娑婆即浄土 ー 生きながらにして浄土に行く境地とは
娑婆即浄土というのは……。生きている人間界、娑婆世界がすなわち浄土というふうに、生きている間にならなかったら、死んでからじゃ極楽には行けませんよということです。生きている世界そのものが浄土のような境地になって初めて、本当の悟りなのです。
生きているこの世界、境地が、浄土の気持ちの人は、死んでそのまんま極楽に行くんです。口と心と行いが慈悲、愛の思いを持っている人は、非常に温かい感じを受けます。
死んだらそのまま肉体がなくなるだけですから、温かい人は、そのまんま温かい極楽浄土に行くんです。
それが慈悲の心じゃなくて、とにかく因縁を切ろうという心でやっている人はどうでしょうか。発するところは慈悲の心なんでしょうけども、最終的にはみんなのためにとは思うんでしょうけども、
やっている時その時その時は、因縁を切ろうという念だけです。その人の想念界は、因縁を切りたいという心と、呪文と、一生懸命行をしているという心です。
毎回慈悲の心であれば、確かに仏様も、守護神、守護霊も動いてるでしょうけど、そうじゃない。そういうふうには理解できてないわけです。
ですから、やってもやっても、神様も仏様も、動くわけないんです。曼荼羅を見ても分かるんですけども、胎蔵界も金剛界も、大日如来様という大慈悲の仏様が中心におられる。
愛の思いを持ってる人は温かいんですが、行をするとか因縁を切るとか、ねばならない感覚、ただやっているという感覚、愛がない場合は暗いですから、悲壮感が漂います。
行者というのはそうです。行は積んでいるんだけど、なんのためにやっているのか。
ただ行を積まんがために積んでいるというだけで、その精進努力に大きな愛のバックボーン、底流がなければ、それは暗い心ですから、地獄界に堕ちるわけです。
暗い世界へ行くわけです、愛のない人は。対して、娑婆即浄土、ニコニコニコニコとなんでも明るく考える性格の人がいます。西谷さんなんかそうです。
非常に暗くて、ああ、三年先に病気しますねとかっていう、暗い暗い暗いイメージにもっていくっていう場合は、そのまま非常に暗い霊界にいます。
自分自身がその霊界をつくっているわけです。もともと明るい人は、明るい世界から来ているんです。もともと暗い人は、暗い世界から来ている。
明るい人は、物事を明るく明るくいいほうへいいほうへ解釈している。
物事を明るく明るく理解している人、そういう想念を持っている人、そういう想念転換。なんでも明るく考えていく、くよくよしない人は、もともと明るいですから、死んだらそのまんま明るい霊界に行きます。明るい霊界というのは極楽浄土です。
逆に、過去を振り返って、くよくよくよくよしていたり、昔はああだった、こうだったとか、ちくしょう、あんなことしてとか、過去を悔やんでばかりいるような、非常に暗い性格の人がいます。
根暗だなんて言いますが、非常に暗いものの考え方をする人は、そのまま暗しい地獄界に行きます。暗黒の旅です。
それからさっき言いましたように、冷たい人がいます。なんでも銭勘定でする。あるいは自分中心な人、クールな、慈悲とか愛情のない人っています。
「彼はクールなんですよ」とか、クールって英語で言えばなんとなくいい感じがしますけども、日本語に訳せば「冷たい」ですから、八寒地獄に行きます。暗くて、なんでもマイナスに考えて、自分のことしか考えない人、暗い人は、八寒地獄、真っ暗で冷たい地獄界に行くんです。
ですから、なんでも明るく考えていくという想念を持つことが、娑婆即浄土の一つの必要条件です。なんでも暗く考えたら、娑婆即地獄です。冷たい地獄か暗い地獄か、冷たくて、暗くて、陰湿で、重苦しいのは地獄です。
それから何か思いを持ってる人の場合。地位、名誉、権力、お金、家族、恋、異性、仕事、生甲斐とか、レコードの売れ方がイマイチとか、暗い思いをずーっと持ってる人がいます。
特に一番重いのは、積年の恨みです。「魂魄この世に留まりて、積年の恨みを晴らさでおくべきか!」なんていうのは、霊界では念が積もっちゃっている。念が積もるぐらいですから、非常に重いです。思いの雲がある。「思い」があるから「重い」んです。
思いがあるから重いので、下に落ちるわけです。下に落ちるから地獄に行くんです。
【植松先生】思いが錘になるのね。
【深見先生】思いが錘になっちゃって重いので、重いところに行くんです。その思いをなくしなさいという教えが、般若心経です。
見たり聞いたりしたもの、心というのは見たり聞いたりする五感から、感情、心が出ますから、とにかくその思いというのが錘になって重いので、そういう思いを捨てなさい。すべての思いを捨てなさい。
