誰がやっても運営が成功する法則はこれだ! ~神柱になれるシリーズ3~(Vol.3)

本番は人間が考えたようにはいかない

では、もし、A、B、Cがダメだったらどうするか。今度は五です。

アクシデントが起きたとき、不測の事態が起きたときのことを考えて、三つまで企画を用意しました。変わり得る要件についてあらゆる場合を考えてシミュレーションをして、「最善の努力とは」というかたちで、三つまでやりました。

しかし、本番になって、 A案もB案もC案にもなかったようなことが起きた場合、どうしたらいいのでしょうか。本番は何が起きるか分かりません。そのときは、当然、責任者が中心になってミーティングをするでしょう。

しかし、打ち合わせするときのリーダーが優秀だったらいいんですけれど、変なリーダーだった場合は、これはもうバラバラになってしまいます。

そのときに、「こういう打ち合わせをする」と決めておけば、不測の事態の対応がすぐできます。不測の事態が起きたときに、どういう話し合いをするかですが、これには鉄則があります。本番で、 A案、 B案、 C案にない想定外のことが起きたときにはどうするかという考え方の原則、ミーティングをするときの原則があるわけです。

キーワードは「最悪なケースなどあり得ない」。私が最高責任者の場合はそうです。では、このヒントに基づいてどういうふうにミーティングをしていくか。

一から順番に考えてみてください。

たとえば、リーダー養成神業をやろうと決めたときに、最初に、祈りに入って祈りに徹しているわけですね。これは単なる儀式ではありません。みんなのために良かれと思って、本当に神様にお祈りしているわけです。

そうして、次に、企画書を作りました。あらゆる場合を想定して、A案、 B 案、C案を作った。これは人間としての最大の努力をしているわけです。

しかし、人間としての最大の努力を超えたものが、次に来ます。最初に、祈りに入り祈りに徹しているのだから、神様が「よし」と祈りを聞いてくれているわけですから、本番は神様が顕現する。人間としてあらゆる最善の努力をしたときに、その人間の努力を受け取って、最高に素晴らしいものを本番で現してくださるわけです。

だから、神様がご発動し、神様が顕現し、受け取ってくださった最高のものが出てきます。そのために、祈りに入り祈りに徹しているわけだから、それが顕現するのが本番です。

四番までは人間の最大の努力ですが、今度は神様の御働きと、人間の努力が融合して最高のものが出てくるのが本番。だからAでもない、Bでもない、 Cでもない、最高のDが出てくるんです。

最高のDとは何かというと、神様と人の合一。 A案、 B案、 C案を作ったときの資料、準備したものと、そのときに神様がお出ましになったアイデア、本番で出てくるものがあるわけだから、これは神人合一しているDです。

だから、Aでもない、Bでもない、Cでもないものが出てきたときは、最悪のケースではなくて、最高に素晴らしいリーダー養成神業になったということです。

Aでもない、Bでもない、Cでもないというとき、A案、B案、C案を作ったときの資料、情報、データ、準備したものが全部ダメになったから、新たに考えるという発想は、本当に虚無主義です。違うんです。AでもBでもCでもない、Dが出てくるということは、A案とB案とC案と考えられた融合形が出てくるんです。

A案の要素とB案の要素とC案の要素と、その本番のプラス・アルファのひらめきあるA、B、Cが融合したかたちをさらに超えたいいものがDで出てくる。だから、A、B、C、無駄なものは何もない。

人間として最大の努力をしたA案、 B案、 C案のアイデアと準備したものを融合して、さらにいいDを出すというのが、本番の不測の事態が発生したときの最高責任者が考える考え方でなければいけない。

それが神の顕現なのです。

「あっ、神様。本番、こうしなさいということだ!これが一番いいということだったんだな」と考えるわけです。

最初に祈り込んでいるのですから、最悪のケースなどあり得ないのです。私にとっては、最善のケースしかない。分かりますか。

これが神人合一した人間の考え方です。祈り込んで神を動かし、人間としての最善の努力をしたときには、本番は神人一体となった素晴らしいものが出てくる。そういうことが分かっていたら、本番で動揺するようなことはありません。最高になると考えているのだから、最悪のケースなんかあり得ないということです。

祈り込んだ結果、神様がお働きになって出した最高のリーダー養成神業の結果ですから。A案、B案、C案にないものが出たら、A、B、C、融合して、本番で出てくる神様のお働きの顕現をプラスして、最高のDをつくるわけです。だから、必ず、「このたびのご神業は最高でした」ということになるのです。

