【第三章】神は広大無辺にして清涼なり すべて愛を以て帰一するを真心となす(昭和59年8月25日)
神は広大無辺
【深見先生】一般の社会では給料日ですけれども、本日は講演日でございます(笑)。
以前、神とはというお話で、図を書きましたね。こうやってこう、神というのは火と水だと。日本の神道で言うと、火と水であると。
そういうふうに、神というものはどういうものかということで、前にお話ししたのと同じネタは出ないんですけれども、植松先生が、我らの植松先生というと、ここに座っていらっしゃるんですけど。
あるとき、一体神様とはどういうものなんですかと素朴な疑問を抱きまして。カナエちゃんが幼稚園の先生に「先生、神って何ですか」っていう、そういう感じで素朴に聞いたわけですね。
神とは、どういうものですか、神様とは。これ聞いたことないでしょう。今日のテーマはこれなんです。神様とは一体どういうものですかと。
あるとき、植松先生は、お炊事していた時なのか、寝床で夢を見ていたときなのか、お洋服の品定めのときなのかわかりませんが「神様とは何ですか」と聞いたわけです。
そうしますと、神様のお返事が返ってまいりまして(板書)。
こういうふうにおっしゃったんです。
「神は広大無辺にして清涼なり。すべて愛をして帰するを真心となす」と。こういうふうにおっしゃったんですね。
「神様とは一体どういうもんですか」
「うん、神様というものはね、広大無辺なものだよ。そして清涼なんだ。すべ愛を以て帰一するを真心となす」
どういう意味かといいますと、神様神様と言いますけれども、例えば、ユダヤ教で出てくるような裁きの神ですね、ヤーヴェの神様。神様の言うとおりに聞いたら、井戸でも水でも食べ物でも何でもくると。言うことを聞かなかったら全然だめだと。
ユダヤ教だから守護して、ユダヤ教でない者はだめだと。
あるいは仏教とか、キリスト教、まあ、S学会。S学会員だけはいいんだけれども、そうじゃなければ必ずひどい目に遭うぞと、いうようなちっぽけなものじゃありません。
Sの家のように、神様とはエーテル状の生命体のもので、こういうふうになって、そこから形が出てきて、電子ができて、電子から物質が生まれて…なんていうふうな、脳みそで、理屈で判断できるようなものじゃありませんと。
「科学で証明されていないからなかなか信じません」と、そういう人間の脳とか、頭脳で理解できるようなものじゃありませんと。いろいろな意味があります。人知では到底及ぶことができません。
それから「広大」大きくて、「無辺」というのは、無いですね、辺というのは。極まりがない、終わりがないと。
だから広大だと。S学会だから守護して、そうじゃない人間は守護しないと。哲学的に判断できるような、そんなちっぽけなものじゃありませんよと。
宗教とか、宗教家だけを守って、神様を信じない人間にはそんなのはない、そういうことはありません。科学者でも、芸術家でも、禽獣虫魚、虫けらに至るまで、どんなものも大きく包含してるものですよ。とにかく一言で言うならば、 広大無辺なんだと。
そんなちっぽけなものじゃありませんよ。そんな一宗派とか、宗門宗派、そんなのだけ守護するようなものじゃありませんよ。
そこでなかったら救われませんとか、そういうものじゃなければ神様の愛はないなんていうことはありませんよと。いかなる時代、何宗であろうと、正しい方向に向かっていたら、どんな者でも守護しますよ。
とにかく広大無辺なんだ、大きいんだと。
確かにそうですね。榛名湖へ行ったときに、前にもお話ししましたけど、バス停で、ああ榛名湖かあと。寝不足でしたけど、五時四十五分に起きてボートに乗りましたので、榛名湖かあと見ていたんですね。
そうすると、ふわんふわんふわんと榛名の湖が二重写しになりまして、神様がいらっしゃる、ご神霊が。大きいですよ。
それが、神霊という形で出てくる場合でも大きいわけですから、大体正観音様━水曜日の基礎講座でもお話ししましたように、正観音様ね、第六神界の正観音様は、富士山よりもう少し大きいぐらいですよ。富士山をこうやってんですから。ランランランって。大きいですよ、それは。
