第四章】霊障にやられない方法(昭和60年1月12日)
「すべてが御魂の恩頼になる」秘伝
はい、それではパート3。いよいよ三昧の境地も絶好調に、ホームストレッチに向かって参りました。いよいよ燃えてきました(笑)。
【植松先生】そっちにパワーが行ったんじゃない?
【深見先生】いや、本当にそうですね。
今日はパート3のタイトルを聞いて、皆さま喜ぶ人は多いです。
待ってました!パート3。三昧講義。「霊障、霊体質を改善するには」(板書)。
副題「霊障にやられない方法」(板書)。
聞きたいですね。皆さん、霊障に悩んでおられるけども、今日は皆さん、霊障を解決するという……………。こちらのほうの人は特に喜んでる(笑)。切実な問題ではなかろうかと思うんです。
私ほど霊障によくやられた、霊体質の人はいないんじゃないかと思いますけど。
一時、さっきも言いましたように、経済原論、経済の本を読んだら、中に書いてある境地が……。気のいい本を読みますと、気持ちがホカホカホカホカとなるんですけども。経済原論とか経済の本を読みますと、もう目がシバシバして、もう念が移るわけです、
本の。ムカムカッとしたり、気分が悪いっていうんで、二時間ぐらい寝込んで。五分読んで、二時間寝込んで、それで一日暮れてしまう(笑)。それが何回やってもダメなんです。
私の場合、気に敏感だとか、霊障なんていうどころじゃありません。確かに疲労の回復度合いは速いんですけども。
ところが、人の気とかいうのはお話ししてましても、非常にいい人と会いますと、気持ちがバーッと楽しくなるんですけど。重苦しい人がいますと、もうフニャフニャフニャッとなってしまって、「ああ、そうですか」って、思考能力がもうなくなってしまって。
人によってすごくワーッと調子いいときと、人によってフニャフニャッとするんで、躁鬱症というか、精神病とまではいきませんけれども、とにかくあまりにも敏感。
御神前の前に額づきまして、「神様、私は本当に辛いです。これでは学校を卒業できないと思います。勉強できないと思います」と。
「知性のいらない人生を歩ませるために、こういう体質をお与えになったのですか」と。これがもう何年も苦しみました。それでも、英語を勉強しなきゃいけない。
僕は別に自分で英語がやりたくて大学に入ったんじゃなくって、英語をやらなければ授業料を出さないっていう、例の私の父のあの強行手段で。もう、独善と偏見のごり押しで。
まあ、私の守護神さんがかかってやらせてたと思うんですけど。英語をしなければ授業料出さないっていう。戸に鍵をかけまして出さないんです。学校を出たかったら英語やれと。
もう嫌々ですよ。だから嫌々、どのみち嫌々しなければいけないんだったら、喜んでやっても四年間、嫌々やっても四年間、同じやるんなら三昧境地だというんで、英語を楽しんでやるんだと私も決心しまして、乗り越したんですけど。
それにしましても、英語のサウンドの言霊の乱れで、目がシバシバするし。
もう、ねばならないっていうギリッギリのときに、この体質がなんとかできないものかというんで、芝生の上をバンバンたたきました。「もう、なんで神様はこういう人間に生んだんだ」と。私はもう散々、畳にも打ちまして。
ごく普通に本を読んでいる人って羨ましいな。電車で本を読んでいる、ハー、難しそうな本を読んでも、スラスラと読んでいる、羨ましい。ノーマルな人っていいな(笑)。どれほど私が苦しんだか。もう自殺をするか、生まれ変わるしか手段はない。
ところが私はふと考えたんです。本から来る気とか、人から出ている邪気とか、そういうものを受けますね。マイナスの気もあるけれども、プラスの気もあるんじゃないかと。
世の中にはプラスとマイナスがあるんだと思って、とにかくもうギリギリの状態でしたから、もう、頼むからと。この本が読めますようにと、この本が一ページでも二ページでも読めますようにというんで、一週間祈願したんです。
本当に、本が読めますように神様お願いいたしますって、一週間祈願。しかも一日三時間ぐらいぶっ通しで祈るんです。なんとか神様、本を読み続けることができますように、本が読めますように、英語ができますようにと。
三時間も四時間も御神前で額づきまして。それを一週間も続けて(笑)。バカみたいな話ですけど、私はほんと真剣ですよ。Hさんとか皆さんはわかると思うんですけど。
そうしたら、お願いいたしますって言った瞬間に、今度は何かやれそうだという気持ちになりまして、その経済原論を読みました。
