絶対運(Vol.5)

慣れに流されるとツキも流れる

その日その日、あるいは時々刻々を充実して生きていれば、確実に自力運と他力運とが向上してくる。

しかし、気をつけなければならないのは、とりあえずの目標が達成されやすい、次に設定するとりあえずの目標にすすむ途中で、安定した生活に安住してしまいやすいことである。

安定した生活が確立できること自体、それはそれで非常にすばらしいことなのだが、その生活に慣れてしまうと成長にストップがかかるという危険性があるのだ。

その安定した生活にひたってしまえば、何もそこから脱出しなくてもいいと思うだろう。苦労して新しいことに挑戦するという気力も、新しいことに魅力を感じ対応するという柔軟な感性と精神も失われていく。

安定したことにこだわり、執着しはじめると言い換えてもいい。日本人の気性が保守的になったというのは、革新勢力の不甲斐なさのためもあるが、一億総中流意識を持つようになったことが、最大の原因である。

しかし、保守的で安定した生活は、真摯さを失なわせると同時に、漠たる不安の温床にもなる。何の刺激も感じられないところから、やがてまた不満と不安と失望とが生じ、マイナスな人生に暗転してしまいかねない。

そこで、では、どうするか。

日に新たに…を心がけることである。

これは、儒教では必読の古典といわれる「大学」のなかにある。私が二十前後からボロボロになるまで愛読した本のひとつでもある。

日に新たに、日日に新たに また日に新たなり

「大学」のことばは、殷王朝の創始者である湯王が、座右の銘として洗面する器に刻み込んでいたという。

毎日顔を洗うとき、このことばを胸に刻みつけて、一日のはじまりとしたのであろう。

惰性に流されるとき、われわれの生命の躍動はない。魂の喜びはない。

一瞬一瞬が生き生きしている、そんなときは、その一瞬一瞬が新しくなっているときである。

日に新たに、日日に新たに・・・・・・と、ことばのうえ、つまり頭ではわかるが、具体的にはどういうことなのだろう。

きょうも新しい気持ちで、あすも新しい気持ちで、そして、あさってもまた・・・・・・、それは自分自身の脱皮の姿ともいえよう。そう心がけることが、惰性というよどんだ水におぼれない方法でもある。

豊かな感性、それが惰性に流れようとする日々からわれわれを救いあげてくれるひとつの武器でもある。

新鮮なものをとらえようとする感度が磨かれているとき、新たな感動を得ることができる。新しいものへの好奇心、期待、発見する喜びの窓口は、頭でなく感性である。

その感性をすっかりにぶらせておいて、日日に新たに――と唱えても頭だけ、観念だけのことであり、”日日に新たに”という思いが、本当に心の奥まで響いてこない。

そこには感動がなく、魂の発動がなく、喜びがない。だから魂は眠りこけ、惰性に流されるのだ。

感動、感性は理屈の世界ではない。どんな場合でも論理は感性のあとについてくるものである。

したがって日々新鮮な気持ちを持つためには、われわれは自分の感度、感性を磨きあげねばならない。手段、方法はいろいろとあるはずだ。

芸術に親しむこともいいだろう。

音楽・絵画はもとより、書道・茶道・華道いくらでもある。前に剣魂歌心についてふれたが、ビジネス上の知識と才覚だけでは、大人物にはなれない。

ビジネスが剣だとすれば、芸術・伝統芸能という歌心にも通じておくことが、あなたを大きくするだろう。

「日に新たに」、そんな日々が送れるとき、あなたの強運はいよいよ確実なものとなる。

第三章 他力運をどう呼びこむか

あなたの守護霊は最高か、最低ラインか

世の中には、目標をかかげたら、絶対に達成してしまう人がいる。極めて意志力の強い人といえようが、だからといって意志力だけで目的を成し遂げられるわけではない。

自分自身に果たしたノルマならともなく、他者との関係の上で成り立つもの、たとえば、社会的評価、地位といったものは、意志の力だけではどうにもならない。

そこに強い運が伴ってはじめて、目標が達せられるのだ。

また、この強い運を持つ人は、必死になって、目標達成のために努力するという雰囲気を外にあらわさない。どこかゆとりを持ちながら生きているものである。

こういった非常に強運を持っているひとりが、イラストレーターの横尾忠則さんだ。

彼の前世をみてみると、明の時代の袁子という人に行きあたる。

袁了凡は、思想家であり官僚であったが、人間が自分の運命を改善するには徳を積むしかないことを知って、生活をするうえでどんな功徳)を積み、どんな過ち(不徳、不善)を犯してしまったのかを、たえず反省していた。その了凡はあるとき当代随一といわれた易占の名人に、一生のたどる道を予告された。

「……〇〇歳でこうなり、それからこうなって、そしてあなたは五十三歳で死にます」

その後、彼の人生は、まさに百発百中、占いの名人のことば通りに展開されていった。

ある日ともに参禅することをすすめた雲谷禅師が、もう自分の一生も決定した、と悟り切った心境の了凡に驚き、たずねた。

「どこでそんな修業をされたのか。そなたのように、雑念・妄想もなく、静寂にして捨てきった心の持ち主ははじめてである」

了凡は、自分の一生はすでに決定しているので、いまさら悩んでも仕方がない。だかこれでいいのだと満足しています、と申し上げた。

そのとき、雲谷禅師はカラカラと笑って言った。

「この愚か者。それでは何のために生きておるのか」

禅師はすっかり運命論に陥っていた袁了凡に、いにしえの聖賢たちの生き方を例にあげて、徳を積むことで天の命数も変わるのだ、ということを説いてきかせたのである。

はじめては徳と運命とのつながりを悟り、それ以来、日常生活のなかでどうしたら善根功徳が積めるか、人を救うために何をすべきであり、何ができるのか。

また、それがどれぐらいの功徳になるのかの基準を作り、記録し、日々功徳を積み重ねていった。それをまとめたのが「陰鷺録」である。

袁了凡は、思う限りの徳を毎日毎日積んでいき、やがてできないはずの子どもにも恵まれ、寿命だとされていた五十三歳をすぎてもますます元気で、結局七十四歳の長寿をまっとうした。

