祓戸の神様とは
まあ要するに、皇御祖神と。伊邪那岐、伊邪那美。神魯伎、神魯美の幽界の神界の奥深いところからの命令で、伊邪那岐命さんが神生み国生みをしなさいと。
最終的に、禊祓いをするといった状況にきました伊邪那岐大神様、こういう意味ですね。
ところが、皇御祖神というのはそういう意味なんですけれども、「筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に」ということを、簡単に『古事記』の物語的な解釈だけじゃなくって、これをもう少し深く、言霊で解釈してみたいと。
といいますと、『古事記』のそういう意味だけじゃなくて、「筑紫の日向」ということは一生懸命尽くして、一生懸命努力して、「日向」っていうことは、天照大御神様、太陽へ向かって、あるいは霊的な物事に向かって、魂とか死とか、神様の高貴なものへ向かう。日向。
一生懸命尽くして、努力していって、 日向ということは、決して地名だけじゃなくって、太陽へ向かいながら、橘のと。
「日向の橘の」ということは、地名とかお花の意味ではなくて、例えば言霊では、「橘の」という形で枕詞出ますと、「ほのかにかおる宮柱」とかね、神様のいらっしゃるようなお宮とか、御社の場合に、「橘の」という形で枕詞を使うんですよ。「橘の香ぞにおいける神々の」とかね。
ですから、左近の桜に右近の橘。皇室にね、橘と桜というのがお祀りされてますけど。
橘というのは、単にね。まああの、お花が立つということなんですけど、花がぱっと立つということで神気が立つとか、神々様がいらっしゃるという意味らしいんですけど。
そういう一生懸命尽くしていって、日向、霊的なものとか、天照大御神様に向かっていって、自分自身の気持ちがわあっと立って。そして花咲いていく、そういうふうな「小戸の阿波岐原」。
「小戸の阿波岐原」というときに、小戸の阿波岐原というと地名もありますけども、これは「おど」の阿波岐原というよりも「おと」の阿波岐原。
いろいろな解釈があるんですけど「小戸の阿波岐原」というのは、結局、言霊によりまして、音によりまして、ミュージックというよりは言霊によりまして、いろいろと泡のようにうわーっと出てくるものを禊祓っていくと。
言霊によって、おどの阿波岐原によって禊祓うと。神々様の神音というか。まあこれ、真言密教で言えば真言ですね。神々様のお姿とか、働きとか、言葉にあらわすこともできない心の奥のそういう真言、そういうときに禊祓いをしますと。
阿波岐原。まあ「阿波岐原」もいろんな解釈があるんですけど、まあ「御禊祓へ給ひし時に」、そういうときに出てきた祓戸の大神様。
一生懸命努力して真心を持って神様に向かいながら行くときに、心が立って、お宮さんのところはふわーっと立つ橘の、そういうところが「小戸の阿波岐原」、言霊によりまして清められていくときに出ていらっしゃる祓戸の大神様。
「祓戸の大神様」といいますと、四柱いらっしゃるんですけど、『古事記』によりますと七柱。正確に言えば七柱あるんですけれども、四柱。
これ、聞いてますと、ふわーんとなると思うんですけどね。冴える人もいたり、ぼーっとする人もいたりして、なぜぼーっとするか、なぜ冴えるかというと、祓われるものが疼いてたりなんかして。いいんですけど。
え、「祓戸の大神様」。井草八幡さんに行きますと、祓戸の神なんて言いますね。「祓戸四柱の大神」というね。これが瀬織津姫神とか、速佐須良姫。このサスラをとりまして、Kさんなんかが『サスラ』っていう機関紙を出してるんですね。
(板書「瀬織津姫、速開都姫、息吹戸主、速佐須良姫」)
つまり、これが祓戸四柱の神様で、これがあの、自然界のきれいなものが来たり、サイクルを代表しているんですよ。
ほんとうはあと、ここに三柱がありまして、『古事記』を見ましたら、あと三柱の神様がいらっしゃって、七柱を祓戸の神と言う場合もあるんですけど、代表的なのはこの四柱ですね。
