【第一章】老祖様の六箴四戒(昭和60年11月23日)
聖徳太子の善悪のとらえ方
【深見先生】それでは、本日、昭和六十年十一月二十三日、勤労感謝の日の講義。
えー、いよいよ本日のメインテーマの講義に移ってまいりました。本日の講義は、パート1、パート2、パート3と除霊ものできたわけですが、今度は宗教ものでいきたいと思います。「何が善で何が悪なのか」と。
皆さんどうですか。いいことをして、善はいい、悪はよくない。
善悪はやっぱりどちらかというと、悪より善の方がいい。
悪人よりは善人の方がいいです。しかし善とは何か、悪とは何かということに対して善とはこうだ、悪とはこうだ、
どういうふうにそれを受け止めればいいのかということにつきまして、あんまりはっきりと認識したことがないのではないか。どうですか。
善とは何か、悪とは何かをはっきりとさせてみたいというのが、この講義の主目的であります。どうですか、興味ありますか?
観客の皆様の気分が充実したところで始めたいと思います。
何が善で何が悪なのか。明確に答えを言いますと、こういうことになります。
一言で言いますと絶対の善はなく、絶対の悪もない。これが答えであります。善とは何なのか。悪とは何なんですか。
絶対の善も絶対の悪もない。すべて善悪は相対的なものであるということが言えます。
特に、聖徳太子さんというのは遺言はですね、「悪いことはしちゃいけない、いいことをしなさい」。これが遺言だったわけです。
前にも言いましたように、善人と悪人がいて悪人の問題点は、悪をしているということに対して、拗ねている、開き直っている、卑下している。
堂々と喜んで悪をしてますと言って、魂が充実して悪をしている人はあまりいない。
逆に善人は善をしているということで喜んでいるわけです。ボランティア活動、あるいは世のため人のために生きている人。善をしているという喜びもある反面、善をしているということに対して誇りを持っている。
善を誇るという気持ちがあります。ゆえに善人と悪人は仲が悪い。善人と悪人が仲がいいということはあまりないです。
聖徳太子さんは、「和をもって貴しとなす」ということを言いましたけれども、なぜ人は和ができないか。それは善を行う人と悪を行う人がいるからだと。善人と悪人が仲がよくない。それは悪を卑下している心と、善人は善を誇る心があるからだと言ったんです。
では、悪人が卑下をやめて善人に近寄るのが近道か。善人が善を誇る心を改めて、悪へ近付いていって仲良くするのとどちらが近いか。これはやはり、善人の方が善を誇るという気持ちを捨てて、悪人の中に同化していく。
「まあ、そう言うなよ」と。そちらの方がより近いです。これが、聖徳太子さんの善悪の考え方です。なかなかユニークです。
まあ、善人は善を誇る心があるからよくないんだ、善人はよくないというのはそういうことです。なかなか気がつかない面でしょう。
「私はこんなにいいことをしたのに。私はこんなにやってるのに」というのはありますね。だけど、その人が一番問題なのは「こんなにやってるのに」という善を誇り、自負している面がいけないんで、和ができない。
和をもって貴しとできないわけです。和ということを大事に考えた場合に、そこが弊害です。
こういうことを言うということは、聖徳太子さんは、自分は善をしているんだけれども、あくまで絶対の善を行おうと努力してたわけです、遺言でもそういうふうに言ってるぐらいですから。
それに対しまして、蘇我馬子とか蘇我蝦夷なんてのは崇峻天皇を殺してみたり、権勢を思いのままにして悪いことをして堂々としています。「どのみち俺はこんなもんで聖徳太子さんみたいにあんな潔癖な人間じゃない。世の中は悪だらけだ。そうはいくもんか」なんていうふうに言ってるわけでしょう。
そのときに聖徳太子さんは「いやあ、やっぱり日本の国を思い、全体をよくするということを考えた場合、私の方から折れていって仲良くしなきゃいけない」と考えた。
蘇我馬子や蝦夷なんかと非常に葛藤しておりましたけれども、そういう方向で国家の絶対善ということを国家全体の善ということを考えた場合に「私自身の善を誇る心を改めて、折れていかなきゃいけない。
手を結ばなかったら、結局は国家のためにならないんだ」。そういうふうな精神状態を経たのであろうと思います。