そうしますと、本をパッと手にしましたら、後頭部がですね、パーッと熱くなるんですよ。ここがパカパカパカッと熱くなりまして。そして本を読みはじめたら、その時から体がパーッと熱くなりまして、頭が熱くなるんです。
ここ、後頭部が。そしてスラスラスラスラ読めるんです。本を読めば読むほど目から光が出るんです。後頭部から光りまして、目からピカッと光が出まして。
本から受ける気以上に、この光が強くって。そして読んだら、ずーっと集中して読んで、その後は、何が書いてあったかなと忘れてしまっている。
普通、神経っていうのは……。頭の神経に入ったものというものは、頭にいろんな念がこびりついちゃって、大事なときに出てこない。ところが、よーくお祈りして、「御魂の恩頼にして頂けますように……」と言って本を読むと、血液の中に入るんです。
血液というのは霊です。霊というものは物質化しますと血液になるんです。
ですから、その血液とか霊、魂にフワッと入るんです。これを、私は「御魂の恩頼読書」と言うんですけど、読書を御魂の恩頼にしていただくんです。
神経にこういろんな念がこびりついちゃっているんですけど。よくお祈りし本を読むと、神様がパーッといらっしゃって読んだ本が血液の中に入る。そして全部、スコッと忘れるんです。
「何書いてあったかな、ま、いいや」と。それで試験で書かなきゃと思ったら、また後頭部がパーッと熱くなりまして。読んだ本が、全部出てくるんです。
「あ、一ページ目にこういうのが書いてあったな、二ページ目、ああそうだった、そうだった、そうだった」と。読み終わりました後で、全部必要なときに、必要な個所が必要な分だけパッと出てくるんです。
普段は終わるとパッと忘れる。どこへ入ってるんだろうなと思うんですけど、それは潜在意識、御魂が覚えているわけです。いらないときは全然忘れてるんです。
それは八年経っても、十年経っても、二十年経っても。二十年ぐらい経つと、ちょっと貯蔵庫の脳細胞が枯れちゃってるのかも知れませんけど(笑)。
これを、「惟神読書」とか「御魂の恩頼読書」と私は呼ぶんです。もうその苦しくて、もう、神様どうかーっていうときに、私が会得したんです。
視神経に入ってくるのは、そのときは理解できるんです。羨ましいな、ノーマルな人が羨ましいなと思いました。でも、これでいいと。霊体質は霊体質なりのやり方があるんだと。やり方が違うだけだと。そのかわり、何年経っても忘れない。御魂に全部入ってる。
神経に入ってる人っていうのは、頭に入っているのは、いざとなったら出てこないんです。普段はいろいろできるんだけど、必要なときに必要な個所がパッと出てくるということはありません。
いろいろ詰まって知識はあるんだけど、ここ一番っていうときに活用できないんです。知識がただいっぱい詰まっちゃってる。観念とか概念とか念がいっぱい、こうグルグルッと詰まっちゃっている。必要なときにパッと出てくるということがないわけです。
だから苦しいときに、アーッていうときに、例えば『論語』の「これを知る者はこれを好む者にしかず、これを好む者はこれを楽しむ者にしかず」というのがパッと出てくるんです。
その個所がパッと。「あ、そうだった!」っていうことで悟る。つまり、血液に入っているものが、ある時にパッと蘇るんです。神経に入っている人は、頭の中に脳神経にピカピカピカピカ念があるけど、大事なときには出てこない。
私は今はもう別に、神様に真剣にお願いしなくても、自然に読んだときは、「あ、そうか」ということで、もうパッと御魂に入っちゃって、必要なときにはパパッと出てきます。だから全部が御魂の恩頼になっている。
読んでいる本が有意義か有意義でないかわからないけど、読んでいるその時々に、御魂の栄養分にしていただいているんだと。その知識が役立つか役立たないか、こんなことして無駄じゃないのかと思うんですけど。
どんな、一見無駄なように見えております単純作業、単純なものでも「すべて御魂の恩頼にならしめたまえ」という気持ちでやりますと、全部魂の栄養になっていく。
世の中、どんなものも無駄はない、つまらない検品とか、つまらないお掃除とか、つまらない霊障を受けてこんなのがとか、電話を取り次ぎそんなこと、何になるんだと思うんですけども。
「全部御魂の恩頼になっているんだ」と思いますと、必要なときに神様が、その記憶とか、やってきた体験というものを、右に左にアレンジして、後で必ず生かしてくださる。「全部御魂の恩頼になってる、有意義だ」と思ってやる。
これは虚しさがない生き方です。これはそう思えば、実際にそうなるんです。
