深見東州の土曜神業録1(Vol.4)

お山に神様がいらっしゃって、この神籬や磐境の所に、お降りになると。神様がおかかりになる場所だったわけですね。

もっと前は、この地上が清らかでございまして、人間ももっと清らかでしたが、人間というふうな感覚もなかったので、神と人とが一体となりまして、離れましてから、御神霊に来ていただくために、神籬、磐境というのをつくりまして、神社ができてきた。こういうプロセスがあったわけですね。

そして、このたびの御神業では、また一番太古の形へこう戻していく。磐境も要らない、それから伽藍には降りない。そういうふうなものには神気は宿ってますけども、本来の人間と神様とが一体となって、神人一体、神人合一、自分自身の御魂がありまして、本当のその人の神様がいらっしゃると。

これが神人合一の一番太古に、最も太古にあった形がこれだと。太古の初発のパターンがこれなんですね。

そして、分別の知恵とか、人間的な観念とか、頭、頭脳、こういうものが発達しましたので、感性の奥にある御魂の世界と分離し始めたわけですね。ですから、禅宗ではこういうふうに言います。

「仏に逢えば仏を殺し、祖に逢えば祖を殺す」(板書)と。

仏様に会ったと、ははーって仏様拝みますと。もちろんそれはそれで大事なんですけど、禅宗では、仏様に会うということは、自分と仏様が隔たっているわけですね。隔たりがある。

だから、会うということは本当じゃないから、仏を殺せという。強烈なきつい言い方です。祖先に会えば祖先を殺すなんていうのは、非常に乱暴な言い方なんですけど、この言っている言葉の奥の意味は、仏様というものは、相対して自分と仏様という形で二極になっちゃ駄目だと。

自分と御先祖さんていうのは、二極になっちゃ駄目だと。自分が仏様か、仏様が自分か、合一しておりますと一体ですから、どこを探しても会わないわけですよ。

御先祖さんと自分が一体になってますから、どこ見てもないわけですよ。

それは全然いないっていうんじゃなくて、一体となっているから見えないんだ「仏に逢えば仏を殺し、祖に逢えば祖を殺す」と、禅宗でいう有名な言葉なんですが、これは観念とか分別の知恵ができまして、仏様とか内面性とかっていうのを外に拝んでくるようになってきたのを戒めまして、本来は自分自身の中にあるものだから、一体とならなきゃいけないんだということを言っております。

この禅宗で言いますところの仏って言いますのは、四次元的でございまして、幽魂ゆうこんとか、心の奥の世界ですね。

ですから、御魂を禅宗の方から開いてくる場合もあるんですけど、余程の場合でない限りは、「禅天魔ぜんてんま」って言いまして……。結局、「自分自身を開く」という考え方が、ヨガ的、行的なものですから、謙虚さというのか、真心というのか、そういうものが欠けてくる。

神様と自分が一体となりましたら、もっと奥の、自分自身の御魂の奥にある宇宙創造の”す”の神様に対しまして非常に謙虚で、天地自然に対して非常にうやうやしく、人としましても上品で、謙虚で尊大ぶらないという態度がまさに神様の姿勢ですから。

「人が神様の如く」っていうのは、そんなに偉そうじゃなくて、「我こそは」なんていうことはありません。誰よりも人間らしくて、誰よりも謙虚で、誰よりも控え目なのが神様なんです、高級神霊なんですね。

ですから、禅宗のそういう、「俺は」とか「自分自身を開く」っていうのは非常に傲慢でして、傲慢という気が蔓延しております。禅宗の言ってる方向性は正しいんですけれども、禅宗でいうニュアンスと、禅宗の世界というものから見たその見方は、非常に傲慢です。

天とか宇宙創造神に対する謙虚な「私」と、働きの神様は働きのない宇宙の創造神の一部ですから、その役割を担わせていただいてありがたいと、何らかの形で神様の御心に合うように、御意志にかなうように、お役立ていただくという気持ちの姿勢が満ち満ちている、それが本当の神様が来ておられる証拠なんですけど、禅宗の場合にはそうじゃない。

