回か、一日か二日ぐらいお願いしたって全然出てこないと。いい曲をつくりますとか、いい絵が描けますようにとか、英語がうまくなりますようにとか、神人合一の道とか、神霊の法とか、未来を予知する能力とか、あらゆる苦しみを解決するとか、いろいろありますよね。
そういう霊的に自分を磨いていって、神様のお役に立たしていただくべく何かの発願するというのがありました、前にね。発願。
願を発してやろうと思っても、一回か二回ぐらいお願いしたってだめなんです。何を物語るかって、九十五日間ぎりぎり、毎日ですよ、おこもりっていうことは、朝から晩まで祈り続けて、九十五日目に、聖徳太子さんがはじめて現れたわけです。
神社でも最低二十一日です。二十一日間、雨の日も風の日も、途中一日休みましたらもう一回一からはじめるわけです。
ま、そのあたりをね、准胝観音さんの吉川さんがやりました、准胝、千日間は一日も休んじゃいけない。
一日休むともう一回やるんだと。それでは長いんですけどね。とにかく、それだけやってたら守護神、守護霊も感動してやりますから、お蔭がある程度あるはずなんですけど、ひとつのね、千日間なぜつづけるかという。
まあ富士山を開かれた長谷川角行という富士講をつくられた方ですけども、三千日間おこもりをして、山の中で、富士山ですよ。
あの冬の中で、富士山どうやって生きるかですよ、三千日間。それでその富士の富士権現が感応してはじめてお告げいただいたって。
三千日間。富士権現様からお告げをいただいて、神様にお目にかかりたいということでね。
富士山の山の中、どうやって食べたかですよ、食糧。断食をし、食糧をたって、三千日間、富士山の中腹か、ひとりで、富士権現富士権現といったのかどういったか知りませんけど、朝夕行してですよ、三千日間。三千日目に富士の神様が感動して現れた。それがまあ富士講つくった方です。
お山こもった人っていうのは、それだけの命がけの決心で、神様にお目にかかりたい、ご神霊と一つになりたい、神様にみ教えをいただきたいっていうのは、それだけの気持ちと気迫でやるわけですよ。
だからルンルン気分で片手間でやってたって、なかなかルンルン気分のものしか出てこないです。
はじめてご神霊が出てきたら、後は何度も交流の仕方はわかりますけど・・・、そのひとつの段階を越そうと思ったらやっぱり継続して、発願したんだったら神様に向かいつづける、祈りつづける、そこに間をあけない。お願いしたりしなかったりっていうんじゃない、一意専心にものごとをやりつづけて、何日目かにこう…。
だから、口と心と行いといいましたけれど、その行いというものは、この誠というのは何に現れるかっていうと、継続ですね。継続は力なりって受験でもいいますけど。
神様は、これを誠の現れとして受けとってるわけです。
そうですよね。結婚してくださいと。顔も不細工だし、頭もたいしてよくないし、全然もてない人間でも「花子さん、好きなんです」というかたちで毎日毎日日参して、もう執念で、執念のヘビでやられるかもしれませんけど、悪い人間でなかったら、やっぱりね、男は押しだと。
どこまでも押し一筋だなんていいますよね。「はあ、私のことをそんなに思ってくれてるのかしら」と思ってね。
まあやっぱり日参。日参するという。これはもう神社参りでも、これから日参する。新しい取引先にレコードを売りに行くにしましても、日参して、毎日毎日、「神よ、レコードを売らしめたまえ」と(笑)。
すばらしいレコード会社と出会わせたまえと思いまして、毎日毎日日参する、レコード会社に。百日日参すると。百日目に何かの形で、全然知らなかった人から来るというのは神様が来てる。
やっぱりこれ、法則なんですよ。神霊を動かしてる、神霊と一つになるというひとつの法則。継続的にひとつのことを祈りつづけていく。
これが、ひとつの大きな基本原則ですね。親鸞上人の百日間のおこもり、これを、せっぱつまった気持ちで継続してやっていく。
伊藤一刀斎の話にしましても、二十一日祈願というかたちで神社でやってる。二十一日間、長いですよ。