こういうことを言うということは、聖徳太子さんはそうだったんだろうと思います。ですから、その内面性の素晴らしさということを考えるわけです。ご努力されたわけでしょう。
老祖様の六箴四誠
それから、老祖様の言っている六箴四誠の中では、人間というものはまず、
「守実の箴」(板書)ということで、死んでも生きても変わらない真実というものを見なきゃいけない。
永遠に変わらないところの真実、実質を見なきゃいけない。本当の実を見なきゃいけない。
地位や名誉や財産や権力、お金や知識じゃなくって、変わらない真実のものを蓄えなきゃいけませんよと言っています。
その次に、「誠悪の箴」(板書)。悪を戒めます。悪いことをしちゃいけない。
悪事をしてはいけないということを言ってます。そのあと「守寂の箴」(板書)とか、絶えず誠でなきゃいけないという「居誠の箴」(板書)。
それから、「去愚の箴」。愚かをなくす。修道の基礎を言ってます。
我々が「修業する」というふうに言うけども、何をどう修業したらいいのかという眼目を言っておられるわけです。「去愚の箴」と言います。
六箴四誠。六つの守らなきゃいけない言葉です。まさに的を射た答え。我々が守らなきゃいけない素晴らしい言葉です。
そうこくはん
中国の清の時代、曾国藩という人がいまして、この曾国藩が、いくつかの箴言を残しました。
人間はこうしなきゃいけないなんていうことを言いました。曾国藩というのは、西洋のものを吸収してもっと近代化しなきゃいけないと言った有名な政治家です。この人が言っている素晴らしい名言集があるわけなんです。
それと同じように、老祖様も六つの箴言を残したわけです。まず最初に守実。生まれ変わり死に変わりしても、生きても死んでも、真実なものを積まなきゃいけないと。
特に人間は、臍下丹田というか、内面的な気持ち、精神の安定を見なきゃいけない。充実しなきゃいけない。
その次が悪を戒める、悪いことをしちゃいけない。聖徳太子さんが言いましたことはやっぱり的を射ているわけです。
第二番目がこれですから。
第二番目が誠悪の箴。悪を戒めるという箴言ですね。悪いことをしちゃいけませんよ。
三番目が、守寂の箴といいまして、がちゃがちゃがちゃがちゃするなと。
寂の境地。涅槃寂静寂とかです。
静寂の寂の状態でなかったら本当の真は得られないので、ぎゃあぎゃあ言いすぎない、騒ぎすぎない。
あまりぎゃあぎゃあ言いすぎる人間は中から離れています。ハードロックよりもスタンダードナンバーがいいというか。
たしかに、魂ということを考えた場合に赤ちゃんはハードロックをかけるスクランブルを起こすみたいで。
クラシックをかけると何か静かになってますね。やはり波長、メロディーが違うんでしょう。
今は刺激が多い時代ですので、若者にはハードロックというのは、すかっとして充実感があるらしい。しかし御魂ということを考えた場合に、あまり激しすぎるのは御魂がだめになるんです。守寂の箴。和敬静寂の寂ですね。その寂の境地を持たなきゃいけない。動中の静というんでしょうか。
人間はどんなに忙しくても、寂を保たなきゃいけませんというのが、第三番です。その次は、居誠の箴。絶えず誠でなきゃだめだよと。絶えず真心を持って誠にいるということです。
居誠というのは「居る誠」と書きますから、誠の状態に居て、神にも向かい、道にも向かい、自分自身も見なきゃだめだと。
このように、どう修業したらいいんだということが明確に出されているわけです。
しかし、誠だけあればいいというものじゃない。誠を貫きながら悪いこともしてます。誠を貫きながら、がちゃがちゃがちゃがちゃ騒いで日本中をうるさくして、誠を貫いています。
誠だけは負けませんよ。彼は誠がある。しかし、がちゃがちゃと周囲をうるさくしながら悪いこともときどきはする。目に見えないものよりも目に見える形を大切にして、誠を尽くしている。
それでは浅いです。やはり、これだけの境涯の上に則ったところの誠という状態でないといけないんです。前提があるわけです。
ですから、誠の意味は簡単ですけれども奥は深いですから、どのようにでも解釈できて、含蓄のある言葉ですね。そういう前提から見た誠を見ていった場合に奥の意味するところ、ニュアンスが明確に受け取れるんじゃないかと思います。