例えばお姿となってあらわれる場合でもそうなんで、ほんとうは、何か神様が手の上に何か仁丹を持っているな、何だと思って見たら、地球でしたとこういう感じですよ、例えばね。宇宙を創造しているんですから。
確かに、顕現神となってあらわれる五次元とか、神社の神様でもそれだけ大きいんですよね。しかし、神様というのは、大きいだけじゃないんだよ。大きかったらいいってもんじゃない。大きいことはいいことだという歌がありましたけど、コマーシャルが。
大きいだけじゃありませんと。宇宙を崇拝し、そういうものを崇拝したらいいってもんじゃないんです。神様というのは、大きいだけじゃなくって、大きくて清涼ですと。
清涼、これはあんまり聞いたことないでしょう。ここに飲料水がつくと皆さんご存じですけど(笑)、清涼飲料水だったらご存じですけど。清涼、清らかで涼しいと。清らかで涼しいということはどういうことかといいますと……。
例えばエホバの神様とかヤーヴェの神様は、非常に人間的な人格神という形で、グワーッと出てきますし、大日如来さんなんかですと、すごい光、輝きがびかーっと来ます。清らかで涼しいというよりも、まぶしくて熱いでしょう。
神はまぶしくて熱いか。そうじゃないんですね。そういう世界よりももっと上の世界へ行きますと、宇宙のように清らか~で澄んでるでしょう。アンドロメダ星雲はきょうも澄んでいたと。スバルの星はきょうも澄んでいた。
清らかで涼しいということは、愛っていいますと、光とか熱とかそういう世界よりももっと澄んでいる。
ですから、富士山の頂上にあります正観音、素の神様が直接出ていらっしゃ富士山の頂上みたいに、非常に清らかで涼しいんですよね。
だから、冬のご神業でいらっしゃるご神霊というのは、非常に清らかで澄んだ感じ。西谷さんも僧正遍昭さんが出てきた、あれよりももっと大らかで清らかで、すうーっと涼しい感じがします。富士山の頂上みたいに。
ということは、もう少し別な言い方をしますと、執念とか、執着、執着心と執念とか、あれがこうだこうだとか、何々のためにこうしてほしいとか、そういうふうなものはない。もう抜け切ったものだ。
というのはね、産土神様は、人間的にも活力があっていいし、産土のこととか、そういう形でありますけれども、非常に煩悩とか、我欲とか、私自身のこととか、そういうことは何もありませんと。だから清らかで涼しい。
人間でも、清らかで涼しい目をしている人というものは、あんまり煩悩とか執着心とか、お金、お金、お金とか、売り上げ、売り上げ、売り上げとか、あんまりそういうようなことで(笑)、これは清涼というよりも、燃えるような目がチカチカです。
清涼、清らかで涼しいという漢字の二字にあるのは、大きな深い意味があります。味わってみれば。清涼なりというこの二字の漢字には。神は、広大無辺にして清涼なりと。
愛を以て帰一する
それで、「すべて愛を以て帰一するを真心となす」と、神様。神様とはどういうもんなんですかと言ったときの答えでしたか、「真心」って何ですかって聞いたんですかね。忘れましたけど。
どんなことでも、それがありました。すべてどんなことでも。債権債務の返済にしましても、それから教育にしましても、それから販売にしましても、運転にしましても、製図設計、作曲にしましても、すべてどんなことでも、もめごとでも、お台所のことでも、どんなことでも、愛を以て帰一する。愛を以て帰一するということは、最終的に、相手もよし、こちらもよしと。相手もよかれという愛念です。
ただし、その愛念というのは、ちっぽけな愛じゃありません。愛を以て帰一するということは、前半の文章から続いています。広大無辺にして清涼な愛だと。自分だけのことを思ったり、自分だけで思ったような真心とか、そんなちっぽけな愛じゃありませんよと。
観音様は、皆さん、もう言いましたね、観世音菩薩様は、三十三相に化身なさいます。普賢菩薩さんなんかも三十二相に変化なさいますけど、観世音菩薩様というのは、大愛ですね。大愛なるがゆえに大慈大悲だと。
