第三章 満たされない結婚は吉?凶?
隣の芝生はきれいに見える
「この人と結婚してよかったのかな、と時々思うことがあります。自分の悪いところもたくさんあると思うのですが、こういうことを思わないようにするのにはどうしたらいいでしょうか。でも、夫婦、お互いさまですよね」
これはWさん(主婦三八歳)からの質問である。
この人と結婚して果たしてよかったのかな、と思わなかった人はあまりいないだろう。
連れ合いとけんかした時などに、より魅力ある男性を見かけたりすると、「うわーっ、いいなあ、あんな人の奥さんって」と思ってしまう。
その人は家に帰ったら何やっているかわからないのに、一応、外に出てくるときはジェントルマンで格好よく見えて、ついつい心を動かされてしまう。
女性も、家に帰ったら髪の毛振り乱して化け物みたいな顔しているんだけども、メークが上手で、とても美人に見えたりする。
平面的な平べったい顔の人は得で、どのようにでも塗れる。ちなみに立体的で完成度の高い顔の人は、もうそれ以上、化粧のしようがないのである。
いまはあらゆるメークの技術があって、そのメークの技術がよくて、よそいきの服を着て、それから美容院にも行ってたら、男性は「ああ、きれいだ、うちの嫁さんよりはよっぽどいいあ、こんな人が嫁さんだったらどんなにいいだろう」と思ってしまう。
男性でも、家でステテコはいて、おならして、鼻くそほじくって、プロレス見て、「おっ、猪木っ」とか言っている主人と、職場のご主人は違う。
職場で格好いい中年男性を見たら、「ああ、すてきな人。うちの人は家に帰ったら、絶えずおならをして、鼻くそほじくって、プロレスやボクシングを見ては興奮して、ピーナツを画面に投げつけたりするのに、なんという違いかしら」とついつい比較してはため息をつく。
そういうところしか見ないと、こんな人と結婚してよかったのかしらと、誰でも思ってしまう。向こうもそう思っているかもしれない。
こういう心理を、「隣の芝生はきれいに見える」という。男にしたら隣の奥さんはきれいに見えるし、女性からすると隣のご主人はすごくハンサムに見えるわけだ。
そこで、危険な関係になったりもする、かもしれない。
妥協を隠す恋愛感情
そこで、そう思わなくなるにはどうしたらいいか。そのためには、結婚というものがどういうものなのかということを、まず考えなければいけない。
結婚とは何ぞや。一言で言えば妥協である。
妥協というのは悪いことではない。理想をずっと言っていけば、向こうも理想を持っているわけで永遠にいっしょになれない。そこで、妥協だ。時間がたてばたつほど妥協が大切になる。
ところが実際には、妥協を感じさせないぐらいに恋愛感情がこれをおおい隠している。恋愛感情がそれを隠してくれるから結婚生活に踏み切ることができるわけで、恋愛感情がない場合は、妥協すべきところばかりが目につくから、結婚に踏み切れなくなる。
恋愛感情が特になくても結婚する人はいるものだ。そういう人の場合でも、何か妥協を忘れさせてくれるきっかけがあったりする。
例えば、病院で入院している時、たった一人お見舞いに来てくれた人がその人で、お花を持ってきて、「頑張ってね」「大丈夫ですか」と励ましてくれた。それで感動し、「この人しかいない、自分には」と思って結婚に踏みきった人も多い。
