深見東州の土曜神業録17(Vol.4)

【第二章】霊障とは考え方の中にある(昭和60年8月3日)

世の中にはさまざまな主義がある

【深見先生】はい、パート二の講義です。テーマは「霊障とは考え方の中にある」というテーマでございます。

皆様、この世の中には、例えばですね、えー、大きく分けまして、中国の諸氏百家の思想体系を見ておりますと、性善説と性悪説。

それから、まあ墨子博愛主義とかいろいろあります。大きく分けて性善説と性悪説ってありますね。「一体先生、性善説が本当ですか、やっぱり性悪説が本当ですか」とかっていうようなことを聞きますね。

それから、西洋の思想体系から言いますと、虚無主義とか実存主義とか、いろいろ主義があります。

実存主義は前の講義で申し上げましたように、キリスト教暗黒時代。すなわちヨーロッパがほとんどキリスト教に覆われました時に、とにかく地球は真っ平らで先がこうなっちゃってると。天動説。地動説なんかけしからんということで、ちっとも科学文明とか文明文化が進歩しなかった。

宗教芸術が若干ございましたけれども、伸びなかった。神様というのはあってもいいけども、確かなものから積み上げていこうじゃないか、そうじゃないとドグマに陥るということで、デカルトが「我思う、故に我あり」と。

こういうふうに申しまして、確かなものから見ていこう。確かなものとは一体何かと。確かなものとは何だと考えている、この私自身の思っているということが事実だから、これだけは確かだと言えようと言いまして。

例えば、前にも申し上げましたように、お窓の外に帽子が動いたと。あ、人がいると。これはもう論理の飛躍だと。ドグマだと。動いているのは帽子にしか過ぎない。

ひょっとして棒の上に、こういうふうにこの帽子をのっけて、わんちゃんが走ってるかもしれない。だから、窓のそばまで来て下を見て、あ、人がいるなと。それではじめて人がいると結論しよう。見たのは帽子があるという事実に過ぎない。

こういうふうにして、徐々に思考体系を進めていこうじゃないかということで、デカルトのこの方法論というのが、今の科学の科学的なアプローチになったわけです。科学的な確かな論証から見ていこうという方法になった。

キリスト教の暗黒時代の反動で、確かなものから見ていこうということで、起きてきたわけなんですけど。

ですから懐疑主義と言われておりますけれども、いろいろ研究して探索した結果、これから確実に見ていこうというのが、今の科学、哲学というものの、一つのアプローチだったわけです。

マルクスなんかも「宗教はアヘンである」と。これも宗教の反動です。「天国は近づけり。汝悔い改めよ」と言うけど、二千年経っても天国なんか来てないじゃないかと。

資本家と労働者の階級があって、一部の人間が資本のシェアを独占してるからこうなるんであって、階級闘争をしてみんなで仲良く分ければ、世の中が幸せじゃないかという発想です。キリスト教だけじゃ駄目だということの反省から来たわけなんでしょうけど。キリスト教の反動で、このままじゃ駄目じゃないかと。

いくら「神様、神様」と言っても、天国は何千年経っても来ないじゃないか。人間が努力して開拓しなければ、永遠に理想の社会は来ない。ですから『資本論」の最初の方は、食べたい時に食べたいものを食べたいだけ食べている、そういうふうな理想像が描かれておりました。そうするために資本の分配。マルクスの再生産表式といって、生産したものが全部消費されていくとうまくいく。余剰生産が残るから、貿易が起きて領土争いが起きるんだなんていう論理です。まあ技術革新がなければ、それもできないんでしょう。

中国もソビエトもやったんですけども、実際やってみたら、そう理論通りにはいかなかった。中国は教条主義、ソビエトは修正主義というふうに言われまして、理論通りにはいかなかった。

そういうさまざまな主義、例えば、実存主義にしましても、マルクスの主義にいたしましても、現実界の何かの矛盾を感じ、何かの反動で、これじゃ駄目だということから、ああいうマルクスの思考体系、デカルトの哲学体系、カントなど、いろいろ哲学史に出てきました。

