神様の道に生きようと思うなら、まず己を知れ
とにかく、信仰を持つようになっても全然変わらないのでは、これは信仰していると言えない。
神様の道に生きていこうと思ったら、まず、私の「大除霊」にも書いておきましたけれど、己を知ることです。己を知れということは、ただ反省して小さくなれ、ということではありません。
こういう長所があり、こういう短所があるというふうに、お父さんとお母さんのいい血脈、悪い血脈を知ることです。そんなことはわからないと言う人がいるかもしれませんが、人は誰でも両親の合作ですから、両親を見ていたらわかります。
「ああ、お父さんにはこんなひどい癖がある、何とかならないのかな」と、いつもお父さんに対して文句を言い、お母さんに対して文句を言っていたとしたら、自分の中にも同じ要素があると考えていいですね。
両親を見たら、己の中にどんな因縁があるか、だいたいの見当はつきます。それを考えたら、なるべく見ないほうがいいかもしれません。因縁は解消しようにもなかなか解消できませんからね。
それに対して、考え方の癖や生活習慣、これは後天的なものです。後天的についたものは、努力して改めて、先天に帰す。これを、「坤を返し、乾を化する」といいます。「坤を返し」というのは、後天的についた癖を返すということ。そして、改めて「乾を化する」。
本来、自分が持っている天来のものを化するというのは、質を変えていく。天来のものが出てくる。
「後天を返し、先天に帰す」。あるいは、「後天を改めて、先天をいだす」。自分の魂のいいところ、本来持っているいいものを出そうと思えば、今生、身についた癖を改める、生まれてから知らず知らずのうちに染みついた悪い癖を直す。
そうして初めて、先天のいいものが出てくる。生まれる前から持っているいいものが出てくるということです。
先天の悪しき因縁を断ち切る努力が大切
自分の持っている「心のたけ」ということについて、もう少しお話しいたします
今日、知人と赤ちゃんの話をしておりました。その人のところにはかわいい赤ちゃんがいるのですが、彼曰く、「赤ちゃんていうのは、親戚の顔を一周して大きくなっていく」と。「えー、本当?本当かなあ」と私は言ったんですけれど、「本当です」と、彼は言うのです。
私は、彼の赤ちゃんが一周したのを見ておりませんが、そう言えば、小さいころはお母さんに似ていると言われたけれども、徐々にお父さんの顔に近くなり、それからお祖母ちゃんの顔を経て、お祖父ちゃんの顔になり、そこからくるっと回転しながら親戚のひいお祖母ちゃんの顔になり、何だか知らないけれども、叔父さんの顔に近くなってまた帰ってきた。
そして、最終的にはお母さんに似てきて、という話はよく聞きます。
さらにその知人が言うには、「どの顔がいいか、どの因縁がいいか、自分で選んでいるんでしょうかね」と。
そこまでの選択の技術を赤ちゃんが持っているのかどうかわかりませんが、でも、赤ちゃんの顔というのは、いま言ったように親戚縁者の顔を巡って、自分の持っている天来の素質に合った形で今生の顔になっていくわけだから、コンピューターの検索機能みたいに、血脈から顔を出しているんじゃないかな、という話を先ほどしていたんです。
そのように、いろいろな「心のたけ」が出てくるわけですが、それはお父さんからの血脈から出てくる因縁やたらと喧嘩っ早い「たけ」かもしれないし、お母さんの血脈から出てくる、ギャーッとヒスを起こす「たけ」かもしれないし、親戚の叔父さんのように、酒ばっかり飲む「たけ」かもしれない。
あるいは、「もう勉強なんか嫌」というひいお祖母ちゃんから出てくる「たけ」かもしれない。
しかし、その「たけ」のままに流され、「たけ」を放置しておくのはよくない。
やはり、先天の悪しき因縁を断ち切る努力をしなければいけない。
そのためには、何事に対しても真心で向かわなければいけない。
精進努力しなければいけない。調和の心を持たなければいけない。
