超一流のサラリーマン・OLになれる本(Vol.2)

はじめに

日本人のほとんどは、給料生活者だ。

つまりサラリーマンであり、OLである。私はいくつかの会社の経営に携わる立場ではあるが、会社からいただく給料で私の生活はまかなわれているから、サラリーマンと同じであることに違いはない。

私は、経営コンサルティング会社「法律経済研究所」(以下、「菱研」と略す)の所長として多くの経営者と接するし、若い社員の教育もする。

企業経営にあたっている人々や企業に働く人々と、企業社会でよりよく生き抜くための方法を考える研究会活動も行っている。

もしかしたら私のことを、オペラや能などを精力的に行う芸術家として認識されている方もいるかもしれないが、そちらの方面での活動はここでは省かせていただく。

また宗門宗派にとらわれない、普遍的な神仏の道を学ぶグループも主宰している。

私の二十四時間、三百六十五日はこのように多面的で多忙だが、私自身は無論、自分の生活環境を大いなる喜びをもって受け入れている。

私はひとりの人間であるけれど、こうして多くの顔を持ち、幾つもの役を全力で成功させていくことで、いろいろな角度から現代人や現代社会を見つめることができるからだ。

この本で私が書くことは、サラリーマンやOLのみなさんが、会社で出世し、より高いお給料をもらい、もっと仕事ができるようになるための手引きである。

机上の空論はつもない。具体的で、すぐにでも実際の役に立つことばかりだ。それは私が実験済みの方法に基づいているからである。

私の明かすノウハウや成功法を活かして大企業のトップになるか、個人営業の小さなお店の店長で終わるかの違いは、みなさんがどこまで本書の内容を実行されるかにかかっていると言える。

まずは、読み進んでいただきたい。現実的にも精神的にも「超一「流」になれる道とは、どんなものなのか。

あなたにとって目からウロコが落ちるような「観念破り」の本となることを約束する。

深見東州

第1章 こうすれば出世する!

観念のカセを外して出世を目指そう!

サラリーマン、OLで、出世したくない人が少数いるのは私も知っている。しかし、幸い本当に少数だし、そういう人はこういう本を買いもしないし読みもしないから、気にしないことにする。

仮に読者の中にあまり出世する気がない人がいたとしても、それでも読んでいただきたい。

出世する気がない人は、こう思っているはずだ。上役にゴマをすってまで出世したくないとか、人との付き合いにわずらわされたくないとか、自分の関心あることだけしたいとか。

気持ちはわからないことはないのだが、そんなことでは出世ができないどころか、サラリーマンやOLはつとまらない。

よほど才能に恵まれていて独学でノーベル賞でも取れるのなら別だし、「たまごっち」みたいな大ヒット商品をひとりで開発、販売できるのなら別だが、現代の日本でも他の国でも、他の人と協調していく力がないと、つらいだけの人生で終わることになる。

それよりも、私はみなさんの中の観念を外してあげたいと思う。出世したくないというのも観念。ゴマをすりたくないというのも観念だ。

もっと言うと、出世したいというのも観念のカセで、出世したいと思うがために出世できないということもある。

いろいろな観念のカセを外して、正しく出世の道を歩んでいただきたい。それが私のこの本を書いて贈る気持である。

どうしたら出世できるか?価値観をつかめ!

最初に出世の定義から始めよう。

出世というのは、多くの人々に認められるということ――それが出世だ。会社で出世する方法とは、会社の中の多くの人々に認められることだ。

大いに認められると大いに出世する。これだけのことだ。

それでは、出世するためにはどうしたらいいか。会社の中や業界の中で出世するには、例えば、おもちゃ業界にはこの人あり、薬剤師業界にはこの人あり・・・・・・と言われるようになればいい。

製造業界ではこの人がポイント、銀行の中ではこの人だと、その業界の 14 中や会社の中でトップを極めたら、業界の多くの人々の中で認められることになる。

こう考えたら、出世するためには、会社なら会社の人々の価値観がわからなくてはいけない。

業界や会社でなくても、例えばアメリカで出世するならアメリカの、オーストラリアでならオーストラリアの人々の価値観がわからなくてはいけない。

関西でなら関西の多くの人々の価値観の基準がわからないと、どうやって認めてもらえばいいかわからない。

関東でも関西でも、全部の人の価値観を知るのは無理だが、その対象が多ければ多いほど、大きく出世する。反対に、価値の基準はどうなんだということがよくわかっていないと、出世はできない。

