神様の善悪の基準
ところが、ここで難しいのは「益する」という言葉です。
どこまでが本当に益することになっているのか。これを表す言葉が小さな善「小善」です。
その人なりに善だと思って、自分以外のために益すると思ってやっていることなんだけれども、もっと大局の善から見たら、小善は小悪のごとし。
もっと大きな善から見たら、小さな善というものは悪になります。
具体的に言いますと問答でもよく出てきます。菜食主義者は「牛や馬を殺すなんて」と言います。しかし、牛や馬は植物を殺生していますね。でも歌を歌うし、お花でもフェアリーが飛んでるくらいですから、みんな霊体があるわけですけども。
馬を殺したり牛を殺すなんてそれはよくないと言いますが、植物にも魂はありますから霊を殺しているということには変わりない。魚にも霊があります。
だけど、魚は食べている。要するに血が滴るのが気持ち悪いだけでしょう。
それから、人を殺すことは倫理観念的によくありません。しかし、それだったら、なぜ神様は戦争を許しているんでしょうか。
全知全能の神様だったら、なぜ戦争なんか起きているのか。戦争をしようかなと思ったら、ぱぱっと超能力で「だめよ」というふうに想念が急に変わらないんだ。なぜ人類はこれほど戦争と殺戮を繰り返してきたのか。
神様の善悪の基準は違うんです。なるべくなら殺すよりは殺さない方がいい。
しかし、もっと恒久な未来永劫まで続いていく平和な社会にするために、やはり、第一次世界大戦、第二次世界大戦、戦争によって文明文化が発展したということがあるわけです。
お互い殺し合いをした中で自覚をして、やはり殺し合いはしない方がいいねと国際連盟とか国際連合を作ったり、社会のルールを設けていって、法律を作っていこうじゃないかという、人間たちの努力によって、少しずつ善なる方向へと向かっている。
そのために人を殺すのは仕方ないと、神様が目をつぶる面もあるわけです。この辺りを言っているのが、「天地に仁無し、万物を以て芻狗となす。君子に仁無し、百姓を以て芻狗となす」という老子の言葉です。天地の間には仁なんてない。
よろずの物事をわら人形のように扱ってしまう。自然界は優勝劣敗、弱肉強食ですね。
そのように人間も殺したり殺されたり、強いものが勝っていって弱いものが負けていくということは、一つの自然の摂理であって、自然を作っている神様の御心はそういう厳しい面もあるよということです。
例えば、精神的に言いましても我と慢心がある場合には死んだ方がいいというぐらいまで追い詰めることが、その人を生かしてより大きな幸せにする場合は、ものすごい悪の権化のような仁王様になって出てくるわけです。
それはその人を生かすためです。
そういう目で見てみたら、人を殺すということは人類の歴史が戦争を許されてきた。許すわけじゃないけども続けてきた。災害があって何万人も死んでしまう。
コロンビアで火山の爆発があって、ああ、火山というものは怖いものだなと知らせるために、わざわざ二万人が死んだのかどうかわかりませんが、やはりそれなりのことをしてるから、自然界の働きというのはそういう怖い面があるわけです。
神様は絶対の善だったら人を殺さないはずじゃないかと思うかもしれませんが、死ぬとか生きるとかを乗り越えた世界の神様の尺度があるわけです。
だから、人間が善と思っていることがもっと大きな目から見たら悪の場合がある。人間が悪と思っていることも、もっと大きな神様の目から見たら善になってる場合がある。
善悪正邪の判別というものは、人間ができてるようでも、できてないわけです。百パーセントではないのです。
そういう意味で、絶対の善もなく絶対の悪もないという、最初申し上げた結論が出てくるわけです。
ですから、自分以外に益するという尺度が、頭で考えた場合に、どれが益している善なのか、どれが悪なのか。何が善で何が悪なのかということは、頭で考えた理知分別の世界では出てこない。
絶対の善も絶対の悪もありません。人間がいいと思ってもそうじゃない。悪いと思っても、いい場合があるのです。それでは、どうやって善を進めればいいのか。善悪の基準がわからなかったら、どうして善を積むことができるんだというようになります。
身の過ちは宣り直せばいい
そうならないですか?絶対の善もなく絶対の悪もない。これが善かと思って大きな目で見たら悪だったなんていうと、いいと思っても思い切ってできないじゃないか。そうなりますね。
絶対の善もなく絶対の悪もない。だから、想念と行いが自分以外のためにいいと思うことをしていく。仏教で言いますと大愛です。なるべく人間というのは、大愛から見ていって自分なりの愛という偏狭な愛をなくす。
私の自我というものがなくなって、神様の御胸に合ったかたち、神様の御胸に合うように大愛を考えて、善と悪と両方見ていく。
状況によって、一番ベストと思えるところ。
大愛から見て、その人を生かそうという想念を持ちながら分別の知恵ということをあまり考えすぎない。そして、善だと信じたことをやるわけです。なるべく大愛に立脚して、厳しいときは厳しく、優しいときは優しくする。
そうやりまして、しかも、これは絶対ではないので間違っているかもしれません。そこを謙虚にして、間違っておりましたら神様お許しくださいませと言う。
神様の目から見て、間違っているのがあったら許してください。善と思ってやりましても、人間のことですから神様の目から見たら悪の場合もあるかもしれません。
しかし私は大愛の目から見てこれが一番いいと思います、一番大愛に近いと思いますという尺度で見て、あとは間違っていたら許してくださいませ。
これが神道の「直日に見直し、聞き直し、身の過ちは宣り直す」という概念です。身の過ちは宣り直す。こういう考え方が出てくるわけです。直日とか直日の御魂。
あるいはこれを、こういう言い方をする場合もあります。「神直日、大直日に、見直し、聞き直し、身の過ちは宣り直す」。
