深見東州の土曜神業録8(Vol.5)

新しいことをするのはなぜいけないか

(問いを書いた色紙を渡して)

【深見先生】 Kさん。

【Kさん(男性)】はい。えーと、「新しいことをするのはなぜいけないか」

【坂本さん】これは難しいな。

【Kさん】・・・・・・(長い沈黙)。(笑)

【深見先生】なぜいけないかね。新しいことをするのはなぜいけないか。今までやってきたことに腰が入んないから。まあね、新しい道というものをすぐに求めてね、行くのはいいんですけど、こういうことがある。

えー、芭蕉。松尾芭蕉、俳聖ね。あの、俳句の聖と言われている松尾芭蕉。この松尾芭蕉は、こういうことを言ってる。

「無能無芸にしてこの道に通ず」。無能であって無芸にして、この道に通ずと。私はなんにも能力ありません。

無芸でございますと。無能無芸で、みんなからもう、この道しかないんですっていうふうに思いますけど、無能無芸にしてこの道に通ずと。この道ってのは俳句の道ですよね。芭蕉はそういうふうに言ってるんですよ。

逆に、あれもしたいこれもしたい、新しいことを、これをしたいと。こういうふうにやってもいいんじゃないかなと。一つのことに対して、少なくとも十年というものは…、ま、西谷さんいわく、えー、ある人が、「私は職を転々としてるんですけども、どういう職業がいいですかねえ」

「あなた、一つの職業で、十年はやってみないと…」

何でしたっけ、あれ。

【西谷先生】十年我慢できないようでね、何で大成できますか。

【深見先生】そうなんです。

【西谷先生】水野南北みずのなんぼくという人が。

【深見先生】十年我慢できないようで、何で大成できますか。いろいろやってみても長続きしないんですけど、私の適職は何でしょうかと聞いたらしいんですね。そう答えたんですよね。水野南北。

だから松尾芭蕉さんは、死ぬまでその俳句一筋ですよ。無能無芸、他に何にもできない。逆にいうと他に何にもできない、しないから。これを、これしかないと思って、歩むから、あれだけの俳聖と言われる人だったわけ。

俳句もできれば、これもできればとかっていうの、恐らくできたんでしょうけども、やらなかったんでしょうね。新しいこといろいろやりたかったんだけども全部やめて、無能無芸にしたんでしょう、自分で。

そういうふうに「無能無芸にしてこの道に通ず」っという短い言葉だけれど、その、言葉の奥に入ってるものの、芭蕉の境地というもの考えてみた場合に、んー、芭蕉は、無能無芸に、この道に通じようと思ったから、無能に、無能無芸に自分がしたんじゃないか。

俳禅一味はいぜんいちみていうんですけど、俳句と禅は一つだと。

そういう境地から、「古池やかわず飛びこむ水の音」という、そのままのその情景言ってるんですけど、感動する。なぜいいのかって。「いや、これは、水の音とこれとのコントラストがあってどうのこうの」って説明しますけど、そんなこと考えて作った俳句じゃありません。パッと自ずから出るんですよ。「古池や・・・・・・」パッと出るんですよね。

だから、無能無芸にしてこの道に通ず。一つのことに腰を落ち着けて、この道しかないと思ってやってて、そして打ち込んで打ち込んで打ち込んで十年、そのつもりでやってて、ある時、自分ではその道しかないと思って打ち込んでる人に、ある人が来て、「君、これやってみないか」と。

「いや、これで行く」「いや、どうしてもこれ君やりなさい」っていう形で来たときに、考えたらいい。

一つのことができあがって、ある程度やった人が、次のことしたらそれも打ち込めるけれども、気持ちがああでもないこうでもない、また新しいことに向かってたら、新しいことしたっておんなじこと。

