日本人の労働感覚
百丈禅師は即身成仏して中はもう仏様ですから、その肉体を自分はお貸ししている。つまり、百丈禅師という中で仏様が動いているわけです、時々刻々。
お天道様が毎朝毎朝来るように、虫やトンボが一日も休むことなくいるように、お花が一秒も休まなく一日も休まないで芽生え、花を咲かせてやるごとく、人間もそのように黙々と動いている。
そういう形であるために肉体はあるわけなんで、作務というものはそういう形で、観念論じゃなくて動いているということなんですけども、そのために、ご飯を食べるわけなんです。
肉体を維持して、それをなす、務めと役割と働きがあるから、命があるわけです。そのために肉体はあるんだけども、それをしなかったら、食べ物を補給して生きている意味がないわけです。
これが禅宗の伝統をずーっと引いている、日本人の労働感覚なんです。ヨーロッパの場合は違うんですね。
バイブルがございまして、エデンの園からアダムとイブが失楽いたしまして、そのときに神様はお怒りになって、女性は出産、男性は労働という苦しみをお与えになった。
こういうふうに旧約聖書には書いてあります。ですから、女性は出産がもう女の業だと。男性は労働というものが、非常に苦痛だけれども、これは、ばならないデューティ(義務)なんだということで割り切っております。
だからレジャーを持ちますし、バカンスを持つわけです。
私も香港へ行きましたけど、香港ではとにかく食事の時間が長くて、ワーワワーワー言っていまして、食事をほんとに楽しんで仕事は仕事でビシッと割り切って、時間から時間やるわけですね。
ヨーロッパ人もそうです。ピシッと仕事は仕事、ビジネスはビジネス、遊びは遊びという形で、ねばならないデューティだという、責任。義務感、責任感という。
それはもう労働義務観念、責任観念という形が社会人としての務めとしてちゃんと、民主主義に則りまして、その価値判断があるわけです。
だけども、夏はもうずっとバカンスへ行って、イギリスなんか非常にお天気よくないですからイタリアのお天気の太陽が燦々と照るようなところで日光浴し労働は労働、レジャーはレジャーという形で自分の時間を持ってやっている。
そして、お食事の時間は楽しみだと。こういうふうな労働感覚、労働価値感覚です。
ところが、日本人は違います。働かせてもらえるということはありがたいことだと。年をとって、まあ労働するというだけでもいいと。しなかったらボケちゃうし。
五体満足、働ければいいと思っていますよという、今の中年とか年寄りはそういう感覚です。働かせてもらっている、仕事ができている間はいいんだという形で、仕事が生きがいです。
仕事が喜びです。仕事を通して立派になっていく。
そういう労働感覚ですから、ご飯だけでワーッとかき込みで、とにかく仕事を通して一人前になってやっていくということで、食事を基本的には楽しんで食べるというよりも、バカンスはバカンスでそれを楽しんでというよりも、仕事が喜び、仕事が生きがい、仕事が趣味だなんて言います。
それをヨーロッパ人はエコノミックアニマルだとか、日本人は働き過ぎだとかと言いますけども、そのベースは何かと言ったら、これです。
労働の感覚が違うんです。「一日作さざれば一日食らわず」という感覚なんです。
似たような言葉であるのはこれです「働かざる者食うべからず」と。仕事もしないやつなんか食う資格ねえなんて。ちょっと全然ニュアンスが違います。似ておりますけれども、この百丈禅師の言っている言葉と奥のニュアンス、意味が全然違います。
ですから、人間は即身成仏、禅宗的な物の考え方が茶道にも華道にも武術にもありまして、毎日毎日の仕事という中で自分が作務、務めを行っている。
デューティと苦痛と労働のためにしているんじゃないんだと。労働するためにご飯を食べて、体を健康に維持している。
食事が楽しみであり、バカンスの楽しみのために、嫌だけど仕方なく仕事をやっている、デューティだからするという、こういう感覚じゃありません。
こういうふうなやり方というのは、松下電器がこういう労働感覚を導入いたしました。
日本の企業はなぜあんなに発達するんだということで、イギリスとか、それからアメリカとか、松下電器のこういう日本的な労働感覚を持っていきますと、非常に外人はその気になります。
