真というものを行えば善です、真実を行えです。
まあ、善というものは、前に言いましたように、『陰録』では、人に益することをするのが善と。人に益しないことするのが悪というふうに『陰隴録』では書かれておりましたけど、あの了凡の話の時、ちょっとお話ししまし
たけど、人に益するのが善だと。いろいろ定義ございますけれど。
それから、谷口雅春さんの『生命の実相』では、神様の力徳が至ったところが善であって、至らないところが悪だと。善と悪とは相対的なもんなんだっていう形の解釈してますけど、これは別に谷口雅春さんのオリジナルではなくて、その師の出口王仁三郎の説いた説をそのまま使用しているんですけど。
これは生長の家のオリジナルではありません。出口王仁三郎も、本田親徳という明治の初めの、神功皇后、それから武内宿禰の神法ですか、鎮魂帰神の神法を得た人の勉強をしております。
いろんなものを勉強して、集大全しておりますね。これは生長の家のオリジナルでございませんけれど、「神様の力徳が至った所が善で、至らない所が悪だ」と定義しておりますけど、これは本来は、神様の真実というものをまあいろんな意味の真がございますが、真を行うのが善と。
善の姿が美であると。高級神霊っていうのは、これ三つ揃ってるわけですから、前にある人がいらっしゃって、「私はいろいろ、霊能者を見たんですけども、誰一人見ても、あまり清々しいきれいな顔してする霊能者とか除霊する人って見たことない。みんな目がこうだったり、こうなって引きつってたり、どろっとした目だとか。あまり美しい姿の人で、目がきれいな人で除霊する霊能者、見たことない。だから私は変だと思ってたんです」と。
御魂でわかってるわけですね、美がないんですよね。
「これが宇宙の真実だ」ってやってても、やってる行いが善かどうかという。ま、この善悪というものは、神様の目から見た善と、人の目から見た善は違います、同じ面もありますけども、大悪は大善の如しと。大きな悪は大きな善に見えると。
とにかく、真善美というものが揃っていないと、これは高級神霊とは言えないわけですね。ですからまあ人の生活をしておりまして、それから善を行っておりまして、そこに芸術的な美の感覚がなければ、本当の高級神霊は・・・。
『論語』でこういうのがあります。
ある人が孔子さんに先々週ぐらいから孔子がよく出てきますけども、ある人が孔子に「あの音楽いかがですか」と聞いたわけですね。
そうすると孔子はその音楽を、まあその当時の礼楽の楽でございますけど、音楽を見まして、「その音楽は未だ美なりと言えども善ならず」と、こう言ってます。その音楽は、美しいことは美しいけれど、「美なりと言えど善ならず」と。
『論語』でこういうふうに言っております。孔子は、「教養というものはいかなるものか」と。前にお話ししたと思うんですけども、教養というものはどういうもんかと。
カルチャーと。それは新宿のあるセンターに通うことです(笑)。そうじゃありません。
孔子は一体教養とはどういうものかと、こういうふうに定義しております。(板書「詩に興り、に立ち、楽に成る」)
前にも説明いたしました四書五経の中で、『詩経』というのがありまして、この『詩経』は約三百数十篇の、周公旦とか、堯や舜の時代から綿々と続いてまいりました漢詩ですね、その素晴らしい詩というものを編集したわけです。
孔子が、勉強する教材としまして。『書経』、『詩経』、『易経』、『春秋』、『礼記」、これを五経としまして、四書は『論語』『大学』、『中庸』、『孟子』です。
その『詩経』、その詩から起きるんですよと。
詩、まあ、人間の高貴な部分ですね。直接行動にとる前に詩を詠むという場合は、大体美しく詠みますよね。人の心の感情の美しい部分というものを詩に詠みますね。
人が、ポエムでも言ってみたいと思うときにですね、あまり人間の醜いところや、見苦しいものばかりまあ、ロートレアモンなんていう人―、本は、えげつない、子宮を取り出せなんていうあんなのもいますけども来は、孔子さんも言いました「詩とは何か」と。詩の神髄とは何かと言いますと、いわく「思い邪なし」と。こういうふうに言いました。詩の神髄は何かと。「思い邪なし」。
孔子が言うのは、邪のない心。人間の心の中の感情の美しい部分、これを詠うわけです、詩を。ですから、詩を理解できるということは、人間の高貴な部分を理解できると。人の内面性の高貴な、最も高貴な部分を理解できるという人にして初めて、教養があるというわけですね。