また新しいことがないかと思っちゃうわけ。何やったってだめだということなんだよね。だと思うんですよね。

どんなことでも一つ始めたらそれへ腰落ち着けて一生懸命やる。そしてそこに天の道が、守護神、守護霊、神様が、それがあなたの行く道じゃありませんよって言ったらその会社倒産する。

人間関係でいたたまれなくなるような状況。業績が悪くなって、やめだーとか。たまたましたことで、ね、火事になっちゃったとか。不慮の、自分じゃない人がですよ。自分がやるかも知れませんね(笑)。

どうしようもないような立場に立っちゃって。そんな中で、自分は一生懸命やりたかったんだけど、そうならざるを得なくなっちゃったと。これは、神様とか守護神、守護霊が導いてきて、お前の本当の道はこっちだよっていうふうに、連れていくわけ。

何かの、それが来るまでは、その道に打ち込んでいたらいい。無能無芸にしてこの道に通ずと。問いはなんでしたかな。

【Kさん】新しいことをするのは、なぜいけないか。

【深見先生】旧来のことに腰が落ち着かなくなるから。落ち着かない。まあ、よっぽど前の悪いことだったら、ねえ、全部パチッと切り… ま、その上に出てくる、奥の境地ですよ。

新しいことをし始めて、やるっという場合は善の場合ありますけど、それはそのことについて、ずーっと腰を落ち着けてそのことはやるべきですよね。で、その時に「新しいことをやるのは、なぜ良くないか」なんていう問答出てこないですよ。

「古いことを考えるのはなぜ悪いか」なんてのがね。だから、そういう文句を出てくるということは、ただ今、今あることに腰を落ち着けてやりなさいよと。新しいことっていうのは、宝、宝物ってあるでしょう。宝っていうのは他からやってくる。だから宝なんだと。

うん、植松先生、言霊で。天来の福音て言いますけど、福音て天来、天からやって来る。他の人から「君、こうだよ」っていう形でやって来る。

自分のほうから求めてどうのこうのっていうんじゃない、チャンスっていうのはそういう形で来る。それをパッとつかむということが大事なんです。守護神、守護霊さん、神様の導きってそういう形で導くね。

だからあんまり、あれじゃこれじゃっていうんじゃなくって、今の自分が置かれている立場のこと、全力を尽くしてやるということが、無能無芸にしてこの道に通ずという。

何か通じるもの、自分自身を磨いて、やるという何かがなきゃね。新しいという物事にとらわれてたら、内面的なものが成就しないでしょ。

そういう感じするんですよね、今のこの。新しいものをするとなぜ良くないか、旧来のことに腰が落ち着かなくなるから。なぜこういう問答出るのか、よく僕は分かりませんけれど、Kさんが、「うーん」とやってみたら思い当たることあるかも知れないね。

【Kさん】その通りですねえ…… (笑)。

【深見先生】そう。そうですか。

【Kさん】はい。

優しさと愛の違いとは

(問いを書いた色紙を渡して)

【深見先生】 Aさん。

【Aさん(女性)】はい。

【深見先生】どういう問いですか。

【Aさん】「優しい人は、なぜだめですか」。

人に優しい人は、自分にも優しいからだめだと思います。

【深見先生】うーん……。九十点ですよ、その答は。すばらしい。

【Aさん】私がそうです(笑)。なんか、時と場合によっては、厳しくしなくちゃいけないときもあるんですが、それは人に厳しくするのは自分にとっても同じことなんで、ついその優しさと甘えとを取り違えて、自分を甘やかして、それを優しさということにすり替えて、その場を適当に、丸く収めていくことは、結果としては、よくない…、と思いました。

【深見先生】よく悟りましたねえ。

「優しい人はなぜだめですか」。うん。やっぱりそうですね。優しい人はなぜだめですか。

【Aさん】パッとこれを、もらった、いただいた時に、ライオンのお母さんが、子供が少し大きくなると崖から突き落しますけれども、それは子供のためなんですけれども、優しいお母さんとかいって突き落とさないと子供がいつまでも一人立ちできないという、話が思い浮かんだんですけど。