毎日毎日、神社へ行ってお百度百回踏むんですからこれ、夜に。丑の刻参りとはちょっと別ですけどね(笑)。二十一日祈願、雨の日も風の日もやるんですよ。
たとえば何々の病気が治りますようにとか、縁談ができますようにとかっていうのは、ひとつのこと二十一日間やるんです。
本当にご神霊のいらっしゃるところならご神霊が感応して、必ずや満願の日に叶えてくださるという、それだからずーっと古くからこのかたちは継承されてるわけです。
これは、みんなの日常生活の守護神、守護霊さん、ここのの神様、諸々の自分の人生の職業のこととか、それから芸術性、何かの。伊藤一刀斎、「剣術の極意を悟らしめたまえ、会得ならしめたまえ」。
ですから、作曲の極意、絵の極意、何かの自分に合った就職口出ますようにとか、病気を治したまえとかね。こういう能力が授かって世のため人のために役立つような、こういうものを、能力を授けたまえと。
ひとつのことを継続的に願いつづけると、必ずや通じます。
その願いが間違ってるものだったら、「その願いは間違いだ」という人が来「ばかもの!!」という大きな怒りをもって、間違ってたということが二十一日目にわかったと(笑)。
それでまた新たな二十一日間、正しい方向へ祈りつづけると。必ず進んでます。進歩してます。これを忘れないでほしいんです。大事な基礎です、これは。
深見先生、若き日の失敗談
それで、ここで気をつけなきゃならない点ですが、神霊と一つになる方法でね、継続的にやるということで、私がここでミスをしたことがあります。
言うと恥ずかしいことなんですけども、ここはひとつの大きな基本原則がありますので、注意していただきたいんですけども。
私が大学の二年生ですかね。二年生だったときに、神様に祈願を立てまして。私は大学で、まあ同志社の英語クラブで四百人部員がいました。五十人ぐらいのグループがありまして、これが七つあるんですよ。
五十人ずつくらいいるんですよ、部員が。その上にそのセクション、スピーチとかディベートとかいろいろやるセクションが五つありまして、計四百人ぐらい部員がいる。まあひとつのサークルとしては、一番大きいんです。
それで私がこの一グループで、とにかくこの、もう少し組織がよくならないかとか文句ばっかり言いまして、よかれという善の気持ちでですよ。
私は、昔から全然無欲な人間ですから、地位とか名誉とかお金とか、そういうのよりも、とにかく神様のお役に立たせていただきたいと。しかし自分の能力というものは限度があるわけです。
だから、ひとつの家庭だったら家庭、自分のおかれているクラブだったらクラブ、大学生だったら大学生という位において、「君子その位に素して行い、その外を願わず」というかたち、ありました。前にお話ししたと思うんですけど。
で、そのおりに、たとえば大学生だったら大学生の中で、どれだけ世のため人のために役立つことができるのかというところで、とにかく自分のおかれているこの環境をよくしていく、家だったら家をよくしていく。
自分がおかれてこの場所だったら、そのおかれてる場所を最高に素晴らしくしていくということで、自分の能力が増えていきますと、もっと大きく出てくる場があるわけですよね。
とにかく、只今おかれている所をよくしていくんだということでいきづまりまして。私のその、これ和歌山の人なんですけど、Kさんという人がいまして「そんなに文句を言うんだったら、権力を握らなければよくできないだろう。
だからお前は、そんな文句を言うんだったら中央委員に立候補して、自分の手でここを改造せえ」と。
いわば立て替え立て直しですよね。「改造せえ」とそう言ったわけです。そのときに僕はビーンと何か胸に響くものがあって、その人が「絶対にお前はそうせえ、そうせえ」と。
会うたびに言うんですよ、「そうせえ、そうせえ」と。だから神様によくお伺いして、やっぱりそうなのかなと、なるほどそうだと。
本当によかれという気持ちがあるんだったら、自分の手でよくすればいいと。文句言うだけだったら、あくまでそれは非体制側の人間ですから、文句にしか…。
