馬術でも最初は守破離。キリスト教の教理というものの形をしっかり守りまして、最終的には、そういうものを乗り超しましたキリスト教の精神。イエスの精神、心。
こういう愛というか、キリスト教精神をもちまして、社会事業したり、シュバイツァー博士のように、病気の人たちを救うために病院を作って、アフリカの中に行ったと。
まさに守破離の離ですね。キリスト教のキの字も感じないような人が、まさに達人なんですけど。キリスト教の臭みがある場合は、まだこの破の状況で、離にはなってませんね。
宗門宗派に入るのはいいんですけども、どうしても仏教用語とか、或いはその、お授けをするとか、天理教用語とか、ひのきしんをさせていただいてどうのこうの、真柱がどうのこうのと専門用語を使って、なんかよくわかんないってのは、やはりどうしても、守もまだうまくいかない初歩段階(笑)。
何でも仏教的な用語で、因縁でございますねと、何でも宗教。
惟神、日本は、日本の国は、日本は神国でっていうふうに、日本、神道っていう形で言い張ってる人はいまだ守の状況で、仏教なんかも取り入れてはいるけども、破の状況と。
神道か儒教か仏教か道教か全くわかんないと。宗教家か、教育家か、易者かわかんないと。ごく普通の、なんかすごくいい人と。
なんかちょっと違うけども、いい人ねと。わかんないと。ヘー、実は蕎麦うち名人だったとかね(笑)。
わかんないですよ。アムウェイ世界一の人だったなんて、全然わからないですよ、それが達人です。達した人は離れている。
神様の世界でもそうですね。宗門宗派に入りますと、そういうふうな臭みがありますので、どうしてもドグマに陥りまして、形、その教理ということで囚われるんですけど。
教えっていうものは形で、みんな目に見えない方向を指差しているんだけど、指を差すその教え、教理というものに囚われまして……。
同じ毛沢東を信奉してる人ですけど、闘争してる。
「私は毛主席の教えを信奉しておりまして、実践論にはこういうふうに書いて「いや、私たちも毛主席の言葉を信奉しておりまして、実践論にはこのように書いてあります」と。
断章取義。自分たちで勝手にチャプターを取りまして、毛主席が毛主席がと言いながらやっている。プロテスタントとカソリックが、同じくイエスを信じているんですけど、爆弾を投げ合って殺し合ってると。
これはまさに守。あまりにも形を、守でとどまっているために、偏屈頑固でこれができない。
海老名弾正さんは、そういう道ということを勉強なさったから、同じキリスト教信徒でありながら、ヨーロッパ的な頑固なキリスト教・・・、トマス・アキナスというか、ローマのああいう西洋哲学で、がんじがらめで哲学的なキリスト教という形じゃない咀嚼力というものを、この海老名弾正さんの内面性に私は感じるわけですね。
達人の域というものを。同じキリスト教でも仏教でも何でもいいんだと。そういう境地に立てば、同じき世界、達人の世界、離の境地へ行くのではないか。
ですからそういう、世界というものがね、まさしくどんな道でもやった人は、これが前に言いましたような大道。(板書の音)前に大道成就という話は、お話し致しましたね。堅誠恒。
まずこうなるためには「堅」、堅忍不抜。こうと思ったらどこまでも信じて貫きとおす。私はピアニストになっていくんだと。死ぬまでピアノ一筋で、やあデートもしたいし、プールも行きたいし、テニスも行きたいし、けれどもやっぱり私はピアノでいくんだ、どこまでもいくんだ。
ボーイフレンドとか、それもいいけども、やっぱり私は恋に生きるよりは音楽に生きるわー、なんて形で、音大で。辻久子とかね、ウィンブルドンで優勝しました沢松和子とか、ああいう女性を見ますと非常に感動するんですけど、堅忍不抜の、この堅。
学ぶにおきましては「誠」であると。誠。ほんとに謙虚に、自分の実力というものを謙虚に省みまして、一生懸命努力していく。お師匠さんに勉強を教えてもらう時には謙虚に学ぶ。自分の実力を、我と慢心出さないで、謙虚に自らを見ていく。誠心誠意勉強していく。これでいいんだと。
「学びて思わざれば則ちし、思いて学ばざれば則ち始し」ということが『論語』にございますけど、非常に勉強してても、自分で学ばなきゃ、物事が明らかにならない。知識があるだけだと。
一生懸命自分なりに勉強して求めているんだけど、学んでない、勉強してないから独善に陥りやすい。則ち殆し。独善に陥りやすい。
広く知識を吸収し深く学ぶことによって、学問というのは正しくできるんだよというのが論語の教えでございますけれども、同じように、「誠」。
道を学ぶ時には、茶道でも、華道でも、キリスト教でも、そういう学び方、誠を持って勉強する。誠心誠意、神にも祈り努力する。これが誠ですね。
それから最後に言いました「恒」。恒と申しますのは、恒久平和の恒ですが、これ立心偏ていうのは、漢字で言いますと心ですね。この心というのが立心偏。
