成功する経営者はここがちがう! 深見所長講演録20(Vol.3)

まずゴマをすってみよ

人たらしとは何なのか。ひと言で言えばゴマすりです。

私の持論ですけれども、「あいつはゴマすりだから」と、ゴマすり人間を毛嫌いする人がいますが、ゴマもすれない人間がゴマすりのことを偉そうに批判しちゃいけない。

そう言うんだったら一回すってみろ、と。

食べたくないものも食べなきゃいけないし、行きたくないところでも行かなきゃならないし、ときには、嫌いなマージャンにも付き合わなきゃいけないし、死にそうなときでもゴルフをしなきゃいけないし、胃潰瘍になりそうになったり、ストレスはたまるし、屈辱感は感じるし、ゴマすりって頭で考えているよりずっと大変です。

一回ゴマをすってみたら分かります。いかに大変か。だから、ゴマをすっている人に対して、ゴマをすれない人間が偉そうに言ってはいけないと言うんです。とくに社会人は言ってはいけない。

ゴマをすらずに出世できるという社会は絶対にありません。

これは、株式会社であろうと有限会社であろうと、宗教法人であろうと学校法人であろうと財団法人であろうと、ボランティアのグループであろうと同窓会であろうと、絶対に変わらない真理です。

では、ゴマすりって何なのか。それは「相手に心地よく喜んでいただく」こと、つまり、「あやしてあげる」ことです。

ゴマすりに問題があるとするならば、偏ったゴマすりだからです。「あいつはゴマすりだから」と中傷されるのは、目上にだけおべっかを使って、目上にだけゴマをすっているからなのです。

同僚には、「お前はダメだ」とか「仕事しろ、バカ野郎」なんて言ったり、自分は全然仕事しないくせに、ポンポン目下に仕事を振ったり、「ああ、私はこうだったんですけど、あいつがああだったものですから」と、部下や同僚のせいにしたりするから、「なんだ、あいつ「は」と批判されるのです。

自分は何もしないくせに人を責めたり、何か失敗したら人のせいにしたり、人のやったことを、あたかも自分がしたかのように目上に報告したりするから、そういうゴマすりが批判されるわけです。

つまり、一方向にだけゴマをするからダメなのです。

そうではなく、ゴマをするなら全方位に対してすらなければいけない。目上にも同僚にも目下にもすべてにゴマをすっていけば、誰からも批判されることはないはずです。

これをマルコメ味噌の法則と言うんですけれど、マルコメ味噌の小坊主の頭はツルツルですね。

なぜ、ツルツルなのかというと、髪の毛というのは感情を象徴するものだから、その感情をなくすために髪の毛を切る。この世俗の思いを取り払って、仏の道にいくのが出家。

そのために髪を剃り落とす。この世の俗の思いを切る。

マルコメ味噌の小坊主のように俗の思いを切って、子どものようにかわいがられながら、目上にゴマをする。

しかし、目上だけにすっていると、首が痛くなるし、脇腹が甘くなる。そこへ友達からガーンとボディブローを食らわされて肋骨が折れたり、目下からはカーンと金的を蹴り上げられて、アアーッと閉絶する(笑)。

だから、目上に、「ははー」と言いながらゴマをすると同時に、同僚や目下にもゴマをすらなければいけないわけです。おべっかを使ってもかまいません。

おべっかは素晴らしいんです。おべっかは言霊の力ですから、文学的表現が必要です。

一般的にはおべっかはよくないとされています。なぜか。目上だけにおべっかを使うからです。

神も仏もゴマすりを喜ぶ

いつも言うように、神社の神様もおべっかを使われるのを大変喜んでおられるんです。「神様、私の心が分かるよね。あんた神様なんだから、月末何とかしてよ」と言って、誰が守るかって言うんです(笑)。

神社の祝詞を見たら、たとえどんな神社でも、「ものふりたるこの社と、この鳥居の風情には感動するしかございません。

この深く静まりかえった清浄な森が………」と言って、神様と神社を目一杯持ち上げています。後ろに駐車場があったり、ソープランドがあったりする場合もあるんですけれど(笑)、そんなことには触れません。たとえちっちゃな森でも、「この豊かな森の中に鎮まご神霊には、心の安らぎを禁じ得られません」と、おべっかを使う。

