深見東州の土曜神業録5(Vol.6)

【第三章】素朴で素直が神一厘(昭和59年8月11日)

女性は感性が大切

【深見先生】 Aさん、あのー、素朴で素直というのが、神様の道を遂げるのの一厘の極意なんですよ。

であの、えてして傷つく人もいるかも知れませんけども、女性で、大学出た人。なかなか道を極めるのは難しいんですね。女性は感性・・・、男性が女性よりも優れているのは知性と腕力だと。

寿命にしましても、基礎新陳代謝で、あの、エネルギーの、省エネルギーの体質も、粘りにしましても何にしましても、知性と腕力は男性の方がまさっていますけど、霊的な感性とかっていうものは…。

ところがそのー、女性が理屈を勉強しましてね、観念をいかにはずすかっていうことでしょ。それを非常にテーマでやってるんですよ。

男性の場合まだいいわけですよ。知性がもちろんなきゃ、男性としてこれ、値打ちないわけで。女性はメロディー、男性はリズムなんですよ。

知性っていうのはある程度いるんですけど、女性の場合は、その感性というものが、霊性、霊的な面まで高められていきますと、最高の、女性の真価が発揮できるんですよね。太古はそうだったんですよ。素直に、素朴にっていう姿勢が、神の道に通じるんですよね。

仏の道にも。これが最高なんです。ね、「素朴で素直が神一厘」ていうんです。

「只今に生きる」、「自然は神なり」っていう、植松先生が出された神法があるんですよ、神人合一の道の大切な。「只今に生きる」「自然は神なり」。

中でも、信仰のお稽古事ありますね。お話しましたけど、信仰心のお稽古事っという中でも、最高にそれをマスターしていくコツは、素朴で素直っていう。

素朴で素直に神様に表現する。素朴で素直に絵を描く。素朴で素直に音楽を作る。作曲する。素朴で素直で文章を書く。素朴で素直に神様に向かい、神様のを受け取らしていただく。これが極意なんです。

ところが女性の場合の、大学で一生懸命頭鍛えました人は、結局その、まあプライドが邪魔をする。それから観念が邪魔をする。知性が邪魔をしまして、眠っている潜在的な感性、素朴で素直、パッと言えば受け取るのに…。

だからAさんの、こういうふうにサッと出てくるっていう、ほんと理屈っぽく何でも何でも考えていくのよりも、「はい」って素直に出ますよね。非常に素朴で神様っていうものを考えて。

だから、Aさんにとって一番僕がいいなと思ってるのは、素朴で素直な面ですよね。あまりに素朴で素直に出し過ぎてケンカするときもありますけども、それでもわかんないとこはわかんないと。

今の来た女の子なんかでも、東海大学の英文科三番で出てんですよね。松前賞なんかもらって、今お茶持ってきた子。

さんざん「大卒の女子は」っていうんで、植松先生にしごかれて。黙って「はい」と言ってお茶を出す。黙って「はい」と言って喜ぶ。頭下げる。

「なんで、なぜなぜ」ってすぐに理屈こねちゃうわけ。英文科三番で出てましでも・・・、英語は教えたり、上手です、あの子は。しかし神様の道っていう中で、さんざんその素朴で素直にものを受け取って、素朴で素直にはいと言ってお茶を出す。

はいと言って神様に向かうっていう、神様の道にかけてはそれでいっつも苦労してるんですよ。何のためにあたしは大学であんなにやったんだろうかと。ご神業の道では、大卒の女子というものは、特に…。

白い目で見られるということはありませんけれど(笑)、厳しく厳しく言われる。

【植松先生】厳しくね(笑)。風当たりが強いんですよ(笑)。

【深見先生】ご神業で一番、ああすばらしいですねっていうのは、高校を出素朴で素直で、しっかりとしつけがされてて、神様に純粋に向かっていく人。そういう人ですよね。

ま、短大ぐらいまでは・・・。まあ全部が全部言えません。一般論ですから。大分耳の痛い人いますね(笑)。理屈で理屈でやりますと、霊的感性ってのは鈍くなっちゃうんですよ。