信仰の道に生きる人の素晴らしさとは
信仰の道に生きる人の素晴らしさとはそうやって、自分の「心のたけ」や、出てくる「思いのたけ」をうつして省みて、そういうふうなものがなくなったなら、あるいはまた、そういうことこそが、信仰していることのめでたい祝いなんだ、と。
「祝い」って面白い言葉と思ったんですが、それこそが、まさにめでたいことなんだ、素晴らしいことなんだということです。信仰していることの素晴らしさなんだということです。
それから、「徳なりとすべし」というのは、信仰している人の神徳、徳分がある、ということです。人徳と言うんでしょうけれども、徳分なんだよ、だから、そういうふうにしなさいということです。「すべし」というのはそういうことです。
「心のたけをうつして省みるを、信仰の祝いと徳なりとすべし」
短い言葉ですが、噛みしめれば噛みしめるほど、味わい深い言葉です。
一生懸命拝んでいるし、祈っているし、ご奉仕もするし、玉串もするし、秘儀の会にも出るし、団体参拝にも行くし、悟得会も受けているけれども、五年たっても十年たっても人間は変わらない。
お父さん、お母さんからもらった因縁もそのままだし、性格も変わらないというのでは、何のための修養かわかりません。「己を知る」ということは、いま言ったように、お父さん、お母さんからどんな長所と短所をもらっているのか、それをしっかりわきまえることです。
ですから、それをよく理解して、己を知ってから足りないところを改善し、お父さん、お母さんから引き継いでいる嫌らしいところを乗り越えて、素晴らしいところを開花させていく。これができて初めて、修養の成果が上がる。
そういう意味で、己を知らない、己というものをわきまえない人間が、「修業だ、修業だ」とやっていても、本当の修業にはならない。少なくとも御魂の修業にはなりません。
御魂というのは、己の中身、人格、人間性そのものですから、その中に眠っているお父さん、お母さんから引き継いでいる因縁、そして、生活環境の中で身につけてきた悪しき。
そういうところからにじみ出てくる心というものを払拭し、省みて、改めていくということによって初めて、信仰している徳分、人徳が表れてくる。そして、神様から愛でられるような素晴らしい人間になっていく、ということでしょう。
これが信仰に生きていることの素晴らしさなんだよ、ということです。
素晴らしき神なるものを咀嚼して、信仰をわがものとせよ
宗教団体でよくある話です。
教えは素晴らしい、教祖さんも素晴らしい、教祖さんの書いた本も素晴らしい、しかし、支部に足を運んでみたら、対応してくれた人の言っている言葉や人間性は最低だ、という話があります。
「何しに来たんですか」
「何しに来たも何も、礼拝に来たんですけども」
「早くしてくださいよ」
「はあ、なるべく早くいたします」
そして、出されたお茶を飲んでいたら、向こうにいる人たちの話が聞こえてきた。政治討論はまだいいです。あのおばさんがどうのこうの、あんな厭な奴がなぜ神様の道に生きるんだろう、もう教会に来なければいいのに……。
そういうふうにボロカスに言っているのを聞いて、こういう人ばっかりなんだ、ここは――と、新しく来た人はみんなそう思います。
信者同士、互いに悪口を言い合う。これを私は、イカとタコの墨のかけ合いと呼んでいます(笑)。イカもタコも骨がない。骨がないくせに、墨だけは一人前にバーッとかける。イカもタコも墨で真っ黒ですよ。
因縁の飛ばし合い、悪想念の飛ばし合い、イカとタコの墨のかけ合いだと私はよく言うんですけれど(笑)、そういうのを見たら、「うん、教祖さんは立派だ、教えは立派だ。けれど、あんな姿を見たら行く気がせん。
あの教会、あの支部、あの布教所へ行ったら、厭な奴と会わなきゃならないから、もう行くのは厭だ」という気分になりますよ。宗教団体によくある話です。
