深見東州の土曜神業録14(Vol.6)

大悟徹底の数霊解義

これがなければ絶対に伸びないです。本当の向上というのは、知識の量じゃありません。経験の深みじゃありません。悟った境地といっても、山の中で修行すればいいわけではありません。

ああ、そうだったのかということがわかるようになった自分、これをここのご神業のパターンで説明いたしますと――。

植松先生がおっしゃっていますが、数霊で説明しますと、例えば、一、二、三、四、五、六、七、八、九まで、自分で練って努力して勉強いたしまして、一つのこのレベルです、一の位。そこに、文字や言葉で言えない一厘がパッと来て(十)になる。

無になってるわけです、その時は。はーっ、涙が滂沱と流れて、それからまた新しく白隠禅師の生活が変わるわけです。そうしたら今度は、十一になります。

十一、十二、十三、十四、十五、十六、十七、十八、十九まで来まして、今度は一桁の位から二桁の位になっていますね。今までは一桁だった。今度は二桁の時代が来たと。そしてそこに一厘がポッと足されますと0。二十。

はーっ、小悟徹底すること枚挙に暇なし。

そしてこれは二桁の位が、今度は二十一、二十二、二十三ときて、この一厘、これが一厘です。一厘がパッと渡されることによって、また0へ戻って、一からやる。今度はこれまでの全部を踏まえた上で、来ているわけです。

こうして二桁の位を続けて、続けまして、自捨新生。一つのことがパッと悟りまして、次の桁に来て、ずーっと来て、九分九厘、九十九まで来ました時には、一つの大きな大悟徹底のチャンスです。

もうギリギリまで煮詰まってきて、自分の能力の限界、悟った境地の限界、仕事におきましても、境地におきましても、西谷さんの手相におきましても、わからないことがある時パッとわかったと。

流年法がわかった。ある時、ビートルズの音楽聴いてパッと全部音楽がわかった。ある時サッカーをやって、わからなかったのが釜本のシュート見ててパッとわかって弾丸シュートが出せるようになったと。

西谷さんは、それだけ前世、勉強してます。御魂にそれだけのものがあるからできると思うんですけど、それは同じです。

【植松先生】それ、一から九まで行くでしょ。それで一厘悟るでしょ。

【深見先生】うん。

【植松先生】悟ったらそれがね、パコンと反対側にこう……。

【深見先生】そうそう。

【植松先生】バッとなる。で、その分全部、それマイナス、潜在意識の部分にも働きかける。それパタンとこっち逆さまにしてごらん。そう。

【深見先生】そうそう、こうですね。(板書)

【植松先生】ただこうやって、これで、その一厘悟るとなぜいいかっていうと、九から0になるでしょ。それが、一0になってるわけね。九、十で、パタンと返ると、それがマイナスに働きかける、マイナスになるわけね。

【深見先生】そう。

【植松先生】それはもちろん指導法があるからできるのよね。

【深見先生】まあそうして九分九厘まで来ました。一桁の段階からここまで来るのは大変です。一つの段階がありまして、今度は、それをわかったという何かパッとあったら、瞬間に今度は百になります。

これが九分九厘の状態。言わば九分九厘、九十九まで来て百、これが百一になる、百、百になって、0になって、百一、三桁の台、百。

だから二桁の中で二十、三十、四十の時は小悟徹底ですけれども、そこに一厘足して三桁になる。今までは二桁だったのが、ずっと積み重ねまして、ある瞬間からパッとわかるようになったというこの状態が、結局三桁のランクです。

これが大悟徹底。大悟徹底すること0と。

だから千ぐらいありますと、これはまた三桁のランクから大きな大悟徹底を三桁続けてまして、ある時まで来たら、小悟徹底を繰り返しまして、一年たったら今度千の位から万の位、億の位と、人間というのは大きく変わっていくわけです。

【植松先生】そう、もうね、潜在意識がほとんどなんだからね。潜在意識っていうのはこんなにあるのよね。

世の中で一番大事なものとは

【深見先生】とにかくそういう形で、白隠禅師、大悟徹底すること七度八度、小悟徹底すること枚挙にいとまなしと言いますが、このように大きな脱皮時期を常に迎えていると。人間死ぬまでやるんです、これ。死ぬまでやる人が本当なんです。

白隠禅師は、八十一歳ぐらいの時に風邪をひきました。そのころはお弟子さんが数いましたので、少しでも弟子を育てるんだと、全国に講演旅行に行っていましたが、白隠禅師が風邪をひきまして、お弟子さんが心配しました。

「もうご老体で八十も過ぎておられますんで、あとは私たちがやりますから、ゆっくりと養生してください。長生きしてください」と。そう言われまして、白隠禅師、横になった。その時に夢を見ました。

