深見東州の土曜神業録25(VOL.6)

【第二部】地獄で苦しむ行者霊との「除霊問答」(昭和60年6月30日)

霊能力を得る満足ではなく、世のため人のため…主客転倒するな

【深見先生】はぁー(と息をつき)、これ霊能者ですね。滝に打たれたり、霊眼で見えたりした行者さんですね。この行者さん。死んで、かなり苦しんでいたみたいね。それで今はもう、人間の肉体の姿はなくなって、ヘビのように、龍のように…焼きごてを当てられて、「熱い、熱い、熱い!」と言いながら、身体をヘビの姿に鋳直しされて…。焼きごてを毎日、毎日、当てられている。それはもう火膨れしますよね。

そのうえ、砂や砂利を体に乗せられて、「はい、マッサージしましょう」と言われている。そりゃあ、「いやああああー、痛いぃぃぃー」って、言うわね。

リュウマチより痛い。そりゃあ痛いですよ。

「はい、胸が楽になってきたでしょう?」などと言われながら、それでまた、焼きごてを当てられ、ジュン、ジュン、ジュン、ジュンとなって。もう体中、火脹れでしょう。

それから「はいっ」って言われて、砂利、お塩、生姜、胡椒(一同笑い)、

それから備長炭(一同笑い)、と、いろいろ出てきて、それでまた「はい、マッサージ」と。「うわぁあああっ!」と叫んでいる。これが一日に三回ないし四回ぐらいのお務めです。

こういう地獄界ですから、だからもう人間の姿ではないです。はぁー。要するに、すでにヘビに堕とされていますから、人じゃないです。

このヘビというのは、蛇龍ですね。蛇龍というのは、蛇と龍との中間ですよ。蛇のような龍のような、龍のような蛇のような、それでほとんど、ヘビというものです。

この行者さんは、(ため息をつきながら)キツネを使っていたのですね。キツネを使って化けていたけれど、本当の正体はそういうものなのです。

「殺されるほうがまだマシじゃ。人間としてこんな苦しみにはもう耐えられない。殺されたほうが、まだマシじゃ」。そういう気持ちだったようですね。

でも霊界というのは、死んじゃったらそれ以上、死なないのですよね。これは恐怖ですよ。霊界の問題点は、それ以上死ねないこと。これは怖い。

【男性】自殺もできない……。

【深見先生】人間は「ああ、もう死ねるなら死にたい」なんて言うけど、霊界ではもう、罪を償って、生まれ変わってくるしかないわけですよ。

「でも、あと二百五十年も辛抱できないよ……。辛抱できない……。あーあっ」

この行者さんは人に温灸とか、お灸を据えて、そしてピッと、霊能力で病気を治していた。そういうふうなことをしていたみたいです。

それから、火に手足をこうつけて、熱いとか、熱くないんだとか、そういうふうなこともしていたみたいです。水行、火行、岩行…そういうこともしていたようです。あらゆる霊能力が欲しいと願っていたようだ。

行力だけを付けるため、というのが目的だから、そこに愛や真心や、公共のために良かれなんて思いよりも、本人の実力を増して、超能力を得たいという気持ちだけが優先していたのです。

だから狂うんですよ。(ため息をつき)「最高の指導者に従事して、霊能力を会得したら、スーパーマンみたいでいいなあ」と思っていたようです。

生前、そういう気持ちでやっていたようです。まぁ、誰だってそういうふうに力を付けたいという気持ちはある。でも本当は、それだけじゃいけない。至誠というものが必要なのです。

至誠の気持ちで生きようという心を持つ。物事はすべてそのバランスです。能力的に進歩しようという工夫も必要だけれど、そちらへ行き過ぎたら駄目です。

ああ、やっと少し楽になってきました。(目の前の女性に)楽になってきた?あれ?お風呂入ってきたの?

【女性】(笑い)いいえ。

【女性】(笑い)

【深見先生】お風呂上がりみたいじゃない?

