同じ題目でも霊力は違う
それからこういうことあるんですよ。同じ南無妙法蓮華経でもね、今言った内面の話ですけども、今日の講義のあれですけども。
例えば、日蓮上人がまぁ一回、南無妙法蓮華経とお願いしますね、そうするとその、日蓮上人を首斬ろうとした人の刀に雷がガラガラッと落ちまして、お役人が死んじゃった。落雷で。みなさん驚いて。
日蓮上人が一回、南無妙法蓮華経と言えば雷が落ちて、あれだけの法力だと。一般の人たちは百万回、南無妙法蓮華経ってやって、ようやく息子が少し成績良くなったと。同じく南無妙法蓮華経なんだけども、南無妙法蓮華経という人の魂の位、神様に対する真剣さ、この雲のあれですね。
正しいその、神様に対する姿勢を貫き通してる内面性のある人が、「南無妙法蓮華経」というその言葉の奥に宿る法力、あるいは神力は、天地も動かすばかりの言霊ですね。
ところがそうじゃない人は、百万回「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経・・・」と真剣にお願いしましても、大したことない。
自らの執念の雲をね、ますます入り組んで。「南無妙法蓮華経」流のパックで、執念の雲の固まりみたいにしてドボッと体に付けちゃって、非常に意固地な頑固な硬い人間を形成するんですよ。
魂は全部その自らの念力がね、魂とか霊体にがんじがらめになっちゃうんですよ。
僕なんかも、例えば、「明日六時に起きて、こうしてこうしなければいけない、その次にこういう仕事があってこうやってこれがあって、何時何分でこうしなきゃいけないから明日絶対こうしなくちゃ」っていうかたちで自分で言っ聞かせるし、神様にお願いして寝るでしょ。
一度、お話したことあると思うんですけど。それでフーッと寝てうとうととしたときにファッと自分の体が見えるんですよ、霊体が。
そうすると、紐でがんじがらめになってるんですよね、体が。もう、何重にもグルグルでこう紐が縛られてるんですよ。要するに生きながら自縛霊になってるんですよね。うん、自らの念で縛してるんですよ。「あー、神様が見せてるんだなー」と。
だからお願いはするけども、もう、これですよっていって、守護神、守護霊さんに言うとパッとこう、ハッと気づくんですね。
だから仕事仕事仕事仕事っていう人はもう、仕事行者ですよ。よく言うんですよ。神様のためにと思って仕事をする、仕事をすることが神様のために役立つと。故に仕事はしっかりしなきゃいけないと。だから明日のことっていうんで、源を忘れましてそちらの方へ着しちゃうんですよね、心が。
知らない間に。そして「何時何時何分何分」なんていうと仕事行者ですよ。仕事って無尽蔵にありますからね。「そのことは仕事、そのことは仕事、この次の仕事仕事仕事」。だからちょっとそういうふうにきたら、そのサイクルが始まりまして、仕事の自縛霊になっちゃうんですよね。
まあ、全然気がつかないでやってる人も多いですけどね。神様の鋭敏な感性が磨いてきますと自らの念でも、そう見えちゃいますよ。怖いですね。
だから南無妙法蓮華経やってる人はどうかと。南無妙法蓮華経ていう漢字がズルズルズルズルこうなって、体中あの、耳なし芳一じゃありませんけど、お経が全部書いてあって、こういうふうになっちゃって。
法華経の人っていうの、あんまりなだらかな人っていうよりも、こういう人多いですね。
いつも「(いかめしく)法蓮華経!」て言う。南無阿弥陀仏てのは「(やさしげに)南無阿「弥陀仏~」て感じの人多いすね。「(いかめしく)南無阿弥陀仏!」って言う人あんまりいないすね、どちらかというと。
そう、それでまあ、同じく「南無妙法蓮華経」と一言でもその、言葉の内面性が違う。だから天津祝詞、祝詞一回パッとあげるだけで神々様がウワーッと動く人もいたり、百回も二百回もあげても全然ちんともかんとも動かないと。いますよね。
