「無」とは
だから、不立文字ってね、禅宗では文字に立たないっていうふうに言いますけど、一番禅宗が本が多いんですよね。
「文字じゃない、言葉じゃないよ、理屈じゃない、真髄はそんなとこにはないんだ」というふうに言ってる禅宗の人たちが、最も本が多いです。禅宗、ほんとに。で、禅宗の坊さんほどよく勉強してる人いないですね。
大体真言宗ったら真言宗だけでしょ。南無阿弥陀仏だったら南無阿弥陀仏だけでしょ。
禅宗、形のないもんであると言っときながら、禅宗が最高だ最高だっていう、のは、本当の禅宗じゃないんですよ。禅じゃないところの禅が、ほんとの禅なんですよね。だから白隠禅師は、延命十句観音経、ああ、こらもう最高いいよと。こういうのありますよ。
で、大体禅宗は無の宗教ですからね、無というものを考えるんですよ。何にも考えないっていうことはどういうことかを考えるんですよ。
そうすると頭ん中空っぽでしょ。空っぽということはどういう感覚かなと一生懸命研究してるから、一生懸命、無、無、無って、無字の公案て言うんですけど。
無字の公案。森羅万象これことごとく、仏性が宿ると。だからどんなものでも成仏できるというのが仏の本願だろうと。しかし、精進努力して、初め仏性を得るということもまたあるわけですよね。
だから犬には仏性が宿るか宿らないかと。ワンちゃん。
森羅万象ことごとく仏性宿るということいえば、ワンちゃんも仏性があると。犬にも仏があるんだと。しかし、悟って初めて、人間のように修業して悟って初めて仏、仏というものがなるんだよということ考えたら、犬は別にね、お経読むわけでもなく修業するわけでなく、犬は犬ですから。果たして犬には仏性はあるや否やと。
あると言っても間違いだし、ないと言っても間違いなんですよ。しかしあるということも言えるし、ないということも言えると。前言った、ね、陰でもなければ陽でもない、陽でもなければ陰でもない、理屈じゃない世界です。
それ「無字の公案」ていうんですよ、最初にね。ワンちゃんでやられるんですよ、無、無、無、無って言って。
さて、犬には仏性があるかないかっていったら、「ある」と言ったら「馬鹿者!」と言われるわけですよ。「ありがとうございました」と。違う。無、無、無と。
さあ、犬には仏性があるか、「ない」と言ったら「馬鹿者!」と言う。あると言ってもないと言っても馬鹿者、馬鹿者と言われて間違ってる。
あるかないかというその境地が、あるかないかっていうものを乗り越えた世界で言ってるかどうかで頭で考えちゃだめ。「きっと僕はある方だ、なぜならばこう思う」なんていうんで言っちゃ、もうだめなんですよ。
それが悟ってきますと、「森羅万象これことごとく仏性宿ると言われている。で、さて、犬には仏性があるやなしや」と。で、「ある」「その通り!」。よくできましたと。「森羅万象ことごとく仏性あるか」「ない」「その通り!」と。あると言ってもないと言っても、よろしいというわけですよね。
悟った人っていうのは、あると言ってもないと言っても正しいわけですよ。だから白隠禅師はそういう意味で、もっと大きく禅宗というものにとらわれないで見てて、その無というものを人間が、禅宗は考えていくと。そうじゃない場合もいいと。浄土宗というものを非常に白隠禅師は大切にしまして、浄土真宗なら浄土真宗でもいいと。
こういう話してる。おまえは誰かと、ある人が聞いたんですよね。「私は阿弥陀如来でございます」と答えた人がいるんです。浄土真宗してる人で。禅の坊さんに。
「私は阿弥陀如来でございます」と。それじゃあ聞くが、阿弥陀如来とは何か。「私でございます」という答えが。自分が阿弥陀如来か、阿弥陀如来が自分かもうわかんないぐらいまでに、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と言っている。