詳しいことは、拙著「運命とは何だ」(たちばな出版刊)にあるが、これは実話である。

横尾忠則さんは、その袁了凡の生まれ変わりであり、彼は前世でおよそ七万人余りの人を救済している。

それだけの徳を持って生まれてきているだけに、現世において目標を定めて努力すれば、眠っていた新しい才能・自力が容易に引き出せるのは当たり前である。

しかも、彼の守護霊たちが前になり後になって懸命に応援するとあっては、二、三年という短期日に目標が成就しても、何の不思議はない。

社会の第一線で才能を存分に発揮して、名声も富も活動の結果として得ているという人物は、必ずこのように強力な自力運をバネにして最強の他力運、直接的にはすばらしい守護霊に導かれている。

このような守護霊は、その人物の先頭に立って積極的に力をふるっているわけで、それを私は、〝最高ラインお導き守護霊”といっている。

これはその人物の徳分と努力・精神にあわせて、最高ラインの運命へ導こうとし、人生を積極的に開拓しようという守護霊のことだ。

その反対側の存在が“最底ライン突破守護霊”である。

これは人生に対して消極的な守護霊であり、このような守護霊に導かれると才能も普通で、あまり大きな目標を持たないのでそれほど大きな不満もなく、あるときはなんとなく不運で、あるときはちょっとツイたりして、気がつくとそれほど可もなく不可もない人生を送ってしまうことになる。

危機一髪を助けてくれるのは消極的

沈香もたかずもひらず_。

人畜無害、いてもいなくてもいい、なんとなく漂っているだけの人生を送っている人がいる。これでは生命がしなびていくばかりで、魂の輝きがない。まるで植物人間みたいなものだ。

「よし、それなら今日から会社が終わったら新宿の街角で十人の女の子に声をかけてハントしよう!」

もし、あなたがそんな決意をしたとする。あまり志の高い決意ではないが、それでもあなたの守護霊は、「しかし、眠っているよりはましだろう、誰かれなく声かけて断られた屈辱感が、別のプラスの方向へ向けられたらいいのだから。よし、応援してやるか」と、ようやく重い腰をあげてくれるだろう。

どんな目標であれ、まず設定してみる。何もしないでいるよりは目標を立てたほうが、手もちぶさたで消極的な守護霊も動きだしてくれる。

こうした消極的な守護霊は、守護している人物がなんの目標もヤル気もなく、ただ悄性に流されたノンベンダラリとした日々を過ごしているために、自分の働く場がなくウツラウツラしているのだ。

しかし、危急存亡の事態になると、パッと目を覚まし、必死になって活躍してくれるのである。

たとえば、飛行機墜落事故の時などに守護霊の力の有無がはっきりとわかる。

予定通りに搭乗して生命を失った人、直前でキャンセルして命拾いした人と、運・不運があざやかに分かれてしまうのだ。昭和六十一年、御巣鷹山に墜落したJAL123 便の場合もそうである。

予約し搭乗券まで手にしながら、搭乗直前に急用ができて乗り遅れ、ああついてないと嘆いていたところ、あの墜落事故が起こった。

恐ろしさにゾッとしながら、自分の幸運に涙ぐみ、思わず神様に感謝したという女性が、「ワールドメイト」の会員さんにもおられる。

こういう場合の守護霊を、”最低ライン突破守護霊”といっているが、この守護霊は事故だとか、あるいは緊急の場合に働いてくれる。

自動車と衝突して自転車もろともハネとばされたが、カスリ傷ひとつ負わなかったり、川で溺れそうになり、もうダメだと思ったとき通りすがった釣り人に助けられたり、結婚しようとした寸前、相手は重度の精神異常者であることがわかり破談になった例、さらに寝タバコで危うく火事になるところを間違い電話のベルで起こされたなど、あげていけばキリがないほど、さまざまな状況のなかで助かった体験をしている人が多い。

こんなとき、皆、「ああ、運がよかった、ツイてたなあ」と、ほっとして胸をなでおろすはずである。

守護霊が実在するからである。

しかし、このような最低ライン突破守護霊は、発展的な運命を開拓するという強力な他力にはなってくれず、つねにぎりぎりの線をガードしているだけである。

つまり、本人の強力な意志力がない限り、守護霊も、より積極的な働きをしようとはしないのである。

「人事を尽くして天命を待つ」という言葉があるが、“勇猛心”をふるいおこして、「よし、オレはこうやるぞ!」、「私はこれを達成するのだ」と決心して、敢然とそれにつき進めば、あなたの魂が発動し、守護霊はそれまでの消極的な態度をがらりと変えて、あなたに対し積極的に応援をし、進むべき道を教えてくれるようになる。

人を導く霊を指導霊”と呼び、指導霊を職業や専門的技術の分野でリードしてくれ霊と定義する人もいるが、そうではない。我々が勇猛心を持って積極果敢に進むとき、我々の前に立って、こっちだよ、こうしたほうがよく、それはこうしたほうがよりすばらしくなるぞ、と常に最高ラインに導いてくれる存在が指導霊なのである。

すなわち、指導霊は、その人の意志や意欲に感応して、大いなる力を発揮する守護霊進化した姿ということができるのだ。

守護霊が指導霊になり、その強力なバックアップが得られるようになると、次なる変化が現れる。

一層精進・努力を続けるうちに、やがて、今度は自分自身が指導霊なのか、指導霊が自分なのかわからなくなる状態となる。

つまり守護霊と自分との合体霊となるのだ。そして、その周囲を守護霊群団が取り巻き、守ってくれるようになる。

世の一流の人、大人物といわれている人は例外なくその域に達している。

あなたも、あなたの守護霊を最低ライン突破だけにとどめておかないことである。「人は変化し、運命を改善できる」ということを、まず確信することが第一歩なのだ。

なぜ努力する意欲も出てこないのか

まえに、人には三つのパターンがあると述べた。

●努力しても伸びない人
●努力しただけ伸び、成就する人
●努力すれば飛躍的に伸び、結実・成就する人

誰でもわれわれは三番目の最強運の人でありたいと願う。

しかし、大多数の人々は一番目に該当する。努力しても伸びないし、なかなかものごとが成就しないので悩み、あせり、あるいはふてくされてあきらめる。もっといえば、じつは努力すること自体ができないので悩んでいる場合が多い。