だから「辛抱してでもいいから、とにかく権力を握らなければお前はよくできないよ」と言われまして、そうだなあと思ったわけです。
そのときから願を立てましてね。ディベートの試合という・・・、細かい話ですね。みんなにお話しするべきかと思ったけど、やっぱりした方がいいって(神様が)言うんで話しますけども。
ディベートって試合あるわけですよ。これは二人制と五人制ってのがありまして。肯定と否定、アファーマティブとネガティブに分かれましてマッチがあるんです、七つのグループの代表者で。
そこで優勝した人がだいたいここの、全体のプレジデントになるわけです。四百人の部員ですから。大学の中でも一番量的質的に高くって、五十二年の伝統があるわけです。
で、ああそうかと。これに勝たなきゃなれないんだからというんで、語学力もね、一生懸命勉強してましたから、まあたいしたことないですけど、とにかくこれに試合勝たなきゃいけないと。だいたい通例化してたわけです。
そのときね、だからグループの二十何人のメンバーも、半田君(深見先生の本名)を中央の委員長になるように推そうというんで、とにかくこの試合に勝とう勝とうと、みんなが協力してくれて、そうしようという動きになったわけですよ。
そこで、私がその、この法則に則って――ここからが恥ずかしい話なんですけども、祈願立てまして、ああ神様、自分が願立ててね、そうしようというのが何度も何度もその先輩が言うし、皆も言うから、それが天の意志なんだろう。
じゃあそうしようというのでこれに勝たなきゃいけないと。
だから祈願をしまして、なんとかこれ勝てて、ちゃんと出て、要するにこの大学生たいしたことありませんけど、その中での立て替え立て直しができて、ま、世の中に貢献できますように。できるかどうかという自分自身の戦いですから、そうしようと。
自分の大学生活というものはいろいろ・・・、まあ大学生のときしか遊ぶ時期はない、これも真理だと思いますけど、大学生のときしか勉強できない。これも真理ですよ。
どちらを取るかは本人の自由なんですけど、自分は、アルバイトもなく旅行も一度も行ったことありません。とにかく、四年間ビシッと全部、いかに神と一つになるか、いかにみろくの世のご用に役立つような人間になれるかという自分との勝負だと。
四年間これにかけようと思って、一切、いわゆ普通の大学生が楽しそうにしてることは、よだれは流しませんでしたけど「いいなあ」と思いながら「しかし私はこれに生きるんだ」と発願しておりましたんで、これもそうだと。
それで毎日毎日何をしたかといいますと、毎日祈りつづけるというのは、今でもみなさんよくご存じのように、何時間でも祈りつづけられる人間ですけど、当時もやっぱり毎日練習ありまして、二時三時まで練習がありまして、ハードですよ。
土曜日、日曜日とか祭日ったって、一日に十七時間から十八時間ぐらい練習するんです。英語でね、全部。これ、全部英語でひとつのテーマがあたえられて勝負が決まる。ジャッジがいまして。
それで、「水浴びをしよう」と。「自ら清まらなければいけない」。…恥ずかしい話で言いたくないんですけど、みなさんの参考のためと思いまして。
毎朝水浴びったって、別に滝に打たれるわけじゃありませんけど、お風呂で水を流しまして、六時に起きて水浴びするんです、三十杯。冷たい水で。
雨の日も風の日も。ディベートのマッチは十二月ぐらいにありますから…十二月かな、十一月の終わりぐらいかな、毎朝毎朝水浴びしてた。
もうそれは夏ぐらいからありましたんで、バイブルキャンプじゃなんじゃってありましても、合宿で英語の勉強で僕は、バイブルキャンプに五泊六日行ったことあるんですけど、そのときにも「はい、僕は朝水浴びしなきゃだめなんです」と言って、神様に「一日三十杯、必ず水浴びする」っていう決心しまして。
とにかく朝六時に起きまして、バイブルキャンプの人たちが、外人とかいろいろいますけども、まあそのときにキリスト教の勉強をよくしたんですけど、朝六時に起きて水浴びするんです。
