絶対運(Vol.2)

序章 まず運とは何かを知ることが大切だ

はじめに

・金(経済力)
・才能(職業・地位・名誉)
・家庭運(よき配偶者と子供)

これに加えて健康であれば、ほぼ人の願望は満たされ、基本的な欲求不満は解決されるだろう。

あなたは、今、どの部分に不満を抱いているのだろうか。その不満を解決するためにどのような方法でどれほどの努力をし、どんな成果をあげておられるだろうか。

もし、あなたが今、強い不満を持っているとすれば、その原因はどこにあるのか、はっきりと承知しておられるだろうか。

「自分には運がないからだ」

ひとことで言えばそうなる。もっとも実際には、自らを不運に陥れる行為があったのかもしれない。良き配偶者を選ぶときに、たんなる見かけ、あるいは財産ばかりを気にしたために後悔するといったこともある。

しかし、今さら、そのことをとがめだてしてもはじまらない。事実は事実として認識し、「次は何をなすべきか」を考えるのが、生きるということなのだ。

運が悪いなら、その不運を強運に転換すればよい。「それはわかっているが、どうすればできるのかがわからない」という人もいるだろう。

そこで、理屈は後にして結論を言おう。「自力運」を高めて「他力運」とうまく組み合わせればいいのだ。自力だけがすべてだと思っている人は”我力”だけの人であり、先々必ず行きづまる。

一方、他力だけを頼る人、占い好きで宗教に凝りやすいといった人もまた、真の自力が発揮されないままで終わるだろう。

元来人間は誰でも幸運であり幸せであるべきだと考える私にとって、不運であり不幸な人が存在することは悲しむべきことであるし、またどうにも不自然な姿に感じられてしかたがない。

そこで私は本書で、強運を得るための自力と他力の引き出し方、使い方と組み合わせ方を説いてみた。遠慮なく、もしかするとあなたの耳の痛いところをも指摘しつつ、しかし読むほどに運気が盛り上がるよう心を配っているつもりである。

本書を手にされたそのこと自体、すでにひとつの出会いであり、この出会いが運気好転の一大転機となりうるようひたすら念じつつ、白隠禅師の勇猛心にならって”喝”を本書に入れた。

まず運勢が弱いということはどういうことかを、徹底して理解していただきたい。人は、まず運を強くして幸福になりたいと頭に描く。

それはそれでよいのだが、逆に運が弱いということの意味をもしっかりとつかんでおく必要がある。

そうすれば、なぜ強運でなければならないかが、いっそうはっきりとしてくるだろう。あなたはきっと読みすすむうちに、強運そのものを身につけていることになるはずである。

深見東州

世の中にはやたらにツイている人間がいる。

神戸在住のAさんは、その典型といってよいだろう。なにしろ、ここ数年の間に、ジャンボ宝クジの一等を二本も引き当てたのを始め、二等、三等は数知れずというのだ。

この限りでいえば何ともうらやましい話で、そのツキにあやかりたいと思う人もいるに違いない。

だが、しかし、宝クジに当たることが人間にとって幸せかどうかは疑問である。
確かに当たらないより当たったほうがいいだろうが、努力というものをほとんどせずに金を得るということは、金そのもののありがたみを真に知ることができないことにつながる。

金のありがたみを知らなければ、その使い方もわからないであろうから、結局のところ、「猫に小判」と同じことになってしまうのだ。

土地成金にしても同じことである。

たまたま東京や大阪の中心地に住んでいただけなのに、あれよあれよという間に地価が騰貴し、気がついたら資産家になっていたというケースはバブルのときに多々あったが、これもまた本人の努力とはまったく無縁の世界に起きた出来事である。

最近のバブル崩壊は、努力をしない者、あるいは非生産的活動によって金銭を得ることに対して、天が鉄槌を下したということができるかもしれない。

いずれにせよ、ツイているということが、即ちその人の究極の幸せにつながるというものではないのだ。

では、究極の幸せとは何なのだろうか。

与えられた時間、つまり人間の寿命の中で、つねに進歩、成長を望みつつ努力する。そして、その生きていくプロセス自体を喜びとして生きがいにしている人こそが、真に幸福な人といえよう。

なぜならば、人は自分の魂を大きく高く広く細やかにするべく、進歩向上を目指してこの世に肉体を持って生まれてきたからである。

だから、こういう姿勢で生きている人は幸せが長く続く。それは天地自然と大宇宙の生成化育の法則に叶っているからである。

それ故にこの努力する姿勢がない限り、ツキはたんなるツキであり、同時にツキが落ちてしまうときが必然的に訪れるはずだ。

一方、世の中には大変運に恵まれている人がいる。

やることなすことすべてうまくいき、すばらしい人間関係を形成し、豊かな芸術性を磨きあげて一生を過ごした人。これが運に恵まれ、また強運を持ち合わせた人ということになる。

ではツキ”と”運〟とはどこが違うのか。ツキは本人の努力に関わりのない、いわば偶然性にもとづくのに対し、運は自らの努力を土台にしているところが違う。

「あいつは運のいい奴だなァ」と言う。この言葉には、ただたんにツイているという意味が強く込められているように思えるかもしれないが、運のいい人は、そうなるべく懸命な努力をしているのである。スポーツ界では「ツキも実力のうち」と言うが、正確に言うならば「運も実力のうち」であり、その実力とは努力の結晶体なのだ。

神人合一に至ることの意味

さて、この本は「運」とは何かを徹底的に分析し、どうすれば、強運、いやその極にある絶対運をわがものにできるかを示唆しようというものである。

人間は古くからさまざまな奇跡的な現象に直面し、人力ではない、摩訶不思議な力が存在することに気がついていた。出る。

そして、その力を自らのものにしようと考え続けてきたのである。

たとえば耶馬台国の卑弥呼については、「鬼道をよくし」と、「魏志倭人伝」に記されている。この鬼道とは古代の占術であるが、また一方、神の力を自らの力とする術であったと考えてよい。その点では、卑弥呼は歴史上、類い希なシャーマンであったといえよう。