【深見先生】うん。優しい人はなぜだめですか。まあ、大愛が欠如するんですよね。

大愛というのは厳しい時は厳しくし、優しい時には優しくするという、これ、観音、大慈大悲なんですよね。

今日もBさんに出ましたけど。愛が大きいから、愛が大きい人というものは、優しくすべき時に優しくしたほうがこの人にいい場合には優しくして、優しくしてだめな時には厳しくできる。

なぜできるかといったら、愛が大きいから。観音様というのは、大愛なんです、神様というのは大愛なんですよ。大愛だから、大慈大悲。大慈っていうのは、大いに慈しんで、大悲というのはその人に試練を与えている。

試練を与えて厳しくしている時っていうのは、悲しんで苦しんで葛藤しながらやってる時ってのは、神様も非常に悲観しておられる、悲しんでおられるんですよ。

可哀想になあ、でもやっぱりここで試練を経なかったらこの子は一人前にならないからって、今、ライオンの、おっしゃったように、神様も心で泣いてるんですよ、悲しんでおられるわけ。非常に悲観して、悲しんでおられるわけ。

観音様というのは大慈大悲ですよ。お父さんのように厳しく、お母さんのように優しい、両面持っておられる。

大愛というものでなかったら絶対に神人合一できないんです。来年度の講習のテーマですからね。

だからピシッと厳しくして、突き放したほうがいい場合には、それは愛だから。それがその人のためだから。優しくしてあげたらその人のためにならない。常にその人のためなんだけど、それは、愛が大きいから。

大慈悲、優しさと厳しさの両方持ってやれるわけですよね。

優しい人というのはその、大愛というものが……、というよりも、その優しいっというふうに特にまあ、大愛がやりづらいですよね。どうしてもその情的な………。

「ねばならない」という気持ちはあるんだけれど、その厳しくする時に、非常に葛藤があって、苦しみがあるわけですよね。

もう少しさめた気持ちになって、思いやってやることで、ほんとに生きるんですよね、人が。なかなか難しいことです。それが愛の大きさ。

で、キリスト教的な訓練を受けた人ってのはどうしてもこの、優しさっという、博愛っていう気持ちがあまりに前に出過ぎてね。

厳しく神様がパッと突き放してあげるっていうよりもどうしても、優しさ優しさ、ヒューマニズムとか博愛ってのが前に立っちゃいますから、どうしてもその観音の、大慈大悲の自在性、大愛っていう面から見て、どうしてもその、キリスト教的なちょっとの、まあ問題点って言うんですかねえ。一般傾向として言えるんですよ。

非常にまあ、冷酷よりは優しいほうがいい、大概いいんですけど、もっとそれを一つランクに立った大愛っていう面から見た場合に、余計な葛藤しますね、心でも。

僕なんかもそのほうですよ、「深見さんは優しすぎるから」って。どうしてもね。優しく優しく、それは植松先生があんまりに厳しいから、僕は優しくならざるを得ないわけですが(笑)。

「植松先生が、ね、優しくしたら、僕は厳しくします」なんて言うんですけどね。実際は情が深いですよ、植松先生。

だから、大愛っていう形でする時にはほんとに心の中で言って聞かして自分に、やんないと厳しくできないんですよね。

商売なんかする時にはもうポーン、突き放して喧嘩した時にはかえって相手がよくなるっていう時に、相当胸ドキドキして、言って聞かしてやりますよ。準備期間を長く置かなきゃいけないんですけども。

植松先生なんかはその瞬間に、パッパッパッと変わりますからね。達人ですよ、ああなかなかできないですよ。今ニコニコッとしてるのが、こっち見たらガーンと怒ってるかと思ったら、またパッとニコッと笑う。よく零点何秒でやれるなと思いますよ(笑)。