だから元はね、太古は、男性が、狩りに行きますね、男が。で、女子は子どもを守りまして、洞窟生活してましたから、洞穴で。

こうやってこう、無事に夫が帰ってきて、ウサギかイノシシか、ボタン鍋でもできますようにっていうんで、こういうふうにこう伏せて、祈ってたんですよね、真っ暗なとこで。

だから男性は狩りに行ったとき、あっ、こうすればナウマン象がやられるなとか、 あっ、ナウマン象が来たな、獲物が来たなっていうことが、ピッピッピッとキャッチする。ずいぶん古い話ですけど、ナウマン象。

それは、女性が、こうやってその夫の帰ってくるのひたすら待って、祈っているという状況ですね。だから非常に霊的に敏感だったんですよ。それが祈りの原型なんですよね。原始時代。

だから男性の霊力とか霊感ていうのは、ね、そういうので受けてくるんですよ。

【植松先生】女性がこう祈って、ご主人のこと思ってね、あのー、夫が道に迷わないようにね。

そうするとその念波っていうか波長がね、結局テレパシーになって、それであの、旦那様がね、狩りをしてさ、獲物追いかけてきて方向がわかんなくなるでしょ。それでもそのテレパシーで、その方向がわかる。

だからあの、ハチと一緒ね。ミツバチもこうね、女王蜂が。蜜を探してほうぼう行くけれども、ちゃんと元に戻ってこられるでしょ。あれやっぱ原始時代はもう妨害されるものは何もないから、純粋にそのテレパシーを。

それ自分じゃテレパシーなんて思ってないわね。それがもう当然こう、通じてるのね。それがやっぱり、文明文化が発達するに従ってその、テレパシー使わないで、電話に頼ったりね。もうすべて頼ってるぐらい。

【深見先生】今もう一人の、丸い子いるでしょ。あの人も同志社の国文科ね。優秀な成績で出てますよ、みんな。学校で、一、二番ていう人が。でもここ来たら、五年間ですか。

お掃除一つできないし、洗い物一つできないし、お料理できないんですよ。仕事ったってまあね、するんでしょうけども、神様というの観念で理解してるんですけど、体得ってのできないんですよね。

で、それをなくす意味で、さっき言った趙州禅師じゃありませんけども、こういう形で洗い物、お掃除。

【植松先生】学理的なものがなくね、あの、余分にないと、もう素直にね。これはこういうふうに、こっちにこう動かしたらいいんですよって、素直にこう動かせるのよね。

そういうもの(観念)があるとさ、計算が立つのね。理屈がそこに入って、それで一歩遅れるんですよね、することがあればあるほど二歩、三歩と遅れるんですね。間髪入れずっていうのができなくなっちゃう。

だから、それを今度ははずすまで時間かかるんですよね。女性はね、本当はこう頭使うよりね、感性を養った方が。理論的にするのはこう旦那様に出てもらった方がいいんです。女性ってのはこう、男性とそういうふうにね。

【深見先生】女性が感性で男性も感性だったら、社会生活で表現が不自由ですけどね。

【植松先生】そうですね。私なんていったらもう全然、みんな忘れちゃって、深見さんが講義して。あ、そういえばあれ、いつ頃お話したことだったかなーなんてね、もうすっかり忘れて暮らしてるんですよ。みんなもう、深見さんに託しちゃったら。

【深見先生】僕も忘れてんですけど、突如として全部思い出すという。

【植松先生】あなたがじっくり講義聞いててね。テープのような人だったなんてね、思うのね。

素朴で素直が神一厘

【深見先生】でね、植松先生が知らされた神法ね。上級講座。この西谷さんが、あの、只今只今に……あったでしょ。(板書の音)「只今に生きる」、ね。あれだけ詳しく言いましたよね。

「自然は神なり」。これ全部、植松先生のオリジナルです。簡単な意味の中にね、すばらしい意味がはいって、ね、「素朴で素直」。これが、惟神の神法でも一番。

それで、松下幸之助さんでこういうお話が出て。あれ、松下幸之助さん、素朴で素直な人です。

松下電器の工場に行きまして、松下幸之助さんが、ハアーッと黙って感心してるのね、何分間も。何を見てるのかっと思いましたら、テレビの工場で、真空管。ハアー、十分か二十分か見てる。真空管というものは、よくできてますねえって、感動してるのね。

誰でも見たら真空管は真空管です。それ素直に考えて、素朴というものが… 野暮ったいという意味じゃないんですよね、これは。純粋って意味なんです。純粋に、純粋にものを考える。

