天命を全うしやすい性質とは
あんまりに我欲が強かったり、我見、我執着と自我慢心…。
「ああ私は我が強くて、我が強くて」っていうことで、仏教関係の宗教でございますと「我を取りなさい、あなたは我が、因縁が深いから我が強い」なんて言われるんですけど、我が強いとは何かと。
これは我執着。私の本が欲しいとか、私の何だとかという我執着。それから我欲と我見ですね。要するに、自分はこう思うんだ。自分は絶対にこれに違いない。
自分がこう思ったことは曲げないと。我見を改めないんです。もう自分が欲しいと思ったら、絶対人が言ってももう聞かない。自分はこれが絶対いいに違いないと思っちゃったら、もう絶対に人が何と言おうとも聞かない。
物事に執着してるわけです。
我自体は善悪ありません。悪いということも言えないし、いいということも言えない。なくてはならない、私という存在ですので。これは取ったら駄目ですね。
この我執着と我欲と我見を取らなきゃいけないのが、いわゆる仏教関係で、我を治めなきゃいけないよというのは、大きく分けてこの三種類です。
そこからもっと、小さなこともあるでしょう。「私が自由にしようといいん「じゃないの?」なんて言いながら、人が何と言ってもふらふらふらふらして、ちっとも努力しなくて、毎日毎日ふらふらふらふら生きているというのも、これ一種の我ですね。
我がなく素直だったら「一生懸命頑張ります」という気持ちで素直に聞くんだけど、「僕は僕なりの人生あるんだからお母さんいいってもう、ほっといてくれよ。蜻蛉だって一日で死んでいくんだから、俺だってまあなるようになるよ」なんていうね。
老荘思想の行き過ぎか、これは我怠慢ですね。これも我ですよ。我を治めなさいということは、要するに、素朴で素直な我になりなさいということでしょうね。
そういうふうに我見と我怠慢と我欲と我執着がありますと、大きな人生のターニングポイントで、これだけは最低クリアしなきゃならないというところを、あまりに歪んでいる場合は強引に神様がうわあーっと戻される。
神様が、「もうそろそろ守護霊たち、ああいう方向に行っては駄目じゃないか」っていう形で、神様がバッとお出ましになって元へ戻さなきゃ駄目じゃないかっていうことで、急にこのターニングポイントのあたりに、親父が厳しくなったとか、立ち退きで家がああなっちゃったとかいうことで、環境変化がありまして、戻される。
それでまた神様が自由意志を尊重致しまして、いろいろ遊ぶ時もあって、ああでもないこうでもない、ああでもないこうでもないという時に、こんなに離れておりますと、もう守護神、守護霊も、またここまで戻さなきゃいけない。
この間が艱難辛苦とか試練があって、非常に大変なんですね。ところが、素直に一生懸命やっておりますと、ちょっと修正をするだけでオッケーと。
何事も人の言うことを素直に聞いて、自分の見識はあるけど、あんまり我を張らない。執着心もなく、こうだなあと、一番いいんじゃないかあと進むから。
素直な人というものは紆余曲折が少ないから、比較的こうすーっといって天命を全うしやすいわけです。
ですから、素直ということが一番、御魂のランクが高いわけです。御魂のランクが低いとか、因縁が深い人間というのは、ほとんどこの我執着、我欲、我見、我怠慢が多いです。
因縁の深いお家で、素直で明るくっていいお子さまばかりなんていうお家はないですよ。
因縁の深いお家って、もう暗くって、子供がグズグズグズグズ言って、ちっとも言うこと聞かない。
特殊な性格で、やりにくい人間が多いなんていうのは、因縁の深い家ですよ。因縁の正体っていうのは、これに現れます。
ですから、因縁を受けないようにしようと思ったら小さい時から教育を徹底しまして、倫理観念、道徳観念、自分自身の意志の力で、努力で、執着心をなくしていこう、欲をなくしていこう、我見を改めていこう、怠慢を改めていこうという気持ちでいきますと、因縁をあんまり受けなくって、すーっと本来の良さが出てくる。
親の因縁とか前世の因縁を、人間の努力でクリアできる方法というのはそういうことなわけです。こういうところに信仰力とか、宗教に入って訓練するという意味があるんじゃないかと思うわけです。
生きている者の特権とは
ですから、このターニングポイントのところが大事なわけですね。四柱推命なんかですと十年サイクルで来たり。大運というんですけど。大運が四のつく年齢でやってきたり、九のつく年齢ですかね、そういうような人もいるらしいです。だけども、もっと大きく二十年サイクルで来たりする場合もありますけど、まあだいたいはそれに合っている場合が多いですけど、そうじゃない場合もあります。
