【第三章】心の教養・真の学問を積む(昭和59年12月29日)
守護神・守護霊は御魂の両親
パート3を行いたいと思います。パート2は、いわば守護神、守護霊さんの見地ということで、そういう目で見ておられるということ理解したんですが、このパート3では、一体どういう時にその守護神、守護霊が動くのかということを考えます。
まず、守護神、守護霊が全部やってるってわけじゃない。その人の御魂、その人の本質、御魂、ご本霊から出てくるものがあって、守護神、守護霊はあくまでそれを守護し、導いてリードしていく道案内なんです。
前世が兄弟の場合、今世はお母さんになったり、前世のお父さんが今世はお母さんになったりすることがあります。
現世の父と母がありますけども、守護神様、守護霊様は、いわば目に見えない世界のお父さんとお母さんです。
父の如く母の如く、守護したり、守護しなかったりしながら、その人の成長を見ているわけです。ですから御魂の父と母と、肉体の父と母という形で理解していいんじゃないかと思うんです。そういうかたちで、御魂様の大きな見通しをしていくんです。
守護神、守護霊さんはどういうものかと言いますと、例えば、お父さん、お母さんというのは、普段じーっとしておりますと「何やってんだ、お前は。勉強しなさい。これをしなさい。あれをしなさい」と言って、尻をたたきます。言われてやり始めるわけです。
這えば立て、立てば歩けの、母心ですか、親心ですか。同じように守護神、守護霊さんも、ボケーッとしておりますと、ガミガミしかったり、警告を与えまして、歩み始めましたら静観しているわけです。ああ、がんばってるなと。
お願いをしても、プラスになることには動いてくださるけれども、聞いてマイナスだなと思うことは聞かない、聞いてても動かない。
ううん、まあ聞いておこうと、じーっと見ているわけです。正しい天の目から外れないかをご覧になっています。あるいは、まっすぐ行ってて良かった、うんよしよし、後押ししてあげようとなんて意志を持ってますから。なんでもお蔭を全部くださるっていうものじゃありません。さっきお話ししたような見地で見ておられます。そういうことで、肉体の両親と、御魂の両親があるんです。
そして、志が強くて一生懸命やっている人には、守護神、守護霊は、列をなして、ズラーッと並んで、複数の、多くのバックアップするような霊がいる。
だから、一つの志を持ちまして、最初はその人の守護神、守護霊さんが守護するんですけども、どんどんどんどん加速度がついてきますと、お父さんの守護神、お母さんの守護霊とか、家族親戚の、ご先祖さんもなんとかその志を遂げさせてあげようといって、非常にたくさんの背後霊が守護します。
そういう人は、すごく大きく感じます。すごくパワーを感じるし、何か勢いがあります。「運気がいいですねー」と西谷さんが言っている場合は、まさにその守護神、守護霊さんのバックアップがすごい。足りない場合に応援部隊を頼みますから。たくさんの方が、プラスへプラスへという天の法則で、本人を導くわけです。
心の教養・真の学問を積む
それで、そういう法則だと分かっておりましても、本当の意味での心の教養、学問を積まなければいけない。本人が変わるためには心の教養を積む、真の学問を積まなければなりません。
真の学問、あるいは神学問と申しますか、植松先生曰く、真光の岡田光玉さんも言ってるんですが、「今の学問はね、これだよ。『我苦悶」(板書)」。
素直に考えてやればいいものを、我を出して、観念、哲学で、智恵ができればできるほどああでもない、こうでもないというかたちで哲学的に試行錯誤している。念の重みで。
なんかすごく知的には優れているんだけど、知識もあるし、よく考えるんだけども、考えてるというだけで。口と心と行いの三つが要ると言いましたけど、言心行(板書)、口と心と行いが三つ揃って改心と言えると。
改心すると言いましても、一時は想念を転化しても、行いが全然伴ってなかったら本当の改心ではない。本当に心がそう思ったら、そういう口が出るだろう、そういう言葉が出るだろう、本当に心が極まればそういう行動に出るはずだよと、この三つが揃って初めて心が改まったということが言えます。
想念だけが改まってもだめなんです。本当に想念が改まって、心が改まったというのなら、三つ改まって初めて改まったということになりますから、三つ揃わなきゃだめです。
そうするために、今は、知れば知るほど、知識が多くなればなるほど、どうしていいかわかんなくなっちゃう、勉強すれば勉強するほどわかんなくなっちゃう、考えてもわかんなくなっちゃう。やればやるほど、「我苦しみ悶える(我苦悶)」、わかんなくなっちゃう。
真の学問、神様の学問、つまり単なる現実界の理屈ではなくて、神界、霊界、幽界をよく知って、それをよく学びながら、ただいまを前向きに生きていかなきゃいけない。
ただいま、ただいま、ということは、前世の借金と貯金と来世の積み重ね、天網恢恢疎にして漏らさずということで、今のただいまというのを、いろんな角度から、パート1、パート2に続いて分析してみたんですけども、守護神、守護霊もそういうものを法則で見ているわけです。
じゃあそのただいまをどういう方向で持っていけばいいのか。学問にもいろんな種類がございます。
真理を克明に深く深く、意識意識と言って真理を分析していくというのも一つの学問です。が、どちらかと言いますと、今言った面の天国、極楽、御魂の天命ということからみた学問というのは……。
それは中国の、ずーっと昔から出てくる学問、いわゆる儒教、老子、儒学と老子というものがそうです。ヨーロッパで宗教、魂とか神学といわれるものを、学問という領域の中で宗教的な分野を扱ってるわけです。
そういう学問を積み上げていくということが、結局、宗教にしましても、神様の教えを聞きましても、咀嚼力が違ってくる。
