成功する経営者はここがちがう! ~平成9年7月25日 ホテルニューオータニ大阪~
出世とは何か
「大出世」とはどういうことかというと、まさに書いて字のごとくです。「大いに世に出ずる」から「大出世」なのです。
ただし、出世と言いましても、「日本における出世」と「外国における出世」とでは、共通するところもあれば違うところもありますし、また、「この世における出世」と「あの世における出世」とでは、共通するところもあれば違うところもあります。
では、すべてに共通するところとは何か。
それを、今日お話ししなければならないのですけれど、「あの世の出世編」「外国の出世編」「日本の出世編」「日本のこの世の出世編」というふうに分類したいと思います。
まあ確かに、私だからこういう言い方をするのであって、出世という場合、普通はこの世のことしか言いません。私は半分かそれ以上、あちらの世界に生きています
。言うなれば、境界線のないボーダレス人間ですから、私にとっては、どちらも重要です。
この世の出世とあの世の出世、どちらも共通するところがありますが、今日お話しするのは、この世編に近い。
それで、出世とはどういうことかというと、やはり世の中に出ることです。
では、世の中とは何か。新幹線の駅のプラットフォームも世の中ですし、新幹線の中も世の中ですが、世の中というのは、土地や場所ではありません。ひと言で言うと、「人の塊」なんです。
心斎橋とか新宿とか、人混みの多いところにワーッと出て行ったからといって、人の中に出たわけではない。一応、人の中には出ています。
世の中に出るというのは、人々の中に出ることではありますが、人々の中といっても、人混みの中に出ることではなく、要するに、「多くの人々に認められる」ということです。
外国でしたら、アメリカの多くの人々やデンマークの多くの人々、オーストラリアの多くの人々などです。
あの世でしたら、あの世にいる多くの人々というふうに、人々の種類が変わると、あの世編、外国編、日本編、それから関西編、東京編、東北編といった具合になりますけれども、出世するとは要するに、多くの人々に認められることです。
たとえば、会社で出世するというのは、会社の中の多くの人々に認められるということです。
会社の仲間から大いに認められると大いに出世する。
あるいは、「おもちゃ業界にこの人あり」とか、「薬剤師業界にこの人あり」「銀行業「界にこの人あり」などと言われるようになると、業界の中で出世したことになるわけです。
いずれにしても、多くの人々に認められるようになるのが出世である、というふうに考えていいでしょう。
どうしたら出世できるのか
では、出世するためにはどうしたらいいのかというと、「人々がどういう価値観を持っているか」ということが、まず分からなければなりません。
会社で出世しようと思うなら、会社の人々の価値観が分からなければいけない。アメリカで出世しようと思うなら、アメリカの人々の価値観が分からなければいけない。
オーストラリアで出世しようと思うなら、オーストラリア人の価値観が分からなければいけない。
あの世で出世しようと思うなら、あの世の人々の価値観が分からなければいけない。
関西で出世しようと思うなら、関西の多くの人々の価値観が分からないと認めてもらえません。
東京で出世しようと思うなら、東京の多くの人々の価値観が分からなければいけない。
確かに、すべての人の価値観を知るのは無理ですが、多くの人の価値観が分かれば分かるほど、出世のチャンスが広がるわけで、価値の基準がどうなのかを理解しないことには、出世はなかなか難しいと言えます。
何をいいと思い、何を悪いと思い、何を尊んでいるのか。それらを理解して初めて、「ああ、いいね」と認められる。認められるから出世する、世の中に出られる、というわけです。
ですから、自分勝手に、ああだこうだと思っているだけではダメなのです。それは独りよがりでしかありません。
そういう人は、結局、出世できないで終わってしまいます。
「こうあるべきだ」と自分の価値観を述べるだけだったら、「君、文学者ならそれでもいいだろうけれど、社会人としては失格だよ」と言われてしまいます。
日本人的発想でこうあるべきだ、あああるべきだとオーストラリアで言っていたら、「ここは君、オーストラリアだよ」と、相手にしてもらえません。
その土地に住む人々、その国に住む人々の共通の価値観、何が大切で何がダメで、何が尊く、何がよくないと考えているのか。これが分からないと、世に出るのは不可能です。
とくに、「かくあるべきだ」というイデオロギーを持っている人や研究畑の人は難しい。多くの人々の認める価値基準は何なのかを、謙虚に、客観的に、しかも冷静に見ていく必要があります。
たとえば戦国時代でしたら、戦国時代の多くの人々が素晴らしいなと感じる基準は何なのか。命を惜しまぬ度胸とか根性とか勇気だとか、その時代時代の価値観があり、出世の方法があります。
平和な時代なら平和な時代における出世の方法があり、動乱期なら動乱期の出世法があるのです。
こういうふうに考えていけば、平安な時代であっても、動乱の時代であっても、いかなる時代であっても、あの世でもこの世でも、日本でも外国でも、どこでも出世できます。
その時代の人々の価値観、その国の人々の価値観を理解し、それに自分自身を適合させることができれば、出世できるわけですが、そういうことをまったく無視し、「俺はこうなんだ」と、自分ばかりを主張する人は出世できません。
初めに自分の価値ありき、初めに自分の考えありき、初めに自分のイデオロギーありきで、かくあるべきだと考えている。その考えに同調してくれる人もいるかもしれませんが、「何を言っているんだ」とまったく相手にされないのがオチです。
独りよがりであったり、一言居士であったり、思い込んでいたりすると、出世どころか、社会からスポイルされることもあり得ます。
学者さん、あるいは科学者には、独自な見解も必要でしょう。とくに科学者の場合、人の考えばかりを追っていたのでは、新しい発見も発明もできませんから、独自の考えを持つことは非常に大切です。
しかし、どんなにユニークな考えであろうと、多くの人々に認められなければ、研究が研究で終わってしまって、研究者あるいは学者として出世するのは難しいです。
結局、多くの人々に認められなければ話にならないわけです。
会社であったり、宗教グループであったり、学校グループであったり、ボランティアグループであったり、あるいはまた、芸能界であったりと、それぞれジャンルは違うし、国情も違うし、あの世もこの世も違うし、時代も違います。
けれど、人間は社会的な生き物であり、常に人々の中で生きています。
これが絶対的な共通点であり、どんな人であろうと、社会の枠組みから外れて生きることは不可能です。
それが客観的な事実です。
ですから、出世しようと思うなら、人々の考えを理解し、絶えず自分の置かれた社会に適合していくように自分をもっていかなければいけない。
それを忘れて、自分の考えやイデオロギーを優先し、かくあるべきだという像を勝手につくってやっていたのでは出世できません。
たとえ優れた能力や才能があっても、あるいは運があっても、そこが満たされていないと、絶対に出世はできないのです。
「自分の価値は自分が知っている」と言う人がいます。
けれど、それは自己満足であり、思い上がりであり、独りよがりでしかありません。