「こうすれば、自分の能力からしてもだいたいこのレベルまで行くんだがなあ。知ってるんだけどさ、なかなか根気というか持続力というか、努力するのがイヤなんだよね」

「そうそう、結局さ、俺たちナマケモノなんだよ、やってやれないことはないけどさ」

それが昂じてやがてこう言うようになる。

「やっぱサ、オレたちサ、ガツガツして出世しようなんて思わないんだよな」

「そうだよ、人の足引っ張ってまで出世なんてサ、みっともないよ」

「まったくだよ、営業の田村なんか、課長にゴマばっかすってさ、見ちゃいられない

「気分悪いよ、今夜はウサ晴らし、パァーッとやっか」

パァーッとやれば見事なのだが、実際は屋台でいつまでもウジウジ、ジメジメ・・・・・・。

独り暗い部屋に戻って、呟く。

「あーあ、世の中ってつまんねえな。俺って不運だなあ。金持ちの未亡人でもいねえかなぁ」

こんな日々のくり返しをしているうちは、なかなか金持ちの未亡人とも巡り合えないだろう。第一金持ちの未亡人が、何も好んでうらぶれた屋台にわざわざ遊びに来るはずがないではないか。

目標に向かって努力する意欲すらわかない。じつはこれで多くの人たちが悩む。

だが、この実状を掘り下げれば、「努力しても自力が出ず、成果があがらない」のではなく、成果があがるほどの自力が出る前に努力を放棄してしまうのだ。

しかし、「努力しただけ成果があがった」となると、もうしめたもので、次のステップに飛躍するのは、それほど困難なことではない。

では、なぜ努力する力を失うのか。

賢明な読者諸兄はご存じのように、徳が足りないからである。

成功の法則やツキを得るために著されたハウツウの出版物はいろいろあるが、この徳について正面からとりあげているものは数少ない。

想念の使い方など心の技術的なノウハウには詳しくても、それからのテクニックを支える徳を正しくつかまないと、現実的にはあまり得をしない。

この徳、あるいは徳分によってあなたの自力運と他力運はどうにでもなる。つまり、徳分を積む量にそって自力運が高まり、他力運が引っ張り出されてくるのだ。

これまでどんなに成功するハウツウやツキを呼ぶ技術を学んでも、少しも成果があがらなかったとしたら、この”徳〟に対する考えが欠落していたからだ。

では、徳をどうしたら積めるのだろうか。

まず、徳の三つの種類からみていこう。

この三つの徳があってこそ一流の人物になれる

いちがいに徳というが、これは三つに分けられる。

まず、人徳がある。

「いやあ、まことに申しわけありません、私の不徳のいたすところでございます」

と深く頭を下げる、あるいは下げるふりをする政治家やビジネスマンの姿をよく見る。

不徳とは人徳に欠けることをいうが、一方、こういう表現もよく聞く。

「Xさんは、たしかに人徳はあるんですが、なかなか世の中では報われませんね。能力もけっしてライバルのYさんに劣らないんですが、どうしてもYさんの方が目立ちます」

これも日常でよく耳にする会話である。

人徳があって才能があっても、ライバルのYさんにつねに負けているXさん、そんな人はわれわれの身近にもいるはずである。

この人徳というものは、自分自身を修養して高めている人格面をいう。その人物の人間的色あい、魅力をさしているのだ。

しかし、人徳なんてものは、宗教的あるいは修身教科書的な評価でしかなく、実生活に何の役にも立たないと言う人もいる。Xさんのように、人徳はあっても恵まれない人がいるのが、なによりの証拠というわけだ。

しかし、真実はそうでない。

人徳があっても恵まれなかったりツキがないのは、もうひとつの徳が足りないからである。

それが第二の徳、地徳である。

この地の徳というのは、前世において自分がどれほど徳を積んできたかという過去の徳分のことである。

イラストレーターの横尾忠則さんのことにふれたが、氏の場合は前世において七万人ほどの人を救済したという徳が、”地徳”である。それに加えて現在の己を錬磨するという人徳があって、今日の氏の隆盛を築いているのだ。

この地徳の有無が、社会で才能が認められて開花・結実するかどうかに関わってくるし、また、ツイている人とツイてない人との違いとなるのだ。

三つめが、天徳である。

この天の徳は、神の道に生きようとする人間、根源的な信仰力を持っている人間に備わるものなのである。

神仏に深く帰依しているとか、天の正しき道を貫いて生きてきたとか、あるいは神様仏様に対して功徳を積み、信仰力を磨き錬磨し、一人でも人を救済してきた人は、天の徳が授けられているのである。

この天の徳を持つ人は、悟りとか叡知やパッとひらめく発想、才能、霊的な素質を有するとともに、危急存亡の折にも助けを得られるのだ。

世で活躍する一流の人物というのは、たいていこうした、人・地・天の徳を兼ね備えているのである。

あなたの方向性を三つの徳に合わせよ

たとえば、天の徳があっても地の徳がないとすれば、あなたの望みは世の中で結実・成就しない。「発想・ヒラメキは抜群だけど、どうも現実に役立たないんだよなあ」と言われるのがオチである。

地の徳があって天の徳がなかったらどうなるか。

「あいつ、何やっても結構うまくいくけど、スゴイ発想で時代をリードするといった、叡知の香りみたいなものとはまったく無縁なんだよな。才能があっても、あれが限度だぜ」

人徳がないと、「たしかに彼は成功してるかもしれないけど、あんなに狡猾で悪辣だといい死に方しないね。見ててごらん、そのうちポックリ……」

こんな声が聞こえてきそうだ。

人・地・天の徳がバランスよく揃ってない人は、世間からのにぎやかなヤッカミや判を浴びることになる。

さて、いかがであろうか。

徳には三つあり、それぞれの働きがおわかりいただけただろう。人・地・天の三つの徳が調和してそろって、はじめてより完璧になるのである。

人間誰しも完璧な存在ではないが、少なくともどうすればそうなれるか、それに近づけるかの方向性がはっきりしたのであるから、今こそあなたの努力目標を徳を得る方向にピタリと定めることだ。