だから、まず「詩に興る」。詩を理解するという内面性から教養が始まりますよと。そういう高貴な部分を理解できない人は、いくら勉強したって教養があると言えません、君子と言えません。
次に「礼に立ち」。この礼というもので教養が確立しますと。
なぜ礼によりて確立するかと言いますと、例えば、なぜお葬式は、お葬式の礼をとってするかと言いますと、人が死にまして、「わー、死んだー死んだー、死にやがってー」なんて言うよりも、人の死を美しく悼む。
同じ死を悲しむのでも、美し悲しみ方があるだろうと。
「結婚、おめでとう」、籍入れればいいじゃないかと。あれだけのとにかくもうね、案内状発送して、式場取りがもう大変よと。
ある人が、結婚式ってどうしてやるかって言うと、あまり簡単すぎるとすぐ結婚してすぐ離婚しちゃうかと。なるべく大変だったら、もう二度と嫌だと言うんで、結婚は一回にしようというふうになると(笑)。
そういう説もあるらしいですけど、本来なぜああいう儀式があるかというと、「二人が結婚してめでたい」と、「おめでとう」と、結婚を祝うのでも美しい祝い方があるというので、ウェディングドレスを着まして、一つの礼式に則りまして、行うわけです、セレモニーを。
それから一杯のお酒を飲むにしましても、なるべくこういうふうに飲んだ方が美しいと。三三九度で飲むとか。こうやってガーッて飲むよりも、こういうふうに飲むと美しいと。
人間の日常生活の中、人が死ぬということも結婚するということも、生まれて「やあ、誕生おめでとう」と、誕生会をするにしろ、お宮参りするにしましても、一つひとつの人間生活の中で美があるわけですね。
お酒を飲むのだって、死を悲しむのだって美がなきゃいけない。そのために礼があるわけです。
形式化しておりますので、形のための形というふうになってくるので、この礼の道が疎かになっていると。非礼見るなかれ、非礼言うなかれ、非礼聞くなかれっていう話、先週お話ししましたね。
顔回がどのようにして仁の道に志して体得したのかというと、非礼四原則。礼に合わないものは見ちゃいけない、聞いちゃいけない、言っちゃいけない、心を動かされない。非礼見るなかれ、非礼言うなかれ、非礼聞くなかれ、非礼動くことなかれと、非礼四原則を顔回が学びまして、「顔回これ三月仁に違わず」。
長い間仁に違うことがなかったと言われた。その礼ですね。
「非礼見るなかれ」。礼にあらずんば見るなかれって言いました。その礼とはそのように、美しい見方、素晴らしいもの。変なもの見ちゃいけないと。
美術もそうですね。美しい本物の絵を見れば見るほど、目は肥えてきて、本当の絵というものの美的センスというものが養成される。
どうすれば体得できるかと言えば、より良い絵を見なさいと。いいもの描いて、いいもの見て、いい話を聞いて、良くなれば素晴らしくなるけれど、まずそれから始めなさいっていうことで、顔回は体得したわけですけど、その礼ですね。
そのように人間生活の中で、どんなことをするのも美があるじゃないかと。
美しいお茶碗の並べ方があるじゃないか。礼儀の礼ってのは本来はそういう意味だったんだと。今はもうね、「最近の若い者はもう礼はなく、美がない」と、ま、それはそれなりの新しい礼が出来るんでしょうけどね。
形式ばった形というんじゃなくて、本来はそういう意味なんです。
孔子さんは、この礼が出来て初めて、この人間社会の中で教養というものが確立するんだよと。これが出来ない人はまさに教養がないですよ。
「礼儀を失するからあいつは教養がない」と。この御神業でも、社会常識とか礼のない人間は、いくら素質があったとしてみても行き詰まりだと。
高級神霊と接霊できないからなんですよね。神様拝んでても、やってましても、真善美がないから、行き詰まるわけです。ですから、礼儀のない人間っていうのは最終的には行き詰まっちゃうから、こちらの方からお断り。もう限度がありますと。同じことですね。
そして、最後に孔子さんは、教養の完成としてこの「楽に成る」。楽っていうのは音楽です。音楽によって教養は完成するんだと。
これはいろんな意味がございますけど、音楽というものは、一人でやる音楽もありますけれど、どちらかと言えば楽団で、自分一人が恍惚としまして、うーっとギター弾いておりましても駄目でございまして。ボーカルがありまして、ベースがありまして、ドラムがあって、一つの音楽を出していく。調和ですね。
当時の孔子の言った音楽というのは、今言った、ソロのピッコロを吹くとかね、そうじゃありません、雅楽みたいな形で複数の人達がわーっと。