そういうものに対する謙虚な姿勢がありませんので、あくまで自分を見つめていってるという一部しか見てないわけで、禅天魔ということで非常に恐いと。まあですから、禅宗でいうところの「衆生本来仏しゅじょうほんらいほとけなり、人をのぞきて仏なし」。白隠禅師の『坐禅和讃ざぜんわさん』にあるようなものと同じことなんですけれど。

「神は身の内にあり」ということを、もう少し禅宗的にこれを説いてみますと、以前に慧能禅師のお話ししましたね、禅宗のストーリーを全部。慧能禅師は「自己本来の面目」と言いました。

臨済禅師は「一無位の真人」と言いました。

あるいは「父母未生の我」とか。お父さんとお母さんの間から生まれてくる前の自分を見なさいと。肉体を借りて生まれてくるときの自分と。こういうふうにお話ししております。

それから「御主人公」。自分自身の、自分自身を司ってるところの本来の自分自身と。瑞巌っていう禅師が、「御主人公様、あれでございますと、なんとかなんとかと、あい、御主人公様」と。

一人でいつも自問自答したわけで、誰と話してるのって、自分自身の御主人公といつもお話ししてる。これがその人の中の身の内の神。

御主人公、父母未生みしょうわれ、一無位の真人、自己本来の面目。禅宗ではすべて、観念を打ち破りましたところの自分じゃない自分と。

人為的な形で「俺は」と言ってる自己とは違う、本当の自ずから出てくるところの自己、無為の自己ですね、これは。有為的なそういうふうなものがないところの自己、自分じゃない自分。

自分じゃないところの自分、本来の自分。こういう言い方しますね、禅宗的な表現ですと。次元は違うんですけど、先程申しました。

これよりももう少し高いランクで、「神は身の内にあり」と。本日のテーマは「神は身の内にあり」ということで、最初は神道の分霊分魂、神の子、神の宮の話からしまして、お話が進んでいるんですけども、もっと別な角度で言っておりますのが、王陽明先生が、これを非常に素晴らしく言っております。

えー、宋学の周溪しゅうれんけい程明道ていめいどう程伊川ていいせん張横渠ちょうおうきょという方の思想を集大成しまして、朱子という人が朱子学をつくったわけですけど、それが非常に理論的でございまして、非常に理を尊重したんですけども、陽明先生はその、宇宙の天理とか、天の理とか法則というものは全部心の中にあるんだと。「心即理」ということを言いました。

朱子学の基本は、「聖人は学んでなれりや」と。聖人は学んでなれますかと、ここから始まってるんですね。前にも言いましたように、「聖は天を希、賢は聖をこいねがい、士は賢を希う」ということが、『近思録』の中に出ておりますけれども、聖人というものは学問することによってなれるもんなんですかと。

なれますよと。学問を積むことによりまして聖人になれるんだよと。

前にも申し上げました、「顔回は三月仁に違わず」と。顔という人は貧乏長屋で、食べる物も着る物も住む所も十分じゃなかったんですけれども、いつもニコニコニコニコして、何か知らないけども楽しそうに生きておりました。顔回は一体何を楽しみにしてニコニコニコニコとしているんでしょうかと。

食べる物も着る物も地位も名誉もなんにもないのに、ぽろぽろの貧乏長屋に住んでおりまして、顔回は何をニコニコとしているんでしょうかと、何を楽しんでいるんでしょうかという質問が、『近思録』の最初にありまして、それは聖人の道を楽しんでいるんですよと。

聖人に至るの道を楽しんでいるんですよと。立派な聖人になるための道を顔回は楽しんでいる、顔回三月仁に違わずというのは、長い間仁から外れなかったと、仁という境地から常に外れなかったということです。