祝詞あげればいいってもんじゃないんですよね。般若心経あげればいいってもんじゃない。南無妙法蓮華経言えばいいってもんじゃないと。文はそうですよね。これが有り難い呪文だということで、呪文あげててもちんともかんとも動かないですよ、仏さん。
その内面性というのがあってはじめて、その呪文とか、お経とか祝詞に魂とか言葉が、命が宿りまして、それに神霊とか仏様が感応するんですよね。
だから、自力の中に他力ありってのはそういうことですね。自力で一生懸命ある程度内面性を磨いて「南無妙法蓮華経」と言う、「南無阿弥陀仏」と言う、その一言で他力が動くと。単に他力他力他力とお願いしてても、自らの内面的なそういうのなければ他力も動かないんですよね。
他力と自力というものは十字に組まないとほんとじゃないと。自力信仰という法華経にしましても、そういう意味で他力の要素が、その南無妙の妙に神霊が、仏様がいらっしゃるんですよね。
南無阿弥陀仏っていいましても、南無阿弥陀仏を唱えている内面性によって随分違いますよね。ま、そういう意味でお経でも呪文でも内面を、言葉の奥の自分というものに命がありますよね。
だから、常にあの、神社でもね、祝詞あげるでしょ。そのときの境地でね、神様がウワーッと出てらっしゃるときと、一生懸命お願いしてるけど全然、ちんともかんとも神霊が感応しないときあるんですよ。
何故だろうかと思って反省するんですよね、どうして祝詞あげてお経あげて、出て来ないんだろう、神様。出てきてもチョロッと出てパッと消えちゃうと。
どうしてかなと思ったら、結局、祝詞をあげる形はできているんだけども、来たときの気持ち。
どういう気持ちで自分はこの神社に来て祝詞あげてたんだろう、御神前でどういう気持ちで自分が祝詞あげたんだろうかと、そのときの気持ちをずーっと分析するんですよ、一日。あー、来たときにこうしなきゃならないかなという執念があったな、こうしなきゃならないなという焦りがあったな、こうしたらこうしてくださいという欲心があったなと、反省するんですよね。
あー、澄み切った真心の「神様っ」という白い雲じゃなかったなと。そういう形で反省すると神様が「許す」って言うんですよね。守護神、守護霊も許すっていうかたちで。で、もう一度気持ちを、態勢整えて祝詞をあげますとご神霊がウワーッと出て。
その言霊というのは、自分で反応見て内面を振り返ると、こういうふうにしてますよね。
もっともっと上の方に上がってったら、微かなことの違いで御神霊は、「違う」と。どこなんだろうか。「ああ、あのとき、ああ思ったのが間違ってたから、自分はここは正さなきゃいけないな」と。ますますね。
その代わり、それがわかっててあげる祝詞の一言で出てらっしゃる神様のお力と、朝から晩までお願いしててもちっとも出てこない人いますよね。
霜を履みて堅氷に至る
で、そこで全然関係ない話に、えー、私も思うままにお話してるんですけど。いつもそういうときに思ってることは、『易経』にね、こういうのがある。
えー、皆さん、パート4に移るんですけど。
(板書「遠からずして復る」「霜を履みて堅氷に至る」)
『易経』の話はよく、「積善の家には必ず余慶あり、積不善の家には必ず余殃あり」っていうかたちで出てまいりましたけど、大丈夫ですか?中級から上級に入りますと、もう中級、上級クラスですね。「遠からずして復る」と。これ、『易経』に出ておりまして。
これ易にもあるんですけど、例えば祝詞をあげますね、澄み切った気持ちで、日蓮さんが南無妙法蓮華経と言って雷雨するだけのすごい法力がある。
一時はそういうときあっても、常にそうとは限らないんですね。音楽でも、一時すごい音楽だったけども毎日毎日それでやれるかと。一時スワッといい絵をSさん描いても、毎日毎日その感覚で描けるかどうかっていうとそうじゃないと。
