深見東州の土曜神業録8(Vol.2)

【第一章】神仕組とは(昭和59年12月15日)

神界、霊界、現実界の仕組

【深見先生】ア、ア、入ってますね。昭和五十九年十二月の十五日。えー、本日もご来店いただきまして(笑) ……。

仕組について。よく植松先生のお話で、仕組がどうのとかね、仕組に参加させていただくとかね、よく出ると思うんですよね。

仕組、仕組ってのは一体何なのかと。これ、やっぱり理解しておかないと、と思うんですけれども。

この仕組というのは、文字どおり言いますと、何かを仕組んでいく。

まあ、英語で言えば「PLOT」でしょうね。英語の言う「PLOT」というのは、悪だくみとか陰謀とかってありますけど、どちらかというと神様の仕組といいますのは、だいたい、お芝居の台本だと思っていただきたいんです。

神様の仕組ということは、だいたい、人類のドラマをこういうふうにしていこうかっていう台本がありまして、それに基づきまして、役者さんがいると。

ですから、その役者さんになるのが御魂で、神霊界の神様の役者がいまして、それを我々が演じまして、こう現実界の世界で仕織りをしていくと仕織りというのはどういうことかといいますと、例えば、日本が、新しく文明開化のときっていう、世界の歴史の中でも大事な要素ある、聖徳太子の時代ですね。

神様が中国に、隋唐の大きな都を築かれると同時に、日本もそれを吸収するべく、聖徳太子さんのような方があらわれて。その後、お亡くなりになって十余年経って、役行者、行基菩薩と。その後、弘法大師、伝教大師という方があらわれまして、当時、中国は唐の時代ですね。

というふうに、世界の歴史というものを順番に神様が仕組をしまして、このあたりに文化が出てきて。ですから、その唐の時代をつくった玄宗皇帝とか、あるいはアレキサンダー大王とか、大きなそういう天の命を持った人が、その時代に生まれまして、神様が大きな歴史を、お芝居のように、歴史ドラマを仕組んでいらっしゃる。

その大きな歴史ドラマを仕組んでいらっしゃる中で、世界の動きがある。その中で、まあ日本は日本で、聖徳太子さん。特にこの中でも、日本の仕組ということであるわけなんですけども。

えー、そういうことで、とにかく仕組でございまして、お芝居のドラマのようにそれをやっておられる。

そのお芝居のドラマの中で、ストーリーがこういうふうに、台本がありまして、脚本どおりにやるんですけど、まあ、その現場監督と申しますか、やっぱりそのお芝居を演出したり、それからあのー、何て言うんですか、振付をしたり。

スポットライトを当ててみようなんていうことで、お芝居の舞台装置をつくっている監督がいますね。

この、だいたい、舞台監督というのが現実界の、まあ、えー、国常立尊様とか、あるいはその、こういう形でこういうふうにすればいいんじゃないかというポイント、ポイントでこうけじめをつけまして、だいたい、三世紀にはこう、一世紀にはこう、西暦何年前にはこう、二十世紀はこうっていう形で、文明のポイント、ポイントというところを、まあ、その菊理姫様が仕組をしておられる。

天界の仕組と霊界の仕組と現実界の仕組と。顕、幽、神、その三つの仕組をしておられる。

で、どういうふうに順序やるかっていいますと、神界でまず仕組がされまして、その神界のお仕組がこの霊界に写ってきます。この霊界の仕組が現界に写ってくると。

えー、なぜこの現界と言いますかといいますと、現し世。今の現実界のこと、現世のと。よく言いますよね、現世の何とか何とかって。現し世というのは何を写すかっていうと、霊界のあり様を写している。

あるいは、神界のあり様をこう写している。

ですからまあ、コンピュータ・エイジなんて言いまして、コンピュータなん今あるんですけれども、あれはやはりだいたい、植松先生のあれによりますと現実界で形が出てくる約三十年ぐらい前に、既に神界とか霊界でもうつくられていると。それを天才の能力のある人がパッとキャッチしまして、形にあらわしていく。