見たり聞いたりしたものは、何もないんだよ。何もないということが、それも何もないぐらいに、何もないぐらいに何もないよ。だからほんとに何もないよ。要するに何もないんだよ。早く言えば何もないから、結論を言えば、なーんにもない。言わば何もないということだから、つまり何もないんだよ、と。
それぐらいに「何もない」ということを般若心経は言っています。だから、「羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶」。「羯諦羯諦」で、此岸から彼岸へ渡れ、渡れ、渡れと。
地位、名誉、権力、お金、富、それから人間関係、恋愛、そういうものに執着心を持ってはいけない、と。
病気で早く死んだ人は、もっと生きたかった、もっと寿命があったら、あれもしたかった、これもしたかった、残念だー。なんで自分はこんな一生を送らなけりゃいけなかったんだと思うでしょう。結核病患者はそうです。二十何歳で死んでしまうなんてなんていうことだろう、という思いがあるから、その思いが錘になって、いい霊界に行かないわけです。
そういう生命に対する執着心がある人は、霊界に行っても大変です。死んだら死んだ霊界があるんですけど、この世への執着心があるから、娑婆即錘現界、思いが錘になって、重いので地獄へ落ちます。
あるいは、この霊界に留まって、極楽浄土へ行けないんです。
生きているそのままが浄土じゃなかったら、死んで浄土には行けませんよということを、弘法大師さんがおっしゃっています。
それを現当利益とか現世利益とか、とにかく、現世利益のお蔭信仰になっちゃっているんで、弘法大師さんの深いご遺志というのか、要するにいわんとするところからずいぶんかけ離れてしまっているんですけど、本当はそうなんです。
娑婆即浄土、生きながらにしていなかったら、霊界行っても救われないということです。
般若心経というのはそのあたりを言っておりまして、囚われ、執着心をなくしなさいということを説いています。
思いをなくすと非常に軽やかです。軽空気は上へ行きますね。ヘリウムなんていうのは軽いです。ですから、軽い心になれば、空へ空へと風船が飛んでいくように、極楽に行けるわけです。
ですから、娑婆即浄土しようと思ったら、まず慈悲の心温かい心を持たなければだめです。そして、明るい心を持たなければだめです。それから、物事に執着心を持たず、常にさっぱりとした軽やかな感じでなければいけません。この三つのことがなかったら、絶対極楽には行けません。
逆に言いますと、それさえ分かっていれば、誰でも極楽には行けるんです。
非常に簡単に極楽に行けます。常に慈悲の心を持って、なんでも明るく考えて、執着心を持たない。簡単に考えれば簡単ですけど、なかなか実践は難しいですね。それさえ分かっていたら、誰でも極楽に行けるんです。
体施や法施、物施の話からちょっと発展しましたけれども、修業も、すべて明るく前向きにやることによって、世の中は良くなってほしいという慈悲の心、きっと良くなるだろうというプラスの想念。
執着心を持たないで過去したことをいつまでもくよくよ思ったり、一つのことに執着しないことが大切です。
結婚だったら結婚、結婚、結婚と、結婚するということへの思いが錘になってしまうので、いざ結婚となった時に、執着心があまりに出て、結婚する相手がなにか気持ち悪いと感じて結婚が延びていく、なんていうことも考えられます。
菅原道真公の歌に、「心だに誠の道にかないなば祈らずとても神や守らん」というのがありますが、その人の心が娑婆即浄土の誠の道にかなっておりましたら、神様、守護神様、守護霊さんは、祈らずとても神は守らん、守ってくださるのです。
守護神さんも守護霊さんも、仏様、菩薩、神様というのは浄土にいらっしゃる方ですから、そういう存在なんです。
だから本人が娑婆即浄土の気持ちになりますと、常に守護神様、守護霊さん、ご先祖さん、いい霊界の人たちが、ぐんぐんぐんぐん後押しします。そうして、死んだらそのままスーッと浄土へ行けるわけです。
ですから、死んだら極楽に行くか地獄に行くかということは、こだわりがなく物事を見ているか、重い感じがしなくて軽やかか…など、その人の想念の持ち方を見れば分かります。
世界の苦しみを自分ひとりで負ってるような人っていますよね。悩みと苦しみを、自分ひとりで背負っているような……。哲学者というのは、簡単に考えたら軽やかなのに、なるべく複雑に複雑に「うーん……」と考え込んでしまう。哲学者はまああまりいい霊界に行かないでしょう。
パッと悟って、物事を軽やかに積極的に、明るく慈悲の心を持っていくような、そういう理性ですと、いい霊界に行くんですけど。
悪い因縁を良い因縁に変えるポイントとは
これが一つの霊界法則ですので、いくら体施、物施、法施をしましても、霊界の法則に合っていない場合は、因縁は切れません。