どういう夢かと言いますと、歴代の、例えばさっき言いました百丈禅師とか、中国で有名な臨済とか黄檗とか、有名な歴代の禅のお師家さん、祖師たる、崇敬すべき人たちがたくさんいるんです。その中に自分もいるんですね。

夢の中で白隠禅師が、「おまえたちの仲間には、まだまだ入らないぞ」と。夢に出てきたたくさんの禅の先輩たちに、白隠が言ったわけです。

「おまえ、そうは言うけども、世の中で一番何が大事かわかっているのか」「んー?」と首を傾げていたら、夢に出てきた歴代の立派な人が「教えてやろう。それは一言で言えばこれだ」と。

「勇猛」(板書)の二字、勇猛心だと。この勇猛がなければ、おまえ、だめなんだ。世の中で一番大事なのはこれだと、夢の中で教えられた。白隠はそうかと思って、パッと目が覚めたわけです。

そこで白隠は考えました。もう八十何歳です。大悟徹底してエビの殻を抜けてきたわけですが、「そうか、人間は勇猛の二字がなくちゃだめなんだ」と悟りまして、とにかく勇み立ちまして、風邪だからといって寝ているわけにいかない。

ボケて老化するのはまだ早い、死ぬまで勇猛だというので、またあっちこっちに講演旅行に行きまして、弟子を厳しく仕込みました。

白隠禅師は、その夢を見た後、勇猛心を奮い起こしまして、命ある限り弟子を育成し、著述、執筆活動し続けたわけです。動中の静、動中の静どころか、燃えるような躍動心を持ってやったわけです。八十何歳で、です。

そして白隠禅師の臨終はどうだったか。ある時、白隠禅師がお休みになっていた。弟子たちに、「カーツ!」というものすごくでっかい声が聞こえたので行ってみたら、白隠禅師が臨終しておられた(笑)。本当の話です、これは。

「喝!!」と言って死んでいった。「喝!」と言って死んだんです。八十四歳ですか。すごいでしょう。神上がりしてます。

この勇猛の二字というのは惟神の道です。荒魂なんです。惟神の道というのは、成り成り成りて成り上がると。苦しみも悲しみもすべてステップ、ジャンプだと。

いかなる悩みも苦しみも、離婚するということも、不幸だったということも、縁談もなかったというようなことは、全部、ジャンプするためのステップなんだ。勇猛の二字をもって、失敗が失敗じゃない、不幸が不幸じゃないんだと。

この勇猛の二字をもっていかなることも乗り越していくというのが、惟神の道です。

前世の因縁、家代々の因縁がありますから、すべての苦しみ、悩み、不幸、不運というものは、家の持っている因縁、自分が前世の罪を作った分だけ、やっぱり持っているわけです。ハンディキャップです。

そして、前世徳を積んだ分だけプラスとして持っています。徳分として。みんな、プラスの徳分とマイナスの因縁と、両方持っているわけです。

前世に徳を積んで、徳分を持っている人には、すばらしい守護霊さんが付いております。そうではなかった人はハンディキャップがありますから、苦労、艱難が襲ってきます。

例えば一国一城の主とか、戦国時代に生まれ出て戦をやってきた、世のため人のために生きた人は、立場上、殺人もしなければならなかったという状況があります。やらなかったら自分が死にますから、その家を守るということは戦に勝つということですから、罪を作ってるわけです。不幸な家に生まれるということは、前世の自分にそのような因縁があるわけです。

それからすべての苦しみ、悩みというのは、前世の自分の持つ業だと思って、それを、贖いを通して「明日」になる。(板書)

植松先生がいつも私たちにおっしゃっているのは、「明な日」というのは、明らかな日。贖いというものは前世及び家の因縁です。苦しみとか困難とか不幸、不運と一見思われること。

それは、自分がしたことの贖いか、あるいは前世か、家の贖いなんですけど、その贖いというものがあるわけです。

苦しみ、困難を通して「明な日」になる。明らかな日になってジャンプする。成功のための糧として失敗を乗り越していく。

贖いを通して「明な日」なることが大切です。

贖いを通して暗くなったり、贖いを通してがっかりしたり、贖いを通して落ち目になったり、贖いを通して落ち込んだり、贖いを通して湿っぽくなったり、贖いを通して涙を流すのではなくて、この勇猛の二字をもって生きていく。

来世へ持ち越せるものとは

白隠禅師は、「喝!」と言って死んでいったほどの人です。八十四歳、すばらしい一生です。

五百年に一度の天才ということは、それだけ脱皮して脱皮して脱皮して、死ぬ前に至ってもそれだけのものを反省して、省みて、勇猛の二字を悟って、雄々しく死んでいったわけです。これだけの生き方をした禅の坊さんは、なかなかいません。

