神とは何か(昭和59年7月7日)
(咳払い)えー、神様、神様と言いますけれども、ま、西谷さんも坂本さんもいろいろ深く勉強なさって、神様、神様ってよく言いますよね。
いろんな神様の定義があるんですけど、一体、神様とは何なのかと。どういうふうにとらえればいいのかっていうことで。
例えば、日本神道の場合ですと、掛詞、序詞、縁語なんて言いまして、同音異義でね、一つのことにかけて、いろんな意味を持たせたりしますので、なんかゴロ合わせみたいなんですけども。
言霊で神(カミ)というのは、「隠れ身」と書くんだと、だから姿は現さないで、人間を背後から導いたりするものなんだと。
あるいは、古神道の場合で言いますと、神というのは「カビ」からきてるのだと。そのカビが、『日本書紀』とか『古事記』の中にはこう、さわらびの萌え出でんが如く、こう出てくると。
シダ類なんかが発生したときにカビが出てくるようなかたちで、人間は生まれてくるんだと。まあ、確かに霊的にもそういう雲みたいなのが、こう影みたいのが出てきて徐々にハッキリとしていく。
だから、カビから神が出たんだと。また、そうじゃないという意見もあります。素晴らしいもの、非常に尊いものだという意味で、「御」だと。上の方にこう、崇め奉るから神(E)というのだと。ここから神がきたんだと言いますよね。
キリスト教とかそういうところの神というのは、いわゆる人格神です。ヤーヴェの神様とか。何か人格があって、神の声がしたとか・・・。顔を見た人はいないんですよ、神の顔はこういう顔だなんていうのは。
ギリシャ神話ですと非常に個性のあるような、神々様と言いましてもけんかしたりね。えー、西谷さんの友人で、神様と神様がけんかしてると。
神様と神様がけんかしてるのを収めないと世の中良くならないというので、毎週土曜日と日曜日は山梨の方へ行きまして、神様が仲良くなりますようにというふうに祈る人もいるぐらいでして。まあ、確かにギリシャ神話の神々様は非常に個性豊かで、バッカスの神なんて、酒ばかり飲んだりね。
もう首斬ったり、血だらけになっちゃったりして。そういう、エホバの神様、ヤーヴェの神様って全部、人間のように人格があるわけですよ。人格神が神なんだと。
ところが仏教では「森羅万象これことごとく仏ならざるものなし」と。
例えば、阿弥陀如来と言うんですけども、親鸞上人の『教行信証』という中に、「南無阿弥陀仏」の南無というものは帰依するという意味なんだと。
阿弥陀仏に帰依するということが「南無阿弥陀仏」ということなんですよね。「南無観世音菩薩」というのは、観世音菩薩さんに帰依しますということなんですよ。
で、その、阿弥陀仏とはどういうことかっていうと、天地自然、この自然界の、全てのことを例えて阿弥陀仏と言ってるんだよということで、親鸞上人がいうところの南無阿弥陀仏というのは、自然に帰依しますということを言ってるんですよと。まあ、親鸞上人はいろいろ言ってますね。
ですから、阿弥陀如来にただただおすがりするというか、自然のまにまに自分は生きていこうというのは、中国では浄土宗ですね。
今、言ったように。そして禅宗。中国の歴史を見ましても、いろんな、例えば密教もありましたけれども、ずーっとメインに、この二つのものが一番よく発達してるんですよ。浄土宗と禅宗が。
それはというのはやはり、老子の老荘思想、まさにそのかたちとか文字じゃないもの、永遠に変わらない「道」というものを求めていこうという老荘思想がバックボーンにあるのが禅宗。自然のまにまに生きていこうじゃないかと。無為自然と。何にもしないで自然にまかそうと。
何にもしないで…。無為というものは、これは人為と逆ですよね。何にもしないっていうことじゃなくて、人為的にあれだこれだとか、作為的にあーだこーだというんじゃなくて、自ずから出てくるような自分自身のあり方。そして自然に任せていく。無為自然というのが老荘思想の一つのバックボーンなんですけども…..。
まあ、そういうふうな体質というのが浄土宗、及び禅宗に、中国のバックボーンとしてあったわけです。
ですから、インドで生まれた仏教が中国へ来まして、そういう老荘思想のバックボーンがありましたので、一番馴染みやすい。この、浄土宗と禅宗というのがピッタリきたわけですね。日本にもそれがやはり合ってるようで、禅宗と浄土宗。
宗教的に日蓮さんは、どうも生臭い感じがする、弘法大師はどうもこう、魔術師みたいだと。人格ある、例えば大学教授とか教養豊かな人は、やはり親鸞がいいと。
伝教大師最澄の方がいいと。栄西も親鸞も、それから法然さんも、それから道元さんもね、一遍上人も、みんな比叡山から出たと。