間が空くから魔が入る
そういうことで、いろいろな教えはあるんですけども、先ほど申しました守護神、守護霊が喜び、産土様が喜び、神様もよしよしというかたちの、一つの捉え方と致しまして、こういう禅問答があります。
「私はいろいろと心配ごとと不安がございまして、仕事が手につかないんです。
作曲活動をしようとか、芸術とか、学校の先生とか、調理場に入ったり、あるいは手相鑑定してるんですけど、来年のこととか、彼女のこととか、ある程度心配がありまして、仕事がなかなか手につかないんでございます」。
心配とか不安感があって、仕事が手につかないと。そういう場合に、どうしたらいいんですかということで、お師家さんに禅宗のお師匠さんのことをお師家さんというんですけど問答をしました。
その答えとして、お師家さん、「いや、そうか、じゃ、いろいろと心配して、不安感が出ないぐらいに仕事をせえ」と、これが答えでございました。
つまり「間が空くから魔が入る」(板書)んだと。魔というのは間が空くから。ただいま、ただいま一生懸命、とにかくさっき言いました真心と善をもってやっていけばいいんですけども。とにかく目の前にあることを、三つの方向から一生懸命やってる人というのは守護神、守護霊が自ずから守ってるわけです。
さっき言いましたように、「心だに誠の道にかないなば祈らずとても神や「守らん」。一生懸命やっておりますといいんですけど、間が空いてボーッとしていたり、何か心配ごとがあったりしますと、間が空いて魔が入ります。
ゲーテの有名な言葉で、「人間は努力する限り迷うものだ」(板書)というのがあります。ゲーテが言っております。
人間は、一生懸命努力すれば努力するほど迷うもんなんです。人間、迷わなくなっちゃったら、努力してないという証拠です。何か一つのことがあったら、今度はああしてこうして、こうしようか、ああしようかと、絶えず迷いは起きます。
どれか選択しなきゃいけないんですけども、精進努力していたら必ず迷うものです。だけれども、どれか選んでいかなきゃいけない。人間には、迷いが起きるのが当然なことなんです。
では、その時にどうしたらいいかと言ったら、とにかくただいま、ただいま、目の前にあることをしていったら、一つまた一つと解決策がこうだ、こうだ、こうだということを、守護神、守護霊が自然にパッと智恵を貸しますし、自分自身の内面、御魂でパッと分かる時があるわけです。
禅宗の場合には守護神、守護霊という解釈はしませんけれども、ただいま、ただいまを生きることによって、それも無欲で、観念に囚われずやるということによってできますよと、禅宗ではそういうに言っております。
どんなものでも、結局、ただいま、ただいまのことに間が空きますと、そこに魔が入りまして、不安感や悪想念が出てくる。念が念を呼んでいくんです。
念の出ずることを恐れずに、その悟ることの遅きを恐る
こういう言葉がございます。「念の出ずることを恐れずに、その悟ることの遅きを恐る」。その念の出ずること、念は今の心です。
今のただいまの心というのが誰でも見たり聞いたりして起きて、迷いが、努力すればそれは起きるもんですよ、その念の出ずることを恐れず、誰も出るんだけども、あっ、こんなこと思っちゃいけないんだと。
念の出ずることを恐れずに、その悟ることの遅きを恐る、ということは、念が念を呼び、念が念をまた呼び、雑念妄想とか不安感というのは、どこまでもどこまでもズルズルズル行きまして、知らない間に思いという雲に重くなっちゃう。
知らない間に迷いごとや心配ごとで暗くなっちゃう、過去の嫌な思い出がそれからそれへとズルズルズルズルと念というものは、芋づる式に出てくるんです。
パッと念を出た時、ああっ、こんなこと思っちゃいけないとパッと想念を切り替えますと、「心外悟道なし」(板書)と言います。パッと想念を切り替えますと、心外、心の他に悟りの道はなし。
心外悟道なしと申しまして、思った瞬間にパッと切り替えて、いい状態になった時に、守護神、守護霊がパッと教えるんです。
その時に、叡智とか悟りを守護神、守護霊が教える場合と、自分自身の御魂の潜在意識-自分の御魂、潜在意識の中に、記憶が残っておりますんで自分の御魂がパッと出てくる場合があるわけです。守護神、守護霊が教える場合と、ご本霊がパッと悟る場合があるわけです。
「念の出ずること恐れずに、その悟ることの輝きを恐る」。念から念が芋づる式にズルズルズルズル来て、思いの暗ーい、重みの世界、あるいは暗い、嫌な思いで念が出ている場合は、愛念も出ていませんので、決していい神霊界に感応しておりません。
悪い霊界のものがフワッと符合して、ぐいぐいぐいぐい悪いほうへと引っ張っていく。芋づる式に出てきた念のところに、もっと大きな霊が来まして、グワッと足元をすくう。
これが魔が入るということなんです。魔物に襲われる、魔が差したなんて言います。魔が差したということは、魔が差すようなものを念が固めていきまして、魔を呼ぶような要素を自分が持ってるから、魔がパッと来て差すんです。そういう符合する霊が来てやるんです。
その法則に則っておりますので、それを防ぐためには、念から念へというかたちで重くならない、暗くならないこと。
それから慈悲の念という、自ずから出てくる爽やかな愛念というんですか、慈しみ内面性から出てくる、自ずから出てくる慈悲の心というもの、御魂の奥の仏性から出てくる自らの仏性を念の雲によって閉ざさない。それを消していくこと、出すなよということ。
禅宗は無の宗教ですから。神学問というのは禅宗なんかもその一つでございまして、想念の切り替えの上手い人、勉強している人は、守護神、守護霊のことを知らなくても自然に守られておりまして、叡智とか導きのまにまにいい人生に行くわけです。
