深見東州の土曜神業録2(Vol.4)

真剣に人生を考え、人間を考え、死後の世界を考え、生きるとは何なんだというふうに考えるのが、十六、七歳から十八ぐらいまでですね。

そしてそれでもやはり自我の目覚めがありまして、第一反抗期、第二反抗期とありまして、いろいろと個性が出てきたら、ケンカしますよ。お父さんとお母さんにも反抗します。

それから人同士も反抗します。まあそのように、最初無邪気にきてたのが、人知が発達しまして、肉体がまず成長してきまして、その後から思春期がありまして、精神が目覚め、心の目覚めということで、人間は人間としての自覚に立つわけですね。

そうしまして、二十歳過ぎますと、俺は俺の考えだ、思春期だといって、ケンカするんです。意見が違うからなんていうんで、ケンカしたり、意見の衝突があったり。しかし、いろいろケンカしたり、軋轢がある中で、やはりどちらかというと自分の考えだけじゃだめだと。相手の意見も聞かなきゃいけない。

ケンカするよりはしないほうがいいんだというところでルールを作りますよね。

そして、男性は約三十歳かそれぐらいになって、社会人としまして、肉体もある程度発達し、精神性もある程度できてきて、社会のルールということをわかって、ひとりの人間として、ひとりの社会人として独立するわけですよね。

そういうふうになりますよね。人間見てみましてひとつの発達過程、これを人類の歴史も物語ってるわけです。

だから、最初に言いましたように、人ははじめエデンの園にいましたのが、今度は人知の発達がありまして、ああでもない、こうでもないと反抗期があります。

子供同士で戦ったりね、最初のうちは無邪気な戦いですよ。まあ、十字軍なんていったら失礼ですけども、武器もあまりないし、こんな青竜刀でワンワンやるか槍でやるかぐらいで…。

ところがやはり頭が発達してきましたら、こんなゴム鉄砲で打ったりね、あるいはパチンというような花火とか、落とし穴作って、みんなおいでなんて言って落とし穴に落としたり。

今度はもう歳をとってきますと、化学兵器や、青酸カリ飲ませたりして、高度に発達していきますよ。

そして、人類の歴史を見てみますと、殺戮です。戦争と、殺戮と、権力争い。封建社会というのがありまして、その自我の主張のし合いっていうことで、歴史がきたわけですね。そして、その中で神様という形も出てきたわけです。

当初、人類の歴史がまだ未開の頃ですね。二千年、三千年前、モーゼのいた頃の人間て言いますと、今と比べまして、社会全般の知的レベル、科学の進歩の度合い、教育レベル、これ全部低いわけです。

ですからモーゼが今みたいなことで、理論的になんて言ってもわかんないんで、まず「汝犯すなかれ、汝盗むなかれ、汝殺すなかれ」、というふうな、なかれなかれの十戒ですね。

じゅっかい

考えていただきたいんです。ちっちゃな子どもに親が注意するときに、まだ五歳か六歳のときに、「ねえ、あなた、こうね」って言うよりも、「これしちゃだめだ」と。こんなとこでウロウロしたら事故に遭うから、まっすぐ家へ帰りなさいと。

火なんかは、お遊びしちゃだめですと。お母さんの言うことは聞きなさいと、最初にだめだだめだって言って、厳しくしつけるでしょ。

こういうふうに十戒、十の戒めということで、はーいと聞いてた頃ですよ。

「そうは言うけども神の存在として」なんていうふうな、知的レベルでないですから。とにかくお母さんの言うこと聞いて一生懸命勉強しなさい、隣の子とケンカしちゃだめですよということで、厳しくしつける時代です。

人類もまだ子どもの時代は、神様は、モーゼという人を通して「なかれ」と。とにかくついてきなさいと。お母さんの言う通り生きていきなさい、先々のことはまかせなさいということで、それだけの発達段階ですから、モーゼの十戒という形で出てくるわけです。

イエスを信じなさいと、ユダヤの貧しき人々のためにはそういう形で出てきたわけです。人類の発達がそうでしたから。

今度は、お釈迦様の時代は、カースト制度がありまして、非常に身分の差別があったわけですね。

例えば、靴磨きの人は何度生まれ変わっても靴磨きだと。バラモン(僧)、クシャトリア(王族・武士)、バイシャ(平民)、スードラ(奴隷)と、身分社会は、何回生まれ変わってきても同じランクなんだと。

