深見東州の土曜神業録6(Vol.4)

【第三章】自力の中に他力あり、他力の中に自力あり(昭和59年10月21日)

自力と他力

【深見先生】えー、神霊と一つになる法則といたしまして、みなさま、こういうお話を…。

「他力本願と自力本願」(板書)。

聞いたことありますよね。他力本願と自力本願。どういう意味かと。

他力本願、他力信仰の典型的な例は、浄土宗と浄土真宗です。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と、とにかくおすがりっぱなしと。もう他力におすがりして、阿弥陀如来様のご本願はいかなる衆生も救おうというご本願だから、まあすべての悉皆しっかいこれ成仏、どんな人もみんな仏様をもってる。そういう教えから発展いたしまして、阿弥陀如来様はいかなる人も救う。

悪人でも、もとはみんな仏性をもっているんだと。だから、南無阿弥陀仏と唱えれば、これことごとく救われる。そういう阿弥陀如来様におすがりをして救いあげてもらうと、これが他力です。

もう典型的なのが浄土宗、浄土真宗。

南無阿弥陀仏をただおすがりして。そういう他力本願てのはよくないなんて政治家が言いますと、浄土真宗の方からクレームがきまして(笑)、それはどういう意味だと。

他力本願という、浄土真宗と浄土宗を、これは誹謗したということで、政治家も「そういう他力本願ではいけない」っていう言葉を言うと、ここをけなしていることになる(笑)。

文句が出たっていうのが出てましたね、新聞に。これに対しまして自力本願というものは、いわゆる典型的な例は法華経です、日蓮宗。

とにかく、自分のみずから願を出して、みずからの力で。

まあ「至誠天に通ず」「至誠にして動かざること、未だこれあらざるなり」なんていいますけど、自分自身の力を信じて、自分自身がこれだけ精進努力することによって、神様を動かしめるという方法があるわけです。

ですからこう、神霊と一つになる方法というのは、他力本願的なやり方と自力本願的なやり方、二種類に分かれる。本来は、他力と自力というものが十字に組まないといけないんですけれども、神霊と一つになる方法といたしまして、二つのケース。

まあこれ、もう少し具体的に言いますと、ご神霊というのが・・・、

まあ先天の行と後天の行と言いましたけれども、どちらかというと先天の行というのは、第一回で言いましたね、先天の行ってのは他力本願的です。厳密にいえば少し意味は違うんですけど。

後天の行、後天的に備わった自分をどこまでも高めていこうということによって一つになる、神様と。先天の行は自分をなくしてなくして、なくすることによって、神様に引っぱりあげてもらうと。

こちらの方が楽なんで、先天的な……。そういう人間を、そういう人間になるべく努力しなきゃいけないっていうことなんですけど、本当はね。ですけどちょっと、ちょっとまあ分かれてみたら、これ・・・。

で、神霊があると。もともとは、自分自身というものが素直にとにかくひたすら、阿弥陀如来さんなんかは愛のかたまりですから。もう慈悲のかたまりと。

だから我力を捨てて、もう我力を捨てまして、ただただこのご神霊に、自分をなくすという。自分をなくしてひたすら素直な気持ちでご神霊におすがりすれば、来て助けてくださると。

神霊と一つになります。他力の絶対的な力というものを信じて、その他力の働きによって救われるという。他力の働きによって智恵をいただく、生かされると。こういうやり方ですね。ひとつの真理です、これは。

ですから、まあ前に言いましたように、老子さんの「学する者は日に日に益し、道する者は日に日に損す、損して損して無為となす、無為にして為さざるはなし」と。

だから人為的なものを一切なくして、神様におすがりしちゃうと。ひたすらお願いしておすがりをするというね、よくあるでしょ。

ひたすら神様におすがりをしなさいなんていうことでよく言いますけど、神様にすがる。阿弥陀如来のご本願に、ただただ信じてそれをすがると。

どちらかといえばキリスト教もそうです。イエス・キリストという絶対的な愛のかたまり。

イエス・キリストの精霊というものの、救い主ということを信じて、ただただひたすらキリストを信じてキリストに祈りなさいと。キリストはあなたの胸の中に生きて、あなたを、天を代表して、天なる父があなたを生かすでしょうと。どちらかといえばキリスト教ってのは他力本願的です。