八幡様ならば、「武将の守り主として名高い宇佐八幡を勧請されたる八幡様が・・・・・・」と言って、神社の主祭神がいかに素晴らしい神様かを讃える。

祝詞というのはそういうものです。神様を讃えて、そしてお願いいたします、というのが祝詞なのです。

心願成就、結婚祈願、入学祈願などの祝詞を見てください。ご神徳とかお社の歴史とか、褒め言葉がずっと奏上されています。

要するに、祝詞というのは、ご神霊にゴマをすって、おべっかを言っているのです。

バイブルも見てください。イエス・キリストとマリア様に対するおべっかとゴマすりの塊ですよ(笑)。

仏典を見てください。「文殊菩薩経」とか「不動明王経」とかを見たら、文殊菩薩、不動明王がいかに素晴らしいかということを、目一杯謳い上げていす。

それから、「地蔵本願嘱累品」には、お地蔵さんを褒め讃える言葉がずらーっと並んでいます。

「観音経」を見てください、普門品の二十五番。観音様がいかに素晴らしいかということをもう、あの手この手で表現しています。よここまで褒めちぎれるな、というのが「観音経」ですよ(笑)。それで、観音様もその気になるわけでしょう。

ですから、どのお経を見ても、褒めちぎって褒め讃えて、歯がいったん浮いて、浮きすぎて歯槽膿漏になって治して、固めて、そこに蜜、桃、飴などで、ここに幸せのものをぶちっとぶちこむような、そんな感じですよ、お経って(笑)。

バイブルもそうですし、コーランもそうだし、お経、仏典、全部そうです。

お釈迦様の偉大さをこれ見よがしに、「これでどうだ!」と書いてあるのがお経です(笑)。

観音経を見てください。最初から最後まで、よくここまで褒めちぎれるなというくらいに褒めています。

しかも、もっともらしく具体例を挙げて、「何と観音様は素晴らしいことでしょう」と詠んでいるわけです。だから、読んでいる人間も、「何と観音様は素晴らしい!」という気持ちになる。そういう気持ちになるから観音様も、「そこまで言われたら行かなきゃならないな」と言って来られる(笑)。

それが観音経なのです(笑)。地蔵尊も不動明王も、全部そうですから。

バイブルの世界においては、イエス様はもう世界最高の王子様として描かれています。

そのバイブルを見たシスターが「イエス様!」と思って、一生をイエスのために捧げるわけでしょう。バイブルを読んでください。ゴマすりとおべっかの塊ですよ(笑)。

それを愛と真心に見せているのがバイブルです。おべっかがおべっかで終わっていたら自己陶酔ですけれど、多くの人々に活かすようにもっていっているから、イエスの教え、イエスの生きざまが生きるわけです。

全方位にゴマをすれ

ゴマすりもおべっかも、それ自体は、悪でもなく善でもありません。ただ目上だけにやるから、同僚から脇腹を殴られ、目下から蹴り上げられたりするのであって、全方位にゴマをすれば何にも問題はありません。

目上にゴマをすっておべっかを言ったら、同僚にもゴマをすっておべっかを言う。そして目下にもゴマをすっておべっかを言う。

天人地にゴマをするから、天ゴマ、人ゴマ、地ゴマ。アメリカにすったらベーゴマと言うわけですね(笑)。

新宿ですったら新宿コマ(笑)。黒い心ですったら黒ゴマ。純粋な気持ちですったら白ゴマ。そして愛と真心ですったら観音ゴマになるわけです。

会社で出世できない人間が、ゴマをすっている人間に対して、「あいつはゴマすりだから、あんなおべっかばかり言って」と言いますけれど、じゃあ自分はどうなんだと言ったら、おべっかを言っていない、ゴマをすっていないわけです。

やはり、目上にゴマをすっておべっかを言う人のほうが出世しています。

ゴマをすっておべっかを言って出世している人間に対して、そんなに腹立たしいのであれば、もっとゴマをすって、もっとおべっかを言って、自分自身がもっと出世したあとで、「ゴマばっかりするなよ」と、ひと言、言えばいいのです。

