【第三章】神様が最も嫌うこと(昭和59年11月10日)
神様は人間のどういうところが嫌なのか
十一月十日、パート3でございます。
神霊と一つになるシリーズのお話をしているんですけれども、その中で、想念の問題と神霊と一つになる感応というものが一番大きな影響がございます。
もちろん実践、それから言霊。口と心と行いということが大事だというふうに以前お話しいたしましたけれども、口と心と行いというものと同時に、もっと突っ込んだ形で、それでは、どういうふうな心、どういうふうな口、どういうふうな行いを持っていったらいいかという。
前は神様も感動せしむる例えをお話ししましたけど、もう少し今度は想念という世界、思いの世界。心の世界という。思いの世界と神霊ということについてお話ししたいと思うんです。
その前に、これも神霊と一つになるシリーズの一歩、想念の工夫のお話なんですけど、神様がいまして、人がいるわけですね。
まあ、神人合一するわけなんですけれども、神様の目から見て、人間がいろいろと神様にお願いをしたり、愛をもって帰一するというふうに話しましたけど、神様の目から見て、どういうところが一番嫌なのかと。
「敵を知り己を知らば百戦すといえど是れ危うからず」ということが、「孫子」の兵法にございますけれども、別に、神様と戦うわけではないんですけど、神様は人間のどういうところを嫌だと思っているのか。
嫌だということをしなかったらいいわけでございまして、前には、神様の喜ぶのはこうだ、こうだという話をいたしましたけれど、今度は嫌なことはどういうところか。チェックポイントです。これとこれだけはやってはいけないという。
それがわかるとクリアできますので、平常いつも神様の目から見て、よしよしと、神様の御心に合う人間でいることができる。これがわからないと、なかなか一つになれないです。ですから、神霊と一つになるシリーズで、一つこの面を見てみましょう。
神様が最も嫌う第一項目:「我」
神様は、人間のどういうところが一番嫌なのか。どうですか。一番嫌がるのは、神様の嫌がるところは、もう三つ、三項目です。神様がお嫌いになるのは、はっきり言いまして、この三つです。
(板書「我、慢心、怠り」)
明確に申しますと、我と慢心と怠りです。これが神様が一番お嫌いになるべストスリーでございます。あともう一つ、メインはこれでございますけど、怠りの中に入ると思うんですけど、穢れです。
いろいろな穢れ。罪だ、穢れだなんて言いますけど。汚らしいものは嫌だ。これもあるんですけど、メインは三つ。我と慢心と怠り。
神様は、我の強いのはあまり好きではない。
これに対しまして、我のない状態はどういう状態かといいますと、素直な状態です。「素朴で素直」(板書)でございます。
先週の土曜日にお話しいたしました。素というのは、主から糸が出てる。主から糸が出て直である。だから、これは素直ですね。そのまま素直な人というのが、正直と素直、素朴。
七澤さんの悟りも最終的にこれでございまして、素直に自分を表現する。素直にやっていく。
和歌もそうです。いろいろこねくり回したものだとか、知的なものよりも、素直にありのまま詠んだ歌が、万葉の歌でございまして、明治陛下の歌もそうでございます。
それから、絵もそうです。ありのまま素直にすっと、こう技巧はあるんだけども、素直に表現できている。テクニックを練習していますけど、テクニックというものを感じさせないで、素直に本質が見えて、その奥にはテクニックがおのずから入っている。
書道もそうでございますし、武道もそうですし、音楽もすべてそうです。
素直な人というのは、失敗しましても、「あ、君まちがっているよ」と言ったら「あ、そうか、これまちがいだ」と言って訂正します。ところが「いや、これは絶対だ」と言う人がいる。これは、もう言うのが嫌になります。
もう好きにせえと。神様も人間世界も、素直な人は好かれます。神様も、素朴で素直、神に素朴で素直な人は好かれる。
逆ですね、我。非常に我が強い。神様が何度戒めをしても、言うことを聞かない。俺はこう生きるんだと。こういう人は、試練に遭いまして、徹底的に我をつぶすと。
神様が試練を遭わせまして、この我をつぶす。「もう参りましたあ。もう神様の御心のまにまに、もうどうなっても結構でございます」と言うときに、神様が助けてくれる。素直な気持ちになって、初めて我というのはなくなるんです。
「我執」と本当の「我」の違い
我と申しましても、我が強いという形とか、俺が俺がということもございますけれども、もう少し具体的に言うと……。
真我没入とか、我だとか、仏教ではよく我という言葉が出てきますが、何かわかったようでわからない。おまえは我が強いとか、自我自我って言いますけれども、我とは何なのか。もっと突っ込んで言いますと、我とは「我執」(板書)でございます。
