深見東州の土曜神業録1(Vol.5)

【第三章】神霊と一つになる方法(昭和59年10月13日)

【深見先生】昭和五十九年の十月十三日。今日は「神霊と一つになる方法」。

興味のある分野ではなかろうかと思います。いかがですか、皆さん。神霊と一つになれる方法。

【西谷先生】いいですねえ。

【深見先生】いいですか。それでは、神霊と一つになる方法というので、お話ししたいと思います。

前にも申し上げましたように、修業方法には二種類あると。大きく分けて後天の行と、先天の行があるとお話ししました。言いましたね。後天の行とはどうなのかというと、ヨガとか、山伏さんとか、座禅もそうなんですね。後天的な肉体とか、とにかく一つひとつテクニックを勉強していきまして、上に上がっていって、主に顕在意識を朦朧とさせると。

もう呪文呪文呪文で、瞑想法なんていうのは、こう自分の方から神様に近づいていく。

先天の行とはどういうものかといいますと、自分をなくすと。老子の教えの中に、「学するものは日に日に益し、道するものは日に日に損す。損して損して無為となす。無為にして為さざるはなし」と。

どういうことかと言いますと、学問する人、勉強する人というのは、「あ、これが有益だ。非常にこれはメリットがある。こういうものを覚えておこう。

今日もこういうふうに勉強したとノートに書いておこう(笑)。勉強になった、ためになった、有益だ」と。そういうものを学問する人は、毎日毎日、メリットのあるものを吸収します。

しかし、道を志す者、老子の言うところの道というものを体得しようという人間は、まあこの神人合一の道もそうなんですけど、どうかと言いますと、日に日に損すと。

別に財布落とすとかって言うんじゃございません。これは自分自身で地位や名誉やお金や、ありとあらゆるものを捨てていくと。仏道に従する人もそうですね。

これを日本の『古事記』では、伊邪那岐命が黄泉の国に参りまして、嫁さんどうなってるのか、見ちゃいけないというのを見まして、うわーっと。

それで逃げて行ったわけですけれど、見ちゃいけないというのを見たなと言うんで、伊邪那美命が怒りまして、後を追いかけてって。そのときに、日本の『古事記』を見てみたらわかるんですけど、冠を脱ぎ捨て、それから衣を脱ぎ捨て、爪も剥がし、もうとにかく、体に着けてるものを全部捨てて、黄泉の国から出てったわけですね。

そしてもう出てくるなっというので石を置いて、はあ、あんなひどいところにもう二度と行きたくないやと思って、それから、あの禊をしたわけです、小戸の阿波岐原で。

まあその時に、大禍津日おおまがつひの神様、八十禍津日やそまがつひの神様が出て、神直毘かんなおび大直毘rt>おおなおびと。もっと反省して、そうしたら、左の目から天照大御神が出て、右の目から月読命が出て、鼻から須佐之男命。三貴神、三つの貴い神様がお出ましになって、あっ、伊邪那美命がいなくても僕一人で神様が生まれたと言って、伊邪那岐命はこれで神産み国産みのすべてのものを終えられたと。

そのように人間は、黄泉の国という嫌なことがあったら、きれいに自分がしてからしたら、天照大御神様、高天原の主宰神。

地球神界の主宰神、海原をしろしめせと須佐之男命。月の神界をしろしめすのは月読命と。これでまあ、『古事記』に出てるわけですね。前にも申し上げたように、地球神界は須佐之男で、太陽神界は天照大御神様、月の神界は月読命様。仏教ってのは月の働きですから、心の部分ですね。

肉体というのは須佐之男命で、心の部分が月読命で、魂の世界が天照大御神ということで。

ま、そういうことがあって、伊邪那岐命さんもそういう素晴らしい神様を産むまでに、黄泉の国から出て行くときに、冠を投げ捨てて、くしも取っちゃって、首飾り、手飾り、足飾り、もう身ぐるみ脱いだわけですよ。

それが、「道するものは日に日に損す」と。伊邪那岐命も地位や名誉や権力や、お金も土地も財産も、最終的にはもう自分の命までも捨てんばかりに命からがらで逃げて行ったと。その有り様が書かれてますね。