だからもう生まれ変わってこないほうがいいやというので、インドの人たちにとって、生まれ変わってこないということが幸せだったんですね。だから涅槃寂静というふうに、お釈迦様の教えは、仏のもとにおいて平等だと。平等を説いたんです。

カースト制度があって苦しんでましたから。平等だよと。お釈迦さんの言う通りに聞けば、涅槃寂静で、もう生まれ変わってこなくていいんだよと。

インド人にとって生まれ変わるということは、カースト制度がありますから、苦しみなんですよ。だから人生は苦だと。それはインドがそうだったからです。「ルンルンルンルン、やー、山に行けばバナナもありゃ、海に行けば魚もいるや」って楽しく生きてた人に「人生は苦だ」って言ったって、そうかなあと思いますよ。

ただし、インド人に人生は苦だと言ったら、まったくその通りと。ま生まれ変わってきても靴磨き、そのまた来世も靴磨き、靴磨き、靴磨きじゃもう、靴磨きはいやだと思って、天上界に行けばもう生まれ変わって来なくていいと。

そこに救いを求めたんですね。お釈迦様はそういうふうに説法してます。インドのその時代にはそうなんです。

まあ、そういう形で出てきたわけですけども、人類の発達する過程で、よく見ていますと、殺し合い、領土の争い合い、ケンカ、ケンカですね。

そしてどんどんどんどん肉体がね、大きく大きく、十七、八歳のとき大きくなったと同じように、人類も科学が進歩してまいりまして、大きくなってきました。精神的なものも、いろんな教えが出てきまして、充実してきたわけです。

そして、一番大きな歴史を見てみますと、明治のこの頃に、封建社会というものが崩れましたね。封建制というものが崩れました。それから植民地支配というものも崩れてきました。中国の革命がありまして、やっぱり中国は共産化されました。ロシアも一時そうでした。

で、このときは最初に、人類始まって以来の世界の戦争、第一次世界大戦があったわけですね。世界の人たちが戦争したんですよ。

ある程度体も大きくなり、武器もすごい、十七歳、十八歳ぐらいの、もう血気盛んな頃ですよ。肉体も成長しきったし、精神的にもある程度わかってきたと。それで第一次世界大戦をしました。

ところが戦争やってやってやって、何百万人も死んだんで、やっぱり戦争はどちらかと言うとしないほうがいいですねと。第一次世界大戦が済んだ後、人類は反省したわけです。

そして、国際連盟というものを作ったんですね。国際連盟を作ったんですよ。もう戦争、ああいうふうなことはやめようと。ちょうど十八歳、十九歳ぐらいが殴り合いして、両方血だらけになって、やっぱりケンカしないで仲良くしようや、というようなものですね。

ところがまた、国際連盟を作ったんですけど、また大きく大きく、体が大きくなってきまして、体力も腕力も出てきましたんで、またどうもこう、何かしなかったらブスブスしまして、もう一度戦争したわけですね、第二次世界大戦。

今度は前よりももっと武力が発達しまして、情報網も発達しました。非常に悲しいことですけれども、戦争するごとに人類ってものは科学発達してるんですよ。

そういう中で、第二次世界大戦が済んで、今度のは第一次世界大戦よりもっと強烈に殺し合って、死者も多かったんで、もう戦争はやめようと。なるべく戦争はないようにしていこうというんで、今度は国際連合、国連ができたんです。

国連ができましたけれども、今や拒否権、ビートパワーがございます。国家の主権、国としての主権が認められておりますので、何かあったときでも、例えばソ連が拒否権を発動すると動くことができないわけ。

しかしまあ、ちょっとした紛争がありますと、国連が軍隊挙げまして鎮圧しますので、前みたいないざこざが少なくなってきたと。それでもまだ戦争、ありますよね。

そのように、結局大きなケンカをしまして、それからやっぱりケンカはやめようと。またそれでもケンカして、やめようと。最終的に今度、第三次世界大戦があるのかないのかわかりませんが、多分神様の仕組みとしては、人類の知恵で生き残っていこうというふうになるだろうと。