日常生活してるうちに自然に自我というもんが出てきたりするわけで、「霜を履みて堅氷に至る」っていうことはそういうことでして。
「履みて」っていうことは積み重ねる。今日一日生活しますね、いろんな生活したり、観念というもの出てきますね。そういう霜というものは最初はなにもないところに、冬が寒いときですとプァーッとこう霜がかかる。
それが知らない間に放っておきますと、お外をパッと見たらこんなに硬い氷が張っている、雪が積もっている。このように、霜を履みて堅氷に至るというのはそういう意味です。
最初は微かに氷がピーッと湖なんかでも張りますね、氷。薄ーい、ちょっと刺すとパリンと割れちゃうんで。しかし、しばらくしたらこんなに、もう湖の底へ張るんです。
何にもない平地の上に最初は霜が微かにかかる、それを積み重ねていると知らない間に硬い硬い氷のようなものができちゃうと。自分自身の中にですよ、境地の中で。
人間生活をやっておりますと、最初は純粋で神様の道にと思っているんですけども、お金もいるし生活もいるし、主人とも葛藤するし、子供もいるし、やんなきゃいけないし、ねばならないしというかたちで生活疲れをしてまいりまして、あるいは素晴らしく音楽の世界に、美術の世界にと思っているんですけども、知らない間に人間、臭みが出てきまして。
ですから童心のような、子供のような顔してますね、達人というのは。植芝盛平さん、合気道の。
非常にあの、ファッと顔がつやつやぽかぽかしましてね、いい血色で、背は小さいんですけどもニコニコニコニコしたかたちで、もう軽やか、柔らかい、子供のような顔して、植芝盛平さん。ピストルで何発撃たれても手で受けちゃうという、お話しましたっけ?
植芝盛平さんすごいですよ。ピストルでバンバンバンバン撃つでしょ、アツ、アチアチアチアチアチと言いながら、ピストルの弾全部手で受けるんですって。
十人の人間が同時にワーッと来ても全部同時に、どんなにあの、真剣で来ても、剣で来ても見えるんですよね。だから、ピストルの弾なんか全部、あの、歯で受ける人いますけども、植芝盛平さんは「ちょっと熱いんだよね、ピストルの弾は」って言って、あの、摩擦熱で。
何発撃っても全部手で受けますよ。撃つぞっていう気持ちのときに白い気がパッと来るんですってね。撃つぞっていう、ピストルの弾が来る前に弾の気が来るんですって。
それをパッと捕まえれば弾なんだよと。だから何発来てもこうやってこう、ピストルの弾は、ね、連発で撃っても全部受けちゃうんですって、こうやって。それだけの達人ですね。やってみますか?(笑)
ま、そういう状況なんですけど、「霜を履みて堅氷に至る」。
そういうふうに、薄ーい霜をふんで、最初はそうなんですけども、人生送るにおきまして、生活疲れとか、音楽にと思っておりましてもやはり、いい音楽というよりもやっぱ生活がありますし、そういうふうに俺はっていう、ちょっと最初はできてもね、俺はっていう自我が出るんですよ、どんな人でも、アクが。
そういうかたちで、最初は霜だけども自然に硬い氷に至るもんですよと。だから『易経』では「終日乾乾、夕に惕若」って言うんですよね。
終日乾乾、夕に惕若。(黒板に書く音)そういうふうに、終日乾乾。乾は、乾坤一擲の乾、太陽の如く。さあ、今日も一日やるぞっと頑張っていく。夕に惕若。はー、今日も一日頑張ったけどあれやっとかなきゃいけなかったなと。
自分が努力したようだけどもあれはあの人のお蔭でできたんだなと。天地自然、守護神、守護霊様のご守護のお蔭でできたんだなあと。
夕べ、夕方になりましたら自らの姿勢をこう、反省しまして。夕方になったら反省してみて、省みる。終日乾乾夕に楊若ということが『易経』の中に全部・・・。