これを説明しますと、例えば瀬織津姫というのはどうなのかっていいますと、千葉からずうっと、利根川の上のほうにいらっしゃる神様なんですけど、例えば雨がずーっと降りますね、雨とかそういうふうなものがね。
そうすると、瀬織津姫というのは「せおりつ」ですよ。お山に降った水がですね、ずうっと小川のせせらぎのほうへ集められていくわけですよ。ね、雨は。
お山の上に降ったやつが徐々に徐々に集められまして、川のほうへ、小川のほうへ流れていきまして、それがやがて、上のほうへ出した川が大きな利根川とかね、最上川とかっていう形で、中へ入っていくでしょ。
そういうふうに、お山であったものがずうっと洗い流されて、瀬織津姫、洗い流されてきまして、山のせせらぎの中なんかにこう、集まっていくと。
ですからこれは、肉体で言いますと、例えばその、体の中にあるような汚い不浄物とか、例えば乳酸ですね。血液が疲労しますと乳酸が出てきます。それが血管の中へ入っていくという働きが瀬織津姫の働きなんですね。
瀬織津姫というのはそういう形で、天地自然でいいますと、雨が降ったやつが、その小川のせせらぎに入っていく働き。
自然界の人間でいいますと、汚物が徐々に体の中へこう排泄していくという働きなんですよ。
血管の中へ入れていく、あるいはリンパとか。汚物なんかも例えば、尿に排泄していくような働きとして、食べ物とか要らないものが腎臓のほうへ流れていくと。こういうふうな体の働きを瀬織津姫の働きというわけです。
それから、速開都姫と。速開都姫ですから、ぱあーっとスピーディーにね、
最上川とかそういうような形でどんどんどんどん吸収していって流していく働きが結合しまして、どおーっと。まあ下水管処理ですね。例えば、上下水道のような形で、汚いものが流れていく。
水道の蛇口から下水管へおりていくのが瀬織津姫といいますと、大きな土管へ入っていって、ぶわーっと海のほうへ流れていくと。
あるいはその、大きな最上川とか利根川のような、大きな流れとなって、ずうっと出ていくというのが速開都姫。体でいいましたら、どんどんどんどん腎臓とか膀胱のほうへばあーっとこう入っていく。
ボーコーッと入っていく(笑)。こういうふうなのが速開都姫。
息吹戸主神といいますのは、人間の汚らしいものが台風とか風でびゅーっと清められます。汚らしいものが集まりますと、台風が来ますとスカッとするでしょ。
ほこりとか塵とか、そういうようなものが全部ぶわーっと流されますね。風によってこれが吹き払われると。息吹戸主神によって、ですから風がぴゅーぴゅー吹いている。
まあ、肉体でいいますとげっぷとか、ガスとかがゲプッと出たり、プッと出たり。これがいろいろな変化を出していく人もいますけど、息吹戸主。風とか気体とか、そういうふうな形でガスにしていくという働きが、息吹戸主の働きなんですね。森羅万象、気体。
そして、速佐須良姫神といいますのは、お山でせせらぎのほうにきましたのが川の中に入りまして、最上川のようにうわーっときました。風が吹いてぴゅんぴゅんぴゅんぴゅん吹きまして、川の汚らしいゴミとか下水のほうが海へ流れていく。
海へ流れていったものが、速佐須良姫という形で、もうね。汚物もわかんなくなっちゃって、海の大海の藻屑となって消えていきましたと。消えていったというのが、速佐須良姫。
さすらって消えていくと。風でぶわーっと吹かれていって、どこへ行ったのか、どこにももう消えてなくなっちゃったと。これが速佐須良姫なんですよ。
ですから、宇宙の中でも、この生成化育の働き、浄化作用の働きはありますし、天地自然、山で降った雨も、せせらぎから川へ流れてずっと海へ行き、消えていきました。
上水道、下水道から流れていきました。人間の体内、あらゆるところの浄化作用の働きというものを総称しまして、瀬織津姫、速開都姫、息吹戸主、速佐須良姫という四つの働き。これが祓戸の神様なんですね。