だけど三十年ぐらい前にもう、そういうものはできていると。コンピュータっていうのは、ああいうようなものも神様の世界に全部もうあるわけですよね。それを何かのイメージを描きながらこう現実化していく。

ですから、霊界っていうものを、現実界というのは現世で、それを写し出しているんだと。

ですから、予言者というものは、例えば千九百何年にあれが起きるとか、歌とか詩のような形でね、えーノストラダムスとか、予知能力のある人っていうのは、この霊界でそれが移写されて、現実界に出てくるまでのこの世界(霊界)をこう見ましてね、将来ああなるだろうっていうことを予言する。

またこのもっと奥には、この神界の仕組というようなものをこう見まして、現実界で何年先にこれが起きるだろうと。

手相をやってる人はその筋を見まして、こういう、潜在意識がこういうふうに「生命線と運命線で、太陽線で、全然すばらしい」という線を見まして、これが現実界に写し出されていく。

しかし本質的な、その霊的な予言者というのは、こういう世界で出てくるものを、現世に写し出される前の世界をこう見て、予言するわけなんですよね。

これが一つの形でありまして。ですから三次元の仕組をする、四次元の仕組をする、神界の仕組をするっていう形で、それぞれの次元次元で、仕組というものが、ここであったものがちゃんと写し出されているか、あるいはその、建築事務所の、設計事務所の所長がいまして、だいたいどこかのほうからオーダーが入りますと。

これだけの図面と建築をやってくれと。オーダーが入りましたら見積もりをしまして、予算の枠内で合うように、ああでもない、こうでもないと、こう神界でやる。ここの建築、設計事務所の所長さんがOK出したら、その図面はOKだと。

「許す」っていう形で出まして、そしたらそれが、工務店のほうにそれらが発注されまして、その設計図どおりにやるために、だいたいその、ゼネコンでこの設計図どおりにやらなきゃいけないっていうことで、いろいろ計算はじきまして、土木工事、それから資材からいろんな形で出てきまして。

だいたい、全部の形ができたなと、いう形でその、建築会社の企画部の中で、建築会社が「おお、許す」と。

だいたい、霊界へ出てきて。そして、現実界の中でそれが工事が始まる。そうすると、図面という形で、構造計算が出されているのに、何日何時には工程表が決まりまして、何日には更地にしなきゃと、地ならし工事をする。それから杭を打つ。

土木工事がこう始まっていって、重機、設備工事がこう入ってくる。電気工事がこう入っていく。このあたりに板金が入ってきてと。

いう形で、工事日程が全部うまくいっているかどうかというものが、設計図と現場の工程表に基づきまして、現場監督が、現実界の中で「ああ、ちょっとこれは早過ぎる」とかね、「ちょっと途中で、工程が何日までと決まっているんだけれども、ちょっと雨が降り続けてね、台風の状況がよくなかった」と。

それから、「急に資材が値上がりしちゃったんでね、ちょっと安い品を入れてこようか」と。

そういうようなことがこちらのほうから指令が出たりしまして、こういうふうな形が、設計図どおりうまくいっているかどうかということが、神界のほうからも常にこれを見ている。それから霊界のほうからも見ている。

現場監督は、そういう形のものを全部受けまして、そして、その工程どおりに全部工事がつつがなくいって、事故がないか。ちょっとぐらい事故があっても修理しまして、雨とか風がありましても、だいたい日程までにこれを終わらせていくと。

こういうふうなことで全部、現場監督はいるわけですね。

例えば、次元、次元で一つのお家を建てていく場合は、こういうふうな形で仕組というものは、現実界に降りてくるわけなんです。

それぞれのまあ次元次元で、その仕組をしているというところで、まあ、仕織りをするというのはそういうことなんですよね。

明治維新と「縦糸、横糸」

これが、明治天皇様のお歌にございまして。(板書)