ゴマがすれないから、おべっかが言えないから、妬むのであり、ひがむのだと私は思うわけです。ゴマとおべっか自体は善悪を越えたものなのです。

お経でもバイブルでもゴマすりとおべっかばかりなんですから、同僚にもゴマをすって、おべっかを言ったらいいのです。

「君は素晴らしいね。立派だね。君のような人と仕事できるぼくは幸せだね」「また、ゴマすって、おべっか言って」と、口では言っても、内心では喜んでいるのです。

ただし、何度も言うように、目上だけにゴマをすってはいけません。もし目下にゴマがすれなかったら、「目上にばかりゴマをすって、部下にはつらく当たるんだから、あの人は私たちが提案したことを、あたかも自分が提案したかのように、同僚や目上に言うんだよねえ。

あんな上司にはついていけない」という気持ちにさせてしまいます。それはやはり、目下にゴマをすって、おべっかを言わないからなのです。

「君たちのような優秀な部下を持ったぼくは幸せだ」

「また、ゴマすって、おべっか言って」

「いや、ほんとなんだよ」

「ほんとですか?」

「うーん、若干の誇張はあるかな。だけど、君たちのような優秀な部下を持ったぼくは幸せだ」

「またゴマすって、課長、いやー」と言いながらでも、「お茶飲みますか」と言ってくれるんですよ(笑)。

そういうふうに言われて殴りたくなるのか、腹が立つのか、と言うんです。

「また、おべっか言って、ゴマすって」と言いながら、「実家から新茶が届いたんですよ、課長も飲みませんか」と言ってくれるわけ(笑)。

結論から言うと、目上も同僚も目下も、ゴマをすり、おべっかを言ってくれるのを待っているわけです。

それなのに、ゴマをすってくれない、おべっかを言ってくれないから、「あいつは目上にはちょっと反抗的で、部下にはいいようだがね」となるのです。

同僚や目下は、「目上にばっかりゴマすって、おべっか言って。自分たちにはつらく当たって、部下のことを全然かまってくれないのよ」と言うわけです。

「じゃあ、どうしろと言うんだ。ゴマをすっちゃいけないのか、おべっか言っちゃいけないのか、黙ってずっと仕事だけしていろと言うのか」と。

しかし、そうしていると、「あいつは無口なやつだ」とか、「人への感謝も何もない、礼儀もない。

表現力もない。ありがとうのひと言も言えないのか。社会生活に不適合だ」と言われてしまうのです。

一生懸命に努力はするし、「はい」とは言うんだけど、モロ喜びしないと、「あいつに何か物をやっても、ゴルフに連れていっても、酒飲みに連れていっても、モロ喜びしないからね」となるのです。それよりも、ゴマすりとして名高い人間を一回連れていくと、

「あっ、もう死にます、死にます、死にます。あまりにも感動しすぎちゃって、死にます、死にます」(笑)

「そこまで言うなよ。このゴマすり、おべっか言いが」となるわけです。

また、ゴルフに一回連れて行っただけで、「わあ、うれしい、うれしい」と言いながら、さらに手紙もきて、

「あのときのゴルフは一生の思い出になります。あのときの部長との写真は家宝にします、仏壇に飾ります」(笑)

「そんなのよく言うなあ」

と言うんだけども、

「また、ゴルフに行こうか。君を連れていくと、「おおっ」と、モロ喜びしてくれるから楽しいんだ」(笑)

「え、いいんですか。うれしい、うれしい、うれしい。ときどき、部長と行っゴルフ場のそばを営業で通ると、ハッと思い出すんですよ。あのときのゴルフはとてもいい思い出なんです。部長のショットもよかったわ」(笑)

「また、ゴマするなよ。でも、また行く?」(笑)

「もちろん、行きます」となるのです。なぜ、そういう部下を誘うかといえば、連れていくといろいろとゴマをすってくれてうれしいし、楽しいからです。

ただし、上司にばかりゴマをすっていると、同僚とか目下から、「部長にゴマばっかりすって、おべっかを言って。仕事は全然しないのに」となりかねません。だから、同僚にもたまにはおべっかを言って、「飲みにいこう」と誘わなければいけません。