そういうことを考えてみたら、まったく自分をなくして敬虔な気持ちでおすがりすると。要するにおすがり信仰ですね。ご神力とか、力、愛というものにおすがりする。本来はこれでいいんですけれども。

「惟神中毒」のあやまり

ところがこれの問題点、ひとつの真理なんですけれども、老荘思想の過ちと同じく、浄土宗、浄土真宗の過ちも同じく・・・。どういう欠点があるかといいますと、おすがりするといいますと、要するにこれ中毒になるんですよ。

これを神道的表現しますと「惟神中毒」という。

要するにとにかく、神道流でいいますと「神ながらたまちはえませ」、神様の御心のまにまに参りますようにと。神様の御心のまにまにいくようになる方向性を見ながら、そのフィーリングでいくと。

惟神の道っていいます。神様の御心のまにまに参らせていただきますという、これを惟神の道というんですけど。

神様の御心と合ったかたちで一つになっていく。神様の御示しのとおり、神様の御心のまにまにさせていただきますという気持ちになる。Nさんも惟神的ですよね。

ところがこの惟神のあり方というものは、日本神道のベースがありますから、浄土真宗とか浄土宗というものが日本人の魂にピッタリ合いまして、脈々とたくさんの信徒をかかえているわけです。

なぜ、これだけ浄土真宗、浄土宗が日本人の魂に奥深く入っているのかといいますと、もちろん親鸞及び法然さんの素晴らしい、救いということに対しての素晴らしさ、あるんですけれども、日本人の魂のベースとしまして、天地自然のまにまにと。

自然に生かされているという気持ちがありますので、神様の御心のまにまに、惟神のまにまに生きていくという人生観が、日本人に古くからあるわけです。

だから日本人は依頼心が強いとか、甘えの構造であるとか、自然に恵まれているので、そこに甘えていくという気持ちがある。

で、これは惟神の道。このベースに浄土真宗、浄土宗、親鸞上人というのは、そういう意味で非常に日本人的であるし、日本人でなければ出てこない発想だと言われている。非常に日本の独自な信仰形態だと言われている。このベースがあるからです。

ところがこれの間違いは、ご神霊と、ですから一つになることはできますけども、大きな過ちというのは中毒になっちゃう。何でもおまかせしちゃう。何でも神様の御心のまにまにと。御心のまにまにと。

「Sの家」でもそうでしたね。相手が悪いのは、もう自分の心が悪いからだと。神様にお願いしとけばそのまにまにいくのがベストなんだといって、悪い人間でもそのまにまにと。

お金返してくれないけども、神様にお願いしてるから惟神のまにまにいけばうまくいくだろうと思って、お金回収してくれなくって会社が倒産すると。

「これも惟神の御心のまにまに、会社が倒産したら、なしでやっていくというということだから、百姓でもするか」と。もう神様におまかせしちゃって人としての努力しない。

こういう言葉がありますね。「人事を尽くして天命を待つ」。人としてあらゆることを尽くしたうえで天命を待ちなさい、という気持ちがあるわけです。

ところがこの、人としての努力をしないから、惟神の中毒になっちゃう。もう「神様の御心のまにまに、御仏のまにまに、南無阿弥陀仏、阿弥陀如来のまにまに」っていうから、人間的進歩が全然ない。

ご神霊が来てるから気持ちのうえで満たされてます、クリスチャンでは。

しかし前に言いましたところの勇猛心、勇猛の心で開いていくということないから、なんでも惟神のまにまに、阿弥陀如来様の御心のまにまに「神さんのおっしゃるまにまに」と。神心のまにまにっていうかたちでいくから、これの中毒ですと進歩発展がない、人としての努力がない。