【深見先生】嘘みたいに、なんか一般的な美女タイプの顔つきじゃない?(一同笑い)どういう意味だろうねぇ。いいお顔ですよ。

【女性】うん。幸せですよ。

【深見先生】なんで霊能力を獲得したのに、地獄で苦しむのか分からない。こういうふうに手足がなくなっちゃって、なぜそうなるのか分からない。なぜそうなるのか分からない……。

それはですね(一同笑い)、霊界というのは結局、人々のために良かれとか、人々に善の徳を与えていくという法施の気持ちとか、心の中にそれを持っているかどうかが大事なのですよ。

身体を使って施しをする場合もあります。とにかく、人々にとって良かれという気持ちがあったら、神様仏様は認めてくれる。お釈迦様も、神通力の中の教誠神通力というものだけは認めていたのです。

それは、あくまでも人としての努力をどこまでも、どこまでも、人間としての努力をどこまでも、どこまでも続けていって、そして初めて出てくる、そういう能力なのです。

「そういう能力が存在したほうが、世の人々にとっても幸せだろう」「そういう能力があったほうが人々は豊かになるだろう。世の中も良くなるだろう」ということで、神様は与えられるわけです。

それが正しい霊能力です。

世のため人のためという目的が主で、能力を得るのは、あくまで客です。主客の位置関係は、そうなのです。あくまでも人間的な努力をし、努力をし続けている。それが大事です。

神足通力というのがありますが、これは要するに瞬間テレポーテーションです。

ヒマラヤにいる行者さんなんかにこの能力を持っている人が多いですが、べつに神足通力なんかなくても、タクシーに乗っていくとか、歩いて行けばいいんです。

パッと見たら、テレポーテーションを使って、いなくなっている。パッと見たら消えていて、「あれ?今の人は忍者じゃない?」と人々は言うわけですが、まぁ、それも面白くていいでしょうけれど、目的と手段の主客が転倒している。そんなこと、やろうと思えばできますけど、意味がないのでやらないだけです。

御魂の向上真心と愛の大切さ

結局のところ「神通力」なんていうものを、基本的にお釈迦さんは重要視していない。神通力がどうのこうのという前に、本当に必要なのは、人間的な努力と精進だ、と教えているわけです。

人間的に精進して、努力して、そうして出てくる能力が本物なんだ、というわけです。「そういうものだったら認めよう」と、そういうふうにお釈迦さんは言ってるわけです。

お釈迦さんもそう言ってるように、本来は、そういう善なるもの、愛の波動、良かれという善なる心と行動が先にあるべきなのです。

人間は二つの目標があってこそ御魂が向上する。その御魂を向上させるために生まれて、生きています。

一つは、真実を会得し求めていって、御魂が真理に目覚めて向上していくこと。これは胎蔵界の仏様のような進歩の仕方です。

もう一つは、善徳を積んでいく。愛の心とか慈悲の心とかを先に立たせて、少しでも人々が良かれと、少しでも良いことがありますようにと布施行をして、体施と物施と法施をして、世に益することをして、善の徳を積んでいくことです。

この徳分によって、御魂は向上するわけです。以前にも言いましたが、功(いさおし)を立てていくということです。そうやって御魂が、この二つの方法で伸びていくわけです。

この二つの方法を実行し、より向上するために、そうあるべく守護神とか神様が叡智を与えてくださる。

より一層、善徳を積むべく、「神通力」をいただく。生まれてきたからには、そうやって御魂を磨いて修業していく。この二つの方向性で徳を積み、真実を会得していき、そうやって死んでいくわけです。

人として中心的となるべき、この「主客」の「主」になるところがなくって、霊能力というものが先に立って、神通力というものが優先されて、「客」が「主」に入れ替わってしまっている行者さん、あるいは人たちが、往々にして多いのです。

そんなことじゃあ、「何のために生まれてきたんだ」「何のために生きてきたんだ」となってしまいます。

「何のために修業してきたんだ」「本当に、真実を求めて御魂が自覚し、向上したのか?」と聞きたくなってしまいます。

「本当に人々のために、才能を利他のために運用して、善徳を積んだのか?本当に功を立てたのか?」と疑ってしまう。霊界に行ったら、そこを神様から問われます。

その時に、善徳も積んでない、正しい誠の真実も会得してない、ただただ能力だけを磨いていた・・・・・・・となると、人として生まれ、努力すべき基本ラインから外れていますから、基本ラインから外れたような格好にさせられてしまうわけです。

ヘビとか、キツネちゃんとかにさせられてしまいます。そうやって霊界でお裁きを受けて、酷い目に遭うわけですよね。

以上が、今聞かれた問い「何で霊能力を必死に磨いてきたのに、神様に近づいているはずなのに、死んでから何で今、こういう酷い目に、苦しい目に、霊界で遭っているんだろうか?」への答えです。

そうか、答えは分かった。でも、私は、私心があって行をやってきたのじゃない。それなのに何故こうなるの?