千回やれば千回大成功する秘訣

先ほどビデオを見ていただいた「熊野灘御来光神業」のときは、最後に素晴らしい御来光が出てきました。こんな御来光がA案、B案、C案で出てくるでしょうか。御来光というのは自然現象ですから。本当に神様に祈り込んでいるから、努力しているから、最後は必ずハッピーエンド、最高の感動で終わるわけです。

だから、十回やったら十回成功するし、百回やったら百回成功するし、千回やったら千回成功します。そのために祈り込んでいるのですから、私が責任者だったならば、必ず成功します。失敗したことは一回もありません。

神様のご守護と、神人一体となって運営をしているわけだし、運営すること自体を学んでいるわけです。ですから、一見、失敗であるかのごとく見えても失敗ではないのです。最後は必ず「素晴らしかった!よかった!」というふうになる。そう信じてやるというのが本番のミーティングです。神様が用意し環境だと考える。

「禍い転じて福とする」という考えがありますが、それは人間の努力です。

神様と合一して、最高にするための準備をしているのですから、どんなことが起きても、一見、禍いに見えても禍いではないわけです。

Aでもない、Bでもない、Cでもないという事態は、最高のDにするために神様が演出してくださったもの。だから、本番で最悪のケースなどあり得ない。最善のケースしかないのです。

ですから伊勢の神事でも、海原びらき神事でも、

「いろいろあったけれども、今年はよかったー。感動したー」と必ずそうなります。節分祭でも、大祓祝詞を九回あげましたが、あれがよかったわけです。箱根でも何でも、みんないいでしょう。

去年の伊勢はいまいち太陽が晴れなかったけれど、しかし、夜になって、お月さんが最高だった。それで月界が出てくる、法界・神界が出てくるからそれでよかったんです。考えたならば、昼バージョンの太陽がいまいち晴れきれなかったというDの場合は、実は、夜になってきたら、お月さんがあんなになって素晴らしいDで終わっているわけです。

私が上に立って企画したら、いつも終わりは最高のDです。私が最高責任者だったら全部こうなります。本番でAでもBでもない、Cでもないとなったときは、

「最悪の事態などあり得ない。最善にするために祈り込んでいたから、神様が顕現しているんだ。これはご神意だから、最高のものにするんだー」というふうに考える。

そうすると神懸かってきて、AとBとCの要素を組み合わせて、さらにそれを超えたDが出てくるわけです。

だから、AでもBでもCでもないからといって、ゼロから戻すんではないのです。 A、B、C、と最善の努力をして準備したのだから、ゼロであり得るわけがない。「A、B、C、融合した最高のDをつくるんだ」と考える。リーダがそういうふうにしていくと、みんな明るく前向きに行くから、本当にそうなります。ですから、十回やったら十回大成功、百回やったら百回大成功、千回やったら千回大成功なんです。

本番で動揺しないためには、本当にこれはもう場数を踏んでいくしかありません。しかし、この原則が頭に入っていたら、場数を踏んでいくプロセスの中でそうした感覚が磨かれていきます。どんな運営も、それがやっぱり神人合一の勉強なんです。これが五ですね。

一、神業をやろうと決める

二、祈りに入り祈りに徹す

三、企画書作り

四、企画書は、A案、 B案、 C案の最低三つ考え、準備する

五、最悪の事態などあり得ない。本番はA、B、Cを超えた最高のDが出てくる

本番が終わった後にまずすべきこと

第六段階です。「本番で」があった後、「終わった後で」がありますね。六番目は、終わった後でどうするかです。

最高の本番でした。素晴らしいリーダー養成神業だった。「よかったねー」と。さて、本番が終わった後、次にどうするか。これも鉄則があります。

よくある答えが反省会ですけれど、これはペケ。

現実的にはいろいろまずい点はあったにしても、結果的に素晴らしい神業になったわけですから、それぞれのいいところを見つけて褒めてあげることで、またやる気になって参加していこうと思うものです。

ですから、直会や慰労会というのはいいですね。慰労会は正解ですが、二重丸ではありません。頑張った人をねぎらうことは大切だけれど、人間だけ慰労すればいいのでしょうか。ここがよく抜けてしまうところです。