宗教はこれらシャーマンや、シャーマンの背後に存在するであろう絶対者に対する崇敬を基礎として生まれた。

しかし、摩訶不思議な力を自らのものにできる者は、極めて少なかった。霊的な特殊な能力を持った者に限られるからである。

そのために一般庶民は、ひたすらシャーマンの指示に従う他はなかったが、まもなくこれら大衆の中から、それぞれに異なった宗教を目指す二つの派が誕生した。

ひとつは、過酷な修業をくりかえすことによって自ら神の域に近づく能力を得ようとする人で、そこから自力本願的な宗教が発したのである。

もうひとつの派は、摩訶不思議な力によって庇護されることを目的とした宗教を求めた。

他力本願的な宗教がそれである。

自力本願を願う宗教には、厳しい修業を伴う密教系の仏教や禅宗、さらにはラマ教などがある。

禅宗では、「仏に逢えば仏を殺し、祖に逢えば祖を殺す」と過激なまでに他力を否定し、自らの中に仏を見出すことを修業の目的としている。

日蓮上人が開いた日蓮宗も、あらゆる苦難に立ち向かい苦行を行うことによって、仏を動かして道を切り拓こうとする。

仏の力を借りるという点では他力本願ではあるが、その前提として、最大限の努力を必要とすることにおいては、自力本願的な宗教といってよいだろう。

他力本願的な宗教には、親鸞上人が開いた浄土真宗や、キリスト教などがある。

浄土真宗では、ひたすら「南無阿弥陀仏」を唱え、ひたすら阿弥陀如来に頼り、すがり切ることによって救われるという教えである。

キリスト教もまた、敬虔な祈りを捧げることによって救済が得られるとする。

では、これら自力本願、他力本願のいずれが、より多くの神仏の力を得られるのだろうか。

かつてわが国最大の信徒数を誇った大本教の教祖、出口王仁三郎は、「他力の中に自力あり、自力の中に他力あり」と言われた。

つまり、自力本願を願っても、そこには必ず神仏の力、働きを無視することはできない。また、他力にすがりつくだけでは本願を達成することはできないというのである。

浄土真宗は、他力本願とはいったが、仏の救いを求めるためにひたすら念仏を唱えなければならない。

その念仏を、五、六回唱えただけの者と、百万回唱えた者と、そのどちらに仏の力が作用するかといえば、百万回唱えた者のほうである。

つまり、自力=自らの努力の多寡が、他力の作用の強弱にかかわるということなのだ。

私は、この自力と他力との関わり合いの究極の姿が、神人合一することであると考えている。

神人合一とは、自力と他力を十字に組む、つまり人と神とが合体してスパークした状態を指し、そのときにこそ、神でありながら人であり、人でありながら神であるという完全な融和の中で、人間ばなれした妙なる力、働きを発揮することができるのだ。

この神人合一の状態にある人を、中国では中庸の中という。右でも左でもなく、一方に偏らぬ、まさにド真ん中に位置することを意味しており、またド真ん中ということは、的中するということでもある。

自力と他力とが、ひとつのポイントに集中して当たるのが神人合一なのである。

このことを具体的にわかりやすく説明してみよう。

ゴルフを例にとると、いわゆるレッスン書や技術書が山ほど出版されている。ベン・ホーガンやボビー・ジョーンズ、サム・スニード、ジャック・ニクラウス、あるいはボブ・トスキなどといった名人、達人の著した書にはそれぞれの個性が感じられるが、それらの書を通読すると、ゴルフのプリンシプルが浮き上がってくる。

そのプリンシプルとは、たったひとつ、ボールを真っ直ぐに打つ方法である。

プロゴルファーは、フェードやドロー、あるいは高く低く球を打ち分けるが、その本にあるのが真っ直ぐ飛ばす技術である。

そして、この基本こそが最も難しいことなのである。ゴルフをされる方はおわかりだろうが、程度の差はともあれ、左右に曲がる球はいくらでも打てる。

いや、正確にいえば、いくら真っ直ぐに打とうとしても球は勝手に曲がってしまうのだ。プロは意識的に曲がる球を打ち、アマチュアは意識せずに曲がる球を打つ。

この違いは、原理原則、基本をマスターしているかいないかの差によるのだ。

ではどうすればこの原理を正しく把握できるのか。

先達の技術書を積んでおいたり、あるいは拝んでいるだけでは、プリンシプルを身につけることはできない。

まずは書物を読みくだき、そこに書かれている内容を自らのスイングの中で再現する努力が必要なのである。

多くのゴルファーはこの部分でつまずき、挫折する。その結果我流に走るため、技術は停滞するか、あるいは悪しき方向へと向かっていってしまうのだ。

ボビー・ジョーンズは「球聖」、サム・スニードは「ゴルフの神様」、ジャック・ニクラウスは「帝王」と呼ばれているが、これらの称号には、彼らがゴルフの世界において限りなく神に近い人、つまり神人合一を果たそうとしたか、あるいは果たしつつある存在であるという意味が込められている。

私たちが彼らの書の中からプリンシプルを見出し、しっかりと身につけることができれば、これすなわち、ゴルフの神との神人合一の妙を味わい得る状況に立ち入ることができるのである。

「絶対運」と他力と自力

もっとも、私たち生身の人間が完璧な存在=絶対的な神人合一の道の極に達することができるかといえば、それはまずあり得ない。

私個人でいえば、過去の修業によって、他の人々よりも早く、そして奥深く神人合一の道へ分け入ってはいるが、その道はいまだ果てしなく私の前方に続いている。

もし、私が絶対の域に到達したとすれば、人間としての存在ではなくなったときであり、またもし、絶対の域に達したと思うときがあれば、所詮は傲慢にして凡俗な存在でしかないということになる。