そういうような形で是正されていって、だいたい一生送っていくわけなんで
す。だけれども、皆さんによく考えてほしいのは、全てこのターニングポイン
というものは、最低これだけはやってもらわないとという発想なんです。このいわゆる天命の発想というものは。
人間の天命というものは、表題にもお書き致しましたように、最低この年だけにはこれだけはやっておかなきゃ駄目だというノルマなんです。
最低三万人は救っておかなければ、この時には何万人を救わなきゃいけないんというんで、全然救っていなかったら、ターニングポイントのところに来ますと、もう必死の思いで救い続けなきゃいけない。
えー、長沼妙佼先生という方がおりまして、立正佼成会の脇祖に今なっておられるんですけど、庭野日敬さんと一緒に、立正佼成会を今日までにした大きな立て役者なんですけど、あの方お亡くなりになってから、さらに修業しておられまして、あと三年間で十万人の人を救うと言ってましたので、今、御法座の中に出てきてバンバンやってますね。
もう朝昼晩。だから一年間に何千人ぐらいでしょうね。人の口を通して、霊体となって活動している。三年間で仕上げしますからね、これ一日計算したら、何人救うかですよ。急ピッチですよね。
それをクリアしますと、もう肉体を持ったまま自由に神様の使者としてあっちでもこっちでも、要するに成道したというわけですね。
成道致しまして、神様から許可を得て、自由自在に霊体となって御用ができる。そうじゃない人は霊界で修業しないといけない。
だから妙佼先生も、これをするために三年間で十万人を。大変ですよ。今、はっぴ着て、霊界で。立正佼成会の人はご存知ですけどね。今、はっぴを着て、一生懸命頑張っておられます。
そういうふうに、最低限度が十万人ですと、このあたりで六万人だったら、この間、四万人やらなきゃいけなくて、非常に追い込まれる。
この天命という発想は、何とかアップアップとして神様の押し立てたところにクリアできたと。
何とかこの、十万人救うというのだったら、それをクリアできたということで、もう十万人できたからいいという形で、死んでいくのかどうなのかということなんです。これが大事なんです、今日は。
答えは、そうじゃありませんということです。
T・Tさんなんかもですね、人生は苦しみだと、苦だと。苦しみのために生まれて来るから、水子で中絶したけれども、生まれて来て苦しい人生をこの世で味わうことがないから、却って罪じゃないと言っています。
そんなこと言ったらみんな水子を堕ろしますけどね。なるほど、そういう考え方も成り立ちますけども、水子は別に罪を作ってないし、これは消極的な見方です。
人生は苦しみだけれども、今日生きるということは、前世の借金と前世の貯金下ろしで、幸運と不運がある。
前世に因果を積んだ人は不幸な星があって、いいことをして、人を喜ばして幸せにした人は幸運の星があると。幸せと不幸で命運が運んでいくわけです。
その苦しみを前向きに積極的に努力して、功を積むということができるわけです。功候を積む。この功を積むと、結局霊界へ行きますと、ランクが上がるわけです。
一般的にいいますと、死んだ人はもうそのランクでストップです。死んだ時に、どれだけの功を積んで、どれだけ学んで来て御魂が向上できたのかと。
功というのは霊界では、冠になったり金メダルになったり、お洋服のデザインのセンスになったり、住んでいる住宅の状況とか環境、生活待遇が霊界で決まるわけです。
御魂が向上して、功を積んで、功を人々のために益して、苦しみを通して、それを信仰力の糧として、御魂の勉強の糧として生きた人は、功を立てますから、生まれてきたときよりも、もっと高いランクに行くことができるわけです。
死んだ人は、そのランクでずっとストップですから、修羅道に行った人はみんな修羅道です。
修羅道って大変だねと思うけども、修羅道の人はもうしょっちゅう、殴る蹴るのボクシングというか、突いた突かれた、今日はここやられたけど、三回刺してやったなんて言って恍惚としてますよ。
修羅道の人はそれが楽しいんですよ。みんながその通りだから、今日も一緒にみんなで喧嘩しようや、あっはっはーなんていうの、いますね。
それから将棋の好きな人は、朝から晩まで将棋やってますよ。もうみんな将棋仲間だから、楽しいわけ。それから、山登りの人って、あんな艱難辛苦を経て、凍傷になっていったいどうなるんだろうと思うけど、山はいいなあという人たちばかりが集まってます。
ですから、霊界のヴィレッジ(村)というのは、同じような考え方の人がいるので、非常に楽しいんですね。