僕なんか自分に言って聞かしてこうやりながら、厳しくできるようにする。準備期間がいるんですよ。

植松先生は瞬間ですよ。これ、お付き合いしたら分かりますけどね。

今、二コニコッときたのが、ガーッと雷落とすかと思ったら、パッとニコニコして。泣いてるかと思ったらグスンってやったらニコニコッと笑って、そういうこともなかったかのように。よくやれるなあと。もうその切り替えの名人ですね。

だから、厳しい時にはもうこう絹糸で、ワーッ、張り裂けんほど厳しく、やられますよ、私なんかね。一番、パワーが強いから。

それが、植松先生のあの、普段は優しい声だけど、はー、絹糸みたいな声で、ありますよね。あのー、煮抜きの卵ね。ボイルの、糸で、キッと切られてスパーッと割れた、ああいう感覚。だから女の子でも、厳しく言われてますよ、雷が落ちますよ。

それでなきゃ、あのー、入んないんですよね。お茶でもそうだけど、癖だから。生まれながらの育ってきた癖でしょう。「あなた、あーね、こーね」なんて言ったって、入んないでしょう。バーッて言ったらもう、ウワーッとしてそれを、あ、もうやめるんですよ、体で覚えると。

まああんまり日々、普段言いませんけど、お家で、内弟子さんで来てる人には。頭でなくって、そう変わっちゃうんですよ。

そうじゃない人には、パッと優しく。よくやれるなあ。優しいとか優しくないの世界じゃないんですよね、植松先生。うーん、僕はなかなかできないですよ、あれ。人間が、そのー、優しいから。言って聞かすのに時間かかりますよ、これね。言って聞かす、そこに、そこに学問ですよ。

「天地に仁なし、万物をもって芻狗となす。君子に仁なし、百姓をもって芻狗となす」と言うだろーって自分で言って聞かすわけね(笑)。その時間かかるわけ。皆さんに、ああいうふうに言葉言いますけども。

僕が最初にあの学苑、塾出した時に、先生募集するんですよ、東京外大とか東工大とか。一次二次といわゆる面接ではすごくよかったわけですよ。

ところが、Y子さんていう人が出て、東京外大出た女の子ですよ、女性。頭はいいし、経験もあるんですよ。

で、そのY子先生が、「学苑長先生、ああいう人たち、六人の、あの人とあの人、六人はね、私は良くないと思うんです、生徒に対して。あの先生、辞めさせたほうがいいですよ」って。

それでももう、二月か三月になってて、募集時期随分過ぎてるでしょう。採用してるから。今、辞めさせちゃったら、他で働くとこないわけですよ、もう過ぎちゃってるから。

それでも生徒のこと考えたら、あの先生じゃ確かに問題ある。面接の時ってのは、ああだったけども違うなあと思うわけですよ。

で一晩葛藤して葛藤して、苦しんで苦しんで。「生徒のためを思ったら、あの先生はやっぱし、どうぞ神様どうしたらいいでしょうか」と。

六人辞めさせたら、あの後あの人たちは後どうなるんだろうかと考えたら、可哀想だと思うでしょ、先生がね。断るんだったら早く断ったほうがいいんですけれども。

その時に葛藤しましてね、はあーと思って、もう一晩神様悩みましたよ。神様、どうしましょうか。こうだしこうだし、こういうふうに言えるし、困りますっともう、ギリギリまで煮つめて煮つめて僕も。そのこと考えたらできないわけですよ。一晩悩んで。最初ですよ。

それで、その時にパーッとその老子の言葉がこう浮かんできたんですよ。

「天地に仁なし、万物をもって芻狗となす。君子に仁なし、百姓をもって芻狗すうくとなす」。そうだ!……………、ようし、涙を飲んでやるぞと電話とって、「あのー、先生」「なんですかー」って電話口で。

「やっぱりいろいろ考えましたけど、お宅お願いするのやめますよ」って電話で。「はあー、今頃言われてましてもって言って、「それでもやっぱりこっちの都合もありますから」って言って。