だいたい、辞世の歌を詠んだりしている。一つの人生で終わりではなく、その次の次の次の、来世に至るまでのジャンプとして生きているわけです。

人生観が違うんです。0歳で生まれて何歳まで生きてきた、ではない。前世があって今世があって、0から来るけれども来世の準備も今している。

来世生まれる時は、0歳で生まれるでしょう。赤ちゃんで。その下準備として、今、九十何歳まで生きている。ですから、死ぬ前日まで、死ぬ当日まで絵を描いている。それは来世へ持ち越せますから。

植松先生が我々におっしゃいました。

「死んで持っていけるものは三つある。一つは学問である。一つは芸術である。一つは、信仰心」(板書)

この中で一番残るのはやっぱり信仰心なんですけど、学問と言いますと、生まれながらに頭がいい子いますね。一を聞いて十を知る、という子です。

勉強するのが好きで、本を読むのが好きで、一人で自分で勉強している子っています。

対して、いくら言っても覚えがよくない子とか、いくら家庭教師つけても遊んでいる子とか、理解度がよくない子とか、同じ兄弟でも、同じように教育していても、お兄さんと弟は全然違いますということがあります。

学問というものは、魂に残ってるんです。単に知識を吸収するための勉強とは違って、真理を求め探求する心というものは、死んでも持っていけます。

ですから、生まれながらに持っている頭の良さとか、学問的教養というのは、素質です。

これは前世から今世へと持ち越しているものです。天才というのは、やっぱり全部そうです。天の才。再生、転生を繰り返る中で磨いてきた人は、学問を持ち越してきているわけです。

植松先生いわく、声のいい人、非常に、何とも言えないいい声の人は、再生、転生の回数が多いと。声の悪い人は、再生をミスったのかわかりませんけど。とにかく学問、これは死んで持っていけるものです。

それから芸術。前世ずっと音楽をやっていた人は、生まれながらに音感が鋭い。前世絵を描いていた人は、生まれながらに絵のセンスがある。Sさんのように前世も絵描きさんで今世も絵描きさんで、生まれながらにスッと描けるという人もいる。

全然描けない人と描ける人とは、どこが違うのか、なぜ違うのか。

そういう人は、占星術で芸術の星を持っている。ではどうして芸術の星の下に生まれるのか。一年三百六十五日ある中で、なぜ芸術の星回りの日に生まれるのか。

やはり前世に芸術を磨いているから、芸術の星の下に生まれるのです。前世に芸術的な感覚、センスを磨いているから、御魂に残っていますから、持ち越しまして、来世も持っているわけです。

生まれながらの芸術的な天性というのは、人によって差があります。ですから、死ぬ前日まで芸術活動をやっていても来世へ持って行けますから、やった分だけ、来世得します。

一番大事なのはこの信仰心です。私なんかも小さい頃から、もう、神様というだけで胸がドキドキして、神様というとパッと変わる子でした。

南無妙法蓮華経と一歳で言った子がいたとか、なんか知らないけれども仏壇の前で手を合わすのが好きで、お姉ちゃんのほうは仏壇に手を合わすけど、弟は全然関心がないとか、同じ兄弟でも、なにかしら好きだという人と、あんまり好きじゃないという人がいます。

前世に培ってきた信仰心というものは、魂に残っています。魂のものだから、信仰心は、前世から今世、そして来世へ持っていける。

だから死ぬ一歩前まで、信仰心の不動なものは磨けば磨いた分だけ、永遠のもので残っているんです。魂のものだから、永遠です。ですから、生まれながらに信仰心の優劣があるわけです。

贖いを通して「明な日」となる

だからこの「あがないを通して明な日となっていく」という、贖いを通してがっかり落ち込みましたとか、贖いがあってしょげ返っちゃったというのは、信仰力とは言えないわけです。

贖いを通して明な日となってジャンプする。これは白隠禅師の勇猛の心です。我々も学ぶべき問題ですね。この勇猛の心を持って、本当の意味での学問を磨く。学問といっても、単なるレポートを書くとか、勉強するとかではありません。

ありとあらゆるものの真理を探求しようという心のことです。

勉強していこうという、学ぼうという姿勢です。勇猛心を持って学問、本当の心の学問を磨く。勇猛心を持って、芸術的なセンスを磨く。勇猛心を持って信仰心、信仰力というものを磨く。磨いその分だけは、魂の恩頼となって残るわけです。

因縁とか贖いとか苦しみとか不幸、不運はあります。しかしそんなところに目を向けてはいけません。不幸だとか不運だとか、ラッキーですねとかアンラッキーですねとか、そんな世界より、もっと、それらを通していかに信仰力を磨くかが大事です。