この右の方にありますのは(亘)、地面の上に、ああ地面から、日はまた昇る、東京砂漠(笑)という形で、毎日毎日……………。
隣の赤ちゃんが泣かない時はありましても、お天道さんは忘れずに、まあ月によりまして、日照時間が長かったり短かったりはしますけど、必ず忘れないで太陽は出てきて、また沈んでいくと。
そういう心ですよと。毎日毎日変わることなく続けていく。これが恒の精神ですね。
この恒にも二種類あると。英語で言いますと、サクセッスィブリーとコンスタントリーと。
「朝から雨がずっと降り続いています」という場合は、ずーっと降っているのも「降り続いています」と言いますけども、降ったり止んだり降ったり止んだりしながら雨が降り続いています、こういう場合も「雨が降り続いています」って言いますね。
恒にはそういう意味で、間なく断なく続けていくこと。(板書の音)お茶もそうです、ピアノもそうです。ずーっと一日十時間、筒美京平さんのように(笑)、お茶を十年間、一日十時間レッスンしてますという人がいますね。
茶道の家元さんの息子に負けまいと。それもいいです、最高です。しかし、そうでなくても、例えば、一時仕事が忙しくてできなくて、いや、また私は茶道に生きるから茶道をやろうと。
私はピアノに生きようと思ったから、しばらく恋に、結婚してピアノも止めようかと思ったけど、やっぱり私にはピアノしかない。
もしもピアノが弾けたならなんていうよりも、どんなことがあっても私はピアノを弾くよと。
三枝さんでしたら絵の道。絵の道に行くんだと思ったら、もうずーっと絵。いや、絵よりももっと仏様の方がいいとか、他の方へ気持ちが動きましても、いや、やっぱり僕は絵だと。
間隔がありましてもまた、降ったり止んだり降ったり止んだりしながら続けていく。これも恒ですね。
後者の場合が一般的に当てはまりますけど、二つの場合がありますが、恒。
これを間なく断なく続けていく。これが、堅誠恒という三つの徳がなければ、道というものは成就しませんよ、ということを言いました。
形の上におきまして、これは日本一になると。名前が残るとか、技術的に日本一だ世界一だという意味だけじゃございません。
前にお話しましたように、この守破離という、内容の面におきまして、茶道でも、宗教でも、弓でも、守破離という面におきまして、この離の境地にまでいくまでに、この堅誠恒ということをしっかり学んでいかなければ、大道成就ということはできないわけですね。
そのようにひとつの宗門宗派に入りまして、あの宗教がいい悪いっていう形じゃなくって、創価学会とか、立正佼成会とか、天理教とか、どこの宗門宗派でもいいんです。
入りまして、本当にそれを極めた人というのは、天理教臭くない。天理教のエッセンスを勉強しますけど、別に天理教の話しなくても素晴らしい人には変わりないんです。
佼成会にいましても、守破離をやってる人は、最高レベルに達してる人は、別に佼成会ってことではなくって、本当にすばらしい人だと。どこへ行きましても柔軟に、それをこなすことができる。
真髄を見てる。一芸は万芸に通ずというふうになってる人は、別にその宗門宗派をやめなくっても、もう離れてますから、そこで道を成就しているわけですね。であればいいわけです。
まあただ、教団霊ということがありますけどね。教団霊ということさえなければ、キリスト教であっても儒教であっても関係ないわけです。
こういう境地になるかならないかですから。こういうふうになるべく勉強しまして、堅誠恒で道を成就しますと、どこの宗門宗派にいましても、最高のトップに立つと。
形では別に、教祖、教主の人は、こうでない場合が多いですね。本当のその中で一番すばらしい人。そういう御魂、これがわかる人が…。
前世に修業した人は、どこの道に行きましてもこれがわかるわけです。「まだ本当じゃない「んじゃないか」と。「形に出てるけど、もっと広い面があるんじゃないか。
そんなに固執しなくても、もっと普遍的なものがあるんじゃないか」と。そういう心がどうしてもお腹の奥から湧いてくる人っていうのは、前世そういう、道を成就したとか、どっか達人の域まで一度達した人というのは、そういうふうな魂の中に残ってるわけですね。
ですからここは、そういう意味で、道を勉強していく。宗門宗派をあらゆる角度から見ていって、別に宗教のエッセンスは知っているけども、華道でも柔道でも剣道でも何でもいいんだと。
音楽だったら音楽、アムウェイだったらアムウェイ。そういう境地になるまでやっていく、その世界は御魂の世界、境地の世界ですから。何宗にいましてもいいんじゃないかと。
ないならないでいいんじゃないかと。まあその、カセ外しの場合ね、教団霊のことさえなければ、基本的にはそうなんですね。
ぴったり終わりましたね。
これで、私のお話、終わりたいと思います。(拍手)