そういう人はいっぱいいます。しかし、この法則から言えば、絶対に出世できません。最終的に自分の価値は社会が決める、あるいは人々が決めるのです。
芸術もそうです。どんなに素晴らしい感性を持ち、素晴らしい美なるものを感じていても、それを第三者に伝える技術、磨き抜かれた技術、洗練された技術がなければ評価されません。
芸術的な感性だけが秀でていても、第三者に理解してもらえなければ、やはりダメなのです。
短歌でも、素晴らしいことを思い、悲しみや喜びを思い、いろいろ感じてはいるけれど、「言葉にならないんですよ、表現できないぐらいに思っているんですけれどね」というのではダメなのです。
そんなのは誰でも思うわけで、それをいかに第三者に分かりやすく、「なるほどなあ」と思えるように表現できるのか、その技術と知識と努力が要るわけで、それがあって初めて、短歌としての芸術が成り立つのです。
小説家でもそうです。「いろいろと構想は浮かんでいるんだけれど、なかなかうまく表現できないんです」というのは、そういうことは誰でも思うわけで、それをいかに言葉で表現し、文章として言い表して、万人に分かりやすく伝えていくのか。
そのための洗練された技術、テクニック、知識がないと、小説として、芸術として成り立たないわけです。
人間の誰にも共通する内なる情感、響きというものはあるでしょう。
しかし、それはあくまでも内なるものであって、それだけでは芸術とは言いません。表現できて初めて、芸術になるのです。
生きているときに認められるか、死んでから認められるか
それから、生きているときには認められなくても、死んでしばらくしてから認められるようになる、というケースがあります。
その代表的なのがゴッホですけれど、逆に、生きているときに認められて、死んでから評価がガタ落ちになるケースもあります。
もちろん、生きているときにも認められ、死んでからも認められるというのもありますが、生きているときに多くの人から認められ、死んでからもますます評価が高まっていく、というのが一番の理想であり、われわれが目指すべきものであります。
父親から、「くたばってしめえ!」と怒鳴られた言葉を、そのままペンネームにした二葉亭四迷は、明治初期のあの時代にあって、純粋なるロシア文学を追究していました。
つまり、時代よりも一歩も二歩も先んじていたわけです。
だから、『浮雲』を始めとする彼の作品は、当時の人々には受け入れられませんでした。つまり、その価値が分からなかったのです。
それでも、二葉亭四迷の作品の中には、普遍的なテーマが織り込まれていましたから、死後、彼の文芸作品の価値は多くの人に認められました。
二葉亭四迷は、生きているときにはあまり評価されませんでしたが、普遍的なものを追究していた分、タイムラグはあっても、たくさんの人々に認められるようになりました。
それに対して、時代を半歩リードしていたのが尾崎紅葉や、私の好きな泉鏡花です。とくに尾崎紅葉は、「お宮、来年の今月今夜、俺の涙であの月を曇らせて見せる」
「ああ、貫一っつあん、別れろ切れろは芸者のときに言う言葉、いまの私には死ねとおっしゃって」
なんて、部屋の中で一人芝居をやっていたのです。大の男が「ああ、貫一つつあん」とやるんですから、端から見ていた人は、「何をやっているんだ」とバカにしたかもしれません。
しかし、その一人芝居の台詞を、そのまま言文一致で表現したので、当時の人々には非常に斬新に映ったわけです。ですから、尾崎紅葉の作品は、一般大衆に猛烈な勢いで受け入れられていきました。
たとえば、紅葉が人力車に乗って町を行くと、ファンが「わーっ」と寄ってきて、「紅葉!お宮はこれから先、どうなるの?」なんて叫んだ。
それに対して紅葉は、「それは読んでのお楽しみだ」と返事をしたと伝わっていますが、それだけ人気を博したのも、時代を半歩リードしていたからです。
その後、時間がたってからは、二葉亭四迷のほうが文学者としての評価が高くなりましたけれども、尾崎紅葉が一つの時代をつくった人であることに変わりはありません。
いまの時代は、尾崎紅葉といっても知らない人が多いでしょう。その点、二葉亭四迷の『浮雲』は、ずっと文学を勉強する人にとって、大きな位置を占めています。
尾崎紅葉のように時代を半歩リードし、さらに、二葉亭四迷のように、一歩、二歩リードするものを持っていると、生きているときにも認められ、死んだあともますます高い評価を受ける。
半歩だけのリードでは、生きているときには評価されても、死んでしばらくしたら忘れられるとは言わないまでも、あまり評価されなくなります。
文学者の場合もこうなんです。ですから、そこをよく理解して、生きているときに認めてもらおうと思うのであれば、人々の価値観に合った行動をし、結果を残していかなければなりません。
また、文学者として成功しようと思うなら、文学的価値基準に合った作品を残していくほかありません。
生きているときには認められなくても、死んでから認められればいい、というのであれば、別に現代人の価値基準に合わせる必要はないのかもしれませんが、死んでからも認められなかったら、結局のところ独りよがりだったということです。
しかし、愛と真心、そして忍耐を持って生きた人は、あの世では認められます。ハートがよかったということで、神様からも認められます。
結局、タイムラグがあるわけですが、生きているときに認められるにしても、死んだあとで認められるにしましても、やはり、人々から受け入れられる一つの価値基準に合っていなければいけない。
それにはやはり、古典を学び、学問を学び、人間を学ぶ必要があります。そして、人々が素晴らしいと認める普遍的な価値基準を理解したうえで、自分なりの主張をする、あるいは作品を残していく。
そうやっていけば、その人の生涯とか作品が、多くの人々の中で認められるわけです。
ところが、学問も咀嚼力もないのに、「俺はこう思う」「かくあるべきだと「思う」などと主張したところで、それは独りよがり、自己満足、思い上がりでしかなく、結局、認めてもらうことはできません。
出世できている人とできてない人との違いは、そこの基準を満たしているかどうかの違いであるわけです。
会社の中で出世する法
会社の中での出世ということに限定して言いますと、大企業の論理と中小企業の論理は共通するところもあれば、違うところもあります。
大企業で出世していこうと思ったならば、第一に協調性が必要です。大企業にはそれなりに優秀な人がいっぱいいますし、「素晴らしい、尊い」と思われる価値の基準があります。
その中で多くの人に認められる方向性や共通項を知って、そこに向けて努力していく。それが、大企業で出世するための基本的な心構えです。
中小企業の場合はどうかというと、社員が三、四人しかいなかったら、その三、四人の従業員が素晴らしいと認める社長であること、これが基本です。
あるいは、会社の取引先の人たちが素晴らしいと認めてくれる社長であればいいわけです。「ああ、あの経営者は素晴らしいね」「あの会社はいいね」というふうに評価されるようになると、中小企業なりに出世していきます。
それで、「私はこう思うんだけれども」という自分の考えが、大企業だったら、たくさんいる社員の基準に合っているかどうか。
中小企業だったら、数人の従業員が、「それはそうだよね」と賛同し、取引先のみんなも、「それはそうですね」と認めてくれるかどうか。
