【第二章】三昧の境地とは(昭和60年1月12日)
三昧の境地とは
【深見先生】昭和六〇年一月十二日。
昨日は鏡開きでございまして。今日は、鏡開きの翌日でございます(笑)。鏡開きって、お正月にお餅を置くでしょう。そのお餅を割って皆で食べようというのが、鏡開きですね。
本日の講義は…………。ドリンクをいつも飲む癖があるもんで。ドリンクだと思って飲んだら喉薬でして。
非常においしいので、ゴクゴクッと飲みまして、後でよく見たら、キャップに目盛りが十本か二十本ぐらいありまして、一つの目盛りが一回分で(笑)。で、次に四時間以上開けなければ、もう一目盛り飲んじゃいけないという。それ以上飲むと眠くなるというのを、割とガブガブ飲みまして。
そして、朦朧とお風呂に入って、湯船に入ってから上がるのに一時間かかりました。ずいぶん今日は眠いな、いや、こんなにダレたらダメだと思っておりまして。それでどうも冴えないから、ちょっと元気つけようと思って、二杯目を飲みまして(笑)。
決定的に朦朧となったんですけど、必死でこらえまして。それから漢方薬を飲みまして。それもたて続けに二本。
そうしますと、眠いのと目が開くのとが、お腹で混成しまして。葛藤しているところで、結論づけなきゃいけないというのでコーヒーを飲みまして(笑)、カフェインで。で、朦朧となっているというのが、只今の現状でございます。
そういう経緯がありまして、朦朧となっているという状況。これ、三昧の境地と(笑)。今日のテーマは、パート1、三昧の境地ということです。
なんとか三昧って言います。味というのは、暗いという意味なんです。暗ますとか、暗いとかっていう。三昧というのは、没頭してそれ以外はもう暗くてわかんない状態。他が見えないから、三昧というんです。
例えば子供がおもちゃやお遊びで一生懸命遊んでいる。夢中になっている状態、あるいは集中している状態。没頭してそれ以外のことは忘れている。 Sさんですと、絵を描いているときは、絵画を描く三昧。西谷さんが手相を観ているときは手相三昧。音楽を奏でているときは、音楽三昧。
ところで、この三昧に似ておりますのは、「論語」にこういう有名な言葉が「これを知る者はこれを好む者にしかず。これを好む者はこれを楽しむ者にしかず」(板書)。
「論語」にございまして。この三昧の境地ということを考えますときに、少し似てはいますけども、若干違います。しかし、これを説明する意味で、一つの大きな助けになろうかと思います。
例えば、これを知り、一生懸命これを行う人、これをせねばならない。例えば生活があるから、アムウェイを売らなきゃならない。
音楽家であるから音楽を創らなきゃならない。絵の注文を受けたから、絵を描かなきゃいけないと。
ねばならない、これを知って、これをやろうという人は、これを好む者にしかずと。もう、これが好きだと、もう音楽が好きだと、演奏するのが非常に好きだと、絵を描くのが、もう大好きなんですよと言って、好きだからやっているという人にはかないませんと。技術的な面でも、そちらのほうが上達する。
で、これを好む者は、これを楽しむ者にしかず。その人よりも、もっと優れているのは、もうとにかく作曲するのが、もう楽しくってしかたないと。もう手相を観るのが楽しくてしかたない。
絵を描くのが、もう楽しくてしかたない。何をやるのも、もう楽しいんだと。こういう人には及びません。文字通り、これを解釈いたしますと、こういう意味なんですけれども。
非常に、この簡単な言葉の奥に秘められたものは、いろんな深層心理、神霊界の真理、想念の持ち方の真理が隠されております。
人生二万年計画
『論語』のこの言葉には、学生時代に非常に思い出がございます。
どういう思い出かと申しますと、私が大学の四年生のころですか、とにかく神様のお役に立たせて頂くような、人生二万年計画を持っておりましたときに、人間には大した寿命はないと。大したことできないと。今世で大した人間にはならないじゃないかと(笑)。