神様に誓ってるから。これ勝たないと、神様の意志が遂げられないというんで、朝六時に起きて水浴び三十杯。それは飛騨高山の山の中で寒いですけども、心頭滅却すれば火もまた涼しと(笑)。
ちょっとそのときはもう、若かったですからね、私も。水浴びを一日三十杯するわけです、毎日どこへ行っても。
ゼミの合宿がありました。ゼミの合宿で、僕はゼミの幹事してましたから、やったときでも、必ず合宿所で朝起きたら六時に水浴び、絶対やるんですよ。もう六時に必ず起きると決心してやってた。
そのときにつづけて、つづけてですね、毎日毎日三月ですか、半年ぐらいですかね。主にまあ三ヶ月間、ディベートの準備というんで、毎日毎日毎日毎日まさに継続したわけです、百日以毎日毎日祈りました。
必死の思いで一日何時間も祈ったでしょうか。
親鸞上人に負けないぐらい祈りました。毎日神様に約束したように身を清めてと。身を清めて神様に、失敗がないようにさせていただこうという、本人は謙虚な気持ちですけども、毎日毎日水浴びするわけです、三十杯。
もう十月、十一月、十二月になったら寒いですよ。それでも六時に起きて水浴びするんです。一日必ず。
そうして、まあ私たちの、この「マーズ」というね、火星っていうグループだったんですけど、一応メンバー的にも実力的にも一番、最優勝候補です。
その優勝候補の中でも私のグループは有力メンバーを揃えまして、私がそのネガティブのヘッドっていうの。一番難しいんですよね、ネガティブのアイスブレイク取っていくのは。
柔軟な思考力と語学力と論理性がなければダメだと。相手の出てくるのを聞いて、逆に反駁するわけですから。これを何十時間もやるわけです。マッチは三十分くらいかな、ディベートは五人制ディベート。
それでとにかく、いよいよ勝負の日が来まして。何カ月も毎日やって、まさに親鸞上人も顔負けというくらい継続でやったわけです。
ところがそのときに、そのときにですよ。実力的にも語学的にも人数的にも、グループが四つもありましたから、そのチームが数も実力も一番でしたから。
それで、最有力候補といったんですけども。万全の体制で臨んで、優勝候補筆頭にあがってたわけです。ところが四チームあったうち…、人数の少ないところは一チームしかできないんです。
マーズは四チームできたんですけども、四チーム全部一回戦で負けたんです。
一生懸命やってやって、あれだけやったのにどうして負けたんだろうかと思って。僕は決して自分のよかれというわれよしのつもりでやったとは全然思えない。
絶対にクラブのためによかれ、みんなのためによかれと思って、絶対に愛で帰一してた、真心だったと。
そしてこんなに発願をして、毎日毎日毎日毎日祈願をして参籠しまして、決死の思いで一日も怠ることなく、精進努力し神に祈りながら自らも努力したわけです、もうぎりぎりまで。なぜ負けたんだろうかと。
まず私のところが負けました。他のチームどっか一個勝てばよかったんですけど、四チームが全部。だからみんなが信じられないというふうに・・・。苦い経ありました。
どうしてなんだと。僕は神前の前でぬかづきまして、涙ながらに神様に訴えた。なぜ僕は百日間、毎日毎日あれだけの努力して苦労して、クラブのためにみんなのためにと思って、水浴びも怠ることなく祈りつづけて継続したのに、神様どうして聞いてくれなかったんですかと。
ご神前の前にぬかづきまして、私は今でも覚えてますけど、神様に涙ながらに訴えたんです。
「どうしてですか。僕はどこに私心がありましたか」と。「自分のためにと思って、自分がこういうふうになりたいから権力を得ようと思って、そういう私心をもってしたわけじゃありません。
先輩がああいうふうに言うから、どう考えても神様の方もこの意志だと私が思ったからしたんであって、別にそんなことを僕はするために来たわけじゃありません。どこに私心がありましたか。
どこに怠りがありましたか」と。神様に訴えつづけたわけです。全部負けちゃったから。
で、一日間、二日間、ボーッとしましてね。全部一回戦で負けちゃったから。みんなだって信じられないっていって。神様というのは、本当に世の中に神とはいるのかと。