だから、好きな人が入院した時というのはチャンスだ。だからといって、早く病気になりますように、事故に遭いますようにと、そんなことを祈ってはだめだ。
妥協し合って生きるのが人生だ
年末大売り出しのアルバイトをして、ほかの子が適当に帰る中、最後まで残って一生懸命、後片づけをしている人がいたとする。
そういうところを見て感動して、「あ、この人と結婚すると最後まで残って家の片づけものをしてくれる、こんな人が奥さん「ならいいなぁ」と一目惚れすることもある。
美人というわけでもないし、スタイルがいいというわけでもなし、そんなに賢いというわけでもない。声はだみ声だし、だけど、責任を持って最後までちゃんとするという人が、これはいいなあと思うことはある。
それは顔よし、スタイルよし、頭よしで、それから上品で、性質がよく、仕事ができて、何でもできたら最高に違いない。
しかし、そういう人はいないと思うから、みんな、どこかで妥協する。
妥協は決して悪いことではない。妥協しすぎて、自分自身がしょげかえるのは情けないが、お互いが上手に妥協できていけば結婚生活は続く。これができない人というのは、なかなか結婚できない。
妥協は何か悪いことであるかのごとく考えていて、妥協はしないというのが格好いいように思っているのかもしれないが、妥協のない人生って世の中にあるのかと言えば、ない。
人間、一人で生きていくわけではないし、お互いを生かし合うということは、どこかで妥協をするということだ。
和というものは、妥協を前提にしている。しかし、妥協できるところとできないところがあるわけで、妥協しないところは妥協しない、妥協するところは妥協する。
これが、正しい妥協だ。自分自身のしっかり主張する部分は、やはり持たないとだめなのである。
そういうことで、結婚は妥協だ。お互いが妥協し合っているのは悪いことではない。だから、人間はやっていけるんだということを、まず思うことである。
満点ご主人は奥さんの幸せを阻む?
こんな人と結婚してよかったのかしらと一生思うこともなく、夫をどこまでも愛しつづけ、どこまでも惚れつづけ、どこまでも慕いつづけ、どこまでも尊敬しつづけていく人というのは、おそらく何万人に一人か二人しかいないと思う。
もし、そうだった場合どうかと言うと、奥さんにしてみると、夫は神様のような人なのだが、妥協がなくて、どこか物足りなさを感じてくる。
不満が何もない、満足した人というのはあり得ないのだが、いるとすると、かえってその人は不幸かもしれない。
なぜなら、孤独な時、一人の時をなかなか持てないからだ。仲がよくていつも夫婦いっしょにいれば、互いに共鳴し合って楽しいかもしれないが、反対の面も出てくるのだ。
誰にとっても今世は、自分を見つめて、信心に目覚め、内的に充実した人生を送るチャンスだ。
だから、子供と本当に仲がよくて、いつも子供といっしょ。
それから、ご主人と仲がよくて、いつもご主人といっしょというのは、この世的には幸せかもしれないけれ魂を磨き、魂を向上させるために生まれてきた人生の目的を考えると、そうそう喜んでばかりもいられない。
それは、生まれてきた本来の自分を見つめる時が、なかなか持てないからであって、そういう意味で、孤独な時というのがないと、絶対に人間は成長しない。
だから、これ以上ない幸せな環境が、かえってその人にとって、根本的な意味で不幸をもたらすということにもなる。
家庭円満では芸術家は大成しない!