もう幼児教育の時点から、もう親のあれがありまして。大した才能もないんじゃないか。生まれながらに絵がうまいわけでも、音楽ができるわけでも、頭も大してよくない。体もそうかといって頑健でもない。だから今世だけで大したことはできないと。
だから、生まれ変わり死に変わりいたしまして、今から努力して、八十年、思い切り努力いたしましたと。
そしてまた霊界で勉強いたしまして、また生まれ変わりました。二万年ぐらい、生まれ変わり死に変わりしていれば、お釈迦様とは言えないまでも、少しは世の中に功成り名を遂げ、あるいは神様のお役に立たせていただけるような立派な人物になるんじゃないかということで。
人生二万年計画という(笑)のを、私は立てたんです。生まれ変わり死に変わりして、立派な御魂磨きをさせていただこうと。神様のお役に立たせてもらおうという構想を立てました。
それで毎日、今日一日、今日一日、普賢菩薩というものは、「不言実行菩薩」なんだと。黙々と努力して、二万年ぐらいで立派な人間になろう。
今世努力してやったからといって、神様に報いてもらおうとか、今努力していることを、今世、報いてもらおうなんていうケチな考えじゃなくて。二万年のちに報いられればいいというぐらいの大きな構想でがんばっておりまして。
そのときに、非常に、自分自身というものを、どこまで厳しくやれるのか、自分自身というのを、どこまで立派にできるのかということで、発願をしたんです。
ちょうど十二月の二十六日ぐらいでしたでしょうか。大学のクラブの責任者の任期が終わりまして、時間があれば、ゆっくり本が読めると思いましたけども、時間がありすぎますと「小人閑居にして不善をなす」と。自分は二万年計画だからがんばらなきゃということで、一念発起いたしまして、もっと自分に厳しくと。
それほどお金に困って、中卒で働いてやったわけじゃない。社会の底辺に生きているわけでもない。それほど能力もないのに苦労も知らない。
これでは弥勒の世の御用、神様のお役に立たせていただこうと思ってもダメだ。自分を磨く、そのためには、「ねばならない」という環境に自分を落としこまなければダメなんだというふうに考えました。
私は一念発起いたしまして、朝日新聞社に「あのー、明日からお願いしたいんですけど…..」と。体力と精神力を鍛えようと思って新聞配達をしようと決心したんです。
朝日とともに起きよう、一日一日勝負。朝日が僕よりも先に昇れば、その日一日は僕の負け。朝日よりも早く起きたら、一日、僕の勝ちだ。毎日、太陽に挑戦しようということで、朝四時に起きました。
それまで私は、十月ぐらいにパッチをはきまして。九月ぐらいから長袖を着まして、寒がり屋でございました。年寄り臭いし、肌は敏感で、驚くばかりの霊体質で。
前も言いましたように、経済の本を読んだら、著者の念が来まして、瞼がシバシバして、真っ黒な念が目についている。
それと自分の言霊からも黒い霧が出てるのが見えて、もう、頭にしばりついている。英語を三十分話しますと、気分がおかしくなって、倒れて、半日寝ていると。これではダメだと。
それで神様にお願いしながら、なんとかして本だけは読めるように。一時間以上は英語を話せるようにという、必死の祈願で霊体質を克服したんです。
やっぱり僕はもっと体力をつけて、精神力を鍛えて、磨かねばいけないと思いまして。
社会の底辺でがんばっている人は、もっと苦労しているんだ。そういうものを自分が磨かなければ、絶対に弥勒の世の御用に役立たせていただくことはできないんだと。
不言実行して、二万年の徳を積んでいく、自己を向上させていく。朝四時に起きまして。ねばならないので、一生懸命見習いで。
寒い、眠い、これが楽しい!