素朴ーにものを考える。あんまりこねくりまわして考えない。こねくりまわさない。素直。

で、っていうのはこれ、分解しますと、これ「素」という字ね、これはですね、主から糸が出てるんですよね。主から糸が出てるんですよ。それに直なんですよね。これ僕が植松先生に教わった字義、教えね。ここのスの神様ったって、主は主であれなんですけど、主の素はって、味の素の素なんですよ。

スの神ったってこれ、素の神ってのは、元素の素なんですよね。だから主、自分自身のご主人公っていう話しましたっけ。内面的な御魂様、中から出てくる自分自身の中のご主人公、心のご主人公、ご本霊、御魂様。

そういうふうなものから出てくる糸にスーッと貫き通して出てる意志とか想念。

ま、Sさんが絵を見ているときに、何かスーッとこう来るようなものを感じると。そういうときにはパッと描いたら絵が描けるっていうね。主から糸が出てきたところに直だと。素直ってのはそういうことなんですよ。

(板書の音)素直っていうことは、天から来るもの、自らの御魂から出てくるものにサッとこれをできると。

松下幸之助さん、「真空管はすごいなあ」。誰だってもう、松下電器作った人だから、真空管みたいなものはっていうんだけど、それもう一度素朴に見て、素直に感動するというところあるから、松下幸之助さん、「私が今日までね、来た原因は三つある」と。一つは、私に学歴がなかったことだと。

もう一つ、私は病気がちだったと。それから私は貧乏だったと。この三つが私を今日まで出世させた原因ですと。だから、既成概念とか知性じゃなく、素朴で素直に見てて、あ、これが足りないんじゃないか、こうすればいいんじゃないかと、素人の発想っていうんですか、発明、発見ていうのはそうですね。

これに弁理士さんがいらっしゃいますけども、私がその話を以前したら、うーん、そうですね、と腕組みしまして、大体発明とか特許とかやる人は、そういう人から、素人で考えてこうじゃないかっていうのに大発明があるんだと。

プロが発見する発明っていうのは、ある程度基礎的な発明があって、上にちょっと発展させると。大発明っていうのは、まったく素人に、素朴ーに素直に考えて、こうしたらいいんじゃないかっていう発明、こういうのは大発明。よくあの、ありますね。

洗濯機の中に、ポッと浮かべておくだけで、垢が全部、このほこりが取れていく、素朴ーに主婦が考えて、作ったんですよね。それからあの、亀の子タワシ。あれもうずーっと使われてますね。

素朴に素直に作ってますけども、プラスチック製でできたどれよりも、あの、ピッピッピッとはねる力でよく落ちますよね。大発明というものは、素朴で素直なところから出てくると。

西谷さんも、いろいろな手相の本があったんで、素朴で素直に手相見てて、あるときパッとわかったんですよね。

それが流年法、百発百中で、彼は、性格見たらわかりますように、素直で素朴でね、純粋で無邪気で、知性がないなんていいませんよ(笑)。

そういうふうに、素朴で素直な、手相をスーッと見るから、あっ、こうじゃないかっていうことが、スッと神様の一厘の叡知が出てくるわけ。

だから、素朴で素直にこうものを見ていくということが、発明にしましても、大発明っての全部そうですし、松下幸之助さんも、あれだけ新しい世界のものを生み出す根源、原動力は、素朴で素直に見ていくっていうから。

あの人、常にそれが七十なっても八十なってもそれがあるから、新しいものがどんどんどんどん出てくるわけ。言わば、「霜を履みて堅氷に至る」っていうふうなこと言いましたけども、「遠からずして復る」って話しましたけど、素朴で素直な神一厘に戻らなきゃだめなんですよ。

音楽なんかも作曲してましても、技術技術に行って、意外に「与作」のような、ね、素朴で素直な曲が。最初ね、グランプリに出したときに、最初は没にされたんですよ。

ところがどうも「選考するときどうも気になるなあ」と思って、あれ出しまして、やったところが、ヒットして、毎週一位になって、二万曲のうちの一曲に「与作」なったんですよね。で、これは日本のリズムでもないし西洋のリズムでもないし、独自な、「与作」という世界があるの。その素朴で素直という曲が、あれだけのヒットになった。

