深見東州の土曜神業録13(Vol.8)

遠く遠く、近く近く、我はおわすなり

冥王星と天王星があって、神は万物宇宙を創られたなんてイメージは、何かすごく……………。

そういうふうに天文学的に考えましたら、神様ははるかなものになるんです。はるかなものではありますけれども、無限絶対極にいますから、すぐ目の前にも来るわけです。すぐ目の前にあると思えば、近いんです。

これを、観世音菩薩様は、植松先生に「遠く遠く、近く近く、我はおわすなり、観世音菩薩」「遠く遠く、近く近く」、これは植松先生が、近く近く、ここにおられますよ。

「我はおわすなり」という。これは自己尊敬語ですね。日本の古文献を見ますと、尊い人がみずからを言う場合に、みずからを尊敬する、自己尊敬形態というのがあります。

「遠く遠く、近く近く、我はおわすなり、観世音菩薩」。こういうご神示を得まして。だから、宇宙のかなたのはるかというよりも、神様というものは、いらっしゃると思えば、そこにいらっしゃるんです。

アッラーの神が太陽のかなたにと思いますと、いつまでも距離があるわけです。そうしてみずから近いものにしないとだめです。日本の形はそういうふうにできております。神様を近いものにしていくというのが、日本の昔からありますやり方なんです、祭りと。

この法則というものがわかっておりますと、神人合一の道をここは伝えるわけですけれども、非常にすばらしいものが体得できる。

大本教の「筆先」にもありますけど、人はどうすればいいか。「神様に半分乗っかかって、斜め歩きをしなさい」。どういうことかといいますと、俺は俺で生きていくぞ。

ヒューマニズムにのっとりまして、そんなの神なんか信じるよりも、俺の人間の存在が尊い。ヒューマニズム、知性、これが存在の先にあるんだと思って、みずからの存在と理性と知性で生きていく人間というのは、自己があるわけです。

あるいは逆に、神様にという形で全部お任せ。例えば、これも浄土真宗、法然さん、親鸞さんの間違い、間違いではございませんけれども、受け取り方が違う。

何でもかんでも南無阿弥陀仏と言えばいい。自分で努力してやればできるのに、あした試験があって、これを練習して、レッスンして問題集の答えを見て暗記すればいいのに、南無阿弥陀仏、朝から晩まで南無阿弥陀仏していましても、人の努力がない、精進がない。

そうかといいましても、神なんか、おれの自力でやるんだと、全く関係なく自分でやりまして、みずからの知性と努力で生きていくという人間、これは神様が守護しないから、妙がない。

心の安らぎがない。じゃあどうしたらいい。半分神様にもたれかかりながら歩いていく。「自力の中に他力あり、他力の中にまた自力あり」。自力本願と他力本願の中庸を行く。これが妙です。

ヨーロッパの場合は、信じれば天国に行く、信じなければ虚無思想、虚無だと。ここに恐怖というのがあるわけですね。安らぎがない。

信じたら神のお子になる。だから、その発想方法に行き詰まりましたので、東洋的な発想方法をヨーロッパ人というのは求めておりまして、求めつつあるという状況だと思いますけれども。

日本神霊界の組織

日本の場合はいいわけです、特にね。東洋って、日本はいいんですよ。「天照大御神、どうも好かない。おれは恵比須さんが好きだ」「恵比須様もなあ、おれは」「私は何といったってお月様が好きだから、月読命だわ」「いや、私は家が八幡さんがいるから、八幡さんがいいわ」と。

八百万いろいろいますから。別にこれ一つでなくてもいいわけです。大本教は国常立命、ああいう神様が好きだと。何かを信じなくても、これでもいい、あれでもいいという形で、非常に楽々としたもんです。

唯一教というものは、近代的で世界宗教的で、多神教というのは、ちょっと民族宗教的であるというふうに宗教学的に言うケースもありますけれども、心の中は豊かでいいですよ。

特に日本の神道の場合は、天照大御神様を中心にしまして、いろいろ、あちらの神様もこちらの神様も大切にする。

これは、例えて言いますならば、営業します場合に、社長さんに、何でも社長、社長と言えばいいもんじゃないんです。

一応社長に言えば何でも「よし」という形で聞いてくれますけれども、担当の窓口というのがあるわけです。社長が直に聞いてくれるのはいいんだけれども、「担当の窓口も一生懸命やっているから、君、窓口のほうも大切にしなさいよ」と。