「神直日」というのは、神様の直の日から来た正しい見方。「大直日」ということは、大いなる正しい神様の御心から見て、間違っているところは見直ししてください。
ああ、これはちょっと愛が小さかったな。自分なりには大愛だと思ったけど、そういうものの見方があったら、この場合には、すいませんねと言って、下品なことを言って、さよならと言って、相手の恋しい思いをきれいに断ち切った方がよかった。
あんな下品な人はもうやめようと、恋心が消えていった。下品がいい場合もあるわけです。あまりいいたとえじゃないですが。
とにかく、そうやって、ああ、もっとああすべきだった。絶えずかっこよくしようと思って、あの人の恋心を切ることができなくて不幸にしてしまった。
善と思ってたことが悪だった。後で考えたら、尺度が小さかったなあと気がつく。気がついたときに見直しをして気がついたときに聞き直しをして、浅はかだった、小さかったと反省する。
神様の御胸、大愛だと思ったけれども、浅はかだった、小さかった。神様の御胸、大愛だと思ったけれども自分なりの尺度で未熟だったなと思ったときに、宣り直す。
「身の過ちは宣り直す」ということは「神様すみませんでした。すみませんでした」とお詫びをする。素直にお詫びをする。これが御禊の概念です。
失敗して汚れちゃったというのなら「すみませんでした」と思い返して、お洗濯をしたらきれいになっちゃった。神様の目から見たら、間違っていた所をウォッシングして御禊をしたらまたきれいになって蘇生する、蘇るんです。
キリスト教の罪のとらえ方
これに対して、キリスト教的な概念というものはそうではなくて、神様の目は絶対の善だ、それから見れば人間は罪人だというものです。
だから罪人だ、罪人だと言う。罪人だという霊界を作ってしまって本当に重いんです。キリスト教は、我と慢心と動物的な要素というものを抑制して悪いところを出さないという、性悪説に基づいてるんじゃないかと思います。
人間は楽園から出てしまって、女性は出産、男性は労働という罪を負う。労働は罪です。
あの出産の苦しみは贖いです。これも贖いだと思いながら赤ちゃんを産む。想念が暗いです。神様が絶対の善で人間はそれから見れば罪人。キリスト教的な善悪の概念から見たらそうでしょうね。
だからプロテスタントの場合には、イエス様は贖いをしてくださった。罪のない方が私たちの罪の贖いをしていってくださった。
それはバイブルで「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された」という言葉が、プロテスタントの一番のキーワードでありました。
神はその独り子を、何の罪もないイエス様を私たちのために遣わしたほど、世を愛されたんだ。わかったようなわからないような理屈ですけれどもクリスチャンが聞くと怒るかもしれませんが。
その独り子を給わってみんなの贖いをしていった。それほど世の中を愛されたんだということなんでしょう。非常に文学的に美化された、恍惚とするような言い方です。それはそれなりに真実のある一面はとらえているのかもしれません。
しかし、イエス様を信じたら罪がそっちへ行くから罪が消えるというのは単純な発想ですね。それだったら、クリスチャンにはこう言いましょう。「死ぬ前日にキリスト教に入ろう」と。
人間はやりたいだけ好きなことをやって、死ぬ前の日にイエス様に帰一したら全部罪がイエス様の方にいきます。
それで救われるわけでしょう。だから若い間は入らなくて、死ぬ前日に入りましょう。クリスチャンは若く入ったら損です。
酒も飲めなくなるし、好きなことができなくなっちゃう。こういうことになりますね。
私はそれをバイブルキャンプに行ったときに牧師さんに言ったら、牧師さんは答えられませんでした。「それであなたが救われるのだったら、それでいいでしょう」なんて、わかったようなわからないような理屈を言われました。
そういうものじゃありません。
神霊世界から言いますと心の中で救われるということは、罪がなくなって救われるのじゃなくて、イエス様を信じた時点で、ああ、心の中が救われたという境地になるので御魂が救われるわけです。
実際は神様の御胸にしたがって信じていくと、愛の念を出します。イエス様が自らの御魂を犠牲にして生きていらっしゃった。
ああいう態度を見習わなきゃいけないと思って、何でも利他愛、隣人愛の愛念を出すことによって、自分も救われるんです。本当はイエス様というのは、あと六年ほど寿命があったんです。
これは、私はイエス様にも聞いたし、神様にも聞きました。本当はあと六年ほども寿命があったんですけども、イエスがたくさん奇跡を現すので神様の方からストップされまして、三年ちょっと活躍して亡くなられた。
ですから、死んだ後から布教しました。
パウロとかそういう周囲の人たちが「イエス様がああだった」と。
ちょうど、弘法大師さんをそういうメシア的な存在にして「弘法大師はいまだにおわしますなり」ということで、人々の心に弘法大師さんを位置づけてきたのと同じです。
そういうふうにイエス様を位置づけて、イエス様というものはこうだというふうにしたわけです。イエスは「お前は六年あったのにこうだ」ということを知って、悲しんだでしょうね。彼は、磔になる前にかなり悩んでましたから、かなりね。
それで、彼はショックだったわけです。老祖様に私聞きましたから。おそらくこれは世界初公開です。本当は六年ちょっとほど寿命があったわけです。
ゲッセマネに帰ってきて、病気で死んでいくという運命もあったわけなんですけども。
お釈迦様の涅槃図のような感じで。ですから、説かなかったところを、パウロとか何人かに懸かって、イエス様はやったみたいですね。それが本当なんです。
植松先生が「神様はあんまりああいうのを好かない」とおっしゃっていました。磔台に上がっていって、罪の贖いがってなんて暗いでしょう。