ああいうふうな立派な人が育ったわけだから、比叡山の最澄の方がいいんだなんて、まあ言うんですけど・・・。
まあ、とにかくそのように、自然界全てを例えて神様と言ってみたり、それ例えて言って阿弥陀如来様、自然のまにまに生きていこうと。そういうものが神なんだと。
ま、自然崇拝って言うんですかね、いろいろあるわけです。
ところが、ここから来た、あれからだといって、言葉の意味の上で、神々神々っていろいろ言うんですけども、で、その定義が随分違うんですけども。
分かり易く、もう少し整理して言いますと・・・。日本の神道というものは、日本民族の民俗宗教と言われているような、昔はそうだったんですけども、アーノルド・トインビーが、非常に世界宗教の要素があるということで、先々週ですか、神道の話をしたときにお話ししましたよね。
そして、本来の神道でいうところ、特に、植松先生が直に神様から教わってますので、整理したいと思うんですけど、神とは一言でいうと、「神」という言霊分析しますと、「か」は火だと。「み」は水だと。
火というものはどうしても上へ、上へ上へと行くと。こういうふうに横に出るような火はないわけですね。ライターでこういうふうに揺れたら変なんです。
どんな火も、どういうわけか上へ上へと燃えようとする。ですから、九紫火星の星の人は上へ上へと理想へ燃えていくといいます。
水はどういうわけか下へ下へと行くんですね。こういうふうに縦にピッと立つような水ってまずない。水は常に普遍的に横へ横へと広がろうとしている。「だから、「か」というものは縦へ向かっていって、「み」というものは横に行くと。
あるいはまた、「か」を別な言い方で言いますと「陽」であると。「み」は「陰」であると。中国の自然観っていうのは、全てこの世の中は陰と陽でできていると。
まず、太極というものがあって、そこから太極の一があって、ここから陰と陽が出てる。プラスとマイナスですね。で、陰の中にも陰陽があって、陽の中にも陰陽がある。
そしてこの中にまた陰と陽があって、陰と陽、陰と陽がある。合わせてこれで八つあるんだと。
これで八卦当たるも八卦、当たらぬも八卦。で、その八卦がまたその中に陰と陽があると言いまして、易は森羅万象を六十四の卦で現しているんですね。これは学問にも宗教にも芸術にも、全てのことに当てはまるんで、これが占いの根源ですね。
まあ、この奥には日本の古神道の、天津金木というものがあったんですけど、この天津金木というものが、何万年前にあったものが発達しまして、約六千年ぐらい前に、易の基が作られました。伏羲ですか、こういう人が易を作ったわけですよ。
今を遡ること約六千年以上前の伏羲という人が、この易を作ったわけですけども。
まあ、そのように、全て森羅万象は陰と陽でできているんだと。世の中は男と女、陰と陽なんだという、これは皆さんも聞いたことあると思うんですよ。
中国の易ではそのように六十四の卦で全てのものを現していて、進むべきか退くべきかと、これを全部占ったわけですね。
前にも言いましたように、中国の科挙の制度で、官吏登用試験の最終関門、三次試験、四次試験ですか、最終関門は、この易というものをどれだけマスターしているかと。
易という字は、明るいという字があって、これが変わってきてこのようになったと。明るく、日と月。物事というものを明らかに、天の命を明らかにして人の道をやっていくと。政治は政と言いましてね、『論語』にも出ております。
だから、人が考えてやるんじゃないんだと。その天のときを見て、進むべきときは政治を進めてみて、今を省みるべきときだったら内省を深くすると。
そういう天の命を知ってやらなければ、政治というものは上手くできないんだと。
政は上手くできないんだと。
科挙の制度では、この易というものをどの程度理解して、心から天命を愛し人の道をやっていくかが最終関門だった…。
お話は横にそれましたけども、まあそのように、この神というものは、陰と陽なんだと。縦と横なんだと。それから今度は男女。ですから、女性は水だと、陰だと。男性は火で陽なんだと、こういうふうに言いますよね。
今度は化学式で言いますとプラスとマイナスです、プラスとマイナス。必ず電気もプラスとマイナスがあって、ここに化合したときによって物質が生まれると。
必ずプラスイオンとマイナスとある。アルカリと酸性がありまして、中和していく。全てこのプラスとマイナスの発想でできているんだと。電子も原子核も、こういうふうな結合をしているんだと。
こういうふうに神とは何かというふうにして、お話を進めているんですけど、一言で言えば、この縦の働きと横の働き、陰と陽、火と水、こういう働き全てをいうんだと。これが神なんだと。