「三月」というのは長い間という意味ですから。仁に違わず、聖人の道を顔回は楽しんでおりましたと。

そういう意味での学問だと。文字や言葉とか台詞を蓄えるのが学問じゃないと。聖人の道を楽しむ、これが学問だよということから入ったわけですけれども。朱子学では、学問を積むことによりまして聖人になれるんだよと。

陽明先生は、そうじゃないと。もちろんそれはそうなんだけれども、聖人というものは学んでなるもんじゃないんだと。どういうものかというと、もともと我々の天の性の中にあるんだと。天性の中に、もうすでに聖人は宿っているんだと。非常に禅的ですね。

前にも説明しましたように、りっしん偏というのは「心」という意味ですから、「性」っていうのは、生まれながらの心ですね。生まれながらの心がミックスされましたのが性質ですね。

それが、格るということになりますと、性格ですね。生まれながらの心が格になって、生まれながらの心が至ったものが性格と。生まれながらの心というものが積み重なりまして、ミックスして圧縮されまして、固まっちゃったのが性質というんですね。

性質とか性格という言葉はそういう意味です。性は生まれながらの心ですね。その生まれながらの天の性の中に、もうすでに聖人はいるんだと。

もともと我々にあるんだと。どんな人も血液の中、天性の中に全部あるんだ、眠っているんだと。これを人欲が、人間の欲望というものが、この性の中にある聖人というものを覆いかくしているんだと。

だから陽明先生は、この欲望を取ればいいんだと。欲望を取り去ってしまえば、ごく自然に言う言葉はすべて、もう聖人だから、ツボに当てはまってると。

ごく自然に行うことがすでにもうツボに全部はまってると。ごく自然に言ったり、見たり、聞いたり、行ったりすることが、全部物事のツボにはまっておりまして、周囲との調和を欠かないし、物事の中心をピタッと外さないようなことができるんですよと。

だから無欲になりなさいと。地位や名誉やお金や、そういうふうなものに拘泥しておりまして、この欲望、欲心、人欲というものがあるから、元々ある聖人が眠ってしまっていて出られないんだと。

これをなくせば、覆い被さっているものを取れば、本来の聖人は出てくるんだと。学んでなるんじゃないんだと。本来あるのが、覆い被さっているから、これを取り除くべく努力しなきゃいけないんだと、これが陽明学なんですね。

そして、その天の法則というものは「心即理」、心の中に全部もう法則があります。「知行合一」、知はすでに行であり、行はすでに知であると。パッと知が出たときには、すでにもうそこから、行いが出ております。知というものは、行って初めて本当の知ということができると。行いはすでに知だと。

それを王陽明先生は「知行合一」と言いました、知と行は一つだよと。朱子学のように、理屈や頭だけじゃ駄目だよと。本来の天の性に戻れば、その知ということは、すなわち行いがともなうものだし、行いはすでに知によって裏付けられているもので、これは不即不離なものですよと。

頭とか観念とかという、そういうふうな知恵や理屈だけで、勉強していくことによって聖人になるもんじゃないんだと。行いができないと、本当の聖人にはなれないんだよと、陽明先生は言っているわけですね。

そして、我々がその欲心を取れば、知行合一、ごく自然に元々ある聖人のいうことに従いますと、自然にうまく行くと言いましたけども、その天の性の中に宿っている聖人は、すべてのことを知っているんだと。

過去のことも知っているし、未来のことも知っているし、只今なすべきことがどういうことかも全部聖人は知っておられるんだと。まあ、身の内の神ですね。

その陽明先生が言ってるところの天の性の中に、すでに聖人は宿っていて、これが身の内の神だと。自分自身の性の中の聖人、これは正に身の内の神。

「神は身の内にあり」という事は、「天性の中に既に聖人はあり」と。陽明先生の言ってる事と植松先生に教えられた事は、正に同一だと思いますね。

これを王陽明は「良知」と言ったわけです。良知は既に知っているんだと。過去の事も未来の事も只今なすべき事も全部知っているんだと。この良知のまにまに行えば、すべてうまく行くと。天性の中にある聖人、これの知ですね、それを良知と言う。