「ああ、あの人が好きだ、好きだ、好きだ。もうどうしても、どうしても」「いや、あの人はよくないからね、考えたほうがいいよ、結婚も。そんなにあなたが思うほどじゃない」
「いや、でも、あの人が好きだ。私にとって、それがいいんだ」と。欠点も「あばたもえくぼ」で、どこまでも執着しております。
ですから、浮遊霊とか、地縛霊なんていうのが来ます、霊障で。好きだ好きだと思っていたのに、逆にひどい目に遭わせたので、くそーっと。これが怨みに変わるわけです。くそーっと思う。
三十年間の霊界修業というのは、素直で素朴な御魂に、執着心がなくなりますと軽やかになりますので、ふわーっと天国、極楽へ行きます。
前の講義で私は話しました。大学時代のクラブ(ESS)の話。とにかく、そうするためにという、真心から発して、みんなのためにと思っていたんだけど、そのためには、ディベートの試合に勝たなければいけない。
そのために、水浴びを毎日毎日、朝六時に起きて、半年間毎日毎日やりました。それで何とかって、物事によかれという気持ちから発してはいたんですけども、その事柄に着している、執着心を持っている。これが我執でございます。
先般、西谷さんともご神業がありました。真心から発しているんですけども、一生懸命神様のために念じ過ぎて、念じ過ぎるのが多くて、私がそこで根負けしたら、ばたんと倒れました。
神様が戒めまして、神様にお願いしているお願いごと、祈りごとが多すぎて、神様の光に曇りがでている。本人は悪い気持ちはないんです。よかれと思って一生懸命なんですけど。
我を持つぞとか、執着心を持つぞと思って執着を持つ人はいないんです。知らない間になるんです、これは。知らない間になるんです、本当に。それが我執でございます。我執着。
どうしても、事柄に着しちゃう。お金もうけ。世のため、人のためにと思って、とりあえずこの仕事をしていく。
収入が出てきまして、何とかっていう収入が。そうすると、収入が少なくなりますと、何とかこれをしなきゃいけない、この収入を得るためにというんで、世のため、人のためにとりあえずといった、とりあえずなんですが、その事柄、仕事に着しまして、売り上げの数値というものに常にはらはら、汲々、どきどきしまして、もっと大きな基礎があったのに、数字だけに着しちゃう。
お客様よかれ、みんながよかれというようでなければいけないのが、少し数字でピンチになりますと、数字、数字、数字、数字となりまして、もとは神様のためにと思っていたんだけど、物事とか、仕事とか、事柄に着してしまうようになる。
これが我なんです。我執着なんです。それに対しては、素直で、神様のために心のまにまにいくしかない。
もちろん不動の信念は持たなければいけません。その我というものは必要なんです。我は必要なんですけれども、あり過ぎるとよくない。これは難しいです。
全然我のない人というのは、本当に素直で素朴な人は、動物霊が来たら動物霊のまにまに、邪気が来たら邪気のまにまに神様が来たら神様のまにまに、主体性がまったくない。ただ素直だというだけで、ここに知性も悟りも信念もない。これはだめなんです。ですから、自我というものが要るんです。自我のないところ、御魂とか本来の……。
お釈迦様が悟りを開きましたときに、「仏法の真髄、生死の境、人間の生命の根源とは一体どういうところにありますか」
「何も考えないことだよ。何も考えないこともないぐらいに考えないところにあるんだ」と。お釈迦様は、「じゃあ、そのときに、自我というものはあるんですか。何も考えない、考えないことも考えないぐらいに何もないときに、果たして私というものはあるんですか、ないんですか」
アララ仙人に問答しましたけども、答えられなくて、お釈迦様は本当の私とは何だということで、菩提樹のもとで悟りを開かれて、「天上天下唯我独尊」(板書)。
君が上にも天が下にもただ私が、これ一人尊いと。ああ、この歓喜、文字や言葉を乗り越えた涅槃の境地、ああ、この歓喜、喜びのこの感覚、これが私の本当の御魂だ。しっかりしろなんて言うのではなくて、今度はもう、本当に神々しいばかりの御魂に目覚めたわけです。
はあ、あった。これこそ私の本当の素晴らしいものだ。世の中でどんな尊いものがあるかもしれないけれど、私にとって、この本当の私こそ、最高の素晴らしいものなんだと。それは、文字や言葉じゃない境地で、「天上天下唯我独尊」。
お釈迦様の大きな叫び声です。御魂がすぽっと開いた。ああ、あったと。これが本当の私なんだということで。
ですから、何もないという、無念無想には悟りはない。無念無想の奥に本当の自分に目覚めるまでの…。
ですから、ヨガをしましても、坐禅をしましても、これが目覚めるまでのプロセスですから、同じでございます。そういうふうな本当の我というものが信念を持ちまして、感覚を持ちまして、自分自身の貫き通すという精神、これは荒魂の働きでございます。これが絶対要るわけです。
御魂のよしあしは荒魂で決まる