特に典型的な例は虚無主義です。キリスト教の信仰力を持っている主義、いわゆるクリスチャンとまったく相対するのは、いわゆる虚無主義であります。

キリスト教の信念を持っていくのは非常に素晴らしいんですけれども、とにかく信じるものこそ救われると。とにかく信じなさいと。

「我よりも父また母恋するもの、我にふさわしからず」と。私よりもお父さん、あるいはお母さんの方が大切だという人は、私にふさわしくない。絶対的に私を信じてついてきなさいっていう。

当時イスラエルの人たちは、ユダヤの人たちは、もうばらばらで教養も何もなかった。例えば、ブラジルなんかでも当初国を作った時には、軍事政権があって、非常に厳しい軍事政権でなければやっていけなかった。

民主主義が起きてくるまでに、それだけの教育レベルというか、強固なああいう主義でないとやっていけないというようなことがあって、イエスもある程度強引に「わしに付いて来い」という感じですね。表現的にはもっと教養と人格と愛があふれておりますけれど、「付いてきなさい」という言い方で。

信じるものこそ救われるというキリスト教の教えがありますと、じゃあ信じなかったらどうなるのかと。もう全く地獄でサタンの世界で、虚無主義でゼロなんですよ。救われません。

だからとにかく法律だけやってて、とにかく自分の生命とメリット、こういうものだけをキープして安全な道を・・・。ピストルと法律と錠前が発達してきて。

キリスト教の逆はまさに虚無主義です。信じるものこそ救われる。信じなかったら、全く救われる余地がないと。

日本人は楽天主義

日本はいいですね。天照大御神を信じなくても、素戔嗚があるじゃないか。日本の神様が嫌だったら、仏様もいるしイエスもいるし。イエスが嫌だったら、マリアさんもいいしなあと。

別に天照大御神でなくても、素戔鳴もいますし、出雲大社もあるし、お地蔵さんでもいいしと。一つのものを信じなくても、別に救われてるわけです。

日本では、平和と水というものは、もう昔からあるようなもんだと。戦って平和を獲得するとか、戦って水を獲得するという歴史がない国です。元々あるという感じで。ですからもういるだけで、風土が満たされております。

日本列島は縦に長く、山の中に入れば、バナナはありませんけども、喜界島というところでは生えてるんですよ。奄美大島の喜界島ってあるんですけどね。そこは道にパパイヤとバナナがなってる。それをポッと食べて。ちっちゃくておいしいんですよ。

「もうパパイヤなんてそんなの食傷気味だ」なんて言って、誰も取らないんですよ。食べたらおいしいですけどね。

日本は縦に長いんで、いろんな環境があります。山の中を少し歩けば、蓬が生えてる。それからパセリはあるかどうかわかりませんけど、栗がある。柿がある。山葡萄があるとかね。それから山菜もある。水は飲んでもお腹下さないし、おいしいです。

ですから非常に恵まれておりまして、そういうのはやっぱり宗教、精神のベースになりました。「これがなかったら、これもあるや」ということで救われる余地があるので、あんまり日本人の中で虚無主義の人っていません。

ですから、アメリカに原子爆弾を落されまして、世界で原子爆弾落されたのは日本だけなんですけど、二カ所も。いまだかつて日本人の中で、「私はアメリカを憎んでる。原子爆弾落されて、お祖父さんも死んだので、アメリカを憎んでる」という人はほとんどいないです。

やはり、ニュークリア・ウェポン(核兵器)がよくなかった。ワールド・ウォー・ツー(第二次世界大戦)がよくなかったと。で、みんな積極的にいこうと。

ところがフランスに行きますと、私の聞いた話なんですが・・・。私がフランス旅行に行ったときに、果物屋さんに行ったんです。そしたら、おばあさんが、

「日本人か。日本人には売らない。ひいおじいさんは第二次世界大戦でドイツ人に殺された。その時日本は同盟国だったじゃないか」と言って、果物売らないんです。だから執念深いんですね。

いまや北朝鮮なんていうのは、このようなひどい目に合わされたということで、日本に対する憎しみを子供の頃から養っているらしいです。やがて大きくなったら、その憎しみが非常に大きくなるだろうというんで。そういうふうに教育してますよ。

日本はそういう意味で、非常に楽天的なんですね。水と平和が備わって。虚無主義じゃないから。食うか食われるか、殺すか殺されるかっていうよりも、まあ何とかなるんじゃないかと。

