【第一章】つねに神様を第一にする(昭和60年1月19日)
内修と外慈の発願で神様に近づいていく
【深見先生】十九日。講義を行います。本日は、うーん、神第一の信仰生活。えー、神第一の信仰生活ということでお話ししたいと思います。
神様を、あるいは目に見えないようなもの、素晴らしい神霊を見たい、聞きたい、知りたいという気持ちは誰でもあるとは思うんですけれども。
まあ、神人合一と申しますか、神様と合一すると申しましても神様がパッと来て、合一して帰っていった。こういうのではございません。神様の方からいらっしゃって、ずっと共にいるということです。
前にも申し上げましたように、神様神様と言いましても「後天の修業」(板書)と「先天の修業」(板書)というのがありました。
後天の修業は、禅をしたり、えー、滝に打たれたり、とにかく後天的な能力というものを…。こう行をしまして、瞑想したり、マントラをあげたりします。後天の行は、自分の方から神様へ昇っていく行です。
逆に、先天の行は本当に人としての誠の道というんですか、誠の道を実践することで、神様の方から来ていただける。
えー、やはり、低級霊と申しますのは浮遊霊とか地縛霊とかっていうのは人間の肉体は三十何度か温度を持っておりますので、低級霊の方は、お願いしなくても、ポッとあっちの方から選びまして憑いてくる。
無防備でいますと霊障はもう、すぐかかっちゃうわけです。
先天の行と申しますと、まあ、高級な神霊とか、あるいは高級な精霊と申しますのは、無防備でボケーッとしておりましたら、来るわけじゃない。ある程度こちらの方が、そちらの方へポイントを合わせまして。
あるいは心を合わせまして、向かって精進していかなくてはいけない。高級神霊が来ていただけるような、立派な自分を作っていこうという気持ちで先天の行というのは、なるべく人間的な執着心とか、欲心とかっていうものを捨てていくというのが大事なんです。
まあ、先天にしましても後天にしましても、どちらにしましても共通して申し上げることは神様と名が付くもの高級な霊と名が付くもの、こういう方はですね、常に憑こうか憑くまいかと考えている。
まあ、表現がよくないですけど、守護しようかしまいかと、あちらの方が選ぶ権利がございます。邪霊の方はマイナスの霊はもう何とか苦しいから助けて欲しいと人に頼ってくるわけです。高級な霊は人を判断します。
どこを見て判断するか。どこを見て、この人間に守護しようかな守護しよいかな、知恵を与えようかな、与えまいかなということで判断するかと申しますと、いろいろな面がございます。
もちろん真心とか愛とか、天地の法則に合っているとかっていうこともございますけれども、まず日常生活です。
ひとたび神様に志そうということで、「発願」(板書)の話をいたしました。いろんな発願がありますけども、ここで申し上げる発願は、前の復習です。
「願わくば、上乗に至らしめたまえ」(板書)と。願わくば、上乗に至らしめたまえ。御魂が向上しますように。「願わくば、真諦を得せしめたまえ」(板書)。真理が体得できますように。
まあ、この二つが「内修」(板書)、内に修める。
三番目が「功候」(板書)。「願わくば、功候を修めんことを」(板書)。あるいは「願わくば、功候を積まんことを」。そして「願わくば、衆生済度ならしめたまえ」(板書)。
前に申し上げましたように、えー「上求菩提」(板書)。上求菩提、上求菩薩。上求。菩薩になろう、なろうと上へ求めていく。
下の方は、衆生を「化する」(板書)。衆生を化して素晴らしく変えていこうと。こちらの内修というのは、内へ修めて、真理を会得していこうという胎蔵界です。
えー、胎蔵界の仏様は四百何種類いらっしゃいますけど、全部上へ向いておられる。金剛界の菩薩様は全部下へ向いておりまして、衆生を救っていこうですから、発願って言いましても二種類に分けられまして。
まず内修、内へ修めていく。上乗に至らしめたまえ、御魂が向上しますように、真理を体得したまえという発願。自らが向上して、真理を会得して、内に修めた分だけ、功候、神様の目から見た功が立てられる。