だからやがて行きづまるわけです。

結局、世の中のこのベースを見てみますと、苦しいと。苦しい状況でありますけども、親鸞上人はあれだけの精進努力して、百日間のおこもりをしまして、どこまでもどこまでも衆生に「この南無阿弥陀仏の道を」というかたちの努力をしてるわけなんですけど、親鸞上人はああなるまでどれだけの苦労と努力があったかということで、おすがりをというかたちの。

それは社会を見てみますと、一般大衆が、もう社会的に見ますと、いくら努力しても百姓は百姓と。

身分が決まりまして地位も決まりまして、ただただ苦しい農耕、農業とか漁業に携わる人はですね、努力したからっていったって別に、農業をやっている一般大衆の下層民はですね、上の方に登れるという可能性もないわけです。だからどれだけ努力しても・・・。

おすがりすれば今の状況から少しでも心の安らぎを得て阿弥陀浄土へ救われる、という心の希望で、今置かれている状況を幸せに生きていくという心の救いはあるし、確かにそういう気持ちでいった人は、死後阿弥陀如来様の浄土へ行けますし。だ

がしかし、霊的な閃きでもって素晴らしいものにしていくということではありません。惟神のまにまに導かれますから、ピンチがあったときには救われます、確かに。

御心のまにまにですから、スレスレで助かりますけども、素晴らしいものを築きあげるということはできないわけです。行きすぎます。

だから、この他力本願の欠点というのは、惟神中毒、神様の御心のまにまにというので人事を尽くすということがないので、人間的な進歩がない、魂の向上がない、依頼心が強くってなんら年をとっても変わらない、こういう人間になっちゃう。

だから神霊の一部ですよね。本当の神様の姿じゃありません。

ある一部をとらえてはいますけども全部じゃないわけ。本当に他力が、他力の働き・・・、ご神霊にしろ阿弥陀如来様にしてみても、感動してこの他力の力を動かすためには、九分九厘まで努力していく。

「人事を尽くして天命を待つ」という気持ちが誠ですから、この誠がなければ、本当の他力というのは備わらない。ある程度は惟神でいきましても、途中で神様は見放すと。

ですから惟神のまにまにとか、阿弥陀如来様の御心のまにまに、天地の自然のまにまに、と老荘思想で行きすぎますと、若いころにやりますとこの、「どのみち出世したって何したって、畳一帖の生活に変わりないんだから」っていうんで努力しないわけです。

悠々楽々とすごしていますけども、天地の法則から合わない。やがて空しさが出てきたり、哲学的に空しさを補ったりなんかするんですよね、これ。これも間違いです。

神様は油断と怠りを嫌う

本当の他力をこれでやりますと、守護神、守護霊とか神様が戒めをくらわして、「怠るな!」と。

ご神霊、正しいご神霊の問題というのは、結局、油断とか怠り、これをご神霊は非常に嫌います。本当の正神界の神様ってのは怠りとか油断、嫌います。精進努力しないでのんびりとして、とにかく怠ってる人間というのはものすごく戒めます。

「もっと精進努力せい!」これが、阿弥陀如来さんのそばにいらっしゃる勢至菩薩。「浄土に行くべく努力せい!」って言って、勢至菩薩がついてるわけ。

世音菩薩ぜおんぼさつさんってのは前に言いましたように、どのような状況でもいいと、苦しいときには南無観世音菩薩と言いなさい。

観音様は三十三相に化身して、あなた救ってあげましょうと。ところがそれだけじゃないんです。その側に勢至菩薩がいるんですよ。

「精進努力せい!」という、厳しく戒めて。だから神様というのは、この油断とか、精進の怠りとか、努力しないということを非常に嫌うんです。

だから「神様の御心のまにまにすべてを投げ捨てて」っていうふうに思いますけども、これ(精進努力)がなかったら神様怒りますね。

だから神霊と一つになると思っても、ある程度は効きますけど、これだったら神霊の方が見放します。精進努力せいと厳しく戒める。

「もっと努力せい!」ってかたちで、守護神、守護霊が人の口をとおしたり、病気になったり、戒めまして、厳しく。「人事を尽くせ、怠るな!」。

ですから霊界へ行きますと、これをやってた「御仏のまにまに」とか「惟神のまにまに」だとか、「自然のなりゆきにまかせて、まあいいんじゃないの」っていうかたちでのんびりとすごした人間は、死んでどうなるかと。除霊で西谷さんもよく見たと思いますけど、怠けの罪です。