それもそうだということで。楽しくやっていると。
その価値観は禅宗的な発想から来ているわけです。日本文化、伝統、風習の中に根強くある。
この百丈禅師の四十八則「一日作さざれば一日食らわず」というその言葉は、もっと深い禅の意味を持っているんですけども、日本人は体質として、銘々脈々とこれを受け継いでいるんじゃないかと言うことができます。
どんな環境でも心が乱れない
ですから前にも言いましたけど、御師匠さん、一つのお寺さんで御師匠さんのことを師家と言うんですけど、禅のお師家さんがおりまして、一番弟子は何をするかといいますと典座。
典座と言いまして、一番のお弟子さん、お師匠さんの次に偉い一番弟子さんは何をするかといいますと、お料理をするんですよ。お料理。
このお料理をする人がとにかくお師家さんの一番弟子。二番目は総務をするんです。副司って言います。総務ですね。これはもとは百丈禅師の「百丈清規』から来ているんですけど。
要するに、お料理の味を常に一定して、常にいい味を作る。辛過ぎず、甘過ぎず、薄過ぎず、濃過ぎず、春は春らしく、夏は夏らしく、冬は冬らしく、ちゃんとご飯を作っていく。
これは非常に難しいことなんです。ちょっと疲労しますと塩辛くなったり、イライラしていたら、バランスが悪くなったり。
僕なんかでも、ご飯を食べて、あっ、ちょっとこれはイライラして作ったなとか、真心が入ってるなとか、食べ物に入っている気で全部分かります。
お師匠さんもやっぱりすぐ分かります。ああ、今、気持ちが乱れてるなとか、あ、乗っているなとか、御魂が発動しているなというのは、お料理をパッと食べた瞬間に分かります。
もうそれは全部、食べ物に本人の気が宿っておりますから。だから非常に難しい。平常心がなければ、これはできないことなんです。
その次に総務です。総務とか経理とか、バタバタバタバタ、バタバタバタバタ、仕事、仕事、仕事という中で、いろんな宿泊者が来たり、薪割りをするとか、食べ物の仕込みをするために、いろいろと八百屋へ行ったり、経理をやってみたり、発送をしたり。
そういう総務をする人は、仕事、仕事で、頭がイライラします。そういう中でも、全然心が動揺しないで冷静にやっていけるということは、よほど禅定していなければできない。
この禅定というのは外相にとらわれず、内、乱れざる様。
まあ、言いますならば、外の相、人がガチャガチャ言おうと、何が言おうと、そのあたりでハエがブンブン飛んでいようと「このバカ者ーっ」なんて言われていようと、人が何と言いましょうとも、外の景色とか感情にとらわれないで、自分の中の境地が全然乱れないで定まっている様です。これを禅定と言います。
禅定を失わないで、どんな総務のバタバタすることでもやれる。お台所というのは一時バタバターッと忙しくなります。何時何分にお食事だなんていいますと。
そのおいしい味とバランス。この味つけを坊さんがやるわけです。全部それは作務です。
自らの境地を高めるがためのテキストにすぎないんです。この禅定をいかなるときにもやれる。常においしいものを一定して作っていける。仕事もバタバタバタバタする中でも、絶対にこれは定まる。
これを、前に言いましたように「動中の静」(板書)とも言います。これに対しまして、「静中の静」(板書)というのは、山の中で座禅、瞑想をしておりまして、静かな中での静かな境地です。
これ、静中の静。動中の静というのは、お料理をするとか、総務をするとか、木こりをするとか作務ですね。労働したり、田植えをしたり、いろいろしましても、全然心の中が乱れない。
動中の静。白隠禅師は「静中の静に比べて動中の静は、百万倍も難しい」と言っています。
あるいは陽明先生はこういうふうに言いました。自分の中で眠る聖人、聖というものを、人間の人欲が覆いかぶしていると。
本当は潜在意識の中に、聖人というのをみんな持っているんだと。これを出すことが本質の知行合一なんだと。そのために人欲をなくしてやらなきゃいけない。
そうすると、お弟子さんが座禅をしたり、瞑想をしたりするわけです。そこで、王陽明先生がいわく。そういう座禅をするとか瞑想することによって、私の言う本質的な知行合一の行いをしていくと言ってない。違う。