素朴で素直がやっぱり長く続く。亀の子タワシ。亀の子タワシ大発明ですよね。植松先生がいつも感動してるんですよ(笑)。

素朴で素直なもう典型的、うん。で、ネーミングもね、亀の子ってぴったりなの。音楽作るときでも、ヒット曲。

で、絵でもそうですね。Sさんのお話聞きまして、えー、Sさんも前世勉強されたんですけど、今はもう長谷川等伯が大好きで。その長谷川等伯のも、最終的に、水墨画から、難しい絵から、ごく平凡なね、ポピュラーな。

幅広いんですね、筒見京平さんみたいに。難曲からやさしい曲、北極、難曲、全部やってたと(笑)、いうふうに。ところがその長谷川等伯の最高のやつというものは、どういうものかと。

何にも描いてない。霞があるんですよ。その中に、ピュッ、ピュッピュッ、墨で描いてある。

それが全部、そのピュッとした墨の中に、こう、松ですか。松ーっというふうな生命と、松ーという雰囲気と、存在感というのがその、ただ墨でピュッピュッ、それだけなんですよね。素朴で素直に描いているんだけど、そこに、松の生命力と、存在感と、しかもその中で清々しい、何とも言えないような絵の、長谷川等伯の生命がそこにあるって。

これが、彼のたくさんな作の中で最高傑作と言われてる。どんな人がただピョッ、ピョッ、ピョッと描いても、そうはならない。

あらゆる技術と、あらゆる境地と、あらゆる感性と、あらゆる色彩感覚、画法をマスターして、最終的には、素朴で素直な神一厘というね、素朴で素直な、その一幅の絵になってるわけですよ。そこに等伯の完成度、完成された境地、境域というものが表現されてるわけですよね。

それも、絵の道でも、素朴で素直が神一厘なんですよ。

音楽でも「与作」は一厘の、素朴で素直な神一厘。御魂から出てきた。音楽でも絵でも、亀の子タワシも、松下電器も、流年法の発見も、素朴で素直に見ている。

だから、西谷さんだからできたんですよね。そのすばらしさ。常にその素朴で素直に、遠からずして元へパッと帰る。霜を履みて堅氷に、それが素朴じゃない、こねくりまわす。素直じゃない。

いろいろな自分の形式とかってガタガタ言うと。

こねくりまわさないで、はいと言う。「イー」って、これもあの禅宗にあるんですよ。ただ「はい」っと言う。これが極意だっていう。「はいの極意」っていう。中国語で。だからこの、素朴でっていうのは、純粋で汚れなくと。

雑然としないで澄みきってるという意味ですね。野暮ったいとか田舎者という意味じゃなくって。「与作」っていう曲も別に田舎者っていう感じしないですね。なんか素朴でね、郷愁がわいて、純粋だと。

女房が待ってるから帰ると。夜明けがくる。素朴ですよ。だけどもその中にほのぼのとしたものが、素直に出されている。

だから、ああいうのがないわけですよ。歌にも、「天使のメロディーがどうのこうの」だのいかにもね、かっこつけて、いい作詞、という雰囲気なのが、(与作は)素直にね。それがすばらしいという。

すばらしいっていうことは、常にこの素が晴れて。すばらしいというのは、「素晴らしー!」と言って感動するでしょう、素が晴れるんですよね。なんかそのー、ね、言葉遊びのように思いますけど、言霊で、惟神の言霊で「素晴らしい」というのは、その素が晴れるんです。

なぜこういうふうな字を使うかって。自分の中にある素の部分。素がワーッと晴れるんですよ、なんかすばらしい、文字や言葉じゃない、自分の内面性、魂の奥から、すばらしーとこう神が生きている。「素晴らしいですねぇー」素が晴れるから。

だからもう西谷さん、いつもこれ連呼してるでしょ、自然に素朴で素直でいらっしゃるから「素晴らしいですねえー」っていうのがやっぱりスッとこう。極意なんですよ。ほんと素が晴れてる、御魂の奥が。

機を知るはこれ神なり

すばらしいって言霊が、それで出てる、自然に。不思議ですね。「ただいまー」って言うでしょ。玄関をただいまーて帰ってくるんですよね、これ「只今に生きる、只今に生きる」って話ししたときに、かなえちゃんが、ただいま、ただいまーて言うんですよ。まあ、ただいま帰りましたとかっていうことなんでしょうけど、自然に言霊で、只今只今って。

それ、玄関をただいまって帰ってくるっていう。

(板書の音)お玄関。玄は幽玄の玄ですね、微妙な奥深い意味での、その微妙な、関ですよ。

まあこの関という、これ禅の公案でも関という、関一字のものがあるわけですけど、それは内面の境地から、こっちからこっちへ乗り越していくという、その関門を越さないと、すばらしく境地は開かないんですよその境地。あの一関っていうんで玄関。ってこれも禅の公案で。