自分にはどの徳が足りないか。まずその弱いところを発見して、そこを補強することである。

というと、前世の不徳を今生で補強することができるのかと疑問が出よう。勿論できるのである。そのことは次の章で詳しく述べることにしよう。

失敗したとき立ち直る簡単な方法

たとえ徳分があっても才能があっても、失敗するときには失敗する。まったく失敗しないということはない。

大切なのは失敗したときにどうするかということなのだ。

一度大きな失敗をすると、もう再び立ちあがれない人もいる。また、一度は立ちあがって頑張ったものの、再び失敗し、それ以降沈んだままの人もいる。

三度失敗して以後、すっかりやる気をなくす人もいれば、何回失敗してもモグラ叩きのモグラのように必ずどこかでひょいと頭を出して、結局は失敗を乗り越えていく人と、まさに千差万別である。

しかしもっとも多いのは、二、三回ぐらいでノックダウンしてしまい、あとはひたすら臆病になって、鳴かず飛ばずの人生で終わってしまうというタイプだ。

世の成功者というよりも、もはや世界的偉人に数えられる故松下幸之助氏は、こう言い切った。

「私はこれまで失敗したことがない」

ええッ!!と驚くか、ホントかなと疑ってみるか、ふーむなるほどと感嘆するか、あ 96 なたはいずれであろうか。

ここに、失敗したときの答えがある。

いわく「失敗しないことである」

しかし、これではまったくの禅問答だとお叱りを受けそうである。松下幸之助氏の「私は失敗したことがない」というセリフの意味は、そのときは失敗に思われたことが、結果としては大成功の基礎、あるいは材料になっていたということなのだ。

そのときは失敗にみえたが、じつはそれがなければ以降の創意工夫はなく、発展もなく、強さもなく、結局は何事も結実・成就することなく終わってしまうことになる。失敗で終わる人成就を得る人との決定的な違いがそこにあるのだ。

いかに失敗にみえようとも、それは成功への準備であり、トレーニングと思えばいいのだ。

あなたの守護霊が高級霊であり、しかもあなた自身に大きな力が秘められていれば(というよりも大きな能力を持った人には、それにふさわしいさらに力のある守護霊がつきそっているものであるが)、そんな場合には、あなたは何回も失敗をさせられ、幾たびも困難な状況に追い込まれるものである。

なぜか。あなたを徹底的に錬磨し、眠っている能力を引き出し、ゆるぎない本物の実力を養成するためである。

ピンチのあとにチャンスあり、というではないか。

「よしヤルゾ!ピンチをチャンスに変えよう」という勇猛心をふるい立たすとき、はめて大きな他力が働いてくるのだ。

その大きな他力が発動するとき、失敗は失敗でなくなり、結実・成就へのひとつの素材となるのだ。その強烈な他力に点火するのが、あなたの“勇猛さ”なのである。

つまずき、失敗したと思ったとき、人はあれやこれや言うだろう。その一つひとつに気をとられていたら、ひたすら滅入ってしまうばかりである。

そんなときは、しばらく「見ざる聞かざる言わざる」のおサルになるか、前にふれた四主義でゲンコツ握って耐えるか、六根清浄をぶつぶついうか。

はたまた天衣無縫な生活のなかで優しく強いあの良寛の詩でも口ずさんでいればいい。

不倒翁に題す
人の投ぐるに任せ
人の笑うに任す
さらに一物として
心地に当るなし
語を寄す
人生もし君に似せなば
よく世間に遊ぶに
なに事かあらん

「おもちゃの起上りこぼしクンよ、人にどうされようと任せっきりで、まったくなにごとも意(心地)に介さない。

お前さんのように過ごせば、この世に何にも困ることはな「いなあ」というわけである。しかし、もっと勇ましく生きたいというのであれば、かの山中鹿之介が火を吹く思いで言っている。

憂きことのなおこの上につもかれし
限りある身の力ためさん

身のひきしまる覚悟である。いずれにしてもこうした決意があるとき、他力運がグンと強力パワーを発揮して、あなたのピンチを救ってくれるのである。

他力にはいい他力とわるい他力がある

ところで、ここまで読み進まれたあなたは、神仏に祈り、ツキを呼ぶことも他力ではないのだろうかと、疑問に思われたのではなかろうか。

たしかに他力である。

ふつうにいえば、他力とは神仏に頼ることと解釈されるから、間違いではない。

しかし、神様仏様に祈ればツキを呼ぶことができるという形で他力運をとりあげなかったのには理由がある。それでは正しい自力運も他力運も得られない場合がほとんどであるばかりか、危険な他力運があなたにつく場合も少なくないからである。

そのことを詳しく知るには、神界・霊界と現界の三極の仕組みを正しく理解しなければならないが、それについては拙著「神霊界』(たちばな出版刊)にゆずり、本書では、他力運に必要なところだけをみてみたい。

他力運には、正と邪の二つがある。

ではその正邪はどこで分かれるのか。

たとえば、ある人が強運を願い、金運が欲しいと熱望し、稲荷神社に行き、お賽銭を出して一生懸命祈ったとする。すると霊験あらたか、さっそく金運に恵まれ、仕事も順 調・・・・・・。

これは有難い。さすがに稲荷のおキツネ様、すごい霊力と、うれしくなって今度は、お賽銭だけでなくサービスに油揚げも捧げようとまたお参りに行く。すると以前とまったく同じ仕事のやり方なのにすべてが好調で金もよく入る、こんな幸運はない。順風満帆、どんどん調子がよくなる。ところが人間、調子がよくなると昔のことを忘れる。稲荷神社への参拝もついつい欠かすようになり、しまいにはその神社のことも、多忙にまかせて忘れてしまったとしよう。

ある日、その人が交通事故に遭った。それをきっかけに今度は坂をころがり落ちるようにツキが落ち、仕事は不振、金に困り、家庭不和、そのうえ子供が登校拒否・・・・・・と急激に人生は暗転する。