お役人様だったらお役人の仕事のことの上において、手相鑑定だったら手相鑑定、弁理士さんなら弁理士の仕事のことの上において、磨き、錬磨しなきゃいけないものなんだと。
その仕事の中で、無欲に本質的な自分を出さなきゃいけないんだということを、まあ、動中の静と同じようなことを言ったわけです。
そういうふうにいろんな角度で言ってるんですけど、この百丈禅師の「一日作さざれば一日食らわず」ということは、これはまさに神霊界の一つのあり様を言っております。
例えば、瞑想したり山で滝に打たれたりということがあるんですけども、そういうふうな能力はある程度あるんですけど、仕事をやるのは何にもできない。
哲学的なものとか、観念的なものとか、悟りとかということは、非常に高邁な知識もあるし、境地もあるんだけど、いざ仕事をやってみたら、作務をやれば何にもできないと。
ポーッとしまして、まず気が回らない。一を聞いて一を知るとか、一を聞いて、まあ、一・五か二ぐらい知る、それでは駄目なわけです。
やはり、一を聞いて十を知る。パッと顔色を見ただけで、何を言いたいかパッと分かる。そういうふうに禅宗はこの作務の中におきまして磨くわけです。典座にしましても総務をしている者も、全部そうでございます。
それで、その作務をしている中で、薪割りをするときにフラフラフラフラ余計なことを思ってたら、お師匠さんが棒でカーンとたたく。
雑念、妄想を出しちゃいけないと。お師匠さんは全部見ているわけです。
お料理をワーッと作っても、ランラランランと鼻歌してたら、お師匠さんがパッと来て「作麼生か。犬に仏性が宿るか」とか「「百丈清規』の一日作さざれば一日食らわず。
これ、どういう意味だ」という形で「う~ん…」と。いきなり来ます。
茶道における禅の精神
で、この茶禅一味なんかでも、有名な一休禅師。茶道でも村田珠光、武野紹鴎、千利休という形で日本の茶道はできたわけですけど、この村田珠光という人が一休禅師のお弟子さんだったんです。
大徳寺にいました一休禅師のお弟子さんで、村田珠光というのがおりました。
この人はもういくら禅をやりましても、眠い。この中にはいませんけども、眠いという人がいました。すぐに寝てしまう。今日はいませんけど(笑)。
で、村田珠光は、どうしてこの大事な一休禅師のお話を聞いたり座禅してても眠くなるんだろうかというんで、お医者さんに相談した。
お医者さんが、ああ、そうか、それじゃ栄西禅師の「喫茶養生記」という中で、体にいいから、とにかくお茶を飲んだらどうだというんで、それでお茶を御薄を飲んで。
お医者さんに勧められた。あっ、調子いいと。お茶を飲んだら目がパッチリしていいなあという形で、村田珠光はお茶で座禅してても眠くならなかった。
まあ、狸がついてたのかもしれませんね。
とにかく、それで、お茶にも飲むんだったらきれいな飲み方があるからということで、きれいな飲み方を自分で研究してた。
あるとき、一休禅師が村田珠光のところに参りまして、「珠光、趙州禅師の「喫茶去」という禅語があるけども、おまえはどう思うか」と。
趙州禅師については、前に有名な話を話しました。
「入門をしたいんだけど、どういう修行をしたらいいですか」と。「ああ。おまえ、飯を食うか」と。「食べます」と。「後片づけせい」と。五年間修行しました。
その後、「お師匠さん、今度はどういう修行をしたらいいですか」「おまえは糞をためるか」「はい、ためます」「その後をきれいにせよ」。
便所掃除を十何年。それで悟りを開いたんです。
この趙州禅師に「仏法の大意、仏教の大意、お釈迦様の教えの真髄は何ですか」と、ある人が聞いた。答えは「喫茶去」。
「去」というのはちょっと、感嘆符というんですか、お茶をちょっと飲むところ、お茶を飲むことだよという意味ですね。お茶を飲むことだという、簡単な言葉で趙州禅師が答えている。
これは一体おまえはどういう意味だと思うかということで、一休禅師が村田珠光に、眠気覚ましに飲んでいるお茶のことを言ったわけです。
そしたら「う~ん…」。簡単な日常生活の、お茶を一杯飲む、体を動かす、その中にすべての真髄はあるんだよと、その境地にすべての仏の真実があるんだよということなんですけど。
そしたら片言「うーん…」と黙って、分かんないわけです。