仕事をしながら南無阿弥陀仏と言うんじゃないんだと。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と言ってる自分が仕事をしているんだと。そういう世界いってますよね。
だから白隠禅師は、無だったら無で徹しなさいと。禅宗は無の宗教だから、無ということを考えて、無に徹することによって、本来の自分というものが出てくるんだよと。
観念をはずして。で、それだけじゃないよと。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏いうんだったら、どこまでも南無阿弥陀仏で、自分が阿弥陀如来か、阿弥陀如来が自分かわかんないぐらいまでになった場合に、それも無念無想で、本来の自分が出てくるよと。
どちらでもいいんだ、一番いけないのは中途半端だと。無にも徹しきれないし、南無阿弥陀仏にも徹しきれない。それが一番よくないと言ってますよね。
その無念無想と言うけど、無念無想は初歩ですよね。人為的な無念無想が乗り越えまして、神様とか、美とか、芸術感覚、一体となってしているというのが、神様の世界に入っていくわけですよ。
【植松先生】これ、足していってね。全然、何も知らない無じゃなくってね、こういうものをどんどんどんどん足していくわけ。
足していって無になっていくという。それは、その無というのは有る無なわけですよね。無だけど有る。全然ない無じゃ何も出てこないわけよ。潜在意識を動かすことができない、ね。
だから、足していきながら捨てるね。足していきながら捨てていくという。
【深見先生】まあ、足していきながら捨てるというね。無だけどあるというお話が今ありましたけど、植松先生に。それは例えていいますとどういうものかって言いますと、 1、2、3、4、5、6、7、8、9まで行くでしょ。
1をぽっと足すとへ戻るでしょ。だけど桁が上がるんですよね。
11、12、13、14、15、16、17、18、19まで行っているんだけども、そこに一厘ぼんと足すと、また0になるでしょ。で、桁が上がるんですよね、また。 21、 22、23、24、25、26、ぽんと。そういう形で0になって、次にまた、次の桁から始まっていく。
これから十の位、百の位、千の位っていう形で、いったん無になって、また進んでいくっていうことは、0へ戻る。帰っていく。
【植松先生】それだけ潜在意識にね、あの、20まで培って、0になったものは、潜在意識の20を動かすことができる。
【深見先生】マイナス20まで動かせるんですよ。ね。
【植松先生】そういう神法なのね。
【深見先生】そういう神法なの。
【植松先生】だからどうしてもこの講義がいる。講義を受けていただかないと御魂返しはちょっとできないわね。
足していっても、持ってたらだめなのね。なんか足すことによって、今までの考えとか、観念とか、知ってたことやなんかの、不必要なものは全部、離れていくわね、自動的に。
捨てなさいって言っても何捨てていいかわかんないでしょ。で、もうちょい入ってくると、そのあれが全部、自動的に捨てられる。あの、全然捨てる必要がないぐらい無い人は、どんどん積んで…。
【深見先生】足さなきゃ。これが一番手ごわいのよ。何にも知らないけど興味あるんです、って。
「禅宗を・・・」
「え、禅て何ですか」て。
「法華経って何ですか」て聞くのね。禅て何なんですかって。
「だいこくしゅしんって何ですか」
「あの、大国主神って言うんですけど」(笑)
「何それ?」
「古事記にある…」
「古事記ってなんですか」
「日本書紀」
「え?」
「古事記」はそのまま読む
えー、ちょっと今日、坂本さんとね、ご神業でお話してたことをお話しして、初級講座なんかでもお話しようかと思うんですけど、夢のお話ね。今の、足し忘れるという。
あのー、B真宏会ではね、夢とはどういうものかっていうと、守護神、守護霊がね、夢の中でね、過去の罪ね、これから起きてくる未来の災いとか、不幸、消していくんだと。だから夢があったものはそれはその夢で消してくださったんだから忘れなさいと。
