【第二章】「守・破・離」(昭和59年8月11日)
五九年八月十一日ですね。皆様、長らくお待たせ致しました。
皆さん、海老名弾正という人がいるんです。
えー、(板書の音)キリスト教の世界では有名な方なんですけれども。この、海老名弾正さんのお話をとおしまして、本日の講義の内容にしたいと思うんですけど。
この海老名弾正さんというのは、キリスト教で有名な方でございまして、熊本バンド(明治初期、熊本洋学校の生徒の間に結成されたプロテスタント・クリスチャンのグループ)にいらっしゃった。
その後、同志社大学の総長さんになったり、キリスト教、社会運動とかいろんな運動に尽力なさった方なんですけど、この海老名弾正さんに、ある私の知り合いの会津さんというおじいさんが、八十六歳の時に、お話を私が聞いて、非常に感動したお話があります。
その、会津さんというおじいさんが、海老名弾正さんに、こういう質問をしました。
「私は、キリスト教のことを考えていますと、こういうふうな疑問があります。
私の知り合いで、クリスチャンがおりました。
友達が亡くなりまして、お通夜がありまして、お葬式に行ったわけなんですけれども、親戚の人とか兄弟の人がいまして、お線香をこう立てまして、一人ひとりがこう、お参りをする。どうぞあなたもお願いしますと、お友達ですからと言われたんですけれども、『いえ、あ、結構です』と。『私はクリスチャンでございますので、それはできません。ここで、故人の冥福を祈りたいと思います』というので、御焼香をしないで、こうやって十字を切りまして、故人の冥福を祈ってる。どうもこう・・・、まあ熱心に祈ってるのは祈ってるけども、そうか…と。そういう場面を見たことがあります。
ところが私は、別な機会に、キリスト教の、ヨーロッパを代表するような、英国国教会ですか、大司教という方が日本にいらっしゃった時に、私も同席するチャンスがあったんです。
その人は最初に伊勢神宮に参りまして、伊勢神宮で敬虔に相手を打ちましてお参りをなさった。その後に善光寺に参られまして、善光寺、ああ素晴らしいと。深々とお辞儀をなさいまして、お参りをされました。
ああなんと、キリスト教を代表するだけあって、さすが素晴らしいなと。海老名弾正さん、同じクリスチャンでありながら、この二人はどうしてこう違うんですか。これについてどういうふうにお考えですか」と。
会津さんが、若い頃に海老名弾正さんに、それを聞いた。
海老名弾正さんはそれを聞きまして、その答えが、非常に素晴らしい。ふっていたわけですね。海老名弾正さん答えて届く、そうですか、それは素晴らしいですね。二人とも素晴らしいですね。
それぞれの立場で、精一杯、真心を尽くしておられます、素晴らしいですね。
そこで海老名弾正さん曰く、例えば、乗馬を考えてほしいと。最初、馬を乗る人は、いかにしっかりと手綱にしがみついて、いかに馬の鞍にしっかり乗るか、これが大切なんだと。
そうじゃなかったら、馬に振り落とされてしまう。だから、最初馬に乗る訓練する人は、初心者は、しっかりと鞍にしがみついて、馬に振り落とされないように、手綱をしっかりともって、パックパクパクパクと行かなきゃ駄目なんですと。
しかし、いつまでもいつまでも、馬に十年も二十年も乗っていながら、鞍にしがみついたり、手綱をもっているようじゃ、本当の乗馬の楽しみはわかんない。
今度は何十年もやっておりましたら、馬と人間が一体になる。だから手綱も要らないし、鞍も要らないんだと。馬も鞍を取りながら、それから手綱も取りまして、馬が人間か人間か馬かわかんないように、裸馬に乗っても、絶対に振り落とされないんだと。
馬の気持ちがわかるし、馬も人の気持ちがわかる。絶対に、振り落とされるということはありません。