その働きの中で顕現神となって姿を現す神様もいれば、自然現象全てを現しているところもあれば、人格神となって、その言葉を出しているっていうのもありますけど、本体はこれなわけですね。
小さな「何々の神様」「何々の仏様」っていうかたちで神様を定義するから、「私の神様はこう」「こっちの神様はこう」で、宗教同士が争いをやってる。
その神様は何を言わんとするかといったら、汝の敵を愛せと。平和のためにっていう祈りをするんですけど、自分のところが一番いいんだということで、争っている。大きな矛盾があるわけですね。本来の神様はそうじゃない。
このように、簡単に言いますと、神とは何かと言えば、働きだと。どんな働きかというと、陰と陽、プラスとマイナス、火と水だと。日と月だと。あ、これともう一個ありました。霊と体。目に見えない人間の霊的な部分と肉体ですね。
太陽というのは、もう燃えるような情熱、エネルギーですけど、月が付きますと、肝臓の肝もそうですし、腰という字もそうですし、どういうわけか人間の内臓は全部にくづき(月・月)が付くんですね。
女性のあれも非常に月と関係ございまして、詳しい説明は省きますけども、関係あるわけです。
人間が生まれるのも満ち潮のときに生まれまして、とりわけ引き潮のときに死んでいくんですね。そう、月満ちて生まれるんですね。で、確かにその、太陽から出て太陽神界の太陽の働きと、お月様の働きというのが、非常にやはり地球に大きな影響を与えてますね。
こういう話があります。バイブルを地面の上から富士山ぐらいブアーッと積み上げて人類に貢献したのと、太陽の一分間の放射エネルギーと、どちらが人類に貢献してるかと。
それは一分間の太陽エネルギーの方が、バイブルを富士山の頂上ぐらいまで積み上げるより貢献してると。ま、そのように太陽の恵みってのは大きいわけですね。
ですからこれは、魂の分野を日は司り、お月様の分野が陰ですね。太陰暦、太陽暦って言いますよね。お月さんのことを陰とも言うんです。で、肉体のことは月が影響しております。霊と日というものも非常に影響しております。例えていうなら、いろいろ分類できるわけです。
ところがよく見てみたら、こういう腸の働き、陰の動き、霊的働き、体的働き、太陽の働き、月の働きというふうに分類したんですけども、このままですと、ちぐはぐちぐはぐするんですね。
火は火で勝手に動いている、水は水で勝手に流れている。陽は陽、陰は陰、これじゃダメだと。こういう働きが上手くいくためには(編注、板書しながら)ここに留め金(+)がなきゃダメなんです。
そうして初めて陰は陰として、これ(中心)が重なっているということで回転し始めると。留め金があって。それが要するに卍の形になる。卍ってのはこういうところから出てるんですね。
これがグルグルグルグル回りまして、働きというものはこういうふうになっているんだと。これ(中心の止め金)は点ですから、質量も絶対量もないわけです。重量もございません、点ですから。点の概念です。いわば、陰と陽の働きを結び付けているのは、陽であるし陰であると。
しかし、陰でもなければ陽でもないと、この点はね。そうでしょ。この、クロスのところにいるわけですから。
また逆に言いますと、点は質量がなくて、全てのこの縦の働きというものは点の集合でできているんだと、数学的に言いますと。全部点が集まって陽の働きができてるわけですね。
陰も全部、この点が集まりましてできてるわけです。ですから、本当の神様の働きというものは、これを日本神道でいえば、静止状態で、働きのない働きです。陰と陽を結び付けているものは、陰であるし陽である。
しかも、陰でもなければ陽でもないと。働きのないという働きなんですね。これがあってはじめて、本当の働きができるわけです。
これをどういうふうに考えたらいいかと言いますと、例えば、車輪が車輪であるのは、なぜ車輪になるかというと、車軸がね、あるわけですよ。車輪の働きをしてるのはこれ(輪)で、それを支えているんですけども、軸は全然動かない。軸がうろうろ動きますと車輪の役をなさないわけですね。
そして、例えば国体で言いますと、天皇陛下。政治的にそういう働きがあるようでない、ないようである。歴代の天皇を見てみましても。国王というものは両方の要素を持っているんですけども、天皇様は権力というのはないんですね、元々は。
ようするに、神主のように、天が下平らけく安らけくと言いながら、江戸時代でも鎌倉時代でも、幕府がありましても天皇はあって、その元においてみんなうまくいってる。働きがあるようでない。