霊界へ行きますと、前に言いましたように、ヨーロッパ神界では煉獄という地獄がありましてね。日本でしたら、その怠けの罪の霊界がありまして、何をするか。熱いとこですよ。

裸になりまして、石を一生懸命あげるわけ、こうやって。いやあーもう富士山の頂上まで、必死の思いでこの石の固まりを上にあげたと。

鬼が「ご苦労だったな」って言って、上からまた石をコローンと落とすと。

「ああ、また落とすんですかー」「行け!」また下に降りてって、石をコロコロこうやって、必死の思いで「何のために私はこんなことしてるんだろう」と。こういうかたちで上に登ったらまた「やれ」と。

あるいは、僕は何度も霊界で見たことあるんですけど、水沢観音で、こうグルグルグルグル回すのありますね。棒がこういうふうにありまして、怠けの罪で、石うす。石うす、とにかく、お米挽くね。これをゴロゴロゴロゴロゴロゴロゴロゴロゴロゴロ回ってるんですよ。朝から晩まで臼挽き。

こうやってゴロゴロゴロゴロゴロゴロ歩いて、石臼挽いてんですよ。一日二四時間挽きっぱなして、三百年も四百年も挽いてんですから。「空しいなー」と思いながら挽いてるんですよ(笑)。これ怠けの罪。

怠けの罪で石臼とか、お山を登るわけ。これ空しいですよ。お山に登ってってゴロゴロ落とせってね。

神様はこの油断と怠り、非常に嫌います。だから精進努力して勉強しないと、結局魂を進歩発展させられないでしょ。御魂の進歩がないから、神様も本当にその人のためじゃないと思うから、ビシッ。怠りと油断、のんびりとすごした人間に対して厳しく戒めます。

これは他力本願の間違い。行きすぎたところです。ご神霊はそういう面がある。神様の御心にまかすというのは我がないから、先天のあれでいいんですけど、導かれて引っぱってもらうんですけども、人としての精一杯の努力精進がない場合に、誠の道というものがないわけです。

誠があるんだったらね、神様のまにまに動いていただくと、ご加護いただいていると。だから少しでも人間のやれる人事を尽くして、真心、誠をもって一生懸命努力して、そうして神様によりよく動いていただく。自分自身を練り鍛え磨くことで、磨くことによって、さらに神霊が強く強く、神がかってもいいように自分をつくっていこうと。

前に言いましたよね。ミミズに神がかれば、よく頑張ったミミズは釣りの餌になったとか、あるいはバクテリアをよく食べたミミズの一生だったと。

総理大臣にご神霊が神がかれば、日本の国家を改めることができる。井戸の卦と、それから鼎の卦のお話しました。鼎の卦かなえのけということはとにかく、厚生大臣とかその大臣に、とにかく天の教えと智恵を受けて。

そうすると文部行政が変わる、厚生行政が変わるっていうだけの人に。大衆の宗教じゃありません。限定された人にそれを渡すことによって国家がよくなっていくという、鼎の卦ですね。前にもお話しました。

それだけの精進努力、御魂というものを常に。だから勢至菩薩と観世音菩薩の二つの要素がありますから、努力を怠ると地獄に、怠けの罪に落ちますし、神様の御心に合わないわけです。御魂が進歩発展しないから。

天地自然のありさまもそうですね。お花でも、大きくなって夏は花を咲かしまして、秋になったら実を実らして、枯れて、またそれを生成化育くり返してるんです。

一刻の怠りもなく、お花はお花の一生を送ってるし、魚は魚で大きくなってね、十和田湖でも行ってヒメマスちゃん、わざわざ十和田湖に放されましても、海に流れましてまたふるさとへ帰ってくると。