だから、何十年も経ってても、鞍とか手綱にしがみついてるのは良くない。しかし、初めて乗馬をする人は、いきなり裸馬なんか乗りましたら振り落とされる。
初心者はしっかりと手綱をもって、鞍にしがみついて、馬に乗るということから訓練しなければなりません。
だからその二人は、それぞれのレベル、それぞれの立場なりに、精一杯の真心を尽くしているという面において、私は両方とも素晴らしいと思うんですよ、というふうに、海老名弾正さんがその会津さんというおじいさんに・・・、若い頃の会津さんに答えた。なんと素晴らしいんだと。
これは、この海老名弾正さんという方が、ご自身が、そういうふうな生き方、同じクリスチャンでも、そういう道を体得しておられたから、そういうふうに即答できたんだろうと思います。
彼の内面性がそれだけのプロセスを経ていますから、キリスト教というものを最初信じておりましても、キリスト教精神をもちまして、最後に言いましたように、伊勢神宮でも善光寺さんでも……。
仏教は仏教、キリスト教はキリスト教、日本神道は神道のところに行きまして敬虔に祈りましても、神道式のお祈りしましても、キリスト教の大司教である内面ていうのはもう一体となっておりますから、血の如く肉の如くなっておりますから、決して影響されたり消えるもんじゃないと。
それよりも、その人たちがそこで崇敬してる気持ちという、それを尊ぶから、そうなさるわけですね。
海老名弾正さんはまさにその境地であったんです。素晴らしさを私は感じるわけです。
これは、キリスト教のお話で出ているんですけど、それだけではなくて。例えば茶道もそうですね。いかなることにもこれは通用しますので……。(板書の音)
茶道では、茶道の訓練のことを大きく分けて「守・破・離」というふうに申します。(板書の音)まずお茶には、炉の切り方が四種類ございまして、それぞれの炉に、十六種類の基本点前がございます。
ですから六十四か、プラス特種点前というのがいくつかあるわけですけれども、それをマスターしまして一応、お茶の形というものがわかるわけですね。
あと建築学、それから書道。文字がわかったり、書がわかったり、建築学がわかって、植物学もわかると。茶花の意味がわかって、お庭でします時に、春にはこういうお花が咲いて、お花がこういうふうにあると。
植物学がわかりまして建築学がわかりまして、陶器がわかりまして、書道がわかりまして、絵が出てますね、俳画。こういうものがわかりまして、茶道というものの、総合芸術を理解することができるんですけど、とりあえず最初というものは「守」と。
まず、訳もわかんないだけれども、まず茶道の形。六十四種類のお点前と特種点前と、お辞儀の仕方、茶杓の使い方、それからひしゃくの持ち方。
春は春らしく、冬は冬らしくということ。前々々回の講義で申し上げましたけども、最初は茶道で決められた形、これを忠実に守る。
なんでこんなことしなきゃならないのか、とにかく黙って言われたとおり、昔から伝わっておりますところの、茶道の形をまず守りなさいと。形を踏襲しなさい、基礎をマスターしなさい。
ピアノでもバイオリンでも、まず基礎の形から、昔から言われているものをまず忠実に、形を守ってレッスンしなさいと。約十年かかりますね。
ごく普通にマスターしまして、茶道の総合的な基礎、こういうのを勉強しながら、建築とか、植物とか、焼物なんかの基礎を勉強する。約十年が基礎です。
それで、いつまでもいつまでもそれじゃ、形だけを忠実にきれいにピシッとお点前が点てるだけじゃ、茶人とは言えません。
茶道というものは、お茶の道から入りまして道へ入っていかなきゃいけませんので、それが、大体の形が守れまして、訓練ができて、ピシッとしたものが点てることができますと、今度は「破」。守が終わりますと破になる。