前にトインビーの、世界の歴史で説明しましたけれども、そのように、これ、やっぱりもめるでしょう。もめた後やっぱり、もう戦争がないようにしなきゃだめだよということで、世界連邦。これについては、日本はそういうふうな良きひな型を出しているわけです。

世界連邦を作らないと、世界の平和は来ないと。世界が平和でありますようにってお祈りしているところがありますけれども、現実には、ちょうど明治維新が、良きひな型であったわけです。

日本は、薩摩藩、長州藩というんで、藩の藩札がございました。薩摩藩、長州藩というんで、武士がいまして、殿様がいたわけですね。江戸幕府ってのがあったんですけども、やっぱり藩は藩のお札も違うし、それぞれのやり方があったわけで、隠密が行ったりなんかしましてね。

ところが、明治維新があってから、版籍奉還をしました。藩の土地を全部国家へあげましたと。そして知事が派遣されましたね。ですから藩が潰れたわけです。

ですから今や、鹿児島と熊本県が戦争してるなんてのはありませんよね。青森県と静岡県が、仲が悪くてケンカしてると。それに青森では通用する青森県札とか、鹿児島県札ってありませんね。日本国紙幣で統一されてますよね。江戸時代は、藩のお札だったんですよ。

だから、神様の仕組みとしまして、一つ平和を作っていくために、結局、戦争というものは殺戮ですし、殺人をするわけですから、決して神様も、奨励はしないんですね。

人を殺し合うなんていうことは、非常に悲しいことだけれども、そういうものを通さないと科学というものが進歩しないわけで、戦争して、ケンカしなかったら、平和の良さというものが自分で骨身に染みないと・・・。

神様というのは、人類の自由な意志というものを尊重してます。

ですから、戦争というものは悪なんですけれども、もっと大きな世界から見たら、善であるわけですね、大きな目から見ますと。科学の進歩という点から言いますと、永遠に戦争をなくしていこうというプロセスで、それぞれ発達してるわけですから…。

そうやって、人間で言えば三十数歳ぐらいに、いろいろあっちこっちで人間的軋轢があって、ケンカした揚げ句、仲良く行こうじゃないか、と言ってはじめて、統一国家、神の国って言うんですか、こういうものが成就されていくだろうというふうな…。

バイブルの預言って言いましてもね、そういう方向ですね。

もう一つ、これは別な見方をしますと、さっきありましたように、キリスト教から見たらマルクスというものは、これはもうサタンだ、悪魔だと。これはもう、陰と陽の世界で競ってますね。

ところがもっと別な目から言いますと、マルクスがあったからこそ、中国の封建制というものは崩壊したわけで、ロシア帝国というものも、一時社会主義ができたわけです。

社会主義がいいとは言いませんけども、やってみてやはり理屈通りにはいかないと。中国は中国なりにアレンジしております。ソ連もアレンジしております。まあ、修正主義だなんて言いますけども。

マルクスというものは、じゃあ、これはほんとに悪だったのか、善だったのかと。確かにキリスト教は批判しました。まさに、神様信じておけばいいんだというふうな発想でしたから…。

イエス・キリストは何を悲願としていたかと。「神の国は近づけり」、「汝悔い改めよ」ということで、神の国が近づいてますよと。分かち合いましょうと。それぞれ自分の食べ物があっても、半分人にさいてあげましょうと。隣人の愛を説いたわけですね。

イエスはバイブルにおきまして、神とは愛なりと。人に愛を説いたんですね。イエスの教えは博愛です。単なる愛情じゃなくて博愛だと。人類愛まで。ユダヤ教から世界の宗教キリスト教へとなったのは、どんな民族も乗り越えた愛と、神のもとにおいて、博愛において、平等な愛を説いたからですね。

ですからイエスは、愛を説くことによって、神を説いたわけです。神様とは愛なんだと。

だから愛をもってパンを分かち合いましょうと。そうすることによって、非常に素晴らしい世の中を作っていこうと。要するに、神の国を説き、神を説くことによって、パンを平等にする世の中を作っていこうとしたわけです。

ところが、マルクスは違うんですね。いくらキリスト教が何千年あっても、世の中は神の国にならないじゃないか。労働者はこんなに苦しい思いをしてるじゃないか。ちっとも世の中良くなってないじゃないか。