そういう生活することによって、霜が出たときにきれいにとっていくと、常に初心忘るべからず。初心の初々しい気持ちで芸術に行こう、道のやっていこうと思っても途中でブラブラきたり、やめようかと思っちゃったりするんですけど、自我慢心というものが、自然のうちに出てくるわけです。
神様の道なら神様の道。芸道なら芸道。自我慢心が出てくる前に霜が、最初は霜ですよと。そんなに急には出ないです。そのうちに自らを省みてお掃除をしていく。終日乾乾夕に惕若、霜のうちにこれを取る。
遠からずして復る
ところが終日乾乾夕に惕若というふうな人間生活をしておりますと、この霜のうちに解決ができるんですけども、ふと気がついたら、もう硬い氷という具合にかなり氷が張ってたと。
そういうときには、「あっ、自分はどこで間違ったんだろうか。
何故、こうなるんだ」と一つひとつ省みて、「あ、あのときにこういうことがあってからみんなにほめられたんで、調子よくなっちゃって我になったな」「あのときああだったんだけどお母さんと喧嘩してあれが自分の人生を狂わせたな」「ああしようああしようと、こうしようと思ったけども知らない間にああいうかたちで結婚した夫婦だったんだけども、自分の道がこうだーっといった、あー、これが違ったんだな」と。遠からずして復る。
もう、遠くの方に行っちゃったら帰って来れなくなるんですよね。神様の世界に生きていこう、道のために生きよう、大道のために生きるんだと。
世のため人のために生きようと思ってたけれども年をとってきて、そろそろ適齢期だし、生活もしなきゃいけないし、お母さんお父さんのこともあるし、ま、もういいや。
若い十八歳か十七歳の頃は世のため人のために、神々のためにと思ってたんだけれども、もう年をとってきたら、もういいやと。
もう遠くの方へ行っちゃって帰って来れないわけですよ、境地の上で。神様のためにとか音楽のためにとか世のためにと思ってたんだけど、もう帰って来れなくなります。霜を履みて堅氷に至ってしまって、自分というもの、もうできちゃう。違った方向へ、固まりがなっちゃって。
まあそういう意味で、氷がもう半分ぐらい来たときに、あ、氷が張ってしまったと。これいけない、知らない間に、あんまり手相が当たりすぎるために、守護神守護霊がやってたのに俺がやるという気持ちになっちゃって最近当たらなくなってきた。
本も一冊、二冊はよかったけど三冊目、四冊目、俺は何でも運がついてるんだと思っちゃって、謙虚に努力するということを俺忘れてたなと遠からずして復る。
元へ帰るわけですよ、霜をもう一度、氷になっても元へ帰って。終日乾乾夕に楊若の元へ帰る、反省する。これが本当は信仰心なんですね、本当の。本当の学問というのはこういう姿勢を言ってるわけですよ。
今日は儒教的な面から見てますけど。遠からずして復る。遠くの方へ行っちゃったら、もう、道を失いまして帰って来れなくなりますよと。だから常に、終日乾乾夕に惕若して霜を払い、或いはまた遠からずして復る。
遠からずして復るんですけれども、ああ、今日も僕は間違ってたと。遠くの方へいく前に、早く自分自身の本来のものに帰って反省する。神様の前における謙虚な自分というのに帰ってくる。
今度、そういうものを続けておりますと常に、遠からずして復る。ああ、また道が間違ってたと、自分自身を反省する。
こうしますと(黒板に書く音)、遠からずして復るものを続けておりますと、繁く帰ると。頻繁に帰ってくると。出たり入ったり出たり入ったり、ちょっと間違ったら、パッと帰ってくる。
ちょっと間違ったらパッと帰ってくる。ちょっと間違ったらまたパッと帰ってくると。足繁く帰ってくると。