ですから、霊的にも四柱の神様いらっしゃいます。これが女神様です、三つ。息吹戸主神様が男神様ですけど。
そういうふうな形でこの、祓戸の神様というのはいらっしゃいます、確かに。五次元神界の中で、祓戸の神様、いらっしゃるんです。
この息吹戸主神様っていうのは、霊界の中では、いろんな来たときに、おまえはこの地獄へ入っていくという門番しています。
ほんとうは正しい神様なんですけど、悪いやつをぶわーっと払い退けて、おまえなんか出ていけなんて言って、息吹戸主神様って、息吹祓い。言霊の息吹で、うわーっ、出ていけ$301Cなんていうような、これ息吹戸主ですね。
もう迫力でやっちゃうというのは。そういう働きを、自然界でもそうですし、神霊界にも厳然といらっしゃいます。
お姿持って。だから、息吹戸主の言霊でうわーっという形で、祓戸の神様によって祓われるんですね。お話が長くなりましたけども、そういうふうに「御禊祓へ給ひし時に」。
まあ禊といいますのは、身をそそぐということで、水できれいにするという意味もありますし、「身を削ぐ」と。
あっちこっちついちゃっているやつをこう、サンド・ペーパーでとっちゃうと。身削ぐと。お金も全部なくなっちゃって、身を削がれて、ああ、いい禊だったなと。身を削いでいくということで身削ぎということもあります。
ですから「筑紫の日向の」、一生懸命努力して神に向かいながら、「橘の小戸の阿波岐原」、言霊によりまして、阿波岐原に出てきたものを禊祓い、身を削いでいくときにいらっしゃいました、まあ『古事記』でもそういう物語で出てきた「祓戸の大神等」。
ですから、祓戸の大神等と出ているでしょ、祝詞では。「祓戸の大神」じゃなくて、「祓戸の大神等」とは何かと言ったら、この四柱の神様ですね。
あるいは、合わせて七柱の。あとはあの、速佐須良姫の中で、海の上のほうで消えちゃった、中のほうで消えちゃった、神界の奥でもう消えちゃったなんていうレベルが書かれているんですけど。これが、「祓戸の大神等」なんです。
「罪けがれ」は祓えばよい
で、「諸諸の禍事罪穢」を「拂ひ賜へ清め賜へ」と。ここで問題になるのは禍事ですね。曲がったこと、神様の目から見てよくないこと。
天地自然の法則に合わないことの罪穢れ。前にも申しましたように、罪とはどういうものかと。キリスト教的な贖罪の罪じゃなくって、神道でいいます罪というものは、神様の御心に合わないこととか、「天網恢々疎にして漏らさず」の罪、一過、二過、三過の過ちの話をしましたけど、そういうものが積み重なったものが罪なんだと。
色町なんかに行きますと、しゅーっとね、動物霊とか、おコンちゃんにやられまして、気がこう枯れちゃうと。
精気をとられて、もう気が枯れて。だから、そばへ行くと、こしょこしょこしょこしょいとか、気持ち悪いとか、気れたななんて。気が枯れちゃうんですよね。ぴちぴちとした御魂の部分が枯れちゃってしまうと。霊的ないいエネルギーをとられちゃう。気枯れてしまう、これが穢れですね。
だから、これを祓い給えと。罪は、神様に合わないことを積んできたもの。
(キリスト教の罪のような)「贖罪主造物主と被造物」という中で、人は罪人だというんじゃなくって。お洗濯の……、ああそうですね、前にお話ししましたように、積み重ねていることがあったり、穢れているものがあったら、多目的洗剤で、これをきれいにお洗濯すればいいじゃないかと。
植松先生がさっき言いましたように、ちょっとした汚れだったら弱い洗剤でやるんですけど、やはりかなり強くなってきますと、濃度の濃く、薄め方も濃度を濃くしないとなかなかとれない。
もう汚くなっちゃいましたら、何度お洗濯してもやっぱりしみが残ってしまうと。だから、早いうちに禊祓いをしていくと、常に清らかだと。