それから衆生、一般の人たちを救済する、人助けができる。衆生済度する、一般の人たちを幸せに導くことができるんだと。これは金剛界の菩薩様の世界です。
前に申し上げましたように胎蔵界では、信念、神様を信じていく力と智恵の力が勝っております。金剛界は愛念が、愛が先行しておりまして、善なる心、愛と善。大きく陰と陽が分かれるわけです。
こっち(胎蔵界)が陰で、こっち(金剛界)が陽ですけど。
このように発願には二種類あります。陰は上乗に至らしめたまえ、真諦を得せしめたまえ。陽は功候を修めさせたまえ、衆生済度ならしめたまえ。陰はすなわち内修、内に修めていく。陽は外へ慈する働きです。
願を発するとか、神様に向かっていくとかっていろいろ言いますけれども、上乗に至り、真諦を得たいという発願、胎蔵界の発願。
すなわち内修の発願、上求菩薩の発願、信と智を磨きまして至りますと、やっぱり神様の御心、仏様の御心は、ああ、衆生のことをおもんばかる大きな愛なんだ、慈悲なんだということで自然に功候を修めよう、衆生済度しようという気持ちが自然と出てきます。
あるいは逆に、本当に神様の御心に合うように、お手柄を世の中に立たせていただこう、神様の御用に役立たせていただこう、功候を修めよう、少しでも多くの人たちを救済させていただこう、世のため人のために生きようというふうに思いますと、やっぱり自分が大したことができないと気付く。
神様の叡智もないし、神様のご神示もわからないし、神様の御心とか、この宇宙はどうなっているんだ、霊界はどうなっているんだ、人間はどうしたら幸せになるんだと、因果の法則もわからない。
本当に神様のお役に立ちたい、本当に衆生を救いたいと思う人は、どうしても、逆に上乗に至って自らを向上して真理を会得しなかったら、衆生を救うことも、功候を修めることもできないんだと悟るわけです。
陰極まりて陽、陽極まりて陰です。内修外慈と言いますけども、内修極まれば外慈になる。
外慈極まれば内修になっていくんです。
陰極まれば陽、陽極まりて陰という形で、どちらかを極めていけば、必ずこっちへきていくという不即不離のものでございます。こういうふうに、陰と陽に分けます。大きく言えば仏教もキリスト教も、人間社会も天界もこういうふうな仕組になっております。
えー、日蓮上人なんかも曹洞宗もあるし、いやいや、天台宗もあるし、真言宗もあるし。それから華厳、法相、倶舎、いろんな宗教があると。仏教でも、いくつもいくつもあると。
お釈迦様は一人なのに、どれが一体本当なんだ、どれが真実なんだということで考えまして本当の真理はどれなんだということで、十年間修行しました。
それで、お釈迦様の教えは法華経にあるんだということを勉強したわけですけれども。
その時に日蓮上人は何を祈願しましたかと言いますと、千葉県小湊誕生寺。小湊誕生寺が彼が住んでいたところ、生まれたとこなんですけれども。
近くに虚空蔵菩薩がございまして、日蓮上人は「日本第一の智者たらしめたまえ」と祈った。日本第一の智恵者でありますようにという祈願、発願をやったらしい。本当の仏教とは何なんだ。
いろいろな宗門宗派がどこも全部自分が正しいと言っているけども、どれが一番正しいんだ。
真理を会得させたまえと祈った。これはまさに上乗に至りて真諦を得せしめたまえですね。
こういうように発願にも陰と陽があるわけです。上乗と真諦、功候と衆生済度。まあ、これを一言で言えば、この四つのことを一言で言えば「神人合一」(板書)の願いですよ。神と人とが一体となっていく。
神様に近づいていこうと思ったら、やはり向上していかなけりゃいけない。
これには後天的なやり方とか、先天的なやり方があるわけですけれども。神様と一体になるのには、御魂が向上しなかったら一体にならない。
ある程度まで神様に来ていただけるように、自分が向上しなかったら、高級神霊というのはなかなかいらっしゃいません。浮遊霊とか地縛霊は、もう嫌だ嫌だと言っても飛んできますけれども。