いくら一生懸命お行をしたからといって、因縁は切れないわけです。今お話ししてきましたように、自分が変わって初めて、因縁も変わるのです。
つまり、なんでも自分中心で、暗く考えて、いろんな物事に執着して、思い浮かぶ女性はあるし……という人は、人間本人が娑婆即地獄におりますので、 死んだらそのまま地獄です。
ご先祖さんの中にも、極楽浄土にいるご先祖さん、地獄界で苦しんでるご先祖さん、いろいろおります。
人間、四代ほど遡りますと、お父さん、お母さんの兄弟がまたありまして、その兄弟に夫婦がいたり、兄弟がいたりして、そのそれぞれにまた夫婦があって子供がいて・・というので、四代か五代ぐらい遡りますと、一億人ぐらいになるらしいです。
今は兄弟が少ないですけど、昔は。何倍何倍の何倍なんていうと一億人ぐらいになるらしいです。四代ぐらいまで。四代ということはそれだけのものがずっとその上に乗っていて、それぞれまた広がっていきますから。
そういうふうに、生きていた時に想念が極楽浄土で、いい霊界に行っているご先祖さんもいれば、良くない霊界に行ってるご先祖さん、いろいろなご先祖さんがいるわけです。
どのご先祖さんとも血は繋がっていますが、どのご先祖さんと自分が感応しているかが重要です。ですから、さっき言ったように娑婆即地獄界にいるような人ですと、ご本霊が地獄の想念界と近いので、そういうご先祖さんがその人につくわけです。
いくら除霊をしましても、本人の想念が変わらなかったら、また新たなるマイナスのご先祖さんを呼んできてしまいます。本人がその想念の波長を出しているわけですから。
パッと想念を転換し、娑婆即浄土の心地になりますと、今度はそういう世界のご先祖さんと感応して、プラスへプラスへと導かれる。
ますますプラスからプラスへと、強力な後押しをいただくことができます。それに自分が感応するわけです。
例えば、ラジオをかけていて、深夜になったら、ある何チャンネルかに俗悪番組ばかりが入ってくる。この現実界といいますのは、NHKの電波も飛んでいれば、テレビの電波、ラジオの電波、無線の電波、タクシーを呼ぶ電波も飛んでいるわけです。
「あっ、今、NHKの電波が通ったね」なんて、目には見えません。この空間にはいろんな電波が飛んでいますけども、テレビとかラジオで合わせたチャンネル、同調装置で合わせた番組が入ってくるわけです。
ですから、どこのチャンネルに自分が合わせるかが重要なのです。天上界や霊界の電波もちゃんと来ています。地獄界の波動もあります。
どこのチャンネルに合わせるか。想念のチャンネルをどこに合わせるかによりまして、感応するものが異なるのです。チャンネルから流れてくる通信、ストーリーというのが運勢です。
いい運勢へ向かっていくストーリー、NHKの教育的なものか、あるいはまた俗悪番組で、なんでも悲劇に終わってしまうか……。これがやっぱり運命を良くするか悪くするかの大きなポイントなのです。
因縁を良くするか悪くするかのポイントは、これです。悪い因縁がついてついてと言いますが、本人が変われば、今度はいい念につくわけです。
極楽界に行っている徳の高いご先祖さんも、苦しんでいるご先祖さんも、いろいろいるわけです。
この空間には、魔王もいますけれど、仏様も神様もいらっしゃるわけです。ただいま、ただいまの本人の想念、ただいま、ただいまの口と心の行いが、因縁を良くするか、運命を良くするかどうかの一番大事なところなのです。
生きてる間にこれができなかったら、死んでからでは、よほど除霊を受けないと……。除霊を受けてもきりがありませんね。ですから、運勢を良くするためには、想念を入れ替えなければならないのです。
マイナス的な本人の想念が変わるまでは、その霊がついていますから、想念を入れ替えようと思いましても、強い霊がついておりますので、それをまず除霊します。そうすると、強力にマイナスの想念を受けなくなります。
これも両方で、自分がそういうマイナスの波長を出すから、マイナスの霊が来て一体となっているわけです。
合体霊というんですけど、タヌキがズーッとついていて、タヌキがとれても、本人のご本霊がタヌキみたいな顔をしている入っています。タヌキをとったら、その人は死んでしまうという人、います。キツネをとったら、その人も死んでしまうという……。
本人の御魂が消えちゃって、背後のキツネとご本霊がひとつになっちゃってるのを、合体霊と言います。
背後のキツネを除霊しても、本人の御魂自体がキツネになってしまっているという場合は、徳を積んで、想念を変える以外はないわけです。マイナスに影響している霊を除霊して、本人がキツネかタヌキのご本霊になっていた場合はマイナスをとって、想念のチャンネルを変えまして、プラスのものに来ていただく。