これが大切なわけですが、それを可能にするのはやはり、広い意味での学問であり、心の教養であり、頭の良さなのです。頭がいいといっても、電卓を打たせたらえらく速いとか、コンピュータはよくできるとか、語学がよくできるというような頭の良さではありません。
それだけの人だったら、「私はこう思う」と言ったところで、社員は誰もいいとは思わないし、取引先もいいとは思わない。
大企業には優れた能力を持った人がいっぱいいます。計算をさせたらえらく速いし、文章を書かせたらえらく巧みな文章を書くし、ものの考え方も緻密で、いろいろなことができる人がいます。
中には天文学にまで通じている人もいます。しかし、そういう能力は会社ではあまり関係ありません。会社の中でやっていくうえで大切なのは、やはり協調性です。
周りの意見に同調せず、「いや、絶対にこうだ。私はこう思う」と、自分の意見を貫き通そうとする人は、絶対とは言いませんが、なかなか出世できません。
そういう人は研に来て、まともな人間としての教育を受ける必要がありますね(笑)。そうしてからでないと、社会ではうまくやっていけません。
性格的な歪みがあったら、たとえ出世できる神社を教えて、二十一日間お百度を踏んでも、出世できません。
むしろ、上司に神がかって、「お前はバカだ。常識をわきまえろ」と言われてしまいます(笑)。これが神様の答えの出方です。
素晴らしい祈り方を教えて、それを実践したところで、返ってくる答えは、「お前はバカだ、常識をわきまえろ。ここは会社だぞ。まともになれ」…それしかないですよ。
仏壇に向かって手を合わせ、「ご先祖様、出世の道に導き「たまえ」と祈ったら、「うん、分かった」と、ご先祖様が言ってくれるかもしれませんが、その答えはどういうものかといったら、上司や同僚に神がかって、「バカ、常識をわきまえろ。思い上がりを捨てろ、自己満足を捨てろ。一言居士になるな。みんなが何を考えているかをまず考えろ」と。
それでまた私に、「どのように出世したらいいでしょうか」と相談に来たとします。
そういう場合の結論は、「まず霊障を取らなければいけない」ということにだいたい決まっています(笑)。
「その霊障は先生、どこにあるんでしょうか」
「頭の中にあるんじゃないですか」と(笑)。
思い込みというか、キツネが化かしていたり、たたり霊が化かしていたり、変な浮遊霊が憑いて、「こうだ!」と思い込ませている場合がありますが、全部、結論は同じです。
そこが分かっていないと、神社に行っても、祈り方を教えても、仏壇で拝んでも、お墓を直しても、印鑑を変えても、名前を変えても、整形手術をして顔を変えても(笑)、何も変わりません。
頭の中身を変えないとダメなのです。
これで出世できない人が多いんです。当たり前のことを私は言っているんですけれど、出世している人を見てください。
大企業、中小企業でも、学者でも文学者でも、出世している人はみんなこの基準に沿っています。大企業でも中小企業でも、もちろん宗教家でも芸術家でも、この基準から外れて出世している人は一人もいません。
画家の平山郁夫さんは、単に絵を描くだけではなく、多くの人から愛されています。
絵も、素晴らしい絵だと多くの人に認められています。東京藝術大学の中でも素晴らしい人だと高く評価されています。
絵画の世界だけでなく、音楽などいろいろな分野の人からも素晴らしいと認められて、藝大で学長になりました。
画家の中では一番、年収が多いそうです。しかし、世界遺産の復旧や修理保全にたくさん寄付されています。「娘にはDNAだけ残して財産を残さない」と、そうおっしゃっているそうです。
遺産は、あくまでお父さんのDNAだけ。「それを自分で活用して、財産をつくるならつくれ」と。
とにかく財産は一切残さず、世界遺産の保護等のために寄付していらっしゃいます。そうしないと、絵が曇るからだそうです。
平山郁夫さんは、毎朝六時に起きて仏壇に手を合わせて、生かされている喜びを感謝しているそうです。原子爆弾で友達が大勢死んでいったんですけれど、平山さんは奇跡的に生き延びたんです。
それで、毎朝六時から仏壇に手を合わせてお祈りして、それから毎日描いていらっしゃる。
やはり、「その生き方が素晴らしい」と、多くの人が認める。作品も素晴らしいけれど、お金が入ってきたら、そういうふうな使い方をされている。
だから、ずっと人々から認められ続け、絵も売れるし、大学でも出世するし、社会的にも出世する。やはり、それだけ物事を深く理解しているし、古典、あるいは人間の世界というものを咀嚼する知恵があり、賢いわけです。物事の本質が分かっているわけです。それがあって努力がプラスされ、さらに人々の思いや考えに適合していくから出世するのです。
どこの大学を出ているとか、どんな学位をとっているとか、語学ができるとか、頭がシャープだとか言っても、そこの叡智がないとダメです。
「あの人はなかなか優秀なんだけど、ちょっと出世できなくてね」「あの人はなかなか才覚はあるんだけども、なかなか出世できなくてね」「あの人は努力はしているんだけども、ちょっと出世できなくてね」「あの人は、人間性はいいんだけど、なかなか出世できなくてね」「あの人は才能はあるんだけども、出世と縁遠くてね」「あの人は神社によくお参りしているんだけれども、なかなか出世できなくてね」となるわけです。
運・不運ももちろんあります。しかし、運・不運の前に、あるいは能力、才能のあるなしの前に、大切なのはこの点です。どんなに能力、才能があっても、出世しているとは限らないのです。
運があるから出世しているかというと、そうとは限らない。優秀な大学を出ているからといって、出世しているとは限らない。
語学ができたり、パソコン操作に秀でているからといって、出世しているとは限らない。ハンサムであるから、美人であるから、あるいはまた謙虚であるからといって、出世しているとは限らないのです。
出世する商品、出世しない商品
いつも言うように、商品でも「出世する商品」と「出世しない商品」があります。経営コンサルタントの船井幸雄さんは、「ツキのいい商品」「ツキの悪い「商品」とおっしゃっていますが、商品でも出世する商品と出世しない商品があります。
では、出世する商品とはどういう商品か。
それはまず、多くの人に「いいなあ」と認められる商品です。売れ筋とか売れ線と言います。売れ筋商品というのは、多くの人々にその商品の価値が認められていて、しかも、値段が安い。そういう商品なら、品質的にもなかなかいいし、値段も安い、と多くの消費者が思うから、たくさん売れるわけです。
ただし、どんなに安くていい商品を出しても、世の中の人に知ってもらわなければ売れません。
だから、宣伝広告をして、「ああ、そういう商品があるのか」と知らしめるわけです。しかし、「何なのこれ?」と思われてしまったら、売れなくなります。
そのように、商品にも出世する商品、出世しない商品、世の中に出てくる商品、出てこない商品があります。
ですから、出世する商品を扱おうと思うなら、マーケティングを先に立てること、これが第一の条件であり、マーケティングを先に立てて生産をあとに持ってくる会社は、必ず伸びます。
いつも私が言うように、トヨタと日産を比べると、イチロー選手がいなければ圧倒的にトヨタが勝っているはずなのです。
消費者が何を求めているのか。どういうエンジン、どういうサービスを求めているのか。多くの人々が何をいいと思い、何を悪いと思っているのか。
何が尊い、何が尊くないと考えているのか。そういうことを分かったうえで商品開発をする。