宗教団体に入って三十年、信仰を続けています。先祖供養、三十年やっております。しかし、信仰は持っているかもしれないし、供養もやっているかもしれないけれど、二番目の「心のたけをうつして省みる」ことがまったく欠落しているから、尊敬できる人間は誰もいない。
そういう現実を見て、新しく来た人はみんながっかりして帰っていく。三十年やってこれか、信仰なんか持っていない人のほうがよっほど立派じゃないか、と。
それをそのまま支部長さんにぶつけたら、「いや、違う。この信仰の道に入ってなければもっと酷かったんだ」と。ものは言いようですけれどね。だから、信仰の大事なこの箇所を忘れておりますと、十年たち、二十年たちましても、あとから来た人を失望させるだけです。
「何年やっておられますか」
「はい、この道一筋、二十年でございます」とは言うんだけれど、昔からの信仰仲間に向かって、「あいつは本当にバカな奴だ。俺がラーメンを半分よこせと言っているのに、よこさない。何てケチな奴なんだ」と、ラーメンの争奪戦で延々と話している。それを脇で聞いていて、「こんな人間がいるとこダーメン!」(笑)。
そうではなくて、「素晴らしい人たちがいるな、さすが二十年やっているだけあって違うな」、というのでなければいけませんよね。「非常にいいお心で、自分もああいうような人間になりたい」新しく来た人にそう思われるような人間にならなければダメです。
「先日、ある人と喧嘩してしまったんですけれど、あとで考えたらやっぱりよくないなあと思いましてね、反省いたしました。これじゃ神様に申しわけないと思って、いまご神前にお詫びにきたんですよ」
という話をポロッとされたら、「ああ、立派だな」と思いますよね。
「私は高校を中退したあと、自動車部品工場で工員として何年か働き、それから飲食店を始めたんですけれど、結婚生活はどうもうまくいきませんでした。三回結婚三回とも離婚したんですよ。色情因縁でしょうかね。
父は六回離婚しているから、半分には留めているとは思うんだけども(笑)。四回目の今度こそ離婚しないように努力しているんですよ。それで、昨日家内と喧嘩したことを反省し、神様にお詫びに来たんですよ」
そういう、その人なりに努力している話を聞いたら、「そうですか。実は私も四回離婚しているんですけれど、四回目のときは私がいけなかった。いま、猛烈に反省しているんですよ」と、人に言いたくないことでも素直に告白してしまう。
「ああ、そうですか。あなたは四回離婚しているんですか」
「そうなんですよ。やっぱりね、ついつい自分中心になってしまうんですね。まあ、いまさら注意するまでもないでしょうけれど、あなたもそこは十分気をつけたほうがいいですよ」と、麗しい離婚者同士の話し合いが、ご神前でなされるわけです(笑)。
それを見ていた初婚の人が、「ああ、私は恵まれているな。今日、この人たちの会話を耳にしたということは、神様がきっと、この方たちを反面教師としなさいとおっしゃっているに違いない。
実は昨日の夜、離婚届に印鑑を押そうかと思ったんだけれど、やめにしよう。いまの家内を失うとあとがない」(笑)
と、己を省みる。離婚しようかどうしようかと思って支部に来たら、離婚経験者同士が話をしていた。それを聞いて、「あっ、神のお声だ。離婚届に印鑑を押すのをやめて、十年後に押そう」(笑)。
そういうふうにわが身を振り返り、反省する。素晴らしいでしょう。
たとえていうならば、そういうことです。信者さん同士が素晴らしい会話、立派な会話をしている現場を見たら、何と素晴らしいところなんだと思います。
ここには素晴らしい神様が降りていて、素晴らしい宗教的な中身が成就されているに違いない。
きっと素晴らしいところなんだと思って、日々、支部で救霊をしている救霊師さんや九頭龍師さんと話をし、どのような生き様をしているのか確かめてみたら、さすがに神霊を取り次ぐ救霊師だけあって中身がある。