これは、形にとらわれない。お茶席に来たらお茶をキチッと飲んで、膝をビシッとして、七三に曲尺割をしてきた時に、こういうふうにお辞儀した時にあなたが三番目の人なら、お茶を、お菓子をこう食べながらこう食べ・・・。
ビシッとした形にとらわれないで、今度は、ご神業の時にお茶をちょっとアレンジしお抹茶出してみると。今度は、決められた形の中でちょっと、茶花とかをアレンジしまして、お茶の出し方を立礼式にしてみる。
それも、今度はちょっと、林の中で茶席を置きまして、今度はお琴がチラチラと流れてくる。コップをちょっと変えてみる。器を少し変えてみると。
旧来の形にとらわれないで、自分なりにその形を破っていく、アレンジしていく。生活の中に、茶道というものを取り入れまして、日常生活のお茶碗なんかも、茶道の基本に従いました形で、ごく普通のご飯、ごく普通のお茶、コーヒーなんかも紅茶なんかもこの茶道を応用しまして、自分でアレンジして、形を破っていく。
自分の独自なものにアレンジしていく。これが守が終わったあとの破。形を破るということはそういう意味ですね。
これは長い間続いていきまして・・・、まあ、ひとつの看板を取るというのが守でしょうかね。お茶の看板をもらいましたってのが守でしょうかね。
看板取ってからが破ですね、恐らく。それから最後がこの「離」。
離とは何か。形から離れようということです。もう茶道から全く離れまして、立つところ座るところ、歩くところ話すところ、茶道なんか全然関係ない。ごく普通に生活をしているんだけど、どこか普通の人じゃないと。
行住坐臥すべて茶道。すべてお茶の精神が、その人の身なり、その人の考え方、その人の歩く姿、お茶碗を取る手、お話しする姿に全部現れて、茶道というものの形がないわけです。
もう離れているわけですね。茶から入りまして道に入っている。
まさに、茶人と申しますのは、この道に入っている。だから一見何も変わりないけども、何かひとつのものに秀でた方のように思いますと。茶道の話もしないしお茶碗も関係ない。
お習字を書いたり、今度はピアノをしたり、庭掃除をしたり、塾で英語を教えてみたり。しかし普通の人じゃないと。茶道の精神、守・破というものが全部目に見えない形で、その人の中にエッセンスとして入っている。
これが離ですね。形から離れる。道に入ってる。こうして初めて完成するわけです。
これを、茶道で守破離と。茶から入って茶道に入っていく。
前にも、西谷さんにもお話ししたことあるんですけど、昔$7FBFという弓の名人がいました。俺は弓の名人になるんだと、一生懸命弓を練習しまして、朝から晩までもう弓。もう百発百中。
何年何月に結婚しますねっていうぐらいに(笑)、百発百中で弓が当たりまして。そして、まさに百発百中の弓の名人になりまして、ある時、シラミ、いますね。
白い糸でこれをくくりまして、庭の軒先にちょっと吊しまして、二百メートルか三百メートルぐらい離れまして、弓でパシッと射ればノミの眉間をパシッと(笑)、これを百発打っても百発狂わなかったというぐらいの弓の名人だったんですね。
で、羿は、我こそ弓の名人だと。中国ナンバーワンだと思っていたんですけれど、ある山の上に仙人がいて、凄い弓の名人がいるよということで、羿はそれに挑戦しようと。
大山倍達の武者修業のようなもんですね。羿は山の中に行きまして、その仙人に弓の競争に行ったわけです。鳥が飛んでましたので羿が、「じゃ、弓の競争しよ」と。
で、仙人がボーッとしてまして、「うー、やろ」こんな感じです。なんだ変わった奴だなと。「よしっ、俺の弓の腕前を見せてやるぞ、この腕前を見よ」
という形で、空を飛んでおります鳥を、羿がパッと弓を射ましたら、パシパシパシ、一本の矢に鳥が三羽(笑)、パーッと落ちてきました。三羽の鳥に全部一本の矢がさしてる。