自分自身のね、本来の自分の生きている信仰心なり、芸術心なり、絵とか音楽とか夫婦生活とか、或いは易の道とか、手相占いとか、一つひとつのものに対して繁く、本来の自分はこういうふうにして生きていく、生きるべきもんだったということをしょっちゅう帰ってくると。
初心忘れるべからず、常に初心へ帰って、初々しい気持ちでやってみようという努力に帰ってくる。繁く帰ってくる。
この繁く帰ってくるが増すと篤く帰ってくる。篤く。もう繁く帰ってきたら、これが、密度が濃く帰ってくる。そして最後は至善になる。(黒板に書く音)
至善にとどまる。儒教なんかでもこの、これを言うんですけども、あんまりね。『大学』の中に出てるんですけど、至善にとどまる。
これはどういうものかと言いますと、振り子と同じですね。神様を信じていくんだ、何でも何でもかんでも神様神様というふうに言ってお祈りし過ぎた。
あ、お祈りばっかりしちゃダメだ、自分自身の努力もいるんだと。
そしたら今度、努力努力努力努力というかたちで努力しすぎて、神様のお蔭でやってるんだということを忘れちゃったと、神様のお蔭だと。で、感謝ばっかりするんですよ。
これ他力中毒って言いまして、惟神中毒って、なーんでも神様のお蔭、神様のお蔭ってんで神様ばかり頼っちゃって、自分自身の努力をするというこ忘れるんですよ。これ、ペケなんですね。自らの力、努力があるからいるんだと。これはあの人、言ってました、M君。
「僕の場合はどちらかというと祈らない方がいいと思うんですよね、えー。以前の僕は、何でもかんでもお祈りしてたんですよね、えー(笑)。だから、今度は僕はかえってむしろ僕の方は祈らない方がいいんじゃないかという結論に、えー、達したんですよね、植松先生のお陰で、えー。こういうことが、えー、あとでわかりました、はーい」ってこういう感じで。
で、ちょっと、自力自力でいくと行きすぎるんですよ。自力に行きすぎる、他力他力に行きすぎると。そうかといって自分が努力と、俺が俺がっていうかたちで我が出たと。我と慢心が出たと。あー、だからといって神様神様て頼り頼りすぎてもダメ、自分自分でもダメっていうかたちで振り子ですね。
一生懸命努力してたら、あ、神様のお蔭だったと、復ると。それが何度も何度も、振り子がこういうふうになってますと、初心へ帰ってくるわけですね、一つの道行って、あ、また迷いかけた、私はピアノはこういう感覚でやってたんだと帰ってくる。
こうして、遠からずして復るから繁く復るで、篤く帰るで、今度は振り子が右にも左にも偏らないでピターッと真ん中に、中庸にとどまるんですね、これが。
自力に流れず他力に流れずと。神様にお任せし過ぎずに自力であんまり俺はという、つかず離れず不即不離の関係。中庸ですね。
中庸は徳の至れるなりということありますけど、これが至善にとどまる。ピタッと。善の至れるところ。一つの道でございますと、ま、守破離ということもございましたけども、形にとらわれないで、そうかといって形を無視しすぎるということもないと。
茶道は茶道でやっているんだけども、茶道茶道というかたちじゃなくって、離の境地形にもものにもとらわれない、しかしそれでもお茶を点てるときはお茶だと。
お茶じゃないときには、お茶をお茶でなくってもやっていける。しかし全てツボにパチッと全部はまってますよと。これを妙を得た人って言いますね。妙、真諦を得と(黒板に書く音)。
もう中級、上級コーナーになりますとこれです。妙、真諦を得。それは妙というものが、いかずつかれず、中庸の、これは真諦を得てる、神髄をピシッと中心を得てますよと。
「妙、真諦を得」って。中級、上級コース。いずれにも偏らない、至善でとどまる、ピタッと。だから祝詞を百回あげても、百回神様が必ずお出ましになる。筒美京平さんのように百曲作ったらほとんど全部ヒットすると。たまにヒット出て、次にヒット出ないっていうことない。常に初心にパッと帰って作曲ができると。