そういうことで、戦争で負けましても、核兵器を憎んで、戦争をなくそうなんて言いますけど、アメリカを憎んでるという人はあんまりいません。「あの時に同盟国だった」と言って、憎んだりするのは外国人ですね。

私もドイツ人に会って、ドイツってもう“WHY? WHY? WHY?”の連続です。

大体二時間の会話の中で「なぜだ、なぜだ」というのが二十回ぐらい出てくる。もうこんな理屈っぽい人間と会って、頭おかしくなるって言ったら、「WHY?理屈はいけないんだ」という感じでね。とにかくその時にも、日本人は好きだと。ベルリン、ローマ、東京。これ枢軸国だったというわけですね。

まあそれはお世辞言ってるのかどうか知らないですけども、その歴史というか、やったやられたというものは執念深く覚えている。

キリスト教の逆の虚無主義というベースと、日本の風土に恵まれましていろんな神様がいるというのは、精神構造に大きな影響があると思うわけですね。

「何となく」の世界がすべての源

この哲学とか主義とかそういうものはですね、どういうところからきたかといいますと、さっき言いました。

一つはデカルトのようにキリスト教の、このままじゃよくないんじゃないか、という大きな反省があったというふうに言えるんですけど、実際問題と致しまして、そんな理屈があって人間、哲学なんて作らないんです。

だいたいその人の生き方とか、私には哲学がありますからとか、考え方とかのベースをよくよく見てみますと、何となくの世界なんです。

例えば、太宰治の文学を見ましたけど、私、学生時代に。

太宰治の作品を見て、怖くなっちゃって。それほど太宰治の文学のベースにあるものは、悲しみと恐怖ですよ。だからあれを読んだ人間は自殺する。文章がうまいから。

要するに悲しみと恐怖の霊障の塊のような人間ですよ、あの太宰治は。鴨長明と太宰治だけが許せない人間という気がしますね。どれほど若人を駄目にしたかと。歴史上許せない人間の一人です。

あの鴨長明も…。私も「方丈記』見て、この男、なんという根性のない・・・。まあそれが、怠惰な生活を送っている、出世できなかったサラリーマンの窓際族なんかには共感を呼ぶのかもしれませんけど。許せない敵。

ですからもう、読んでるとだるくなるんですね。

太宰治の文学ってありますけど、エッセンスは、ただ文筆、表現力が豊かで才能があって、悲しみと恐怖を表現してたと。

だからあれを読んだ人は、なんか人生が虚しくなって、悲しくなって自殺したくなる。私はそこまでいきませんでしたが、霊的に昔から敏感でございましたので、がたごと怖くなっちゃってね、人生がもう。このまま生きてていいんだろうかと思って。

このように文学にしましても、特に哲学主義というものは何となくの世界です。何となく嫌だな。それは体調、あるいはいろんな個々の理由からくるんでしょう。

何となく人生ってよくない。昨日も冴えなかったし、今日も、はあー、ため息混じりだあと。これからの未来っていいことなんて考えられないよなー。何となくそう思うわけです。

そうだ、太宰治の作品にもあったし。お友達もそういうふうに言ってたし。

この世の中って、生きてても大していいことがあるとも思えないしね。ただただ死んでいくぐらいだったら、まだお肌の曲がり角が少し過ぎたぐらいで死ぬ方が死に化粧は美しいかもしれないなんてね。

そういうふうに思っちゃって。それで、そういえば太宰治もそうだったし、あの人もこう言ってたし、ああいう学説もあったしということで、カミュなんて読んでみてね。

とにかくそういうふうな波長の小説とか、あるいは哲学に惹かれていくわけです。それは自分自身の何となくの世界と共鳴し合う世界があるからなんです。

そういうふうな形で、何となくの世界からまず入って行くんです。何となくの世界がありまして、それからパッと直観がそこへ出てくる。おそらくデカルトもこの直観があって、そうしていろんな概念が出てきたんでしょう。

「独りであること」、「未熟であること」、これが私の二十歳の原点である、なんてありましたね、あの高野悦子の「二十歳の原点」。あれを読んで何人死にましたか。

それからゲーテ。ゲーテの「若きウェルテルの悩み」を読んで、みんな昔はこういうふうに見て、はぁー。川べりで「若きウェルテルの悩み」を見て、何人死にましたかね、自殺。