こんな滝の中でもですよ。で、人に食べられるとか、産卵して終わっていくと。生成化育を一刻の怠りもなく動いてるんです。

天地の姿がそうですから、人間も与えられた職分とか、位とか、性別とかに合わせたかたちで、一刻の怠りもなく精進努力していくのが自然な姿なんですよ。

だから一刻も無駄にしないで、精進努力していくっていうのが神様の御心。だからこの、他力本願という、他力というものに、神力というものに頼りすぎたらだめなんです。他力本願の過ちですね。

何人か耳の痛い人がいるんじゃありませんか。「神様におすがりすればなんとか・・・」。確かにお願いしたら、真心があれば感応して動きますけど、これですねえ、油断と怠り。

植松先生はよく、犭偏けものへんのこれが出てるなんていって(板書「狎れ」)。ね、「狎れが出てるのよ」って、これ。

狎れが出てるっていうことは油断してるから。他力本願のいいところは、ご神力というものの絶対を信じてやりますからいいんですけど、これを気をつけないと危ない。行きすぎますとね。

自力本願の落とし穴とは?

とにかく他力というものを、本当に神様とか仏様の他力というものが動くのには、自力の誠というものがなければ絶対にだめなんだと。

誠というものがなければ絶対に、本当の意味での他力というものは動かないと。それがこんどは自力本願ですと、南無妙法蓮華経、さっき発願しましたけども、朝から晩までね。あのー、自力本願であれですと。

観音様のお姿ありますね。いつもこう雲に乗ってますよね。観音様は雲に乗って来ます。お姿でよくね。どういう意味かといいますと、真っ白な雲です。

だから人々がひとつのものを発願しまして、「観音様、なんとかこのようにできますように、こうしますように」というかたちで、一生懸命努力して祈りつづけますよね。

たとえば継続的に二十一日とか百日間の気持ちで祈りつづけます。祈りつづけるというものごとに着すというように祈りつづけて、どうぞ来てくださいという気持ちで。

あの、目的が手段・・・僕のさっき言った、私のディベートの話ですけど、目的がこうなんですけど、この目的を達するための手段があるんですけど、手段に拘泥して、勝つとか負けるとかっていうことに心を着してたからなんで。

「みんながよくなりますように」なんていう気持ちが、「みんながよくなりますように!」という執念ってのはあまりない。

愛の思いとか真心の念っていうのは、執着心たって、継続的に出せば出すほど泉のごとく出てくるものですかあれなんですけど。そういう目的をもって、ひとつの気持ちというものを――どんな気持ちでもいいんですけど、観音様におすがりをして。

要するに、執着心とか、執念とか、我欲とか、我見、自分なりのこの我見、私の見識。「私はこう思う」と。「こうなった方が、この手段を得てやることによってこうなるんだ」と。

自分のその、我の見識があるわけです、観念が。それと、「私はきっとこうなったらいいと思います」という我執、自分の執着心がある、執念が。

この我執、我見というのが、さっきの執着というもののね。この見識をもってるから。そこで惟神の「自分はそう思うけれども、神様の御心のまにまにお任せする」という気持ちがなかったから僕は失敗したんですけど、さっきのお話の場合は。

その、雲です。そういう澄みきった真っ白ということは汚れがない。澄みきってる、無欲だと。そういう気持ちで祈りつづけて、二十一日なり百日なり継続して祈りつづけましたものが雲になるわけです。

その雲に、観音様がフワッといらっしゃるわけ。先ほど申しあげましたように、百日間のおこもりでなぜそうなるか。

二十一日間のお百度踏んで、伊藤一刀斎とか、二十一日祈願、お百度参りというのは、そういう白い雲を、自分の思いですね、念ですね、そこに観音様が立つわけ。だから観音様が雲に乗っていらっしゃるというのはそういうことです。

ところが龍はね、真っ黒な黒雲に出てるでしょ、ウワーッと。龍というのはパワーありますけど、権力欲とか、権力とか、恋愛欲とか、とにかく「俺は、俺は」っていう我です、これは。黒雲でしょ。