こうなったときの他力運は、けっして正ではない。邪なる他力運であったわけだ。

神社仏閣に参拝し、あるいは宗教団体に入ったりして、しだいに登り坂の運勢になってくると、「すごいご利益だ」と有頂天になる。

しかし人間は、悲しいことに先を見る能力に欠けるため、いずれ先にはドンデン返しや行きづまりがある可能性を予測しない。その結果最後には不運に泣くことにもなるのだ。

このように邪なる他力運は、気まぐれな山の天気に似て一時的なものであり、しかも本人の基本的な能力や才能、実力はまったく開発されないといった欠点がある。

お狐さん、蛇さん、たぬきや龍などの力がかかわる宗教団体・神社仏閣では、当初は面白いほどご利益をさずかり、それが信者や人々の心をすっかりとらえてしまうのである。

しかし、それは一時的なものであり、本人の真の実力が伸びないままに反動が現れることが多い。

こうなるとご利益どころか、逆に子孫の代まで不運をもたらすことになる。

正なる他力運とは何か。邪なるものとは反対に、はじめはめざましい効果がないようにもみえるが、ある程度の実力が身についたころ、パッと花開き、結実する。

したがってなる待機”の時間がどうしても必要であるが、その幸運には永続性があり、邪の反動もないので安心していられる。

この善にして正しい他力運を発動させるもとは、お賽銭の額とか油揚げの量ではなく、その人の真、真心そのものである。

大金持ちのどうでもよい一万円の献金よりも、金がなくとも真心のこもった五百円の

ほうが、正神界の神々、仏様たちを動かし、守護霊たちを喜ばせる。そのとき正なる他力が動くのである。

「苦しいときの神頼み」というが、決意も、努力も、覚悟も何もしないで、ただ「神様仏様守護霊様、運を強くしてください」では通用しない。

自分自身の実力をつけることを考えず、いくばくかのお賽銭を投げてどうにかして欲しいと祈った結果、ご利益らしきものが得られたとしても、それはイタズラ好きかイジワルな邪霊たちか、動物霊たちの悪しき介在であることを知っておくべきだ。

もぐりの守護霊は“肉親の情〟だけで来る

他力を動かすのは、金銭ではなく真、真心であると言った。この真心こそが、神様をはじめ、守護霊や胎蔵界、金剛界のすべての仏様を動かすのである。

もっといえば、日本の天津神、国津神、八百萬の神々をも動員するのだ。

したがって真心ある祈りは、正しい神霊界の正神たちや仏様に通じるのである。

守護霊は、その正神霊につながるわれわれにとっての窓口であると考えてもらえばよい。

その守護霊にも、わかりやすくいえばライセンスを持った守護霊ともぐりの守護霊とがいる。

認定守護霊というのは、いわばA級ライセンスを持ったドライバーのようなもので、われわれを安全に効率よく確実に、しかも積極的に導いてくれる力がある。

これは神様から認定された守護霊であり、自分が守護すべき人物の前世(過去)、今世、来世まで、すべて見通す能力があって、そうした過去・現在・未来の大極に立って守護し、リードする。

つまり非常に高度なところから、その人の魂の育成錬磨をはかるのだ。

したがって、その人を守護するにしても、過保護なまでの守護はしない。

もし、守護霊が面倒を見すぎると、その人物はもろく、弱く、頼りない人物となり、才能も磨くことができないからである。困難な状況に追い込んで、その中から奮起して立ち上がる勇猛心と知恵とを磨くように、つかず離れず見守っている。

だから、あなたの守護霊は、あなたが辛い立場に立たされたときは、「どんな心構えどんな行動をとるのか」と、じっと現実のあなたを見守っていると考えるべきである。

しかし、前向きで発展的で善なる思いに満ちて決意し、行動を開始すれば、その認定守護霊は喜び勇んであなたのお手伝いをするし、ピンチに陥ったときには強力な援助の手をさしのべる。

それだけでなく、あなたが勇気を持って進み出せば、A級ライセンスを持つドライバーが、あなたというクルマを巧みに操縦し、人生のどんなカーブも、七曲がり峠も、その先々の状態をちゃんと見越して、安全・確実に走ってくれるのだ。人生の曲がり角も安心して曲がってくれるわけである。

これに対して、仮免中であったりライセンスのないドライバーは、危険な存在である。一応、見よう見まねで運転はできる。

つまり人を守護することが一応できることはできるが、どのように守護するかが問題になるのだ。

こうしたいわばもぐりの守護霊は、多くの場合祖父や祖母、あるいは亡くなって間もない父親や母親の霊である。

この類いの守護霊たちは、自分自身がまだ十分に修業ができていないので、過去・現在・未来を見通す能力がない。

そして、こうしたもぐりの守護霊たちに共通しているのは、ひたすら“肉親の情”で守ろうとする点だ。

「お父さんが死んだら、お前を霊界から守ってあげるからね」とか、あるいは祖母が臨終間際に、「霊界から私がしっかり守ってあげるからね、リエちゃん……」などと言って、彼女の手を握ったまま息を引きとったりする。

祖母という守護霊に守られるリエちゃんこそ、いい迷惑である。彼女が年ごろになって恋愛して結婚しようとすると必ず縁が壊れるとか、時折なんとなくイライラするし体調もおかしくなる。病院へ行っても原因不明、医者は首を傾げるだろう。

リエちゃんがとうとうオールドミスになってあせっているところへ、ひょっこりある男性が現れて結婚を迫る。

何となく耳元で結婚しなさいと祖母が囁いているようなので結婚したら、なんとこの男が酒乱でなまけ者で乱暴者、そのうえ浮気が絶えず、ついにリエちゃんは出戻り娘になってしまったという類いの話も少なくない。

これなど、もぐり守護霊であるおばあちゃんが、彼女をミスリードしたためである。孫娘を守るといいながら、自分のワガママで婚期をおくらせ、やっと結婚させた男はサイテイ……………。