私心があって修行したわけじゃないのに、悪い心でしたわけじゃないのに、何故こういう裁きを受けなきゃいけないの?それが分からない……。

それはですね、私心がなくても、やはり手柄を立てたい、良いことをやっているという手柄を立てたいという気持ちがあるからです。

そういう能力を得て、自分にしか持てないようなプレステージを作りたい、という下心がある。私心はないですけれど、やはり「お手柄は立てたいものだ」と無意識に思ってしまうわけです。

そこには、お手柄を立てて、功を立てたいという功名の気持ちがどこかにある。これがまず一つです。

もう一つは、私心がなくても、どうしても気持ちが真心や愛や善なる気持ちに向かわなくて、でも行力は得ようという気持ちですから、力が活きていないですね。

心も御魂も活きていない。ただただ行力のために行ずる方向に陥って、なんか麻痺しちゃってるわけです。

真心とかというものの波動は、どちらかというとブルーの光です。愛念といったら真っ赤、あるいは赤い光です。そういう想念の波長によって世界がつくられます。

真心と誠の道という世界は、まあ単純に言って、霊国とか兜率天へ行く世界です。兜率天を見た人は分かると思いますが、あれ緑だったでしょう。

兜率天界というのは、変わらない心です。神様に対して、こうと決心したら、どこまでも変わらないという気持ちが緑の、松心というか、松の緑というか、どこまでも変わらない信念なのです。

そういう良い波長こそが兜率天につながるし、愛と善の気持ちで、良かれという気持ちでやっていく分、天国界に反応するのです。

ところが、行力を磨いていこう、磨いてやろうという方向に心がいっていると、私心までいかなくとも、ゆがんだ想念がどうしてもあるので、死ぬとそういう世界へ行ってしまうわけです。

たとえ行力の形はできていても、世のため人のために良かれと思っているかどうかのほうが大事なのです。

「どこまでも信じて」「さらに信じて」というようにやっているだろうか。どういう心を時々刻々に持ち続け、どういう方向に向いているだろうか。そういうことによって、死後の世界の決定がなされるわけです。

でも私は、無心で一生懸命に、行に励んでいた。それなのに、こんな気持ち無心でやるに、ひどい目に遭うのか。無心で一生懸命やってきたのに。無心でやっていたのに……。

それはですね、じつは、この無心でやるというのは、なかなか怖いことなのですよ。

例えば瞑想するとか、坐禅をするとか、無心でお経をあげるとか、そういうのがありますね。これ、じつは怖いことなのです。

無心というのは、無の心で、何もないから、良いものも来るけど、悪いものも来る。無というものは善も入れるけど、悪も入れるのです。

どちらかと言うと、善なるものよりもマイナス的なもののほうが波長が粗いんですよね。善なる粗い神様もいるけれど、一般的には悪やマイナスのもののほうが波長が粗い。

無の状態にいると、周囲にいろんな邪気や、マイナス的な存在が多いから、そういうものがスポッと入ってきてしまうのです。

だから、無の心、無心でいるということは、一見、良いようですけれど、じつは怖いです。無心でやればいいという言葉は、執着心とか執念とか、そういうものがないから、本来的にあるものが自ずから出てくるということで、いい解釈でよく使いますけどね。

でも霊能力ということに関して言えば、無心っていうのは非常に怖い。瞑想もそういう意味で怖いものです。

善なる真心と愛念というものが、きちんと前面に立って、真心と愛念以外には何も思わない。無理にこうやろうなんていう気負いもない。

そういう時には、愛が中心になった上での無の状態になりますから、こういう時はその愛と真心の波動で、神様や仏様がいらっしゃって、無心状態であると同時に神霊と交流できます。

しかし、愛と真心が前に立たないで、ただただ無心でやっているということは、そこにマイナス的なものも来て、マイナスの霊と一緒に一生懸命やっていることになってしまいます。