【植松先生】元という字が、ね、元ね。

【深見先生】ああ元ね、元の関ね。

【植松先生】関に至るともとれる。

【深見先生】元へ戻ると。これ原点の元へこれ返ってるんですね、こう。

それあのー、言霊学ってね、学問で出てますけども、これあのー、前に言いましたね、『瑞穂伝』ていう昔からある古文献ございまして、えー、『瑞穂伝』。

(板書の音)、この『瑞穂伝』の中に書かれていますのは、例えばこの跳ねる、跳ねるとは水気であると。こういうふうになるのは火気であると。

ですからその漢字でも姓名判断の、文字の一ハネとか点の画数でその人の運命とかってのある程度当たりますでしょ。なぜ姓名判断が当たるかなんですよ。

同じ画数でも、義という漢字が付いてる人は、一生懸命努力した割にはなかなか報いられないと。あのー、画数だけじゃない、文字の意味が大事なんですよ。

特に、春、春吉とかね。春とかっていうのはあんまよくないんですよ。春夏秋冬を付けたら、あんまりよくないんですよね、言われてます。

とにかくそのー、名前でも画数で、ハネとかチョンとかね。それでやはり運命に関係あるんですよ、厳密にね。なぜ姓名判断がこれだけ続くかといいますと、文字の意味、画数、点、筋一本で随分違う。

同じ画数であっても、文字によって随分、吉の文字と凶の文字がありますよね。それはこのハネ、縦ハネ、横ハネというのは陰陽とか全部意味を持ってると。これがその『瑞穂伝』というもとに説かれてるわけですよ。

で、言霊学というのは、「あ」とか「お」とか「す」はこういう意味だと。

「あ」は開く、開くと閉じるですね。「は」というのは発展する、晴れるとか、張るとかって。「は」という言葉は、その、はーって言うでしょ。

例えば、「ほー」とか「おー」とかっていうような警畢があります、神道で。それで神様お呼びするとか、神様移すとかっていう、言霊で全部意味を持ってるんですね、あいうえおの一文字一文字が。

例えば素晴らしいで一つの言葉ですが、「す」なら「す」で「す」とはこういう意味を持っている、「は」なら「は」はこういう意味を持ってる、「ら」は「ら」でこの巡るとか螺旋状の「ら」とか、らるろで降りてくるとかって、

「ら」は「ら」の意味を持ってるんですね。これが言霊学、言霊学と。言霊学に関しては、日本で言いますと、大石凝真素美翁とか、それから中村孝道なかむらこうどうですか。古代、言いましたあの水野満年、水谷清と。

日本の明治大正、江戸末期からずーっと古神道で言霊学というものが伝わっていますけども、それ学問でいくらやってみてもね、自然なこの中で、玄関で、ただいまーっていう形で。

冷静にそのそれを見てみますと、なぜそう言うかってことですね、その関を越えて元へ戻っていくという意味は、只今に生きると。只今只今なんだよと。教えてるんですよね。

通りゃんせ通りゃんせっていう、ねえ、またこれご神業で上級クラスなりますとあるんですけど。通りゃんせ通りゃんせって、自然に子供たちが歌っている歌、自然に言うその・・・。

自然に伝わっているその『古事記』の神話とか、言い伝えとか、昔話とか童歌の中に、こういう神髄が自然に入ってるわけですよ。

今のその霊界のね、有様は、前にも言いましたように、あの仮面ライダーの人間もどきね。ショッカーていますよね、ああいうふうなのを霊が使ってますよ、浮遊霊を。

あれを真っ黒の気、こういうふうにやって、ポーンとやられてまたペチャッとなってね、またピョッと甦ってくるでしょ。

あのショッカー、それから合体ロボね。飛行機とか水陸両用でやってるのが、真ん中のをピッとやりますと、カチャンカチャンカチャンカチャン、一つに合体して大きなパワーをこう出すと。普段はバラバラで一霊四魂の有様ですね。魂とかいろんなものいますけど、一つにバシバシッと合体したら大きくなっている。