そしてその後、貴い神様が出てきたわけです。『古事記』を見ましてもそういう世界を言っております。

いろんな意味が、深い意味がそこにございますけれど、『古事記』の中から勉強する、老子の言ってるところ、ここですね。『古事記』ではそういうふうに出ております。

ですから、貴い神様を産もうと思ったら、神様と出会おうと思ったら、その黄泉の国から出ていく。伊邪那岐命がすべてを捨ててったというものがいるわけですね。これが「道する者は日に日に損す」と。

損すだけじゃないと。もう「損して損して無為となす」と。一つだけの損じゃないんですよ、損して損し無為となすと。

一つのものを損すだけじゃなくって、損してなくす。日に日になくすと。なくした上にもなくして、また損した上でも損していくと。そして無為となすと。もう何にも人為的にするものがないという世界になってしまうと。

この損すというのは、禊祓いって言いますね、神道の言霊で。

というわけで、損して損してと、一つ損じゃなくて、損してまた損して、損して損して無為となすと。無為というのは人為的なものがないということで、何もボーッとするんじゃなくって。

老荘思想の過ちというものは、隠遁生活っ行き過ぎまして、何にもせんと。いくら出世したって、お金を儲けたって、人間てのは畳一畳で、起きて寝るだけだと。

そんな地位や名誉があってもどうってことないよということで、行き過ぎまして、生産活動できなくなっちゃで、この損す損すということで、言霊で、神道で「禊ぎ」って言いますね。身をそそぐと。

言霊によると、身をそそぐから禊ぎだということがありますけど、もう一つの解釈で、もう身を削いでいくと。お金を捨てるということは、もう身を削ぐようなものですね。

それから、せっかく地位を得たものも、その地位も捨てて神の道に生きるとか、地位や職業を捨てて何か自分の体得したい、仏道でもいいですし、神の道でもいいですし、神霊との道でもいいですし、あるいは絵の道でもいいですし、音楽の道でも、どんな道でもそうなんですけれども、とにかく身を削いでするもんですよと。だからそれを禊ぎと。

「あなたもね、会社が倒産して、もうせっかく栄耀栄華でね、お金も、まあ二号、三号、おめかけさんも五人ぐらいいてね、いい暮らししてたけども、倒産しちゃってひどい目で命からがら、伊邪那岐命が黄泉の国から出てきたように、大変でしたねえ。会社が倒産した苦しみも、大変な前世からのね、あなたの因縁の禊ぎですね」って言うわけですよ、こういうふうにね。

禊ぎですねと。身をそそぐと。同時に、身を削ぐような気持ちで、持ってきた因縁を取っちゃうと。あるいは、地位や名誉を削いで、清らかな自分になると。そういう意味でも使います。

ですから、身を削ぐと。神道の修業の中で禊ぎの神業というのがあります。で、禊ぎと言いましても、身をすすぐということで、T神社なんかに行きますと、T神社の宮司さん、目を見たら天狗の目ですけど。行者ですよ。

そこはもう禊ぎを神道の修業といたしまして、御神霊と一つになると。御神霊にお会いするために、Aさんていう人も、禊ぎの方法があるなんて言いまして、一生懸命、水で、水浴びするんですよ。

身をきれいにすると。身をきれいにして、清浄になったら、清浄な自己になったら御神霊と会うことができるんだ、ごちゃごちゃしてるからキャッチできないんだと。禊ぎ修業ってのあります、神道の行をする人なんかでは。まあ滝に打たれてやるっていうのもこれ禊ぎですね。

行の世界、ちょっと変な方にウルトラCがかかってますけど、いわゆる原則ですね。

そういう地位や名誉やお金や、それから命までも捨てんというぐらいの禊ぎをしまして、いわゆる「損して損して無為となす、無為にしてなさざるはなし」と。

そういう人為的なものが全部なくなって初めて、「なさざるはなし」と。物事がないところから得るんじゃないと、もともとすべて自分の中にあるんだと。

前に申し上げましたように、王陽明さんは、聖人というのは身の内にあるんだと。全部自分の、天の性の中に聖人はあるんだと。

それに対して朱子学というものは、「聖人は学んでなれますか」と。人は勉強することによって、聖人になっていくと。古の素晴らしい人達の仁義礼智信先週の講義ですと、に「允にその中を執れ」とか、舜が禹に伝えました「人心これ危く、道心これ微かなり、これ精、これ一、允にその中を執れ」とか「中庸』の中のお話をしましたけれど、そういうふうにして、勉強していってなるんじゃないと。