「見てみろ、俺の腕はどうだ」と。鳥がこう三つ重ねの時にスパッ、それだけの凄い腕だった。この仙人は、「うーん」
「お前やってみろ」「うー」って。
仙人ですから。七澤さんのような雰囲気で(笑)、「じゃ、やってみましょうか」
その仙人は、全然、弓をもちまして矢をもたない。弓の弦だけブーンとしたんですね(笑)。そうすると鳥が全部バラバラと(爆笑)。
羿は驚きまして、もーやめた、オカマになろうかと思ったぐらい(笑)、えー、関係ないですけども。感動しまして。
はー、負けたと。矢を付けなくても、弦をブンと弾いただけで(笑)、全部落ちている。さすが仙人だなと。
それから彼の鼻が折れまして、本当の弓の世界一になるんだと、山の中で何十年も修業しました。
弓の名人羿というのは、中国の津々浦々に名前が知れ渡っておりましたんですけれども、しばらくの間、何十年ていうもの、消息を消しまして、羿はどっか行ったと。あの弓の名人は山の中で修業してるといわれた。そのショックがありましてから、矢をつがえないでも鳥を落とすと。
それから、羿が山ん中から降りてきまして、「おっ、みんな、あれ羿じゃないか」と。やはり、羿も山で修業しまして、ボー(笑)。女性より男性の方が・・・、なんて(笑)。僕はゲイ、って感じでね(笑)。それで、友達の家に来たわけです。
「お、羿じゃないか、寄れよ」
「おー」
てんで。一緒に酒を飲んだりして、「お前長い間どうしてたんだ。みんな心配してたんだよ、どうしてたんだ」
「いやー、修業してたんだ」
ご飯食べておりまして、羿が首を傾げてる。
「おまえ何を見てるんだ?」
不思議そうにご飯を食べながら、酒を飲みながら$7FBFが首を傾げてる。
「不思議だなー」
「おまえ、何を見てるんだ?」と。羿が首動かしまして、
「あそこに変なものがあるんだよなー。なんだろうかとさっきから思っているんだけど」って言って見てる、真剣な顔で。
友達がハッと見ましたら、「お前何を言ってんだ」と驚いた、何を見て驚いたっていうと、「君、あれは弓じゃないか」と(笑)。
「あれ、弓ですよあれは」「あっ、あれが弓というもんですか」と(笑)。
いうぐらいになったと。えー、前回お話しましたね、九方皐の話。
まさに名馬を見るのには、足と腰とか毛並みとか、雄とか雌とかっていうことでやるんですけども、名馬中の名馬っていうのは、平々凡々としておりまして、全く見た目にはわからないと。
ところがまさに馬の目利き、伯楽の上を行く九方皐は、そういうものに全く関係なく、馬の神髄を見ていたと。
同じですね。弓の名人羿というものは、最終的には、弓というものの形をも全く忘れるぐらいに、もっとその奥の世界に彼は修業してたという話なんですけども同じですね。「離」。
弓の名人羿ですけど、弓という形を全部もう離れて、見てわかんないぐらいに離れたという、ちょっとオーバーな表現ですけど。
例えていうならば、茶道の守破離というものと、弓の名人羿というものと、これはひとつのものに共通するんではなかろうかと。
それを植松先生は、(板書の音)名人じゃ駄目なのよ。達人でなきゃ駄目なのよ。名人は上手いだけよ。達人は道に達した人なんだよと。
一芸に秀ずるものは万芸に通ずるといいますけど、何に通じるかというと、道に通じるんですね。達人。だから、ある時Mさんが、「A子、これはなんだ」「あなた何言ってるの、これギターじゃないの」(爆笑)。
というぐらいになれば世界一だと。世界一のギタリスト。A子さんが見て、「あなたこれ何」
「何を言ってんだ、これ洗剤じゃないかっ」(笑)というぐらいになれば、アムウェイ世界一と(笑)。
もう、商品とか流通すっていうこと全くなく、ね、お互いが、そういう会話ができれば、達人同士の夫婦(笑)。
えー、これがまさに、海老名弾正さんのお話。