これはどういうことかといいますと、大慈大悲。まあ一言で言うならば、
じんぎれいちしん
子が言いました仁義礼智信。君子というものは、これすべて仁に基づいてやっている。仁というのは慈悲ですね。ところが、『老子』が言いました。
「天地に仁なし、万物を以て芻狗と為す。君子に仁なし、百姓を以て芻狗と為す」という言葉を前に言いました。ちょっとお話が派生しますが、復習ですけど。天地の間に、天地の間には仁なんてないんだと。
儒家が言うような仁なんてないんだと、こんなものは。仁というのはないんだ。弱肉強食優勝劣敗、強い者勝ちですよ。自然淘汰ですよ。
売れる曲はヒットするし、売れない曲はだめになっていきますよと。いい本は残っていって、だめな本はだめになりますよ。有能な人間は残るけど、無能な者は世の中に取り残されますよ。
トラとかライオンとか強いのがいるけども、足の悪いようなシカとかシマウマは、ゼブラボールペンになるぐらいのものですよと(笑)。
みんなやられてしまいます。だから、強い者が勝つんだ。優秀な種族が残って、だめな者は淘汰されていく。それだけ厳しい自然の掟というものはそういうものなんだよと。だから、天地の間に仁なんてない。万物を以て芻狗となす。
というものは藁人形です。藁人形のように扱っていくんだよと。
そして、君子に仁なし。「君子は食を終うるの間も仁に違うこと無し」とかといいますけども、君子に仁なんてないと。
これは全く儒教の孔子のいう説と逆説ですね。君子には仁なんてないんだ。「百姓を以て芻狗となす」。百姓というのは百姓じゃなくって、よろずの民、いろんな人民。人々というものを藁人形のように扱いますと。
これは前にも言いましたように、言いましたね。ヒトラーが、「国民の半分の意見を聞いて政治をしようと思えばどうすればいいか。もう半分の意見を無視することだ」と。
常に国民は、自分が正しいと思って欲求を言うだけだ、物事は全部の意見を聞いていてはできないんだと。それだけ厳しい、怨まれてもいいからなさねばならないことっていうのはあるんだと。それは『老子』の精神ですね。
これは何を言っているかといったら、もっと大きいんだよと。そんな真心とか思いやりとかっていうようなちっぽけな、儒教で言っているような、酸にとらわれているということですよね。
そういうものじゃないよ、もっと大きいんだよと。
それがいわば、大慈というものは仏教でいいますところの慈悲の心、思いやりです。大悲というものは、今言ったような、厳しい淘汰、試練を与える。
いわば、お母さんの要素とお父さんの要素。儒教でいうところの仁を以て尊い、仁を以て人々を慈しんで立派な政治をしていく、『老子』のように厳しい自然淘汰の天地の試練というものを与えていく、二種類の面がありますと。
それはなぜかと言えば、愛が大きいからなんだ、大愛だからなんだと。
観音様は愛が大きいから、その人を助けて、慈しむときは慈しむし、いや、大きな試練がある、この人は三十何歳になったら、こういう大きな手相家となってなさねばならないから、その間にはいろいろ失恋があったり、いろんな宗門宗派で枷かかりながらこうすると、きな粉で栄養失調になったり(笑)、そういうふうなプロセスを、試練を与えるわけですね。
試練のときだと。それは三十何歳のときに立派なことをしなきゃならないという天の使命があって、愛が大きいから、そのときには観音様は泣いていらっしゃるんだ。ああ、かわいそうになあと。
非常に悲観的に悲しんでおられるけども、しかし、父親のように、ここでこの子を甘やかしたら大きくならない。だから、何年間というものはつらいだろうけども、涙を流すと同じように観音様も涙を流しながら、しっかり頑張れよと、試練を与えるわけですね。
その試練に打ち勝って初めて立派なもうだめだっていうときにはぱっと手を差し伸べるんですけど、試練を与えます。
だから、千手観音様は、手に髑髏を持ってますよ。ここでお花をぱっと持っている手もあれば、こちらのほうで剣をうわっと持っていたり、髑髏持っている。