夢で消えるんだったらいいですね。大体胃腸が弱い人ってのよく夢を見るんですよ。腸の弱い人はね。しょっちゅう、罪がなくなると(笑)。
そういう面もあるんでしょうけどね。ま、だから接触点ですから。夢にもあの夢、霊夢、夢ってあるんですよ。
体が苦しいときには苦しい、苦しいっというね、ああ、もう苦しく、苦しい、苦しい、今死ぬかって思うとね、シーツが足だとかにからまってまして、ね。おおー、もう助けてくれっていう、ああ怖い夢見たと思ったら、シーツの下にこう足がひっかかって(笑)。
すごいビルの上からドーンと落ちた夢を見たんだっていうと、ベッドから落ちてたりね。そういう雑夢があるわけですよ。
それからあの、霊夢というのがやっぱり守護神、守護霊さんが見せる……、霊界っていうのが、文字や言葉を越えた世界でしょ。接点ですよね、夢ってのはね。夢ってのそうですね、植松先生。それと大体カラーで見る場合多いですね。
それから神夢っていうのが、例のあの、バッシャンバッシャン魚がいたっていう植松先生が。神様がお見せになる夢ですね。総天然色、テクニカラーって(笑)そういう感じですよ。
【西谷先生】大画面ですね。
【深見先生】大画面。大体朝の五時ぐらいに見ますね。明け方。
大体そうですよ。それでなんでその話になったのかっていうと、発端は『古事記』ですね。『古事記』というのは難しいですねって話になってね。
で、『古事記』という、それ、今日は講義のパート3か4か知りませんけども、ちょっと『古事記』というものはどういうふうに見たらいいかと。
文学的に見る見方が一つあるんですよね。それから歴史学的に見ると。歴史書として見る。こういうふうな歴史があるんだと。今度は考古学的に見るという見方があるわけですね。考古学的にこれを見ていく。それから哲学的に見ていく。
日本の考え方にはこういうふうなことがいえるだろうと。ま、そういうふうな神話があったんだと。単に、神話だよという場合がありますね。
しかしそういうふうな見方は全部よくないと。『古事記』というものは、稗田阿礼という人は非常な霊能者でしてね。
確かに歴史的な事項とか文学的な要素、哲学的な、そういうふうな要素もふまえてはいるんですけど、夢の世界のような形で、やっぱり神霊界の有り様を『古事記』で説いてるんですよ、歴史そうじゃないと、伊邪那岐と伊邪那美が来てポッポッ、国が出たとか、剣をこういうふうにしたらそこから神様が出てきたとか、ハッと息吹の狭霧にます神の名、多紀理毘売。首からあれがパッと五人の神様パッパッと出たと。
そういうふうな形でね、夢の世界では、体から人形がポッと出たりね。食べ物がお話したり、「内はほらほら、外はすぶすぶ」とか、あのー、大国主命さんが、ねずみにね、助けられたでしょ。
「内はほらほら、外はすぶすぶ」か、助けられましたよね。ねずみがお話したり、うさぎさんがお話したり、ワニがなんだっというようなことは、夢の中じゃよく言いますよね。ねずみが言ったり、鳥がお話したり。例えばその夢のような世界を描写してるんですよね。
だから神霊界の有り様だと思って、哲学的にも文学的にも考古学的にも歴史的にも考えないで、それはそのまんま音読するのがいいんですよ。
血液の中に『古事記』というものを入れていくと、なんかのときにハッとひらめくんですよね。で、何通りでも考えられるんですよ。
だから、宇宙工学で『古事記』を見たってな本が出たりなんかしてます。
人間の精神面をいってるとか、歴史的にこうだっていう、観念で見ちゃだめなんですよ、『古事記』は。そういう魂の歴史、神霊界の有り様ですから、それはそのまんま素直に見て、できたら音読して、そうかーというふうに同じように夢の中で、夢の世界の中に自分が入っちゃうわけですよ。
そうすると神霊の世界と交流するんですよね。そういうふうに『古事記』は見なきゃだめなんですよ。
浄土宗とキリスト教
【七澤先生】お経もそういうふうに…?