これも、先を見通す能力もなく、しかも情によってのみしかリエちゃんを守ることができない未熟な守護霊がついていたからだ。

じつは、このもぐりの守護霊、本当は守護霊というべきではないのである。

霊界で自らが修業すべき立場にあるものが、なんとなく情にほだされて現実界の子孫にただたん に憑依しただけにすぎないからだ。

それにくらべて認定守護霊は、けっして情に流されず、守護する角度、咀嚼力、先見性、人間の魂の完成度といういろいろな面を深く考えて、人間を守護し指導する。

大成した一流の人たちを見るとわかるが、必ず何らかの大きな試練を何回か乗り越えてきた人たちばかりである。

情に流されて、ついつい過保護にするような低いレベルの守護霊はけっしてついていないのである。

一霊四魂が他力運を呼び込んでいく

大きな目標、大志をいだいてことを為そうという人物は、自らの周辺に強いパワーを発散している。

そのパワーは目には見えないが、一種の迫力となって周囲を圧倒する。本当は小柄な人物なのに、壇上にあがって話をはじめたり、あるいは舞台で演技をはじめると、しだいに大きくなってくる。そんな人物も少なくない。

こうした人物を天眼通カーつまり物質界を超えた霊的世界を見ることのできる霊眼で見てみると、その人を守っている守護霊や守護神から発せられている霊的波動、あるいは霊的パワーはかなり強大である。ただそこにじっとしているだけで、強い存在感を感じさせるのだ。

たとえ、天眼通力が開けてなくとも、そういった人物の持つ大いなる雰囲気を誰でも感じとることができるはずである。

肉眼ではとらえられない何かが、間違いなくわれわれ人間をとりまいているし、しかもそれらはともに影響し合っている。

物質的存在ではない形のない世界から人間の成り立ちをみると、われわれは四つの霊的要素によって構成されているのがわかる。

奇魂=くしみたま
和魂=にぎみたま
荒魂=あらみたま
幸魂=さきみたま

幸魂は愛情を表現し、情や心の部分を担当する。荒魂は勇気を司る。体でいえば筋肉や骨格を表すが、精神面ではあらゆる苦難にあっても耐え抜くという忍耐力、あるいは勇猛心となって発揮される。

何かを為そうとするときにはぜひ発動させねばならぬ魂である。

親和力や調和をはかる働きをするのが和魂で、体では内臓の働きを担当している。

奇魂は、智の働きとともに、他の三つの魂の総括的立場にあって、霊感や直観の能力をもたらしてくれるのである。

こうした四つの魂がワンセットとなって、われわれ一人ひとりの霊を形作っている。したがってどの魂が強く働くかによって、その霊、すなわちその人の個性がどうであるかが明確になってくる。

ついでにいえば、私がガイドして、二、三十名から数千人をひとグループとして天体の星ツアーに行くときは、それぞれの奇魂をそれぞれの肉体から解放してあげて、木星や金星に案内して、個人個人で星々を見聞してもらうのである。

特別に素質がない人でも、何回か星ツアーに行くことで、奇魂が自由に肉体から出入りできるようになり、やがて楽に天眼が開けてくる。

天眼が開けると、神霊界の実相がわかり、現実社会の正しい生き方や未来予測もできるとともに、正しい霊的波動をキャッチして爆発的な自力運と他力運とを自分のものにすることができるのだ。

これまで、目標を定めて精進するとき、魂が発動するという形で説明してきたが、じつはこの四つの魂が一霊となってわれわれを動かし、他力運をも呼び込むのである。

しかし、いつも自分のことだけを考え他人のことを配慮せず霊的パワーを強めたところで、志は成就しないということを知っておいてほしい。

「人もよし、われもよし」という神霊界法則にのっとって祈り、努力するとき、魂は発動して、守護霊を積極的に動かし、正しい高級神霊界からの応援を得て、奇跡とも思え他力運を呼び込むことができるのである。

「人もよし、われもよし」という原則に立った志が高ければ高いほど、それを成就させるために、何十、何百という強力な守護霊や守護神が働いてくれるので、いやがうえに他力運はひたすら向上する。

どん底で発願…これがチャンスを呼ぶ

ユング研究の第一人者として著名な故秋山さと子氏は、かつてジャズ歌手、デザイナー、映画の広告宣伝業などもやってきたというユニークな経験をお持ちの大学の先生であった。

秋山さと子氏自身の文章で表現すると、
「……恋愛や戦争や仕事、さまざまな運命に翻弄されて、三十五歳になったときに、さて、これからどうして生きたものかと思いました」と淡々と綴っておられた。

秋山さと子氏は、ある大学に入学し、人生をもう一度生き直してみようと決心し、そのとおり実行したのである。

どうだろうか、あなたは三十五歳の中年になって、家庭も職業も一切捨てて、もう一度やり直そうと、決心し実践することができるだろうか。

二十代でもある程度のところにおさまってしまうと、たとえ不平や不満があったり、人生の方向が違っていると思ってみても、すべてをゼロにし白紙に戻ってやり直そうと考える人は少ない。

ある方向に走り出してしまってから、間違っていることに気づき方向を変えようとしても、慣性の法則で動いているエネルギー以上の力でそれに対抗しないと、流れは変わらない。

つまり日常の習慣をガラリと変えるのはそれほど困難なことなのである。逆にいえば、惰性に押し流されているほうがはるかに楽なのだ。スパンの

秋山さと子先生の場合、三十五歳のそれまでの人生は幸運と不運とのくり返しで、自分では何をやっていたのかさっぱりわからなかったと告白している。

そして前述したように、大学生となって人生をやり直しはじめた。

そう決意して大学生活をはじめると、不思議と心に落ちつきをとりもどした。さらに心にゆとりができたころ、後半生の人生の方向を決める人との出会いが待っていたのである。

大学在学中にスイス人のジャーナリストと知り合う機会があり、日本のことや仏教の取材をお手伝いするうちに親しい友人同士になった。

そしてその友人たちとのつき合いがきっかけで、ヨーロッパでの学生生活をするチャンスに恵まれ、三十九歳でスイスに留学、チューリッヒのユング研究所でユングの精神分析学を学んだ。

帰国するころには、ユングが日本でも幅広く紹介され、日本ではたちまち引っ張りだこの研究家となったのである。

生前、秋山さと子先生とは、私の主宰する雑誌のために対談させていただき、”愛”や“結婚”についてそれぞれの立場から意見を交換したものである。

秋山さと子氏の今日の大いなる活躍は、三十五歳のときに「よし、もう一度生き直してみよう」と覚悟を新たにし、「大学で勉強し直そう」と発願したことにある。

その瞬間から、新しい幸運のチャンスの歯車がゆっくりと、しかし大きく回転しだしたのだ。

失意のとき、どんな発願をするかが、それ以降のあなたの人生を決める。小さな発願をすれば小さいなりに、大きく発願すれば大きいなりに、運命の歯車は確実によい方向へ回転しだす。それが転機である。