書いたゲーテは七十三歳で、「君こそ私の理想だ!」と、十八歳の女性にプロポーズして。本人はあれで八十何歳まで生きて、十何歳の人に恋をしてるんでしょう。「若きウェルテルの悩み」は作品ですよ。それを若人は真剣にすごいと感動して、自殺していくという…。

兼好法師のあれみておりますと、「男は四十に足らんほどにて死なんこそよけれ」と。だいたい四十そこそこぐらいで男性は死ぬのがいいと。それ以上長生きするべきじゃないと書いてある。

「本当だ」と思って四十そこそこで死んだら駄目です。兼好法師は六十八歳まで生きました。雙丘というところでしょっちゅう色町に通ってた。絶えず。はぁ、恥の多い人生だった。

俺もこんなに生きて、こんな恥の多い生臭坊主になっちゃって。四十のあの頃まではよかったなあという反省から、文章になってるわけです。

だから、文章なんてあてにならない。だけども「若きウェルテルの悩み」にああいうふうに書いてあったし、四十で死んだ方がいいし、「徒然草」なんかあったしというところから、こういう概念が形成されていくわけです。

人様の概念か本に書いてある概念。そうした概念が固まって固まって、議論を進めていって、ここに認識というものが出てくる。

自分自身の、これはこうあるべきもんなんだという形で出てきて、これが主義ですよ。主義とか哲学を形成する。だから、今日も何かすごくさわやかで、人生はバラ色のような気がすると。

何か今日もウキウキして楽しいなあという人が、虚無主義とか自殺者の手記なんていうのはあまり読まないです。やっぱり、なるべく明るい本がいいなあと。うん、人生はバラ色だあなんて。

小・中学生なんて武者小路実篤の「人生論』でいいんですよ。何事もバラ色でいい方に考えていく。

そういうふうに、なるべく楽天的に、人生はいいというふうなものを選ぶ人は、直観が出てくる前は、何となくの世界がすごい明るくて楽しい。

例えば、西谷さんが虚無主義の本なんか読んでも、全くピンと来なくて気持悪いと思うはずですよ。

毎日がアハハという形で、少年ジェットのように明るく元気で楽しく、はつらつと今日も生きてるという、何となくの世界があるわけ。だから選ぶ音楽も、作曲したミュージックも「あの頃に帰りたい」「へのへのもへじ」にしましても、楽天的で明るいんですよね。この何となくの世界ですよ。

恐らくデカルトも、何となく、このままでいいんだろうかな、といぶかしく懐疑心を抱いて、お父さんがしょっちゅう疑り深かったのかも知れませんけど。そういう何となくの世界からパッと直観が出て、直観があって概念があって、概念が積み重なって本人の認識になるんです。

哲学とか主義とかイデオロギーなんて言いますけれども、元をたどっていきますと必ずこれにくるはずです。そうでなければ、性善説を取る人と性悪説を取る人、どこが違うかと。何となくの世界が違うわけです。

日本、世界の宗教学の結論は、いまだかつて世界の学者で学問的に神様があると立証した人はいないと。同時に、今だかつて学問的に神様はないと立証した人もいないと。

ですから科学的、学問的な立場というのは、神というのはあるとも言えないし、ないとも言えない。これが科学的な立場なんです。科学的に神なんていないというのは、本当は非科学的なんですね。客観的に見ていますと。

そういうふうに、性善説なり性悪説なりっていろんなイデオロギーとか主義主張があるんですけど、合う合わないがあって、理論武装と言葉の武装をしてるだけです。何となくの世界というものが、やっぱり全ての源になっているんです。

そういうふうに皆さん、考えられませんか。これはショーペンハウアーさんが言ってることです。ショーペンハウアーというのはそういうふうにして、直観ということを言いました。

まずやっぱり全て直観だよと。そんな理屈じゃないと。こういうふうに人間というものは形成されているということを考えまして、いろいろな学問とか哲学というものの原点を見た方がいいと言えるのではないでしょうか。