ということで、その御魂の恩頼読書というもので、最後まで本が読めるようになった。本の書いている人の念よりも、僕の念力が……。
念力と言っても自分のじゃない、神様がそれ以上の力をくださったわけです。一週間、一生懸命、本が普通に読めますようにという祈りに、神様が応えて下さったんです。
霊障とは天の警告なり
ここで最初の問いに戻りますと……。
「霊体質を改善するためには」という問いですが。一言で言えば、霊に敏感な体質というのは変わらないと。敏感だということは、もう変わらない、もう体質だと思ったら、もう嘆かない。
ですから、もう前向きに神人合一するしかない。霊障を受ける以上に神気を受ける。霊障を受ける以上に神霊の守護を受ける。霊障を受ける以上に、神様に強い力を頂く。こういう自分を作っちゃう以外にないわけです。
そうしますと、霊障、霊体質というものはプラスに生きるんです。それがない間は、あー、あっちの霊がなくなったら、またこっちの霊、こっちの霊が行ったら、またこっちの霊。
只今、只今を真剣に生きていくわけです、三昧の境地で。さっき言いました三昧の境地でやると。
しかしこの場合は、単なる三昧の境地だけではダメでございまして。霊障以上に強い神力を頂ける自分になるためには、やっぱり神様に対して真剣に向かっていく。
自分の限界というものに対して、真剣に、よかれという気持ちで、継続的に神様に祈り続け、願い続け、それを乗り越すぞという気迫、切なる祈り、願い。
こういう道心と求道心の情熱というのがなければクリアできません。
ですから、霊障があったら霊を取るというのは簡単ですけど、除霊する人がいなかった場合どうするのか。
結局、霊障というものは、霊障以上に強いご神霊、守護神、守護霊さんが、その人を守護してないから出てくる。守護神、守護霊が守っている状態が空白状態だから、霊障が来るんです。
霊障というものは、すなわち一言で言いますと、天の警告なんです。霊障というものは、守護神、守護霊様に見放された状態だと定義をするわけです。
だから、霊障にやられない方法は、それ以上に守護神、守護霊様、神様からエネルギーと力を受けていくような、そういう毎日、そういう想念、そういう生き方を、刻一刻も、一日二十四時間、一年三百六十五日神がかっていたら、神様から強いエネルギーと力を頂いていたら、霊障なんか入る余地がないわけです。
これが非常に発展的な、前向きな、刹那最善楽天主義的なものの受けとめ方。
これは、発展と進歩と喜びと、道と三昧のある考え方です。ですから霊障とは何か。天の警告なり。
霊障を通して、神様が警告しておられる、戒めておられる。どっか違ってるんだと。それで、反省するわけです。どこの想念が違っているんだ、どこの生活態度がまちがっているんだろう。気が緩んでいるんじゃないかと、まず考えます。
神様の嫌いなものは、そうだった、我と慢心。我が出てなかっただろうか、慢心がなかっただろうか。それと怠りです。刻々に精進努力するよりも、怠りがなかったか、気の緩みがなかったか。それから「犭」偏の狎れが出てなかったか。
反省する材料は、もうこれしかない。我と慢心、怠り、狎れ。それがなかったかと、反省していくわけです。生活態度がまちがっていなかったか。
一つ一つ反省していくわけです。あー、ここがまちがってたと、これが神様の警告だったんだと考えて悟るわけです。そうだ、ここを改善しようと。悟った瞬間、「許す!」という形で、守護神、守護霊さんがフワッと来るんです。そしたら、霊障以上に強い力を持っているわけです。
世の中には強烈な霊障もありますけれども、強烈な霊障以上に、全知全能の神様もいらっしゃる。不動明王のようなご神霊もいらっしゃるし、毘沙門天さんのような方もいらっしゃるし。素戔嗚神様とか、金神様とか、いろいろいるわけです、パワーのある神様は。
霊障以上に強い守護霊さんとか守護神さんが出ていない自分というものを反省する。なぜ、自分には来ないのかというところに、反省と悟りと進歩があるわけです。悪い霊もいるんだったら、いい霊もいるはずです。
最高は全知全能の神様がいらっしゃるはずだと。天変地異を起こすぐらいの神様もいらっしゃる。
日蓮上人ですと、処刑するときに、ビカビカッと雷が出た、そういう神様もいらっしゃる。あるいはユダヤの民ですと、天上界からマンナの粒が降ってきたと、そういう奇跡も顕されるわけ。
そう考えると、神力をつけることができる。神人合一の道を歩んでいくことができる。これが一番、霊障にやられない方法なんです。神人合一する。霊障以上に強い神力を受ける。霊障以上に強い霊の力を受ける。これが一番いいやり方ではないか。