絶えたりとおもふ道にもいつしかとしをり(仕織)する人あらはれにけり

もうこれ、すばらしいですね。明治陛下のこの歌。

やっぱりもう、絶えたっていうふうな形で、こういうのがやっぱり、各時代時代の大きなね文明の勃興時期とか動乱期とかっていう形のが、一つまた一つと織りなしていって、時代が。あるいは絵の歴史、それから政治・経済、あらゆる面で、教育っていう形のものがあらゆる面で、いろんな面がこの、柄がなされていく。

そういうふうにあの、ここの仕織りってのは例えば、植松先生いつも言っておられますように、機織りのね、機織る仕組と。七澤さんがいらっしゃれば、女房は家で機を織る、トントントン。与作と(笑)。

そういう形なんですけど、まああの、仕組というものはどういうものかっていいますと、機織りの仕組で。

というんで、いつも植松先生が仕組、仕組と言いますけど、その仕組というのは、中国で出ておりますのは、「天網恢々疎にして漏らさず」。天網恢々疎にして漏らさず。

天の網の目ってのは非常に細かく張りめぐらされていて、ゆとりがあって、空間があるようだけども、絶対に漏れることがない。あるいは、神様の仕組は「水も漏らさぬ神の仕組」とか。

もう水も漏れないような、ピシッとした仕組がしてあるんだよと。

だけども、例えば、どういう仕組かっていいますと、まあ、縦糸と横糸というんでこれ、十字にね、結べていくんですけども、縦の仕組というのは、だいたい西暦何年にはこれ、それから何世紀にこうと。

だいたいこの時代にはこれっていう形で、神様が大きな、先ほど申しましたように、お芝居の台本のね、第一幕、第二幕、第三幕。第一幕で何とか編。まああの、「おしん」ですと、少女編、それから中年編、老年編ね。役者が三人交代しましたけれども、動乱期がこれだと。ここでそれが、何とかが、竜三が死んでなんていう。

竜三が死ぬことだけはこれでやって、結論でこういう形で、おしんとこれが最後の場面というのはこういう形で、だいたい決めていく。

という形で、大きな骨子というものは、けじめ、けじめのところはだいたい決めているわけですね。

で、横にいきますと、何世紀、何世紀、何世紀、日本の歴史の中でも、この時期とこの時期は文明勃興、あるいは戦の時期。あるいは科学文明の時期とか、大きく、いろんな層が何層にも何層にも、縦の仕組というものはもう決まってるわけですね、だいたい神様の。

ところがこの、これがいわば縦糸ですね。縦糸とか、縦の仕組。縦糸、あるいは縦の仕組と言います。

えーもう一つは、横の仕組といいまして。だいたい、機を織る人、こういうふうに織りますよね。縦糸がこういうふうに、最初こう織りまして、と言うんですけど、コンとたたくと、こっちにピュッと飛んでいく。

で、コンとたたくと、ピュッとこっち。コンとたたくと、こっち、ピュッと。そうしまして、横糸がこういうふうになりまして、編んでいく。

神様の仕組というのは、だいたい縦と横、こういう。縦の糸、横の糸、こういう形で、仕織りをするときには十字に組んでいくわけですね。まあ、例えば

【植松先生】横糸は人がね。

【深見先生】ああ、横糸は。横糸は人が、そうですね。横糸は人の動きで、だいたい神様が縦に大きく計画しておられるのを、まあその代表者、台本の役者が抜擢されまして、おまえが今度役者せいということで下稽古いたしまして、大事な、何歳になったらこうしなきゃならないという大きな天命がある。

それで人間が、現実界の状況ですか、人間世界の中でのそれを、細かいところでこう、ああでもない、こうでもないと言いながら、神様の縦の糸に合った形で、地上の現場監督の指示のもとで、一つ一つこう工事を行っていく。