それらを通していかに学問として学ぶか。いかに芸術活動に表現するかです。

例えば、ショパンの夜想曲変ホ長調ですか、ショパンは大好きな人に失恋したんです。強烈な失恋したんです。

普通失恋したら、ああ、やっぱり僕には魅力がないんだとか、がっかりするんですけど、ショパンは、その失恋の悲しみを、タタン、タタタタン、タタン、タララララランというメロディーにした。何を思っていたかです。

やっぱり彼女のことを思ったんでしょう。失恋を名曲に変えたんです。色情因縁があったのか(笑)、色情因縁があっても相手は素通りしましたとか、いくらお金があってもだめだった。

色情因縁が強い人は、いい音楽書けますね。とにかく、色情因縁があったのかわかりませんが、夜想曲変ホ長調。ショパンは失恋を名曲に変えました。

ベートーヴェンもそうです。テレーゼとか言いましたね。失恋しまして、それも全部芸術活動の糧としたんです。失恋が失恋で終わらなかった。色情因縁の贖いを通して明な日となって名曲を作った。そういう勇猛心、成り成り成りていく。このような気持ちが惟神の道です。

ですから、何度も言いますけれども、ヨーロッパの場合は、「日本人には果物を売らない。私のおじいさんはドイツ野郎に殺された。

その時日本は、枢軸国だったじゃないか」と言って日本人に果物を売らないフランス人、今でも何人もいるんです。ドイツに行きますと、日本は枢軸国、ベルリン、ローマ、東京枢軸だったというので、日本人を仲良く迎えてくれるらしいですけど、フランスなんかでは、そういう頑なな人がいます。

日本はどうですか。長崎、広島に原爆を落とされまして、あれだけ何百万人、何十万人という人がお亡くなりになりましたがアメリカ人見て、「くっそー、アメリカめ」なんていう人、いません。

二度と再び、ああいう悲劇はあってはいけない、核はいけない、と核兵器の悲劇は言いますけど、アメリカを憎んではいません。広島に行きましても、長崎に行きましても、アメリカが憎いとは言いません。核兵器が憎いと言いますね。何と人がいいんだと。

あれだけ何十万人も殺されて、あんなひどい目に遭いながら、原爆落とされて敗戦したけれども、戦争がよくなかった、核がよくなかった、明な日になって復興、戦後の復興をやろうじゃないかと。

そうして立ち直ったのが、戦後の日本の経済の奇蹟です。三十年そこそこで、これだけの大きな経済大国になったということは、世界の奇蹟と言われています。

ヨーロッパ人の粘着的な感覚と、日本人の「贖いを通して明な日となっていく」感覚の違いです。

贖いを通して明な日となっていくことが、日本の惟神の御魂の中に根づいています。成り成り成りていこう、失敗とか過去の経験をいつまでも思わないで、前向きに行こうじゃないかという精神が日本人の魂の中に入っているんです。クリスチャンは、我々に罪があった、我々は罪人であると言って、どちらかというと意気消沈しています。

人はいいんですけども、勇猛の気持ちというものは、あまりないですね。儒教とか仏教とかも、やっぱり執着深いです。

勇猛の心を持って、成り成り成りて、贖いを通して明な日となってジャンプしていくというのが、惟神の道なんです。神様の道です。このように生きている人は、本当にすごく運がいい。過去をくよくよしないで、失敗を成功の糧にする。

文句を言ったり、ブツブツブツブツ愚痴を言ったり不平を言ったり、お父さんが、お母さんが、お姉ちゃんが、お兄さんがなんてブツブツ言わないで、成り成り成りて、常に明るく前向きに受け取って、死ぬ間際まで勇猛の心を持って、「喝!」と言って死んでいくという、こんなふうに生きようじゃありませんか、皆さん。

ハッピーとかアンラッキーとか、関係ありません。贖いを通して明な日となるんだと。そういう目でものを見ていかないと、本当ではありません。

一生を通して、仕事とか、物事とか、心とか、不幸とか、不運とか、そんなことに目を向けないで、学問、芸術、信仰心の三つを死ぬまで磨いて、白隠禅師のような生き方を、我々はしたいものです。

我大悟徹底すること七度八度、小悟徹底すること枚挙にいとまなし。死ぬ直前までこういう気持ちで悟り続けている人が、実は神人合一の人なのです。どこまでもどこまでもそれを続けていって、自捨新生していく。

来世生まれ変わりましても、それだけの能力があるわけです、信仰力の弾力性が。これが本当の達人なのです。

いろんな偉い人がいますけれど、神様の道において、この白隠禅師が、なぜ五百年に一度の天才になったのか、どのようなところが天才かということを知って頂きたいんです。

早く、このような気持ちで、ご神業というものを受け取っていただいて、生きていっていただきたいと思います。

本日は、白隠禅師のお話でした。これで終わりたいと思います。どうも。(拍手)