冬の一番寒いときからやりました。自転車に乗りまして、四時に起きまして、だいたい六時ぐらいまで二時間、こう配っているわけです。
今でも覚えておりますけど、五階建て、六階建てのマンションが三つか四つありまして。それをもう、一生懸命駆け上がりまして。とにかく、その二時間で全部こう経路がありまして。毎日毎日、神様に一生懸命お願いしなかったら、なかなかパッと起きれなかったんですけど。
それからずーっと学校へ行って、本を読んだり、勉強して、そのあと残った時間を大切に使っていこうということで、二万年計画をやっておりました。
もう、来る日も来る日も、その、「ねばならない」という。これを知る者はこれを好む者にしかずと。
最初はなかなか慣れなくて、決心するんですけども、気持ちがグラグラグラグラなってるときに、いや、これはもう勝負だと。
今日は一日、若干太陽のほうが早く出たな、日程表に勝ち負けをつけまして、今日は負け、今日は勝ちという。四時何分か五時、とにかく夜明けまでに勝って、ピタッと四時に起きないと。集配所の誰よりも、早く行くということで、挑戦しておりました。
そのときに、これを知る者はこれを好む者にしかず。そうだ、これをやらねばならないと決心したんだから、同じやろうと決心したんだから、これをやろうと。しょう、しよう、しようという気持ちだったら、絶対にこれは続かない。そういう人間の精神っていうのは、そう続くものじゃない。だから、これを続かすためには、どういう気持ちでいけばいいのか。
自分自身で調整しましたときに、気持ちの持ち方、想念の持ち方をそういうふうにいたしまして。その時に「論語」のこれが思い浮かんで参りまして、そうだと。この、朝起きるということを好きになろうと、まずは。
だからもう自分自身で、「君の趣味は?」「はい、朝早く起きて、マラソンをして配ることです!」と、自分で言うわけですよ。
「じゃ、行ってきます!」とか言いながら、自分で、「好きだ!なんて好きなんだ!好きなんだ!」って言いながら、自転車で、こう漕いで。
「好きなんだ!好きなんだ!好きなんだけど!離れてーるのさー(♪)」っていう歌を、それで歌いましたけれども。
それで「好きだ!好きだ!好きだ!」って言いながら、アッハッハーって笑いながら、自転車を、朝運転しておりますと、マラソンをしている人がいるわけですよ、こうやっておじさんが変わった人だなーって見るわけです(笑)。
いや、しかし、まず、好きだ、好きだと。こりゃダメだと考え直して。ここに、まず好きだっていうふうに、自分で言って聞かそうと。
これは、思い込んでる観念だ、君はと。これは好きで君はやっているんだと。ねばならないからしているんじゃないよと、好きで、好きでやらなきゃ。好きだ。全部自分で言っているんですけれども。
しかし、これもやっぱり一月以上は続かないから、これを好む者はこれを楽しむ者にしかず。
そうだ、朝起きて、この寒風、この寒い風、これが楽しいんですよねー。寒風楽しい、寒風楽しい。この寒空に私はパンツいっちょう。それまでパッチと長袖を、九月、十月ぐらいから着ていた人間が、その十二月の一番寒いときからやるんだと決心しまして。
もう最初の一週間は、体、皮膚がピリピリしましたけど。風よりも皮膚が強くなればいいんだと決心いたしまして。それからもう、楽しい。寒風、寒い、眠い、これが楽しい。だから、楽しい、楽しいって言いながら、こう自分自身に言ってきかせながら、自転車を漕いでおりました。
ところがなかなか、夜十二時とか一時に寝る場合は、四時に起きるっていうのは、もうフラフラなんです。それでもう、こうやっているときに、今でも覚えていますけど、マンションが二つか三つ連続であるときに、もう階段でこういうふうにペタッとなりまして。
それで、こう横になりながら、こう祝詞を一生懸命、「神様、この修業が成就できますように」と言いながら、階段で祝詞をあげておりますと、突如として、「ん、よし、よし、よーし!よーし!よーし!」と何かの声がしまして。何とか力を出して、「階段は、楽しく昇るんだ」って言いながら一気に駆け上がりました。
「これを知る者はこれを好む者にしかず、これを好む者はこれを楽しむ者にしかず」これを口ずさみながら、とにかく階段を、なんとか朦朧とする中でやったんです。