最高によく働く人は何も働かないで、周囲の人が自然とよく働くうちに、自然に治まっていく。漢の高祖が、漢という国を作ったときにこういう話があります。
果たして私は、武術ということに関しては、韓信なんかには負けるし、経済の資金の調達に関しては○○の方が優れているし、武略の作戦ということに関しては△△の方が秀でているし、食料の調達ということに関しても□□が秀でているし、果たして漢の国を我は作ったんだけれど、何故できたんだろうかなと。
どれひとつとってみても、わしはおまえたちより優れているもんはないんだけどな、とそういうふうに漢の高祖が言ったわけですよ。そうすると傍らにいた武将が、「いや、閣下は将の将たる器を備えておられます」。こういうふうに言ったという話が残ってますね。
将の将たる器。自分は何にも働かない。しかし、将の将たる器があって、一人ひとりの働き、おまえはここの働きがいい、この働きがいいと、それぞれの働きを上手くバランスよく統率していくだけの力があって、自分自身は何の働きもないわけですよ。それがわかるわけ。働きがないという働きです。
だから、それぞれの働きを一〇〇%発揮することができるんだと。漢の高祖のように、閣下の「将」は「将たる器」を持っておられたということ、つまりは例えていうならば、こういう働きのことをいうわけですね。
これを日本神道ではどういうふうに言うかと言いますと、「天御中主」と。陰でもなければ陽でもない、しかも陰であるし陽であると。陰陽未発の世界ですね、日本神道で言いますと。そこから例えば、マイナスとプラス、体の働きと霊的な働きが次に出てくる。
独一真神天御中主と。『古事記』にも出ております。最初に出てきた神様がこれだと。陰でもなければ陽でもないという。
そして、霊的な物事の初発の神様ですね、こういう霊的なものの最初の神様は高皇産霊神様といって、霊的なもの全部がこの神様から出ている。或いはこの神様が統率しておられる。
そして、体的な、物質ですね。物質というものは全て神皇産霊神様から始まったんだと。日本の神道ではこの御三体の神様を、造化三神の神というんです。造化三神。つまり、その霊力、プラスとマイナスというものを両方、これを従えて働いていく。これを御中主の働きというんですね。別名三元の理ともいうんですけども、古神道では。
観音様もそうですね、観音様というのは、お姿見たら女性的ですけども、中は、男性的な厳然としたものを持っておられるんですよ。
そのように陰でもなければ陽でもない。であると同時に陰であるし陽であると。で、こういうふうにしてプラスかマイナスが出てくる前のこの世界、これ万物を作っておられるんだと。造化三神の神っていうわけですね。
ですから、ここ(陰陽の出る前)は高皇産霊ですし、神皇産霊ですか。このように造化三神の神がいらっしゃるわけですね、これで全てのものを造られましたと。
これを『老子』で言いますと、「一は二を生じ、二は三を生ず。三は全てを生ず」と。それはこういうことを言ってるわけです。で、森羅万象全部この法則に基づいています。日本の神道で言いますと、この御中主というのがそういう働きですね。
これは例えば、日本人の性質ではどうかと。えー、ある男の人が女の人に、「私のこと、好きですか、嫌いですか」と聞いたわけです。
「ん!…」
「嫌いですか」
「いや・・・」
「じゃ、好きなんですね」ってしがみついたらパチッとたたかれたと。
「だって嫌いじゃないと言っただろう、嫌いじゃなければ好きだろう」
「いや、好きでも嫌いでもない」ということがあるわけですね。ヨーロッパ人はイエスかノーかです。白か黒かです。灰色思考なんて日本は言いますけども、それは日本民族の血液の中に、この神道でいうところの、陰でもなければ陽でもないというものがある。プラスでもなければマイナスでもない、混沌の状態というんですね。そこから、はい、いいえっていう世界が出てくるわけです。
『源氏物語』もこの、「たゆとう心」ですね。えー、お話が全然変わるんですけども、源氏の君が来たときに、『空蝉の巻』です。『空蝉の巻』に、光源氏が人妻に言い寄るわけですね。空輝さん、好きですと。
今をときめく光の君に口説かれて、空蝉の君はドキドキドキドキしてるわけです。それで、自分のご主人は四十何歳なんですね。うら若き乙女のご主人が四十何歳と。
ああ、このときを逃したら、光の君と一緒になるときはないんだろうけどと、朝までこうやりながら、私を受け入れてください、いや、そうはいきませんと言いながら、このチャンスを逃したら私も青春時代を無駄に過ごしてしまうというんで、いや主人の義理もございますしと言いながら…。