最初に祈りに入り祈りに徹して、人間として最善の努力をしました。そのうえで本番では神様が顕現して、Aでもない、Bでもない、Cでもない、最高のDが出てきたわけです。

それなのに、人間だけ慰労して、そのときに祈りを聞いてかなえてくれた神様は慰労しないのか。神様は、おおらかですけれど。

だから、最初に祈り込んだのならば、終わった後に、まずするのは報恩感謝。「ありがとうございました。神様のお蔭で大成功でございました」という報恩感謝のお祈りです。

参拝というほどではなくても、神棚に向かって祈っていたなら、神棚に向かって感謝の祈りをささげる。三宝荒神に祈っていたら、三宝荒神のお社に向かって、「ありがとうございました」と。

報恩感謝のお礼参拝、および報恩感謝のお祈りをささげるということは、最初に神様に祈って祈りに徹したのですから当然ですね。初めがあったら終わりもなければいけません。神様は動いてくださったわけですから、まず神様に「ありがとうございました」と報恩感謝のお祈りをささげましょう。

一、神業をやろうと決める

二、祈りに入り祈りに徹す

三、企画書作り

四、企画書は、A案、B案、C案の最低三つ考え、準備する

五、最悪の事態などあり得ない。本番はA、B、Cを超えた最高のDが出てくる

六、報恩感謝の祈り・お礼参拝

ですから、どこか神社に二十一日間祈願したなら、実際は二十二回参拝をするわけです。

つまり、二十一日祈願というのは、本当は二十二日祈願なのです。うち一日報恩感謝が入っています。

そうしたときにどうなるか。終わった後に報恩感謝のお礼参拝をするでしょう。そうしたら、「おお、よしよし」と神様は受け取って、「よかったのう」と言って喜びを分かち合ってくださいます。

そうして、「次は、もっとこういうふうにしなさい。そうするともっとよくなりますよ」というかたちで、こちらから何も言わなくても、心配して神様のほうからいっぱいお告げをくださいます。

こういうふうに、神様に慰労、お礼をしていくと、直会のときも楽しいのです。もちろん直会を先にしてもいいんですよ。たとえば、本番の三日後に報恩感謝の参拝に行って、五日後ぐらいに直会したってもう冷めていますから。

直会は先にしてもいいんですけれど、少なくとも直会や慰労会が始まる前に、遥でもいいから、まず神様に報恩感謝のお祈りをささげましょう。

「神様、お蔭で本番はAでもない、Bでもない、Cでもない、素晴らしいDができました。これもひとえに神様のご守護のお蔭です。そのDのときに、A案のこういうところとB案のこういうところと、A、B、C案の要素を少しずつ取って素晴らしいものができました。このA案もB案もC案も出てくるまでに神様がお智恵をくださったからです。ありがとうございます。ミーティングのときや、下見調査に行ったときにひらめきを与えてくださったお蔭でございます」

実は、A案もB案もC案も、最初に祈りに入って祈りに徹して、それから人間の努力をしていますから、人間の努力の中にも神様のご守護がすでに入っているわけです。

本番はもちろん神様が顕現するわけですが、準備のプロセスでも神様のお智恵で、A案、B案、 C案のヒントが与えられていて、それらが融合したかたちでDが出てくるわけですね。だから、プロセスについてもみんな、「A案のああいうところ、B案のこういうところ、C案のこういうところがよかったですね。ありがとうございました」と報恩感謝することです。

それから今度は慰労会ですが、ここで改めてお礼参拝に行く日取りを決めるとよいでしょう。

「○○さん、よく頑張ったね。A案とB案とC案のこういうところがよかったから、本番ではさらに素晴らしいものが出てきたんだよね。これも最初にお祈りした神様のお蔭だね。報恩感謝のお礼参拝に行きましょうよ」というかたちでいつ行くか決めます。そして、その報恩感謝のお礼参拝に行った後に、七番目として反省会をやるわけです。

[本番終了後の例〕

報恩感謝の祈り

直会・慰労会

お礼参拝

反省会

進歩向上のための反省会のやり方

なぜ、本番が終わってすぐに反省会をやるのはペケなのか。

本番が終わった後で、まず、報恩感謝のお礼参拝、あるいは報恩感謝の遥拝のお祈りをするでしょう。その後、直会するなり、慰労会です。

一生懸命、苦労、努力したことに対して、「よかったですね」と慰労会をしたり、打ち上げパーティーをしたりします。よく動いてくれた皆さんに「○○さんは、ここがよかったね。みんなも本当によくやったね」とねぎらってあげなければ、人間、やる気がしなくなります。