どこかに営業に行きますと、営業経験がある人はわかると思いますが、仕入部長とか、決定者にさあーっと言ったからっていいもんじゃないんです。平社員ほどちゃんとしなかったら、意地悪しまして、情報を教えなかったりしますので、担当窓口も大切にすると。

しかし、担当窓口だけだったらなかなか上に行かない。いざというときには決定が遅い。だから、窓口の人も大切にしますし、課長もちゃんとするけれども、社長のほうにもちゃんとあいさつしている。

上と下を両方やっておかないと、なかなか会社はうまくスムーズにやってくれない、仕事をくれない。終わりです。

窓口になっているのは守護神さん、守護霊さん。あるいはその近くの産土様なんです。天照大御神様も、今一番というときには聞いてくれますけれども、担当窓口を大切にしなかったら、身近なちっちゃなことは言ってくれません。

窓口の人に一生懸命言っていても、「あっ、これはちょっと私じゃできませんから、ちょっと経理のほうに行ってきます」という形で、自分に合わないことは経理部のほうへ回してくれる、社長のほうに社内稟議を上げましてやりますという形で…。

神々様というのは、礼節を持っておられますので、あんまり何でもかんでもということないんです。自分に合わないな、できるけれども専門じゃない場合は、そういう方にお譲りなさるんです。

だから、会社形態によく似ています。そういうふうな神霊界の組織になっているわけです。それを知っている人は、守護霊さんなり守護神さんなり、窓口を尊重しまして、ここ一番というときには、社長さんに、天照大御神様ということで。

必ず、来たら名刺を社長のところに置いていく。そういうふうにする人が、仕事をもらえます。会社から協力してもらえます。同じです。よく似ているなあと思いますね。

とにかくそういうことで、一神教であると同時に多神教。一神即多神と。日本は単純な多神教だというわけじゃございません。

このように、神道の神霊界の有り様を見てみますと、そういうふうにキャッチしたほうがわかりいいんじゃないかと。キリスト教は、一元的で単純ですね。信じたらいいけれども、信じなかったら虚無だ。日本人が明るいのはそれですよね。あんまり虚無思想って合わないです。

いっときは近代的なブームで、阿部次郎の「三太郎の日記」とか、倉田百三の「愛と認識との出発」なんていいまして、哲学の本がありまして、難しい難解な本を読んでいまして、自殺する、身投げする、人生これ不可解なりというので、華厳滝から落ちた藤田何とかっていましたけれども。ああいうのがブームになったときがあります。

まあ、そういう時代であったんでしょう。 しかし、それは合わないです、日本人はどちらかといいますと、これがだめならあれという、非常に明るい、天真爛漫。こういう精神的なものがあります。神様もそういう形で……。

顕祭と幽祭、日本神道というものはこういう形ですので、皆さんが、例えばお玉串だというふうにするときも、これしなきゃいけないかななんていうと、それだけで終わっちゃうんです。

私は、こういうご神業が済んだ後、お玉串を全部、ご神前に並べまして、こういう形でございましたと言上申し上げます。何々さん、何々さん、お腹の調子の悪い人は元気になりますように。

精神的悩みの人はちゃんとできますように。頭のぼけっとしている人々は少しでも冴えますようにとか、日焼けの人は白くなりますように(笑い声)、いろいろお願いするんです。

そのときに、見たら、ぱあーっと光っているお玉串。あっ、これだ、この人なりに精いっぱいやったんだなと。

真っ黒にべしっとありますよ。形は出していますけれども、幽祭が入っていないわけです。

気持ちはあるけれども、まあ、五百円ぐらいでいいだろうなんていう人、いましたけど、気持ちはあってよかったと思うけれども、まあ、こんなんでいいやというのは、せこい考えは全部神様はご存じで、それなりの気持ちでしているという形ですとぴかーっと光っています。