つまり、マーケティングが先にきて、それに合う商品をつくるのがトヨタです。だから、「販売のト「ヨタ」と言われるわけです。
それとは反対に、消費者が何を求めているかより、性能の優れた車をつくろうということで、マーケティングではなく技術を先に立てているのが日産。
だから、「技術の日産」と呼ばれるわけですが、「技術の日産」はいつも二番目。トップはやはり、マーケティングを先に立てている「販売のトヨタ」です。
ところが、イチロー選手をテレビCMに起用して以来、「イチローの日産」ということで、近ごろは売上が上がっているようです。
しかし、技術で押していく限り、日産は永遠に二番目。サービスと販売で押していくトヨタには絶対に勝てないでしょう。
それからいつも言う、出版業界では集英社が圧倒的に一番です。
「少年ジャンプ」がよく売れていて、トップの座は揺るぎません。集英社のライバルとして、昔は平凡出版という会社がありました。
集英社は「週刊プレイボーイ」、平凡出版は「週刊平凡パンチ」というものを出していましたけれど、これも「編集の平凡出版」なんて言って、編集を先に立てて『平凡パンチ』をはじめ、いろいろと斬新な企画を打ち出していきました。ところが、斬新な企画はやが枯渇するわけです。
ヒットもあればヒットでない場合もあって、なかなかコンスタントに売れません。
それに対して、集英社が先に立てているのは常にマーケティング。何がいま売れているか。読者は何を求めているか。
それを知るためのデータを細かく取って、読者のニーズに適合するものを商品開発する。
だから、後発の「プレイボーイ」のほうが先発の『平凡パンチ』より売れて、「少年ジャンプ」も後発なのに思いきりジャンプして、結局、集英社は収益率一番です。
セイコーとシチズンを比較すると、いつの時代も「販売のセイコー」が一番で、「技術のシチズン」が二番目です。セイコー社の場合、販売会社が上場していて、時計を製造する子会社の諏訪セイコーとか塩尻セイコーは上場していません。
それに対してシチズンは、シチズン商事という販売会社は上場せずに、時計を製造しているシチズン時計のほうが上場しています。
つまり、製造や企画を先に立てているわけで、そういうところはやはり二番目なわけです。
販売、宣伝を常に先に立てているセイコーのように、消費者のニーズをキャッチするほうを先に立てているところがまず出世していて、技術を先に立てているところはトップになれません。
自動車業界でいうと、「販売のトヨタ」が必ず一番で、「技術の日産」は二番。出版業界では集英社が常に一番で、編集の平凡出版、いまのマガジンハウスは下です。
このように、商品も会社も見たら分かります。どちらが出世しているか。マーケティングが先にきているほうが必ず勝つわけです。
だから、マーケット・リサーチで消費者ニーズをつかむことが大事で、商品でも会社でも出世しているのは、この法則に合致しています。
では、サラリーマンが出世するためにはどうしたらいいのか。大会社の場合は、大会社の社員としてあるべきニーズに応えている人は出世する。
マーケット・リサーチをして、何が尊く何がよく、何がいいと会社の人々が思っているのかを知って、それにかなう自分になれば出世するわけです。
中小企業の社長の場合、四、五人の社員の「社長はこうあるべきじゃないか」というニーズに合っていたらいい社長。
販売先や仕入先に対しては、会社というのはこうあるのが本当じゃないかなという共通項があるから、そのニーズに合っている人ならば、いい取引先だということで引き立てられて、仕事が増えていく。
下請ならば、下請に発注する側のニーズに合っていれば出世して、下請として成功している。
そんなのは当たり前のことです。当たり前のことだけど、分からない人が多いんです。どんなに優秀な大学を出ても、どんなにいい家柄の人でも、どんなに本を読んでいても、語学ができても、数理統計ができても、コンピュータができても、文章がうまくても、当たり前のこのことが分からない。
どこか傲慢だったり、独りよがりだったり、思い上がりだったり、自己陶酔だったり、自己満足だったりするから分からない。
これでは空回りするだけです。とても世の中に出られません。人々に認められません。やがて下から吊るし上げられてどこかに行くか、上から見捨てられてどこかに行くか、友達から疎遠にされてどこかに行かざるを得なくなります。
よく言われるように、人間は社会的な生き物です。社会とは何か。先述したように「人々の塊」です。
その人々の種類、価値基準をじっと見ていて、そのニーズに応える自分をつくっていく。
すなわち、社会のニーズや人々のニーズの中に身を置いて、自分というものを製造していく、自分というものを編集していく、自分というものを企画していくとヒットする。当たるわけです。それが出世です。
考えたら当たり前のことだけれども、気がついていない人が多く、そういう人は出世できていません。
松下幸之助さんは、「素直が一番」と言いました。素直が一番というのは、「バカ」と言われたら、「はい、すみません。私はバカです」、「お前は賢い」と言われたら、「はい、私は賢いです」というのではありません。
それは、単に主体性が欠如しているだけの話です。
素直が一番というのは何なのか。自分の値打ちと価値は、やはり人々が決めるものだから、素直な人は人々に愛される。だから、素直が一番なのです。
人間は成功するときもあれば失敗するときもある。失敗したときには素直に反省する。そうすると、「あ、いいな」と、みんなから好かれるわけです。
「頑固者と素直な人、どっちが好きですか」と問われて、「頑固な人」と答える人は頑固な人なんです。頑固な子と素直な子がいたら、やはり素直な子のほうがかわいい。「この子は素直でいい子だ」とは言っても、「この子は頑固でいい子だ」とはあまり言いません。
「頑固な汚れにザブ」という洗剤のCMを流している会社にとっては、自社商品のよさをアピールできる分、頑固な汚れのほうがいいかもしれません。
これを潜在能力の表現と言うんですけれど(笑)、人間の性格は、やはり素直のほうがいいに決まっています。
素直であること、これは誰もがいいと認める価値基準です。外国でも日本でも素直が一番です。外国だったら、素直はオネスト(honest)、正直です。
会社ではロイヤリティ(loyalty)、すなわち忠誠です。上司に対し、社長に対し、組織に対してロイヤリティのある人が一番なのです。素直正直、忠誠心。この三つが大切です。
背後霊さんから見ても、頑固な人間よりも素直な人間のほうが、圧倒的に守護しやすいのです。
日本でも外国でも素直な人はみんな喜ばれ愛されます。頑固より素直なほうがいいのは、天人地を貫く普遍の法則です。
ただし、正直も過度になるとバカ正直になります。
バカ正直とは要するに、主体性がない、ということを意味する言葉でして、バカ正直にならないためには、ときとして頑固を貫かなければならない場合もあります。
しかし、普段は正直を貫く。そうでないと、人に認められないし、出世もできません。
世の中には発明家と呼ばれる人がいます。その発明家の多くは、右と言えば左、左と言えば右という具合に、絶えず人とは反対の見方をします。
たとえば、発明王と言われるドクター中松さんは、私もよくお会いしますけれども、あの方も右と言えば左、左と言えば右の人です。