そのときに、反省会ではダメなんです。「今度は、ああしましょうね、こうしましょう」ということは、少しぐらい出てもいいんだけど、「あれはまずかったね」というのはよくありません。反省会は、できたら報恩感謝のお礼参拝の後です。

二十一日祈願をした場合は、二十二日目にみんなで報恩感謝のお礼参拝をして、その後、反省会をするわけです。

そうするとどうなるかというと、反省会は反省で終わりません。必ずそのときに、「次回は、こんなことをしたらどうだろうか」「あんなのはどうだろうか」ということが出てきます。

反省会とは「新たなるアイデア」「理想のかたち」「本来こうすべきだったなという反省点」、本当は反省と向上なんです。それだけ運営の中で学び、技術も進歩しているわけですから、反省と向上なんですよ。

七番目には反省会があるんですけれど、参拝が終わっていますから、神様がまた新たに神懸かります。神人合一反省会なのです。

一、神業をやろうと決める

二、祈りに入り祈りに徹す

三、企画書作り

四、企画書は、A案、B案、C案の最低三つ考え、準備する

五、最悪の事態などあり得ない。本番はA、B、Cを超えた最高のDが出てくる

六、報恩感謝の祈り・お礼参拝

七、神人合一反省会

六番目に、終わった後に必ず報恩感謝のお礼参拝をして、七番目に反省会をします。

すると、すぐに神様はお懸かりになるから、「今度は、新たにこんなことしてみないか」というアイデアが出てきます。理想の完成した「こんなかたちのリーダー養成神業はどうだろうか」ということが浮かんできます。自分の人知プラス神様が懸かるからです。

「あのとき、ちょっとまずかったよね。本当はこうすべきだったよね。まあ、最終的には良かったんだけど、途中ちょっとこういうまずさもあった。だから次回はこういうふうにしようよね」と、反省と同時に向上するんですね。

反省と同時に進歩向上しているわけです。この反省会のときにもう一度、「あのときは、君、頑張ったよね」という褒め称えがあります。

すべてを活字に残して締めくくる

次は八番目です。さあ、何でしょう。本番が終わって、お礼参拝をしました。神様をまず慰労して、人間を慰労して、七番目に反省会でいろいろなことが出てきました。

では、八番目はどうなのかというと、神様と一緒になって慰労会して反省会をした中で出てきたいろいろなものを、報告書というかたちの中でまとめて記録しておくわけです。活字ですべての反省点を残しておくこと。

ここで大事なのは、なぜその反省点が起きたのか、なぜそういう失敗が起きたのか。「反省点はこうだったね」だけではないんです。「なぜ反省するような事柄が起きてきたのか」という理由があるわけです。 Why (なぜ)、 Because なぜなら)の理論です。

ですから、「活字ですべての反省点、およびその反省すべき点が起きた理由を分析して、改善策を明示、提言、提案して残し、企画書に添付する」と。これが大事です。ここまで来なければいけない。

そうすると次回やるときに、非常に役に立ちます。

その反省すべきところの理由の報告書というのか、始末書というのか、結末書というのか。名づけてどういうべきなのかな。企画書に対して報告書かな。反省改善報告書だ。反省改善報告書とでも名づけようか。八番目は、反省改善報告書作り。

一、神業をやろうと決める

二、祈りに入り祈りに徹す

三、企画書作り

四、企画書は、A案、B案、 C案の最低三つ考え、準備する

五、最悪の事態などあり得ない。本番はA、B、Cを超えた最高のDが出てくる

六、報恩感謝の祈り・お礼参拝

七、神人合一反省会

八、反省改善報告書作り活字ですべての反省点、およびその反省すべき点が起きた理由を分析して、改善策を明示、提案して残し、企画書に添付して残す

こうすると、二回目のリーダー養成神業は、さらにもっと素晴らしいものができるわけです。

議長がどこかニューヨークに出張していなくなろうと、副議長が沖永良部島に行こうと、ちょっと資質の劣る人が議長になっても、前回やった情報が全部残っている。先人たちの息吹と智恵の足跡が残っているわけです。そして、さらに反省点と改善点まであるわけですから、それを超えたものが次に出てきます。

前回の議長や副議長も、努力し、活躍して貢献したことが歴史に残されていきますから、自分たちの努力が無駄なく次につながっていくわけですね。そこまで考えて、リーダーは、毎回毎回、企画書を作り、反省改善報告書を作っていく必要があります。それがその組織の進歩、組織の向上、組織の伝統になっていくわけです。

