【第二章】神は身の内にあり(昭和59年8月18日)
【深見先生】パート2。今日、出ておりますのは、「神は身の内にあり」。本日のテーマはこれであります。
植松先生が以前、あるお知り合いの方がいらっしゃいまして、その方が「神様の前ではこういうふうにするのよ、朝十時からこういうふうにするのよ。
朝の十時と夕方の六時がね、神様と交流するのに一番いいお時間なんですよ」というようなことを言われたそうです。ところが、朝の十時っていいますとご主人がお勤めに出まして、お掃除とかお洗濯とか、それからお昼ご飯の準備とか、お片づけもので一番主婦にとって忙しい時間でございまして、バタバタバタバタと忙しい。夕方の六時っていいますと、ご飯のお支度で一番忙しいと。
なんで神様にこういうかたちでやらなきゃいけないの。
お参りしなきゃいけないのはわかってても、そういう時間でなんでやるんだろうかと思って、植松先生が非常に激しく煮詰まりまして、煮詰まって煮詰まって煮詰まりまして、神様にそういう疑問点を投げかけたわけですね。そうしたら、御神前から「神は身の内にあり」という、これが一言、ポツンと。瞬間にこの言葉の奥にあるものを受け取られまして、一週間ほどポーッと、ポーッていいましても気分はフワフワしまして、神様に直接御魂返しをされてね、潜在意識、御魂の部分がパッと開いたんだと思うんですね。
この「神は身の内にあり」と申しますのは、これも右からも左からも何種類も何十種類もお話が出来ると思うんですけども、簡単に「神は身の内にあり」なんていう言葉でございますけれども、簡単であればあるほど解釈というものは無尽蔵に出来るわけでございます。
えー、守護神、守護霊の話が先程ございましたけれど、「神は身の内にあり」ということで一番簡単に言いますと、自分自身の中の神様の部分、御魂ですね。御魂というものが身の内にあるんだよと。
だから、よそ様の宗門宗派の教祖さんに降りた仏様とかそういうふうなものを一生懸命拝んでいかなくても、自分自身の中に自分自身の神様がいるじゃないかと。
まあ、守護神、守護霊もありますけども、この場合はその人の御本霊ですね。「僕はなんで考えるんだろう。なんで考えているという僕がいるんだろう」というふうに考えているところのその人ですね。
それが、その人の肉体から感性から、あらゆるものを司っているわけでして、その御魂というものは身の内にあるんだよと。「神は身の内にあり」と。自分自身の身の内にある神様、自分自身に降りてる神様がいるじゃないかと。
それは別に、十時であろうと六時であろうと何時であろうと、礼拝する時間なんか関係ないと。礼拝する場所も関係ないと。自分自身が動く神社じゃないかと。
これは以前にもお話ししましたように、言霊で申しますと、人というのは「霊止」であると。この霊ってのは、霊障とかそういう霊じゃなくって目に見えない魂、神様の神気。こういう御魂が、霊が止まっているから人なんだよと。
神様と人との間に間が出来てるのが人間だと。
これを日本の神道で申しますと、鎌倉時代の度会家行の、度会神道の中にもあるんですけれども、これは昔からの神道の思想にあるんですけれども、人間は神様の分魂を持っているんだと。
これはもう、神道の基本的な考え方ですね。肉体があるんですけど、その肉体の中に神様の分魂を宿していると。
前にも言いましたように、キリスト教では、イエスは神の子であると。イエスは神様か選ばれた神の子であるというわけですね。神の子というふうに言われているんですけど、神の宮ということは言われてなかった。
いわば、神の宮ということですね、この「神は身の内にあり」ということは。「人は祖に基づき、祖は神に基づき」と。人間はご先祖さんから生まれてきているんだ、ご先祖さんは神様から生まれているんだというので、人は祖に基づき祖は神に基づきというんですね。
ですから日本人は昔からご先祖さんを大切にする。ご先祖さんのご先祖さんは神様なんだと。神様は、ご先祖さんの延長線上にあるんだと、これが先ほど申し上げましたような氏神様思想ですね。
人は祖に基づき祖は神に基づきと。非常に祖先崇拝というのがありましたので、仏教が日本に入ってきたときに、お葬式に、祖先を崇拝するという日本人の習性に仏教が巧みに入ってまいりまして。