人の言うことに対して、「ああそうですね、そうですね」と言っていたら、まったく発明にならないから、それもある意味、当然なのです。人々の考えに逆らう人間でないと、発明にならないわけです。
性格はどうかというと、発明家にふさわしいご性格で(笑)、大変ユニークな方です。だけど、素直さもあります。
ちょっと変わった方ですね。そういう目で見ているからこそ、発明できるわけですが、国会議員に立候補なさっても、ちょっと人々から認められない、出世しにくいタイプです。
そんなことよりも、発明家にとっては、発明品が優れていたらいいわけです。
その発明品においては表現できていますね。多くの人がいいと認めるもの、普遍的ないいものを生み出しておられます。
彼の発明品は多くの人から認められていて、その限りで、発明家としては大きな成功を収めています。
人間性はどうかというと、大変ユニークな素晴らしさがあります(笑)。面白い人ですけれど、ユニークというか、世の中では認められない面が多々あります。
右と言えば左、左と言えば右を貫いているので、出世ということでは難しいところがあります。
私たちはそこを考えなければなりません。大企業なら大企業、中小企業なら中小企業の立場から、ニーズはどうなんだろうかとマーケット・リサーチをしていく。それがあってから自分の方向性を考えていく。
それが素直ということなのであって、何よりもまず、消費者は何を欲しているのか、人々は何に価値基準を置いているのか、それを理解しなければいけません。
そういうことも分からず、あるいはまた、分かっていても、素直に従う気持ちもないのに、「私はこう思う」「こうあるべきだ」「こう考えるべきだ」などと言う人は、絶対に出世できません。
皆さんの周囲の人をちょっと思い浮かべてみてください。出世している人はどういう人でしょうか。
「なるほど。彼なら出世するよね」という人ばかりではないでしょうか。仕事がよくできて、どんな人の意見も受け入れるタイプの人であるはずです。
それに対して出世できない人は、いつもプツプツプツプツと文句ばかり言っていたり、一言居士であったり、思い込みが激しかったりします。
「そう言うけれど、必ずしもそうじゃないんじゃないか」と、口ぐせのように言う。本人はそうだと信じているんですけれど、誰もそう思わない。
そういう人に限って、日当たりのいい机でずっと仕事しておられますでしょう、窓際の(笑)。
そういう点から考えると、東京大学というのは素晴らしいと私は思います。私たちのスタッフにも東大出身者が何人かいますけれど、みんな素直で優秀です。
いま申し上げたようなことをよく理解していて、会社のニーズ、上司のニーズ、同僚のニーズ、部下のニーズに合うように考え、行動しています。
東京大学と京都大学の違い
京都大学といったら、スタッフにも何人かいますけれど、みな素直じゃありません。
いま在籍している京大出のスタッフは比較的まともですけれど、「東大ではそう言うかもしれないけれど、京大はこうだ!」と、体制側とか社会とか、多くの人々が認めているところからなるべく外れていこう、というのが京都大学です。
そういう風潮があるから、ノーベル賞受賞者には京大出身者が多いわけです。世間はこうは言うけれども、私はこうだ、と。東大ではそうかもしれないけれど、京大ではこうなんだ、と。
みんなはこう認めているけれど、私は認めない、と。そうやって世間に逆らいつつ勉強しているから、ノーベル賞をもらえるんじゃないかと(笑)。
今日、私が申し上げた出世の法則、多くの人々の考えに順応していく姿勢を貫いていたら、どうしても独自性とかユニークさとか、発明的な要素が少なくなる。
そこに、ノーベル賞受賞者に東大出身者が少ない理由があります。
確かに、いくつかユニークな発明や発見はあるでしょう。しかし、ノーベル賞受賞というほどの域にまで達したものはなかなか出ません。
だからといって、東大が悪いと言っているわけではありません。
実際、組織をあずかる人間から見たら、東大ほどいいところはありません。素直にニーズを分析し、何が尊いか、何がいいかを考えて、それに適合して素直にやってくれるから、非常に頼りになります。
だから、日本の社会で出世しているのは東大。逆らってノーベル賞をもらうのは京大なのです。
京大出身者の話を聞いていると面白い。発明も面白い。けれど、社会に出て、多くの人に認められるかといったら、なかなか難しい。
もちろん、出世している人もいますけれど、そういう性質がどの程度人々に認められるか。
ユニークとか独自性はありますけれど、出世につながらないケースが多いはずです。出世している人は、独自性とかユニークさとか個性があっても、多くの人々に認められる何ものかを表現する力も合わせ持っています。
だから、独自性があるとかユニークさがあるとか、独創性があるのだけがいいとは限らないのです。
よく、「日本人には独創性がない」とか、「ユニークさがない」とか、「個性がない」と言われますが、それでは、個性が大事なのか、独自性が大事なのか、創造性が大事なのか、と。確かに大事なものです。
しかし、個性、独自性がすべてではありません。要は、個性、独自性はあるけれども出世できない道を選ぶのと、個性、独自性、ユニークさはあまりないけれども、ものすごく出世して、地位と名誉と財産といい奥さんといい子どもを得て、快適な老後を送る道を選ぶのと、どっちがいいか、なんです。
もちろん、どちらがいいとも言えないでしょう。
それは、人それぞれの価値観によるわけですから、独創性、創造性、ユニークさがあるから一番いい、というわけではないのです。
世界基準でいうと、やはり両方なければいけない。欧米の価値観では、ユニークさ、個性、独自性、独創性がなく、みんなと似たりよったりではダメだとされています。とくにアメリカではそうです。
イギリスは必ずしもそうとは言えない。伝統的な文化と社会が残っていますから、日本的な良さがあります。
しかし、いまはアメリカが世界をリードしていますから、世界のスタンダードから見たらどうなるかというと、東京大学と京都大学を二つ足したものでなければいけないと思うのです。
アメリカに行くと京都大学的です。もちろん京大にもピンからキリまでいろんな人がいます。しかし、京大とアメリカに共通する傾向があるわけです。
一方、イギリスだったら東大的なほうがいいでしょう。
世界の共通項だったら、人々に順応して出世していく東京大学的な要素と、個性とユニークさの京都大学的な要素の両方が必要です。
両方あるのがインタナショナルでトップに立ちます。しかし、どっちが尊いかといえば、それはどうとも言えない。
ただし、今日のテーマである出世ということを考えた場合は、圧倒的に東大のほうがいいということです。
試験勉強はまさにそうだと言えます。受験生をずっと教えてきましたが、「何々について答えなさい」という問題があったとして、その問題に対して、「あ、そういうことなんだな」と、問題作成者が要求するニーズに合わせて素直に答えていったら、いい点数が取れる。
いい点数がつくから、いい大学に通る。そのいい大学の最高峰が東京大学です。もちろん、京都大学も難関校ですけれども、入試の傾向が少し違います。
東京大学に比べて、ちょっと閃き的要素が必要なのですが、成績のいい子はやはり、素直で順応性があって、試験側が求めていることに素直に答えていく。
その最高峰に位置するのが東大です。そういうニーズに合う自分づくりに努力する性質を、大企業の中、あるいは中小企業の中で発揮していくと、必ず出世します。