つまり、人間にとって絶対という言葉はあり得ないのである。

ならば、この本のタイトルである「絶対運」とは何なのか。

絶対がなければ、絶対運も存在しないのではないか。

私があえて絶対という言葉を使ったのは、絶対こそ人間の究極の目標であり、人間は絶対を目指して日々の精進をしなければならない、ということを伝えたかったためである。

ゴルフが好きな人はアーノルド・パーマーやジャック・ニクラウスを、また相撲を好む人はかつての双葉山、大鵬、そして千代の富士の姿を思い浮かべていただきたい。

彼らは、その全盛時代に鬼神もしのぐ強さを見せつけたものだが、だからといってその強さは絶対ではなく、ときには敗者の立場に立つこともあった。

にもかかわらず、私たちは彼らを極めて高く評価する。なぜなら、彼らの姿から、どれほどの努力精進をしたかをうかがい知ることができるからである。

人間が「絶対」というものを獲得し得ず、また、絶対的な存在になり得ないことは、優れた人間ならば理解している。

権力者はときに自らを絶対者と考えるようであるが、彼らがどのような最期を迎えたかは、一九八九年の東欧における民主化の嵐の中で幾度も知らされた。人間が絶対者になると信じた愚かさの結果がそれだ。

賢く優れた者は、そのような道を歩みはしない。しかしながら、絶対的存在、絶対なるものに価値を認めないわけではない。

追い求めても求めえないものをなおかつ求め続ける行為に、大いなる価値を見出しているのである。さて、「絶対運」について述べよう。

己の運勢をよくする方法については、すでに記したことからわかるように、二つの方法がある。

一つは自力中心、一つは他力をいただくことだ。

しかし、この方法にはそれぞれ一長一短がある。「自分で運を切り拓いてみせる」というのは、この世界をしろしめす神やご先祖に対してまことに傲慢な態度であるし、ま他力にオンブにダッコというのは、神やご先祖への過度の甘えに他ならない。

たとえば、過去から現在に到る歴代総理大臣の中で、最もパワフルで自信にあふれていた人物といえる故田中角栄元総理の場合。

氏は人間ブルドーザーと呼ばれるほどの行動力を見せたが、ロッキード事件に巻き込まれ、その政治生命を奪われてしまった。

氏の日本列島改造論が、果たして本当の意味で日本の、そして日本国民の利益となるものであったかはさておくとして、その氏がな失脚するに到ったかといえば、己の力ですべてを解決しようとしたために他ならない。

他者の力をわが力とし、自らがリードするだけでなく、他者のバックアップを受け入体勢を整えておきさえすれば、あの悲劇的な結末を招くことはなかったといえよう。一方、政治混迷期にあって一筋の光明を投げかけたのが、海部元総理大臣である。

若手の論客として知られてはいたが、過去の大臣の経験は文部大臣のみという、いわば未知数の状態にあった氏が、アレヨと思ううちに総理大臣の座についてしまったのは、時代状況と他派閥からのバックアップを受けたためである。

金権、派閥政治に不快感を抱く国民は、政治のクロウト筋とはまったく異なった評価海部氏に与え、それが海部内閣の予想以上の長命につながった。まさに他力によって得た運といえよう。

もし、海部氏が大宰相としての足場を築こうと考えたのであれば、他力の上に自力を重ねる努力をすべきであったと思う。

しかし残念ながら、十分に努力したとは認められない。

のみならず、大衆の支持よりも有力政治家の力に頼りすぎたために、平成三年末には政権の座から滑り落ちざるを得なくなった。

では、海部政権を引き継いだ宮沢喜一氏はどうか。その頭脳の優秀さ、政策通、抜群の英語能力から、早くから宰相の器と言われつつ派閥戦争に敗れ続けていた。

氏がやっと政権の座についた途端、リクルート疑惑の再燃、共和、佐川急便疑獄の発覚など逆風が吹き荒れ、国民の指示率も急激に低下した。

政権発足まではコメつきバッタのように有力者に頭を下げ回った宮沢氏が、総理に就任するや態度を豹変、自力に頼る様は実力者の故であろうが、あまりに唯我独尊でありすぎたため、他者の協力を得ることができ得なくなってしまった。これもまた、他力と自力をうまく組み合わせることができなかった典型例といってよい。

修業努力して金剛界へ進め

自力に頼る者、また他力に頼る者は、それぞれにその生活態度や表情に現れる。

前者の場合は、我が強く傲慢で生意気で鼻持ちならない人物であることが多い。

そういった人たちの生き方や足跡を点検すると、本来の実力に比較し極めてスケールが小さく、イマジネーションにも限界があることがわかる。

後者の場合は、自立心がないため挙動が定まらず、目にも体つきにも精力を感じない弱々しい人間が多い。

女性を差別するつもりはないが、仕事においても恋愛においても相手まかせで、自ら積極的に生きようという意欲を持たない女性が多いのは、他力に頼りたがるためではないだろうか。

では、自力と他力を玄妙微妙にマッチさせているのはどのような人物なのだろうか。

ゲーテの言葉に「親和力」という言葉があるが、つねに周囲の者を引きつけなじませる力と、大きな目的に向かう強い意志を持っている人。

言葉を換えれば、求心力と遠心力がマッチした、極めて居心地のいい状況を生み出す人物なのである。

そしてまた、その人物が何ごとか想念にふけっているときの姿を見れば、近寄りがたい厳しさと神々しさが、オーロラのごとき輝きをもって彼の周囲を取りまいている。

このような人物は、仏教でいうところの金剛界に歩を進めつつある偉大なる人物といっていいだろう。

金剛界とは、サンスクリット語のヴァジュラダートゥを漢訳したものだ。金剛の本来の意味は極めて強固な武器のことであるが、そこから転じて仏の知恵をあらわす。界とは集合体の意味であるから、金剛界とは智恵を司る仏の集合体ということになる。