新聞配達で三昧の境地を体得
その新聞配達を結局卒業するまで毎日一年間続けたんですけれども。その新聞を配る人たちにとって一番嫌なときっていうのは雨なんです。
雨が降ると、新聞を全部ビニールに包むんですよ、自分でこうやりながら。ビチャビチャビチャビチャするときに、気持ち悪くて。
上にこういうカッパをしまして、それで、雨ですねーって言って。「あー、雨か」と思いながら行くんです。雪の場合は一日ぐらいいいんですけどね、ツルツル滑りますけど。
梅雨の六月ごろになると、雨が嫌でね。みんな嫌そうな顔しながら、ねばならない。専属の人がいますよ、今でも覚えている、島津統一という。
名前はすごいですけれども、名前負けで(笑)。名前負けですねっていうのを、今でも覚えていますけど。その人が、「雨は嫌だねえ」なんて言いながら、みんな、雨っていう雰囲気になるわけです。
みんなが嫌がっている。それじゃあ、これを乗り越すためにはどうしたらいいんだと、この苦痛の境地を。
そうだ、これを知る者はこれを好む者にしかず。これを好む者は、これを楽しむ者にしかず。
一番辛いときに、私は、これこそ乗り越さなければ、ここで悟りを得たとは言えないと思いまして、「そうだ、今日から雨が好きになる、雨は楽しい。そうだ、お風呂に入っても、顔はビチャビチャ濡れる。海に泳ぎに行ったってビチャビチャじゃないか」と。
「プールに何をしに行く?あれは濡れに行くんだ。だから、そのうちの何パーセントしか濡れないじゃないか。それを何で僕はこんなに嫌がっていたんだ」と。極端な例ですけど、実際そのときは、そう思いまして。
「雨!今日こそ人生最高の日」と思いまして、雨の日こそ、普段よりも早く行きまして、「いやー、雨は楽しいですねー!このしっとりとした感覚」と言いながら。
「私は二十何年間、新聞の配送をしているけれども、あなたみたいな人は初めてですよ。雨が楽しいなんていうのは初めてよ。変わってますねー。長年やっているけども初めてだね、雨が楽しいなんて言う人は」って。
「そうですか、この感覚。空は濡れているじゃありませんか」と言いながら(笑)、楽しい楽しいと言いまして。そう思いますと、雨がビチャビチャビチャビチャ、体に濡れるのが心地いいんです。
どのみち自分が嫌だといって、お天気になるわけでもありません。嫌だと言っても言わなくても、雨は雨で、みんな同じく、ねばならないんだったら、もう、瞬間に、雨が楽しいという境地になろうと。
それからの一年間、雨といったら、楽しい。プールに行っている感覚、お風呂に入っている感覚、シャワーを浴びている感覚。これをいながらにしてやれるんだという。
今でも忘れないんです。歌を歌いながら、大きな声で歌を歌いながら(笑)、雨が降るときに、ランラランラランラランラ言いながら、一生懸命、私が配っていますときに、ご苦労さんって、朝こうお辞儀するんです、おばさんたちが。
「あなた、楽しそうに、いつもいつも配ってるわねぇ」って(笑)。
「ええ!そうなんですよ」って言うときに、そう思ったときに、この三昧の境地。不思議なことに、朝起きまして、六階ぐらいの階段を昇ったり下がったりしているときに、あるいは雨がビッチャビチャのときに、それはもう、辛いとか苦しいとかいうんじゃなくって。
そういうふうにパッと想念を変えますとね、本当に体がポカポカポカポカしまして。本当に、なんとも言えないような、もう、「ああ、三昧……。これが三昧の境地というのかなあ」と思いながら配ってた記憶があるんです。
ちょっとお話が長くなりましたけども。ですから、まずその三昧の境地になるためにっていうのは、ねばならないという感覚は、もうこれはダメです。
人間というものは、まず一番、ねばならない、嫌だと思うこと、これをまず好きになって、それが楽しいと思いますと、世の中なんの不幸もない。だから一番嫌だな、ねばならないなと思うことを好きになる。
それが楽しかったら、不幸なことってないでしょう。自分が最も幸せになるためには、最も不幸なことが楽しいと。もう、あとは全部幸せ。そういう気持ちで、これを楽しむ者にしかずという、その楽しいという感じというのは、この三昧の境地ではないかと。