【深見先生】いや、お経はどっちかっていうと理屈で、理論的に。心の世界ですからね、お経は。
【七澤先生】でも、サンスクリット語、音はそのまんま残ってるでしょう。
【深見先生】そうですね。それは真言ですね。オンマカギャーラーヤーソワカとか。これは大黒天さんの真言ですけど、いろんな真言とか、神様の名前っていうのが出てますね。真言はそのまま書いてますよ。陀羅尼もね。アニマニママリシレシャリテなんて、それはそのまんまが、サンスクリット語が出てますけども。
【七澤先生】あとは違うんですか。
【深見先生】あとは意味ですからね。大体インドの鳩摩羅什という人が漢訳しまして、それを日本訳してますから。ですからインドと日本との交流がありまして、解釈の仕方、いろいろありますけどね。
だから要するに心の世界を綿密に説いてますから、そういうもんだなと、生きてる人が見なきゃだめなんです、あれは。
【植松先生】結局ね、日本人にとってはさ、漢文ね、全部大和言葉に直さないと意味が通じないですもんね。なんかこう、ものすごい無駄な労力ね。あのまんま読んだって全然イメージが。
【深見先生】だからこれ、霊障でね、(救霊のお取り次ぎで)霊に言う場合、
お経の浄土三部経とか、法華経のこれはっていうのを「要するにこうで、阿弥陀如来様こうだよということを信じて南無阿弥陀仏と言うのと、ただ南無阿弥陀仏と言うのと違うでしょ」と、浄土真宗のエッセンスを手短に言霊で言うんですよね、霊に。「ああ、そうか」と。
阿弥陀如来様というものの本願は、いかなる人も救ってあげよう。それが阿弥陀の本願だよと。「だから浄土に救われる、阿弥陀如来さんはそうなんだ」と信じて南無阿弥陀仏っという形で言わないと、阿弥陀如来さんと内面で交流しないんですよね。
ただ南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と言って、唱えるだけじゃだめなんですよ。法然上人のいうところの南無阿弥陀仏は。
だから、「ああ、浄土に救われる、阿弥陀如来さんの本当のお気持ちはそうなんだな」ということをイメージでこう出して、「阿弥陀如来様は救ってくださるんだな、極楽浄土はこうだよ、こうだよ、チョウチョが飛んでたりね、お花が咲いてたり、そういうのが極楽浄土だよ」ということを思い浮かべながら、信じたらきっと救われると思って南無阿弥陀仏と言ったら、パッといらっしゃるんですよ。
「来るかな、来ないかな、ちょっと言ってみようかしら、そんなんで救ってくれるんだろうかな」と思いながら南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏ってね(笑)、いくら言ったって、阿弥陀如来さんなかなか来ない。
まあ、キリスト教的要素は多いですね。信じる者こそ救われると。信じたら神の国へ行くけど、信じなかったらだめだっていう、信と愛ということをやっぱり、尊重してますよね。
非常に浄土真宗、浄土宗というのと、キリスト教は似てますよね。どんな人でも、「我生きるにあらず、キリスト我にありて生きるなり」なんて言って、イエス様って言って、自分が生きてんじゃないと。
イエス様が私を機関として、私という肉体の中に、イエス・キリストが、中に入って生きてると。「我生きるにあらず、キリスト我にありて生きるなり」と。私というのが生きてるんじゃないんだと。
もうイエスさんと一つだと。イエス様が私の中にいて生きておられるんだと。
そうですよ。「我生きるにあらず、阿弥陀如来我にありて生きるなり」と。自分が阿弥陀如来か、阿弥陀如来が自分がわかんないぐらいになっちゃって「我生きるにあらず、阿弥陀如来我にありて生きるなり」と。
同じですよね。そういう気持ちでイエス様って言ってイエスを信じて、賛美歌あげていくのと、阿弥陀如来様と信じて南無阿弥陀仏と言うのと。
般若心経でも無になるということを懇切丁寧に、理論的に。見たり聞いたりするもの何もない、何もないということも思わないぐらいに何もない、そういうことも感じないぐらいに何もないというところに、それほど何もないんだよと。