人間やはり生きているうちにおいては、そういうようなものをね、必ず塵のないところはありませんから、お掃除、お洗濯と同じです。
ですから、神道では、清潔主義ということをとりまして。 T道ではあんまり清潔主義ということを言われておりません、中国的で。汚らしいところではありましても、ごみごみしているところでありましても、ごみごみしているところにはやはり邪気が来まして。
だから清潔にするということが大事なんですね。きれいにすると、邪気邪霊が居場所がないわけで。それでもう、神様がいらっしゃるんですね。
人間も、清潔にしておりますと、神様がいらっしゃいますけど、いくらいいことを思っていて、いくらきれいにしてましても、清潔な心、清潔なお部屋とかにしていなかったら、邪気がついちゃって、祓っても祓っても、自分のところに汚らしいものを持つから、ボウフラが来たり、ゴキブリが来たりするんですよね。邪気邪霊というのはそういうものなんですよ。
だから、罪穢れは、清潔主義というのが神道にはあるわけです。清らかな、清浄な気というものが神道で。高級神霊界がそうですね。ですから、この清潔主義にすると、邪気がいない。
まあそういうことで、祓戸の四柱の神々様、「諸諸の禍事」、神様から見て曲がったこと、よくないことによって起きてきたことをした罪と、積み重なったもの、穢れましたものを、どうぞ祓い給え、清め給えと。
お祓いくださいまして、清らかにしてください。そういう、神霊界の実相もそうですし、祓い給え、清め給えという精神。元はきれいなんだと。
元は神の子、神の宮で、分霊分魂を持っているから、人はもう清らかなんだ、神様の御社なんだと。だから、祓い給え、清め給えと言うと、元のきれいな姿に戻してくださいというニュアンスが入っているわけですね。
そういうことの由を「天津、国津」と。天津神と申しますのは、いわゆる天孫降臨、高天原にいらっしゃる、まあ高皇産霊神様も天太玉の神様も、あそこへいらっしゃった、天孫降臨でいらっしゃった。
国津神といいますのは、いわば太古のユダヤ系の神様なんですけれども、大国主命さん、大物主神様、大国主命さんの一派ですね。
人間界でいいますと、お金もうけが上手だとか、あるいは一生懸命体に汗して働くのが好きだと。天津系というのは、それよりもっと内面的なものとか、精神的なものが好きだなんていう人は、天津系の場合が多いわけですよ。
あまり経済能力はないという人が多いですね、一般的に。まあ天津神、国津神という系統があるわけです。ですから、天津神、国津神といいますと、神々様全部ですね。
天津神も、国津神も、天界系の御魂も地上に動いていく、働こうという大国系の神々様。そういうふうな天津神、国津神であるところの、及びそういう系統の神様の八百万の神たち、全部の神様ですよ。
そういう全部の神様とともに、ここが大事なんです。「聞食せと恐み恐み申す」と。
聞いてくださいませというふうに「聞食せ」というのは、思うんですけど、言霊でいいますと、「きこしめす」というのは、これ、「利く」。
右利き左利き。きこしめせということは、ファンクション・ウェル、よくファンクションしてくださいよと。よくファンクションしてくださいませと、「利こしめせ」と。左利き右利きと同じですね。よく利かすと。
スナップを利かすなんて言いますね。
だから、天津神、国津神であるところの天界系も地上系の神様も、その全部の神様がお聞き及びくださいまして、働いてくださいませ、動いてくださいませと。よくそのお働きを全うしてくださいませと、「聞食せと恐み恐み申す」。身をへりくだりまして、謹んでお願い申し上げますと。
これ、「ます」なんて言って、祝詞のあげ方が下手な人がいまして、「かしこみかしこみもまをす~(語尾下がる)」と言う人がいるんですよ。下げちゃだめなんですよね、本当は。