資本家というものが資本を吸収して、一部の人達がその富を独占しちゃって、ほとんどの労働階級というものは貧しいじゃないかと。これを暴力でもいいから叩き壊して、それぞれ一人ひとりに主権を持たせてやれば、要するに資本の分配を説いたわけですね。

だからマルクスの資本論で、最初に出ている理想は、共産主義の理想は、食べたいときに食べたい物を食べたいだけ食べられると。

そういうふうな理想国家。科学技術の進歩、テクニカルイノベーションがいるんですけど…。マルクスが理想にしてたのは、そういう社会なんですよ。

みんなが平等で、そういうものを生産して、作ったものは作ったで、そして不況がないと。不況があったりする景気の作用があるから、経済の争いがあるから戦争が起きるんだと。

計画経済にすれば資本主義のマイナス点が補われて、人類はその領土のために、食べるために戦争しなくていいんだということを、マルクスは言ってるんです。

マルクスの理想はそういう理想世界、神の世界を理想したわけです。そして、資本の分配、パンを分配するというふうな理想の神の世界を、階級闘争によっ作ろうしたわけです。

ですから、アプローチが逆なんですね。イエス・キリストは神の愛を説いて、神の国はこうだ、平等だよという愛を説いて、この世の中というものを良くしていこうとしたわけです。

マルクスは、そういうのじゃ駄目だと。階級を潰して、とにかくパンの分配をすることによって世の中を良くしていこうと。最終的な神の国というものを理想に描いてるわけです。

ですからイエスは、アプローチが霊的な方から入って神の国を説き、理想の世界を説いた。マルクスは、今度は物質的な方から、現実的にこの世の中を良くしようじゃないかというふうに動いてるわけで、どちらも理想世界。

理想の、いわゆるミロクの世というんですか、お釈迦様が予言されたような、素晴らしい、みんなが長生きして、食べ物も十二分にあって、貧困社会がない、そういう素晴らしい社会が来るんだよ、それをミロクの世というんだよと。

寿命も長いし、病気になる人もいないし、みんな幸せな世の中が来るんだよ、それがミロクの世なんだよと。末法が過ぎて弥勒菩薩がいらっしゃったら、弥勒下生したら、そういう世の中が来ますよということを、お釈迦様は予言してるわけです。

それからイエスは、そういう神の国がやって来ると。最後の審判はあるけども、イエスを信じていた人には、非常に理想の神の社会がやって来ると。だから、天国は近づけり、汝悔い改めよと、二千年前から、それを言ってるわけですよ。

それから日蓮宗は、これは甘露台かんろだいの世がやってくると。日蓮は、最終的には、この法華経を信じるものには、甘露台の世がやって来ると。甘露、甘露というような、素晴らしい世の中がやって来るよと。甘露台。

それから弘法大師さん、密教ではどういうふうにいうかと言いますと、密厳浄土みつごんじょうどがやって来ると。密教でよくいうところの、兜率天界ですか。

日蓮さんは、甘露台の世がやって来ると言いました。それから密教では、弘法大師さんが言いました、密厳浄土。密教の諸賢諸菩薩のいらっしゃる世界そのままが、厳かに現じている密厳浄土がやって来ますよ。

キリスト教では、神の国が地上にやって来ますよ。ミロクの世がやって来ますと、お釈迦様も言ってる。そういう世の中が来るということを、みんな予言してるんですね。

そのために大きなお掃除がありますと。人類のお掃除があります。

それはまあ、前に災劫の話をしましたが、人類が長い間続いてきて、神様も大目に大目に大目に大目に、人類が殺戮しようと何しようと、大目に大目に大目に大目に見て来ましたけども、人間の業があって災害があるように、人類にもそういうものをボチボチボチボチ作っていって…。

しかし、人類を滅亡させようと思ってやってるわけじゃないんですよ。一九九九年何かが起きるとか、人類の滅亡の時期が来てるとか、人を強迫して信者を増やそうというふうな宗門宗派が多いです。

しかし、これは一つの面を見ているんですけども、チョンの神様から見たら、ちょっと悲愴的ですね。

これは、別なことを言いますと、例えばお正月。一月一日は元旦でお正月で、非常にめでたいハッピーなお正月のときですよね。皆さんおめでとうございます、明けましておめでとうと。その前は大晦日なんですよね。