真諦を得せしめたまえというのは宇宙の真理、物事の真理がわからなかったら、神様と一つになるとは言えない。神とは一体何なのか、宇宙とは何なのか、生きるとは何なのかということを知らなかったら、神様の世界には行きませんよね。
功が足りなかった仙人の話
それから、神様の目から見て、いくら勉強しましても、この前に申し上げました仙人。神様の位に、高いところに行こうと思った仙人の話です。
修行いたしまして、もう肉体を持ったまま、自由に出たり入ったりすることができる。仙人の修行をしまして、もう、どこでも自由に肉体を置いたまま、天界でも行けるし、地球の隅々でも御魂の離脱が自由にできて。
行ったり帰ったり、すぐできる。まあ、これを天仙の位と言うんですけれども。功が足りないと神の位にならない。
その仙人が、ここまで僕は断食をしたり、いろいろと神仙道の道を極めたから、さぞかし天界で神様の世界で、いいランクにいるんじゃないかということで。
一度、どれぐらいまでランクまで行ったのか見てこようということで、その仙人の修行した人は、お弟子さんたちがおりましたので「あの、今から天界で私、どこまでのランクに立っているか見てくるから。わしが仮死状態になるんで、犬とか狼とか熊とか、そういうようなものに食べられないように、よく私の肉体を管理してくれ。虫に襲われると困るから」ということで。
わかりました、お師匠さんの言う通りに管理しますということで、見てたわけです。そうしたところが、その仙人が空ヘビューと飛んでいきまして。
「えーと、天界に来たんだけれど、僕の名前は出てるかな?あっ」とかって、学校の合格発表じゃありませんけど。「あ、ないな、ないな。どこ、どこにあるのかな」と。
一生懸命、天界の方へ行きまして、神様の世界へ飛んでいったんですけど、どこ見てもその仙人の名前がない。
「これだけ一生懸命修行して、天界のどこでも自由に飛んでいけるように修行したのに、全然名前がないなあ。どうしたんだろう」
仙人は考えました。そこで、天界にいる神様に謹んでお伺いしました。
「私、これだけ一生懸命、私なりに精一杯修行しまして、上乗に至って向上して真理もだいたい宇宙のこととか、霊界のこととかも会得したつもりでございます。霊肉脱離なんかも自由にできる。これだけ修行を積みましたのに、どうして名前がないんでしょうか」
そう神様にお聞きしましたら、厳かに「あー、あなたね。あなたは一生懸命修行したかも知れないけど、功を立ててないからね。人間は自分自身の魂の向上だけじゃありません。
神様の目から見て世の中にどれだけの手柄を立てたか、衆生済度したか。この徳分を磨かなかったら、神様の位には列せられませんよ。そこが足りなかったんですよね「あなたは」と言われまして。
「あ、そうだったのか…」。仙人は大いに反省しまして「わかりました、これから帰りましたら一人でもたくさんの人を救済させていただきます。ありがとうございました」と言いながら、天界からワーッと帰ってきた。これは実際にあった話でございまして、帰ってきた。
ところが、スーッと帰ってきて、「あれ、確か僕の肉体が、このあたりにあったんだけれど。あの弟子たちは一体何をしているんだろう。あらっ、あらっ?確か僕の肉体がここに置いてあったんだけど、知らないかな?あれっ?」
弟子たちはいつまで経っても一日経っても、二日経っても、三日経っても、お師匠さんが帰ってこないんで。
もう夜も徹夜で肉体を見ているんですけども帰ってこないから「お師匠さん、どうしたんですか?まだお帰り…あら、帰ってこないみたいだね」「帰ってこないみたいだね」「息もしてないし、心臓も止まっちゃってるし、死んじゃったんだね、きっとこれは」「死んだんですよ」。そういうことで弟子たちは、お師匠さん、もう死んだんだと言って埋めちゃったんです、肉体を。
パーッと見たら、「あれ、あれ、わしの…」。「お師匠さんも、いいお師匠さんだったなあ」なんて二人が話すから「ばか、ばかだなこいつは、わしが帰ってきているのに。