祈りですから、意を乗せなきゃいけないんで、「かしこみかしこみもまをすー」というところで、神様ーっというので、意を乗せなきゃだめなんですよ、自分の意を。「まをすー」と言うと、「と申し上げま「す」というね。
こちらのほうから言上申し上げるんですから、語尾は上げなきゃだめなんです。最後の「すー」と言うところで、自分の中心部分、素の部分へ戻りまして、神様、中心から神様の中心へ心を乗せますという気持ちで祝詞をあげなきゃ、なかなか霊的にぴたっといかないんですね。
だからこれは、非常に簡単な意味の中に、森羅万象、これを・・・、意味あります。般若心経でも、あれだけ短い中にあらゆることを全部言い尽くしています。
ですから、天津祝詞とか、禊大祓ということは
「私の中にも、自然界にも、宇宙の中にも、神霊界の尊い場所に神々様がいらっしゃいまして、神気が充実いたしまして、その充実したところから陰陽の神様があらわれました神魯伎神魯美の詔以て、それから皇御祖神伊邪那岐大神、神生み国生みをなさいました伊邪那岐大神様、我々のあらゆるものを統率した、生まれました働きの神様の男神様。
あなた様が、『古事記』でやったような、筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原で禊祓いし給うとき、そのように一生懸命努力して、神様に向かっていきました言霊の、そういう阿波岐原に、そういうふうな泡のなすようなところで、禊祓いしてくださいます、自分自身の内部の中で今言霊の働きによって、内面的なものがきれいに祓われるときに出てきます祓戸の大神様。瀬織津姫、この生成化育するきれいな清浄化する働きの神々様たち。いろいろなもろもろの間違ったこととか、思い違い、心得違い、思い違いですね。
この禍事にも、知らず知らずに犯したるもろもろの禍事罪穢れ、知って犯したるもろもろの禍事罪穢れ、知らない間に犯した禍事、自分は知っ犯した禍事、両方あるんですよね。
そういうものもわかりませんけども、とにかく全部、積み重ねたもの、穢れたものを祓ってくださいまして、清らかにしてくださいませという私の意思を、天津神も国津神も全部の神々様が皆さん総出でお聞き及びいただきまして、よく働いてくださいませと、身をへりくだりまして謙虚に申し上げます、お願いいたします」という意味が祝詞になるんです。
ですから、これによりまして祝詞をあげますと、神様がすっといらっしゃるんですよ。これを祝詞あげますと、自分の内部がきれいに清められると。
ですから、何回も何回も祝詞をあげて、暇があったら祝詞をあげていればいいんです、お腹の中で。常に浄化されまして、神気が常に充実してると。天津祝詞にはこれだけの、言霊の意味が自然に配列されているんです。我々の魂の奥、『古事記』の奥の御魂に来るようなリズム、サウンドがあるわけですね。
そういうつもりでこの祝詞をあげるのと、単にこれをあげればいいんだろうという、「『高天原』、え?『神留座す』、難しいな、これ。え、神がとまっているのか」と。
「神魯伎神魯美」という形で、ただ単にあげるのと……、最初に言いましたように「意乗り」と。
祝詞というものは、自分の意を乗せる。神様に祈り事を申し上げまして、言葉に乗りまして、自分の気持ちを神様に言上申し上げるわけですから、そういう意味を理解して、そういう気持ちになって、真我没入して一回祝詞をあげる人と、百万回意味がわからなくてあげる人と、神様の反応の仕方、神力の出方がずいぶん違うわけですね。
祝詞の活用法
そういうことが祝詞の大体の意味でございまして、今なぜ祝詞を最初にあげるかと。そういう気持ちであげますと、神々様、それから守護神さん、守護霊さんにね、お願いするときに「守護神さん、守護霊さん」と言う場合と、祝詞をあげまして、そういう気持ちで祝詞をあげまして「私を守っておられる守護神さん、守護霊さん、きょうもご守護いただきましてありがとうございます」と、まず感謝する。