そういうふうな感じで、縦糸と横糸というのがピシッと十字に組んだら、うまくいくわけですね。

ですから、人間のご神業していくにしましても、人生行くにしましても、あれがいいから、これがいいからっていう形で自分なりの考え方でやっててもこれ、縦糸と全然合わなかったらもつれちゃうんですよね、グルグルグルグル。だからその場合は神様がパチンと糸を切って、つなぎ直すとか、もう一度整理して、こんがらがっちゃったやつを元へ戻して。

そしてまたこれを、カッタンコットンと、コットンコットンとこう機を織っていくと。

で、これ、仕組やっているときは、例えば、神様の仕組は機織りの仕組と言いまして、この機を織ってる人間の世界は、縦と横がね、縦糸と横糸がありまして、ポイント、ポイントでこう決めていって、ここにパチッと組んでいるところはツボにはまるわけですね。

植松先生と私と会ったときとか、西谷さんと会ったときとか、大きな仕組がポンポンポンと、何年に会っていくというのは、こういう形で。

ところがですね、織っているときっていうのはわかんないんですよね。織っているときには、横糸も縦糸も……。

だから、ただいま、ただいまを一生懸命生きておりまして、何がどういうふうに模様ができてるのかわかんないんだけど、まあだいたい今までこういうふうにきて一生懸命やってたら、知らない間にこういう形のものになる。

機織りの仕組と言いますのは、機を織っているそのときはわからない。わかんない。

そうして一生懸命織って、織って、織って、織ってきて、「はあ~、五十年間神様の仕組に参加させていただきまして、どうですか」とパッと振り返ってみたら、きれいな鶴の絵になっておりましたと。きれいな松の絵柄になっておりましたと。

こちらのほうで見るのはあれ、そうですよ。縦へこう何か、数字がこう書いてありまして、見てわかんないですよね。

こっちでは何かのこんな格好のが出てきて、こっちではこういうようなのが出てきて、こっちではこういうのが出てるから、それを見たってわかんないんですけども、幾つも幾つもこういうふうにね、カッタンコットン、カッタンコットン織っておりますと、何年か経ちましたら一つの絵になってくる。

そうですよね、機織りの生地というのは。これだけ見たら何か点点点と何かどっかにね、印がついてありまして、絵柄になってないからわかんないんですよね。

ところが、だいたいこれを織ってきたら、鶴の頭の部分とか、亀ちゃんの口の部分がチョロチョロッと出ておって、こういうとんがったところと羽のところと見たって、何の柄かさっぱりわかんない。

だから機織りの仕組は、機を織る人にはわからないけども、後で見たら、「あっ、こんな絵柄ができ上がってたのか。すごいなあ」と。後で振り返って

わかるというのが、機織る仕組の一つの原則。

だからただいま、ただいまを一生懸命生きていくことによって、次の、やっぱり仕組というのか、次の糸、次の絵柄のところへ移っていくということで、全体が見たら、弥勒の世の神様の絵図という形ができるわけですよね。

こういうふうな形で仕組というのは進んでいくという。だから植松先生、これからご神業っていうときに、コットンコットン、機織りの仕組、縦横十字にここで ……。

ですから、ご神業で十字がすりのね、ところを見に行ったり、十字がすりが来たときには、「あっ、仕組はこういうふうになってってんだなあ」ということを神様が証で教えてくれる。

まあ、そういうことがありまして、一つの絵柄が済んで、おそらく明治陛下のこのお歌の中には、明治維新というね。

明治維新という大きな仕組があって、高杉晋作だ、西郷隆盛だ、薩長連合だというそれぞれの役者があらわれてきまして、明治維新という一つの機織りのドラマが、ドラマがこういう形で演じられる。

もちろん、神様の目から見たら絵柄ですけれども、お芝居から言いますと、役者がだいたいのストーリーを考えて、無血革命をしていこうというときに、西郷どんにはこの御魂、明治陛下にはこの御魂、坂本龍馬にはこの御魂、だいたい役者が決まっておりまして。