潜在意識の持ってる知恵ですね。潜在知ですね。全部知っているんだと、この良知は。頭の知恵じゃない、理屈とか理論の知恵じゃない、分別の知じゃないと。本来自分の性、天性に宿ってる聖人の、全部知ってるところの知が良知だと。この良知のまにまに行く事が、自分にとっての一番いい道であると。

この良知のまにまに進んで行くのが本来の人の姿なんだ、地位や名誉やお金や命までもいらないという事で、陽明学を学んだ人は吉田松陰も、松下村塾で勉強した高杉晋作も、坂本竜馬も、それらの人たちはすべてこの陽明先生のこの良知の思想によりまして、眠れる聖人のまにまに生きてる。何々のためにこうだとか、地位や名誉や自らの命の事は関係ない。

「かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂」。やむにやまれぬ大和魂とは良知なんだと。やむにやまれぬ良知、このまにまに生きて行くのが本来の人の姿なんだと。計算ずくでやっちゃいけないんだと、無欲でやんなきゃいけないんだと。

こういう事で、西郷隆盛もこれを学んでいるわけですけど、まあ西郷隆盛が本当に陽明学を勉強したのかどうなのかは、ちょっと怪しいなんて説もあるんですけれども、西郷隆盛の行動は正にそうだったので、勉強してると一般的に言われているわけですね。

高杉晋作も、久坂玄瑞も、みんなあの松下村塾で勉強した人は、その陽明先生の知行合一良知のまにまに生きて行く、無欲。地位も名誉も命もいらないと。そして今なすべき事、幕府を倒して新しい明治政府をつくる、尊皇攘夷という事に我々は命を懸けなきゃ駄目なんだと。

その通りに生きて、後は死のうとどうなろうとそんな事は考えないと。そのように生きて行くのが本来の姿なんだというわけですね。こういうものが、明治維新のときの人たちの精神的なバックボーンにはあったわけです。「神は身の内にあり」、同じ事ですね。

そして陽明先生は、この良知とか、眠っている聖人を芽生えさせるのに、知行合一、心即理の法則を体得するために、瞑想とか座禅をしちゃいけませんと。陽明学の立場ってのは、神人合一と座禅の中間ぐらいの位置ですね、陽明先生の言ってる教えは。

分霊分魂の神様の御本霊と一体となって、神人合一と言いましたけれども、それと似ておりますのが、この陽明先生の言ってる立場だと思います。それは、朝から晩まで座禅するとか、瞑想をして朝から晩まで山の中で座っててなるもんじゃないんだと。

そんなものはそれだけしか出来ないもんだから、本来の天性じゃないんだと。

それは意識だけなんだというので、陽明先生は、「事上磨錬」と言ったわけです。どういう事かと言いますと、山の中で瞑想したり座禅したりするんじゃなくて、そんな事で自己本来の面目を出すんじゃなくて、公務員だったら公務員の仕事という事の上において、作曲家だったら作曲という事の上において、運転手だったら運転手さんの事の上において、貿易商だったら貿易商の仕事の事々の上において、お父さんならお父さん、お母さんならお母さんのなすべき事々の上において、磨き練られなきゃ駄目なんだと。「事上磨錬」と陽明先生は言ったわけです。

生活をしているその事々の上において、「事上磨錬」。何を磨くかというと、無欲になる。人欲をなくして、本来の自分の天性の中にある聖人、聖人、自己の中に眠っている何でも知っている良知を出す。

その良知のまにまに行って知行合一、その良知と行いが一体となるようなあり方を、公務員なら公務員の仕事の上において、作曲家なら作曲家の仕事の上において練り磨きなさいと。