だから、あれほど天界へ行って仮死状態になるから、死んだんじゃないからと言ってあるのに、ばか者。
もう、この弟子たちは普段からトンマなやつだと思ってたけれども、ここ一番という時に、えらいヘマをしやがって、もう。カーッ、どうしようもない」と。
お師匠さんは腹を立てたんですけれど、もう肉体が地面の中に入っちゃって、腐りはじめている。息ができないから、呼吸が。
「仕方ないわ、どこか他の肉体を探そう」と思って見たら、今、道で死のうとしておりまする、目が見えないでいる乞食ですね。
もうボロボロの服着まして。目が見えないし、足も引きずっている。今や死んで魂がウワーッと帰ろうとしているから、ちょうどいいというところで、その肉体に仙人の魂がファッと入りまして。
パッと目を開けた。おっ、カーッ。目が見えないけど、もう仕方ないな、あの弟子たちのお陰で(笑)。もう仕方ないと。これで行くかということで、この仙人は目が見えない足を引きずった乞食となりました。
ところが、ものすごい神通力が抜群ですから、どんどんどんどん人を助けていった。どんどんどんどん人を助け、病気を治したり、苦しんでいる人たちのために、肉体が滅びるまで徳を積んだんです。
そして天界に帰りましたところが、ちゃんと今度帰りましたら、第何番目かに名前がちゃんと載っておりまして。
神様に近い次元に名前が載っていた。こういう中国の話が残っているんです。
神様に来ていただける人間になるには
このように、神人合一、神人一体、神様のような人間になる、神人合一って言いましてもいろいろございまして、自分の方が神様に来ていただけるような立派な人間になっていくという、これももちろん先天の修業で大事なんです。
神様に来ていただけるような人間といいますと、一番よく来ていただける人は、人間か神様か、神様か人間かわからない。神様のような素晴らしい方だ、人間とは思えないような素晴らしい方だと。
無欲で我もなくって、本当に立派な人。人の道からも神の道からも、心の道からも、あらゆる面で素晴らしいなあ、まるであの人は生き仏様、
生き神様のような方だと言われるような人。人間か神様か、神様か人間か。
もし神様が肉体を持って出ていらっしゃったとすると、この三次元の法則に合った形で生きてらっしゃったとすると、きっとああいうお方じゃないだろうかというような人間ですね。
神様が人間か、人間が神様かわからない。まさに神人合一している。これは「人神合一」じゃなくて「神人合一」ですから。神様の方から神があって人ですね。
この神人、神様に近い人間、神様に一歩でも近づくような、神様のような人になろうと思えば、今言いましたお手柄、功候、功と言うんですけど。
神様の仕組にお役立ていただきましてありがとうございました。
人間は肉体があるわけですから、この現実界で人を助けるか、喜ばすか。体施、物施、法施。体か、物か、お金で神様のお役に立たしていただく。
あるいは、法施でしたら、皆さまに本当のことを教えてあげるよという形で「ああ、なるほど、私の苦しみ、悩みが解決しました」と喜ばれる。
体施、物施、法施でこの功候が積める。
神様の目から見た、功、お手柄。うん、よくやったね。
まあ、会社でございますと栄転、あるいはボーナスが上がるとか、平社員が係長という位をもらうか、あるいは課長をもらうか部長になるか、代表取締役になるか、重役だというふうな。
会社への貢献度合い、その人の能力、周囲の人たちから推されていくのを合わせまして、取締役、あるいは代表取締役というふうになっていくんですけど。
功とはいわば、神様の目から見た、天界、霊界の位ですね。これ功、お手柄。この功がなければ、神人合一できないんです。
この功は神様のお役に立ったということで、修業でなくても、とにかく神様の道のために何か寄進をするとか、神様の御心に合った日常生活をするとか、いろいろございますけど。
まあ、衆生済度することによって功が立つということが一番ケースとして多いんです。