そういうふうにして、学長や校長がどうであれ、毎年毎年、灘校はずっと灘校の伝統が引き継がれていく。開成でも武蔵でも。東大は東大で、大学でも高校でも一つの組織でずっと動いていくわけです。

このやり方ができれば、年を追うごとにノウハウが蓄積されて技術が磨かれていきますから、やるごとに内容が充実していきます。海原びらき神事も、伊勢の神事も、箱根の神事もそういうふうにしています。最近は、少し反省向上の活字化ということが、甘くなっているかもしれませんけれど。

弘道布教部も、たとえば神書流布にしても、潮干狩りにしましても、A案、 B案、 C案を作って、実際やってみた結果を反省改善報告書にピシッと残していけば、布教部長が代わろうと、副部長が代わろうと、担当する人間が代わろうと、全部、それを見たら一目瞭然です。

いちいちビデオを見たり、前はどうだったんだろうかと調べなくても、それを見たら一発で分かる。だから、何年度版、何年度版というかたちで、企画書に反省改善報告書を添付して、残しておくことが大切です。

私の絵でも、「どうしたらこれを表現できるんだろうか」というときに、今まで描いた絵がずっと残っていますから、絵の技法も向上していくわけです。水墨画でもこういう表現できないだろうか。あるいは、絵をカラーにしたらどうだろうか。書と絵が融合できないだろうか。もっと違う融合形ができないだろうか。

芸術作品というのはそうやって積み重ねをしていって、どこまでも向上していくものです。運営も芸術的な運営というのは、芸術的なほど見事で素晴らしいというだけではなく、企画書や反省改善報告書というかたちで、絶えず作品が残っていくわけです。だから、毎回毎回、回を追うごとに素晴らしくなっていくのです。

そういうことを考えて初めからやっていく人がいたら、そのエリア本部や支部には、次にずーっといいものが残っていきます。

何をやる場合でも原則は同じです。ブラインドゴルフ(盲人ゴルフ)は、福祉活動として、私が初めてやりましたけれど、そういうふうにある程度、ここに至るまでの記録が残っています。完璧とはいえませんけど、 A案、 B案、C 案、と企画を考え、それを活字で残しておかないと後の人は分からないでしょう。

そうすると、組織がいい意味で独り歩きをします。先人たちの上に積み重なって、その上に乗っかってプラスアルファでやるわけですから、先人たちの
努力が無駄にならない。自分の努力したことが後に生きるわけです。

「反省改善報告書」作りの注意点

第八段階の一つのケースで気をつけなければならないのは、たとえば「あのときは失敗した」「なんで、ああいうことが起きたんだろうか」と考えたとき、いろんなケースがありますが、その指示した人の配置が問題だった場合です。

たとえば、駐車の誘導係がドジだったというようなケース。あるいは、「この人がちょっと言葉に角があるので問題が起きた」とか、事前に組織図における適材適所でなかったということがあります。

そうした場合、「この人がいたから失敗した」「次回からこの人はダメ」というように記録に残していくのはトラブルのもとになります。本人が見たら、「なんで私がダメなんだ」と言うかもしれません。ですから、人事に問題があった場合は、「何々さんは、よりこちらのほうが適切な活動ができたんじゃなかろうか」というふうに、やや遠まわしに言葉を使います。

活字というのは、ずっと末代まで残りますから注意が必要です。その人の子孫が将来、その記録を見ることも考えられます。最近、入って歴史を見たら、「うちのお父さんのことが、こんなにボロクソに書いてあった」と。あるいは、お孫さんが見た記録に、おじいちゃんやおばあちゃんのことが書いてあった場合、どう思うかです。

「よりこちらのほうが、適切な動きができたのではないだろうか」というような表現にすると、活字に残してもきれいですよね。

だいたいの反省点というのは、その組織図が適材適所でなかったという場合、それから事前にもうちょっと調べておくべきだったという反省点、事前調査が甘かった、聞き込みが不十分だったという場合がありますね。

それから、よく言われるのが「報・連・相」です。ホウ・レン・ソウ、ホウレンソウというのですが、ホウレンソウが足りないから鉄分が足りない(笑)。じゃあなくて、報告、連絡、相談です。この頭文字を取りまして「報・連・相」と言うわけです。