前に言いましたように樒とかお線香とか、全然原始仏教にもございませんし、中国の仏教にも全然ないわけでして、インドの坊さんが、お経をしたりお参りをするときに、非常にあそこは虫が多くてね、ごみごみしてますので、ハエとか蚊とか、毒虫が来ますので、あの樒というものは虫除けなんですね。
樒を立ててお葬式するって言いますけども、あれ、虫が来ないようにすると。お線香も言わば蚊取り線香、ハエや蚊をあの煙で払う。
お経上げるのがやり易いように焚いてただけでして、それをお葬式のセレモニーの中に採り入れたわけですね。
仏教の坊さんが、日本人の中でどうやって仏教を習慣化していこうかというときに、昔からある、「人は祖に基づき、祖は神に基づき」という、これに目を付けまして、入り込んできたわけですね。
我々はですから神の子であると。御先祖さんが神の子で、御先祖さんの子であるから要するに神の子なんだと。であると同時に、キリスト教は、イエス・キリストは神の子だけども、それ以外の人を別に神の子というわけではないと。
造物主から造られた非常に罪の多い存在なんだと、女性は出産を、男性は労働という苦しみをエデンの園から出たことによって課せられたんだと。ですけれども、日本の神道の場合は、今言ったような形で、神の子だという思想が昔からあるわけですね。
それと同時に神の宮だと、神様の分霊分魂を宿していると。 だから、素直に素朴にやると、自分自身の内部に神の分霊分魂を持っているので、神様と一体となっている。これを神人合一といってるわけです。そして、自分の御魂様ってのありますね。
ここで御魂返ししまして、自分の分霊分魂、神様の御魂というものがパッと御魂返しで開きますと、天界にいる御本霊の御魂がウワーッと来るわけです。これは守護神、守護霊じゃありません、守護している神様とか御先祖さんじゃなくて、天界の自分自身の中にある神様のもとの神様ですね。
この方が、ワーッとこう一体となるわけです。自分自身のもとになる神様と一体となる。これを神道では、「みこともち」って言うんです。
ですから、真にここで出ている神人合一は、守護神、守護霊さんに導かれていますけれども、導かれているのはあくまで導かれているわけであって、本当の自分というものに目覚めてパッと開いたときに、天界の御本霊様と合体するわけです。
ですから時々来ますね、その人の御魂がフワーッと開いたいいお花の香りとかね、オリーブの香りが来たりしますよね。フワーッと、御魂の匂いですね。
そうしますと天界には、分霊分魂ですから、もとの御魂がいるわけです、大神霊がものすごくでっかい大神霊がいらっしゃるわけですよ。天照大御神様って言いましても、あの太陽の大きさは地球のね、何十倍ですか、何百倍ですか、あれが全部そうなんですから。
天照大御神の御魂を受けておられますねなんて言いましても、あれだけの大きな太陽がズボッと来たら火傷しますので。
分霊って言ってもね、三次元じゃありませんから、大きい小さいは伸縮自在でございますけれども、たとえていうなれば、それだけ御神霊ってのは大きいわけですよ。
その大神霊が、わーっと来た場合というものは、文字や言葉を乗り越えまして、これはもう本当に感激するもんですね。
身の内の神と、こういう形で一体となってきたら、人が神か、神が人かもうわからないと。神様か人間か、人間か神様かって、こういう形でその人と同じ姿となっている。
人間は人間なんですけど、もうその御神霊と一つにこうなって、神様が人間か、人間が神様かもうわかんないと。そういうふうになるのが本当なんですよね。で、その人の御魂、「神は身の内にあり」というその御魂、分霊分魂のその人の御魂とはどういうものなのかということで、植松先生が神様に聞きました。
「御魂とはどういうもんですか」と。「御魂とは見たままだよ」と。「姿とは”す”の型だよ」と。こういうふうに教えられたんですね。
どういうことかと言いますと、その人の御魂は、いい御魂か悪い御魂か、どういう御魂かと思えば、見たままですと。本当に清々しい、美しい顔をしてて、何とも言えないような高貴な方のは、高貴な御魂なんだと。
一見なんの変哲もないんだけども、どこか神秘的な何かがあるなっていう感じは、どこか神秘的なものがある御魂なんですね。
そして、最終的に、その御魂がフワーッと割れて天界からすごい御本霊がいらっしゃって、本当の神様がいらっしゃって一体となったら、本当にその人の最高の美しい姿になります。こういうことを言ってると思うんですね。御魂とは見たままだよと。