あんまり真っ白な雲に龍というよりも、黒雲に龍が出ます。真っ黒な雲というのは、権力とか異性欲とか、とにかく自分自身の見識とか、欲心というのがあって祈りつづける心です。

だから日蓮宗の場合には、「うちの子が大学が通りますように」とかね、「家が繁盛しますように」とかね、そういう我執、我見で祈りつづけるわけ。「南無妙法蓮華経・・・」ってそりゃ継続しますよ。

毎日毎日、朝夕に祈ってますよ、念力で。とにかく自分自身のお行で、自分自身の行力で神様を動かしてみせるという、あれなんですけども。非常にこれは傲慢な我と慢心が出るわけです。

この自力本願の欠点というのは、我と慢心。神様が一番嫌うのはこれです。

植松先生に聞いたらそうだとおっしゃるんですけど。とにかく自力本願てのは、自分の力でやるんだと。

守護神、守護霊、そんなの関係ないと。自分自身の力を、自らの力のみを信じてこれやるんだと。確かに人事は尽くしますよ。

「人事を尽くして天命を待つ」と言いますけど、自分の力を信じて、自力本願、行をすることによって、神を動かしむる。それでやるんだという人間は我が強い。我があるわけ。「オレは」っていう気持ちがあって、慢心があるわけ。

この我と慢心というものは、神様が一番嫌うものなんだ。自力本願の欠点というのはこの、我と慢心をつくるわけです。

我っていいましても、我執。自分の執着心と我見。自分なりの見識。まあ観念です。「自分はこうだ」と思っちゃってるわけ。

神様の目から見たらそうじゃない方がいい場合もあるんだけども、「こういうもんだ」と思い込んじゃってる。私の失敗はこれだったんです。

ご神霊のあれだけども、とにかく精進努力して、人事を尽くして天命を待てだから、人事を尽くさなきゃと尽くすんだけども、そこに自分の我執と我の見識というのがあったために、黒雲をつくっちゃったわけです。

黒い雲。だから、本当のご神霊じゃなくて黒雲におおわれてますから。だから「南無妙法蓮華経」あげてみたりですね、祝詞をあげるとか呪をあげるとかね。行者さんいるでしょ。

呪をあげすぎちゃだめなんです。呪をあげてる!という行力でやっちゃうと、神様、いらっしゃらないんです、ご神霊は。

だから呪文でも祝詞でも、般若心経であろうと、法華経、南無妙法蓮華経であろうと、行力を頼んではだめ。行はするけども・・・。

これ、日蓮宗の人の欠点ですね。もう我と慢心強いでしょ。「私は」なんていうんで、他の考え方絶対ありえない。自分の行力と念力で祈ってるという、それだけ自信もってますから。

それで法力になった・・・、まあ確かにそれだけやりますから、潜在する能力というのか、ギリギリのとこまで追いつめますから能力は出るんですけども、本当の高級神霊ってのはそういうのに来ないです。

人間的なガリガリの我と慢心がある中には来ないですよ。龍は来ます。龍とか狸が来ます(笑)。あれだけ毎日法前に座りまして「南無妙法蓮華経!」とかね、呪文をあげつづけたら密教なんかでも。

だから後天の修業っていうのはまさに行力で、時間がかかりますし、その行力がなくなったらもうできなくなっちゃうから。

動物霊とか霊障にやられて死んじゃうとかいう場合多いですね、自力本願。年をとったらだめになっちゃう。行力ができなくなっちゃったらもうダメになっちゃう。その点、先天の方は柔軟でいい。

何歳になってもやれて我力ってのはないから、神様と一体になって。犯だから本当の自力本願というのは今申しあげましたように、人事を尽くして天命を待つ。

自分でできるだけさせていただいて、神様にお力を貸していただくと。自力本願といいましても、自力っていいましても、自分の内部、身の内の神様が出ていらっしゃるんだし、それをご覧になって他力が動くから妙が起きるわけです。