これ、「たゆとう心」ですね。「はい」でもなければ「嫌」でもない(笑)。グジャグジャしてますけどね、『源氏物語』見てたらイライラしますけど。
そしてまあ、結局は一夜を共にしたわけです。「今はみきとなかけそ」と。「今はみきとなかけそ」、今日、私とこういうふうになってしまったということは「なかけそ」、決して言わないでくださいね、と言いながら、まあそれをしたという。
『源氏物語』のテーマは何かっていいますと、こういう言葉が出てきますね。
「たゆとう心」なんですよ。もうハッキリしないと。もう、ニコニコニカニカ笑ってて、ハイとも言わずにノーとも言わずに、ハッキリしない野郎だと、ヨーロッパ人は日本人のことを見て思うんですけど、『源氏物語』は「たゆとう心」。
開けようかな、開けまいかな、と朝までやってんですよね。「今はみきとなかけそ」と。そういうこの「たゆとう心」というものが、一つの『源氏物語』のテーマなんですけども、これはやはり、この日本神道の陰でもなければ陽でもないという、この世界というものを大事にしているわけですね。
ですから、英語でもお話ししますと、ロジカルは論理的ということです。ロジカルの逆はイロジカル。「理論的な」ということの逆は「非論理的」なんですよね。論理的か、そうじゃなけば非論理的だと。
ところが日本人の発想は、ロジカルとイロジカルの前の、どちらかというとプレロジカル。ロジカルの前の世界にいるんだと。ここから、まあロジカルとも言えるしロジカルでないとも言えると。
プレロジカルの世界にいますから。ロジカルのときはロジカルにいると。ロジカルじゃないときの感情の面では非常に、もう非論理的なものがある。
日本人は非論理的かというと、そうじゃありません。論理的な面もあれば、論理じゃ割り切れない面もあって、その前の世界にいるんですよね、常に。
これが腹芸だとか、人間の腹だとか、イエス・ノーとか、是が非、非が是のときもあるんだなんていう、非常にヨーロッパ人にはちょっとわけのわからない、そういう世界があるわけです。
で、これはヨーロッパ人というのが、陰陽の働きの次元と。日本はこのチョン(●)の世界であると。この点の世界ですね。陽でもあるし陰でもある、しかも陽でもなければ陰でもないという、チョン、点、要です。
これが日本の神様という概念、あるいは天御中主の思想からしましても言えることではないかと思います。
ですから例えば、仏教というのは、まさにこの陰の教えであります。陰気ですね。第一、鐘がこういう具合にありまして、ここがゴーンというふうにして、草木も眠る丑三つどきといいまして、ゴーン、「逝ってしまったあの世のことに…」なんて言いましてね。
ところが日本の神道の場合は違うんですね。鈴。鈴は非常に妙なる音がしますね、チリンチリンチリンチリンっていいますね。中にチョンが入ってんですよね。ですから、非常に軽やかで、鈴は。だから神社に鈴がありますね。確かに神様の音って、ああいう音がするんですよ。
鈴を鳴らしたりするんですけども、それは象徴してまして、これは植松先生が私たちに教えてくれたのですけど、仏教というものはないでしょ、チョンが。
だからお経は、「例えば・・・」、「例えば・・・」のたとえ話ばかりで。ですから、鈴はチョンがありますから、チョンは何かというと、これ(
の中の点)ですよね。これがあるので日本神道の場合には、陰でもなければ陽でもない、陰であるし陽である。
ですから、日本に仏教が入っても、生まれたときには宮参り、結婚するときはキリストの愛によって、横浜の山の手教会で結婚なんかしまして、死ねばお葬式で仏教の寺院のお墓に入ると。ですから、神、仏、キリスト教と上手く分けてるんですね。
そのようになぜできるかと。もう、禅宗は中国にございません。密教も禅もございません。ちょっとチベットとかああいう辺りに残ってますけどね。仏教も中国に入っていきましたけど、今はないわけです。
禅宗も中国で盛んになりましたけれども、今やもう、ほとんどございません。
ところが、日本に残ってるんですね、全部。発祥地にはなくなりましても、日本では全部、それをアレンジしてあるわけです。それは陰も入るし陽も入る、そうかといっても陰のままじゃない、陽のままじゃないと。
こういうふうなチョンの国だから、日本神道、例えて言いますならば、こういう点の働きだから、どんなものでも吸収するわけですね。
吸収するけれどもそうじゃないと。言うに言えず、説くに説けない。チョンですよ、このチョンがある。ここは理屈がありません。
働きがない働きですから、どんな働きも吸収することができるし、どんな働きにもなれるんだと。