神様って本当にいるのかと疑ったわけじゃありませんけども、文句言いたくなりまして。茫然としてたわけです。一日ね。
その後でハッとわかったのは、まあそのときに、『霊界物語』をもう一回見たときに、何かで閃いたんです。ハーッそうだと。僕は執着心があったんだと。もう何ヶ月の、三月か四月の間やった結果悟ったことは、「執着心だったんだ・・・」と、ご神前で気がついたんです。
結局、世のため人のためにって至誠ですけど、真心はありましたし、私心は全然ありませんでしたけど「よかれ!」という愛ではなくて、これをこうするためにはこれに勝たなきゃだめだと。
ひとつのものに、善なるものをね、足もとから素晴らしくよくしようと思うんだったら、まずこれを勝たなきゃだめだと。そうするためにこうしなきゃならないんだという形の形の物事に勝つと。勝負に勝ってそうならなきゃいけないんだと。
要するに、最終的にはみんなのためなんだけど、やってる自分というのはこのものごとに対する執着心で祈ってた。
「ああ執着だったんだ・・・。執着心で僕はおおわれてたんだ・・・」ということが、そのあと二、三日して気がついて。
「間違ってたぁ・・・」と思って、神様にまたひれ伏しましておわびをして、すいませんでしたと。私は知らない間に、みんなのためによかれと思って一生懸命精進努力しましたけれど、ものごとという事柄に心を着して執着心を強くしてたんです。
ですから法華経の人ってのは「南無妙法蓮華経!」というかたちでやっていますけどもね、あれはとにかく法華経の奥に、祈りは通じるかもしれないけど、祈りすぎるとダメだってよく僕は言います、
S学会の人にね。わけもなく言うんじゃないんですよ。こういう苦い経験をいたしまして、執着心だったと、祈りすぎて。
過ぎたるは及ばざるがごとしと言いますけど、執着心の虜に僕はなってたんだと。執念ですよ、もうね。
で、それで神様の前で反省いたしまして、もういいと。別にそんなの、もとはそういう気持ちだったんだから、別にそんなのならなくたって、一部員でとにかくいいと。
平々凡々、普通の部員で役立てばいいんだと。みずからの執着心が己をあやまったもとだったと非常に改心いたしまして。
そうしたところがね。そう思ったわけ。もういいと。リーディングルームというところがあって、僕がそこで、そういう気持ちでサッパリとしてね。自分の間違ってたところ、神様の目からみて間違ってたっていうところで、もう改心してあきらめた。
もういいと。一部員でいいんだと。そして、リーディングルームというところで僕は、ボーッとしてニューズウイークかなんか読んでたんです。英語をゼロから勉強していって、少しでも語学力の向上に役立てばいいと、後輩を。
そうしたところ、M君というのが来まして、これがまた和歌山の人なんですよ。和歌山のT高校、一番有名な進学校。このM君と僕というのは競ってましてね。
僕はもうなんでも「みなさんやりましょう」という人間だけど、むこうが「合わない」と。
「どうしたの、半田」と。前日に夢を見たんですけど、そんときは何でもよく夢を見るの、夢のお告げが多かったんですけど。
M君、「どうしたの、半田」「いやあ僕、そういうかたちでディベートやろうと思ったけど、もう一部員で、こういう気持ちでしてたんだ」って言って。
するとM君が、「そういう気持ちでお前してたんだったら、立候補するだけせえ」と。だめでもともとだけども、そういう気持ちでお話して「僕もそういう気持ち知らなかったから…。パンフレットに刷って、みんなに配れ」と。こうM君が言ったの。
「手伝ってやる」と。今まで一番自分の、一番自分のライバルだった人間がそういうふうに言うんですよ。
「うん、そうかな」っていうんで、八時間かかって僕がこんなに、十何ページのものを書いたわけです。
いいと。やるだけやってあれだったらいいから。そして聞いてみたら別に、その、慣例としては、これに勝った人がなってるけど、別に誰でもいいんですよ。
