深見東州の土曜神業録10(Vol.6)

刻一刻を楽しむ三昧の境地

例えば子供を育てる場合でもそうです。一生懸命、一生懸命子供を育て、育て、育てたのに、大きくなったらお母さんは、「女三界に家なし」と言いまして、二階と四階にありますと(笑)。

一生懸命子供を育てましても、子供は「お父さん、養老院行きなさいよ」とか「お母さんの古い考えで言われると、困るよ……」と。

一生懸命子供を苦労して苦労して育てたのに、「何だったんだろう、私の人生は…」と。よくあるパターンです。

お父さんと姑さんとの葛藤の中で、ああ、この子のために……。私が病気で倒れたり、離婚して家出してしまうと、あとで残されたこの子たちというのは一体どうなってしまうんだろうかと。

一生懸命辛抱して耐えまして、子供が大きくなりました。結婚しました。家庭持ちました。「お母さん、邪魔だな」と。お父さんがいなくなって、あっちウロウロ、こっちウロウロと家をめぐっていくんですけども、それぞれに……。

「男の子は奥さんができたら変わってしまうわね。男の子ってのは独身の間はいいけども、子供ができたら、みんなそれぞれの家庭持っちゃって。お嫁さんができたら、子供は変わっちゃうわね、男の子は変わっちゃうわよ」なんて言いながら。

それでも子供の結婚の幸せということを考えたら、苦労してそういう形で育てたけども、これ以上関与しちゃダメだから、自分は自分なりの老後をやって。

「ハー、艱難苦労したのに、この子たちはちっとも親の苦しみなんてわかんないんだわね。自分が大きくなって、子供を持って育てたらわかるわよ」なんて言いながら……。もっともらしいお話ですけど。

そして、もう白髪でお庭でお茶でも点てて、「ハー、今度生まれてくるときは、男だわね」なんて言いながら(笑)。

いますよね、こういうフィーリングを持っている人。どこが足りないのか。子供が「ああ、お母さんのお蔭で」という風に言ってくれればいいですけど、言ってくれなくなったら、私の人生は何だったんだと思っちゃいます。

苦労努力して、子供のためにと思ったけど。人間の気持ちというのはコロコロ変わるものでございまして。だから、子供を育てているプロセスの刻一刻、ちっちゃい子供が大きくなっている、ああ、大きくなったなあ、子供はかわいいなあと。子供を育てている刻一刻を楽しむ。

大きくして、成長して、心配ですよ。風邪をひいて、病気したら、ああ大丈夫かと病院に連れていく。あるいは運動会だとかなんとかって、ハラハラドキドキしまして。

そして、あー、結婚してしまったと。もうお父さんが、一生懸命苦労して育てた女の子、かわいい子が結婚していくときに、なんとも言えない境地になります。会えばやがては別れる。会者定離というのは、もうこれは避けられないことですし、人間の気持ちはいつ変わるかわからない。

だから、刻一刻を真心で。子供を育てていくプロセス、あるいは教育問題で、あるいは結婚問題。あるいは健康で、病気で苦しんでいる、その刻一刻を、子供を育てるということを三昧の境地。楽しんでやって楽しかったと。

だから別に、核家族になろうと、お嫁さんが来てコロコロ変わろうと、そのプロセスを楽しませてもらったから、何の悔いもないわけです。

そうすると、地縛霊にも浮遊霊にもならない。執着心とか、「あ、私の人生はなんだったんだ」というような気持ちも起こらない。何か目標とか思いというものを持っておりますと、それにとらわれて、必ず後で虚しさとか絶望が来るわけです。

そういうふうに、刻一刻、大きくしていっている、そのプロセスの毎日が楽しくて充実していると。

子供がない人は、子供で苦しむということもできないと。そういうふうに子供がある人は、子供があるということを喜んで。

子供がない人は、「ああ、子供はないんだからいい」と。いろいろと子供の心配をしなくても、もっと自分の充実した時間が使えるから。

私は一生懸命来たけども、子供がなくって、何の人生だったんだ。子供がなくて淋しかったね。来世は、何がなくても子供だけは作ろうねって、子供のない家庭、独身生活者は、みんなそう思うんです。

あったらあったの悩み、なかったらなかったの悩みがありますから、刻々に子供が育っていく毎日毎日を楽しんで、三昧の境地で生きていったら、悔いがないわけです。虚しさがないわけです、歳を取っても。未完成、不完全だけれども、そのプロセスの毎日毎日を楽しんで、充実していく。

そうしますと、今言ったようなお母さんとか、結婚している娘、あるいは独身者、あるいは子供がなかった人、それぞれに幸せですから。死んで肉体がなくなりましても、そのまんま極楽浄土へ行くんです。

