土曜神業録23(VOL.2)

第一章 それぞれの宗教における絶対神 昭和60年7月14日

の神様について その一 】

宗教に迷ったら、宇宙創造の神を中心にして祈る

【深見先生】 昭和六十年九月の十四日。講義を行います。

本日は、の神様についてお話をしたいと思います。

過去何度か、の神様 についてお話ししたと思うんですけども、今日は別な角度からお話ししてみたいと思います。

いろいろですね、宗門宗派がございまして、ああでもないこうでもないと思って勉強いたしましても、ある教団ではこういうふうに言って、ある教団ではこういうふうに言っている、あの教団ではこう言っていると。いろいろ探究心の強い人が勉強しますと、分からなくなっちゃう。

ここも本当だと思うし、 これも本当だと思うし、どうなのかなと思いますね。

宗教というのは、たまたま縁があって入るケースが多くて、縁があってというか、たまたま、隣のおばさんが勧めてくれたのがS会だったので入ったとか、 たまたまK会の人が来て入ったとか。

例えば、車を買うときは、いろんな機能、乗り心地、燃費、税金面、こういうものを全部研究してから、この車を買おうというふうにして買うんですけども、そうじゃない消費財というのは、たまたま行ったお店でぱっと買っちゃう。

いわば衝動買いですね。スーパーですと三千円未満というのが衝動買いプライスなんですけど、四千円以上になったらちょっと考えますね。

自動車の場合は…。たまたま営業マンのトヨタの子が来てるから、まあいいじゃないか。たまたま営業がマツダのあれが来るから、まあいいじゃないか というふうにして、衝動買い的に買ってしまうこともある。

そういう高いものも、最近は衝動買いをする時代です。そういうふうに宗教の世界も衝動入りの宗教になっています。

自動車マニアは、あらゆる機能と燃費なんかも研究しまして、営業マンの言うセリフも、「ああ、ああ」と聞き流して、パンフレットを全部研究します。

セールスマンは皆それぞれに、「私どもの車は最高でございます」と言います。 車のセールスマンはわが社のが最高であるがごとく言いまして、みんな「うーん」と言って決めるわけですね。

いっさいセールスマンの言ってることに耳を貸さないで、客観的な車の機能を分析するのは車のマニアです。

よほどの車マニアでなければ、そういうやり方はしないですね。

ですから宗教の場合も、正しい、一番最高のものを選ぶには、よほど宗教マ ニアでなければ、そういう入り方はしないのでありまして、ほとんどが衝動買いであるように、たまたま宗教に入る。

こういう場合が多いようですね。

それで、入ってからどうも矛盾を感じて、どうもあれだななんて。

たまたま別の宗教に友達がいたんで、また衝動入りをしまして、他へぽっと入ってみて、 これもいいな。

しばらくして「どうもなあ、一長一短だな」と思って、また別の宗教に入る。そのうち、もう何が何だか分からなくなってしまう。 道心がありながら、衝動入りをしたがために、分かんなくなっちゃったという人が、意外に多い。

今日もそういう人がいたんですけど、そういうふうに皆さん思いませんかね。

そこで、そういう人たちはどうしたらいいか。もう訳が分かんなくなっちゃったら、それはもう、深見先生の本をお買いになってですね、一つ一つ観念を洗い直しして頂ければよろしいかと思うんですけども。

しかし、私の本を読まない人は何を信じたらいいのか。

何を中心に向かっていけばいいのか分からなくなったら、どうすればいいのか。

ここで言えますことは、結論から言いますと、いろんな神様を拝むのではなくて、宇宙創造の神を拝む。この天地あめつちを創った、宇宙創造をなさった花鳥風月かちょうふうげつの大神様という概念で統一すべきだと思います。

そうしますと、宇宙創造の神は絶対者ですから、どういう宗門宗派であろうと、関係なく守護してくれます。

すべての守護神たち、守護霊たちは、何宗であろうとなかろうと宇宙創造の神に気持ちと中心をびしっと揃えておりますと、ヨーロッパだとヨーロッパのエンゼル、仏界ですと日本の霊界とかいろんな霊界を経由しまして、出身地はばらばらであっても、守護神たち、守護霊たちが守っててくれます。そして人生をプラスの方にリードして下さる。

こういうふうに考えますと、中心がしっかりして、迷いがない。ですから、宗教に迷った人は、そういう概念で考えて、自分の守護神、守護霊様に向かえばまず間違いない。 正しい方向じゃないかと思いますね。