黙って、境地で「う~ん」と詰まっている。一休禅師がそのままにしておりますときに「今度はまたお茶を飲もうと思います」と言ったら、一休禅師が「喝!」と言いながらお茶碗を手でバチーンと払った。
村田珠光がお茶を飲もうとしたときに、一休禅師がお茶をパンッと払ったんですね。そしたら、コロコロコロと落ちまして、村田珠光は「どうも」と言いながら、また集めて、ハアー。
しばらくそういうことがありました。それは村田珠光の飲む境地が自分の一番言わんとするこの境地じゃない。
だから、パッと手を払ったわけです。
そしたら今度、村田珠光が玄関から帰っていきますときに一休禅師が「何事も飲むときに無心で、何も考えず喫茶去なんていうことも考えずに無心にお茶を飲むときは、一体、村田珠光、どういうものだ」
「無心にお茶を飲むときはどういう境地だ」と、一休禅師がパッと言いましたら、村田珠光は一休禅師が帰るときに、「お師匠さん」と。帰るときに、一言、「柳は緑、花は紅です」と、村田珠光が答えた。
一休禅師が、「許す!」と言ったのかどうか分かりませんが(笑)、「よし!」と言って、印可を与えた。有名な逸話です。
村田珠光はそれまで健康のためにお茶を飲んでいた。そこに、趙州禅師の「喫茶去」という一つの問答で来まして、柳は緑、柳は緑のままでいい、花は紅のままで、宇宙、森羅万象の真理をそのまま表している。
これは蘇東坡の有名な詩です。
当たり前のことだけど、ここにすべてのものがありますよという、この「柳は緑、花は紅です」という言葉の奥に、すべてを会得している境地で村田珠光が言っているということを、一休禅師は、パッ、言外の言をパッと受けとった。
それから、村田珠光は、健康で飲んでいたお茶というものを、今度はその境地、禅の境地という形で飲むようになって、これで村田珠光は悟りを開いたわけです。これが茶道の起こりです。
その後、この村田珠光から武野紹鴎、それから千利休に来たわけです。村田珠光、武野紹鴎、千利休という形で茶道が体系づけられたんですけど、その元は、この「喫茶去」「柳は緑、花は紅」というところから始まったんです。
そういうふうに、禅宗の、この「一日作さざれば一日食らわず」という百丈禅師の基礎が、結局、茶道にも入っているわけです。
黙々と労働し、ただ一杯のお茶という、ごく平凡なその行いの中に仏教の悟り、宇宙の真髄、自分自身の本質的なものが、形にあらわれて動いている。
動中の静ということ、事上磨錬ということを、茶道の形であらわしているわけです。
生活に生きた禅こそが本物
そういうふうにお話ししてまいりましたけれども、まあ、ここのご神業と申しますのは刻々に動いている仕事がヨーロッパ的な労働感覚ではなくて、ねばならない感覚ではなくて、刻々のただいまの、その体を動かしている仕事が、悟りを開く一つの教材です。
神様の道を体得し、言外の言論外の論を会得するべく、教材として、毎日の仕事がなければ駄目でございます。
一日二十四時間、一年三百六十五日、年中無休でやっておりましても、愉快、愉快と。如来も、菩薩も、守護神、守護霊も、産土様も、そういう生活をしております。
これがもっともっと極まった世界にいるわけです。
一言で言いますと、生活にすべて生きた禅でなければ、本当の禅ではない。生活禅。日常生活そのものが禅の極意であるし、実践であると。
お茶の一杯を飲むにしてみても、鍬で耕すにしてみても、ご飯の一つを食べるにしてみても、全部そこに禅があるんだと。生活、即、禅だと。
その生活禅という中に、本当の修業というものがあるんですよということが百丈禅師の「百丈清規』から始まっているんです。
まさにこれは、神道の歴史も神様の道もそうです。日常生活の惟神の道も、ただいま、ただいまのその生活にすべての真理があって、天地自然の本質があるのです。
本とか文字とか言葉とか、そういうものの観念の中には生きた神生きた仏、生きた悟りの生活、修業はないのです。これは植松先生が何度も言っておられます。
これがまさにご神業の一つの大きなベースです。皆さんも、お仕事をするんでしたら、こういう感覚でやれば人に秀でた人になります。同時にその中で、人格完成、御魂の完成もやれるわけです。
この生活禅ということで、今日の講義を終わりたいと思います。どうもありがとうございました。(拍手)