ます、髑髏。あれ何かと僕考えたんですけど、霊障ですね。霊障ブワァーッと出して(笑)、うわーっ動けない、腰が重くってとかね。もう咳がコンコンしてとか、腸が痛くってとかね。
断食しておかしくなったとか、お酒飲んでやめられなくなるとか。髑髏持って観音様が、ぱっと。あれ、霊障を操っているんじゃないかと思うんです。その影にいて、もっと大きくその人を慈しみ見ている。
それは、その人をほんとうに立派にしようという愛が大きいからなんだ。愛が大きいから、大慈大悲なんだ。大慈大悲なるがゆえに自在なんだと。自在。
あるいは天大将軍の身を以て衆生済度せんとするときは天大将軍の身を以て済度す。
あるいは商人の身を以て衆生済度せんとするときは商人の身を以てし…。あるいは緊那羅、摩睺羅伽、人非人等の身を以て衆生済度せんとするときは、緊那羅、摩睺羅伽、人非人等の姿に身を現じて救い給う、と。
緊那羅、摩睺羅伽、人非人というのは、神様の眷属。そういうふうな身を以て救うときに、それになると。
商売人が苦しんでいるときは、商売人だと。あるいは、童児の身を以て、子供がいるとき、「あのね、ちっちゃい子が行くとね、踏み切りがあって危ないからね。
あっちがいいんじゃない。ね、あっち行こうよ。あの~、もしもしい~」。藤山寛美じゃありませんけど・・・(笑)。例えば。そういうようなときには、子供の姿となって導きますよと。
観音様は愛が大きく、大慈大悲なるがゆえに三十三相に化身して、自在に、商売人だったら商売人、戦で悩んでいる人には将軍様の姿となって、子供には子供、教育家には教育家、アムウェイ販売の人にはアムウェイ販売人となって、その人を導かれますよと。
これが大愛。「観音様は大慈大悲よ」といつも植松先生がおっしゃるのは、そういう意味ですね。自在だということは、そういうことです。
父親と母親、両方の目を持っておられる。それは、愛が大きいから。広大無辺にして清涼なりと。自分の私する心が全然ないということです、清涼。
そういう愛、すべて愛。この場合の愛ということは、愛という情感で、愛念でしょう。どんなことでも、相手よ良かれという愛で、お祈りする場合でも、
仕事をする場合でも、事業をする場合でも、出版する場合でも、音楽つくる場合でも、運転する場合でも、ああ、お客様よかれ、経営者もよかれ、私の健康にもよかれと。
自分自身を含めまして、一番いい方法にっていう、よかれと。利他の念です。そういう気持ちでいかなることもしなさい。すべてですから。
厳密に言えば、おトイレに入るのも愛を以てすれば、きれいにお掃除して、あんまりあっちこっち飛ばさないできれいに……。あんまり・・・、テープに入っていますけど(笑)、とにかく……。
すべて、すべてにですよ。これ、なかなか、自分自身に対していいことを言ってくれる人には愛を以てやりますけども、嫌なことを言う人間には嫌なこと言いますよ、だれでもね。
銀行が、借り入れに来ている人に「預金してくれませんか」とか「何とかしてくれませんか」と言ったら、「この銀行は…!」と。
銀行は銀行の立場を以てということなんですけど、大愛でなきゃいけませんから、やられますから。
それでも、思いは愛でなきゃだめなんですよ。どんな人間でも、夫婦げんかしましても、旦那様にぼろかすに言われましても、嫁さんにひどいこと言われましても、最終的には、大慈悲ですから、厳しくバンと突き放さなきゃいけない面もあるんですけれども・・・。
それも、厳しく突き放しましても心の中では愛でなきゃだめなんです。すべて愛ですから。自分におだてたり、プラスをもたらす人には愛でやることはできるわけです。
しかし、自分に憎たらしいことをするとか、ひどい目に遭わす人間、こういう者に対して愛っていうのはなかなかできないですね。これがひとつの修業です。それは、全部神様が見ておられますから、神様はそうだから。
例えば、太陽というのはそうです。いつも言いますように、与えるのみの愛と。