もともとあるものなんだ。人欲がそれに覆い被さっているから、欲をなくせば元々の聖人は出てくるんだというあれですね。陽明さんは『老子』を学んでるわけです。

もちろんいろんなものを勉強しておりますけど、『老子』のこれがベースになっております。これはすべての原点ですね。

そういうふうに、内在するものがあるんだと。天の道というのはもともと自らの魂の中に、潜在意識の中にあるんだよと。だから無為、人為的なものがなくなったときに、なさざるはなし。どんなことでも出来るんですよと。

お話は長くなりましたけれど、老子のこの言葉にあるように、すべて後天的なそういうふうなものを無為にして、人為的なものがなくなったときに、本来のものが、元々あるものが出てくる。

本来、神様と人というものは、一つになってたもんなんですよ、本来は。

それが太古から再生転生を繰り返しまして、人間の知恵、こういうものが出てくるようになってから、神様と人とが離れてきたわけですね。太古は神様と一つ、神人一体となってたわけです。

神霊と一つになる方法というと、太古の自分に戻ればいいんですね、もとは神様と一つだったわけですよ。

まあそういうふうに成っていくのが、人為的なものをなくしていくと。先天の行と言いますのは、人為的なものをなくしていくと。

人為的な行をするとか、行力を得るとか、霊能を得るとか、そういうふうなものに自分で努力していって、プラクティスを積み重ねていきまして、上っていくというんじゃなくて、『老子』であるような、人為的なものをなくすことによって、もともとあるものが出てくると。

もともと一つであるべき神様がいらっしゃると。そうすると、神様の方から人間の方へいらっしゃると。そういうふうな本当の人になりなさいよということなんですよね。

前にも言いましたように、天理教の中山みきさん、大本教の出口ナオさん、ジャンヌ・ダルク、フランスの。べつに滝に打たれたわけでも、瞑想したわけでもありません。

なのにあれだけの人になったというのは、非常に親孝行だったんですね、出口ナオも、中山みきも。ジャンヌ・ダルクも純粋でした。素朴で素直で純粋で親孝行でした。あるとき神様が、「中山みきよ」と来たわけです。

「我こそは天理王命なり」と。あるときに「長の金神なり」と出口ナオに言った。ジャンヌ・ダルクに「我こそは」とエンゼルが来まして、「フランスを救え」と。十三歳のフランスの田舎の女の子に、神様がいらっしゃったわけですよ、神様の方から。

純粋で、人為的なものというのがなくて、素朴で素直な、人として素晴らしいと。前にも言いましたように、「心だに誠の道にかないなば祈らずとても神や守らん」菅原道真公の御歌にありますように、心こそ誠の道、本来の人の道にかなっていれば、お祈りしなくても神様の方から守りますよと。

「心だに誠の道にかないなば祈らずとても神や守らん」と、御神霊と一つになる方法ですけど、心だに誠の道にかなっていたら、お祈りしなくても神様が来ますよというのが、この先天の行のことを言っておられる。

そのように、後天と先天の行があるわけですけれども、後天の行と言いますのは、どうしても、行力、行力ということで行者界に入ります。

じゃあ、後天の行というものはどこがどういうふうに霊的に問題があるのかと。A宗さんなんか、「いまだかつて聖者で瞑想をしなかった人はいない」なんて言いましてね、瞑想を勧めるんですよ。

確かに瞑想も、後天の瞑想と先天の瞑想があるんですよ、もっと詳しく言いますと。先天の瞑想に関してはまたお話ししますけれども。

瞑想がどこが問題かと言いますと、要するに想念をなくすわけですね。然をなくす。念て言いますのはどういうことかと言いますと、今の心です。今の心、念。

瞑想というのは、禅宗も瞑想のうちの一つなんですけど、「無」を思うと。「考えないということはどういうことか」を考える。「考えないということはどういうことか」を考えてるわけでしょう、無になるということは。

今の心が念ですから、この念が出ないように瞑想するわけです。そのためには、呼吸法を整えてみたり、いろいろするんですけど。

そうして想念が無の状態と言いますけれども、想念が無という、要するに思わないという「無」ですね。これは怖いんです。「それは無の状態だ」なんていって、すごくいいような感じがしますけれども、そうではないと。