そういう人は、必ず御神霊が動きまして、そのした気持ちの何十倍となって返りますようにと。これが神様の意思です、神道の。顕祭、幽祭しまして、その後で直会していこうと。

神様はとらないんです。何十倍にして返そうというのが、神の心です。同じやるんだったら、そういうふうにしたほうが得です。

神様に受け取ってもらわないと。私にするんじゃありませんから。

目に見えない神様というものに対して、そうか、やってみよう、それが通じるんです。そういう人にお陰とか、神様の悟りとか、叡智とか、ご神力というものは必ず正比例します。必ず正比例します、その人の気持ち、顕祭、幽祭。それが自然です、まさに。

不自然は神ではない

それから、「自然は神なり」という言葉は、もっともっと深い意味があります。この逆説は「不自然は神ではない」です。「不自然は神ではない」。「自然は神なり」の逆は「不自然は神ではない」。

前にお話ししました、臨済宗を開きました臨済禅師のお師匠さんは、黄檗禅師といいました。黄檗宗の黄檗ではありませんよ。黄檗禅師。体の大きな禅師でございまして、その黄檗禅師が、お友達と川縁を歩いておりました。

そのお友達は神通力抜群、五祖弘忍禅師も顔負けという人でございまして、川の上を歩くことができる。イエス・キリストもそういうようなことをしたらしいですけど。あるとき、黄檗禅師とその友達と川縁を歩いておりまして、すぐあちらのほうに橋がかかっておりました。

もうそろそろ渡ろうかなと思ったときに、そのお友達は、ちょっと失礼と言いながら、川の水の上をパッチャパッチャパッチャ歩いている。

昔、忍者ブームのときに、こういう木の上に乗りまして、しゃっしゃっしゃっしゃっと歩いているのありましたね。これに似たような水道具なんかも玩具で売っていまして、私もやって、すってんころりんと琵琶湖の上で転びました思い出があるんですけど、関係ないんですけど。

そういう感じで、すいすいすいすいすいと水の上を歩いていくんです。普通、そんなの見たら、「わお~」なんて言いますよ、「すごい」なんて言います。

ところが黄檗禅師は、急に不機嫌な顔をしまして、向こう岸に渡った途端、「このばか者!おまえなんかは、もう友達でも何でもない。きょう限りもうお別れだ。この野郎。川を渡りたかったら、橋があるじゃないか。なぜわざわざ水の上なんか歩いていくんだ。橋は渡るために置いてあるんだ。

何でわざわざ水の上を歩くんだ。そんなものをしてわしを驚かそうと思ったのか、ばか者め。そんなやつは、わしの友達でも何でもない」

一喝しまして、それから絶交しました。

黄檗おうばく禅師。「正法に不思議なし」と。正しい法に不思議はないですよ。この天地自然のありさま。なぜ人間が子供を産むんだ。子供は子供で、やっぱり原因がありまして結果があって生まれる。

それなりのことすれば、そういう結果がございます。しかし、産む能力そのものは誰が与えたんだ。なぜ、一月か三月じゃなくて十月十日あったら、みんな平均的に生まれてくるんだ。成すべきことをしたら成すべき結果が出て、子供が生まれるのはなぜなんだ。産む能力は誰が与えたんだ。

自然だ。自然とは何なんだ。そのごく自然に我々がやっていることを考えたら、まさに神秘です。なぜ、春夏秋冬、連続でやってくるのか。不自然は神ではない。春夏秋冬、順序よくやってくるんです。

神様が全知全能で、絶対力があるんだったら、すぐにぱっと戦争なくせばいいじゃないか。貧しい人がいるというんだったら、ぱっとお金をひらひらと降らせばいいじゃないか。

例えば、物品引き寄せの術で、ミカンをむきましたら、ミカンの房の中から金の大黒天様が出てきたと。

物品引き寄せの術というのであるんですけど、そうすればいいじゃないか。なぜすぐに戦争をなくさないんだ。なぜすぐに貧しい者がぱっとお金持ちにならないんだ。こう思いますよね。

それは、神様というのは、自然の法則をお作りになったので、基本的には不自然なことを好まないので、人間の努力と時間とじっくり経まして、人類というものも生成化育して発達させていくんだ。