文句言う人には、「先生申し訳ないんですけども人件費が、あれなもんでできなくなっちゃいまして」「ああそうですか」って。

一晩のうちに六人首切った。あ、七人か。全部首にしたわけね。それを決心するのにどれほどの気持ちだったかね。もうそう決めちゃったらもうこう決めるって時に、神様のほうからバッと力もらいますから。

一発、全部辞めさせたの。それでいい先生来るまで募集して、それが良かったわけ。どの先生もみんなどの先生もみんないい先生、粒がそろってると。

それから首切り名人になりまして(笑)。黙ってすぐにパッと、喜んで首を切ると。それで一度体得したわけ。それは生徒のためで、先生のためなんですよ。

そんなもんでいいやーと思って世の中来てたら、なんでもそう甘く考えるでしょ。

先生ってそれでいいもんかと思うんで。途中で辞めさせられて来るよりもまだまだ、探すのは、遅くなったとはいえ早いから。どっかでみつけるチャンスがあるでしょう。その気持ちになかなかなりきれないんですよね。

だから早いうちに、相手もよくこちらもよく、気持ちをサッと切る、醒めて。処断すべきは処断、手術する時は手術してパシッとやらなきゃ、経営できないんですよ。

人情で経営したらだめになりますからね。そして生徒を守って、よかったという、他の先生も生きるわけですよ。給料も払えるわけですよね。

だから僕は人間やさしいから、非常に苦しかったですよね。今でも苦しいですけどね。大分慣れましたけど。そういうのもやっぱり、言って聞かせなきゃいけない。皆にえらそうにね、「天地に仁なし」って言いますけども。それで自分が悟ったんですよ。

なまやさしい、優しい人間だった。それ言うと、思い出します、その時ね。ほんとに苦しみましたよ。

向こうもそのつもりでね。今度は逆に、大事にしてたって、「留学ありますから」って、パッとやめちゃうんですよ。

「今、先生やめられると困るのに」ったって、自分の都合があるからって、パッとやめちゃうんですよ。だから先生も結局、そのエゴなところあるから、必要以上に思い入れすると良くないなと思うんですよね、こっちがやられるから。

だからその善悪の判断って難しいですよ。大愛から見てその人のために良かれっていう面、面じゃないと。冷酷じゃないんですよね。

情に絡まないで、両方活かすという気持ちになかなかなりきれない、自分が。優しい人間っていうのはそこがその、大愛という面から見て英断を下すのに時間かかるんですよ。植松先生はその点、まだまだ僕なんか、ああはいかないですよね。

言って聞かすセリフを・・・・・。そうだっという気持ちにならなけりゃいけないですよ。ええ。

しかし、Bさん(男性)にね、言いますけども、僕もそうだった。その苦しみわかるけど、それ越さなきゃだめですよ、男として。ほんと。子供も活きないし奥さんも活きないですよね。

特に神様が天の命とか修業、神業まっとう成就する時とか、絶対その関門、あらゆる面でありますよ。それできないってのはその人の欠陥部分なんですよ。未熟なとこなんですよ、人として。はっきり言って、未熟なところなんですよね。

そう考えようと。未熟だったと自分は、反省しましたよね。偉そうなこと言いますけど、やっぱり涙ながらに、来たんですよ。これからもそうだと。えー、逃げないでねやっぱり、ドキドキしますけども、ハラハラしますけども。体験がありますからね。

当てが外れたとき、いかに心で神上がりするか

【深見先生】君、ここに五人並べばよかったね。ここに並びなさい、一人(笑)。

(少しの間)

(問いを書いた色紙を渡して)