一般衆生でなくても神様のお社を建設するとか、神様の道のために本を出版するとか、神様の道のために、自分は志して会得しようとしているか、まあ、いろいろございます。
衆生を救うことによって、功を立てることが多いんですけど。こういうことによりまして、結局、神様と人とが一体となっていく。
自らも向上し、真理を会得して、そして功を立てて衆生を助けていく。神様というのは、こういうことを願っているわけです。
お釈迦様も、孔子様も、老子も、皆、もちろん弘法大師さんも、それから日蓮上人も皆さん、肉体がなくなりました後、天界、あるいは兜率天界にまいりまして、この願いを今でもやってますよ。
今でも、とにかく、さらに上乗に、さらに真諦を、さらに功候を、さらに衆生を。人々のために、いろいろの活躍をしておられるわけです。
守護神、守護霊さんになる方も、こういうふうな形で、さらに上乗に、さらに真諦、さらに功候、さらに衆生をということで守護神となり、守護霊となって、背後霊となって神様から功をいただいている。
肉体はないですけれども、衆生を何とか救おうと肉体のある人達におかかりになる。
霊界と現実界の接点に立ちまして、動いておられるわけです。皆さん、この神人合一の願いというものがあるわけです。より、神様に近く、立派にさせていただこうと。
これが霊界におきましても、お釈迦様、キリスト様の共通する願いでございます。ですから、神人合一の願いと一言で言いますと簡単ですけども、もっと具体的に言えば、こういう四つの形があるわけです。
ご神業って言いましても、いろんなパターンがありますけれども、まず神人合一を願っていくということが大事ですね。
「ただただ神人合一したい」と願う
ところが、今日のパート1のテーマなんですけども、この神人合一の願いで、まあ、難しく言えばそうなんですけども。じゃあ、どこから、これを発していくのかと。
抽象的な意味では「あ、なるほど」と思うんですけども。まず、どこから言えばいいのか。発願しますよね。こういうことができればいいなっていう、さっき、そのお話をしてたんですけど。ただただ願うんですよ、これは。
どこから始めるかっていうと、ただただ願う。ただ神人合一したい、できますようにと抽象的に願う。
ただただ上乗に至りたい。ただただ真諦を得たい。ただただ功を立てたい。ただただ衆生済度したい。
ああ、神様というのはそうだったのかって思って、素直に、この発願、願を発しましたら、もうできようとできまいと、具体的なことなんかどうでもいいです。
ただただ抽象的に、文学的に、誇大妄想狂的にロマンチシズムでメルヘンで。
もう、ただただ抽象的に、漠然と思い続けていたらいいんです、まずは。
「ああ、これができたら、こういうこともできるんだけども、できないな」とか、「自分はこういうふうな年齢だし、こういうふうな立場だし、こういうふうな能力しかないから、まあ、そこまでなんていってなあ」なんて考えない。
そういう現実界のことを考えますと、これ、できないんですよ。例えば弘法大師さんもそうですね。
えー、中国に行きまして、真言密教のあれをですね、わずか半年ぐらいで全部恵果和尚から伝授されたんですけど。
もう、二千人ぐらいのお弟子さんの中で、胎蔵界、金剛界の両部のあれを伝授されたのは弘法大師さん一人です。わずか半年で、弘法大師はナンバーワンになった。
それは、なぜそうなったのか。普通は「ああ、ああいうふうにはできないな」と思うんですけど。弘法大師さんがあれだけのものを授かりましたのには、
若い頃、まだ二十何歳の頃、「★★★三教指帰」ですか、「聾瞽指帰」(三教指帰の稿本)と申しますけど、二十四歳の頃に作りました時に、儒教よりも道教よりも、私は仏教に行きたいと。
その時に、いろいろ仏道修行をしたわけです。
それで、久米寺におきまして、本当に私がこれから勉強したいことは何なのかということで、大日経を発見しまして。
大日経は、最初の方は、彼の学力があれば読めるんですけど、後の方はもう修行ですからね。