私なんかは、数学的思考を一応持っていますけれど、「そう計算どおりにいくか!」という人間です。
とくに質量不変の法則が疑問で、左辺と右辺を平行移動しても変わらないなんてあるはずがない、と。
私の場合、想念によって左辺と右辺が変わったりするわけです。1+1が2なんてことはあり得ない。
日によって、1+1が2.5だったり3.5だったりします(笑)。芸術家はそうです。
「こういうふうにしなさい」と言われても、それだけ表現していたらダメなんです。自分なりに表現しなければいけない。
しかし、答案でもそうやったらダメです。何々について答えなさいと言われて、「そうは言うけれど、ぼくはこう思うんだ」と言う子がいるんです、
ときどき。だから、「点数が悪いわけじゃないんだ。問題作成委員と若干の意見の食い違いがあっただけなんだ」と言うんです。
そのほうが独自性を持って、頑張る場合があるんですけれど、試験となったら、それではいい点数が取れません。
やはり、成績のいい子は素直です。素直に相手が求めるものに応えていきます。そういう要素がありながら、また自分独自の芸術的感性、自分なりの表現するものの両方あるのが最高です。
しかし、ある程度の出世ということを考えた場合、最初にお話ししましたように、自分の考えとか自分の個性とか自分の主張、かくあるべきだというものよりも、まず相手がどうなのか、人々のニーズがどうなのか。
それを大会社、中小企業、コミュニティの中で考えていく。
人間というのは社会的な生き物であり、人々の中で生きているわけだから、そこで認められなかったら世の中に出るはずがありません。
だから、出世するためには東大的な要素、すなわち相手が求めるもの、上司が求めるもの、会社が求めるもの、人々が求めるものは何なのかを考えて、それに対して、「これでどうだ!」と応えていく。すると、「ああ、いいですね」ということで、人々に認められる。
そういう自分の考え方、努力の方向、プレゼンテーション、表現の仕方が要るわけです。
次に、大出世となったら京都大学的要素、つまり、誰からも素晴らしいと思われる自分の個性を表現することが求められるわけです。
これが逆さまになるとダメですね。東大と京大、どっちが上かというと、やはり東大が上なんです。
出世している人は東大のほうが多くて、京都大学は二番目。要するにマーケティングで言ったトヨタ、集英社、セイコーは東京大学。いつも二番手のシチズン、日産、平凡出版、これは京都大学でしょうか、大学で言えば。
ノーベル賞をいっぱい取っているからいいとは限らないですね。研究のユニークさはユニークさとして評価されるべきですけれど、ユニークだからいいとは限りません。そういうふうに考えてください。
どちらが先に来るかというと、あくまでも東大が先で次が京大。東大と京大、両方合わせたらもう大出世。トヨタと日産が合併したら最高でしょうね。
セイコーとシチズンが合併したら最高ですね。世界一です、きっと。集英社と平凡出版が合併したら最高ですね。これが大出世です。
とりあえず出世するためには、いま言った東大的、セイコー的、集英社的、トヨタ的要素が必要です。
これがないと、絶対に出世しません。大出世となると、東大的要素プラス京都大学的、シチズン的、平凡出版的、日産的要素が必要になります。この両方があって大出世です。
そういうことで何が先にくるか、次に何がくるのかという一つの組み合わせを考えていくと、必ず大出世できる法則が見えてきます。
出世するための正しい祈り方
これが分かってきたら次に、お祈りの仕方も、「どのように私は生きればい「いんでしょうか」と変えていかなければいけません。そうすると、だんだんとそれが見えてきます。
「出世できますように、出世できますように」とお祈りした結果、「お前、まともになれよな、人が何を考えているかをわきまえろよな、常識をわきまえろよな、協調性を持てよな」と。
大きい組織であればあるほど優秀な人が多いから、自分一人ではできない要素がたくさんあるので、協調性というのが大事になってきます。
神道で言えば和魂が大事になってきます。
中小企業では、誰かが先頭に立ってやらなければならないので、荒魂的、奇魂的要素が重要ですけれど、優秀な人がたくさんいる大企業では、協調性を持つ人間がやはり求められている。
官僚もそうですし、大企業ではとくにそうです。協調性のない人間は絶対にダメです。
中小企業では、協調性はあっても根性がないと、同僚たちと仲よくできても全然仕事ができない。
一方、大企業の場合は、ある程度の基準があるから、一定以上の能力、才能、実力、頭脳がないと入社できません。
その分、優秀な人がいっぱいいますので、まずは協調性がないといけない。逆に言えば、協調性があって、みんなとうまくやっていける人が認められます。
中小企業の場合は、とにかく骨惜しみせずに何でも一生懸命やる努力、根性が必要です。そういう人間であれば、「ウチの社員は優秀でね」と言われます。
「協調性があってみんなと仲よくやっているんだけれども、根性がなくて、あまり仕事ができなくてね」というのはダメですね。
中小企業では、少しぐらい欠点があっても、すごく頑張り屋で仕事する人間のほうがいい。
そういう人間なら社長も、「ウチのような会社に来てくれるだけでいいんだ、あれだけ仕事をしてくれればね」と、絶対的な信頼を寄せてもらうことができます。
仕事するとき必ず、チェッチェッチェッチェッと言いながら仕事をする人がいます(笑)。一生懸命に仕事をしてはいるんですけれど、「あれがなけりゃ、もっといいんだけどね」と。
あまり協調性がなく、よく同僚とぶつかるんだけれども、社長から見たら、「ウチのような会社に来てくれるだけでもありがたいことだ。仕事ができるからいいんじゃないか」と。
中小企業の場合は、三、四人の中で協調できたらいいわけです。周りには、何かあったらすぐにドーンと落ち込む人間とか、フーフー言いながら仕事をしている人間とか、そういうのばかりですから、そんな人間たちと協調しろと言われてもなかなか協調できません。
チェッチェッチェッチェッと言いながら仕事をしている人間と、暗くてあまり仕事をしない人間と「はい、はい、はい」と素直に返事はするものの、ボーッとしていてすぐ忘れる人間と、三人社買いる中でどれがいいかというと、チェッチェッチェッチェッと言いながら一生懸命仕事をしている人間なんです。
「君は素晴らしい人材だね」と褒めてあげれば、もっと仕事をします。
素晴らしい人材といっても、三人の中で“よりベター”というだけのことであって、中小企業には素晴らしい人はあまり来ないと考えていい。”よりましか”という程度です。
だから、暗くてダラーンとしている人間がいたら、チェッチェッチェッチェと言うけれど、よく働く人間の言うことを聞くように教えなければいけない。
すると、「はーい」と素直に返事をします。しかし、すぐに忘れる。ボーッとしているから、命令されても、「あれ、何だったっけ?」と、すぐに忘れてしまいます。性格はいいんです。皆さんの会社の中にもいるでしょう。絶えずそんなことで頭を悩ませているのではないかと思いますが、三、四人の中で協調できたらいいわけです。中小企業はそういうものです。
大企業となると、やはり三拍子も四拍子も揃った人がいるから、そこから抜け出そうと思ったら、五拍子、六拍子、七拍子揃わなければいけない。