だから何もないんだよと、いうぐらいに「無い」ということをずーっとね。
見たり聞いたりするものはないよ。受想行識亦復如是、五感。見たり聞いたりしたもの全部ないと。そんなの全部空しい。生老病死苦、不生不滅、不垢不浄。空ということもなく、色ということもなく、滅するということもなく、生まれるということもないと。不生不滅ですよ。生ぜず滅せずと。もう徹底的に、そういう分別の、ないんだよと。
だから、その、阿耨多羅三藐三菩提っていうのは、わーっと恍惚とした気分なって、羯諦羯諦 波羅羯諦、波羅僧羯諦 菩堤薩婆呵、此岸から彼岸へ渡れ、渡れ、渡れと。
地位とかお金とか名誉とか財産とか、娘のこととか息子のこととか、お父さんやお母さん、田地田畑、描き残した絵のこととか、心配するなあの世の集金のことなんかも心配しなくて、死ぬときには、ぎゃーてーぎゃーてーはらぎゃーてー、ぼうじそわか、という気持ちで行きなさいよと、いう意味なんですよね。
だからサウンドがいいですから。はんにゃーはーらー、みーたーしんぎょう、なんて言うと、霊は、はんにゃーはーら、こういうふうに(踊っている)(笑)。だけど、意味がよく、そのことを悟んないと、霊界でビシャッとついちゃってるままになってる。サウンドがいいですからね、ヒョイヒョイヒョイヒョイ喜んでますよ。
だから、供養してあげて般若心経やると喜んでますよ。気分いい、気分いい、もっとやってって言うんですけど、その世界で踊ってるだけですよね。決して上に上がるっていうことはないですよ。供養したってだめですよね。神様や仏様が救わないとだめなんですよ。
観音様が雲に乗る理由
【植松先生】でもね、自然とね、そうしてほら、軽くなるでしょ。
【深見先生】軽くなる。
【植松先生】自分が軽くなると浮くでしょ。浮いてこう、フワフワフワフワ浮いていけばね。何もなかったら浮くわけです。で、浮いていけばね、その次元へは神様がある程度降りていらっしゃる。そういう近くなったらね。神様手をこう引っ張ってくださるところまで、自分が浮いていかなかったら。
【深見先生】そうですね。
それはね、あの、観音様見てみますと、雲の上に乗っかってるでしょ、観音様って。龍の上乗ってる観音様ありますけど、大体、あの如来とか、菩薩なんか雲の上にこうフワーッとこういらっしゃって、きてるでしょ。神様でも、如来でも、絵見てますと。
なぜ雲の上に来て・・・・・・。雲とは何かっていうことなんですよ。仏さんを信じて、一生懸命、気持ちでああ救われたいとか、神様と仏様と祈ってるその思いの雲が、自分の方からこうフワフワフワフワと上がっていって、向上していって、神様と継続的に。
神様とか仏様というのは、一回パッとお願いして終りじゃなくって、毎日毎日お願いしてたら、その継続して積み重ねてるという真心が、雲になるんですよ。白い雲に。
真っ黒な雲というのは例えば霊的にいうと、思いとか執念、執着ですから、真っ黒な中にいますよ。しかし真っ白な雲は、澄みきった真心のそういう気持ちが雲になって出ていって、観音様をお迎えするわけですね。
その雲の上にパッと立たれて、下にいらっしゃるわけですよ。それが、あの、二十一日間とか千日間おこもりをして、啓示を受けたとか、産土さんでしたらお百度参り、二十一日間、Yさんだったら三千日間、そういう雲を作ってるわけですよ。
作っても作ってもタヌキが上にポンとこんななって(笑)、いますけども。虔な気持ちでやってる場合はね、やはり神様ね、見ておられる。
【植松先生】それもそうよね。思いで雲にしちゃってるのはだめですね。
【深見先生】そう。ただし真っ白な雲じゃないといけないんで、「これで何と財産が作れますようにー」と、「南無妙法蓮華経、願わくは息子が大学に合格…」と、それは執念になるんですよ。祈り過ぎますと。
私も経験あるんですけどね。神様に毎日毎日斎戒沐浴して、滝に打たれちゃいけないということなんで、毎日毎日、お風呂で僕は、二年間か三年間か、朝六時に起きまして、毎日斎戒沐浴して。