普通の話をしても、教養とか学識、あるいは社会的な実力や表現力はイマイチかもしれないけれども、乏しい単語と乏しい経験の中からにじみ出てくるその言霊に、信仰の輝きと徳分が感じられる。ああ、何と素晴らしいんだろうか、と。
やはり、それなりに志している人、そこに気をつけている人は、ちょっとした言葉の端々に内面の輝きが出てきます。何と素晴らしいグループだ、何と素晴らしい人たちだ、と。その人なりに素晴らしい神なるものを咀嚼して、信仰というものわがものにしていると、見ていて感動しますね。
回り道をしているようでも、それが一番の近道ではないか、一番いいご神業のやり方ではないかと私は思います。内的な神なるものが弥栄えていく、一番の近道だと思います。
今日、熱田の神様がお出ましになり、このようなご神示をくださったということは、そこが足りていないということでしょう。皆さん、このご神示を見て、「うわ一つ、素晴らしいご神示だ!」と喜んでいるでしょうけれど、なぜ、わざわざ熱田の神様がこういうことを言うのか、です。「みんなできておらん!」ということでしょう。
どうですか。耳の痛い話かもしれませんけれど、熱田の神様がおっしゃりたいのはそこではないのでしょうか。そのために、こうやって一項目ずつ私が説明していわけです。
「熱田に月一度、年二度、三年に一度の順にて、意徳横溢の功徳を受くるなり」
次のご神示は、
「熱田に月一度、年二度、三年に一度の順にて、意徳横溢の功徳を受くるなり」
これを書いたらビシッとしました。
このご神示はどういうことかと言いますと、月に一回、熱田神宮にお参りするのが一番いい、ということです。次に、年に二度。半年に一回、熱田神宮に行くのがいい。最低でも三年に一回は行きなさい、ということです。
「じゃ、先生、三ヶ月に一回はどうなんですか。月に一度はとても行けないんですが」なんて、屁理屈を言ってはいけない。
とにかく、熱田に月一度、年に二度、三年に一回行く。できたら月一回、行きなさい。月一回が無理だったら、半年に一回でもいいから行きなさいよ、それも難しければ三年に一度は行きなさいよ、ということですね。名古屋の近辺に住んでいる人だったら、月に一回くらい行けますよね。
それから、中部地方の人だったらそうしょっちゅう来られないんでしょうけれど、半年に一回は来られるでしょう。東京とか大阪とか、あるいは地方の人は、三年に一回くらいは熱田に行きなさいよ、ということです。
熱田の神様は、ちゃんと名古屋の経済のことも考えておられます。お布施が落ちていくという意味ではありませんが、人がたくさん来れば、その分どこかでランチを食べるし、お土産も買いますからね。そんなことを言うのは失礼なことですけれど、とにかく、「熱田に月一度、年二度、三年に一度」というのはそういうことです。
そして、その順に「意徳横溢の功徳を受くるなり」と。
意徳横溢。横溢というのはブワーッと溢れんばかりに出てくる、ということです。
意志力がなければ義も礼も尽くせない
皆さんもご存じのように、熱田神宮のご神体は剣。意志を強くしてくれる剣です。
その剣の意徳ですから、「神様のためにこう生きるんだ!」と決意し、それだけの足跡を残した人には横溢する徳を与えてくださる、ということです。
今日の講義にも、「礼・義」の話が出てきました。どんなことがあっても礼を尽くす。感情がふらふらすることがあるかもしれないけれど、それでも礼を忘れない。神に礼を尽くし、人に礼を尽くし、組織に礼を尽くし、師に対して礼を尽くさなければいけない。
しかし、どんなに礼を尽くそうとしても、意志の力がなければなかなかできません。意志の力があって初めて、礼というものをどんなときでも尽くせるようになるわけです。
それから、「義」というものもそうです。
先ほど言いました「大義・信義・礼義・恩義」の義もやはり、感情や利欲に流されると貫くことができません。人間、誰でもそうです。