これは、神様が法則をつくったから自己矛盾するから、できるだけ自然な形でというふうなものを尊重されだから、そういう不自然な超常的なものをやるのは兇党霊団といいまして、邪気である場合が多い。

ただ、イエス・キリストとか、いろんな形で不思議を見せたりしますけれども、庶民がそのままではわからないから、神様も仕方なく、メシアとか、そういうふうなのに限りまして、そういう不思議なものを見せて、ああやっぱり神様というのはあるんだな、そういう不思議なものってあるんだなというんですけど、本来はそういうものは好まないんです。

仕方なくやろうと。だから、苦しいときに病気も治すし、霊障解決という形で、それは当然のことと言えば当然なことで、法則はありますけど、ごく自然な形で

やっていくという形が、「善因善果、悪因悪果」。悪いことを、先祖が苦しめているから、子孫が苦しむのは当然なんですいいことをしたらいいことが出てくる。

前に言いました、「積善の家には余慶あり」。善行功徳を積んだお家にはいいことがあります。これが自然なんです。「積不善の家には余殃あり」。余りの嫌なこと、殃ありというんです。

善行を積んできた家には、余りのいいことがあります。何か、あそこの家は全部ハッピーだな。「積不善」、小作人を苦しめた何かしたら、肥溜地獄に入ったり、いろんな苦しいことがありまして、子孫が嫌なことがあって、何かあそこの家は全部兄弟が仲よくない。びっこだとか、血友病だとか、病気している人間が多い。「積不善」、人を苦しめたり、益しないことをしてきたら、余りの嫌なことがあります。

これは自然なんです。「易経」にあります、これは。「積善の家には余慶あり。積不善の家には余殃よおうあり」。

これは、「善因善果、悪因悪果」とも言えます。これが自然なんです。だから、みずからが努力して、改心して、何とか世のために、これじゃだめだから、自分が精進努力して、神様のためにとか、世のためにやろうじゃないか。徳を積みますと、この余りの嫌なことが最小限でとどまります。

だから、何か知らないけどすいすい行くという人は、先祖が徳の高い、仏心に厚かったり、世のために貢献した人というのは、目に見えない無形の徳がありますから、どこかすいすいうまく行く。逆の人は、何やってもうまくいかない。もうちょっとで駄目になっちゃう。これ、中途挫折の因縁というんですけど。

しかし、なぜそうなのかがわからなければかわいそうだというので、いろんなメシアとか、そういう霊的に敏感な人が来て、こうらしいなんていうことで、ああ、そうか、俺は間違っていたなということで、それが宗門宗派が出てきて今日まで来た神様の救いの手立てなんです。

だから、一足飛びにすぱっとそんなのなくしちゃって、すぐに幸せにほっとすればいいじゃないか、戦争をぱっとなくせばいいじゃないかということをしないのは、不自然は神ではないから。

例えば、ササニシキを神様が発達させようと思ったら、ぱっと突然変異でササニシキができるんじゃないんだ。

あるときに、Iさんという名前の、どういうわけか、生まれながらにお米が好きだ、稲の葉っぱを見ただけで、「稲の葉っぱ~!」というように好きな人が出てきて、そうさせている。

守護霊さん、守護神さんが導きまして東京農大に進みまして、とにかくおいしいお米をというので、五十年たちまして、勉強努力して、ササニシキのできる一つ前のいいのができた。

そういう人の意志を見まして、「あ、Iさん、お米にかけた一生、すばらしいな。僕も生きるんだったら、トンボよりもやっぱりお米がいい」というので、その人の伝記を読みまして感動しまして、Tさんという、今度は一つ生きるんなら、俺はお米の開発に生きようということで努力しまして、三十年、四十年研究努力しまして、ササニシキを作り……。

今度はその教えを「すごい、このササニシキは、前はこういう人たちが努力した。俺も生きてみよう」。Fという人がいまして、そして、「もっと、俺は、どんな寒いところでもササニシキよりもほっぺたが落ちるようなすごいお米を作るんだ」。

その伝記を見まして、お米つくりにということで、北大の農学部に入りまして、薬学部にいた女友達もいたんですけれども、彼女も「私も、じゃあ、協力してお米をつくるわ」ということで、薬学部をやめまして、農学部に行きまして、その二人は協力して、日本お米開発センターをつくりまして、東京農林第何号、最高においしいお米、どこへ植えてもできるお米。