ユダヤ教、キリスト教、イスラム教には絶対者の概念がある

その宇宙創造の神という概念なんですけども、もう少し徐々に降りていき たいと思うんですけど、いろんな宗門宗派で言っております。

例えば、一番この概念に近くて定着しておりますのが、やはりキリスト教関係です。要するにヨーロッパ神界ですね。ヤーベの神、あるいはエホバの神。

この神様で統一されているのがユダヤ教、それからキリスト教、イスラム教。

イスラム教はアッラーの神様ではありますけども、マホメット様もガブリエル天使に導かれまして、自分が最後の預言者であると言っておりまして、最初はユダヤ教と協調していこうとしたんですけど、やはり生き方が違うということで、マホメットさんはユダヤ教とも分かれました。ユダヤ教の方はモーゼが一応、リーダーとなっております。

キリスト教はイエスが中心であります。 イスラム教の場合は、ユダヤ教と違いが出ないということで、アブラハムにしたんですね。

アブラハムというのは有名な神様の試練の話があります。子供を神に捧げて、神の命令なら子供を殺そうと。

そのときにエンゼルが来て「今のは神試しだったんだよ」と。

神様のおっしゃることなら何でもやりますという教えの神試しで「子供は殺せない」なんて思わないで、わが子をも神の命なら殺すというところで、エンゼルが「いや、これは神試しだ。殺すことはないよ」と直前に来た。

これは有名なアブラハムのお話です。

ちょっと横道に逸れますけども、大本教でも有名な話がございます。このアブラハムの話にすごくよく似ている話があります。

出口ナオという人がおりまして「ナオよ、五円持ってアメリカへ行け」と いう有名なお話があります。

「ナオよ」と、あるとき うしとら金神こんじん様が懸かりました。 大本教の筆先ですね。

日清、日露、第一次世界大戦、 それから日本の敗戦も全部予言したのが、お筆先です。

それを書いたのが、この出口ナオというおばあちゃんですけども、綾部で五十六歳で神懸かりまして、無学のおばあちゃんだったんですけど、いろいろとお告げがありました。

天理教の中山みきさん、金光、黒住、それぞれ素晴らしかったですけど、無学のおばあさんで神仕組で大きく出てきたのは、 この時からでありました。

それで、あるとき神様が、「ナオよ、五円持ってアメリカへ行け」とおっしゃいました。 植松先生にあった「笛吹童子ふえふきどうじがやってくる」というご神示とは少し違うんですけど…。

「五円持ってアメリカへ行け」。「分かりました。神様がおっしゃることだった「ら」と言って、貧しいなか、何とかお金をそろえて旅費を稼いだ。

とにかく五円稼ぎまして、それで近くの舞鶴の港へ行って「あの、アメリカに行きたいんですけど、アメリカに」と。 アメリカがどういう所なのかよく分かりません。

とにかく、「あのね、おばあちゃん、アメリカってもっとあっちの向こうの方にあるのね、おばあちゃんね」。「アメリカに行きたいんですけど」って五円を持って、海辺まで来たわけですよ。

どうしたらアメリカに行けるか。港をうろうろうろうろしてる時に神様が来て、「ナオよ、もういい」と。「もういいぞよ」と。

「神様、アメリカどうなっちゃったんですか」。「これは神試しなんだ」と(笑)。「あ、そうですか」と言って。神様のお告げであっても、普通に考えたら五円持ってアメリカに何をしに行くんだと思いますね。

だけども、ナオはとにかく五円を作りまして舞鶴の港まで行ったわけです。

そこで直前に「これは神試しだ」と。これは、アブラハムの神試しに似ています。

やっぱりユダヤ教ですから、強烈ですけどね、子供を殺すなんて。 日本ですと、そんなことは言いませんけど「五円持って アメリカへ行け」と。

今はいろんな霊能者がいますね。植松先生の知り合いで「神様が箱根へ行って、石ころを三つ埋めて来いと言った。もう少しで日本が真っ二つになるところを、これで助かったんだ」と言って、意気揚揚と帰ってきた霊能者がいました。

本人は「日本の国を救った」と。「あの時に自分が箱根の上のほうに石ころを三つ埋めなかったら、箱根の山の所から、日本は真っ二つになっていたところだったんだ」と。

本人も信じ、周囲の信奉者も信じていました。こういう霊能者はいますね。 それから自分がどっかに壺を埋めてきた。

これで日本の国が救われたと。 確かに、そういう方々のおかげで救われてきたかもしれませんけどね(笑)。

これが出口ナオとかアブラハムの場合は、とんでもないような神様のお告げで、それを信じて、絶対的に信じていきなさいということだったんでしょうけど、邪神もこのパターンを真似をしまして、パロディでね(笑)、人々を苦しめていますし、迷わしていることも多いです。そこが難しいところなんですけれど。