本人の想念が、娑婆即浄土の想念界、さっき言った一つの法則に合ったかたちになりましたら、今度はプラスに導く守護神様、守護霊さんによって、運命がいいほうへ好転していくわけです。あるいは、悪い因縁がいい因縁に変わっていきます。
自分が変わらない限り、悪因縁は切れない
人間は、命ある限り因縁なんて切れません。因縁というのは原因と結果、「因」というのはコーズ(cause)、「縁」というのはリレーション(relation)ですから、コーズ・アンド・リレーション(cause & relation)。原因となるものと、それとの関連性です。
因果を明らかにするということはどういうことなのか。悟るということは因果を明らかにするということです。「ああ、俺はこういう因縁なんだ」と言って、ギブアップするという意味ではなく、原因とリレーションを明らかにするということなんです。
要するに、悪因縁なんていうのは、本人が変わらない限り、絶対に切れません。無尽蔵に悪霊はいますから。
だから、因縁切りのお行をする時は、お行をする姿勢が、愛の心と慈悲の心を持って、世のため人のためにとか、「させて「いただく」とかいう慈悲の心をベースにして精進する。
単に求めるだけじゃなく、大きな慈悲の心、明るく物事を考えていって、物事に執着しないという気持ちで修業すれば、神や御仏の気持ちになりますので、どんどんどんどんプラスへ行きます。
胎蔵界と金剛界でもそうですし、小乗仏教、大乗仏教もそうです。一生懸命、自分を極めていったら、「ああ、やっぱり、仏様、神様は慈悲、全部愛の存在だったんだ」と愛に目覚めまして、実践行動、徳を積んでいこうという気持ちになります。
お釈迦様があれだけの修業をされたのは、修業を積んで涅槃寂静すればよかったというわけではありません。
お釈迦様がなぜ四十年、五十年も説法を続けたのかといったら、衆生を愛して、衆生のために少しでも役に立ちたいという心、やはり慈悲の心です。
衆生に対して、大きな大慈大悲の御心で説法をなさったんです。だから仏教というものは、お釈迦様の大きな慈悲の表現なんだ、というのが大乗仏教の立場です。
大乗仏教の立場で、慈悲の心を行い、一生懸命修業をするのを菩薩道と言います。菩薩道をして、お釈迦様の大きな大慈悲に見習って、努力していこうというものです。
ところが、そういう気持ちの大乗仏教をしておりましても、ノミとかミミズとかキリギリスが、慈悲の心を起こしましても大したことはできません。
「ああ、神様は立派なのに、慈悲の行いをしていく、菩薩道していくっていう自分は、いかに頼りなくて、無能なことか。少しでも自分を立派に磨かせていただかなかったら、神様仏様は、私を通して、大したお働きはできないだろう。
守護神様、守護霊様も、世の中に大慈悲を発揮することはできないだろう。慈悲の心を極めて、もっと自分を立派にしなければ申し訳ない」という愛から発した気持ちで自分自身を立派にしていけば、神様仏様が守護してくださいますので、どんどんどんどん立派になる智恵を与えていただけます。
自分を立派にする道へと導いていただけるのです。
行の世界に入ると、胎蔵界という世界には行きますけども、精進努力して行を積んだというだけです。行者界には行けます。行者がいる世界に行きます。
霊能力とか超能力は、なんのための霊能力なのか。なんのための超能力なのか。なんのための知識なのかということです。
全部慈悲の心、人々のために良かれ、神様にとっても良かれという気持ちで磨いた行、あるいは知識、智恵、でしたら全部、世のため人のために活用することができる。これがご神業です。
神を行じているわけです。少しでも神様の役に立たせていただこうという気持ちで勉強したものは、全部、体施、法施、物施のもとになっています。こういう存在が、胎蔵界の仏様なんです。
そういうものを学んできたら、今度は、もっと世の中に直接的に出していこうというので、金剛界の仏様の局面が必要です。両方要るわけです。
これが曼荼羅っていろんな解釈できますけども、そういうふうに考えまして、小乗極まれば大乗となり、大乗極まれば小乗となります。陰と陽になっていますから、不即不離で、どちらも離すことができません。こういう理解は何度もお話ししておりますけど。
以上のように、因縁を切るとか、運命を良くするということは、最終的には、自分自身がその霊界の法則、娑婆即浄土というものを、常に実践するような自分であり、霊界というものもよく知って行えるようになるということが近道ですし、これしかないわけです。
いい因縁を自分が自分で作ることはできるわけです。
お話はちょっと横道にそれましたけども、因縁を切るとはどういうことか、
因縁切りとはというお話の一つの結論ということで、パート1を終わりたいと思います。
どうもありがとうございました。(拍手)