神様は、いっぺんにぱっと出すんじゃなくて、この三次元の世界では、そういう人、それが天命を持っている。それを全うするために、守護神さん、守護霊さんがつきまして、お米というものが、全然まずかったお米が、ササニシキができて、農林十何号というふうな、本当においしいおいしいお米を作る。

この間、百何年間の間かかりまして、人を通してそういうものを作る。神様は、「自然は神なり」。そういうふうに人が生まれてきて、守護神、守護霊が導きまして、努力して、お米というものが百年たって開発されました。

これが「自然は神なり」。そういうふうな自然なプロセスを経まして活動していくというのが、「自然は神なり」。神様の生成活動する姿なんです。不自然は神ではない。だから、「正法に不思議なし」。あんまり不自然なことはお起しにならない。神様はそうです。

弥勒の世の五箇条

だから例えば、ご神霊というものは、上は洋服着ておりまして、下は和服、ふんどしを出しておりまして、下にげたをはいている。そういう姿を神様が見たら、あんまりきれいとは思わない。

ああ、マッチしている、きれいだな。ぱっと人が見てきれいなように、我々の中の内部の神様がありますから、神々様も美しいお姿が好きなんです。

だから、きれいに盛りつけをしたり、お茶とか、お花とか、絵なんかも、美しいものが好きなわけです。

それから、春夏秋冬、順番に来ます。俺は秋が好きだからといって、春の後、夏を飛ばしまして、ぱっと秋が来ないです。それだけの順序とプロセス、秩序があるわけです。自然の秩序。

植松先生いわく、神人合一していくとかって言いますけど、五箇条があります。これは弥勒の世というテーマでお話ししたときにも説明しました。

まず第一に、弥勒の世というものは、神人合一して行くために第一番に必要なのは、信仰心である。第二番目は愛念である。第三番目は秩序である。第四番目は調和。

これは、神様がポイントだけを植松先生に教えられまして、五番は平和の心。

例えば、松本道弘先生。英語に生きる、英語道だ。どんなに夜が遅くても、酒飲みましても、朝六時になりましたら、極東放送をパチンとつけるんです。

もう、英語で生きると。俺は絶対に英語道をするということで、朝から晩まで英語に生きる。どんなことがあっても、何十年通して日本一になる。松本道弘先生にとりましては、英語が神様です。最近は英語から離れまして、日本の松本道弘になるなんて言っておられますけれども。

今度はもっと英語から離れまして、別なものを、これを通して自分を研さん努力していって、死ぬまでやり通す。それを通してまして、みずからを完成していく。松本道弘先生、今から何年か前は、英語が神なんです。

音楽家、すばらしい音楽家、メロディーをやるぞと。ヒット曲が出ようと出まいと、レコードを出すと言っていたお話がポシャっても、それでも俺は、レコードを出すためじゃないんだ、音楽が命なんだ。朝から晩まで音楽に生きるぞ、音楽こそはおれのすべてなんだ。

全身全霊を没頭する。没我没頭、徹底する。これが信仰心です。

だから、神様なんて拝んでおりましても、拝む心、崇敬する気持ちはありますけど、果たしてそこまで信仰心を持っているか。

大悟徹底、大死一番というお話をしましたけれども、それだけ神のために生きるかどうかというのがなければ、信仰心と言えません。ただ、信じて仰ぐ、文字どおり、「うん、いいな」。キリスト教の信者というものは、信、この信念の信ということをまず読ませる。

イエス・キリストも誰にでも奇蹟をあらわしたものじゃありません。イエスだったら助けてくださる。イエス・キリスト様を祈って、自分を助けてほしい。キリストの存在とメシアであることを信じて、助けてほしいと信じた人に奇蹟をあらわしております。誰でもかれでも奇蹟をあらわしてません。

バイブルをよく見てみたら皆さんおわかりだと思うんですけど。

信じた、どこまでも信じているということ。音楽家にとりましては、音楽というものがどこまでも没我徹底してやり通す。音楽も神です。

神様の創造芸術の一部ですから、別に形が出てくる神様がすべてではありません。「自然は神なり」というその言葉の大きな意味で、自然の中の。しかし、景色の意味ではありません。