いいはいい、悪いは悪いなりに波長があっておりますので、そこでのハッピーな生活に満足しているわけです。精神の世界ですから、そのままでずーっと行きます。だいたいは。
逆に、生まれてくるということは、苦しみがあって大変です。御魂のランクの高い人もいたり、考え方がチグハグしてる人もいたり、善人ばかりじゃありません。
そういうふうな苦しみと葛藤の中で、御魂を磨いて功を立てると今度は生まれてきたよりも、より高いランクで生まれることができる。これが生きている者の特権でありまして、生きるという意味なんです。
インド人と日本人の人生観の違い
ところが、仏教では…。仏教のヒストリーをみたら、インド人は非常に苦し
いですよ。「大唐西域記』の中で玄奘三蔵が、インドの様子を書いておりますけども、非常にもう暑い国でね。
暑くって、灼熱で、劣悪な環境だったわけですね。それで、輪廻転生、生まれてくるのがもう大変だと。生まれてこなくていいと。六道に輪廻転生しなくても、永遠無窮に幸せな世界に行ったら、涅槃寂静だということなんですけど。
日本の惟神の本当の霊界からいいますと、そういう消極的なものではなく、生まれてきたのは幸せだった、来世生まれてくる時は、という気持ちで。
例えば、楠木正成公が湊川の合戦で亡くなります時に、弟の楠木正季公に対して、「人間の来世というものは、死ぬ時の一念に因りて決まると聞き及ぶなり。汝は如何なる気持ちで来世生まれて来るか」と言うと、楠木正季公、カンラカラと笑って、「七生生まれ変わりましても、朝廷に仇なす者を誅戮致します」と。
楠木正成公それを聞いて、カンラカラと打ち笑って、「我もしか思うなり」と。
私もそう思うよと。そして、刺し違えて死んでいった。そこから、「七生報国」という言葉が出てきた。
七度生まれ変わりまして、国に、天皇様に対して仇なす人たちを誅戮します。七度生まれ変わって、国に報いますよという。弥勒密者ってそうです。
「自分だけは涅槃寂静でハッピーだ」ではなくって、世の中がかわいそうだから、苦しいけれどももう一度生まれ変わってきて、もっと磨いてというふうなことで、苦しみを厭わないです。
これが、神道と日本人の体質の「七生報国」。生まれ変わるということが不幸じゃないんです。
涅槃寂静の教えが起きてきた仏教のバックボーンというのは、生まれてくるということは不幸であって、例えば靴磨きの子は何回生まれ変わっても靴磨き。
バラモン、クシャトリア、バイシャ。インドはカースト制度が二千何種類ありますから。
もうとにかく、大庄屋さんは、再生転生してもずーっと大庄屋さん。身分の低い人は、来世も再来世もずーっとそのまま。だからもう生まれ変わりたくないと思いますよ。
バラモンとかクシャトリアとか、そういういい身分にいる人は、来世もまた、バラモンもいいし、クシャトリアもいいなあと、そう思うでしょう。
そういうふうにカースト制度の中で身分ががっちりとあったので、仏教というものは、平等の仏様のもとにおきまして平等の愛を説いて、慈悲を説いて、それから涅槃寂静という…。
とにかく摂氏五十度の暑い暑い国ですから、四十度、五十度。生まれてくるというのがもう不幸だった。
そういうベースだったということを理解しないといけないんじゃないかと思います。
最低ラインではなく最高ラインを目指す
天命というものは、最低ラインなんです。十万人を救うという天命だったら、最低十万人は救わなきゃいけない。十万人を救うという最低ラインで、これは神様の最低チェックなんです。
こんなのはもう消極策ですから、悠々楽々に魂を向上し、知識も増やしながら、クリアしなきゃいけない。
神様の御心に合うような形で才能開花して、悠々楽々に最低ラインはもうクリアしていっておりまして、この時点でもうすでに十万人は突破しましたと。
もう最低やんなきゃならない天命は、もう既に十万人はやりましたと。それでもまだ、寿命が残ってる。これはもっといいこ世のために生きていこうと言って、あとの十年ぐらいで二十万人突破して。
「世のために生きます、十万人救います」と言っても、十万人で終わりじゃないんです。
「十五万人救うって、君救い過ぎたよ。誰が、五万人も増やして救えと言ったか」なんて、神様が言うと思いますか。思わないでしょう。
少しでも世のために益して本人が魂を向上させて功を積んでくれれば、まさに神様の御本願とするところで、御心に合うわけでございます。
「二十万人、あっ、もう三十万人も救っちゃったぁ」なんて言っても、「他の人たちにも救わせてあげて下さい」なんてことありません。