金剛界の中心をなす仏は智法身の大日如来であり、大日如来を中心として諸仏の姿を表したものが、金剛界の曼陀羅である。

これを現代風に解釈すれば、次のようなことになる。

人間は本来、魂を錬磨するためにこの世に生まれてきた存在である。

錬磨=魂を磨くとは、自らの進歩向上と、社会に対して貢献するために徳を積むという、この二つのことをなんら矛盾することなく一体として成し遂げることなのである。

そして、そのことを果たせた世界が、金剛界なのである。

すなわち金剛界は人生の究極にある世界ということになるが、この世界に到達するには、何をおいても自らの努力が必要であり、その努力が他力、つまり神仏、あるいは大宇宙を支配される絶対神のお力を引き出すことになる。

この自力と他力の関係は、生きている人間にとっても死した後の世界に住む者にとっても、永久不滅の真実であるから、まさに天地の絶対的な法則ということなのだ。

そして、この法則に従って生きることこそ、自分自身の運を絶対的な運に強めることにつながるのである。

私がこの本で述べるのは、いかに自力と他力とを巧みに、そして美しく組み合わせられるか、ということである。

いくつかの具体例の中に、あなた自身を照らし合わせ、強く、かつ美しい運を得られんことを望みたい。

第一章 まず自力運をつけよ

自立できない人間が世のため人のため役立つわけがない

「ぜひとも先生、ぼくを内弟子にしてください。どうか先生の運動に参加させてください……..!」

二十歳前後の若者の言葉である。で私は、「運動って?ジョギングもヨガも私はやってないんですよ」と言う。

「またまた、先生、冗談でごまかしてぇ……」

急に緊張がとれたのか若者はなれなれしい態度になった。

「先生が新しい時代を背負うべき人材を育成され、神人合一の道を説き、世のため人のため役立つ魂の救済をなさっていることは、本などでよく知ってます。

とても共鳴しまして……………自分もぜひその活動に参加させていただき、世のため人のため役立ちたいんです」

ふむふむ、その言やよし。しかし、私の霊眼に映るこの若者には少し問題があるのだ。突然訪ねてきたこの青年をオフィスにあげず、ひとまず玄関で応対することにした。

長身で細面の顔は二枚目の顔立ちで整っているが、どこか灰色のモヤに包まれている。

「なるほど、それでキミの仕事は?」

若者の顔が、一瞬、怪訝な表情に変わった。

重ねて訊く。

「仕事は何をしているのですか」

「いえ、別に……」

「別にって、じゃ学生さん?」

「ハア、いいえ、浪人中です」

「そうか、これから大学へ、ね」

「いいえ、その……………」

「その、何ですか、はっきり言えば?」

「ハァ、大学一年のとき父親が亡くなって、それでバイトで頑張ったんですが、二年の一学期に結核になってしまって・・・・・・」

なるほど灰色のモヤの謎の一部が解けた。この若者が十七歳の時に家運が傾き、本人自身の運勢も下降するばかり、そのうえ結核にもなったというダメ押しもされている。

「キミが結核ね」

「ええ……、その上悪いことに母親が高血圧で倒れて入院したので、大学をやめました」

「ウム。で、いまどんな仕事をしているの」

「ハァ、これといってなく、新聞を見ながら、そのときそのときのアルバイトをしている、いわゆるフリーターでして……」

「たいへんだね。で、ご兄弟は…………?」

「はあ、高校一年の妹だけです……………」

若者の顔に暗い影がさしている。うつむき加減にほそぼそ語る。それもそうだ。この青年、私に隠していることがまだまだあるからである。

「で、将来は何をやりたいのかね」

「ええ…… ハァ、ですから、先生のお弟子さんになって、人助けをしたいわけで・・・・・・・」

「特技は何かある?」

「いいえ……」

「体力はどう、二晩くらい徹夜しても平気かい?」

「それが、小さいころから病弱で、結核やってからまだ間もないこともあって・・・・・・、無理をしないように自分の体を大事にしてます。でも、そのうち丈夫になると思います、ハイ」

「お母さんは元気になられたかね」

「一応、パートで働いていますが、血圧が高いので無理はききません」

「それで妹さんは高校一年生・・・・・・」

「はあ……」

「高校卒業までにあと二年」

「ハイ……..」

「そして、キミは体が弱く病みあがりのためちゃんとした仕事に就いていない」「・・・・・・スミマセン」

「謝ることはないよ。それより、私のところなんか来ないほうがいいんじゃないか」彼は暗い目をあげて不安そうに私を見る。

「どうしてですか…………」

「キミの今の状態で、どうして人を救済するゆとりがあるのですか……」

若者はうつむいて、ときどき、すくいあげるような目で私をチラリと見る。「キミは私に黙っているが、よく酒を飲むしパチンコや麻雀が大好きだろう。別にそれが悪いと言っているのではない。

しかし、今のキミの家庭の状況、健康状態でそんなことにウツツを抜かしていいと思っているのですか。

友人から誘われるにしても、ほとんど収入のないキミが、どうしてそんなに酒を飲む金や賭け麻雀をやるゆとりがあるんだ?。

お父さんのものをキミが勝手に持ち出して質に入れたり売ったりしているのを、キミの母親と妹が嘆いているのを知らないのか。

妹さんは家計が苦しいのを知ってバイトをしたりしてしのいでいるが、それでも間に合わず高校を中退して就職しようとすら思いつめている。

君の結核後遺症は、あと二ヶ月、酒・パチンコ・麻雀を控え、規則正しい生活をはじめれば、まったく問題がなくなる。

ぐうたらな生活を深く反省して、父親とご先祖の皆さんにお詫びをし、そして生活を立て直す決心をしなさい。

今の君の不運な状態で、一体どうして人が救済できるのだ。何が世のため人のためだ。まず、自分の魂を救いなさい。自分の持っている運を変えることが先決だよ。

特技もなく、仕事もなく、才能も未開発でしかも自分の経済的基盤が確立できない者に、どうして人を救済する能力があるのだ。

だから、まず自分を救い、それから家族を助けて、それでゆとりがあれば、はじめて私がリーダーを務める「ワールドメイト」に参加すればいい。

せっかく訪ねてきたからちょっとだけ言うが、キミには先天的に語学の才能がある。必死になってその才能を磨くことだ。でなければ、今のキミの運気からすると、母親の寿命を縮め、妹の人生を狂わせることになり、キミ自身も酒と遊びのなかで一巻の終わりになってしまう。