さっき見えた、顔がいくつもいくつもあるんですけど、それはバラバラにあるんじゃなくって、ろうそくの炎のように、何本も何本もあるけど一つの炎に出してるような形で。

それをあのマンガ描いてる人っていうのは、そういうイマジネーションでわかるんですよね。例えばその今の仮面ライダーV3とか、赤レンジャー、桃レンジャー、黄レンジャーなんか。

ウルトラマンなんかでもそうですよね。神様にお願いしてパッと行ったときには瞬間にパッと変わりますよね、ウルトラマンになるでしょ。

それまではマットの隊員の、一平凡なマットの隊員だけども、怪獣だーっていって来ますね、霊障が(笑)。お願いしますーって言ったら、ピョーッて来ますよ、天界から神様が。

そして、長時間やり過ぎると疲労度があるから、ピコーピコピコンピコン(笑)。

なんの話してたかな。そう、玄関。もっと高貴な話しなきゃいけない。そういうことで、童歌とかそういうふうな中にね、今は今のね、マンガとか劇画で出てますけども、キャッチしてるんですよね、松本零士なんかもよくキャッチしてますよね。まあほんとそれで、太古から子供の自然の童歌の中に出ている、こういうものが全部、神髄よと。

ですから、これ言いましたね、「機を知るはこれ神なり」って先ほど言いましたね。まあ植松先生はもうこれの達人ですけども、中国も昔そうだったんですよ。

その王朝が滅びるなとか、殷とか秦の時代、滅びるなとか、戦国時代が近いなあという場合に、自然に童歌で「人間はたとえ滅んでも、国は滅んでなんとかでも~」とかね、「世の中目茶目茶になったって、俺たちゃ生きていくんだよ~」とか。

自然な、歌は世につれ、世は歌につれなんて言いますけれども、子供の童歌とか、今流行しているようなものを見まして、君子は、「あっ、国家は、しばらくすると今退廃状態でこういうときが来るんじゃなかろうか」と言いますと、宋の時代に、契丹きつたんとか匈奴きょうどとかそういうふうな外敵が侵入してきて来るよと。

蒙古来襲の前でしたら、子供歌が、「あっちから攻められてこっちから逃げて、やー」とかっていうのが、遊びが流行っていると。

こういう場の心を知ってる人、「機を知るはそれ神か」っていうふうな為政者は、冷静に今流行っている童歌とか、流行のお遊びとか、子供たちとか、そういうものを見まして、あっ、天が教えてると。それをすぐわかると。

これが、天の機によりまして政していく、中国の為政者、王様、帝というものの極意。達人は、そういうもので判断するんですよ。

易でこういうふうにジャラジャラとかけて見ますけども、それよりもその童歌とかそういうもので、今知らせている情勢をキャッチする、読み取っていく。そういう人なんですよね。昔っからそういうことあるんです。

子供がどういう遊びかなんていうと、戦争時代って戦争ごっこばかりしますよね、戦争、戦争、戦争ごっこが流行ってると、戦争は近いと。

そうするために君主は、その天の機を知って、その準備をするんですよね。そうならないように準備をするんですね。それを、先手必勝ですよ。

機先を制す。その機の前にパッとそれを先に先手先手を打つから、必ず天のときをとらえて、一歩先をリードしてるから、時代の先端を行ってると。これわかんない人は、後手後手に回っていくわけね。これ「機を知るはそれ神か」って『易経』の言葉に入ってる。すばらしいことですね。

そういう心眼の開けた人、「機を知るはそれ神か」。そういうことで子供が「ただいまー」「あっ、玄関でただいま、これはこういう意味だ」って、パッと悟る人います。

植松先生はたった、平々凡々なそういうようなことから、神様に教えられて極意を悟ったわけですね。

只今に生きる。素朴で素直、すばらしいっていうふうに、すばらしいすばらしい言ってるけど、あっ、そのことかと。ごく平凡な生活の中で、その最高の真理というものが隠されてる、自然は神なりと。

自然に行われてるその中に、神様の意志とか意図とか法則が隠されてるんですね。明歴々と。遍界曽へんかいかつてかくさず。

道元さんのときにお話ししましたね、同じですよ。もう素朴で素直は神一厘て言いますけど、素朴で素直にそういうものを見ていったら、そういうものはわかるんですよ。

素朴で素直に見ていったら、「柳は緑、花は紅」という境地ですね、これ、素朴で素直が神一ってのは。ありのままを見よと。余計な観念とか、こねくり回す理屈とか哲学がないんですよね、こねくり回し哲学。