「君、よく仕事をするから、今日は俺がごちそうするよ」

「またゴマすって、おべっか言って」

「ほんとにそう思っているんだよ」

「ほんとに?」

「若干の誇張はあるけどね(笑)。このあいだ部長と行ったときに、君も連れていってやりたかったな。

部長はゴルフも上手だよ。

ときどき、パッパッと唾を吐いたりするけどね。しかし、部長の唾と思えばまたいいものだよ。今度、キミと行ったら、ぼくの唾を君にパッパッパッとかけてあげるからね。「君は心の妻だから」」(笑)

「それは東京ロマンチカの歌でしょう」(笑)

そうやってたまには酒を飲むと、何か問題があったときに助けてくれます。部下だったら、「課長、課長」と言って、一生懸命に仕事してくれますよ。

だから、部下もときどき飲みに連れて行ってあげるようにしたらいいわけです。

だから、目下にゴマをすって、おべっかを言わなければいけないのです。それもできないくせに、おべっかを言っている人間やゴマをすっている人間を批判するような人間は、絶対に出世できません。

私ならどうするかというと、「ああやってゴマをするのか。ああやっておべっかを言うんだな。一方通行だとダメなんだな」というように研究します。

私の場合は、「愛と真心と人々の幸せ」という念でゴマをすり、おべっかを言いますが、人間のことですから、出世欲があってもいいんです。

出世欲があっても、私は絶対に批判しない。「すごい能力だ。ああやってやるのか」と研究材料にするし、おべっかでもゴマすりでも、善に使えばいいわけです。

動機は不純でも、御魂を発動させている人のほうが尊い

それよりも悲劇なのは、意欲がなくてボーッとしている人です。生きる意欲がなくなって自殺するとか、やる気がなくなってボーッとするとか、とにかく、やる気がなくなった燃え尽き症候群の人です。

私は燃え尽き症候群だとかやる気がなくなるとか、もう引退するとか病気だとか自殺すると言い出す人を、いっぱい知っています。

それから比べてみたら、「女とやるんだ」なんて言いながら(笑)、頑張っている人のほうがずっといい。動機は不純かもしれないけれど、御魂は発動しているんです。

あまりいい霊界に行かないかもしれないけれど、「出世するんだ!」と言いながらゴマをすって、「部長、ゴルフをしに行きましょうよ。

飲みに行きましょうよ。きれいな女の子がいますよ」という人のほうが御魂が発動していますよ(笑)。

出世欲であろうと、みだらな欲望であろうと、何であろうと、御魂が発動して頑張っている。

全身全霊を使って頑張っているではないですか。そのほうが絶対に尊いと私は思います。

やる気をなくしてボーッとしている人、ただ死ぬのを待っているような人、燃え尽き症候群でボーッとしている人、「やる気がない」と言いながら家で悶々としている人、二日も三日も四日も会社に出てこない人よりは、「出世だ、ゴマだ、おべっかだ、女だ」と言いながら(笑)、一生懸命に働いている人のほうがずっといい。

ときどき、女より男がいい、と言う人もいますけれどもね(笑)。それでも御魂は発動していると思うわけです、ホント。

大いに生きていますよ。ただし、あの世に行ったとき、ちょっと問題ですけれどね(笑)。

しかし、全身全霊を使い、頭も心も、それから言葉もいっぱい使って頑張っているわけですから、そんな人間を絶対に批判してはいけないと思うわけです。私なら謙虚に学びます。

「ああやって女性を次々とものにしていくんだな」「ああやって次々と、ただでゴルフに行くんだな」とかね(笑)。

たいして頭もよくないし仕事もしないのに出世するのは、「ああいうふうにやっているからなんだ」と。自分は実力をさらに足せばいいわけでしょう。

やはり、最初に言った法則のどこかをつかんでいるわけです。

つかみきれてないから批判も出てくるのであって、それではあんまり出世できない。「目上にゴマをすり、おべっかを言い、同僚にゴマをすり、おべっかを言い、目下にもゴマをすり、おべっかを言い」というように、「天人地にゴマすりおべっか言い」を抵抗なくやれる人、そういう人が結果的に大出世するのです。