「なんでもっと早く言わなかったんだ」

「あ、すみませんでした」

「ホウレンソウをきちんとしろ!」

そういうことがよくあります。何か問題があったとき、自分の考えだけで判断せず、報告、連絡、相談することで、より適切な対処ができるわけです。先ほど言った注意点。「○○さんにやってもらったほうがよかった」「○○さんはよりこちらのほうが適切だった」というふうな、いい言葉でしょう。

しかし、やはり最初の組織図を作って「誰が何をするか」というときに、適切な人を配置すると、現場で臨機応変にいくときにうまくいくわけですね。そして、反省点は反省改善報告書として企画書とともに添付していくこと。これを積み重ねていけば、やればやるほど、エリア本部でも支部でもいい運営ができます。

不精をしたら何も残らない

皆さん、お手元の今年の初釜神業のご神示を見てください。


初釜神業 平成十一年一月十五日
皇大神社(現・皇大神御社)にて

今年は汝次第である。焦らずじっくりと本質を見よ。

平成十一年初釜神示


人気の落ちる理由は、不精よりない。

不精を改め、精進に励め。

繁栄すること限りなし。

白隱


人間は行動ではない。その志す所でもない。

日々の言霊である。

明るく発展的で、伸びやかで愉快なのがよい。

吉運を呼び、人なごみ、一切は発展する。

天神


茶心とは不精を戒める豊かさにあり。

白隠


豊かさや茶の湯で締まる小正月

東州


「今年は汝次第で」――汝って私のことですよ。「焦らずじっくりと本質を見よ」だから、企画・運営というものの本質的なところを、皆さんにこうやってお話ししているわけです。

皆さんはリーダーですから、これはリーダーを養成する講座なんですけど、たとえば、「もし、リーダー養成講座をするのならどうするか」ということの本質を皆さんに教えなければいけない。皆にもその本質を知ってほしいわけです。

「人気の落ちる理由は、不精よりない。不精を改め、精進に励め。繁栄すること限りなし。」

たとえば、企画書をA案、B案、C案と作って、本番は素晴らしいDになりました。しかし、次に終わった後の報恩感謝の参拝を不精してしなかったならば、反省会がいまいち盛り上がらないし、たいして反省にもならない反省会で終わってしまいます。

それから反省会をしても、この八の活字ですべての反省点、およびその反省すべき点が起きた理由を分析して、改善策を明示、提案して残し、企画書に添付して残す」ということを不精しますと、後に残りませんから組織は衰退していきます。不精せずに、 A案、 B案、 C案を作り、参拝した後、反省して改善点を考え、それを活字に残していく。

ここまでやれるだけの徹底ぶりが必要です。不精を改めて、手間暇をかけていくことが、繁栄していく組織の運営になるわけですね。

ですから、不精な心にむち打って、その都度その都度、活字化していくこと。企画書作りでも、A、B、C案をちゃんと作って活字にすれば、間違いなく全員に行き渡ってみんなが動けるわけです。反省会もきちんとすること。反省したところも活字に残すことで行き渡っていきます。

それをしなかったら、一部のリーダーの力量があるところは、そのときはうまく行くかもしれません。でも、リーダーが代わっていなくなってしまったら、次の人間で、また一から繰り返しでしょう。ビデオやテープは時間がかかりますが、活字にして残してあれば、一目瞭然で全部分かるわけです。

私の企画運営法の原点

こういうことを、私がなぜ皆さんに言うかというと――

私は高校一年生、十五歳のときに生徒会の役員になりました。「生徒会をやろう」という気はなかったのですが、生徒会の役員を決めるのに、誰も立候補する人がいなかったのです。

どこかの公園に集まったときのことですが、学級委員長が、「誰か生徒会に立候補してください。誰かいませんか、誰かいませんか」と言うのです。「誰かいませんか。本当にいないんですか」

すると、手が勝手に上がろうとします。「あっ!ダメだ」と手を抑えると、今度は足が上がる。足が上がるのを必死に止めようとしていたら、手が上がっていました(笑)。

「えー?」

「じゃあ、半田君、どうぞ」

「手を挙げたでしょ」

そういうことで、立候補することになったわけです。

そして、選挙に出て当選して行事委員長というポストに付きました。行事委員長というのは、その年に初めてできた役職です。つまり、私は高一で初代行事委員長になったわけです。私は初めてできたところをいつも担当させられます。

そして、ファイヤーラリーを企画することになりました。わが鳴尾高校では伝統的な行事として、毎年夏にファイヤーラリーというのをやっています。全校生徒が集まって火を囲んで、フォークダンスをしたり、ジェンカを踊るとか、いろいろなことをします。