愛というものを与える、遠心的なものであるというふうなことを言いますけど、太陽は、前にも言いましたように、バイブルを地面から積み上げまして、富士山の高さまでバイブルを積み上げて人類に貢献する度合いと、太陽が一分間チカッと光りましたエネルギーと、どちらが人類に貢献しているかと。
「バイブルだ」と言われるとだめなんですけどね(笑)、太陽なんですね。太陽の一分間のエネルギーのほうが、どれほど人類に貢献しているか。バイブルを富士山の頂上まで積み上げるよりも功徳や愛は大きいんだと。
太陽というものは、こんながんがんがんがんやって暑いなあ、クーラーを買わなきゃいけないし、メーカーの人はアイスクリームが売れてよかったな、電気冷蔵庫とか夏物が売れるからいいなあと。
しかし、こんな暑い太陽が……。インド人にとっては、太陽というのは敵ですから。お月様が味方なんですよ。死んで一番苦しい世界というのは、太陽の世界へ行かされるというのが、インド人にとりましてはもうほんとうに最高の苦しみなんですね。
お月様というのは、安らかで温かい。それは、四十度五十度ですから、太陽見たら恐怖です。それでも、「こんなに暑いのにがんがん照って、クーラー代も光熱費もばかにならない。
この太陽、憎らしい太陽」と言ってても、太陽は、「じゃあ、お前んとこだけ照るのはやめだ」、これしません。感謝してもしなくても、恨んでいても憎んでいても、太陽はさんさんとあの愛の光を照っているだけです。天照大御神様っていうのは、その化身、象徴ですから。
例えば、愛というものはそういうものです。知ってくれても知ってくれなくても、報いられても報いられなくても、あるいは憎たらしく言っても、もう照らさないなんていうことはありません。
いつも、内面は与える一方、出す一方。しかし、この愛の泉というものは、よく歌謡曲の歌詞にもなりますけど、愛の泉とか、出せば出すほど出るんですよ。
愛を出し過ぎてきょうはちょっと枯れたから、コーヒーでも飲んで愛の補給をしなきゃってことないんですよ。
もう、こんこんと湧きいずるものなんですね。だから、出せば出すほどこんこんと湧きいずる、無尽蔵に出てくる。自分の御魂から。神様はそうなんですよ。
だから、すべて愛を以てっていうこの、私これなかなか進みませんけど、すべてというこの単語、すべてというキーワードですね。すべて愛を以て帰一するということですから。
いろいろと紆余曲折があっても、どんなものでも最後はもう全部愛で締めくくると。愛で始まり、愛で終わると。大愛ですよ。すべて。理解してくれても、してくれなくても。
真心とは
そういうふうなもの、そういうふうにすべて愛を以て帰一するのを、それを真心と言うんだよ、真心となすんだよと。みんな真心真心と言いますけど、これ、言霊で言いますと、真の心。魔がさしてスリをしたという意味じゃありません。真は、この中心の真の働き。正しい。
神様の心というのはいろいろあります。宇宙をつくり創造する心になったり、戒めたりする心、いろいろありますけども、いろんな神様の心の中で、真の心、中心の心というものは、この愛なんですよ。
だから、神人合一するたったひとつの鍵は何かって言ったら、愛しかないんです。絶対に、守護神さんでも守護霊さんでも、愛を以て帰一してるときにはどんどんどんどん守るんです。
いくら守護神さん、守護霊さん、産土さんとお願いしましても、この愛を以て帰一しないときには、絶対に神様は動かないです。
聞いていますよ。お祈りしたら、聞いてはいるんですけども、頷いて動いてくれないですね。神様がいよいよ、それっ、出動というこの鍵は、神人合一のキーは、この愛なんですよ。
これのない祈りだったら、十時間、二十時間お願いしてもだめです。自分自身に対しても、人に対しても、とにかくこの愛というもので帰一してないときには、真心じゃないわけです。
「自分なりの誠心誠意真心を尽くしたのに、全然相手が聞いてくれなかったから、もう知らないんだ」と。これは真心じゃないですよ。その人なりの誠意なんですよ、その人なりの。
だからといって、どんなことされましても、キリスト教でいうみたいに、犠牲的な愛をどこまでもしなさいという意味じゃないんです、これは。そういう場合でも、人を憎んじゃいけない。