南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経といいましても、妙ですからね。

妙なるものがなぜ起きるのかっていうことは、自力で一生懸命努力してい精進の誠を神様がお受け取りになって、神力を与えられるわけでしょ。神霊感応するわけでしょ。神霊が一つになるから妙が起きるわけです。

南無阿弥陀仏といいましても、阿弥陀如来様の御心におすがりするという気持ちに、その真心と誠を受け取られて妙が起きるわけですよ。

誠と妙。誠を尽くせば妙が起きる。これが神霊と一体となってるときですよ。妙なるもの。言うに言えず説くに説けないもの。妙なるもの。頭じゃちょっと考えられないもの。

自分自身の力じゃ及びもつかないことができたと。「ハアー、すごいですねぇ、妙だなあ、どうしてそういうことできるんだろうな」って言うでしょう。

「妙だなー」。頭で考えても理解できないという世界は、妙の世界ですよ。

だから自力本願といいますけど、自力本願の本当の妙力というものは、自力の誠によりまして、他力が動くから妙ができるわけです。決して自分自身の力じゃないですよね。

我と慢心、だから神様が一番戒めて、いくらお願いしてもお願いしても神様が聞いてくれない。

逆に二十一日祈願してだめだった場合に、「あちゃ、だめだった」ということが結局知らされるのは、我と慢心があるから。我見と我執がある。我と「オレは、オレは」という慢心があるから。

行者さんてそうですよ。山伏なんかでも「オレは!」なんて言うんですよ。

自分の行力と法力を信じてね。天狗ですよ。だから行力という自力本願の行者ってのは、我と慢心がある。天狗になるから、天狗の霊と感応するわけですよ。で、死後、行者界へ行っちゃう。行者の世界。

だから全然それまで勉強ができなかったんだけど、あるとき勉強ができるように、努力して努力してね、自分が精進努力してやれるようになったら「俺はやれるんだ」っていう気持ちになって、それから我と慢心という、天狗さんてのがお腹の中に入っちゃってる人いますよ。

それまで全然できなかったのが「できるんだ」という自信をもってからね。それはいいことなんだけど、「オレ「はやれるんだ」というふうに思っちゃってる。

何年間生きてきた、オレはできるんだという気持ちがどっかにあるのが、これ。表面的には卑下してる。「私はあれでございますから」っていって卑下してるけど、お腹の中にはごうごう慢心がある。

これ、禅の用語で卑下慢ていう。卑下慢。見たところは卑下しているようで丁重に言うけど、お腹の奥にはごうごうたる慢心があるわけです。オレはこの道をやってきたという。

全部やってきたんだけども、やれてきたのは、やらしてくださったのは、そのときに動かれた守護神、守護霊とか、御魂様、神様が、他力が動かれてできたんです。

ところがそれは忘れちゃって、やってきたという経験だけが、あまりに我力でがんばったから残ってる。オレはやったんだという気持ちになるから、これ天狗になるわけです。

自力本願の欠点は、天狗、我と慢心。オレはやってきたんだという気持ちがお腹の奥にある。だから、あるところまで行ったら神霊とかじゃなく、天狗さんとかかかる。天狗が来たりするんです。

これで出てくる行力は天狗的な行力です。神霊と一つになるということではありません。

自力の中に他力あり、他力の中に自力あり

そこでみなさん、これでおわかりのように、神霊と一つになって妙力という、というものが出てくる場合には、他力本願といいましても、本当に他力が動くのには、自力の精進努力がなければだめなんだと。

自力本願といいましても、本当の自力本願の力ってものは、自力に対して他力が動くから妙が起きてくるわけです。だから自力の中に他力あり、他力の中には自力があるんだと。

だから、自力と他力というものが十字に組んだところが妙。十和田湖じゃございませんけども、十字に組むっていって植松先生いいますけど、自力の中に他力が動く。どちらへも寄らない。