平田篤胤という人がおりまして、本居宣長の弟子なんですけど。平田篤胤の神道学というものが、江戸の末期に、明治維新の人たちの精神的な尊皇攘夷のバックボーンになったのは、本居宣長、特に平田篤胤の神道学というものが大きな影響を及ぼしております。
その平田篤胤という人はおもしろい人でした。いつも十五分でお掃除するんです。十分ぐらいかな。何十畳のお部屋です。
十何畳か二十何畳の大きなお部屋を十分ぐらいで、ぱぱぱぱっと掃除してしまう。いつも、おかしいな、普通の人だったら一時間二時間かかるのに、何で十分で掃除できるのかと思って、ー これはお話として伝わっていたんですよー
平田篤胤が、僕のお掃除するところを見ちゃだめだと。いつもそういうふうに言うから見ないんだけども、ある人が、そう言われると見てみたくなる。「古事記」にもあるし、伊邪那岐、伊邪那美それから豊玉姫の段にもありますように、見ちゃいけないと言われると見てみたくなる。
平田篤胤がいつも十何分でお掃除するので、そっと、ある人が見てみた。どういうふうにお掃除しているのか。
そうしますと、平田篤胤が十一人。十一人の平田篤胤がぱぱぱぱっと。うわ一つ、すごい。十一人。分身の術というのは、伊賀の影丸なんかもやってますけれども、まさに十一人の平田篤胤がお掃除しているんです。
はあーっと。まあ、十一人に見えたんでしょう。しかし、分身の術で、十一人の平田篤胤がやっていたと。
そういう逸話が残っている霊能者です。霊能者といいますか、学者です。霊的に非常に敏感な方でございました。
その平田篤胤が言っております。人間の御魂というものは、どういうところを一番大事にするか。一霊四魂の話をしました。奇魂と申しますのは、知恵の部分ですね。和魂と申しますのは、親の部分。
人間は荒魂、奇魂、和魂、幸魂(板書)の四魂を持っています。人間には、一つの霊がありまして、働きますときに四つの形をとるわけです。
人間の叡智の部分、知恵の部分、これが神霊と直接交流を持ったり、ひらめいたり、直感するのは、この奇魂の働きで、時々こんな小さいのが、自分から出たり入ったりすることがあります。
それから、和魂は親しい、皆さんと仲よく。頭はあんまりよくないけども、お友達が多くて、すぐ人と仲よくなれる人がいます。それは、和魂が発達した人は、親。人とすぐ親しくなれる。
幸魂の発達した人は愛情が大きい。非常に優しくて、お友達も多いんだけども、頭はよくなくてねと。逆に、非常に知恵はあるんだけれども神経過敏で、頭はいいんだけれども、人づき合いがよくないという人がいます。和魂が足りない人です。
荒魂と申しますのは、勇気です。肉体でいいますと、筋肉が荒魂、内臓が和魂、頭、知恵の部分が奇魂で、愛情、心の部分が幸魂。あるいは「さきみたま(幸魂)」と申しまして、幸魂でぱっとお花を咲かせている。
あるいは、先に立って道を開いていく。これは、幸魂という。道を開いていく。金毘羅権現なんていうのは、幸魂でしょうね。ですから幸魂は、「さきみたま」というふうに働く場合もあるんです。
そういうように、一霊四魂があるんだと。この荒魂というのは、勇気です。四魂全き人というのは、知・仁・勇。つまり頭がよく、仁の優しい思いやりがあって、勇気がある。
楠木正成か諸葛孔明か、文武両道に秀でた人というのは、この四魂がバランスよくいっている人です。
平田篤胤が言いました。人間の御魂のよしあしというのは、本当の御魂の働きというのはどこで出るか。四つのうちのどこか。
霊的なものだから、奇魂かと思うんですけれども、そうじゃないと。それは荒魂なんだと。
前に言いました。白隠禅師の、最終的に禅宗の修行をしたわけですけども、八十何歳で死ぬ前に夢を見ました。病気になって、弟子たちに休憩してくださ
いと言われ寝ていたときに、夢を見たんです。ところが、夢の中で、歴代の禅のお師匠さん、有名な人たちが出てきて「おまえはもう寿命だ」と言うので「おまえたちの中には、まだ入らないぞ」と白隠が言った。すると、「おまえに大事なことを教えてあげよう。人間で一番大事なのは何か知っているか」と。
(板書「勇猛」)
「何だ、それは」。白隠の夢の中でお師匠さん、有名な禅のお師匠さんたちは、「それは勇猛の二字だよ」と。
勇猛心という話をしました。「勇猛の二字だよ。勇猛心、勇猛の二字がなければだめなんだ」と。ですから、八十何歳、死ぬまで、そうだと、風邪ひきで何だっていうことはないんだと。
俺は死んでも、その弟子を教育し続けるんだということで、白隠禅師は、勇猛の二字ということを、死ぬ前に、八十何歳で悟りまして、死ぬまで弟子の教育と文筆活動を怠らなかった。
そして、最後に、「喝ーッ」という、何だ今の気合いはと行って見たら、白隠禅師が臨終しておられた。「喝ーッ」で臨終したんです。素晴らしい人です。話ししました。
同じように、平田篤胤公、人間の御魂のよしあしは、この荒魂で見るんだと。荒魂と申しますのは、前に向ければ非常に勇気を持ってやっていく。