実際のテクニックを、こうだああだと書いてて、よく意味がわからない。これをぜひ勉強したいと願を発しまして、抽象的に、ただただ会得したいと。
まさか彼は中国へ、唐の国へ渡れるとは思ってなかった。
七年間、弘法大師が三十一歳で唐へ行くまでに何年でしょうか、七年、忽然と消えまして。ただただ、それを得たいという発願を続けてきたわけです。
何年も、七年、八年。
そして本当は、遣唐使の船ももう出まして「ああ、船で出ていった」ということで、「はー、唐へ行けたらよかったんだけど」というふうに思ってたんですけれども。船が難破しまして、途中で帰ってきたんですよね。
それで船が次に出るまでに、弘法大師さんは僧侶の資格を取りました。
それから、遣唐使で行く許可をもらいまして船に乗ることができた。まさに、当時の彼の身分から言いますと唐へ行って、苦学僧となって、そういうものを得てくるということは夢にも思わないことです。
僧侶の身分もございませんでしたし、遣唐使の中に入れるということもないけれども、ただただ大日経のことを興味持って勉強したい、会得したい。その切なる願いが七年、八年、九年と続いているわけです。
弘法大師さん、それだけの発願をしまして、ただただ抽象的に、ただただ願って、大日如来に会いたい、法性仏に会いたい、本当のものを会得したいという切なる気持ちが毎日毎日続けておりますと、願いがついに叶いまして。
あれだけのものを、第八祖となるぐらいのものを会得したんです。
それまで弘法大師さんが、どれだけの思いを続けてきたか。抽象的なそういう目に見えない無形の発願というものが先に立ちまして、現実界というのは後で起きてくるわけです。
今、これだからこうじゃないんだとか、今これは当然できないなと、そういうことは関係ありません。
その現実界を変えていこうとするのには、ただただ、目に見えない発願。本来あるべき道というものに、ただ、ただ、ただ思い続けるということから始めなければ駄目ですね。
ただただ神人合一したい、神人合一の道を会得したい。神人一体となったら、どんなに素晴らしい。
なぜだとか、今こうやってなんてことは関係ない。ただただ、目に見えない世界で思い続けるという、この気持ちが。
この思い続けるという気持ちを持続させるために、前に申しましたように「持戒」(板書)、戒めを持つわけです。持戒。
比叡山では、そういうように願を発しまして、例えば、塩絶ち、茶絶ち。一番絶っておりますのは女絶ちでございます。
妻帯しない、奥さんを持たない、子供を持たない。自分で戒めを持って、最初に発した願、こうしたいという気持ちを、どこまでもどこまでも一番好きなものを自分で絶ちまして。
この気持ちをどこまでも成就していこうという、抽象的なロマンチシズムを持ち続けるわけです。
「ああ、俺は何のためにこれを辛抱しているか。そうだ、あれを会得したいんだ。何とかこうしたいんだ」と、これをずっと持っているわけで、ただ禁欲生活を送るわけではございません。
別に妻帯するとかどうでもいいわけですけど。本人が願を発して、どこまで会得するかという本人の問題ですから。
自分自身で戒めを持って、願を発したものをどこまでも成就していこうと。まず、これが大事でございます。その次に、ただただ抽象的に、そういう形で思えば、ただただ願ってたらできるのかということでございますけれど
それができましたら、次に大事なのが今申し上げましたパート1のテーマの、神第一主義の信仰生活というものが、その発願を続けておりますと同時に起きてくる。
何よりも神様を第一にする生活
えー、ここからは「神第一主義の信仰生活」(板書)。そういうところで、願うことは願おうと思うんですけれども、それだけでは駄目でございます。
じゃあ、神人合一の道に行くのに、どういうふうな、もっと具体的な方法、具体的に発願を持ち続けたものを、どうやって実践化して、神人合一の道へと行くのか。
神第一主義の信仰生活が、まず大事でございます。神第一主義の信仰生活とは、どういう意味でしょうか。