楽しいこと、面白いこと、愉快なことなら、やれと言われなくてもやりますが、好きではないこと、嫌いなこと、得にならないことには、なかなか心が向きません。それでも義を全うしていくところに素晴らしさがあるのです。
では、なぜ義を全うできるのかと言えば、それだけの知性と意志の力があるからです。知性と意志力があるからこそ、できるわけでしょう。
「心のたけをうつして省みるを、信仰の祝いと徳なりとすべし」というのもそうです。「文句を言ったり愚痴を言うのは恥ずかしいし、こういう心ではいけない。やはり、どんなことにも感謝できるのが本当だ」と思える自分。
そういう自分の心を何にうつすのか、うつす対象は何なのかといえば、もちろん御魂であり、自分の悟り。
つまり、己の御魂、水晶の鏡のような御魂にうつすということなのでしょうけれど、どちらかというと、意志の力の象徴である剣にうつす。ぴかぴか輝いている剣に己の顔をうつすというのが本当ではないか、という気がします。
大切なのは、やはり意志の力です。「意徳」、すなわち意志の功徳がなければ、何もできません。自分の意志がしっかりしていないと、一番目の礼も、そしてこの義もどうすることもできないし、「心のたけをうつして省みる」こともできません。
そういう弱い心、弱い自分を熱田の剣の意徳がガーッと減っていく。熱田の剣は草薙剣です。天叢雲剣というのは要するに、凝結するものをブワーッと祓い除ける、あるいはまた、雲を呼ぶ。それが天叢雲剣。草を払っていく草薙剣とも言います。
この剣の意徳によって強い意志を持て、ということです。一つのことを貫き通すというのも、もちろん強い意志なのですけれども、そういうものだけではありません。
今日は、礼と義を通して信と義を捉えるという、礼と義の話を詳しくしましたが、その礼と義を踏まえて、己の「心のたけをうつして省みるを、信仰の祝いと徳なりとすべし」と、熱田の神様はおっしゃっている。
と同時に、「己の心のたけをうつして省みる」ことができるようになるための意志の徳。そういうことがやれる意志力というものが溢れ出てくるほどに与えよう、とおっしゃっているわけです。
一ヶ月に一回、それが無理なら年に二回、最低でも三年に一回来れば、それだけの功徳を与えるというわけです。
熱田に参拝して意志力の補給を
しかし、意志の力をいただいても、しばらくすると途切れますね。お父さん、お母さんの血脈に流れる家伝の因縁や、根性のない本来の自分が出てきて貫き通すことができなくなってしまうことも、十分考えられます。そういうときにはまた、熱田神宮にお参りして、意徳を補給していただいたらいいわけです。
「剣の意徳横溢たるものの功徳を補給に来なさい」と。
一番目、二番目の説明を聞いて、「そうだな!」と思ったでしょう。しかし、一週間か二週間はそう思い続けることができても、しばらくたちましたら折れてしまう。
世の中は邪気紊乱しておりますし、それから、マイナスの悪い気を持っている人間がいっぱいいますから、知らず知らずのうちに影響を受けて、やる気が萎えていってしまう。
そういうとき、「何くそ、負けるか!」と言って、自分自身をふるい立たせる。だからこそ、熱田なんです。熱田神宮に、月に一度お参りしてお願いする。すると、一週間くらいは勝ちます。その後、再び負けが込んできたら、また熱田に行く。
そういうふうにして、意徳を補給していく。
セミナーに参加して、一番目、二番目の講義を聴いて、「そうだ!」と思っても、それが続くかどうかなんです。帰ってからしばらくは続くでしょう。しかし、一週間たち十日たつと、だんだん決意が萎えてくる。
世の中にはいろいろな人がいます。強い、悪い念を出している人もたくさんいます。その中にあって、優しい感性、繊細な感性を持つ皆さんが影響を受けずにやっていけますか。やっていけないでしょう。
言ってみれば、私たちはみなしごハッチみたいなものです。魂の故郷を求め、あちこち旅をしていると、熊蜂やスズメバチみたいなやつが出てきて、さんざんにいじめられる。