で、現場監督の神様が、ああでもないこうでもない、明治維新のドラマを演じていく。絵柄が同時にコットンコットンと織られていく。

そして、明治維新の大きなドラマが演じて、ああ、もうそれでね、一つのドラマができ上がったかっていう形になったときに、「絶えたりとおもふ道にもいつしかとしをりする人あらはれにけり」と。

また、大正は大正、昭和は昭和の新しい時代になってきて、もう仕組するようなああいう人はいないのかと。

自分が死んでしまえばもう、そういう神様の仕織りをする人はいないのかと思うと、また、神様が新しい人を白羽の矢を立てて、新しい時代の仕織りをしていってると。

こういうことは、際限もなく、人類の発生以来、有史以来ずーっと、洋の東西を問わず神様が進めているんだよと。

コットンコットン機織る仕組。お芝居のドラマをつくっていきまして、まあ、「絶えたりとおもふ道にもいつしかとしをりする人あらわれにけり」と、こういうふうにお歌にあるように、神様の仕組というものは変わりなく続いていってると。

変わり続けるということが変わらない真実

まあ、お釈迦様の涅槃経にありますように、「自灯明」、「法灯明」という有名な言葉がありまして。自灯明法灯明(板書)。

涅槃経で出ておりますときに、阿難尊者あなんそんじゃ。えー、お釈迦様が八十何歳で、五十年間説法しておりました。

もうお釈迦様があるとき病気になりましてね、ああ、お釈迦様、元気出してくださいと。風邪でお休みになって、もう死ぬかと。お釈迦様に死なれてしまいますと、ほんとに困ります。

ああ、私たちは何を頼りにして生きていけばいいんですか、お釈迦様が亡くなったらと。

そうしましたときに、お釈迦様が、自灯明法灯明

「阿難よ、私はいつまでも生きていないよ。私というものを頼りにしちゃだめだ。形あるものはやがて滅びていくんだよ。世の中は変わり続けるんだよ。だから、自らをともしびとして、それから私の言った法、教えを、法をともしびとして歩みなさい。修業を怠るな」っていうことを、そのときおっしゃった。

ですから、自灯明法灯明。自らをともしびとして、自分自身の精進努力の心をともしびとして歩んでいきなさい。私が言った、その神様の法、宇宙の法、仏の法という、この法をともしびとして生きていきなさい。

それ以外のものに頼っちゃいけない。自灯明、法灯明って言いまして、禅でも大事に言うんですけども。

まあそういうふうに、お釈迦様のいたときにはお釈迦様もいたっていう形の仕織りがあるんですけど、それがなくなると、また世の中は変わり続ける。植松先生がご神業でいつも言う。

「たった一つ世の中で変わり続けないものは何か知っているか」。

私は植松先生に言われまして、「う~ん…・・・、何だろう、宇宙」とかね、「地球の回転。これもいつか変わるかな」。

「たった一つ世の中で変わり続けないものは何かしら」。

さんざん問答がありまして。さんざんというほどじゃありませんけど。植松先生が簡単に、「それは、世の中でたった一つ変わらないものは何かと言えば、世の中は変わり続けるということが、これだけが変わらない事実なんだ」。

変わり続けるということだけが、変わらない真実なんだよということを言って、「はあー、なるほど」 ….。

簡潔にして明瞭。真理を含んでいる一厘と。それを私は長々と「はあ、お釈迦様の遺言と同じですね」っていうね。

涅槃経にあるように、世の中は変わり続ける。自らをともしびとして、法をともしびとして生きなさいと。植松先生の言った、神様のおっしゃったことは、お釈迦様の遺言の、言い残したことのあれですね。