いいか、反省してやり直すんだ。何年かかってもいい。語学をものにして、それでも人のために役立つ人物になりたいという思いが消えなかったら、私をもう一度訪ねて来なさい」

若者は、勢いこんできた当初とはすっかり違って、最後は何も言わず深々と頭を下げ玄関先から立ち去った。

青白い細面の顔に涙が流れているのを、その後姿から感じた。

多分、あの青年なら立ち直るだろう……そう思ってほぼ一年が経つ。あと五、六ヶ月したら自信にあふれて私を訪ねて来る姿が浮かぶ。その気にさえなれば若者の立ち直りは早いからだ。

ところでこの若者をオフィスにあげず、玄関先で応対したのには幾つかの理由があった。玄関先で会った瞬間、この青年の発散する暗くよどんだ気が、清浄な応接間の雰囲気を乱し、汚してしまいそうであったことが理由のひとつである。

そのこと自体、別に私は構わない。もっと凶悪な気を持つ人と応対することもよくあるからだ。しかし応接間には、十代の清純な気を持った若者が三人ほど道を求めて待機していたのである。

三人とも清らかな輝きを持った若者たちであり、恵まれた家庭環境のなかで素直に成長してきたという共通点があった。未開発だが資質もよく、方向性を誤らなければ十分に才能を伸ばし世に役立てる可能性がある。

二人の男の子のうち一人は外交官、もう一人はミュージシャン、女の子は画家と、それぞれ将来への夢を抱いている。

彼らのかもし出す世界を、自分勝手でわがままなチン入者にかきまわさせたくないと思ったからだ。

それにしても同じ世代でありながら、玄関先で帰ってもらった若者との、この相違は、あらためて人生の複雑さ、種々相の不思議さを見せつけてくれた。

まず自分が幸せになるのが先決だ

世の一線で活躍する各界の一流の人物からこのような無名の若者まで、私は、さまざまな職業、年齢、地位の人たちとお会いする。

そうした人々を、六大神通力を授かった私の目は、いつの間にか二つに大別しているのに気づく。

幸運な人。
不運な人。

いうまでもなく問題は不運な人、あるいは自分を不運だと思っている人である。

またけっして不運ではないが、いまひとつ強運になりたいと願う人も多いものだ。あなたもそのひとりではなかろうか。

冒頭の青年はたしかに不運である。しかし、自分自身の不運をわきまえず、世のため人のため役に立ちたいという人がしばしば訪ねてくるので、私は頭をかかえるのだ。

凶運の人が、なぜ世のため人のために役立つことができるのか。不幸で救われない存在である者が、いかにして他人を救うことができるのか、そういう単純なことに気づかないタイプが多いのである。

だから、私はあえて言うのだ。

「まず、自ら幸福になりなさい。とにかくまっ先に自分が強運になりなさい」

そのためには、まず自力運をつけることが必要である。

自力運とは、自分の潜在意識の奥に眠っている能力を呼びさますパワーのことであり、その自力運が才能を引き出す途中から突如発現して、それらの能力や自力運を何十倍もの勢いでパワーアップする力を他力運という。

自力運と他力はほんの一部で重なりあっているが、真の強運とは、この自力運と他力運とが掛け合わされたときの爆発的な運勢のパワーのことをいい、しかも、けっして線香花火のような一時的なものではなく永続性を有する。

よく一般に人が”運がいい”とかツイているね”などというが、その運やツキの多くは、偶然に第三者(神や仏)からもたらされた他力的な幸運を指している。

それも恒常的に続く運ではなく、まったく一時的なものなのだ。

あなたは、「そうした一時的なものでいいから幸運に恵まれたい」と思っているのだ ろうか。気まぐれで一時的な幸せだけの人生で満足しているのだろうか。そうではあるまい。

他力運だけに頼る人生がいかにたわいなくモロいものかを知るべきであるし、同時に一切他力を排して、自力がすべてだと頑張る人は、必死に努力を続けるわりにその成果が乏しく、しかもやがて、”我力”の持つ欠点が現われてすべて行きづまってしまう。

ところで私は、仏教のある宗派で言う”他力本願”とは違う角度で、自力運と他力運を説いているつもりであるから、仏教知識なまかじりの人は早トチリをしないでいただきたい。

とまれ、人間すべからく強運であり、幸福であることがすべての人の義務ですらある。そしてまた誤解を恐れずにいえば、不運な人間というのは、その存在自体がハタ迷惑なのである。

とくに凶運にまとわりつかれる人は、他人を不幸にまきこむ凶悪な”気”をまわりにまきちらしている。

本人も気づかないし、周囲の人も気づかないものなのだが、その気にふれると気がふれるまではいかないにしても、理由なく気分がふさぎこんだり、人生に意欲がなくなり自殺したくなったり……とすべからく否定的な姿勢をとるものなのだ。

世の中には、才能に恵まれ、大勢の人々の魂に目覚めと勇気と美しい感動を与えてくれる無形文化財のような人もいれば、このように毒の気をまき散らす無形の公害人間もいるということである。

しかもこの公害人間、けっして世にいう悪人、悪党でもなくヤクザ屋さんでもなく、ごく普通の善良な市民なのだから始末がわるい。本人に公害人間の意識もなく、まわりの人たちもそれと気づかない。