刹那最善楽天主義

この道思想の大きな落とし穴に気がつきますと、一日一日完結主義。これは生きながらにして、極楽浄土。非常に運もいいし、霊障にやられません。じじゃあ、どういうふうな人生観が一番、神様の道にも、霊界構造から見ましても合っているかといいますと、一言で言えばこれです。

「刹那最善楽天主義」(板書)。

これは刹那主義ではなく、今言ったように、この三味の境地。刹那刹那、只今只今、今日一日、今日一日を、娑婆即浄土の境地で、三昧の境地で完結編でありまして、しかもビジョンを持ちまして。

そういう目標は持っているんだけども、目標の毎日毎日のプロセスを楽しんでいってるという意味ですね。刹那刹那を。三昧、最善を尽くしていく、努力していく。そういう充実感があります、毎日毎日。御魂の奥から喜ぶ充実感。

刹那刹那を楽天的に、最善を尽くして楽天的に生きますと、執着心がないわけで。楽天っていうのは、執着心とかとらわれの境地とかでなくて、明るく楽しく生きている。これはもう極楽浄土に直結です。

ですから、ねばならないという気持ちですと、自分自身の心が縛られますので、そういう境地で生きるんです。

もう、この娑婆即浄土、三昧の境地。

これは極楽浄土に直結しておりますので、自然に「心だに誠の道に叶いなば祈らずとても神や守らん」。こういうふうな生き方しておりますと、自然に神霊界に自分が属している生き方ですので、自然にその波長がどんどん来まして、神様の守護を受けるわけです。

ですから、こういう生き方の人には霊障はないです。霊障があると、この利那刹那で楽天っていうのも、ああなのか、こうなのか、ああなのかと。最善といっても、こんなことやって何になるんだろうか。

虚しさを感じて、楽天的じゃなくて、昔はああだった、こうだったと考え込んでしまう。なぜ考え込んじゃうのか。刹那刹那を努力しないからです。

この三昧の境地、気持ちをこういう風な気持ちにパッと切り換えるわけです。それは想念の転換のしかたですけど、転換すればいいってもんじゃない。こういうふうに変えなければいけない。

三昧の境地プラス道の精神で生きる

しかしこれだけでもダメです。これがありましても、そうじゃないときに不動の精神というものがなければいけない。

必ず何か刹那刹那でやっていけないような、お金が苦しいんで、明日払わなきゃならないっていうときとか。あるいは誘惑、結婚問題とか就職問題とか、こういうふうに生きたいんだけども、そうできないような状況があります。いろんな諸問題があって。

そういうときには道の精神。盤石な悟りの境地と、たくさんの教え、不動の信念という心のひだが必要です。

道の思想というのが必要なんです。ですから極楽浄土(三昧の境地)つきの道というか、道つきの極楽浄土という、このセットでないとダメなんです。わかりますか?

だからこれを知る者これを好む者にしかず。これを好む者これを楽しむ者にしかずと。何でも楽しめばいいっていうんじゃないんです。これを知るという道がありまして、これを好んでいる、楽しんでいるという。

何かが右から左から誘惑するとか、グラグラ来るようなことがありましても、この道の精神がガチッとしているから、いや、これはこうなんだと。

そしてまた、パッと三昧の境地にワッと入れる。刻々を、只今只今をこういうふうに過ごしていこうと。今日が完結なんだという気持ちで、またパッとこの浄土へ帰ることができる。

この浄土とはすなわち御魂の世界。安らかで安心で、充実して喜びがありまして、歓喜がありまして、非常にこう穏やかで。

これも返らず送らず、先々のこともあんまり心配しないで。過去のことも振り返らないで、一生懸命やっているという、そういう感覚ですよね。そういう世界が御魂の世界に感応するわけでございます。

ところがこれだけ只今只今幸せで、充実はしているけども、何ら知識も優れていないし、何ら優れた面も全然ないと。創意工夫して、苦しみと葛藤の中で来たというプロセスも全然ないと。

ただ毎日、幸せではあるんだろうけども、世の中になんの功も残さないという。これじゃダメなんでございまして。

やはり、道心や心のひだ、苦労してきました人としての道もなければいけない。絶対的な時間と、それを歩めば歩むほど、徐々に深くなっていく、徐々に大きくなって、発展していっているという道がないとダメです。

つまり、道というものはそういう意味で大事なんで、決して道がいらないというんじゃありません。ですから、この道の境地には落とし穴があるということを知った上で、道を大切にしていく。

そういうことで、この三昧境地にはどうしたらなれるんですかということで、ちょっとお話が逸れてきましたけども。こういう感覚、ニュアンスだということを認識していただきまして。精神のバックボーンに、この一つの大きな法則頭の中に入れていただきたいと思います。

これでパート2を終わりたいと思います、どうも(拍手)。