だから、哲学をやってる人は迷路に入ってますね。長年哲学を研究してる人は、観念の。ああとも言えるし、こうとも言えるし、いろんな概念を勉強してますから、脳の中の観念と概念の中、ぐるぐるぐるぐるぐるぐる回って。素朴で素直が神一厘、大事な神法ですね。「只今に生きる」、「自然は神なり」。この二つと匹敵するぐらいの大事な神法の一つです。素朴で素直が神一厘。

聖人は天から学ぶ

そういう目で、平々凡々の中から天のとき、神の声、天地自然が教えるもの、天何をか言わんやと。孔子さんがおっしゃったように、天からすべて学ぶことができると。

これ、『近思録』の中にあるんですけども「聖は天をこいねがい、賢は聖を希い、土は賢を希う」と。希うというのは希求するっていう意味。上級講座ですから、難しくなってきますけど。これで希うっていうんですけど、希求するっていう意味ですね。うん、こういうふうに出てます。

(板書の音)「聖は天を希い、賢は聖を希い、士は賢を希う」。こういうことが、『近思録』の中に書かれてるわけです。

この『近思録』というのは、前にも言いましたように、えー、東京大学の前は一高と言っておりまして、一高の前は開成学校、開成学校の前は昌平黌と言いまして、江戸幕府の学問所ですね。そこのテキスト、『近思録』です。宋学ですね、これ。

とにかくその『近思録』の中に出てるんですけど、聖人というものはどういうものかといいますと、天を希うと。常に、今言いましたように、「機を知るはそれ神か」。

ですから聖人というものは、天を希ってると、天からすべて教わると。天によって天の気を知る。天が教えるところの宇宙の神髄。言いましたように、自然に教えてる「ただいまー」と子供が言うところに、玄関にただいまーって言う。

そういうものからすべて学ぶんですよと。お師匠さんは天ですと天からすべてを学んでますと。だから聖人という人は天を希いまして、天と我との対話ですよね。自然からすべて学ぶ。宇宙からすべて学ぶと。星を見ていてパッと悟りました、天を見ていてパッと思いました。

この一つの典型的な例は、あのー、キツツキの戦法。川中島の戦いございますね。

まああの人は別に聖人とは言いませんけど、例えば川中島の戦いといいますのは、武田信玄公が、こういうふうに、こっちカチカチカチと突つきまして、そしてこっちの方に出てきた人間を、逃げてきた人を、真っ正面から当てよと。

それを上杉謙信は霊感がありますから、煙がパッと出て、あっ、今日来るなっということで、暗闇の中にさくさくさく、「鞭声粛々夜河べんせいしゅくしゅくよるかわを渡る」って形で、裏をかいたんですけども。

その前に、敵前百八十度。パッとこちらの方行って、敵を突きまして、そちらからワーッていう形で逃げてきたものをこっちからする。これキツツキの戦法なんですね。

みなさんご存じですか、キツツキというのは、コンコンコンコンコーンたたきますね、なぜあれたたくかと言いますと、こういうふうなミミズがね、虫が、あの木の中に、幹の中に、こう入ってるわけですよ。

ただし、その虫が幹の中に入ってて入り口から、鳥がくちばしで突つきましても、奥へ奥へと虫は入っていって、取れないでしょ。だから、キツツキ賢いんですよ、このサイドをたたくんですよ、コンコンコンコンコンコンコンコン。そうすると虫がうるさいしあれだから、その入ってた穴から出てくるんですよね。

それで穴から待ち構えていまして、コンコンコンコンコーンとたたいて虫が出てきたなと思った頃にキツツキが待ってまして、出てきた虫をパクンパクンと食べるんですよ。賢いでしょ。

武田信玄の使いました、まあ川中島の戦いの勝敗は別にしまして、どちらとも言いませんけど、ま、上杉謙信の方が勝ってたと思うんですけれども。ほとんどの大将なんかやられましたからね、武田信玄。上杉謙信はあれですけど、最終的には逃げて帰ったわけですから、両方とも勝った勝ったって言ったんですよね。

しかしまあ、武田信玄公の用いましたあの方法はキツツキの戦法。キツツキを見てて、誰か思いついたんですね。

武田信玄が思いついたのか、どっかで本で読んだのか、まさにキツツキがやって虫を取ってる戦法をそのままいくさに応用しているわけですね。一つの歴史上でも有名な敵前百八十度転回。