まあ、そのように、お釈迦様の時代、あらゆる時代というので、「絶えたりとおもふ道にも」、お釈迦様が絶えたりと思う道にも、「いつしかとしをりする人あらはれにけり」。

達磨大師とかいろんな、仏教におきましても、偉人があらわれてくる。

りゅうじゅぼさつ

そういうふうに、神界であったことが霊界に、霊界であったことが現界に、現世という形で写ってくる。そういうふうに、各時代、時代に、仕織人という人が……。

仏教で言いますと、お釈迦さんの仕織りの人の後には阿難尊者とか、達磨大師とか、あるいは龍樹菩薩とか、新しい時代時代にね、新しい宗派を起こすようなものを。

宗教の歴史見ましても、政治の歴史見ましても、大きく神様というものは動いていますよと。

この明治陛下のお歌に内包されておりますところの意味というものは、非常に含蓄の深いものであると言うことができると思います。

こういうふうに、神様の仕組というものは昔からあって、これからも、今も続いておりますし、我々もまた新しい絵柄を組んでいってるんですけど、またこれが変わり続け、変わり続けながら新しい絵柄をね、果てしなく続いていっってる。

しかもこの明治の、封建時代が壊れまして、現界に近づいて、現実界に近づいてますのは、一つの過去の大きな絵柄の中でも非常にドラマチックな絵柄がね、弥勒の世へ近づいていくというドラマチックな絵柄が、明治維新からこの百年の間には、科学文明も教育文明も、通信技術、宗教のあれにしましても、政治体制、経済体制が大きく変化した時代ですね。

人類の歴史始まって以来、この百年ほど、激動の多い、進歩の著しいものはないと思います。

仕織人の条件

まあ、そういうふうにドラマができているんですけど、ここで少し考えなきゃいけないことは、まあ、この絵柄を神様が仕組んでおられるんですけど、縦の糸……………。まあ、仕組に関しましてはそういう形でやっていくんですけど。

まあ、「素直」という言葉がございますけど、素直ということは、前にお話ししたと思うんですけど、素直ということは、素直だよ。

「素」というのは、主から糸がたれて直だよ。糸がたれているなんていう形でね、前に説明したことあると思います、私は。素朴で素直というのが一番大事なんだと。

その糸がたれているということ、まあ考えたらこれ、縦糸ですよね。

だから、神様の仕組に使っていただく人間といいますのは、だいたい九分九厘まで、霊的には磨くし、精進努力もしますし、仕事におきましても、仕織人、仕組にしましても、だいたい九分九厘までうまくいくんですけど、一厘でみんな足をすくわれて落ちる場合が多い。

大本教の出口王仁三郎も、岡田光玉さんにしましても、みんな、過去の仕織人というのはそれぞれにありまして、特に霊的能力というものが特に優れているとか、各時代時代の仕織人っていうのは、いいところまでいって、一厘でだめになると。

それはなぜだめになるかというと、これやっぱり我と慢心なんですけど、手柄を立てたい。おれがこれだけのことをしてやったと。

何かの手柄を立てたいっていうふうな気持ちが起きますと、もう九分九厘まで行くけども、一厘で足元がスコーンとすくわれまして、仕織人という形でいい線までいっててもね、終わりをまっとうできない。

最終的には、素に直であると。主から糸がたれている、これに対して素直に物事、どんなこともそれをさせていただくという気持ちでもって行くと、仕織りはピシッピシッピシッと進んでいくんですけど、自分なりの観念とか、自分なりのやり方とかっていう、素直にこれに従ったりして、仕織りをさせていただくという気持ちがないと、まあ危ない。

ですから、ぎりぎりのところでいつも神様は、一厘のこれがあってやると、ここにパチッと一つの杭をとめるわけですね、菊理姫さんが、ピシッと。

ポイントポイントの一厘というものは、「もう神様にお任せしてどうなってもいいです」という気持ちになったときに、パッと。「許す」っという形で一厘がボン!と入るわけです。

これがやっぱり、仕織人として一番大事なことなんです。