もちろん、協調性も必要です。協調性があったうえで、五拍子、六拍子、七拍子とっていないと出世できないわけです。
協調性に欠ける人はやはり、大企業ではダメです。みんながそれこれ優秀な分、チームワークが取れないから。大きく違うところはそこです。おそらく大企業の人事では、まずそこを見るでしょう。協調性に欠けていたら、どんなにいい大学を出ていても、能力があってもダメですね。
そういう方向性が分かったうえで、神様にお祈りするにしろ何をするにしろ、自分が足りないところを足していくように努力しなければいけない。
そこの知恵というか、理解力が聡明さなんです。本をどんなに読んでも、頭がどんなに良くても、どんなにいい学校を出ていても、特別な音楽とか語学とか体力があっても、聡明さがないと出世しません。
その聡明さを備えている人にはやはり、素直な人が多い。相手の言うことに、「ああ、そうか」と素直に応えていく。だから、多くの人から受け入れられるわけですけれど、それに対して頑固者は、やはり頭打ちです。
中小企業の社長の場合は、ある程度頑固なほうがいいでしょう。社員数名、あるいは数軒の取引先に認められたらいいだけの話ですから、少しぐらい頑固のほうがいいと思います。
ただし、それだけだったら、自分自身もなかなか成長しないし、会社も中小企業から次のステップになかなか進んでいきません。
小さいままで終わってしまいます。というのも、少ない人間の中だけで認められているからで、チェッチェッチェッチェッと言う従業員も、ダラーンとしている従業員も、ボーッとしている従業員も、みんな「ウチの社長はすごい。何拍子も揃っている。
チェッチェッとも言わないし、ボーッともしていないし、暗くもならないからすごい」と言うかもしれません。
実際のところは、酒は飲むし女狂いはしているんですけれど、数名の社員に慕われ、素晴らしいと思われているから、ついつい自分の欠点に気づかず、そのままで終わってしまう。そういうケースが多いんです。
中小企業から大企業に脱皮しようと思うなら、数名の従業員に慕われていることに満足してはいけません。
会社が大きくなれば、お付き合いしなければならない人の範囲も種類も増えていきますから、そこで認められるようでないと、なかなか脱皮できません。
逆に、社員数が増え、取引する銀行さんも増え、たくさんの人々の中で認められる要素を身につけた社長は、本当に大きな会社に育て上げていきます。
頑固なところがあっても素直に理解していく。それが聡明さです。学校で勉強ができるとか、数学的な理解力があるとか、そういうものより、物事の道理を理解していく人間としての聡明さ、それが大切です。生活の知恵でもいいし、当たり前のことを当たり前に分かって、当たり前に努力できる人間としての聡明さのある人が、やはり出世しています。
外国人はよく、「彼にはコモンセンスがあるからいい」と言います。私たちが言うのは、いま申し上げたような意味での人間としての聡明さ。
これがある 人が出世しています。
豊臣秀吉はなぜ「人たらしの秀吉」になったのか
みんながいいなあ、素晴らしいなあと思える基準に合っていたらいいわけですけれど、その具体例を挙げるとどうなのか。
たとえば、戦国時代で誰が一番出世したかというと、文句なく豊臣秀吉です。
もちろん、織田信長が築いた基礎があったからこそ出世できたわけですけれども、豊臣秀吉が一番の出世を果たしたと言えます。
豊臣秀吉の肖像を見たら、顔は松下幸之助さんに似ています。というよりも、松下幸之助さんが秀吉に似ています。
松下幸之助は、言わずと知れた松下電器の創業者であり、経営の神様です。
しかし、出世と考えたとき、秀吉は社会のどん底から這い上がって天下統一を果たし、太閤さんになったわけですから、スケールが違います。
天下統一の基礎は信長がつくったんですけれど、信長の下で次々と出世をしていった秀吉には、「出世に直結する努力の秘訣」がいっぱい詰まっています。
秀吉はなぜあんなにも出世したのか。それを考えていただきたいんです。秀吉が残した足跡は、中小企業でも大企業でも、どの国でも、あの世でもこの世でも共通する出世の具体的な努力の指針です。
秀吉には学ぶべき点がたくさんあります。
しかし、大きく分類すると、まず第一に挙げなければならないのは、「人たらしの秀吉」です。
秀吉は人たらしで有名です。人たらしの対象が女性になると「女たらし」になるんですけれども、秀吉の場合は、たらした相手は女だけではなかった、ということです。
男もたらし、女もたらし、よだれもたらし、みたらし団子も食べていた、と(笑)。
女たらしは、女をたらし込むから女たらし。女性も、大切に操を守らなければならないと思っているのか、積極的に操を活用して幸せになりたいと思っているのか(笑)。
人によって違いますからね。守りたい人と使いたい人がいますものね(笑)。秀吉がたらし込んだ女性は三百人とも四百人とも言われてい
ます。実際のところは一千人単位でしょうか。
世の中に女たらしっているではないですか。そういう人はしかし、女はたらし込むけれども、男をたらし込むとは限らない。
男もたらし込み、女もたらし込むのを「人たらし」と言うわけです。嫌らしい表現ですけれども、モロに言ったほうが分かりやすいから「人たらし」。秀吉は「人たらしの秀吉」と言われていたのです。
その秀吉は、どこで人たらしの勉強をしたかというと、小さいときの子守なのです。
子どもというのは、いま泣いているかと思ったら、次の瞬間にはアハハと笑い出したり、「あっち行こう、こっち行こう」と勝手なことを言ったり、遊んであげたら、「もっともっと」と言うし、叱れば叱ったでギャーッと泣く絶えず興味の対象が変わっていきます。
気分がコロコロ変わるでしょう。いま泣いたなと思ったら、もう笑っている。笑っていてもすぐに泣くし、おしめ、お遊び、ご飯、そのたびに大変です。ご飯が欲しいと言ったかと思うと、もう嫌と言うし、そうかと思ったら寝ているし、寝ているかと思ったら、いつの間にか起き出したりなんかするんですから、本当に子守は大変です。
秀吉は、人たらしの能力と才能をどこで訓練したかというと、それは子守なのです。一生懸命に子どもをあやしたり、おだてたりする。あるいは叱る。そうやっていく中で、結果的に人たらしの能力を磨いていったのですが、秀吉自身は自分の人生の中で、一番大変だったのは子守である、と語っています。
「子どもはいま泣くべきではない」「この時間は子どもは寝るべきだ」「子どもはここで「はい」と返事をすべきだ」などというような、ポリシーやイデオロギーを持っている人には、絶対に子守はできません。
子どもがワーンと泣くのはおかしいとか、おしっこはこんな時間にすべきではないというふうに考えていたら、子守なんかできっこないです。
「何々すべきではない」とか「何々す「べきである」というのは大人には通用しても、子どもにとっては関係のない話です。
ですから、子守をするときには、気持ちを振り向けたり、あるいはあやしたりしながら、子どもの欲求に合わせて、こっちが変わらなければならない。
ポリシーとか指針とか、イデオロギーや観念、未来のかくあるべき方針などというものを持っている人間は、子どもをあやすことなんかできないし、頭がパニックになるでしょう。
まったく自分の思いどおりにならないわけですから、子どもは。
大人の考え方と子どもの考え方は全然違います。遊んでいても、「お父さんやってみて」とか「お母さんやってみて」と言いますものね。