霊層の高さが何となくの世界を決める

じゃあ、この何となくの世界って何だと。何となくの世界ってなんだろうか前にも申しました。例えばわんちゃんとか猫が人間にヒョッと憑依しますと、犬語をしゃべるのか。

「わんわん、わうわう、わんわんわんわんわん」「にゃーにゃにゃーにゃにゃにゃにゃにゃ、にゃーにゃー」ではないんです。犬が人間に憑依しますと、犬語じゃなくって人の言葉を話す。狐でもですよ。

狐が憑依しても、「コン、コンコン、コンコンコン、コンコンコン、コンコン、狐うどん」って、そういうんじゃないんです。やはり、人間の言語を立派に話す。

それは犬とか猫とか狐っていう動物の顕在意識の中、要するに脳の許容力に合わせた形で、言語体系とか表現能力が変わってくる。尻尾を振ってみたり・・・。

そして、その霊が人間にヒョッと憑依しますと、人間の過去の顕在意識とか言語体系を活用しまして、犬の意志をはっきり言うわけです。ですから本当に、犬の霊が完璧に憑依した時は、人間の言葉を話します。

そのあたりを応用して、私は他心通力で犬の言ってる言葉を人間の言語に翻訳したりして。赤塚不二夫さんの猫が何を考えてるかを私が十項目に分けて、だいたいぴったり全部あたってたんですけど。しばらく猫の顔がちらついて、

あんまりやらない方がいいなと思ったんですけど。

結局、プラスの霊が憑きますと、過去のいい思い出、いい思い出、いい思い出が形成されていって、楽天的で発展的な考え方になる。

それからマイナスの霊が来ると、過去よくなかった思い出がそれからそれへと思い返されまして、なるべく暗くって消極的で、駄目じゃないか、挫折と不安と疑心暗鬼と、駄目だなあという絶望の道に近づくような考え方が編集されるわけです。

考え方の種類が、発展的で楽天的で陽気で明るいか、逆にマイナス的かということを見てみたら、どういう霊が憑いてるかがわかるわけです。

同時に、何となくの、その人の認識の仕方、考え方、概念、直感、いつもこう思うんだ、何となくこうなんだという、この何となくの世界を見ますと、霊層がわかる。どういう霊界の層に住んでる人なのかがわかるわけです。

霊層の高い人は何となくの世界が非常に明るい。何となくの世界が非常に発展的で暖かい。

いい霊界にいますと、明るくて暖かくって楽天的で、とにかくハッピーで満たされた豊かな世界です。何となくの世界がすごく豊かで、何となくの世界がすごく発展的で明るいという何となくの世界にいる人は、いい霊層にいるわけですね。

そうして、考え方がそれに立脚いたしまして、ああ、あの時も成功してうまくいったから、今度もうまくいくなと。あの時も発展して良くってみんなに大事にされたから、今度もいくなと。

ですからその人の思考体系というものは、非常に楽天的で発展的です。そういう霊層にいる人は、

「あなたは性善説ですか、性悪説ですか」と聞くと、「私はどういうわけか性善説だと思う」と。何となく善なるもんだと。人間は元々善だというふうに思っちゃう。

「キリストは信じないけども、ああいうふうなものは大事じゃないかなと思い「ます」と。決して虚無主義にはならない。何となくそういうふうな発想の仕方を選んでしまうんです。

「いや、私は性悪説だと思う。人間は元々悪、悪だからこそ教育をして、少しでも悪を少なくしなければいけないと思います」という人は、何となくの世界が、おそらくよほどひどい目にあって、霊層が低くなってるんでしょう。考え方が本当にその霊層に落ちてしまうんですね。想念の仕方が。

ですから、あんまり苦労したからといって、いいもんじゃありません。その苦労をどういうふうに受け止めて、高い霊層の考え方になって自分を修養したかが大事なんです。

別に苦労したから偉いわけじゃない。「苦労が身にこたえましてね」なんていう形で、真っ暗な霊界へ行ってしまったら駄目です。艱難辛苦とか苦労しても、何となくの世界をいかに高く素晴らしくしたかということが、信仰力というものの値打ちなんです。

こういうふうに、何となくの世界というものが、性善説をとり、霊層を決定する。人間の虚無主義の元もこれなんです。