ではそのような公害人間を簡単に見分けるコツをあげておこう。

●暗い表情、暗い声。

●皮肉と愚痴と批判的発言(一見頭脳明晰、シャープに聞こえる)。

●笑いを忘れてきた人。

と書くと、どこからか声がしてきそうだ。

「センセーって、意外と冷たいのねえ。私の彼、確かに暗い感じがするけど、どこかニヒルでその翳りがたまらない魅力なのよ。友達もなくいつも孤独な彼、私しかそんな彼を救えないと思うの。だから、クラーイからとか公害人間だからって敬遠したりするのは、私のヒューマニズムが許さないわ」

「そうだ、そうだ、オレの友人の場合もそうだ。あいつは愚痴っぽくて陰気な奴だけど、俺が手をかしてやらねば誰がやるんだ。そうでなければ、あいつへの俺の友情はニセモってえことになる」

結構、結構。その美しい人類愛や友情にめざめて、怨嗟の眼差しでみつめる暗く重い吐息のその人に、どうぞカタ肌でも諸肌でも脱いであげてください。けっして私はとめはしない。

ただ、本書をお読みいただくご縁から、その結果がどうなるかにちょっとふれておこう。

道はふた通りである。

あなたの運気はさらに倍加して飛躍的によくなるか、その人物の悪因縁の影響をもろに受けて、ともに不運の淵に沈み込んでいくか、このどちらかなのだ。

そして実際には後者のケースがきわめて多いのである。

結婚相手によって運気が変わる

人間は時として不運に遭遇する。その不運をはね返すには不運の何倍ものエネルギーを持つ絶大なる強運を必要とする。

つい最近もこんなことがあった。

二十六歳になる人妻・K子さんが、私がリーダーを務める「ワールドメイト」の仲間と一緒にいらっしゃった。

三十七歳になる商事会社勤務の夫とうまくいかないというのである。 K子さんはその夫と六カ月前に結婚したばかりだが、結婚前は自分の前世鑑定・守護霊鑑定を受けに私を訪ね、加えて結婚の是非を相談していったのである。目もとがパッチリしていて小柄だがチャーミングで、ハキハキとものを言う笑顔の美しい人であった。

彼女は彼と会社のコンパで知り合い、同僚たちから離れた酒場のカウンターで、いつも独りグラスを傾けている横顔の影の深さに心惹かれて、K子さんのほうからアプローチした……と言う。

私は、その男性の運勢の弱さ、性格の暗さを指摘し、先ゆきの人生の不運を見通して、結婚には反対であると意見を述べた。

周囲との調和が図れない男がどんな不運を背負っているかは、常識で考えてもすぐわかるはずである。

しかし、その一方で、私の助言が彼女の結婚の意志をひるがえすことができないこともわかっていた。いくら反対しても、すでに肉体関係もあり、結婚する気持ちに変わりはないな、と知りながらも忠告しなければならない空しさをかみしめながら、一通りの助言を与えた。そしてまた彼女の守護霊とも交流してみた。

守護霊もやはり結婚には反対だが、彼女の頑固さは一度大きなカベに突き当たらないと直らないから、と嘆いておられる。

私の話をひととおり聞き終えた彼女は、案の定、ちょっとうつむいて言った、

「先生のおっしゃることは、よくわかります。でも相手が不運な人だからって逃げることはできません。そういう人だからこそ私の愛情でどうにかしてあげたい。…やはり結婚します」

予想した答えに、私は無言でうなずいた。そして心の中で、「あなたの本当の配偶者は二年後に現れるんだが……。

しかし今の不運期の、しかも肉欲に溺れているあなたに何を言っても無駄だ。せいぜい、今度の結婚でいろいろな体験をし、多くのことを学びとりなさい」と呟いていた。

さて、そういった結婚をしたK子さんの今度の相談というのは、夫が会社を辞めて無職になったので、自分がホステスにでもなって働くべきだろうかというのである。

K子さんの夫は、一流私大を出て、一流商社に入社したのだが、彼の運勢はそこまでであった。

なぜなら彼は、生まれつき持っていた優秀な能力を自ら伸ばそう、つまり自力を発揮しようとする意欲も、人生の目標も持たなかったからだ。したがって、運が落ちるとともに性格が暗くなり、人づきあいもできず、社内では閑職の社史編纂室にまわされたという。

自尊心のみ高い彼にとってますます暗い日々が続き、競馬と株の売買でウップンを晴らしたが、バブル崩壊の影響で資金が底をつき、ついにサラ金に手を出したのがきっかけで、会社に辞表を出さざるを得なくなったそうだ。

明朗でチャーミングであったK子さんも、かつての面影がうすれ、姫の肉が落ちて悴しきっていた。

夫はほとんどやけっぱちになり、酒気を帯びていようと帯びていまいと、撲る蹴るの暴力をふるうという。

ついに我慢できなくなった彼女が別れたいと言うと突然泣き出して取りすがる。かと思えば、包丁を持ち出して一緒に死んでくれという有様。

K子さんも別れようと思いつつも、憐憫の情を覚えて、ズルズルと悲惨な日々が続いているというのである。

私はこのとき、あと六ヶ月したらもう一度相談に来なさい。仕事はしたほうがいいが水商売は避けなさいとアドバイスした。

天が与える助言の機は、まだ六ヶ月先だからである。現在、K子さんにとっては進行中のことだから、六カ月先のことはここではふれない。

これは、結婚という男と女の関係における運の影響についての例であるが、人間は誰もがお互いにプラスとマイナスの運気を受けたり与えたりしていることを、理解していただきたい。

まず”われよし”で強運をつけよ

いらぬお節介を焼く人を「自分の頭の上のハエも追えないくせに」と評することがあるが、他人のことより自分の運勢をよくするのが何より先決であり、同時にそれが自力を伸ばすことにつながる。

自力もないのに人など助けることができるわけはない。といって、私はなにもエゴイズムを信条とせよとすすめているのではない。

苦しみ、悩んでいる不幸な恋人、友人、家族、あるいは会社の同僚に手をさしのべるなと言っているのではない。その人たちの人生に光明をともす手伝いをすることは非常に貴いことであり、人としてぜひやらねばならぬことではある。