姿というのは”す”の型だよと。その人の中に〝す〟があるんです。まあ、このということもございますし、もっとこの”す”というものは、いずれもっと詳しくお話ししますけどね。
“す”についてっていうことでも、一時間ぐらい講義ができるぐらいですので。えー、その人の中の一番高貴な部分の”す”の部分というものは姿ですよと。
大きながっちりしたような形で自然に備わった威厳というのは、その人の”す”の型を表してる姿ですよと。御魂とは見たまま、姿とはす”の型ですよっていう、これが植松先生に神様が教えられた大事な、ここでよく出てくるタームですね。
御魂とは見たまま、姿とは”す”の型だと。これは、どういうことかと言いますと、一番最初に人間が作られまして、世の中に出てきたときはですね、最初神社っていうのはなかったわけです。
それから、ストーンサークルとかね、ピラミッドとか、そんなものもなかったわけです、太古は。神社もなければ、寺院もなければ、仏像もなければ何もなかったわけですよ。人間の形はしておったんですけれども、人の姿をとった最初の神様は天忍穂耳命であるとか、アダムとイブがね、最初の人間だと言われてますけれども、そのもっと前の神代の時代というものは、神社も何もなくって、人の格好してたのです。
神様の格好に似せまして人間が作られていますので、この人間の格好が、そのままがもう神様なんだ。
それで、おかしなことに日本の言霊で見てみますと、「身体」っていうんですけど、これは「神体」。
面白いですねえ、最初の御神体というものは身体なんですよね、不思議なことに。今、神社でパチパチと手を合わせまして、こうお辞儀してパッと上げますと鏡がありまして、何が映ってるかと言ったら自分の姿が映ってるんですよね。
ずっと前にお話ししましたように、自霊拝というお話、日本神道のお話ししました時に、自らの霊を拝すと。天皇様が鏡を見ましてね、自霊拝する。自らの霊を拝む、自分自身を尊ぶと。自分自身の尊い神様の宿られるところだから、大切にするんだと。自分の身体というものは、御神体なんですよと。
ですから、スーツを着たり、それからタキシードを着ますと身がピシッと引き締まりまして、その人の中のそういう部分が出ますので、そういう神様がいらっしゃる。
ぼろぼろの格好しておりますと、ぽろぽろの格好になる。救霊の時、何度か目撃した人がいると思うんですけども、もう霊界の低いところに行きますと、ぼろぼろの服着てます。
天国界の上の方に行きますと、綺麗なお洋服ね、おでこにね、冠にこう宝石付けたり、体にね、きれいなお洋服のサラッとしたの着たりしてますでしょ。綺麗なお洋服着てます。そういう表現されてるわけですね。そういう姿となって、美しさとか汚らしさとか。
洋服も汚らしいですよ、ぽろぽろですよ、地獄の上の方に行きますと。下の方に行ったら、もうそんな、洋服なんてものありませんから。
もうそんなものを通り越して。まだ洋服あるだけましですよね、衣も何もないんですよ。
そのように、太古は人間の体がまさに御神体であったわけです。神様と一体、神人合一の時代だったわけですね。神様が人間か、人間が神様かもうわからないと。神様がいただけで、人間というふうな感覚がなかったわけです。
これが黄金時代と言われる時代でして、それがまあアダムとイブが、知恵の木の実を食べることによりまして、エデンの園から追放されましたというふうに旧約聖書に出ておりますけれども、ああいうふうに分別の知恵ですね、右か左か、プラスかマイナスかという分別の知恵を、人間が発達することによりまして、神様と人間が直接にあった時代から、こう離れてきたわけです。
人間というものと、神様というものが、離れたわけですね。
それで神様が離れたので、最初に出てきましたのが、神籬、磐境。これがストーンサークルとか、ストーンヘンジとかって言われるものでして。
あの天の岩戸開きのときにね、天児屋命様が、こういうふうな葉っぱ、木にね、しでを付けますね、あの半紙のひらひらを。あれが神籬なんです。
その神籬に御神霊がお降りになると。磐境というものは、このストーンサークルと岩のこういうふうな格好の所に御神霊がいらっしゃると。神籬、磐境というのが古神道にありまして、この神籬、磐境というものが発達しまして、お社ができまして、神社ができてきたりしてきたわけです。
この磐境とか神籬というものが出てくる前は、お山自体に神様がいらっしゃると。一番古い形ですね。