山で瞑想するとか、滝に打たれて瞑想するとか・・・・・・滝に打たれますと、強い水の水圧が来ますので、脳が朦朧とするんです。滝に打たれたら、朦朧としちゃって。

それからきれいな女の子が歩いてるわけでもなく、車がブーブー来ることもなく、気が散らないと。滝の音がザーっと流れますから、その音に集中してるんですよ。

滝の音に集中して体打たれますから、必死でそれに耐えてるということですから、あんまり雑念妄想がね、「今日は山で木の実を採って、どういう料理をしようか」なんていうことは、滝に打たれた時は寒いし、水圧がありますから、考えてる余地がないと。顕在意識が朦朧としちゃうんで、頭打たれるからボーッと。潜在意識を出すんじゃなくて、顕在意識をつぶしちゃうんですよね。

ですから、無の状態というものは、想念がない、顕在意識が無というふうにしますので、潜在意識が出るように思うんですけど、無の状態と言いますのは、山でこもっておりますと、山で死んだ霊がいます。

行者霊ですね。山で亡くなった浮遊霊がいます。山のキツネさんがいますし、そこで修行してた人が、例えばどこかの山でキツネやタヌキつけて来まして、そこでワーッと修行するときに、そこで落としてって、清々しくなったと帰って行ったと。その滝壺には、前に来た行者さんが、蛇とかタヌキとかいっぱい置いてるわけです。

で、無の状態でやってますから、顕在意識が朦朧としてますので、いくらでも入ってくるわけですね。そして、滝の修行や断食修行しますと、御本霊の魂の力が弱くなりますから、私が香港でやられましたように、体調がもうふらふらふらして、お腹に力入んないと。

守護神さん、神様と、お祈りする気力も出ないと。神様というお祈りもできなくなっちゃうわけです。そうすると霊障とか動物霊が、特に人霊とか動物霊がワッとその御魂の中に乗り移るんです。

これが断食修業の効用ですよ。余程強い精神を持ちましてやっていって、その中から死中活を得て・・・・・・、まあ、イエス・キリストは四十日間の断食っていうふうに言われておりますけれども。

ほとんどの場合は体力が弱くなりまして、守護神、守護霊、御本霊がピーッと張った神様との神籬が、くにゃくにゃとなりますので、動物霊、邪気がワッと入っちゃうわけですよ。

で、お山から降りてきますと、すごい霊眼が開けましたと。神のお告げが聞こえますとかね。山中で荒修行して、それから行力を得たなんていう人は、ほとんど無の状態ですから、邪霊いらっしゃいと。仏様も来るでしょう。

無の状態であるときは無ですから、何でも来ますよ。いいものも来れば、悪いものも来ますよ。

ほとんどは、そういうものの混合ミックス体でいるわけでございまして、それでまあ「御神霊と一つになっている」と山の行者は思うわけですね。

ヨガの行者はどうかと言いますと、瞑想に次ぐ瞑想ですから、潜在意識の中を自分自身でクルクルクルクル、チャクラに集中するわけですよ、これが何とチャクラで、何とかチャクラで…って言いまして。四次元の霊的なエネルギーのポイント。

ですから自分自身、常にチャクラを見てますから、想念の世界は随分変な世界の中に入っちゃってるわけです。ですから、瞑想してる人に会いますと異次元の空間にね・・・、前にもいましたよね、あの何とかっての生えた人。音楽やってても何か腑が抜けちゃってる。

タ~ラ~って、何かどこか「天のメロディーが来て通過して行った」というだけで、主体的なその人の、魂の輝きってないわけですよ。なんか来てそこを通過して消えていったと。まあ通過したのはキャッチできますけど。

本人の潜在能力、御魂の世界、次元が高い世界も内在してるんですけど、そうじゃなくって、瞑想、想念の奥の世界、四次元の世界ですよね、心の世界。

さっき言いましたように、感性の世界が御魂の世界。心の世界が四次元。肉体の世界が三次元て言いましたけど、想念がない状態ですから、四次元界を空白にしてるわけですから、いろんなものが入ってくるわけです、四次元界の邪気が。

ですから、神霊と一つになるためにはどうしたらいいかと言いますと、先程先天の行で言いましたところの、あの中山みきさんとかジャンヌ・ダルクさんのように、ごく普通の生活をしている。

高級神霊に神がかる一つの条件は、人の道というものにおきまして真であり、神の道におきまして真でありまして、真実を行っている姿というのは善なんです。宇宙の真理、天地の本当の法則というものを行っている姿が善です。