気がついたら全然違った霊界に行っていた―――ということになるわけです。別に自分は、俺は俺はという気持ちはなかったし、なるべく人々のためにという気持ちもあって、そんなに悪い心でやっていたわけじゃないんですよ。

それでも、何故かこんなに苦しんでいる。そこがまだよく分からない。やはりよく分からない。

それについては、「善なる気持ちだ」と自分では思っても、結局、「刻々の想念というものがあるということが分かっていない、ということです。

頭の中では分かっているわけだ。頭の中では、「ああ、これが良くて、あれは悪くて」と、そう分かっているのだけれど、刻々の出す想念こそが、じつは方向付けをしているのです。

ですから、天界のほうとか、霊界の上のほうに行きますと、ちょっとした想念がプラスだったら、パッとプラスに感応するし、マイナスのほうにいると、それもパッとマイナスに感応します。

イエス様は、姦淫しちゃいけない、猥褻なことをしちゃいけないと教えてくれた。それで、「はい、分かりました」と言うけれど、本当は、猥褻なことを思うだけでも良くないわけですね。

「ああ、私は罪人だ、罪人だ」「一体、どうしたんですか?」「じつは、変なことを想像しちゃってね」(笑い)。

これ、大袈裟で、行き過ぎの傾向もありますけれど、バイブルにはそう書いてあるし、ある意味、真実を突いています。

たしかに神様の世界へ行くと、ちょっとした想念でも感応するのです。

だから、頭じゃ分かっているし、お腹でも分かっているのだけれど、刻々に出ている想念ということが問題なのであって、常に愛と真心を出し続けなきゃいけないのです。

情熱ということについても、刻々に情熱の思いを、「こうしたい!」という念を出し続ければピタッと密なのだけれど、往々にして、そこに間があいちゃうわけですよね。

刻々の念に間があいてしまう。そうすると魔が入るわけです。頭やお腹の奥では分かっているけれど「刻々の想念がどうだったのか」なのです。

夢中で滝に打たれたり、夢中でお経を読んだり、夢中で行をしていたということは、「愛念」よりも「お経をあげる、呪文を唱える」ことのほうに心が行ってしまっているわけだから、これは、「刻々の愛念」ではなくなるわけですね。

それが、一生懸命に行を積んできたのに、霊界で苦悩の立場になってしまった原因になっているわけです。

刻々に徳を積み続ける

どうですか、皆さん。楽になってきた?楽になってきたでしょう?

私は、お金に対して執着心があったわけでもなく、人間不信には少しなったけど、うーん、そんなに悪い念でいたわけでもないし、金銭感覚も悪くなかったと思うんだけど…

何故、霊界でこんなに冴えないの?

それは要するに、善徳の積み重ねが足りない。まだまだ善の徳の積み重ねが足りないわけですよ。

善徳を積み重ねていたら、霊界に行った時には、おのずから神様がフワッと迎えに来て、いい所に連れて行ってくださるはずです。

「西遊記」の玄奘三蔵、つまり三蔵法師さんですが、あの人もインドまで行くということを求め続けて、そしてお経を中国に持って帰ったわけですけれども、「果たして私が死ねば兜率天へ生まれ変われるでしょうか」と言っています。

弥勒菩薩さんのいる兜率天に生まれ変われるでしょうか、と。

当時は兜率天信仰が盛んでしたから、「弥勒菩薩さんの所に生まれ変われるかなぁ」というのが、当時の中国の人たちの、あるいは仏教関係の人たちの関心事だったわけです。

「行けるだろうか?」「うーん、大丈夫ですよ、大丈夫ですよ」って言っても、しかし、どんな艱難辛苦の修行を経ても、善徳が積めていなかったら、いい所には行けないわけです。