見ましたね、伊勢でも。こういうふうにして、プワーッというのと、ドンドンドンというのと、あのタイミングが、早くても駄目、遅くても駄目、一つの音が目立ちすぎても駄目、一つの音が小さすぎても駄目なんです。小さいところは小さい、大きいところは大きいで、複数の人達が調和しまして一つの美を奏でると。
ですから調和。美しい美を作るために調和をしていこう。出過ぎないで、引っ込みすぎないで、調和をはかっていこうと。これによって初めて教養ができる。音楽の美と言うんですかね。
「詩に興り、礼に立ち、楽に成る」。素晴らしいですね、孔子さんの言ってることは。
ま、霊能者はいくら無念無想になりましても、儒教のこの教えのない人は、一所懸命瞑想しまして、朝から晩まで山ん中で瞑想しましても、これがない。「詩に興り、礼に立ち、楽に成る」こういう要素がない。自分だけの霊能力とは言いますけど、じゃどういう神霊と一つになってるかですね。今日の「神霊と一つになる」。
そのレベルのものしか感応できないんです。当てものだったら当てもの、タヌキが来ます。タヌキやヘビですね、当てもの上手は。
「ああ、財布どこに落としてる」と言うと、「あっ、ぴったり財布がありました」と。瞑想してそういう能力は得たと。何と一つになってるかですよ、無の状態で。当てもの上手なタヌキ、ヘビがきれいに収まってくれましたと、瞑想によって。
「詩に興り、礼に立ちて、楽に成る」。人間の心の高貴な部分を理解して、礼というものをいかなる場合でも、社会人ですから。この現実界という、神様が作られた世界ですね、楽の世界、美の世界です。
こういう背景がございまして、孔子さんは、その音楽は何かと。お話戻るんですけど、音楽とはなんですか、あの楽はいかがですかと、ある人に言われて聞きまして、うん、「美なりと言えどいまだ善ならず」。
その音楽は確かに美しいけれど、善ではないと、そう喝破してるんですね。「いまだその門にいると言えども室に入らず」と。その音楽いかがですかと。
うん、門のところにまでは来てるけど、その室に入らず。入り口の辺りまでは来てるだろうと。いい線まで行ってるけど、その室に入らず。奥にまだ入ってないと。
奥に入ってないかどうかって、やってる人の、音楽を奏でてる人の内在するものが出てるわけですね、曲に。美ではあるんだけれど善でない。善でないのはなぜかと言うと、真でないからです。
その人の魂なり、教養なり、内面性なり、学んできた学問まあ孔子のいう学問、学問というのは孔子の場合は聖人に至るの道ですね。
聖人、素晴らしい人に、堯や舜のように、先週お話ししましたや舜や禹や、湯王や周公、あのような古の聖人のように、聖人に至る道ですね。天地の真、本当のあるべき天地の真理、聖人に至るべき真。
この真を体得してる人が聖人ですから。ま、それを王陽明は、「心即理」と言ったわけですけど、人間の心の中にすなわち天の理が入ってるんだと。
陽明さんはこういうふうに言っておりますけど、その天地の真というのは心の内部に全部にあるんだというふうに言ってるんですけど。
つまり、美なりと言えどいまだ善ならずと。その門にいると言えど、いまだ室に入らずと。
そのように、孔子さんは、真善美ということを見ますと、B教団とかC教とかは「真善美全き世界」とかね「真善美調えるのが地上の「天国」とか言うんですけど、それはこの真善美というのは儒教の言葉をアレンジして言ってるわけでございまして、そのようにこれは昔から言われておりまして、善と真と言うことはそういうことでございます。
美は美でも、技術的にはなんか美しくは感じるけど演奏している人の魂、内面性というのは、孔子さん、音楽見たらパッとわかるわけですね。
心眼が開いてるわけですから、音楽してる人の奥がわかるわけですね。善なりと言えどいまだ真ならずでしょうね。
その人の行い見ていかがですかと。『論語』には出てませんけど、孔子さん、あの人はいかがですか、非常に善根功徳を施しておられますけど。
うーん、いまだ善なりと言えど真ならずですね、善行はやってるけどもまだ道を体得してるとは言えない。本当に内面性を、高く磨いている神人とは言えないと。
このように、高級神霊と申しますのは真善美という三つの要素というものがなければ、高級神霊自体がそうですから、人間もこの地上におきまして真善美を行える人、一〇〇パーセントでなくても、より近くなればなるほど、その神霊が来るわけですね、高級神霊とは無尽蔵にいますから。