それでも、「ぼくは魂の故郷を見つけるまで旅をやめるわけには「いかないんだ」と頑張って、再びブーンと飛んで行く。そんな感じです。
そういう、みなしごハッチのような人はどうしたらいいかというと、本当の信仰力を身につけて、神様の功徳を受けるしかない。いうなれば、熱田という守り札を胸につけて飛んでいる、みなしごハッチみたいになるしかありません。
そして、いざというときには、その守り札を握ってお祈りする。すると、ウルトラマンが飛んできて、「シュワッチ!」と助けてくれる。あるいは、自分自身がウルトラマンのように変身して戦う。変身できるようでなければいけませんね(笑)。
そうやって、神懸かると勝つのです。
汚辱と悪に満ちた、ぎらぎらしている世の中で、鋭敏で優しい感性を持っている人が「よーし!」と思っても、すぐにエネルギーが切れてしまいます。そうしたら熱田へ来る。
「月に一度、年に二度、三年に一度の順にて、意徳横溢の功徳を受くるなり」とおっしゃっているのですから、熱田に来て、意徳横溢の功徳を受ければ、また復活します。
「神は人の敬によりて威を増し、人は神の徳によりて運を添う」という言葉が「成敗式目」の中にあるという話をしましたが、その威というのは大威徳明王のことです。これを「神威」といいます。
この「威」を受ける。熱田の「意徳横溢の功徳」というのは、これです。鹿島神宮(茨城県)の神様もそうですけれど、ちょっと意味合いが違う。こちらのほうが小技が利きます。
同じ意志力でも、鹿島のほうはもっとうわーっとふるい立っていく意志力。とくに、政権を維持するという角度が大きい。
それに対して熱田のほうは、草をサーッと払ったり、いろいろな小技ができます。
要するに、持ち運びができるわけです、日本武尊みたいに。鹿島の神様の剣は重くて持てません。熱田の神様の剣は、同じ剣でも持ち運びに便利です。熱田の神様は、より小回りが利きます。同じ剣でも角度が違ってくるわけです。
今日のこのご神示を聞かなければ、ただ熱田神宮へ行って神様の功徳をいただいてきた、ああ清々しかった、その後いいことがあったと、この程度で終わってしまうのですが、このご神示を受けたら、「なるほど、一番と二番をするために意が要るんだな、それを与えてくださるんだな」と思ったでしょう。
これがわかったなら、これから熱田へ来るとき、いままでの熱田へのお参りの仕方が違ってきますでしょう。
月に一度、年に二度、三年に一度来るとき、一番と二番と三番のご神示を思い浮かべながらお参りする。すると原点に返って、己がまた蘇生する。
そのことがまったくわからないでお参りするのと、ご神霊がおっしゃっている意味を理解したうえでお参りするのでは、全然違います。
自分と神様とのコミュニケーションができて、どういう功徳を与えようとしているのか、どういうふうにあってほしいのかという神様側の要求と御心が理解できておりましたら、そのつもりでお参りしますね。そのつもりでお参りしたら、神様もそのつもりで功徳を与えてくださるのです。
ですから、いままでの熱田の参拝とこれからの熱田の参拝は、同じ参拝でも全然違います。これからは、一番と二番と三番の功徳が確実に授かるところの、月に一度の参拝であり、年に二度の参拝であり、三年に一度の参拝になるわけです。また、そう思いながら参拝しなければならないということです。
この三つが、熱田の神様のおっしゃった言葉です。
熱田の神様とより深く感応する神歌
「あをあつめ つをつづめゆく たかとうと くによりすぐる たからもとみや」
今度、熱田神宮に皆さんが行くときには、「この歌を歌いながら行ってくれ」と熱田の大神様がおっしゃっていました。そうしたらワールドメイトの会員であることがわかるだけでなく、熱田の大神様がふるい立って、神霊ともっと深く感応できますよ、という歌ですから、しっかりと聞いていてください。