とくに芸術で生きてゆく人にとっては、孤独が絶対必要だ。
偉大な作曲家で、家庭円満だった作曲家というのはいない。チャイコフスキーも、ベートーベンも、モーツァルトも、シューベルトもそうだったし、シューマンも精神の病につかれて病院に入ってしまった。
芸術家というのは、作品が生命だ。豊かな家庭を成就して、日常生活で満たされていたら、自分の作品である芸術において音楽にしろ、美術にしろ、陶芸にしろ、また武術でも何でも道を極めることができない。
家庭で内面が満たされたら、芸術作品に魂が入らないのだ。
だから、あなたのご主人が百点満点の満足できるご主人ではないというのであれば、これはチャンスなのだ。
満点御主人といっしょだと自分が成長しない
みなさんも、ご自分にあてはめて考えてみるといい。ご主人に不満をもっている人が多いと思うが、満点パパといっしょだったらどうなるだろうか。
休日には必ず、観劇するとかドライブで温泉に連れて行ってくれ、海に沈む夕日を見ながら「今夜は君と……」とか優しくささやいてくれる。季
節に先がけて、流行の服を買ってくれるし、楽しい話題には事欠かない。子供の教育も母親まかせにせず、学校のことも熱心にいっしょに考えてくれる。
しかも、ほれぼれするほどハンサムで、身長一八〇センチで東大卒で、一部上場企業の幹部社員で、田園調布か荻窪か芦屋の一戸建てのローンはとっくに払い終えている。
連れ立って歩いていると、他の女の人のねたましい視線を感じてうっとうしいくらい、と。
さて、こういうご主人と結婚していたとしたら、あなたは何かを修得しようとか、芸術を目指そう、自分の内的世界を極め、心を極めようと思うだろうか。
そんなことする時間があったらご主人にくっついて、二四時間楽しんでいたほうがいいと思うに違いない。それで当然だ。
絶えず夫とお話しが合い、ウマが合い、子供と仲よくしている主婦の中に、自己の内面を見つめる人が少ないのはそういう理由だ。
つまり御神業とか、あるいは心を極め、内的世界を極め自分の魂の奥で勝負しなければならない芸術的なものは、あまり夫婦円満で、家庭円満で、一家団らんで、楽しい楽しい幸せ家族の人にはなかなかできないのである。
キリストの言った、みたいなものだ。
「金持ちが天国に行くのは、ラクダが針の穴を通るより難しい」
だから、どこかご主人に難があり、あるいはどこか子供に難があり、またどこか本人に難がありというものがないと、内面の充実した何かを見つめていこうということは無理なのである。
求道者には家庭、妻子は結局邪魔
だから、そもそも結婚は妥協なんだけれども、妥協できるところとできないところは、どんな場合もあるだろう。
しかし、妥協によって物足りなさとか、寂しさを感じるだけかと言うとそうではない。これは、自分を見つめて神の道に目覚め、内実の充実した人生を送るチャンスを、神様がお与えくださったということなのだ。
植松先生もそうだった。私の場合も、「金縛りよこんにちわ」(私のペンネーム、フランソワーズ・ヒガン著として出版している)を読んでいただければわかる。
私の子供の頃の環境も、前の章で書いたが父も母も兄弟もいて、弟と妹とギャーギャーギャーギャー遊んでいたけれど、絶えず暗雲たなびくような家であった。
だからこそ内的に追い込まれて、孤独な時期がずっと続いていたので、子供なりにいつも神様、神様と祈り続けるようになったのである。
そういう逆境でもない限り、信仰心の本質というのは芽ばえてこないと思う。
みなさんも、そう思われるはずだ。だから、不自由を喜び、孤独を喜ぶべきなのだ。そういう信心の道とか、芸術でもなんでも何か志を持つ人にとっては、そういう不自由、孤独な環境はありがたい。
あまりにも家族と家庭に恵まれていたけれど、しかし、魂がうずいて求道しようと思う時に、妻子を捨てなければならなくなる。そして神仏の道をとった人は多い。
一遍上人しかり、西行法師もそうだ。妻子を捨てて行脚に出て、和歌の道を大成させた西行法師。そして一遍上人も、ここで別れてくれと言って妻子を捨て、神の啓示に従って熊野神社へ行き、時宗を開いた。
捨てられた奥さんや子供はかわいそうだけれども、夫は、こういうことだからしょうがない。
暖かい家庭の雰囲気が、おのれを極めたいと思う人間にとっては暑苦しい。
面倒くさくて暑苦しくて、おのれが極まらないと思ってしまう。こんなことなら初めから結婚しなければよかった、子供をつくらなきゃよかったわけで、奥さん、子供はかわいそうだと思うことは思う。
しかし、奥さんも子供もこういう運命なんだと思ってもらうしかない。
子供も縁があれば、子連れ狼の拝一刀の子供が父親とずっといっしょに戦ってきたように、父と共に神仏の道を進むこともあるというものだ。
近いところでは山頭火もそうだ。短歌や俳句など、一道を極めていくという人は結局、みな、家族のことで迷う。
まあまあのところで一家団らん、円満にいけばいいやと選んで行く人も多いが、自分の求める短歌の道、俳句の道、仏様の道を極めたいという人は、やっぱり家庭を振り捨てて行く。出家するというのはそういうことだ。
お釈迦様の出家の原因には三角関係があった!