【深見先生】はい。うーむ、どういう問いですか?。

【Dさん(男性)】「当てが外れたという境地から、いかに心で神上がりするか」。

【深見先生】うん、うん。

【Dさん】その当てが外れたということに、やっぱあの、当てが外れたという

ことはですね、それに心が捕らわれてるという……。

【深見先生】うん、神上がりするか。

【Dさん】要するに当てが外れたということは、最初から心で、あーじゃないかこーじゃないかと、こういう予想とか、前もって、あーだこーだ考えるんで、この当てが外れるんであって。そういうことをまったく考えずに、最初から無の境地でそのことに臨めば……。

【深見先生】当てが外れたという境地からいかに心で神上がりするか。

「神様の試練というものは、自分が予想するようなことじゃない」と。至る所青山あり。神様が自分に与えた試練というのは、自分の予想できないところで仕組まれているんだと。

今、置かれている環境は、今、思っているものは、自分の思ってた感じと違うかもしれないけれど、いかなることも神様の仕組まれたもんなんだ。これを喜んで受け取って、乗り越していくという時に、やがてまた新しい試練が与えられるだろう。

試練、神様の与える試練というものは、これは、乗り越せると思うから与えるんですよ。この試練は乗り越せなくって、この人にプラスでないと思ったら、神様与えなくって、そこは良くないよというんで、別の道行かす。

神様がその人に試練を与えるということは、試して、練磨するわけでしょ。

これを乗り越すだろうと。これを乗り越して、彼は立派になるだろうというお気持ちがあるから、試練を与えるんですよ。

ということはどういうことか。試練は、成就できて、成し遂げて、乗り越すことができるためにあるんだと。もともと神様がやれるもんだと思うから与えられている。

「これはやれるんだろうか、どうなんだろうか」というふうに(思うのは)、弱いわけなんでね。乗り越すことができるためにあるんだと。

「じゃあ、ここで神様は何を勉強しなさい、何を悟れと、何を体得しなさいというふうに与えておられるんだろうか」というふうにして、一歩気持ちを進めるんですよ。これとこれとこれかもしれない。いや、これとこれとこれとこういうふうにして、おごっているに違いないと。

そうすることが自分が、今の自分よりも進歩向上に発展することになったら、強引に無理にでもそう思うわけ。そうしたら神様が、そのようにする。

これが悟りなんですよ。

これはきっと神様が僕に与えてくれてる試練なんだ。試練というのは乗り越せるためにあるんだと。きっと乗り越せる。その時に、これとこれとこれとこういうふうなものを、こうして僕に勉強せよというのに違いないと。そういう神様を信じているというのが信仰力。

いかなる環境にあってもそう思うんですよ。そうしたらまた新しい環境が与えられる。「はー、全然、僕が思ってたのと違うとこに来ちゃった」と。

また新しく。何でだろうと。神様の試練というものは、人間の予想外のところに置かれているもんだということなんですよ。

当てが外れるということがあったら、「うーん、いや、これはまた、こういうことを学ばせようと思って神様してるに違いない。いや、そう信じよう」と。そして生きるわけ。また新しいことに、パッと置かれる。

そうやって悟っていって、進歩向上していくんですよ。そこに信仰力がある。その、その人の心の中に神様があるわけ。

いくら神様を崇敬してても拝んでても、心の中になきゃだめなんですよ。心の中の存在として、神様がなきゃだめなんですよ。それは神様を体得してるとは言えないんですね。神様を崇敬して尊敬して、憧れてはいるんだけど、心の中にわがものとしてないわけ。

そう思って信じた神様は、絶対裏切ることはない。心の隅々まで、思っている毛筋の隅々までも神様見てるから。

その人の徳分として、英知として、功しとして、必ず神様受け取ってくださる。神様は全知全能ですよ。全部ご存じです。

そういうふうに体得しなきゃだめなんですね。だから、そう信じようという私が、心の中の神様。Dさんの中の神様の部分はどういう部分かと。

あれがしたい、これがしたい、あーだった、こーだったという煩悩の、煩悩のDさん。あーじゃないかな、こーじゃないかなっていうところは、不安定な、煩悩のDさん。ものすごくムラムラと情欲が湧いてくる、ムラムラとあれがしたい、これがしたいという気持ちがもう湧いてきて、動物霊ですよ。