これだけの、戦国の歴史、戦の歴史に残るようなことが川中島にあったんですけど。このキツツキの戦法、天が教えている、キツツキが教えている。

で、キツツキしょっちゅう見てますけども、それを別に応用する人はいないわけですね。

私はよく言うんですけど、ニュートン。リンゴ落ちてるの何人も見てますよ、しかし、ニュートンはそれを見て、あっ、ヒントにしまして、有引力の法則を発見し、体系づけたわけですよ。何百万人の人が、何千万人、何億単位の人が、歴史上リンゴが木から落ちるのを見てますけども、一人素朴で素直で神一厘のニュートンが、九分九厘まで勉強したときに、ハッ。

天何をかいわんや。聖人というものは例えばそのごとく、すべてを天からもらうことができる。天へ天へと向かっていくように、勉強していくんだと。聖は天を希賢は聖を希う。

賢人、賢者、賢い人。賢者というものはどういうものかというと、聖人を希う。孔子さんとか、老子さんとか、あるいは昔の周公や湯王、それから、えー…。今上陛下の顔が見えますね。なんでかなあ・・・、なんで今上陛下の顔が、天皇陛下の。天皇陛下の、今上陛下の顔、なんで。

とにかくあの、賢者。賢者というものは、聖人を見ならいますと。孔子さんとか老子さんとか、お釈迦様とか、ああいう立派な人を学んで、自分はもっと勉強して立派になんなきゃと。

そういう人は賢者といわれる人です、賢人ですね、賢者。賢い人、賢者。いにしえの聖賢なんて言いますよ、いにしえの聖賢。(板書の音)、聖人や賢者ですね。

いにしえの聖賢を見習いて、日常の生活。今日は儒教のお話多いですけど、賢。賢者というものは聖人を見習いまして、聖人になろうとして、お釈迦様のように、孔子様のように努力して、ああなりたいと。毎日精進努力して、これ賢者ですと。

士は、七丈夫ですね、士大夫。例えば、中国でいう士大夫っていうのは、まあ官僚。ちょっと位のあるお役人さんとか、士族。士大夫という士という人は、まあ男性は、普通の人達は賢を希う。

ああ、賢者に、少しでも自分は賢くなりたい、よく勉強して、四書五経とかそういうもの、孔子様とかそういうふうなものは行けないけども、少しでも勉強して賢者になりたいと。

賢い人間になりたいと。大学も通って勉強して、知識もできて、お給料もある程度高くなって、しっかり勉強しなきゃいけないと。少しでも立派な賢い人間なろうとして、努力しますと。こういうものは士です、士大夫ですと。

「聖は天を希い、賢は聖を希い、士は賢を希う」と。うまく言ってますね。この『近思録』の中に出ておりますけれども。聖人は学んでなりますかっていうこと言ってるんですけど、学んでなりますよと。

聖人は勉強、学問というものやることによって聖人になれますよと。これに対して、王陽明さんとか、もっと別な角度で聖人というものに対してアプローチは違うんですけど、まあこれにしますのが、陽明学というのがあるんですけど。

今度、しっかりとその陽明学と朱子学の違い、朱子学と陽明学はどういう所が違うんだと。陽明先生の話なんかも交えまして、儒教の歴史について全部、お釈迦さんのあれが始まったようにね、してみるのも面白いと思うんですけど。

とにかく、素朴で素直は神一厘。聖者というものは要するに神人合一した、聖の域に達するには、天からすべてを学ぶと。

キツツキの戦法とか、玄関の「あー、ただいまって言えばそうだな」と。天というのは大きな意味での自然でしょうね。自然から、その法則にある物事を体得するというのは、「柳は緑、花は紅」といった道元禅師のあれも全部、天。自然は神なりっていう、このことですね。

そういうものを学ぶ人なんですよ、聖者というもの。自然は神なりというところで、これ、お話してればよかったかもしれませんけども、まあ自然は神なりっていう簡単な言葉に、「聖は天を希い・・・」というこの一文を見ますと、ああそういうことなのかと。いかに高い境地かということですね。「機を知るはそれ神か」と、『易経』にあります。

まあ天を希うには、こねくり回さないで、素朴で素直は神一厘。まあ素朴で素直。この神法の中に、いろんな儒教の意味なんかも包含されている。ということで、一区切りいたします。(拍手)