自分自身の力を、努力はするけども過信しない。神様におすがりはするけれど、おすがりしすぎない。人間として精一杯の努力させていただく。

努力はするけれども、オレがやったという気持ちはもたないと。ああ、これも神様のお蔭だと。ご神霊の導き、叡智のお蔭なんだという、自力本願と他力本願がどちらにも偏らないところ。自力の中に他力あり、他力の中に自力あり。

それは、我と慢心と怠り、油断。こういうものがなければ、十字に組んでるわけです。このときに神霊と一つになってる。いずれも日蓮宗系の欠点があります。浄土真宗系の欠点ありますね。

今、日本で一番羽振りを利かしているのは、仏教系統では日蓮宗。積極的に「南無妙法蓮華経」、パワーでいくか、そのままで救われますよっていう(浄土真宗の)他力と。代表的でしょ。

日本の新興宗教で一番仏教系で多いのは、浄土真宗系と日蓮宗系です。禅宗ってのは非常に少ないです。ここに神霊と一つになっていくというひとつの大きな法則というんですか、これ発見することができると思うんです。

ですから、継続的にお願いをするという基礎は、第二番目の基礎でございましたけれども、その気持ちを受け取られて神様が動かれるからできるんだと。

できたあとには、絶対に我と慢心、心おごりをなくして、「ああ、これもご神霊のお蔭だ」と、常もつ感謝の気持ちがありましたら妙力はつづくんです。最初お蔭があって何か奇跡が起きてもですね、「ああ、やれたやれた」と思ってやってますとしばらく出てこなくなります。

誰のお蔭でできたと思ってるんだと。その真心に、打ち勝ってやったんだけど狎れてきますと、感覚が狎れてきますと、もう「神様が守護してくれるのが当然」という気持ちになりまして、狎れが出て怠りが出るんです。

そうしたら神様に戒められます。バシンと。もう必ずこの法則。どちらかへ偏る。いかに、いずれにも偏らない中庸、中を得るか。十字に組むか、妙かということがいえる。

これはもう頭じゃありません。頭じゃありません。自分で体験して、自力に流れすぎず他力に流れすぎず、自分で呼吸を体得する以外ないんですよ、これは。だからやってみることですよね。私もその失敗がありましたから、祈りすぎないと。

自分なりの見識でこうだと思いこみすぎないっていうことで、お願いはするけども後ではおまかせすると。自分はこう思うけども間違ってるかもしれないんで、謙虚にお受けするっていうふうになって。

それから、あまりにも失敗が大きくてショックが大きかったですから、後で改心いたしまして。それでもやっぱり小さいことが何度も何度もくり返して。もう今はほとんどありません。

どちらにも寄らずということで、努力と神様の力というのをフィフティ・フィフティでいけるように。この揺れが少なくなってきましたけども。その訓練です、年季です。

ああ我力が出すぎた失敗だ、我と慢心だったと。そうかといっておまかせしすぎたら怠りだったと。それはもう体得する以外ないです。できますよ、これ。実験してみたらいいんですよ。

もう、それしかないんです。神霊と一つになっていくという、体得するんですから、これ。

ですから、日蓮宗でも、浄土真宗でも、その達人というんですか、本当に阿弥陀如来様とか神々様と一体となっている場合、人は同じ宗門宗派を信じてても、この要素というものを自分で体得した人です。

日蓮宗の本当に素晴らしい人ってのは本当に謙虚で、「ああ、神々様のお蔭だ、御仏のお蔭だ」という謙虚な方です。その力のお蔭だというかたちで、全然我力とか自力なんていう要素が出ないような感じです。

他力本願の人でも、やっぱり阿弥陀如来さんいるけど一生懸命努力して、阿弥陀如来の本願をとげるべくひとりでも多くの衆生でも、というかたちの努力はやってますよね。

自力他力の上に乗り越え、法をこした人というのは、この法則越した人というのはもう、両方全部体得してます。浄土真宗でも日蓮宗でも、一番に立ってる人、達人というものは全部この要素を体得してる人です。

もうどこでも同じです。まあ、これが三番目の神霊と一つになっていくという法則です。

(次章に続く)