「ああ、かわいそうになあ、やがて時期を見てこういうふうにしよう」と。その人の場合には、よかれという大慈大悲にできますから、厳しく戒めるけども、もっと大きな心で見ていますと。厳しくするときでも愛を以て厳しくし、突き放すときでも突き放す、そういう心を言うわけです。
こういう気持ちであれば大丈夫なんですけど、そうじゃない場合には、気が枯れますんで、愛の気が枯れますんで、「氣れ」っていうんです。
穢れましたと。長い間、お金の苦しみとか、男女関係で、ああでもないこうでもないとやってたりですね、気が枯れちゃうんですよね。長い間、四十何年、三十何年間の人生で、もう穢れました、私はと。
この間行きましたね、三輪の神様へ、(Aさんという方が)早稲田のときに。奈良のお山をこう歩いていたんですけどね。言ってましたよ。三輪大社のご祭神がいるお山へ行って踏んづけて、
「あれっ、ここ神様いるみたいよ。この石に神様は居るんだって」
なんて言いながら下りてきたら、三輪大社の宮司さんとか皆さんが身を浄めに行くところに、裏山から出てきて、「えっ、何ですか」と言われて、「君、ここは禁足地でね、神なるところだから、だめだよ」「あっ、そうですか」
それ以後十何年間、縁談全然なくて、一緒に山登りしたその人は、何にもろくなことが起きなくて、今年の正月ごろに、反省の意味で三輪大社に、おわびに行ったらしいですよ。
そうしましたら龍神がついていまして、八十歳まで独身で行かすつもりだったと。(救霊で)脳から抜けていきました、頭からすうーっと。霊的に。こういうふうに鎖はめられていましたよ、こうやって。
まあ、それはいいんですけども。何が言いたいかといいますと、その人いわく、行ったときにね、三十何歳で行ったけれども、学生時代のときにね、間違って裏山のほうから入っていっちゃったんですけど、何かすごく清浄な感じがして、非常に何かあらたかな感じがして感動したと。足を踏み入れたんだけど、やっぱり、さすがここは尊い神様がいらっしゃるなあと感じたらしいんですよ。
ところが、三十何歳でおわびに行ったんだけれども、学生時代のときのようには感じなかったと。「やっぱり、それだけ私は俗世間で穢れてしまったんですね」と言っていたわけですよ。それが言いたかったんですけど…。
何が枯れるかといいますと、結局その、純粋な気が、こういう気持ちが枯れているわけです。
歳をとりましても、純粋な夢とか、ロマンとか、希望、こういう気持ちを常に持ってやってる人というのは、何歳になりましても感動します。幾らでもメロディーが出てきますね。
感動がなくなる、素朴で素直な気持ちというのがなくなるわけです。みんないろいろな人生の経験をしますと、そういうのができなくなるわけですね。
だから、最もこのところを最後まで貫き通しているのが、まあクリスチャンだと思います。キリスト教の人は、これに関しては、やっぱりどこの宗門宗派の人たちよりも、愛に関しては徹してます。
六十になりましても、七十になりましても、この愛ということに関しては、貫いていますね、信念が。
神人合一の実践ポイント
まあ、そういうふうな、神様のいろんなお心の中にありますけど、その中心の心だから真心だと。そういうものが真心とすると。真心となすと。そういうことなんですよ。
自分なりの誠意を尽くして、聞いてくれなかったら知らないと。あの人たちはああだっていう、心が気枯れるんですよ。
だけれども、広大無辺にして清涼な気持ちを以て、愛を以て、「ああ相手もこうだから、わからないんだから、やがてわかるときがあるだろう、自分だけでできることをやってあげよう」と。どんな人にもそういう気持ちで見てあげる。神様にも、そういう気持ちでお願いしてあげると。
そういう気持ちで、「惟神たまちはえませ」とか、「アマテラスオオミカミ」とか、祝詞を一回あげますと、天地も動かすばかりです。