これが陽明学の修業の方法なんだよと。決して山の中とか、そういうところで瞑想したり座禅をしたりする方法じゃないんだと。陽明先生は、一歩、儒教という立場から理屈じゃない老荘思想と儒教と、禅宗というものを一歩乗り越えました形で、非常に神道的な、惟神的な世界に入りまして、この事を言っておられるんですね。

だから武士は武士たるもの、それぞれの立場において事上磨錬だと。陽明学の有名な学者としまして、皆さんよくご存じかもしれませんが、大塩平八郎という人がおりました。「大塩平八郎の乱」というのがございまして、日本史をやった方はご存じだと思うんですけれど。

この大塩平八郎という人は、大阪の力でございまして、この幕府のあり方というものは、もう許せないと。しかし、与力の私がそういう不満分子を集めましてやれば、非常に江戸幕府は罰則が厳しゅうございまして、ちょっとした事がありますとすぐ処刑されて、市中引き回しの上磔獄門なんて事にすぐになったときでございます。

大塩平八郎は、幕府に対しまして、謀反とかクーデターを出そうというときに一瞬ためらったんですけれども、しかし、大塩平八郎はこの陽明学を勉強しておりまして、幕府の与力という立場におきましてなさねばならない事、人欲を去り無欲となって、良知、自分の内面に内在するその声が、切に思っている「かくなるものと知りながら、やむにやまれぬ大和魂」という、そのまにまに思ってる事に生きるのが本当なんだと。

それでたとえ命がなくなっても俺はいいんだと。それが本来生きてきた自分のあり方なんだと。天性の聖人のまにまに自分はありたいという事で、大塩平八郎は「大塩平八郎の乱」を起こしまして、これもやはり磔で死んだわけですね。

近代では三島由紀夫も陽明学を学んだと言われています。三島由紀夫は、ああいう形で切腹をしたんですけども、この陽明の勉強をしまして、自衛隊を何とかしなきゃいけないんだという、やむにやまれぬ気持ちがありまして。

大塩平八郎とは違うんですけれども、三島由紀夫は三島由紀夫なりにやったと。

そういう事で、陽明学というのは革命思想だとか、危険思想だとかっていう形で、吉田松陰とか、大塩平八郎とか、過去何度もそういう事がございましたので危険視されているんですけども、本当の陽明先生の『伝習録』、それから陽明先生の伝記、陽明先生の言ってる言葉を一つひとつ味わってみますと、非常に高い境地です。

儒教というものを、理屈じゃない、魂でそれを受け取ってきた実践と経験と、そこから出てくるところの高い次元の悟りが、陽明先生にはありますね。ですから『伝習録』を見ましても、オレンジ色の輝きがします。お腹の奥から、ウワーッと燃え上がるようなオレンジの輝きが出てきますね。

私が湊川神社へ行きまして、楠木正成公の付けておられましたという鎧を見た事があります。その、楠木正成公が付けておられた鎧から、やはりオレンジの光が出てました。

山吹色の気がウワーッと、実際に楠木正成公が付けておられた鎧ですね。陽明学は、時代的には明の時代ですから近いとは思うんですけれども、勉強したのかどうかわかりませんが、楠木正成公の鎧から出てきた気、オレンジ色の輝きの気と、陽明先生の御本とか『伝習録』とかの言葉を見ておりまして、陽明先生の話で出てくる気ですね、やはりオレンジの輝きです。

山吹色のウワーッという気が出てきます。非常に勇気とエネルギーが湧いてきます。これが本当に、眠っている聖人。活力ありますね。禅宗でいうところの、ああいう禅天魔というよりか、もっと捨て身な大和魂に近いですね。もう少し次元の高い太古の、先程申しました神人合一の次元から見ますと、ちょっと現実界ていうんですかね、右翼的な感じがしますけれども。