今、海原びらきと伊勢の神事で火入れの儀がありますね。火をともす瞬間を弓でやったり、いろいろあるでしょう。そういうふうなことを高一のときやっていました。今日の海原びらき、伊勢の神事の準備を高一からしていたようなものです。

そういうことで行事委員長になった私は、いろいろ考えてファイヤーラリーの企画書を作って、それを生徒会の顧問の先生のところに持っていきました。するとその先生は、

「ああ、これからだね、企画は」と言うわけです。

どういうことでしょうか。

「いや、先生。これ、企画したんですけど」

「いや、君。企画はこれからだね」

そんなやりとりがありまして、生徒会長を中心にファイヤーラリーのミーティングが始まりました。新しい生徒会長は二年生です。私は一年生で行事委員長です。そこに「おう」という感じで、高三の先輩が出てきて、先生を交えてミーティングをしました。

その先生は、もう何十年も生徒会の顧問の先生をしているんですけど、先生いわく、「鳴尾高校では二十何年ファイヤーラリーをやっているけど、今まで一度も、大成功だった、完璧だったというようなことはなかった」とのこと。「しかし、去年初めて成功した」というのです。そのときの生徒会長が、ミーティングに出ていた高三の先輩でした。

「じゃあなぜ、去年初めて鳴尾高校のファイヤーラリーが大成功したのか、その理由は……」

そう言って、先生とその高三の先輩が見せてくれたのが企画書だったのです。生徒会長ほか、みんなそれぞれの役割が決められていて、ものすごく細かく分単位で、何時何分には誰がどこで何をしているかが、全部分かるようになっています。

阪神電鉄のまくら木を持ってきて、それに石油をかけて火をつけるわけですが、その細かな段取りが全部書いてあります。懐中電灯、テープ、爆竹などの備品がどこに置いてあるかということも、全部記されていました。

さらに、このように企画したけれども、こういうところとこういうところが失敗だったという反省点と改善点が、全部書いてありました。その前の年の生徒会長ほか、生徒会の人が残してくれたものです。それに基づいて、去年初めて成功したということでした。

そして、その次に、去年の資料を全部見せてもらいました。その前年の反省を踏まえて、初めて成功したという昨年のファイヤーラリーの企画書、および運営書です。これも何十ページもあって、しかも小さい字でビチッと書いてあります。

それから比べると、私がいろいろ生徒会長たちと考えたものというのは、本当に一枚か二枚の企画書でした。ですから、本当に「まだまだ準備はこれからだね」と言われるのは、無理もないと思いました。

しかし、何も言わないのに考えろといったって、高校一年生の私には、何の経験もインプットもないわけです。「そんな、やったこともないことを企画しろといったって、やれるわけないじゃないか。去年やその前の年のことがあるなら、最初に言ってくれたらよかったのに」と思いました。

しかし、そのとき、「これも尊い神様のお導きに違いない。将来のご神業にきっと役に立つために、今こうやって私に教えているのに違いない」と、高一のときに思っていたんです。本当にそうですね。

そして、今度はこれにさらに足していこうということで、打ち合わせを重ねました。去年は成功したのだけれど、ここがまだまずかったという改善点が、まだまだありました。たとえば、「爆竹をパーンと鳴らすのが五秒早かった。

あれが、もうちょっと五秒後にいかなきゃいけない」とか。私は高一でしたから、去年のファイヤーラリーは見ていません。しかし、活字に残された資料を見ながら話を聞けば、だいたいイメージがわかります。

セレモニーというのは秒単位で進んでいきますから、ちょっとでもタイミングが狂うと間が抜けてしまいます。爆竹を鳴らすのでも、火を入れた瞬間にパチパチパチと鳴るように、ストップウオッチを見て、「スリー・ツー・ワン」という声を聞きながら、「行け!」いう感じで爆竹をポンと投げ込みます。

モタモタする人がしたら失敗しますから、敏捷な人がしなければいけません。

そういう人の配置も大事です。

しかし、それでも本番で何があるか分かりませんから、「もし、爆竹が失敗したら君がやるんだ」ということで、爆竹係A、爆竹係Bというのもつくりました。よほど途中で心臓発作が起きてパタッと倒れない限り、絶対成功するように、A案、B案、最悪の場合はこうしようなんて決めていきました。