こういう話があります。

ある時、仙人がいましてね。この仙人、神通力を磨いて、磨き続けて、非常によく磨いたわけ。それで、もう自由に天界にも霊界にも行き来ができるようになったのです。

何だって分かるし、宇宙空間にも自由に行けるようになりました。

それで「では、神様の世界へ行ってみよう」と思った。「自分はどれだけのランクとして磨けたか、確認するため行ってみよう」と。

そういうわけで、肉体を置いたまま、フワァーンと天界へ行ったのです。

そうしたら、どこを見ても自分の名前が無い。「無い、無いっ!」と焦りました。「無い無い無い、何にも無い」という歌がありましたけど、自分の名前が無い。

それで神様に、「あの、私、これだけ修業して、そんな邪悪な気も起こさず修業して、無心で一生懸命やったつもりなんですけど、なぜ名前が無いんでしょうか」と聞いた。

すると神様は「ああ、あなたですか。名前、無いですね。それはあなた、徳を積んでないからですよ」

人間というものは、生まれてきたら、どれだけ人々に対して善徳を積んで、たくさん徳を積んだかなのです。

この功がなければ、いくら霊的に磨いて、霊肉脱離して、自由自在にどこへでも行けるようになったとしても、神様の位には入れないのです。

徳を積んでいない。だから駄目なのですよ。

そこでその仙人は「そうか」と理解した。「ただただ断食して、仙人の食べ物という指定ランチ以外は食べず(笑い)、あんなに修業したのに、やはり「駄目だったか」と、その仙人は反省しまして、「分かりました。徳を積んできますと言って、天界から帰ってきたそうです。

そして地上近くに戻ってきて、元の肉体に戻ろうと思ったら、お弟子さんたちが「お師匠さん、なかなか帰ってこないなぁ。どうしたのかな。もう死んじゃったんじゃない?

二日間も仮死状態だし、死んじゃったんだよね」と言い合って、もう墓に埋めようということで、肉体を埋葬しちゃった。

帰ってきた仙人は「あれ?なんだ?この葬式は」(一同笑い)と。

「私が行っている間に、お煎餅なんか食べやがって。あれほど、死んだわけじゃないから、見ていろよ、待っていろよって言ったのに、もうお墓の中に入っちゃって!」。

墓の中ですから肉体は窒息状態で、肉体は死んじゃったわけですよ。

その仙人は「あぁ、馬鹿な弟子を持った俺が馬鹿だった」と愕然とし、それで「仕方ない。もうほんとに一生の失敗をした」と思った。

そのとき、たまたま側を見たら、目が見えない、足も悪い乞食みたいな人がいたわけです。

もう今や死ぬ、今やもう肉体がなくなって死んでいくという状態の乞食がいた。

仙人は「しかたない。彼は片方の目も見えなさそうだし、足も不自由そうだが、もう、しかたない」と言って、仙人の霊はフワッと降りて、その瞬間、パッと乞食の肉体に入ったわけです。

「あっ、蘇ってきた。あれ?でも、やはり目が見えないな、これは(一同笑い)。なんだ、ワシは、足も不自由なままか」。

でも「しかたないわ」と仙人は納得して、それからは片方の目と、足が不自由のまま、人々の病気を治したり、苦しんでいる人たちを助けたりしながら暮らしました。

なにしろこの仙人は、修業をみっちり積んで、それだけの神通力や、もの凄い超能力は持っていましたから、それを活かして沢山の人を、肉体が許す限り助けたりして、善徳を積んだわけです。

そうして、やがて、その肉体がもう使えなくなっちゃった頃、死んで霊界へ昇っていったら、ちゃんと神様の位に自分の名前があって、そこへ帰幽することができました。

こういう仙人物語があるわけです。

そういうふうに功と徳を積まなかったら、いくら仙人とはいえ、本当の神仙界、神様の位には入れないのです。分かりました。分かりました。だけどどうやって徳を積んだらいいのかなぁ。

それは、「徳を積む」なんて言ったら、これは難しく考えたら難しいのであって、ですから発するところの想念が、「相手が良かれ、みんなが良かれ」と、利他の精神であればいいのです。

もちろん、刻々の想念です。頭で「世のために」なんて思っていても、刻々でなければ駄目で、つい「嫌だな、あいつは」なんて思ったらいけません。

刻々に発する想念が「相手が良かれ」という真心から発して、そうしてやったことは、これは善徳になっているわけです。例えばそれが生きているうちに、この世で返ってこなくても、それはちゃんと善徳になっているのです。