だが、そのために自分が不幸になっては意味がないと言いたいのだ。

なかには、「自分がダメになっても他人が幸せになるならいい」と自己犠牲の貴さを主張する人もいるかもしれない。しかし私は、それをけっして本物の幸福とは思わない。

たとえていえば、財布に十円しかないのに百円を必要とする人を助けることができるかということである。だが千円あれば、百円を与えることもできよう。そのために、まず自分が強運になることを目ざせと言っているのである。

断っておくが、神霊研究家としての私、および「ワールドメイト」の願いのひとつは世のため人のため”に役立つことにある。ひとりでも多くの人に幸福になっていただくための、神霊研究活動を行っている。

けっして”われのみよし”という生き方をすすめているのではない。

つまり、社会を構成する第一号はまず自分自身であるということ、その自分をまずしっかり確立してから、自分以外の人へと手を伸ばしていくことが、永続する真実の幸運をつかめるということなのだ。

犠牲的な愛はたしかに美しいかもしれない。そう説く宗教の教えもある。しかし、犠牲になった生命の無言の叫びは痛ましく、悲しい。

あえてそのような悲劇的な人生を選ぶよりも、あらゆる知恵をしぼり努力をはらって、”われもよしもよし”の生き方を目ざすほうが、自然である。

そしてまた前向きで調和的で、より永続する幸福を築けるのではないだろうか。「強運を得よう。自力をつけよう」とするあなたに、まずこの”われもよし、人もよし”の大原則、基本的な考え方を徹底して身につけていただきたい。

この考え方、生き方が前提にあってはじめて、を自分のものにできるのである。

真の自力が伸び、不動の強運=絶対運

もちろん、いつまでも”われよし”だけでは運気はしだいに停滞し、やがて運勢といエネルギーの方向はプラスからマイナスへと転換していくであろう。

賢明な読者はすでに察知しておられるように、不運続きの不幸な人というのは、いわば公害人間のことであり、己のみ”を中心に考え、行動しているタイプに多いのである。

むろん、善良で人に尽くしながらなお不運という人もいる。だが、このタイプの不運の原因は別にあるので、ここではふれない。

エゴイストであれ、そうではない献身タイプの人であれ、いずれにしても不運からの脱出には、〝われもよし、人もよし”を前提とした生き方が必要なのである。

そのことは、われわれをとりまく宇宙の大いなる自然をよく観ると理解しやすい。

太陽や月やこの地球や無数の星々のあり方をはじめ、身近な山川から一木一草にいたるまで、それぞれが個性を精いっぱい開花させながら、しかもなお全体との美しい生命の調和を見事に保っている有様に目を向けるとき、まさに”われもよし、人もよし”は、自然の法則であることが実感できよう。

すなわち〝われもよし、人もよし”は、宇宙の法則なのである。

いささか宗教くさい表現かも知れないが、こうした自然の姿、生命は、こまごました地上のあらゆる宗教を超えて存在する神の立場であり、これがまさしく日本古来よりある”神”そのものの姿なのである。

あなたがあなたの潜在する自力を伸ばし、絶大な強運を得ようとするならば、自然の法則、宇宙の原則に則ることである。

つまり、惟神の生き方に徹することなのである。そして、さらに、人はすべて強運で幸福な人生を歩むのが義務であり責任であるとも断言しておく。

なぜなら、自分が不運であることは、他をも不幸にする可能性があるからだ。

それでは自然の法則に反する。公害人間”などというきつい表現を使ったのも、もし万一あなたが心中ひそかに”自分こそ公害人間かも知れない”と思った時には、ぜひとも発奮していただきたかったからである。

もし、今あなたがかりに不運であっても心配はいらない。あなたの持っているエネルギーの角度をちょっと調節して、プラスへ向けるだけでよいのだ。

挫折しても得るものはある

挫折して落ち込んだことのない人に、本書は用がない。当たり前といえば当たり前だが、そうした経験のない人はほとんどいないだろうし、いたとしてもそんな人物に魅力感じはしない。

挫折し、落ち込むからこそ、われわれは人の心の痛みがわかる。

それが心のひだというものだ。ツルンとしたなんのひだもない心なぞ、どこに味わいがあるというのだ。

しかしだからといって、こぞって何事にも挫折し落ち込みましょう、などというのではない。

挫折し、心に深い傷を負うこと自体がよいわけではない。いや、むしろ魂を傷つけることはできるだけ避けなければならないのだ。

心に深い傷を負い、魂を汚すとはどういうことかといえば、何かに挫折し落ち込んでしまったとき、その状態をハネのけて健全な元の自分に戻ることができず、いつまでもその不運な状態で居続けることをいう。

それが長期になれば、心は歪み、しだいに魂は傷ついていく。再起はいよいよむずかしくなり、不運が不運を呼ぶという泥沼に陥ってしまうだけである。

挫折し落ち込んだと思った瞬間、それをはね返す心のバネがあれば、ことは違う展開となる。

しなやかな心のバネがあるとき、失敗は失敗ではなく、挫折は挫折ではなくなる。すべてが成功のための準備であり、心の糧であり、強運をより確実にするための一プロセスになるのだ。

菜根譚」の洪自誠もこう説く。

一苦一楽して練磨し、練極まりて福を成さば、其の福始めて久し。一疑一信して…。

辛い思いをしたり楽しんだりすることで磨き合い、その結果が極まって幸福が成就されたなら、それは永続するものである。

また、疑ったり信じたりしながら、考えぬいて考えぬいて最高に達したならば、本物の知識をはじめて体得できるのだ、と―――。

ころぶことを恐れるよりも、何回ころぼうともすかさず起きあがれば、丈夫な足腰に鍛えあげられていき、やがてころばなくもなる。

そんなことはわかっている。わかっていてもすぐに起きあがれないから辛いし、その苦しい不運を嘆いているんだ・・・・・・。

こうおっしゃる人に、もう一言いわせてほしい。

禍と福とは門を同じくす。利と害とは隣りをなす。(『淮南子』)