それから、「明日は演奏会があるんですけれども、なかなかうまく行きそうにありませんけども、そこをひとつ何とかご守護神さんのお力で、一生懸命努力しますので、助けてください。私の間違っているところがあったらお許しくださいませ。知らないところがあったら教えてください。努力しますから」という、人として精いっぱいやる努力の姿勢がなければ聞かないです、神様は。動物霊と違いますから。
それは、お父さんとお母さんが、子供がおねだりしてて、まあ、知らないうちなら教えてあげようと。
しかし、何度も何度も、努力もしないのに、お父さんお願いします、お母さんお願いしますと口で言っていてもだめだ、自分で努力せえと。ある程度努力するんだったら聞いてあげるけれども、何の努力もしないのに親ばっかり頼るんだったら、君のためによくない。
だから、いくらお願いしても、神様は全然動かないときがあるんですよ。守護神、守護霊さんにお願いすりゃいいってもんじゃないんですよね。聞いてはくれています、聞いては。
しかし、動いてくれない。聞いてはくれてますよ。だけど、動いてくれない。動くとよくないと。みずから人としての努力もしないのに、頼り過ぎちゃだめだと。
そういう形で、自力でやるんだなんて言ったって違うんですね。せっかく、危ないときには陰ながら守護してあげるのにと。お願いすればいいじゃないのと言います、お父さん、お母さん。何でも言うことがあったら言ってごらんと。
自分で努力してこうこうやるんだったら聞いてあげるよ、お金も出してあげるし、教えてあげるよと。お父さんの親戚縁者でそういう人がいるから紹介してあげるよという形で動いてくれるわけですね。
ある程度人として、子供として努力の姿勢があって、真心を持って「お父さん、お母さんお願いいたします」と誠心誠意お願いしたら、どんなお父さんでもお母さんでも、お願い事を聞いて動くでしょう。
それと同じなんですよ。あんまり努力もしないのに聞いてあげると、その子をだめにしちゃうからというので、守護神、守護霊さんも動かないんですよ。
そういうあたりをよくご存じになったら、守護神さん、守護霊さんをもうお出しした人が何人かここにいらっしゃいますので、そういう人はそういう形で祝詞をあげてお願いしたときと、ただ単に黙然でいった場合と、口でぱっぱっぱと言った場合と、祝詞をぴしっとした形で言った場合とは、全然動き方が違います。一度実験してください。
人間でもね、お腹の中で「うん、わかってるでしょう、お父さん」という形で言うのと、「お父さんお願いします」と言うのと、羽織袴をぴっと着て、「きょうはお父さんに折り入ってお願いがございます。
先般からお願いして「そんなに形式張ったことはやめてくれ」と言ったら「いや、でも、お父さんに先般からお願いしてたこと、私なりに努力いたしましたけども、マンション買うにつきまして少し頭金が足りませんけども、どうぞお願いいたします。これより一生懸命努力いたしまして、家運、家名を汚すようなことは一切いたしません。お父さんの息子として今日までまいりました。ああ立派な息子さんですと言われますように努力いたしますので、どうぞ、謹んでかしこみかしこみも、頭金をくださいとお願い申し上げます」
「うーん、まあそこまでそういう気持ちでやるんだったら、まあ、貸してあげようというんじゃなくて、子供に譲ろうと思っていたから、これ全部使いなさい」と、キャッシュでほんとくれると(笑)。
こういうようなもんですよ。「お父さんお願いしますよ」と言うのとね、お父さんの動き方が違う、真剣に動いてくださる。これ、守護神さん、守護霊さんも同じです。
ということで、祝詞の解説ということで、早口でしたけれども、終わりたいと思います。どうもありがとうございました。(拍手)
(編註:天津祝詞についてさらに詳しく知りたい方は、富士箱根神法悟得会「初級篇」、また伊勢神法悟得会「初級篇」をお受け下さい)