これを出世のためにやるとどうなるか。ストレスがたまります。頭が禿げてきたり、肝臓を悪くしたりします。

出世のために辛抱して、目上や目下にゴマをすり、おべっかを言わなければならないと思ってやるから、ストレスがたまって病気になったり、どこか具合が悪くなったりして続かなくなるんです。

私の場合は、とにかく「みんなが喜んでくれたら、それでいいじゃないか」と、それしか思わないし、その瞬間瞬間を楽しんでいますから、ストレスなんかたまりません。

ゴマをすっておべっかだと言われても、それでいいです、と。

愛情から発したゴマは金色ゴマ

しかし、よくよく考えたら、ゴマをすらない人はいません。人は誰でも、背後霊にも神社にも仏様にもゴマをすっているし、大宇宙にも星にもすっているのです。

「アンドロメダよ、あなたはなんと美しいんだ」

なんて言うと、アンドロメダも、「え、いま何と言った?」と、アンドロメダの神様もこちらに意識を向けてくれます。

「いろんな星があるけれども、アンドロメダほど美しく、素晴らしい星雲はないと思っています。だから私は今日、アンドロメダに向かって歌うんです」

「え、そんなにアンドロメダのことが好きなの?銀河系もあるし、いろいろあるじゃないの?」

「だけど、私はアンドロメダが一番好きです」

「そうなの?」と言って、アンドロメダの神様からメッセージが来たりするのです(笑)。ところが、

「アンドロメダ、いろいろと星がある中で、あんたはまあまあのレベルだ」

なんて言ったら、アンドロメダの神様はプーンと横を向いてしまいますよ(笑)。神様も仏様も、それからイエス様もマリア様も、褒められればうれしいのです。

だから、ゴマをすることのどこに問題があると言うんですか。出世欲とか異性に対する執着とか、欲望から発するものはちょっと嫌らしい響き、おぞましい響きがありますけれど、「売上を伸ばす商品をつくろう。これで売上を倍増するぞ」と言うよりも、「消費者に喜ばれるものをつくろう」と言うと、何かこう、あたたかくてやさしい波動が出てくる。胸を打つ何かがあるわけです。

ゴマもそうなんです。観音様や毘沙門天や不動明王に対して、「これをやらなきゃ毘沙門天さんが出てこないから」とか、「ご利益が欲しいから」という欲望でお経を上げるのではなく、「本当に観音様ってすごいな。毘沙門天って頼りになるな」と素直に感動して、「観音様に喜んでいただけますように」と思ってお経を上げると、そのお経は金色に輝くのです。

ゴマとかおべっかそのものは、善悪を越えたものなのです。ただし、片方向だけとか、偏ったところにゴマをすると、「あいつはおべっかばっかり言うやつなんだ、ゴマすり男なんだ」と言われます。

だから、偏らないことです。そして、そのときのハートが欲望から発したものであると、言葉の奥に何か濁ったもの、嫌らしいものを感じますが、そういう欲望ではなく、また目的意識ではなく、ただ素直に「相手によかれ」という愛情から発したゴマすりであれば、これは金色のゴマ、金色ゴマなのです。

この金ゴマをすれば、相手は金色に輝く幸せな波動を受けるから、これは大出世します。霊界でも出世します。

この世でも出世しますし、アメリカでもオーストラリアでもイギリスでもどこでも、みんなから慕われます。神仏からも慕われる。

何をやっているのかといったら、愛と真心で、天人地、偏りなく絶えずゴマをすって、素晴らしいと言い続けている。

ただそれだけのことなんです。それが人を幸せにする力なのです。

だから、どんどんゴマをすり、どんどんおべっかを言ったらいいのです。ところが、ゴマもすれなければ、おべっかも言えない人が少なくありません。

とくに、理科系の人だとかコンピュータ関係の人に多く見られます。かくあらねばならないという観念の持ち主には、ゴマがすれない人が多いようです。

会社でちょっと見かけた、ゴマをする人とかおべっかを言う人。出世欲から発して、目上だけにゴマをする人。「ああ、嫌だ。俺はあんな人間にはなりたくない」と。

その気持ちは分からないではありませんが、ゴマすり、おべっかが悪いものだと思ったら、その瞬間からゴマすりもおべっかもできなくなります。その結果、出世もできなくなります。