この自然界の中の自然の音楽という世界があります。

それから、美。美しさ。画家ですね。絵を描く人。もう、この一枚の絵に自分は命をかけるんだ。

オー・ヘンリーの作品に「最後の一葉」というのがあります。病気で寝ている少女が、窓から、蔦の葉っぱが落ちて減っていくのを数えていて、「最後の一枚が落ちたら、私も死ぬんだわ」という時に、老画家が、嵐の中で壁に葉っぱの絵を描いて死んだ。

絵というものに対して、生涯を通して、絵によってみずからの魂を完成していく。すばらしい絵を描く。絵こそすべてなんだ。没我徹底。絵に命をかけている。絵がその人の神様です。

そういう意味での信仰心。

ですから、ここにはいろいろ宗教団体をめぐっている人たちもいますけれども、別にそうじゃなくても、音楽こそすべてだと生きている人は、信仰心があるわけです。

神様のある部分を得ているわけで、別に宗門宗派に入っていなくても、その人は信仰心があるわけです。信じて、それを敬って、どこまでもやり通すという心は信仰心です。

画家は絵、音楽家は音楽、教育家は教育というものに対して、それを尊びまして、すばらしいものをやっていこうじゃないかという理想と夢、徹底して人生をそれにかける、信仰心です。

しかし、信仰心だけあればいいもんじゃないんです。信仰心を持ちながら、「あんな悪い絵を描いているのは、だめだ、許せない」という形で、人の絵を破ったりなんかする。だめです、これは。愛念がなければだめなんです。

とにかく愛念、相手をよかれと。お客様がこれで・・・・・・。藤山寛美じゃありませんが、とにかく劇場では、お客様は神様です。

お客様が少しでも喜んでくれるように、いい演技を演出しようじゃないか。きょうも笑っていただこうじゃないか。少しでもお客様が喜んでくれる、いい音楽をつくろうじゃないか。

信仰心がありましても、あるいはその人の生活の中で、常に愛念を忘れない。相手のことを思う気持ちです。信仰心があったって、プロテスタントとカソリックとやり合っていますから。愛念がなければだめです。

愛念があればいいかと。非常に信仰心はありまして、相手のことを思いますけれども、社会と調和できないとか、独断と偏見で動く人とか、世の中と合っていないというのはだめです。秩序がなければだめだと。

春夏秋冬、順序よく来るように、そういうものの順序ということ、秩序というものがわからないと社会が乱れてしまいますよ、秩序をしっかりわかっている。信仰心を貫き通すようになって、思いやりもあって、秩序。自分のペースのまんまでやっている人がいます。

ある程度、自分の世界は要りますけど、秩序。

そして次に、秩序がありましても、何かの調和。お洋服にしましても、和食のときにビーフステーキの空揚げなんかが乗ってきますと、調和がない。調和。

最後に平和の心。平和、天照大御神という強い信念と、ああ、皆さん、隣組、五人組が、皆さん仲よくしましょう。思いやりながら、秩序を持ちまして、ぱっぱっぱ、行進を研究しました。一糸乱れない秩序、そして、天皇陛下のもとに皆さん調和します。

そして、大東亜共栄圏をやるためにアメリカをやっつけようと、戦争していたんで…。これでは、だめなんです。昔、そうでした。

信仰心が生まれました、愛念も生まれましたけど、平和の心がなかったから、戦争したわけです。平和の心というものを持たないとだめです。これが、植松先生がおっしゃった五箇条なんです。

これは抽象的ですから、いろんな面で当てはまると思います。すばらしい人というのは、どこかに、こういうような要素があります。

こういうものを得た人が、弥勒の世というのはこういう時代ですよと。別に宗門宗派というのでなくても、広い意味での信仰心ですから。

愛念だって別に、暑苦しいぐらいにキリスト教の滅私奉公というんじゃなくって、思いやりとか・・・・・・。これが自然ですよ、自然もそうですねと。「自然は神なり」ということの、この秩序ということにも関連しているんですけどね、調和。