毎日冬でもどこでもバイブルキャンプだなんて行きまして、もう六時に起きて一人で水浴びしてるんですよ、三十六杯。馬鹿なことしたと思いましてね。いろいろ私も・・・。
それでもやっぱり、執念なんです。一つのことを叶え給えと。世のため人のためなんだけれども、世のため人のためにするという物事に着してるんです。
それが雲は雲なんだけども、執念になっちゃっちゃあダメなんですよね。自分自身でがんじがらめになって神様にえらいとがめられまして、上手くいかない。
「あー、執念だったんだな」と。そういうふうなことを紆余曲折、何度も失敗して、大体祈っても祈りすぎないと。神様に継続的にお願いしても……。
「何が何でも」、法華経の人たちに多いですよね。南無妙法蓮華経、信じて仏様にすれば絶対やれるんだっていう、そういう面もあるんですけれども、物事に、一つのことに着しちゃうんですね。そうすると神様が来ようと思っても執念になってるから、それ真っ白な雲じゃないから、黒くって、神様も助けようと思ってももう、助けられないんですよ。
だからある程度お祈りしたらお任せしなきゃダメなんですよ。一生懸命お願いするけども、どういうふうになるかは。
例えばね、Kさんのために、いま、Kさんのために良かれと思って、Kさんが幸せであって病気が治りますようにと。
しょっちゅう毎日毎日、Kさんが病気治って、幸せでありますようにと祈りながら、「幸せになって、お嬢さんがこうなりますように」とか、「こうなって白髪が黒くなりますように」とか、例えばね。
白髪が黒く白髪が黒く、それがKさんのためにという真心が、白髪を黒くするという・・・いい例えじゃありませんけど、そればっかりなっちゃうと、白髪を黒くするという執念になるんですよ。これ三千日間続けますと、も、白髪が赤茶けて(笑)、執念で。
それは、欲するところは自分のことじゃないですよ。自分自身のことじゃないんですよ。人様のためにとは思っているんだけれど、その人のためにというものが、白髪は白いままの方が良かったかもしれないんですよ。
真っ白なままの方がどちらかというと毛染めビゲンが上手く染められると(笑)。かえって、ところどころ黒いとね、毛染めが上手くいかない。
だから「Kさんがきれいになりますように、立派ないいおじいさんでありますように」とお祈りしてたら、それは神様が考えられて、その人にとって一番いいような形でしてるんですけど、そっから踏み込んで、物事に着しちゃうと。
「世のため人のために仕事が役立ちますように」とお祈りすると。世のため人のためはいいわけですよ、販売を通して、もいいわけですよ。
それ、「販売を通してそれからいくらぐらい入ってきて…。」ま、聞いてくれますよ、守護神、守護霊さん。
ところが知らない間に、販売した数字とか、「組織が大体何人ぐらいになったらよくなってこうすることができるから、故にいくらぐらいでなければ相手のためにならないから、いくらぐらいに」ということで、具体的な物事の方に移っちゃって、本当は販売を通して世のためにという気持ちだったのがそういう方向へ行っちゃうんですよね。そうするとこれ方向違う。
これは自分の我が入ってるんですよ、我が。欲も入りますし我が入ってるんです。自分なりの見識、見解がその中に入って、だからこうでなきゃならないと自分で思い込んじゃってて、神様にこうしてくれって言ってるわけですよね。
順序が逆になってんですよ。神人合一っていいますけど人神合一と。人がそうだったら神様の方から人へこう来るんであって、それがね、真っ白な雲を出すことによって神様がパッとそこにいらっしゃって、功徳を与えて下さるんですけど。
得てして一つのことでお祈りし過ぎる人、お祈りし過ぎる人の陥る欠点はこれなんですよ。執着の雲を作っちゃうんです。法華経の人に多いですね。何でも法力でやれると思って、もう、息子の入学からなにから、顔見たら、もう執念(笑)。南無妙法蓮執念っていう感じですよ。そういう顔してますよ、皆、こういう感じでね、あれ。