ですから、社会人になった段階で、ゴマすり、おべっかは悪という観念を取らなければダメです。

その観念が邪魔をしているわけですから、これは絶対に取らなければいけません。

それでも多くの人は、おべっかはよくないとかゴマすりはよくない、と言います。

しかし、誰がよくないと決めたんだと。商法にも民法にも日本国憲法にも、「ゴマすり、おべっかはいけない」なんて書いてありませんよ(笑)。税務署の通達にもない(笑)。どこにもありません。

ゴマすり、おべっかを悪ととらえる風潮があるのは、出世していない人が多いからです。しかしそれは、単なる観念にすぎません。出世している人は、みな自然に、罪悪感なくやっておられます。

利益を上げることに罪悪感を持つな

この言葉で思い出すのは松下幸之助さんです。

利益を上げるとか儲けるということに対する罪悪感を、多くの人が持っていた。売上を上げて、経費を引いたら粗利益が残ります。

そこから税金を払って純利益が残るわけですけれど、利益を上げるということに対する罪悪感を持っていたところ、松下幸之助は儲けること、利益を上げることに罪悪感を持つのは間違いだと言った。

利益を上げなければ会社はやっていけないわけだから、儲けは尊い、利益は尊いと言ったのです。ボロ儲けとかあぶく銭というのは問題ですけれど、儲けること、利益を上げること自体は悪でない、善だ、と。