天地に仁無し万物を以て芻狗となす

「自然は神なり」という言葉、裏返せば不自然は神ではないということで、逆に、「正法に不思議なし」という言葉がありました。

今度は、もう少し「自然は神なり」という言葉、前回は、ただいまに生きるで、くどくどと言いました。一時を過ぎていますので、眠い人もいるでしょうけれども、私は頑張ります。

つまり、「自然は神なり」。簡単な意味の中に、西谷さん、深い意味が入っている。これは、厳しい言葉でもあるんです。自然界といいますのは、弱肉強食、優勝劣敗、すぐれた者は残り、だめなものは滅ぼされます。ライオンは、弱い者を食べますね。

魚ちゃんも、いくら、慈悲だとか、生命は尊いといいましても、やられます。虫が好きな男の子がいますと、昆虫もやられてしまう。そういうふうに、自然界というものは、強い者勝ちの世界があるわけです。

「老子」の有名な言葉に、「天地に仁無し。万物を以て芻狗すうくとなす。君子に仁無し、百姓を以て芻狗となす」(板書)

「老子」に有名な言葉がございます。この後続くんですけど、世の中の宇宙はふいごのようになっていると。「天地に仁無し。万物を以て芻狗となす。

君子に仁無し、百姓を以て芻狗となす」。これは、どういう意味かといいますと、あめつち、天地の間に仁なんていうものはないんだ。儒教でいいますと、仁とは如何。

真心を籠もらすことだよ、人々を大切にすることだよ、親孝行することだよなんて言いましたけど、『老子』の言う教えは、天地の間に仁なんてないんだ。よろずのもの、万物を芻狗。芻狗というのものは藁人形という意味です。

万物をもって藁人形のように扱うものだ。「君子に仁なし」。

「君子は仁を以て尊しと・・・・・・」という儒教の言葉がありますので、これは非常にパラドックス的な、儒教に反するようなことを書いてありますので「老子』は「孔子」の後でできたのではないか。

孔子」よりも「老子」は後じゃないかという説があります。老職という人が老子だと言われているんですけど。

つまり、天地の間には儒教で言うところの仁、真心とか、思いやりとか、そういうものはない。よろずのものを藁人形のように扱う厳しい面があるんだ。

君子というものには仁がない。百姓、よろずの民。「ひゃくしょう」ではありません。これは「ひゃくせい」と読むんですけれども、よろずの民を藁人形のように扱いますよ。非常に厳しい言葉があります。

これは例えば、ヒットラーが言いました。

「国民の半数の意見を反映して政治をしようとするならば、どうするか。もうあと半数の意見を無視せよ」

例えば、手術をする場合、ガン細胞があって、苦しい苦しいという場合にどうするか。その命を助けるためには、手術しまして、顔がこんなになるかもしれませんけれども、胃腸がちっちゃくなるかもしれませんけど、ずばっと手術しまして、血の膿を出してやるんだ、そういう厳しい面。

自然界を見てごらん。強い者勝ちだよ。ライオンがちっちゃな鹿なんかも、シマウマなんかもやっているだろう。このような自然現象、「自然は神なり」という言葉の奥に、神様の持っている厳しい面があるわけです。

戦争というものは非常に惨めなものです。人殺しというのはあっちゃいけないことなんですけれども、逆にいいますと、戦争、殺し合いがあったからこそ、人類は反省しまして、国際連盟とか、あるいは武器弾薬、飛行機が発達しましたのは、今我々が交通機関が発達しまして、世界は小さくなった。

それは、この第一次世界大戦、第二次世界大戦、航空戦略。戦争で、大変悲しいことですけれども、飛行機、科学技術は進歩したんです。

ですから、戦争は悪かと言えば、必ずしもそうとは言えない。確かにいいことではないけれども、もっと大きな天地、神様の目から見たら、長久な人類の発達、プロセスの中で、悪とばかりも言えない。

善の面もあるんだと。そういうものを乗り越したところの厳しい面があるわけでしょう。強い者が勝っていって、弱い者が滅んでいって、優秀な種族が残りまして、今日我々残っているわけです。