だから、ただ今ただ今の日常生活の中で、どれだけのこの真善美、人としての「詩に興り礼に立ち楽に成る」という心の教養、人としての立派な生き方、中山みきさんとか出口ナオとかジャンヌ・ダルク見たことありません私、ジャンヌ・ダルクね。
しかし、少なくとも、あの時代綾部で表彰されております、親孝行だということで、出口ナオは。中山みきさんも親孝行だということで、たくさんの家族の人達みてきて、なんと親孝行な人だと。
真善美というものが御魂でもう知ってたわけですね、そういう人だからこそご神霊が来たわけで。
私どもの植松先生もそうでございまして、一介の主婦でございまして、別に滝に打たれたわけでもございませんが、ま、お茶も二つの流派を看板持ちまして、お花も三つの流派の看板持ちまして、ケーキの先生ですし、料理の先生ですし、着付けの先生でもありますし、ダンスもうまいし。ダンスというのはまに真善美でございまして、そういうふうなものをある程度極めてきて、真善美というものを。
あるいは茶道とか華道とか、あるいはお着物とか、あるいはケーキとかそういうふうな中での美の感覚ですね。そこの中での茶道にある真ですね。
前にも申し上げたように、華道には通じるけど柔道、剣道に通じないっていうのは、道ではあるけども大道ではない。本当の大いなる道というものはどういうものかって言えば、華道にも柔道にも剣道でも、それから居合道であろうと、お花でもケーキ道でも、英語道でも仏道でも全部通じるもんだよと。
これが大道、大いなる道だよと。これが真ですよね、どんなものにも通じる普遍的な真理。
それは一つのものを通して普遍的に変わらない、一芸は万芸に通ずなんて言いますけど、一つの道を単なるテクニックじゃなくてその奥にある普遍性行ってる人の魂、法則ですね。一生懸命やれば向上するとか、しない者は駄目になるとか。簡単ですけど真理ですね。
その大道というものが、一応そういうものを知ってて普通の主婦でやって、真善美というものをその世界で極めたからこそ、植松先生の場合も神様の方から「ごめんください」と言ったか言わなかったか知りませんが、いらっしゃったわけです。
これ、先天の行でございますね。あるいは天啓の宗教とも言います。
宗教のジャンルに分けまして、天啓の宗教、天がその人に啓示を与えてきたと。ジャンヌ・ダルクなんかもそうですね、イエス・キリストもそうですね。
四十日間の荒野の修業があったとは言いますけれども、天啓があってしたわけですね。ヨハネもそうですね。一つの大きな時代の仕組みの神の動きの中で、天の啓示をもらってやってたと。
このように、先天の行と、後天の行があるわけですけれども、その先天の行でも、いろんな角度がございまして、人として立派な人は世の中にいますけど、
御神霊というものに対して、いかなる姿勢をもっていて、真善美というものをそろえ、あった度合に合わせまして、「心だに誠の道にかないなば祈らずとても神や守らん」。
守護神、守護霊さんも、その人の磨いた度合いに応じまして、レベルが高い方がいらっしゃいます。同じ守護神さんでもレベルの高い次元がございますので、本当の素晴らしい守護神とか御魂と一体になってる場合には、これの磨けた度合ですから。
そのために儒教を勉強し、仏教を勉強し、老子を勉強し、神道を勉強して、自分自身の中の、先天の神様がいらっしゃる斎庭というんですか、神籬というんですか、神様がおかかりになる自分というものを立派につくるということが、高級神霊と一体となっていくという不可欠な要素なんです。
この修業をしなくて山にこもりましても、無になりましても、ほとんどが全部動物霊にやられまして、低級霊しかかかんないんです。
高級神霊と一体となろうと思ったら、これがいるんです。そのためのこの儒教の話であるし、講義なわけですね。知らない人は、霊的に敏感な人は、感性だけでいきますから、
霊的にはもう神様の名前を騙って出てくるのがいます、金毛九尾。D教なんかでは神の名を騙って啓示だなんて、神様だと思うんですけど、キツネが化けてる。キツネが化けても、これが出来てる人は、そういう邪気が来ても、いたたまれなくなっちゃって消えていくんですよね。
御魂の輝きがありますから。それに合った神様しか来ない。
そういう意味で、自分自身の御魂を磨く、自分自身が立派なものをつくっていくっていうことが、先天の行の最終的な課題になってくわけですね。
今日は「神霊と一つになる法」ですね。先天の行のお話の中から後天の行と比べまして、これで終わりたいと思います。
どうもありがとうございました。(拍手)