いくらでも救うことがあるし、世のため人のためにして、やりすぎるということはありません。御魂を向上し過ぎて、「すみません、イエス様みたいになっちゃって、こんなに向上するつもりはなかったんですけども、つい励み過ぎてすみませんでした」ということはないわけです。
イエス様とかマホメット様とか、ガブリエル天使とかミカエル天使なんかも「すいませんね、ランクがちょっと上がっちゃったもんで、ミカエルさんも第二位になっちゃって。すいませんでしたねえ、ミカエルさん」
「いや、いいですけどね」なんていう、そういうふうな椅子の争いなんてありませんから。それから、救い過ぎた、御魂を向上させすぎた、世のために尽くし過ぎて、神様の御心にあまりにも合い過ぎて、後悔したという人は未だいません。
ですから、そういうけちな根性ではなくて、神様に是正されて、十万人救うとか、三万人救うなんていうことはもう最低ライン。
私たちの目指すのは最低ラインでは駄目でして、最高ラインを目指そうと。だから、十万人救うっていうことだったら、とりあえず僕の目標としては百万人いこうと。
百万人いってても、まあ五十万人ぐらいで留まるかなあと。
これを大砲の原理と申します。大砲と申しますのは、的を狙おうと思って、例えば十万人だったら、ターゲットを十万人にしますと、どうしても重力があるので、パーンと弾が下へ落ちて、七万人ぐらいで終わってしまう。
ですから、十万人に最低当てようと思ったら、このターゲットを二十万人ぐらいに向けまして、ポーンといって、今度は当たると。こういうふうにターゲットを狙うんです。
この御魂の天命ということ、霊界のことを考えますと、いくら上でもいいわけです。いくら上でも。ですから、十万人と言われたとしたら、とりあえず百万人計画。西谷さんも三万人というのは最低ですので、三十万人の十倍計画を持って頂きまして。
例えば、日本一の絵描きさんになるという天命があって、余りにも頑張り過ぎたんで、もう三十五歳で日本一になっちゃったと。
しまった、神様は四十五一歳で日本一にするとこだったんだけど、三十五でなっちゃったから困ったなあと。神様の計画からずれてね、神様がお嘆きになったということはありません。
その後で十年間、「小人閑居して不善をなす」。十年間寿命があったんで。
良くないことをして、モーツァルトの晩年のように、もう全部駄目になっちゃうだろう、気の毒に・・・という神の慈悲で、もう三十六で天命召し上げで、寿命をなくします。
その方が本人が幸せでしょう。四十五まで生きたら、日本一の画家だったんだけども、晩年がモーツァルトみたいになっちゃって、あとでそれをテーマに映画製作なんかされると、もう本当に国の恥でしょう。
だから、召すなんてこともあります。
三十五歳で日本一の絵描きさんという天命は、一応果たしたと。あと残った寿命があるんだったら、音楽家として日本で五番目ぐらいになろうと。
そして、音楽家として日本で五番目ぐらいで天命終わりましたと。この人が霊界に帰ったら、その分だけプラスになって、よくやったなあと御褒美くれます。
最低でも「人生二万年計画」を持つ
人間は生まれ変わり死に変わり致しまして、霊界に持っていけますのは、まず信仰心。これはもう、磨ければ磨くほど、霊界にも行きますし、来世へも持って行けます。
次に学問。勉強したら勉強した分だけ、霊界でも勉強できますし、来世へ持っていける。それから、芸術です。芸術的なものを磨けば磨くほど、霊界でも芸術活動しておりますし、来世もできる。
これが生まれながらに信仰心のある人。生まれながらに頭がいい、理解力のある人、学問と探究心のある人。それから、絵の才能、音楽の才能のある人。
それはもう前世で勉強していて、さらに霊界で勉強してるから。これはもう、宝物ですね、才能というものは。
そういうふうに、信仰心、学問、芸術活動というのは、やってやり過ぎるということはない。全部御魂に残っております。
この三つのものをやり過ぎるということはないわけでございます。
お金とか地位とか、財産、名誉を残す代わりに学問のつもりで、自分の信仰力を磨くつもりで仕事をし、芸術的なものを蓄積するために、仕事を媒介として勉強している。
そういうように、形あるものに心を向けないで、永遠のものを勉強するんだあというつもりで、人生を送れば、生きてる時も幸せ、死んでも幸せ、来世も幸せと、全く無駄がない、死後の世界も来世も考えますと、合理的で効率のいい生き方といえます。