たとえば、逆立ちをして見せて、それが気に入ったら、一日中、「逆立ちして、逆立ち」と言いますよ。しかし、ずっと逆立ちしていると、高血圧の人はどうなりますか。
子どもの言うとおりにしていたら、頭に血が上って脳溢血になるかもしれません(笑)。
そのとき、どういうふうに子どもを納得させるのか。「逆立ちはもうやめようね」と言うのか、それとも、「いい加減にしろ!」と叱るのか。
いろいろ納得のさせ方があるでしょうが、どんなやり方であっても、基本的に子どもの価値基準に合わせてやらなければならないわけです。
秀吉は、子守をやっていたときが一番苦労をしたと述懐しています。自分の思いどおりにならない。自分の価値基準に合わない。
時間といい、好みといい、すべて子どもによって違うから、それに適合して上手にあやしていく。これが人たらしの秀吉の能力をつくった基礎なんです。
だから、ああやって織田信長を上手にあやしたわけです。「信長様はこういうご性格だから」ということで、草履を懐に入れて温めたり、「柴田勝家殿はああいう性質だからこうしよう」とか、「明智光秀殿はこういう性質だからああしよう」と。
みなお侍さんだから、それぞれプライドがある。
自分は尾張中村の農民から成り上がってきた身で、プライドがないから、余計に侍のブライドがよく分かる。
「ああ、侍というのはこういうことをすると尊ぶんだな、喜ぶんだな」と。そして、侍の心をくすぐるように言ったり接したりするわけです。
ふた言目には「私はサルでございますから」と言う秀吉にはプライドがない。農民から上がってきたからプライドとは縁がない。
その秀吉から見ると、武士のプライドが手に取るように分かる。「武士が求めているのはこれなんだな」ということで、頭を下げてあやしてあげる。
だから、「ああいいね、君」と、あやされているほうは喜んでいる。
だから、「愛いやつじゃ」と言って引き立てを受けるわけです。もちろん、秀吉にもいろいろな個性がありますが、一番の個性は何といっても「人たらしの秀吉」です。
ですから皆さん、人たらしになる前に、とりあえず女をたらそうなんて考えてはいけません。人口の半分は女性ですけれど、社会人としてはまず男たらしでなければいけないのです。次に女子社員がいるから、女たらしでなきゃいけない。
女たらしといっても、どこまでをたらし込むかという程度が問題ですよ(笑)。
あとで恨みを買ったり、奥さんとの決裂が待っているようなたらし方というのは問題ですからね。
たらすか、たらさざるかの微妙なバランスの中で、たらし込む直前の「たらし気味」というのがいいんじゃないかと思いますね(笑)。
これなら平和です。恨みも呪いもなく、夫婦円満にやっていけます。だから、たらし気味というのがいいですね。
たらし込んだとなると大変ですよ(笑)。責任が発生するし、悲劇が待っている場合も多い。だから、たらし気味にしておくことが肝心です。
相手が男だったら、たらし込まなければいけない。たらし込む対象はというと、自分の目上、それから同僚、目下。要するに、天人地とたらすわけ。
たらされた人間が涙をたらして、「お前は素晴らしいやつだな、いいやつだな」と感激するまでたらし込まなければいけません。ということで、まず男たらしでなければいけませんね。
女たらしの場合は、あくまでもたらし気味で止めておく必要があります。
女性の立場で考えると、男たらしになってはいけないから、男はたらし気味にして、女同士をたらし込む。人間には男と女、二種類ありますから、調節が要ります。
それで、目上の男性はたらし込み、女性はたらし気味。同僚、仲間の男性はたらし込み、女はたらし気味。目下の男性はたらし込み、女性はたらし気味。こうやって天人地と、三百六十度たらし込んだらいいわけ(笑)。
これが人たらしです。
秀吉はまさにそうだったんです。目上にも同僚にも目下にも、子どもをあやすのと同じように、たらし込んでいったのです。
秀吉が出世した一番の理由はこれです。しかしそれは、人間に共通する価値観を知っていたからできたことであって、その観察眼というか、聡明さがなければできるものではありません。
子守をしていると、「ああ、子どもはこんなことを喜ぶんだな、こんなのを嫌がるんだな」ということが分かります。
「ああ、子どもは逆立ちをすると喜ぶんだな」と。
しかし、あまり逆立ちばかりしていたら、高血圧で脳溢血になるかもしれないから、人形を逆立ちさせてみたりしているうち、子どもはくたびれて寝てしまったりする。一回はやるけれども、あとは人形を使って逆立ちをさせてみせる。そうやって、自分の体力を保たなければいけないですね。
また別の子どもはというと、砂をかけるのが好きな子がいて、「砂かけばばあだ」と言いながら一緒に砂をかけたら、目が砂だらけになってしまうから(笑)、いろいろと考えなければいけない。
要するに、子守というのは端で見ているほど楽ではないし、深い知恵が必要だということです。
そういうふうに、子守をしているつもりで、目上の価値基準や目上が何を考えているのかを知って、「ああ、こういうものをいいと思っているんだな」といってたらし込む。聡明な叡智をもって目上をたらし込んでいったらいいわけです。
同僚に対しても、「ああ、こういうふうにあるべきだと思っているんだな。なるほど」と、同僚の価値基準を知ってたらし込む。
女子社員に対しても同様に、「ああ、こう思っているんだ。目上の女性はこう考えているんだな」と。
目下の男性に対しては、「上司にはこうあってほしいと思っているんだな」と。
そうやって、共通の価値基準を見出していって、たらし込んでいく。「目下の女子社員はこう思っているんだ、こうあってほしいと思っているんだな」ということをキャッチして、女子社員をあやしてあげる。
そうすると、上からも同僚からも目下からも、男性からも女性からも、「いいねえ、あの人は素晴らしいね」というふうに、評価されるようになります。
そう言われる人は必ず出世します。「あの人に来てほしいわ」「ぜひ彼に頼もうよ」「あの人が来るなら
いいわ」「あんな上司がいいわ」と、評価が上がっていきます。みんなもやる気が出るから、自分の成績だけでなく、部署全体の成績も上がっていきます。
それから、秀吉と松下幸之助の共通項は、学歴がなかったことです。独学で勉強をしています。
秀吉も素晴らしい字を書いています。独学で勉強したんでしょう。そうでなければ、あそこまで書けないはずです。字を見たら分かります。
松下幸之助も小学校卒ですが、独学でいろいろと勉強しています。歴史を始め、いろいろな分野の勉強をしています。人から聞いて、あるいは独学で学問を深めています。
学歴がなかったこと、貧乏だったこと、それから病弱だったこと、この三つをバネに松下幸之助はあそこまでのし上がっていったと言われていますが、学歴がないから、学歴のない人の気持ちが分かる。病弱だったから、病弱な人の気持ちが分かる。貧しかったから、貧しい人の気持ちが分かる。
とりわけ松下幸之助を大きく育てたのは、学歴がなかったことです。学校を出ていないからプライドがない。
だから、「ああ、大学出の人はこう考えているんだな、高校出はこうなんだな」と、学歴コンプレックスとは関係なく、適合できたわけです。
秀吉もそうでしょう。身分がなかった。貧乏だった。病気はなく元気だったみたいですけれど、いろいろとハンディがあったから、いろいろな人のニーズに応えることができたし、「人たらしの秀吉」とまで呼ばれるようになったのです。