知らない間に女房のこととか、子供のことが気になってすばらしい音楽を作ってきた自分というものを、もう忘れてしまってる、遠くの方行っちゃって帰ってこないと。
「あー、ああじゃいけない、本来の作曲した与作をヒット出した僕に戻んなきゃ」、パッと帰ってくる。
そのときの境地に、最高の自分にいつも帰ってくる。そのときの自分から離れようとしたときに、霜のうちから、それをパーッと払っていける、そういうのが本当は信仰生活。
これを黒住教では信仰のお稽古っていうんですね。信仰のレッスンでもいいです、お稽古事と同じですよと。お茶とかお花とかお習字とかのお稽古事と同じですよっていうのは黒住教にあるんですよ。
非常に上手く言ってますね。信仰たって、別にね。もちろんあの、この信仰というものは崇敬するとか徳を積むとかっていうことじゃなくって、神人合一の法ですね。神様とか仏様と一体となって、常にそういう妙というものを体得する。
妙、真諦を得。我力でもなくそうかといって頼り過ぎもしない、音楽をやりましても作曲しましても、絵を描きましても常に初心で、最高の状況、状態で最高の絵を描いたときのSさんというのを常に持ちまして、何回描いても最高の絵を常に描けると。
何回作曲しても常にヒットするというものを十年間続ける、筒美京平さんのように。常に遠からずして復る、繁く帰る、篤く帰る、至善でとどまって作曲してるんですね、あの人は。
だからあんまり審査員の方に出たり歌手とお付き合いをしたり、あんまりその本質的な自分の境地から離れるようなことはあんまりしないと。至善にとどまってるんですよ。別な角度でいいますと。
常に作曲の原点、妙、真諦を得る。ヒットを出すという妙ですね。当てものみたいな作曲界ですけども、その妙というものを体得してるんです。
十年間、何回やってもやる。百回祝詞あげたら百回神様が必ずお出ましになる。同じですね、信仰の道でも、作曲の道でも、絵画の道でも、手相鑑定でもそうですね。妙、真諦を得る。
何回やっても、常に百発百中。最高に冴えていると。これが十年間、十万回鑑定したら十万回全部できてると。達人ですよ。
こう、別な角度から見まして。これが信仰のお稽古。黒住教が言ってますね。おそらくこの辺りを言ってる、お稽古事と同じですよと。間なく断なく。
えー、とにかく遠からずして復るということから、まずこの中で我々が気をつけなきゃならないことは、必ず我々はやってても失敗しますし、最初はよくっても常にいいとは限りません、何かでやっぱり思い違えたり心得違いましたり、我が出たり慢心が出たりするんですよね、そういうことに恐れないでまず遠からずして復る、いつまでもいつまでもそうじゃなくてパッと本来の自分に帰りなさいと。
これから始まるんですよ。遠からずして復る。こういうふうな生活というものを心掛けて訓練していくという心の修業、内面的な修業というのがないと、達人・・・先ほど申しましたような達人、守破離、なかなかできないですね。
ま、これが信仰の世界におきましても妙を得るという、神力を得ていく、法力を得ていく、常に最高の神様から出てるのは、そういう全ての道に対して共通する面でなければいけないんで、正神界の神々様というものと神人合一するためにはこの要素がいるんです。
動物霊とか邪気ですと別にこんなことなくても、動物の方が人を占領してますから、妙もくそもないですよ、予知能力とか好きなことしててもね、遠からずして復る、こんなの関係ないです。
常に見えてるとか聞こえてるとか。しかし、正しい神様と神人合一する道というものはこういう道です。
どのようなお稽古事しても一厘が得ていますね、これです。
ということで、本日の講義のパート4かね、一応、終わります。(拍手)