でもやはりこの事上磨錬というね、禅をしたり瞑想したりするんじゃなくて、公務員なら公務員、作曲家は作曲家の事の上において、それは磨かなきゃいけないという「事上磨錬」、これは惟神の道の立場と、非常に類似しております。それに近い次元に陽明先生はいたという事は間違いないんです。朱子よりも断然上です。

どうですか、お話ししただけで熱くなるでしょ。王陽明先生のお話ししてたら、エネルギーが出てきませんか?素晴らしいですよ。国常立尊さんの奇魂様ですかね、分魂がいらっしゃったときってのは、やはりオレンジの輝きです。

オレンジ色の山吹色のね、フワッとした感じですね。それに近いですね、似てますね。たぶん、陽明先生はそうであったんだろうと思いますけど。

そういう事で、最初に戻りますけれども、植松先生が言っておられました、「神は身の内にあり」と。分霊分魂という要素と、自己本来の面目とか、一無位の真人とか、御主人公とかありますけれども、この陽明先生の、我々の天の性に元々宿る聖人、内面性に宿っている尊い部分ですね。

身の内の中の神の部分、仏様、神様の部分。だから、自分自身の神様を拝んで、自分自身の内面を大切にしなきゃいけませんよと。自らの霊を拝して、きちっとした洋服を着て、きちっとした身なりを整えて、そういう意味で自分を大切にする。

『老子』でこういうのがありますね。世の中の誰よりも自分を大切にする。そういう人が世の中を支配したら、これほど世も安泰な事はないと。

ちょっと聞くとね、最も良しの人が世の中の頂点を取ったら世の中がいいなんて、ちょっと気違いじみた理論ですけども、よくその文章の意味を見てみますと、

今言ったように、世の中を立派にしなきゃならないという責任と任務があります。

それだけの任務があるからこそ、自分の中の内在する神性、神様の部分、自分自身の存在、立場、こういうものを大切にする事によって、世の中が素晴らしくなる。世の中の事を思うからこそ、自分自身を大切にして少しでも長生きして立派にして、その能力と力というものと、その道に対する徳というものを尊重していく。

そうする事が、世の中を本当に良くする事なんだよ。そういう境地に立ってる人が世の中を治めると、これほど安泰な事はないという、老子の逆説的な言い方なんでしょうけども、それに近いですね。

ですから、植松先生はいつも、御魂とは見たままだ、姿は〝す”の型っていうことで、きちっとした洋服を着なさい、きちっとした身なりをしなさい、ぴしっとした入れ物に、自分をそういう意味で素晴らしくしていくような演出と、自らを高めていくような事を必ずしなさい。

それは、神は身の内にあるからなんだよと。人様に御神霊がいらっしゃるからなんだよと。

人間の体、私自身に神様はいらっしゃる。そういう神人合一の世が出てきて、太古のパターンがそうだったんだよと。これからの時代もそうだよと。

だから、自分自身の神様を崇敬し、一体となって神人合一しなさいと。一体となってなるんだよと。それが、「仏に逢えば仏を殺し、祖に逢えば祖を殺し」という事でして、神人一体となっていってる。

人としても最高に素晴らしい人、神様のような人。人か神様か、神様か人かわからないような、素晴らしい人になりなさいって事ですよね。

それで、神様の上の頂点ていうのは、天の道、人の道、地の道、全部貫いてるのが本当の道ですから。

「神様から見たら立派かもしれないけれど、人の道はちょっとね」と、これは本来のものじゃないわけです、これからの時代は。

あまり変な行者さんとか、ちょっと一風変わり過ぎてて社会人として変だと、そういうのは、本当の神様の世界でも、ちょっと変なものが付いてるわけですね。

高級神霊と一体となっておりましたら、どういう人から見ても素晴らしいなという人でなければならない。という事で、「神は身の内にあり」というお話を、いろんな角度で今日は見てみました。

「只今に生きる」「自然は神なり」「素朴で素直が神一厘」、それと同じく大切な、「神は身の内にあり」というお話でございました。

どうも。(拍手)