その利益をどう還元していくかということが大事なのであって、法定準備金として内部留保するのか、株主に配当するか、投資に回していくのか。

それを経営者は判断しなければならないわけですが、利益が上がっていなかったら内部留保もヘチマもありません。

まごまごしていたら会社が倒産してしまいます。ですから、企業の社会的責任は環境保全だとか地域貢献だとか、そういうものではないのです。

企業の社会的責任というのは、ドラッカーも言っていますけれども、利益を上げることなのです。

会社が利益を上げられないとどうなるかというと、三年ぐらいしたら会社が倒産します。倒産の悲劇は、皆さんの父さんがよく知っている(笑)。

債権者に追われる、ヤクザがからんでくる、それから一家離散して、どこへ行ったのか分からなくなる。

それでも、ずっと借金を返し続けていかなければならないわけですから大変です。

Y社のように、倒産から這い上がって成功する例もありますけれど、敗者復活はほとんど不可能です。

いろいろと同業者を見ていたら、倒産こそが社員を路頭に迷わせる最大の悲劇です。破産宣告なんかしたら取引もできなくなります。

しかも、経営者の家族は倒産を機に生活していけなくなります。離婚し、一家離散というケースも多いんです。

そして、「金返せ、金返せ、金返せ!」と債権者にずっと追われ続けて、そこにヤクザがからんできたりします。それはそれは、倒産の悲劇と言ったらすごいんです。

ですから、会社を倒産させないことが、社員および社員の家族の幸せであり、企業の一番の社会的責任は、利益を上げ続けることなのです。

環境の保全も大事です。しかし、経営者が怠ればたちまちのうちに倒産という悲劇を招いてしまう。

その結果、社員および社員の家族、経営者とその家族、親戚縁者を不幸にする。取引先も、連鎖倒産するところが出てきます。

不渡りを出したら、取引先の入金予定が狂って、連鎖的に倒産していく。悲劇が蔓延するわけです。

だから、企業の社会的責任は利益を上げることであり、利益を上げ続けることなんです。そうやって生み出した利益で、社員にボーナスを提供する。厚生施設を整えていく。

ああ、ボーナスがいっぱいもらえた。厚生施設ができて、海の家、山の家へ家族で行った。

社員旅行、海外旅行にも行った。最新のコンピュータが入った……そうやって社員に還元してあげられるわけです。

利益が上がっていたら、社員にいくらでも還元できますが、利益が上がらなかったらどうなりますか。公害は出さない。

自然環境は保全している。しかし、利益が出ないのでボーナスは何年もない。

給料もだんだん少なくなっている。一人去り二人去りして、残った社員がその分を必死で働かなければならない。

環境はきれいに整えられ、空気もきれい。土地も汚さない。けれどそれでは、社員を不幸にしてしまうわけです。

だから、経営者の社会的責任は、何よりもまず、利益を上げ続け、会社を存続させることなのです。

その利潤を上げるということを大切にしたのが松下幸之助です。儲けるということは善悪を越えたものだから、経営者はそれに対して罪悪感を持っちゃいけないんだ、と。

そして現金主義です。家賃とか給料は現金払いです。手形では払えません。電話代もそうです。電話局に手形でもっていくと、三ヵ月後に現金になるなんていう話はどこにもありません。

ガソリン代だってそうです。みんな現金払い。

給料も家賃も電話代も水道代もみんな現金払いです。その現金を大切にしなければいけないというのが、松下電器の現金主義です。

そして、利潤を上げることに罪悪感を感じないという主義。だから、松下電器は業績がいいのです。

松下幸之助はそこに気がついたわけです。社員全員、儲けるということ、利益を上げるということに罪悪感を持ってはいけない。

利益を上げることは素晴らしいことなんだ、と。利益を独占するとか、あぶく銭だとか、一方的なボロ儲けはいけないけれども、利益を社員に還元する、取引先に還元する。安くて品質のいい商品をいっぱいつくって、どんどん提供していく。そうやってわれわれは社会に貢献しているんだ、と。それで社員が燃えて頑張ったわけです。

「儲からんもんは、やりまへんでえ」

関西ではよく、「私どものほうとしても、これだけの利益と儲けがないと、会社が存続できませんから、儲けさせてください」と言います。

ところが、関東の人はなかなかこれが言えません。「うちも利潤がなければやっていけませんから、儲けさせてくださいね」と、なかなか言えないのです。

「御社のためにプラスです」とか、カッコよく言いたくなるんです。それを関西では、モロに、「おっさん儲かりまっか。儲からんもんは、やりまへんでえ」などと言います。

しかし、そういう台詞を聞くと関東の人は、こすっからいと思うらしいんです。

「金、金、金」と言うと、金の亡者みたいだと関東の人は言います。その点を考慮して、「利潤の追求はやむを得ません」と言わなければいけませんね(笑)。

「会社の存続は、企業の社会的責任でございます。私どもも利益がなければ存続できませんので、何とかお願いします。

その分だけのサービスと対応は、十二分に練ってやりますので」と、バカがつくほど丁寧に言わなければならないかもしれません。

価格競争になったとき、何でも値段を下げればいいというわけではありません。下げすぎたら共倒れになります。だから、談合が出てくるのもある程度、無理もないところだと思います。

フェアじゃないと言うかもしれませんが、施主はどんどん叩きます。

そうしたら、どんどん原価割れしてきて、倒産するところが出てきます。だから、存続していくためには談合をするわけです。

アメリカでは自由競争と言いますけれど、どこまでも自由競争でやっていったら、原価割れしてでもやらなければならなくなります。

そうなると、利益が確保できない。利益が確保できなければ、社員や下請を守ることができない。

そういう背景があるから談合せざるを得ないのであって、談合は善というわけではありませんけれど、すべてがすべて悪いものではないと思います。

松下幸之助も言っています。「儲けるということ、利益を上げることに罪悪感を持ってはいけない」と。

そもそも、儲けよう、儲けようと考えたところで、人から嫌がられる事業だったら、どの道、儲けられなくなります。

やはり、人々に認められる事業でなければ儲けることはできません。その儲けること、利潤を上げることに罪悪感を持たない。

そして、得た利益を社員に還元するのか、社会に還元するのかという、利益の使い方が大事なのです。しかし、まず利益が上がっていないことには会社は存続できません。それを松下幸之助は言っているわけです。

儲けること、利益を上げることに対して罪悪感を持ってはいけない、素晴らしいことなんだ、そう信じてやらなければいけない松下幸之助さんはそう言っています。経営の大事なところです。