植松先生も「これから世界連邦政府ができて、みろくの世がやってくる」と神様から聞いて、そのまま信じて待っていました。

「笛吹童子がやってくる」なんて言われて、「そうかなあ?」と思いながら磐梯へ行ったり。少し似ていると思いますね。

アブラハム、出口ナオ、 植松先生と似ています。

まあ、年代を追うごとにきれいになって、若返っておりますけどもね(笑)。

似ておりますね。そういう使命のある人は、こういうこともあるわけです。これを邪神界の方も、真似をしているということです。

そういうことで話が横道に逸れましたが、このマホメットという人はアブラハムを自分たちの祖先にしました。しかし、やはり元は、この神様からきている。

天地創造の神という概念ですね。はっきりとした絶対者の概念を持っているんです。

日本神道における絶対者の概念

これに対しまして、絶対者という概念がないのが、いわゆる昔からの日本神道です。それからギリシャ神話もそうです。ギリシャ神話では、ゼウス様がいろんな神様がいる中でベストです。

最も賢い。いろいろな神様の中で、彼がチーフだという感じです。

しかし、ゼウスがすべての神々を作ったりしたわけではないです。絶対者という概念ではなくて、ベストなんです。

モースト・プレシャス (most precious)、 モースト・バリュアブル (most valuable)。

最も価値があり、貴重な神様です。 そういう概念の神様がゼウスであります。

一方、日本神道は、天照大御神様が最も高貴な神様だった。伊邪那岐の左 の目から天照大御神、 右の目からは月読命、鼻からは須佐之男命が出てきた。

いろんな神様の中で、天照大御神が最も尊い神様だよということで、ゼウスの概念と似ております。

このように、日本神道は元々絶対者という概念が欠けております。

日本神道で、この絶対者という概念を最も顕著に表したのは平田篤胤です。

その前にも、吉田神道の吉田兼倶という人がいました。

吉田神道では、宇宙を創造したのは、国常立尊とされています。これは『日本書紀』に基づいておりまして、この国常立尊が宇宙創造の絶対神なんだと。

八百万の神様は、全部この神様に統合されていて、「日本書紀」を見てみますと、このくらげなす漂える国で、最初に現れた独り神は国常立尊と言われております。

宇宙創造の絶対神です。

くらげ、ふわふわしたところから、最初に出てきた神様が国常立尊だと。吉田兼倶はそういうふうに言いました。

これに対しまして平田篤胤は、そうじゃない、天之御中主だと言いました。この天之御中主が天地の中心にある絶対者なんだと。

すべて天之御中主。 これは「古事記」にも載っておりまして、くらげなす漂える国で最初に現れたのが天之御中主。

それからいろんな神様が出てきて、国常立様は六番目ですね。

四番目ぐらいに宇摩志阿斯訶備比古遅神と、そのような形で出てきておりまして、 天之御中主が絶対者なんだと。

このように絶対神という形で天之御中主を中心に考えるのは、この平田篤胤のときから、かちっとした形で出てきました。

もう少し古い時代には、いろいろ言ってたかもしれませんが、日本の歴史上に大きく影響を与えた人物というのはこの方でありまして、教派神道なんていうのもこういうふうな概念であります。

この人が初めて天之御中主と言ったんです。

植松先生の場合は、 天之御中主さんは、ぱっと出てぱっと消えていくという神様です。最初にぱっと出てくるのが天之御中主だというのが、植松先生のオリジナルなところでございます。

その後、明治の初めになりまして、 言霊学というものが出てまいりました。

大石凝真素美というおじさんがいまして、 前に言いましたように、国会議事堂が焼けるぞ、伊勢神宮が焼けるぞ、というのをぴったり全部当てたという人ですね。

この人が丸にちょん ()と書いて、「す」と読むんだと。 丸にちょんということを言い始めました。

この後、大本教の出口王仁三郎もその概念を取り入れまして、 真光文明教団もそうですし、岡本天明もそうです。

このように、丸にちょんと書いての神というような形が出てきたわけですね。

後ほど説明したいと思うんですけど、の神様、宇宙創造絶対神という概念が出てきたわけです。

これは日本神道における絶対神ですね。本来は、今申し上げたように、ギリシャ神話のような最高神でした。

最高神というのは、いろいろいる中で、一番最長老というか、最も長じている神様です。

首長制というか、首長と申しますか、首長神という形の概念があります。 これが日本神道ですね。