それで、その年のファイヤーラリーは、前年も成功だったんですけれど、さらにもっと大成功でした。私は行事委員長でしたが高一でしたから、高二もいれば、高三もいて、よく分からないでモタモタしてると、先輩たちにあっちでしごかれ、こっちで怒鳴られて、そういう部分では苦しみました。

ですが、私は野性的に育った人間ですから、現場ではよく活躍していました。高二の先輩、高三の先輩、先生方も協力してくれて、ファイヤーラリーは大成功でした。

そのことを踏まえて、私はすべて記録に残しました。それから、高三の終わりまでずっと生徒会の役を、毎年、兼任、兼任で五つか六つしました。新しいことばかりやらされましたけれど、毎回やったことを全部活字に残したわけです。

ずーっと生徒会室で、「これはこうすべきだった」「次回の行事委員長はこうしなければいけない」という改善点を含めて、パイロットの万年筆でレポート用紙に百何十ページ書きましたね。ファイヤーラリーでも先輩が残してくれたものよりも、さらにもっと詳しいものを私が作りました。

そして、二代目行事委員長が来たときに引き渡しました。初代の行事委員長だった私が、在任した間のすべての記録で、百何十ページのものです。

それが今、何十年たっても、鳴尾高校で、初代行事委員長が残してくれた「行事委員長の記録」「行事委員長の心得」として、引き継がれているわけです。卒業して五~六年たって、学校にぶらっと行ったとき、「初代行事委員長のが、今でも残っています。みんな読んでいます」と言ってくれました。

行事委員長になっても、最初は何をしていいか分からないわけでしょう。そういうとき、私の記録を見たら全部わかります。二代目からの行事委員長というのは、私が苦労したことが全部活字に残っているから、「本当にあのお蔭で助かっています」「何をどうしていいか分からないのに、行事委員長の記録というのを見てアウトラインがつかめるから、次もできるんですよ」と言うのです。

それでずっとファイヤーラリーも何回やっても、毎年成功しているのです。

運営の中に神人合一の道がある

企画・運営の原則について細かくお話ししてきましたが、私は何もないのにこんなことを神様からのひらめきでやったわけではありません。十五歳のときの行事委員長、高校一年生のときから、ずっと生徒会でこれをやり続けています。

活字に記録を残していなければ、当然、二代目が苦労する。学校の伝統行事として、年を追うごとにいいものができていくというふうにならないわけです。それを不精する人だったら、二代目、三代目が、また一から苦労しなければなりません。

ですから、訳もなく、意味もなく、突然ひらめいて言うわけではない。もう、全部体で実行してきたもの、体でやってきたものです。

もちろん、このときは、それだけの神懸かりの法とか、二十一日祈願とかは知りませんでした。神様との交流も全然できてなかったときです。でも、一生懸命、朝な夕な神様にお祈りしながらやっていました。それは変わりません。「これも尊い神様のお導きに違いない。これが将来のご神業にきっと役に立つに違いない」

そう信じてやっていたわけです。

そして、本当にそのとおりになりました。

鳴尾高校は県立高校ですけれど、全学年で二千四百人ぐらい生徒がいました。二千四百人が一斉に動くというセレモニーというのは、相当準備しなければ成功しません。

セレモニーというのは数秒単位で、早かったり遅かったりすると間が抜けてしまいます。ただ、あんまり細かく考えすぎると現場は動きにくくなります。ですから、ある程度アバウトであっても、「ここだけは失敗できない」というところは、やはり相当詰めて考えます。 A案、 B案、 C案を準備しておかないと、本番で起きたときの対応ができません。

本番に何かあったときに「こうする」ということを考えておかないと、本番では思いどおりにいかないのです。人間が企画したようにいかない、ということです。ちゃんと、神様のお導きでしょう。

私は、こういうものを高校一年生のころからずっとやり続けています。大学に入ったら、またESSでやっておりますから、ずっと今日に至るまで休みなくこれをやり続けています。会社の経営も延長線上にあるのです。

しかし、そういうことをした経験がない人は、聞いて初めて分かる、習って初めて分かるわけです。

海原びらき神事、伊勢の神事、箱根の神事、全部同じようにやっています。当然みんなも、エリア本部の行事、支部の行事、ヤングスターズ・エンゼル会、レディース・エンゼル会もやはりこの運営の仕方でやっていくといいですね。

今は、融合形で神人合一の道としてあるわけですから、その経験した要素に加えて、もっと論理的に、手法が進歩しています。高校のころはまだこれは非常にプリミティブな原始的なかたちだったのですが、今はもっと進歩しております。そういうことです。