松下幸之助さんは、関西の人だったからそう言えたのかもしれません。丸紅は滋賀県出身。

それから伊藤忠も滋賀県出身。西武グループも滋賀県出身。三井は三重県出身。三菱は高知出身。住友は京都出身。財閥のほとんどは関西です。滋賀県が多いですね。

関東から出ているのはイトーヨーカ堂ぐらいですから、やはり少ないです。利益を上げることに罪悪感を持たないというのは、会社が成功していくための大事なポイントです。

だから、関東の企業と関西の企業が競争すると、体質的にどうしても関東は負けてしまう。

いつも関西が勝ちます。

政治は関東が中心ですけれども、経済あるいは企業経営においては関西に勝てません。

松下幸之助のあの言葉も、関西の人だからこそ言えた言葉ではないかと思います。

商いの伝統が何百年もあります。いくつもの財閥を生み出していますからね。

もちろん、経済がすべてではありません。政治とか芸術とか、もっと別な要素を考えなければいけませんし、関東にもいいところがいくらでもあるわけですけれども、経済と会社をそのルーツ、発祥から考えると、やはり関西のほうが強いし、理にかなっています。

それというのも、儲けや利益に対して、罪悪感を持っていないからです。

ゴマすり、おべっかに罪悪感を持ってはいけない

同じように出世ということを考えた場合に、ゴマをするとかおべっかを言うということに、罪悪感を持ってはいけないのです。

ゴマをするとかおべっかを使うということに罪悪感を持ったら、絶対出世できません。

そして、そうやって出世した人間を批判してはいけない。尊敬することもありませんが、いいところはいいところとして素直に認め、見習えばいいのです。

そうして、天人地と偏りなくゴマをすり、そこに、欲望ではなく真心がこもっていたらいいわけです。

そうしたら死んでもいい霊界に行くし、神仏も守ってくれるし、目上から引き立てられ、同僚からは信頼され、目下からは信頼されて、かつ慕われます。これが大出世している人なのです。

自分の周りに出世できない人がいたら、どこか片方向だけゴマをすっているのではないかと思います。

出世している人を見てください。ほんとに丁寧で、礼儀正しく、同僚にも親切で、部下の面倒見もいいはずです。

そのプロセスがどうだったかをよく見てみてください。やはり、ゴマとおべっかの歴史です。

人柄がいい人というのは、「俺は出世するぞ!」という野心があまりなく、本当にハートが伴っています。そういう人は人柄もいい。

それを当たり前のこととして頭に入れているのが、出世している人の考え方なのです。

世の中には、出世していない人のほうが多いから、「あんなおべっか言って。あんなゴマすって。あんな出世!出世!ばかり言って。

あんな女!女!ばかり「言って」と非難するわけです。しかし、そんなふうに思ったら、その瞬間から自分は出世できないと思って間違いない。これが、サラリーマンにとって出世を妨げている一番の原因です。

中小企業でも大企業でも、成長を妨げるものは何なのか。松下幸之助は言っています。「会社が繁栄するのを妨げるものとは何なのか。儲けとか利潤というのに対する罪悪感。これがいけないんだ」と。

出世もそうです。

出世を妨げる一番の原因は何か。ゴマすり、おべっかは悪いものだと思っている観念。これが一番の原因です。

しかし、天人地に真心を持ってゴマをすれば、仏様だって神様だって、イエス様だってマリア様だって守ってくださるのです。

それでなければ守ってくれないのですから。やはり、観念と思い込みを捨てなかったら、絶対に出世できません。それが出世を妨げているのです。

ゴマもすらず、おべっかも言わずに出世している人なんか、世の中にいません。

世界中にも、霊界にもいません。神仏の中にも、ご先祖様の中にもいません。神界にも霊界にも順序がありますから、神社の神様もエンゼルたちもゴマをすっています。

ハートが伴っていたらいいのです。

そうしたら、目上にも同僚にも目下にも抵抗なく、ゴマがすれます、おべっかが言えます。ハートが伴い、抵抗なくできるようになるためには、悪いことだという罪悪感を取る必要があります。

そうでなければ、ゴマすりもおべっかも使えません。