「それは君、慣例としてはなっているけども、別にここで勝たなくっても、次期立候補は自由にしていいんだよ」と。
でも僕はもう執着心がないから、そのときに。徹底的に神様に打ち砕かれましたから。
だから、M君が言うとおりに、じゃあやってみよう。そのときに前にI君とか、みんなが二十何人の人間がきてね、ガリバン刷ってあげよう、あれをしてあげようっていうかたちで、みんなが来てやってくれたわけ。ホントにこういうクラブになればいいねえっていうかたちで。
そして立候補したところが、刷ったそのパンフレットを出したのが、他の人はそんなしないわけ。とにかくカッコよくこう、優勝したチームの人が出てきたけども、僕の方がそういうふうに、本当にみんなのことを思っているんだっていうことが文面に、十何ページのパンフレットに現れてたから、圧倒的多数で私が当選したわけです。
それからまた一年間というものはジプシーのように。とにかくよくするんだということで、執着心をもっちゃいけないと(笑)、徹底的に私はこれを打ち砕かれましたので。
だけども奇跡が現れたわけです。そのM君というのがぽっと来まして。
だから発するところは、決して僕は悪心じゃありませんでしたから、ただその執着心というものがあったがために、ここで神様に大きな戒めをくらったんですけど、反省して改心して執念をもたなくなったら、たちまちやっぱり現われて。
結果としてはそうなったわけです。まあ、神試しだったと思うんですけど。最終的にそれで、組織替えも一年間かかって、粘りと根性と。
それで、みんもう参ったということで。五十何代目、長い間もう矛盾化してたやつを、完全に新しく流れを、僕一代じゃできないから、次々と改めまして、同志社ESS、僕が卒業して四年めぐらいから全国で優勝するようになった。
それまではどこへ行っても全部負け負け負け負けで、一番低迷のときだったんですけど、四年めからは上智にも早稲田にも慶應にも勝ちまして、全国一っていうのが連続つづいてるんです、今でもね。
だから大きくそのクラブの歴史を見ましたら、僕がその一年かかって組織改革をしたころから大きく流れが変わりまして、強いESSに変わったわけです。
それまではもうレジャー団体のような、お見合い場のような感じだったんですよね。まあ僕もそういうのがいいなと思ったんだけど、やってみたら違うわけ。この講義は延々とつづきますから、次回、いずれ機会があったら…。
僕の学生当時のね、まあ失敗談ですけども。それで大きく流れは変わって。そうすることが自分の神試しだと思って。
自分でやれる、まかされたところを素晴らしくすると、やり通すということが、そんなこともできない人間がみろくの世のご用なんかできないと。それが大きく実力があがってきたら、少しずつ少しずつ実力に合ったかたちで神様にご用に使っていただくんだ、という気持ちがありましたからやってたわけです。
まあそういうことがありまして、結果的にそういうふうにはなったんですけれども、この百日間の参籠というね、継続的に祈るっていいますと、私の魂にもう非常に深く(笑)。
それだけ愕然としたことで反省したわけです、体験させられた失敗を。ああ、祈り続けるということは大事だと。それでなければ神様は聞いてくれないけど、祈りすぎたら「祈る」という執着心、執念になっちゃうから、いくら発するところがよくても神様は神力出せないわけですよ。
人間の念で。これが落とし穴ですから、よほど気をつけないと、その継続的な…。
だからもう結婚、結婚、結婚、何歳で結婚、結婚っていいますと、結婚させようという神様が動いてても、本人の「結婚」という執着心で消えていくと(笑)。
ちょっとお話が横道にそれましたけど、まあ、継続して祈るという行者。
念の執着心という、ものごとの執着心をもたないようにして、継続的に祈り続けるということがありますと、必ずや、今私も紆余曲折があってしくじりましたけれども、途中で反省したら、結果、やっぱり叶えられるわけです。
その気持ちというものは受け取ってもらったんで。基本原則は間違いないです。ここで一区切りしたいと思います。どうも。(拍手)