例えばの話、この場所で、神様事による講演会があるので、「さあ、準備しよう」と思うわけです。

「講演会をしなきゃ」と思ってしたら、これは講演会の準備をちゃんとしていることになるわけですね。

「この講演会で神様が気持ちよくお出ましになって、参加する皆さんも得るものがあるように、少しでもいい講義ができるように、皆の人生のプラスになるように」と思うわけですよ。

「神様がお出ましになるのだから綺麗にしよう」と思って、お掃除をしたり、花瓶のお花の入れ替えをしていると、これは、非常に徳を積んでいることになるのです。ちゃんと御神業をしていることになるわけです。

ところが、「しなきゃならないなぁ」「ねばならないな」という義務の気持ちでする人は、これは単なる仕事をしているだけなのですね。

善徳を積んでいるとは、とても言えない。別に悪はしていませんよ。悪は積んでいないのだけれど、善徳を積んでいるとも言えないわけです。

だから何をするにしても、どんな仕事でも、「相手のために良かれ」と、刻々に発する想念が善なる気持ちでしたものは、必ずや徳分になってくる。

ですから、善なる気持ちと行為が大切だということですね。そういう気持ちから発してやったことは全部、善徳になっていきます。

そして「自分は善徳を積みたい、少しでも善徳を積みたい」と思っていると守護霊さんや神様の導きがあって、まぁ、超能力が出るのか、あるいは仕事能力が出るのか、あるいはリーダーシップが発揮されるのか分かりませんけれど、とにかく、その人を向上させる能力も自ずと出てくるわけですよ。

お仕事の能力もそうだろうし、知識もそうだろうし、霊的にもそうです。

そういうふうなかたちで神様から能力が与えられる。職業能力がつき、情報も与えてくださる。そして、その分だけ今度は、更に、より大きく、より一層、善徳を積めるようになるのです。

能力が20になり、100にもなり、200にもなったら、今度は200の能力がある分だけ、さらに世の中を良くすることができるわけです。

全然、能力もないのに善徳を積もうと思っても、それだけの絶対量しか積めません。最初は社会的影響力などもありませんしね。

では、出発地点ではどうしたらいいかというと、ただただ今あるがままで、刻々に善なる想念を発して、真心でやっていく。

そうしたら徐々に、徐々に、神様が与えて下さって、そういう大きな場も、徐々に与えて下さるようになります。

あるいは皆さん、そうしたことは、もう心の奥では、分かっているわけですよね。

分かっているにも関わらず、刻々の想念が「しなきゃならない」「ねばならない」になってしまう。善なる想念が中断してしまう。

社長やサラリーマンですと「売上を上げねば」と焦りが出たり、行動を起こすその源に「よし、これで名声を挙げなきゃ」なんて気持ちが湧き上がったりする。

功名心に駆られているわけです。

「頑張ってやるんだ」と言いつつ、すでに功名心に駆られ、善なる心も、もちろん無くは無いけれど、つい「よし、お金儲けだ」とか、前面に出てくる刻々の想念が、真心と愛ではなくなっている。

力を得たいとか、名を上げたいとか、有名になりたいとか、お金を儲けたいとか、仕事上手になりたいとか…、そういう思いが先に立ったら、どうしても行動は「単なる仕事ということになっちゃいますよね。

神界、霊界ではそう捉えられてしまいます。ですから基本は、「刻々の想念」です。

そして、そこのところを真心と愛のものにするところからスタートして始めていくと、徐々に、徐々に、おのずと霊力も出てきます。そういう力こそが本物の神力、霊力であって、「教誠神通力」とお釈迦様が言っておられるのは、これだと思います。

どんな仕事でも、どんな場所でもいいわけで、自分の持分で、その姿勢で始めていくと、根本的に変わってくる。やがてすべてが変わり始めるわけです。

間違いは謙虚に認め、しかし活発に、積極的に

分かったような気もするけど、いまいち冴えない。分かったような気持ちだけど、いまいち冴えないわー。

冴えないというが、ともかく自分自身が、「ああ、ここが間違っていた。ああ、あそこが間違っていた」と気づいたところを、その過ちに気づくたびに、修正していけばいい。そう考えればいいんですよ。

「過ちてこれを改むるに憚るなかれ」と「論語」にもあるように、「申し訳ございませんでした、神様。そこが間違ごうておりました、仏様。すみませんでしたと素直にお詫びして謝れば、神様は「ああ、許す」と言って許してくださいます。