したがって、絶望したり失意のどん底のときこそ、大いなる転機だと考えるべきなのである。大失敗したり、不運の波をもろにかぶっているときこそ、

あわてないことだ。そういうときに限って周囲の人は、親切心を発揮したり、したり顔でアドバイスをしてくれる。その一言一言に感動したり、あるいは胸にささる思いをするだろう。

だが、他人の助言いた批判に、けっして反論してはならない。自分が今どん底の状態だなと思ったら、批判されようと、助言されようと、一切弁解しないで黙って聞くことである。

もし反論したり弁解すれば、その何倍もの批判が返ってきて、評判をますま す悪くする。

「○○君って、やっぱりダメだね。善意で彼のプラスになるようアドバイスしても、反発しかしないもの、ツイてない奴はしようがないな」

「うん、そう、やっぱり育ちが悪いからね」

「まあ、俺たちと同じ人間じゃないんだよ、カボチャだよカボチャ」

だんだんエスカレートして、ついには人間扱いされなくなる。

転機だと思って、うろたえたり、あせってはならないのである。泳げない人ほどジタバタしてますます溺れる。流れに身をまかせて静かにしているとチャンスは必ずくる。

第一、本当にどん底ならばそれ以下になりようがないのだから気分も楽なはずだ。大きな運命の流れを静かに見つめながら、一切の余分なもの、見栄や虚栄を投げ捨てて、自分の本心が望むもの、魂が欲求していることだけに耳を傾け、それを実現しようと発願することである。

発願するとき、あなたの自力運大波を引き寄せてくれるのだ。

たげだし、他力運が自力が頭をもたげだし、他力運が自力運に合体して幸運の大波を引き寄せてくるのだ。

災難に遇う時期は、災難に遇うがよく候
死ぬる時期には、死ぬるがよく候

といった気持ちで発願するとき、あなたは世の一流の人物たちと同じように、転機を得たことになり、このとき正しく人生の方向転換を行えば、人も驚くほどのチャンスに恵まれるはずである。

他力運倍増にもそれぞれ祈りかたがある

大きく発願すれば大きな幸運が、小さく発願すればそれなりの運気が来ると書いたが、他力運を動かすには、それなりのコツがあるのでそれをマスターしてもらいたい。他力運というのは、守護霊様をはじめ守護神様、諸々の仏様や神様のわれわれを応援してくださる働きのことをいう。

したがって発願し神仏にその実現を祈ることは、遠慮することなく積極的にどんどんやるといい。

いや、そうやることこそが〝発願〟でもある。つまり、仏様や菩薩が衆生を救おうと誓願をおこすこと、一大決意の表明が発願のはじめの意味であり、そこから神仏に願を立てることをいうようになったものだからである。

神仏への祈願の仕方のコツは、大きな願いにはそれを実現できる大きな働きを持つ神様に、小さな日常的な希望ならばそれ担当の神様や仏様に、焦点をしぼってするということである。

つまり、発願の大小・種類によって神仏の担当がそれぞれ違うということをよく知っておくことが大切だ。これを知らない人が意外に多く、働きが違う神様に見当違いの祈願をして、”何の効果もない”と愚痴ったりケチをつけている人がいる。

「これは八百屋で魚を求める」ようなものである。

もうひとつは、発願した内容、大小によって、実現する期間が違ってくるということだ。たとえば、伊勢の天照大御神様は日常的な小さなことを祈願してもお動きにならない神様である。

大きな局面で大きく動き、しかもその効果が出てくるのが早くて六カ月ぐらいで、一般的には一年以上かかる。

ところがそれを知らない人が、伊勢に行っても何の効果もないなどと本に書いていたりする。

伊勢神宮は、国家を預かる政治家とか、会社を運営する経営者やその幹部、あるいは個人であっても、自分だけの小さな願いではなく、ひとりでも多くの人々に何らかの形でプラスになる活動の祈願などに反応してくださる神様なのである。

同じ会社でも、月々の売り上げや年商を上げるにはどうするかといった内容ならば、会社の近くの産土の神様が担当であるし、その日その日の問題ならば、自分の守護霊様や相手の守護霊様、あるいは荒神様に祈るとよい。

大きな働きをする神様であればあるほど、その効果が現れてくるのに時間がかかり、小さな働きの神様ならば小さな願いにふさわしくすぐに実現する。

このように、自分の願いの大小、時間の早さ遅さ、願いの種類によって、神様の働きをよく見きわめて、使い分けをしなければいけない。

しかし、われわれが祈る他力の中心というのは、この宇宙天地の創造の神であることを念願におくことだ。

その神は、日本では天照大御神様であるが、この大御神様にフォーカスを合わせる一方、さらにそのもとで直接窓口となっている産土様や荒神様や守護霊様に祈ると一層効果が高い。

たとえば、祈願するときのもうひとつのポイントは、大きな目的は抽象的に、小さな要望は具体 的に祈るということだ。

「天照御大神様、妻に内緒で麻雀をやり過ぎて来月は小遣いが足りません、三万円ほどよろしくお願いいたします」と祈るのは、電気掃除機が故障したとき、それを買った近所の電気屋さんにではなく、メーカーの社長にクレームをつけて故障をなおしてくれ、というようなものである。祈るならば、こうありたい。

「天照御大神様、なにとぞ会社においてもまた日本人としても、会社に役立ち、大勢の人々に役立つ私としてご守護お導きくださいますよう、よろしくお願いいたします。

ドイツ語を勉強中ですが、早くマスターして日本とドイツのために働ける人物として、

お導きくださいますよう…(略)」と抽象的に大きくお祈りし、

「守護霊様、ホントにすみません。女房に内緒であれほど禁じられていたカケ麻雀に手を出し、小遣いすべて巻きあげられました。

今後はそのようなことをいたしませんので、今月の十日までに三万円の小遣いが手に入りますようよろしくお願いいたします。ドイツ語の勉強にも精いっぱい集中して頑張ります」