ヒットチャートで残っておりましたものが、いいからっていつまでも売れておりません。新しいのが出てきたら、前のヒットグループは惨めに敗退していきまして、ライブハウスでも全然、もうちょっと新鮮味がないねと。

いっときヒットは飛ばしたんですけれども、次にヒットが届かない。またすばらしい曲が出たら呼び戻すけれども、前がヒットだったからといって、どうぞというわけじゃありません。

優秀な音楽、新しい音楽という、すばらしいものがあったら残っていくわけです。それを、最後まで残っている、西谷さんいわく、筒美京平さんのような、すごい強靭な精神力とパワーと努力をやっている人は生き残っていくわけでして、一曲、二曲出して終わっていく人もたくさんいるわけです。

音楽家でも教育家でも、芸術家は全部そうです。そういう厳しい面があるわけです、自然界には。

神様の持っている一つの面として、『老子』が言うところの厳しい面、「天地に仁無し万物を以て芻狗となす。君子に仁無し、百姓を以て芻狗となす」というこういう厳しい面がなければ、会社の経営にしましても、新しい国土をつくっていくにしましても、だめです。

もちろん、こればかりじゃだめですよ。儒教的な要素も必要なんだけれども、一面、「自然は神なり」という簡単な言葉の奥に、自然界の自然淘汰の法則があるわけです。だから、努力するんです。

だから、すばらしいものという形で精いっぱいの命がけの努力をして、燦然と輝くものを残していく。ここに人が精進努力する値打ちがあるわけです。

種族が発達していく根源があるわけです。こういうところを見ていかないと、宗教団体にいる人とか……。この「老子」のこの精神を持っているものはすばらしいです。

儒教、儒教とか、特にSの家なんかで、悪はないんだ、こちらのほうが悪を持っているから相手が悪いので、こちらになければいいんだというので、取引しまして、信用しまして、いや、悪くない、こちらが変われば相手はよくなるんだ。

悪はないんだという形で取引しまして、だまされまして、会社をだめにしたり、お金をごまかされてひどい目に遭った人がたくさんいるんです。

宗教的に歪んだ頭を持っている人は、世の中に出ていって非常に苦労する場合があります。それは、一つの宗教の普遍的な要素です。キリストの愛も必要なんですけれども、その愛だけじゃだめです。もっと大きな目から見た、透徹した目というのがないとだめです。

織田信長公なんて、こういう男です。あれだけのパワーがなければ、戦国時代というのがおさまらなかったわけです。家康さんが初めから頑張っていたってだめですよ。

豊臣秀吉がいくらあれでも、織田信長公のあの透徹した「天地に仁無し。万物を以て芻狗となす。君子に仁無し、百姓を以て芻狗となす」。これをやっていたんじゃないかと思うぐらいなんです。

織田信長というのは、頭よかったですから。そういうのがなければ、Hさんが大好きな徳川幕府もなかったわけです。まあ、「自然は神なり」というこの言葉の奥に、非常に深い意味がございます。

ですから、植松先生のお話の中で、「自然は神なり」。神様が教えているよ。自然が教えているよ。

「天、何をか言わんや」「遍界いまだかつて隠さず」。「気を知るは是れ神なり」と言います。一つの何か出てくるチャンスをぱっと、自然界の法則を見て、ぱっと観念しよう。「気を知るは是れ神なり」という。これは「気」というのは、こういうことですけど。「易経」にも出ております。

植松先生なんか、これの達人です。何かのぱっと出てくるもの、変わったなというのをばっと読み取って、あっ、これからこうなるな。

「自然は神なり」という、この平凡な優しい簡単な意味の中に、「老子」の精神から、道元禅師の悟りました「柳は緑、花は紅」という深い境地の中から、正しい自然の法則、不自然は神ではない。

神霊界のありさまから、いろんな深い意味が入っております。

今後よく出てくる言葉でございますので、ただいまに生きるという先々週にございましたあのお話と、勝るとも劣らないぐらいに深い意味がありますので、これを皆様、覚えていただきたい。

道元禅師のお話から発達いたしまして、平、静、黙という境地に至りまして、「自然は神なり」ということで、お話は随分発展しましたけれども、第二部をこれで終わりたいと思います。

どうもありがとうございました。(拍手)