人間ですから、絶対に百パーセント、常に成功するとは限りません。「間違ったな」と、間違いに気づいたときに「申し訳なかった」と、心の底から神様にお詫びする。

そして神様がお許しになれば、例えば何か間違いがあったら、そこから挽回する方向を教えてくださる。失敗して「間違っていたな」となったら、神様は挽回する方法を教えてくれるものです。

そして本来あるべき道へパッと戻してくださいます。

でも、少し経つとまた間違っているかもしれない。さらにまた間違っているかもしれない。けれど、「これが良い方向でありそうだから取りあえずやってみよう」と頑張ってみる。

そして間違ったら、「ああ、ここが間違った。すみません」と、神様にお詫びして、ふたたび間違ったところを是正していったらいいわけです。

「やるぞ!」と思ってやって、間違ったら「ああ、すみません」。そうやって徐々に、徐々に人間は進歩していくのであって、絶対に間違いがないなんてことは、まずありえません。

そういう素直な態度というものが謙虚な気持ちの現れなんです。「謙虚が大事だ。謙虚でなければいけない」ということで、前向きでなかったら、これも駄目です。

以前の講義でも言いましたが、非常に謙虚で穏やかで、あまり自分の意見も活発に言わないという人よりも、少々は我とか慢心が出ても、積極的に活発にやっていく人のほうがいい。

もし失敗したら、今度は失敗した以上に「成功するんだ」と信じる。そのほうが、改心したときや、いざというときには、少なくともやった分だけ絶対量が身になっているはずです。

謙虚で何にもやらないっていう人は、時間のロスを重ねています。ですから前向きなほうがベターです。「分かるけど、いまいち冴えない」というのは、神様に「ああ、ここが間違っていた」と、謙虚に素直にお詫びしないからです。

お詫びすれば、神様も「許す」と言ってくださって、パーッと自ずから暖かくなっていきます。

自然に神様のお迎えが来て、シューッと除霊されていきます。あら、ほんとに気持ちよくなってきたわ。ほんとに気持ちよくなってきた。

ほんとに、ほんとに、ほんとに気持ちよくなってきた。あら?あら?気持ちよくなってきた。

すごく気持ちよくなってきたわ。はーっ、お詫びしよう。お詫びしよう。楽になったでしょう?楽になった?(ふーっと、息をつき)

オートマチック除霊でしたねぇ(一同笑い)。

以上は、新しい、自問自答形式のオートマチック除霊です。

【女性】よく分かりますね。

【深見先生】ん?

【女性】よく分かりますね。

【深見先生】うん。え?

【男性】これが本当の問答ですね。

【深見先生】楽になってきたでしょう?え?つかえているものが取れましたね。

【男性】こういう行者というのは、今の問答ぐらいまで言わないと分からない…。

【深見先生】分からない、分からない。それだけ咀嚼レベルが低いのです。だから、当然、ごく普通にやっていたら、こうなるでしょう。

【男性】友達の中にいるのですよ。本気でやっているように、滝に打たれたりしている奴がいるのです。

【深見先生】ああ、そう?

【男性】まあ、友達じゃないけどね。

【深見先生】そうなりますよね。

【男性】では、普通の除霊では駄目なわけですね、行者の場合は。

【深見先生】いや、今言ったようなことを言って聞かせてあげればいいわけですよ。

人間は、「ああだこうだ」ということを、なかなか自覚できないでしょう?言われなかったら自覚できない。だから今話したようなことを咀嚼していなかったら、今日のような複雑になってしまった霊は、なかなか除霊できないわけです。

あ、ああ。お水がピチャピチャだ(一同笑い)。お水がピチャピチャだ一つ。うん。気持ちよくなってきた。あーあ、もっと早く分かっていたらよかったのに。ああ、いい気持ち……。

やはり因縁の巡り合わせ以外ないです。でも、今のやり方、いいですね。行者の霊が問答によって救われていくプロセスということですね。

【男性】そのまんまに、救われていきますね。

【深見先生】え?

【男性】本に出してみても、行者の人を見たら……。

【深見先生】そうそう。あっ、でも、「これで死んでからも大丈夫だ。ますます

「行に励める」となると複雑ですね(一同笑い)。

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