冒頭の「”あ”をあつめ」というのは、「天を集め」ということです。それから、「吾」の”あ”ですから自分のこと。その自分とは、要するに熱田の神様のことですから、「熱田の大神様を凝結して」ということと同じです。
「あ」と「は」。「あ」と「は」が成るから阿波の鳴門だという、阿波歌というのが「ほつまつたえ」にありますけれど、「あをあつめて、天」。天が「あ」です。天照大御神のです。
そういうものを集め、「つ」をつづめ、と。「つ」は凝結するという意味で、大津の一つ、三重県の津の「津」です。
「つ」はつづめるということですから、凝結する「あ」を集めて、「つ」をつづめて」というのですが、「あ」「つ」というのは、圧をかける。強烈な力でグッグッと凝結させる「あ」「つ」です。
そういうことで、「「あ」をあつめ「あ」「つ」をつづめゆくたかとうと」の「たかと「うと」というのは、高くて尊いということです。
「たか」は高くて尊い。それが熱ですね。「「あ」をあつめっ「つ」をつづめゆくたかとうと」。
要するに、熱田というのは天なるもの、天の素晴らしきものを凝結して貴いものにする、ということで天というのは、先ほど言った乾と坤の乾です。天なるもの、健やかなるもの。
九星で言うと六白金星。天の位、六白金星、乾の易。こういう天のものをグワーと凝結して、そして高いもの、尊いものにしていくのが熱田という働き。言霊で言うと、そういう剣の働きです。
その熱田は「くによりすぐるたからもとみや」だよ、と。「くによりすぐる」というのは、日本の国の中から選りすぐった、という意味ですから、それだけの宝の元宮だよ、黄金輝く宝の元となるお宮が熱田なんですよ、ということです。
何か、自分で自分のことを称えているようですよね。「熱田の神様も傲慢なのか」と思う人がいるかもしれませんが、そうではありません。古文の尊敬表現には自己尊敬語というのがありまして、尊い人たちが自分自身を尊んで言うときに使っておられます。
それはそうと、「この歌を歌いながら熱田神宮に来なさい」、ということです。
この歌は、熱田の神様を説明し、熱田の神様の働きを教えている歌ですから、この歌を歌って熱田神宮を称えながらお参りすると、エネルギーがいただけるのです。最初に解説した一、二、三の功徳のエネルギーをもらうことができるのです。
ですから、これから熱田に行くときは、「あをあつめつをつづめゆくたかとうとくによりすぐるたからもとみや」と歌いながら行かなければなりません。
境内の大きな木を見たら、「ああ、立派なご神木だ。前、団体参拝で来たときもここに立っていたな」と思いながら、「あをあつめつをつづめゆくたかとうとくによりすぐるたからもとみや」と歌う。そうやって、この歌を歌いながら来なさいということです。
「くによりすぐる」というのは、国から選りすぐるという意味もありますけど、国より優る、言い換えれば、日本の国より凄いという意味になります。
ただ、日本の国というより、自分の住んでいる地域、あるいは自分の会社というふうに受け止めたほうがいいと思います。
国という字は、「玉」様を囲っているでしょう。その観点から言えば、会社も国です。ものを囲ってる場所を国と考えたら、会社も国。そこで働く社長や従業員にとっての国です。
昔は、大和朝廷ほかいろいろな豪族たちが、みな自分のところを指して国と言っていた。その国々を統括したのが大和朝廷ですけれど、小さなところまで国と言っておりました。
村みたいなものですね。ですから、自分の会社も家も地域も国というふうに考えられます。人間同士が集まってつくった国よりも、もっと優れた宝元宮だよ、天から来る宝元宮なんですよ、という意味にもとれます。
人間がつくったようなところではないんだ、神様が天を凝結し、そして、高く尊くしていく、そういう宝の元宮なんだよ、ということです。
「この歌を歌いながら熱田へ行け」と神様はおっしゃっています。