形あるものだけですと損です。霊界でその分だけ非常に苦しみますから。ですからこういう講義を聞いて認識を新たにしておりますと、非常に有意義な人生が死んでも、来世もできます。
これだけは間違いない。ですから、日本一の絵描きさんていうのは三十五で達成して、不善をなすのではなくて、さらに頑張って、音楽家として日本で五位で死んでいったと。
霊界でまた生まれてきたら、今度は絵描きさんと致しまして、今度は最低絵は世界一になって、それも同じくやったら、今度は音楽家のほうでは世界第四位までいきましたと。
こういうふうにして、御魂というものは、お花が生成化育して進歩発展するように、動物が進化するように、御魂も永遠無窮に進歩発展、進歩発展、生成化育して、大きく広く伸びていく。
それが惟神の道ですし、宇宙の真理なんですね。一カ所で止まっちゃうなんていうことは仏教の歴史的な風土から来る背景でございまして、このあたりが仏教の問題点です。
本当の世界というのは、宇宙を見ましても、どんどん宇宙も広がっております。どんどんどんどん新しい爆発があって、宇宙空間はどんどん広がっております。
御魂も、より大きく、より美しく、より高く、生成化育して発展していくのが本当の姿なんです。
こういうふうな発想に基づきまして、最低、人生二万年計画とか人生五万年計画。再生転生して、少なくともミケランジェロみたいになるんだとか、八万年ぐらい再生転生、人の二十倍ぐらい再生転生して、イエス様みたいになるんだと。それぐらいのビジョンを持って下さい、皆さん。
まあ五万年といわなくても、二万年ぐらい持って頂きたい。人生というものは、生まれ変わり死に変わりして、ますます素晴らしくなっていく。
これが本当の惟神の神霊世界、御魂の世界の真実なんです。
ですから、八十歳になったら「もうこの年で八十だから、もう八十のおばあちゃんだから」なんていうふうに思うんですが、まさにゼロから数えてみた八十年生きて、棺桶に足を突っ込む日までもう余命いくばくもないと。
しかし、今の人生観からいいますと、ゼロから見たら八十年来たけども、霊界にいって来世から見たら、マイナス二十年です。
寿命が八十として、六十歳の時は。だから臨終の前日まで、その時まで、人間は励みながら努力しながら死んでいく。
そうすると本当に、五十、六十はな垂れ小僧、六十、七十働き盛りなんていいますけれども、まさにその通りです。白隠禅師なんかそうです。八十四歳で、勇猛心の心を持って、最後まで、お弟子さんを教育して、著述活動を行いまして、「喝ー!」と。
「どっか床の間で、奥で、大きな叫び声が聞こえませんでした? カツなんて言ってませんでした?」「いや、ビフテキじゃない?」
「いや、カツだよ」なんて言って。見たら、白隠禅師が御臨終だったと。「喝ー!」って言ったまま、死んでるんですよね。
八十四歳で。これだけの積極的な方ですと、五百年に一度の天才で、やっぱり神上がりしているわけです。霊界行っても。
自由に成道して肉体はなくっても、仕組みのためにとか人々のために、さらに徳を積んでいるんです。こういう人生観が本当なんです。神霊世界から見て。
天命というものも、これはもう最低ラインであって、私たちは最高ラインを目指して人生の目標を設定して、悠々楽々とクリアしまして、自らを磨いて、人々のために益する功を積んでいく。
まあ、前にもいいました。御魂修業には二種類ありまして、一つは胎蔵界の仏様のように、真理を探究してどこまでも向上していく。
もう一つは金剛界の仏様のように、少しでも世のため人のために、世に益する善徳を積んでいって、功を立てる。善徳を積んでいる。陰と陽です。
胎蔵界曼陀羅のように、あるいは金剛界の仏様のように、真を極め、あるいは善を広め、御魂は向上していくわけです。この二つのことを通してです。
そういうふうな形で、私たちは今日一日を生きるべきじゃないか。天命というのもそういうふうに考えて積極的に、楽天的に、明るく、意欲的に、人生を何万年計画で、生まれ変わり死に変わり、そういうものを見る目で、今日一日、只今というものを生きるべきだと思うわけです。
このあたりができないと、神様の道と言いましても、神人合一と言いましても、潜在能力を出すなんていう講義しましても、大したことないです。
大した人間にならないです。大した人間にならないってことは、大したことなかったっていうことです。神様も御魂も。
御魂がいいか悪いか、これから見ておれと。寿命の前日までやるぞっという息吹を持って、神業に皆様、励んで頂いて、日常生活の中で錬磨して頂きたいと思います。
ということで、パート一の「天命とは最小限度の御魂の義務である」を終わります。(拍手)