酒と女のほうだったら蛇だし。女性のムラムラと湧いてきて、コロコロコロコロとこう次から次へと移りすぎる、狐だし(笑)。いやいや、なるべくさぼりたい、楽をしたいと。理だし。そういうふうな煩悩というのが、煩悩の動物のDさん。

いや、そんなことない、僕はこう考えて生きていこうと。不動の信念っていうのは、Dさんの中の不動明王さん。こう考えて生きていこうとするその姿が、Dさんの御魂の働きなんです。

身の内の神様の部分なんですよ。その身の内の中の神様の部分があって初めて、天界とか神霊界の神様がその中に入って来て。

たまたま神様がいらっしゃる場合ありますよ、すーっとくる場合ありますよ、天界の神様。しかししばらくしたらどっかに帰っていくわけ。身の内の中に、そういう風に生きてる人は、神様が来たら去らない。居なくならない。

これが菅原道真公が、「誠の道に叶いなば、祈らずとても神や守らん」。誠の道に叶いなば祈らずとても神や守らんと。誠の道に叶ってたらお祈りしなくても、神様のほうから守ってますよと。

ここは先天の修業というけれども、神様のほうがいらっしゃって、お帰りにならない。常にそこの、その人にとどまったまま、神人合一してる。神様がそこに来たまま、ずーっと一緒にいらっしゃるという人は、そういう風な内面的なものを持ってるわけ。

身の内の神様がかくかくと輝いてるわけ。だからそこに神様が、大きなご神霊が来ても、常に同じ波長、同じ生き方を、その人のメインの中心に心が来てるから、神様が常に来てるわけ。

はあー、そういう風に貫き通した人は、神様のようにすばらしい人だと。信念を貫き通した。信念を貫き通すというのも学問ですよ、さっき言ったようにね。前世から積み重ねて来た学問があるから、貫き通すことができるんですよ。

全然前世学問してない人、ふらふらふらふらしてますよ。言われてもピーンと来ないし。何かを貫き通した人っていうのは、学問のある人です。どっかで勉強してます、前世。

だから「身の内の神様」っていうのはそういう自分なんだから。

身の内の神を体得して、身の内の神を出して体得してる人じゃなかったらどうして、天界の神様が来て、神様と一体と常になってますか。たまに来てもすぐに帰って行きますよ。

常に身の内の動物霊が出てる人は、動物霊が来ても、払っても払っても動物霊来ますよ。帰れったって帰って来ますよ。

身の内の神様が常に出てる人は「神様お帰りください」って言っても、またすっと神様がすぐ、「あれほど神様お帰りくださいってのに、またいらっしゃったんですか」ってなもんですよ。

今度逆は、身の内の動物霊が常に出ている人は、心の主部に来てる人は、いつも動物霊がついてますよ。払っても払っても新しい動物霊が入ってくるわけ。

だから本人が、そういう意味で変わらない限り、そういう内面的な、ただいまただいま、努力がない限り、これ、心の教養、学問ですよ。文字や文章とか、本は読んでなくっても、心の教養、心の学問ですよ。

これがなければ、絶対だめですね。動物霊が出てる、出てる人に、本人が変わらなければ、いくら救霊したって……………。新しいものを引っ張ってくるんだから。

「誠の道に叶いなば」ってのはそういうことですよ。「祈らずとても神や守らん」。菅原道真公の歌はそういう境地でみなきゃだめだ。もう、毎日毎日が神試しですよ、そういう意味でね。

ま、そういうことです。終わりです。一応全部終わりました。ありがとうございました。

【全員】ありがとうございました。

※編註… 心の教養や学問を積み、霊障や動物霊にやられにくい自分になる方法は、深見先生の「大除霊」「神界からの神通力」「大天運」「大創運」等をはじめとする名著に詳しく記されています。