「天地もうごかすばかり言の葉のまことの道をきはめてしがな」と明治陛下の歌にございましたけど、そういう気持ちで神様にお願いしたときの神様の動く度合いと、朝から晩までひとつのことを、あんなこと言ったけれども、自分はもっといい人が、あれはだめだったから、今度はこっちにいいのがいませんかという。
あの人は嫌いだけど、神様、こういう人はいませんかと。まあ、聞いてはくれますよ。しかし、「うーん、ねえ。いまいち僕の気持ちを十二分に理解している祈りとは言えないな」と。
だから、守護神・守護霊もあんまり積極的に活動しないんですよ。
これが、神力が大きいか小さいか、神様が動くか動かないか、神人合一できるかできないかのひとつの大きなポイントなんですよ。
同じお祈りでも、こうでなきゃだめなんですよ。神人合一の道を極めようと思えば。
ですからこの、短い言葉ですけれども、植松先生は簡単に私にこういうふうに言いましたけど、何度も何度もこれを聞いてから、私も経験しまして、商事部で、値切ったり交渉したりありましたけれども、必ずそういうふうにやったらやった分だけ、どこか何パーセントか利益が出たら、違うところでぱっとお金が出ていくんですよ。
ここではだめだったな、まあ、それでもいいやと気持ちを取り直せば、神様がぱっと受け取りまして、別なところからごぽっと収入があるんですよ。
(予備校の)生徒も、ハイテクニックで入れて、ああ収入増えたと思ったら、全然予想もつかなかったところでぽっと出費するんですよ。
壁を壊してみたり、生徒を連れてったり、必ず出たものは、入ったものは出ていくと。それでやりますと、罪つくっちゃいますから。ああなるほど、ここに一点……。
僕の場合は、少しでも違っていたら、厳しいですから、そういうふうな一銭一厘の値切りやったりする商売のときでも、これを忘れないと。それはまあ、どれだけこれが大切なことかっていうことを、何度も何度も味わいまして、噛みしめまして、この言葉の意味ですね。
すべて愛を以て帰一する、広大無辺、清涼、真心と。
これを常に私は神様に向かう場合に、神人合一の道を極めようとする場合に、いつもこの言葉を噛みしめまして、自分自身をこれ、広大無辺であったかどうか、清涼であったかどうか、すべてであったかどうか、愛であったかどうだったか、帰一していたかどうか、自分の真心という気持ちでやったかどうかと、常に反省します。
ですから、最初に出てまいりました、「只今に生きる」、ありましたね。植松先生のあの神法のうちのひとつの「只今に生きる」「自然は神なり」「素朴で素直が神一厘」。
それから、この間の土曜日には、「神は身の内にあり」と。こういうふうに進んできましたね、今回は、神とは、「神は広大無辺にして清涼なり。すべて愛を以て帰一するを真心となす」と。
神人合一の…。
【植松先生】それね、神様のおっしゃる真心とはどういうことなんですかと、何か質問幾つかしたときに、こう。ものすごい、何だか文章にならないようなね、わけのわからないけれども、とにかくその中に全部すべて織り込んで。その中に受け取ったもんだから。
【深見先生】ですから仏教とか、儒教、道教、いろんなものを見ておりましても、やっぱりこれに行く、全部なるんですよ。集約されているなあと思って、いつもそう思います。いろんな教え見れば見るほど。ですから、植松先生の出されたのは偉大だなといつも思います。
まさにその、富士の正観音様。言いましたように、冬のご神業でこんな大きな手がどばっと、このあたりから手が出てきますけどね。
ときに、たばこでじゅうじゅうなんかしたりして、手がどっと出てきます。大きな観音様の手が出てきますけど、その感覚というのは清涼なんですよ。
何か広大無辺で清涼~という、そういう愛に包まれていると。そういう感じですよ、冬に出てくる正観音様。
だから、これを目標にして、自分自身を常に顧みまして、日常生活、神様とは、真心とはという気持ちでやっていくのが、やはり一番大事だと思います。
もう、これ、どれほど噛みしめたかわかりません。
まあ、そういうことで、お話をですね、これで締めくくりたいと思います。
どうもありがとうございました。(拍手)