と、いついつまで何をどれくらいというように具体的に祈るのがコツである。

当然のことだが、冗談半分や自分のご都合主義だけで祈れば、ご神霊はきき届けてはくださらない。反省すべきは反省し、新たに決意し真心こめて祈るとき、はじめて天に通ずるのだ。

金運の三宝荒神”のまつり方、売り上げ倍増の〝蔵王権現〟、人間関係と福徳の三面大黒天”などへの祈り方など、詳しくは拙著「大金運」(たちばな出版刊)を参考にしていただきたい。

いずれにしても、心が誠の道と神明の加護に価するものであれば、神様はお祈りしなくても助けてくれるし、大いなる他力運を授けてくれる。

神人合一をした人物のひとりである菅原道真の歌を、拳々服膺したいものである。

心に誠の道にかないなば祈らずとても神や護らむ

他力運を百倍効率よく動かすには、これまで述べてきたコツに、それを支える誠が絶対に必要な条件であることをくり返し述べておく。

ますます運を悪くする霊能者もいる

霊的な能力を持っている人と接するときには、少々気をつける必要がある。

へたをすると自分のせっかくの運を悪くする可能性があるからだ。とくに、霊能力を使って商売をしている場合、たとえそれが宗教家であっても同じである。

なぜなら、霊視ができると、当然悪い霊も見える。

「ああ変な霊がついているな」、「ずいぶんグロテスクだな」、「あれこんな霊にも憑依されているな」、「おうおうすごい邪気を発散してきおった」

この悪い霊の姿はけっして美的なものではない。不快であるだけに気持ちはしだいに殺気立つ。しかも悪いことにこうしたマイナスの霊の波動は粗雑であり、その粗い分だけ余計にはっきり見えたり、感じられたりする。

その結果、霊能者はつねにマイナスの波動を持つグロテスクで邪な存在と交流をしていることになる。たえず醜悪なものと対面しているから、どうしても彼の注意はそちらに向けられる。そしてマイナスの波動をつねに浴びているうちに、醜悪な面ばかりを引き出し拡大してしまうクセがついてしまう。

「お宅にはこんな霊がついていますよ、うむ、かなり深くとりつかれてますね」

そう言われて、地縛霊だの動物霊といったいやなものだけを考え、「そうかなあ、そんなのがついているのか」、「ついカッとするのはそいつらがやらせるのか」と、いよい強く意識し、肯定するようになる。強く意識したりすると、それらのマイナス要素はますますはっきりと前面に出てくる。

そしてついにはそれまで平穏無事に近かった日々が、しだいに暗く、マイナスの運気の方向に向かってころげ落ちてしまうのだ。

先日も新婚七、八カ月ぐらいの新妻が相談にみえた。

「それまで別に何の問題もない家庭生活で、将来はこんなことをしようなどと夫婦で話

し合っていたんですが、途中から急転直下、おかしくなりはじめたんです」

私には、すでに彼女が何を言いたいかわかっていたので、何の質問もせずただ黙って聞いていた。

「夫の友人の紹介で、ある霊能者に軽い気持ちで会ったんです。そしたら、奥さんあなたには家代々のキツネが憑いています。ご主人には古いタヌキが憑いていますね。このままじゃよくないですな、いずれは・・・・・・なんて言うんです。それ以来夫婦仲が悪いほうへ悪いほうへと転回して、もうどうしようもない状態で……」

その霊能者は、妻と夫と交互に呼んで相談料をもらって、いろいろアドバイスをし霊的な処置をしたという。一時はよくなるかにみえたが、その後の夫婦関係はいよいよ深刻になるばかり。温和だった夫が、「どうせ俺は古ダヌキだあ」と、暴力すら振るうようになった。

「かつてのごく普通の家庭生活が夢のようです」と、暗い声でその相談者は語った。

これなども、霊能者にふりまわされた典型的な一例である。欠点以上に長所や美点を引き伸ばし、その善なる方向に全神経を傾けさえすれば、その人物のパーソナリティを一層優れたものとすることができるはずなのだが、逆の目が出てしまっている。

なまじ霊能力があり、霊視によってマイナス面のみをとらえて、それに注意を向けさせられたばかりに、マイナス面をより拡大し不幸に陥らせてしまった。この罪は大きい。私は、私の弟子たちにも厳しく戒めている。

「霊眼が開けてくるといろいろなものが見えてくるが、けっしてそういったものだけに注意を向けるな。

見えていても、意識して守護霊を見、神様の分霊であり光を宿しているその人の御魂の美しい輝きを見なさい」

プラスの明るい面ばかり見る努力をしていると、霊界が変化していく。そうするとお互いにプラスの面ばかりを強調し合うようになり、当然運気も急上昇する。

しかし、霊能力によって霊界のマイナス面しか見ることのできない人は、たとえそれがどんな教団の教組であろうとも、いかなる団体に属していようと、真に人を幸福に導いていくことはできない。

さらに気の毒な事実をいえば、そうした霊能者は死後かなり長い間、地獄で苦行をさせられる。

なぜならば、愛と誠で人を導くことをしなかったからである。

相談にみえた新妻に話を戻そう。

私は、改めてその女性とご主人とに来ていただき、おふたりのそれぞれの守護霊様にお出ましになってもらった。

守護霊はご承知のとおり、いろいろ霊層のランクはあっても、どんな場合であれ善であるからだ。

それぞれの守護霊様のお顔を描き、それに守護霊様からのメッセージを書き添えた。

ついでに、ふたりの前世は戦国時代をたいへん仲よく生きた姉弟であったことをも教えてさしあげた。

夫妻は涙ぐみ喜んだ。今夫婦は仲がよく幸せいっぱいで、「ワールド「メイト」の会員にもなり、年数回の私の講義や秘技を行うセミナーに欠かさず顔を見せる。

星ツアーのときにも、ふたり仲良く参加している。ふたりの御魂の輝きは純である。

やがて、夫妻に玉のような子供が授かるはずだが、私は今、夫婦の喜びを先取りしてはいけないとワクワクする気持ちを押さえて何も告げていない。