何よりも神様を第一にしていく生活です。
仕事よりも神様、家庭生活よりもまず神様。とにかく、何から何まで神様を、まず例えばお仕事ですと、えー、これをして、あれしてから、例えば、お参りをこうしようかとか。
これをして、あれをしてから、まあ行こうかとか。
それは仕事第一ですね。私は違います。
月初めなんかでも、私は産土さんに行って、何を置いても一日はまず神様の方へ行って、神様のお陰でさせてもらってるんだと考える。
とにかく、神様を第一にしているか、仕事を第一にしているか、結婚生活を第一にしているか、家庭生活を第一にしているか、お金をまず第一にしているか、自分自身の健康をまず第一にしているか、何を第一にこの人は考えてやっているのか。
日常生活の中で、例えば講義に来る時でも、あるいはどっか参拝に行く時でも神様を第一にしている人は、言葉に表れますし、行いに表れますし、その人の持っている姿に表れますよね。
「ああ、神様を第一にしているんだ」という心がしのばれる。そういう人は、どんどんどんどん、この願を発したものが進んでいくわけです。
神様もそれをご覧になって、こいつを守護しようかな、守護するまいかな、どうしようかな、うーん、発願はいいだろうと。
うーん、願を発しているから聞いて、うん、なるほど、そういうふうな願いか、うーん、叶えてやりたいなあ。
しかし、やっていることが仕事第一、お金第一、生活第一、結婚第一、異性第一ですと、まあ、そちらの方がいいっていうんだったらいいんじゃないかなと。
とにかくやりたいだけ好きなことをやるけども、とにかく神人合一はしたいと(笑)。神人合一したい、衆生済度ならしめ給えと切に思うけども、やっぱりお金は大事です。
やっぱり結婚も大事だし、やっぱり家庭も大事だし、やっぱり仕事も大事だし。あれもこれも全部して、神人合一もしたい、というふうに生活をしますと、やっぱり神様を他心通しますと、うーん、まあ、いい結婚相手あげようと。仕事も与えたと。
だけど神人合一をするというところまではいかないですね。
というのは、神人合一というのは、まさにいろんな角度がございますけども内面的な感性で受け取らないと駄目なんです。その人の感性の内部で「神様一本」という想念の世界ができてなければ、神霊がこられても神様の智恵がきましても、キャッチできないわけなんです。
アンテナがあちこちに行っておりますから。まあ、そういうことで、まず、何をおいても神様第一という考え方があります。
もちろん、神様以外もいろいろ大事ですよ。
食事も大事だし、仕事も大事だし、お金も大事だし、結婚も大事だし、家庭も大事ですよ。神様を第一にして、他は全部捨てなさいという意味ではありません。
何を第一にした考え方、何を第一にした態度、何を第一にした心構えなのかということです。
それができていないと、いくら願を発しましても、神様は受け取れないんです。
神様を第一にしておりますと、後のことはそれなりに努力しておりますと、神様が自然にいい結婚相手も自然にお金も、自然に仕事も、自然に家庭生活の中も神気充実しまして、みんなうまくいくんです。
仕事第一にしますと、仕事がちぐはぐちぐはぐきますので、何を最初に持ってったら、全部うまくいくかっていうと、やっぱり神様を第一にするしかない。
神様は全知全能ですし、目に見えない、それだけの力を持っておられます。働きも智恵も持っておられますので、第一にしておりますと、究極的には、後が全部うまくいくわけです。
そういうふうな態度というか礼儀と申しますか、ピシッとした順序を自分自身の中で、生活の中でこれを築いていかなければ、体得しなかったら発願はよくっても、全然進んでいかないわけです。
神人合一の道というのが、一進一退ですね。進んだなと思ったら戻って、戻ったかなと思ったら発願して、行ったり来たりで全然進歩していきません。
この神第一主義で生きる信仰生活ということを、あらゆる意味で気をつけますと、どんどんどんどん、その人なりに進んでいくわけです。これが非常に大切なことになるわけです。