お釈迦様も、インドの王子様で、子供もあり、お妃さんもいた。何一つ恵まれないものはなかったのだが、やっぱり、永遠の生老病死の真実を極めたいがために出家された。
しかし直接のお釈迦様の出家の原因は、お妃さん同士の三角関係のもつれだったのである。何人ものお妃さんが、ああだこうだと、お妃さん同士で嫉妬と確執がすごかった。
それが嫌になってしまって、そんなのから逃れたくて出家したということだ。
もちろん、本質的には仏様の道を、真実の道を極めたいという気持ちがあったのだが、そういう、現世のごちゃごちゃを全部振り捨ててお釈迦様は出家して法を極めたから、今日まで仏教があるわけだ。
哲学者になる条件悪妻を持て!
孔子さんは、「女子と小人は養い難し」と言っている。奥さんと子供は、これはもうどうしようもないということで多分、悪妻だったのだろう。
また、ソクラテスの妻といえば、世界の歴史に残る悪妻だ。
ご主人ソクラテスが言うことを聞かないからというんで、バケツで頭からぶわーっと水をかけて「あ、雷が落ちた、雷雨だ」なんてとぼけていたと、ソクラテスがぐちっている。
亭主にしでかしたひどい仕打ちが二〇〇〇年以上伝えられてきたのだから、すごい。
しかし、そういう悪妻を持ったがゆえにソクラテスは歴史に名を残す哲人になったといわれている。夏目漱石も同じだ。
1章でも紹介したが、ギリシャの有名な言葉で、「若者よ、大いに結婚したまえ。
それがよき配縁ならば、あなたは幸せな人生を送るだろう。それがもし最悪の奥さんならば、あなたは哲学者になれるだろう」というのがある。
やっぱり、哲学とは何かを極めようとしたら、悪妻を求めるしかない。
立派な仕事をした人の奥さんはみな悪妻だ、というわけではない。
けれども、奥さんが美人で、お料理がうまくて、気がきいていて、ご主人が疲れている時にはピアノを弾いてくれたり、マッサージも上手で、仕事の秘書代わりをしてくれる女性だったらどうか。
ご主人は奥さんにほれ込んでしまって、いつもうっとり眺めているばかりで、およそ思索なんてしなくなる。
神様にお参りに行くよりも、ふたりで温泉に行ったり、海外旅行に行っていたほうがいい。
これでは哲学者にも、宗教家にもなれるわけがない。だから、プロ野球界で最高給取りの落合選手の場合も悪妻で、おかげで四〇歳過ぎても働いて、大金をかせいで頑張っていられる。
悪妻でないとどうなるか。吉永小百合さんを射止めた岡田太郎さんは、あれ以来あまり仕事でお名前を聞くことがない。きっと、ご自宅で奥さんをうっとりと眺めておられるのであろう。そういうものだ。
満たされない結婚を通じて、次の向上がある
妥協のある結婚、もの足りない結婚というのは、そのくらい素晴らしい。人間は結婚のために生まれてきたわけではないし、幸せな家庭を作って楽しむために生まれてきたわけでもない。
自分の魂の向上のために生まれてきたのである。
その中に結婚があり、仕事があり、そして健康があるわけなので、健康になるために生まれてきたわけではないし、結婚するために、仕事をするために生まれてきたわけでもない。
魂を向上するための結婚、健康だ。
だから、病気を通して魂がうんと向上できれば、その人の人生はいい人生だったわけだ。
また結婚を通して、あるいは職業でいろいろ悩んで葛藤して、魂が向上できたら、それは、いい人生になるのである。
生まれてきた本質ということを考えれば、そのプロセスで満たされないものがある場合にこそ、本当のものが見えてくる。
だから満たされない人生は、イコール大変いい人生なのである。