除霊というのは、やろうと思えばできるんですけども、今言ったような見方をしていくということが、神人合一の道を歩む人にとっては一番大事なんじゃないかと思います。私も過度な過敏症ですけど、そうやって本が読めるようになって、一つの関門を越えたんです。
神力をあてにすると、邪神界に入る
少し横道に逸れますけれども、そういうふうに苦しいときには、なんとかっていう形で…。
例えばこういうことがありました。試験がありまして、時間がないしギリギリで追われてるから、この試験をなんとか乗り越せますように、なにとぞーと、三日か四日一生懸命祈願しました。
そうしますと、パッパッパッと、また後頭部がピカピカッと光りまして。それでまた、パッ、まったく忘れてたものが全部できたんです。あ、これでいいなと。もう思った通りの部分が試験にピッと出てきたんです。自分の予習しなかったことは出なくて、したところだけ出まして、完璧に書けるんです。あ、無駄がなくてよかったと。
ところがこれは油断がございまして。もう、まあいいやと、適当までやってたら、ギリギリにお祈りすれば、また神様が教えてくれるからいいやということで。
試験があって、一度そう思いまして。ギリギリまでいろいろしておりまして、ま、いいやと。
神様が教えて下さるやと思いまして、一生懸命今度もお願いをして、パパパとひらめいて、ま、こんなもんでいいなと思って、自信を持って出たら、まったく違うのが出まして(笑)。
ハァーと御神前で項垂れて、どこが間違ってたんだろうか、ハーと。アー、結局油断だなと、慢心ですよね。結局、最善の努力を努力して仕方ないという状況で、なんとかっていう場合には聞いてくださるんですけど。神様の神力をあてにしている、神霊の強い働きをあてにしている。
そして、楽をしているわけです。こんなんでいいんじゃないかと。神様の神力をあてにしまして、楽をして心が油断しておりますと、お願いしてでも、一見これでできると思うんですけども、それは違うわけです。
だから一通り失敗するまで、神様がさせたんです。神様も質が悪いなと思いましたけど。
しかし体験しなかったらわからないんで。その次からは、最善の努力を尽くした後で神様になんとかっと祈るようになりました。神力をあてにするとダメなんです。
楽をしていても、どんどんどんどん教えてくれる霊感とか霊能力は魔の霊能力です。
超能力や霊力があると、結局、楽をするでしょう。それをあてにしてやりますと、必ず邪神界に入ってしまいます。キツネとか稲荷、タヌキとかへビとか、そういう正神界でないものが与える超能力になってしまう。
ちょっとお話が横道に逸れましたけれども、苦い目に遭ったことありますね(笑)。
ですから、精一杯努力した中で、なんとか神様って祈るのが正しいんです。霊障も邪気も同じことです。霊障も邪気も、そういうところの油断と、神様の道からずれているときに起きるわけなんです。
だから、除霊をするということはある程度は必要なんですけども、あまりに全部除霊してしまうと、精進努力をするバネがなくなってしまいます。
霊障がなくなったら、どこで努力するんだと思いますよ。だから神様が、まあ、これは「かわいそうだ、この子は」っていうんで、おみやげにまた新しい霊障を下さったりなんかして(笑)。
霊障というのは、千手観音さんを見ればわかると思います。私がよく千手観音の真似をしますけども。やっぱり手に霊障、ドクロを持っていますよね。こっちにお花を持っていたり、こっちに剣を持って、そしてドクロを持っています。あれは霊障なんです。
霊障で苦しめて、苦しめて、苦しめて、観音様が大慈悲の心で。もうダメだーというときに、どうするかと。神様は試しているわけです。
それ以上の神力をつけたらいい。それ以上に神力を頂くのには、じゃあ、どうしたらいいんだ。神人合一の道を、一歩も二歩も進めるでしょう。そういうふうに考えるべきではないかと思います。千手観音様は、きっとそうしてるんだと。
ご神霊が力を与えてくれる状態というのは、いわば、惟神の道における三味の境地です。だから本を読んでいても、苦しいはずが楽しい。神様が力を貸してくれますから、邪気以上に。
苦しいこと以上に苦しませないようにということで、ご褒美で、愛と歓喜とエネルギーを頂きますから、楽しいんです。これは神様のご褒美です。
人生の究極は、この幸福、歓喜の追求ですから、その時その時に喜んで、発展的に前向きにやっていけばいい。これが一つの一番大事な基礎ではないかと思います。