思いあたることがおありだろう。

わざわいも福も同じ門から来るのであって、人がこれを招くのである。もっと言えば他人がではなく、自分自身が招いているのである。

また、利と思うものは反面に害を招き、害と思うものは他面に利となることが多い。

だから、われわれはものごとを頑固に一面からのみとらえないで、あらゆる角度から理解できるという咀嚼力を身につける必要がある。

この咀嚼力の弱い人は、心のバネも弱く、もろい。当然のことに運気にも乏しい。

では、どうしたらしなやかで心を自分のものにすることができるのだろうか。挫折や落ち込みから自力でどうしたら脱出でき、勢いを盛り返すことができるのだろうか。

自力をつける二つの方法

悩み、苦しみ、落ち込んだ精神状態からいち早く脱出するコツは、とらわれている心そのものを捨て去ることである。

仕事の失敗、失恋の痛み、人間関係のこじれ…………悩み、苦しむ理由はさまざまであろうが、苦しみから心を一刻も早く解放してあげることである。

心を解放し、とらわれている苦悩する心を捨て去るにはどうすればよいかといえば、まず、その悩み以外の、目前の身近なことに集中することである。頭だけで考えず、実際に体を動かして、すぐやらねばならぬことを即実行することである。

対象はどんなことであってもよい。たとえば机のひき出しの整理を突然はじめるのもよいだろう。たまっている何人かにお礼状や挨拶の葉書の下書きをすることであろうと、靴箱からはきものをすべて引っぱり出して、ピカピカに磨きあげたり、狭いマンションから飛び出し広々とした銭湯で好きなだけ入浴したり、趣味があればそれに打ち込むことでもいいのだ。

部屋や台所のかたづけから書類の整理まで、やるべきことはいくらでも見つかる。そのことに、次から次へと没頭する。

これでよいのである。

あまり平凡すぎてバカバカしいと思われるだろうか。

そうではないのである。実際に実行もしてみないで、頭だけ考えてなあーんだなどとバカにするようでは、眠れる自力を百パーセント出しきることは不可能であり、真理を体得することも永久にできないであろう。

われわれが思い悩み、その解決の糸口を見出すことがなかなかできないのは、悩みに拘束され過ぎて、新しい発想、角度を変えた着想が得られないからである。

では、どうすれば、すばらしい閃き、発想を得て、生き生きとした魂がよみがえるのだろうか。

「無」である。すべてを空しくすることである。

禅宗ではこの無になることを修業の目的としている。とらわれの心をいかに捨てるかという訓練をつみ重ねるのだ。

念の出ずることを恐れずに、その悟ることの遅きを恐る。

という言葉がある。無心になろうとしても人間というものは、見たり聞いたりしたこから刺激をうけて、次から次へと種々雑多な雑念が出てくる。

美しい人を見れば美しいと心を動かされ、好きなものを見たらついついそれに引きつけられ、面白そうなことを聞けばそれに耳を傾けてしまう。

美味しいもの、快いものなど、われわれの感覚に訴えてくるものはいくらでもある。

心はつねにゆさぶられ、刺激され、欲望や焦燥のために平安なひとときを保つことができない。いたずらに心をわずわし、考えすぎて解決の糸口のない「悩みの蟻地獄」に引きずり込まれていく。

ああでもない、こうでもないと考えあぐねているうちに、チャンスを見逃したり、逆に次の機会にあせってしまい、大ヤケドを負うこともある。その失敗がさらに悩みを深刻にし、人間を臆病にしていく。

こういった状況に陥ると、ここ一番という時に適切な行動をとるための状況判断がまったくできなくなってしまう。進むべきは進み、退くべきときは退く。

沈黙すべきは沈黙し、打って出るときは敢然と打って出る、という臨機応変に対応するしなやかなバネも知恵も行動力も失ってしまうのである。

それを避けるため、いや、もっと積極的にそうした知恵とそれに裏打ちされた行動力を身につけようとするのが、禅における修業なのだ。

これまでふれたように、悩みとか落ち込んだ心の状態というのは、ひとつのことにこだわっているからである。

そのこだわりをなくし、無心になるテクニックが禅なのだ。とはいっても、人間、自然に湧いてくる念を消し去って無心になることは、そう簡単にできるものではない。

念を消そう、消そうとしても、そう思うこと自体がさらに大きひとつの念であるために、いつまでたっても無心になることは不可能なのだ。

禅では、「念は出るにまかせてそれにこだわらず、ひとつの真言に軽く注意を向けよ」と指導している。こういった状況を維持しているうちにその真言すらも忘れてしまって、いつしか無心(空)の状態になっているというのである。

さきの「念の出ずることを恐れず…」という言葉も同じ状態を指摘しているのだ。

現実に坐禅を組んでいただきたい。

足は結跏趺坐でも半結跏趺坐でもいい。両手で生卵を持つように指をそえ、臍下丹田に力を入れ、目を半眼に開く。このとき無理に無心になろうとしても、念は次から次に出てくる。

だが、ほっておいてよろしい。出て来る念の一つひとつを気にしていては、いつまでたっても無心にはなれないし、その結果悟りに到達することはできない。

いや、それよりも悟ることが目指すところであって、念そのものを失くすことが目的ではないのだ。

とはいえ、座禅を組むことが、最善の方法であるというわけではない。

わが師、植松愛子先生は次のように説く。

「いろいろな念を消し、無になることによって、新しいエネルギー、新しい知恵を得られるというならそれはそれで結構…。

でも、無心になるまでに一体どれだけ坐禅を組んでいなければならないのだろうか。それよりも今目前のできることをしたほうがいい。

ただ今、ただ今の、この一瞬に生きることをせよ」と。

目前のどんなことにでも没我没入し、その一瞬一瞬に生命を燃焼させることこそが、持てる自力を最大限に発揮でき、他力をも呼びよせ、挫折・悩みからすみやかに立ち直る最大の近道なのである。