何がいいと思われ、何が尊ばれているか、そのことがわかって、それをクリアしてはじめて、「ああ、いいね」と認められる。

認められるから出世する。世の中に出てくる。やみくもに自分でああだこうだと思っていても、それは独りよがりでしかない。そんな人は、結局出世できない。

多くの人の共通の価値観を基準にして、何が大切で、何がダメで、何が尊く、何がよくないのかがわからないといけない。

自分だけわかっていてもダメである。研究者や研究畑の人などは、自分のテーマだけで、かくあるべきだというイデオロギーを持っているようなタイプではダメで、頑固な人もダメ。

現実に多くの人々が認める共通の価値基準は何なのかを、謙虚に客観的に冷静に見れないとダメなのである。

共通の価値基準といっても、時代によって違う。戦国時代の多くの人々が素晴らしいと思う基準は、例えば、命惜しまぬ度胸だとか、根性だとか、勇気だったりする。

平和な時代なら平和な時代の出世の方法があり、動乱時代なら動乱時代の方法がある。素顔が美しいと思われた時代と、ドーランを厚く塗ったほうが美しいと思われる時代とでは、価値基準が違うのと同じである。

動乱の戦国時代における人々は、何がよくて何が尊くて素晴らしいのかというその時代の基準に合致して、多くの人々にいいと認められたら、戦国時代で出世する。

平安時代や江戸時代のような安定した社会においても、多くの人々にとって何が大事なのかという価値基準に合っていたならば、そこで出世するわけだ。

結局こういうふうに考えていけば、平和な時代でも動乱の時代でも、日本でも外国でも、あの世でもこの世でも、時代に合い、その国の価値観がわかってそれに適応して自分を持っていく人が、結局出世するのである。

絶対出世できないタイプもある。

それははじめに自分の考えがありきという人だ。はじめに自分のイデオロギーがあり、かくあるべきだと自分で思い込んでしまっている。

独りよがりだったり一言居士であったりするような人だ。

科学者の中には、ひとつの発明や発見などが、後世になって認められる人もいる。タイムラグがあって、死んでからその功徳が認められるようなケースだ。

しかし、同時代の多くの人々に認められなければ、それは、単なる研究で終わって、研究者や学者としては出世しない。

会社であったり、学校であったり、ボランティアグループであったり、あるいは芸能界だったり、ジャンルはそれぞれだ。

しかし、国の状態も違うし、あの世もこの世も違うし、時代も違ったとしても、人間は社会的な生き物だからいつも多くの人々の中で生活している。

これが、どんな分野でも共通する絶対的事実であるにもかかわらず、出世できない人というのは、どのジャンルであってもそこに適合していく自分の姿を考えるのではなく、まず自分の考え、イデオロギー、かくあるべきだ!という像を作って一生懸命やろうとする。例えば、本人に能力や才能があって運があったとしても、そこが満たされていないと絶対出世できないのだ。

人間は社会的な生き物だ。自分の信念で、自分には才能があるんだといくら思っていても、最終的にその人の価値というのは社会が決めるのだ。人々が決める。

自分の価値は自分で知っていると言ったとしても、それは自己満足、思い上がり、独りよがりでしかない。こういう人は大勢いるが、絶対に出世できないタイプである。

世に出る芸術家の条件

芸術家の世界ではどうだろうか。どんなに自分が素晴らしいことを思い、素晴らしい感性を持ち、素晴らしい美なるものを感じ取れたとしても、それを第三者に、洗練され磨き抜かれたものとしてわからせることができなければいけない。

「私は素晴らしいことを思い、悲しみ喜びを感じるのだけれど、言葉にならないんですよ。表現できないぐらいに今、感じてるんですよ」、と言ってもダメなのだ。

そんなことは誰でも思うわけで、それをいかに第三者にわかりやすく、なるほどなあと思えるように表現できるかであり、そのための技術と知識と努力がいるわけだ。

それがあってはじめて、短歌なら短歌としての芸術が成り立つわけだ。

小説家でも同じだ。「いろいろ構想はあるんですけどね。でもなかなかまとまらなくって」、では失格だ。そんなことは誰でも思う。

それをいかに言葉として、小説として、文章として、論理性と表現力をもって第三者にわかりやすく万人に伝えられるか。

技術、テクニック、知識、それら錬磨されたものがないと、小説として、芸術として成り立たない。確かに芸術では、人の心の内に響き来るものということは大事な要素である。

しかし、それは外に表現しなければ、単なる内なるものであって、芸術とは言わない。生きているときには認められなかったが、死んでから認められたというケースは芸術家にもある。

一番有名な例がゴッホだ。ゴッホは、生きている間は実の弟が義理で一枚絵を買ってくれただけというくらいだから、人々に認められないどころの話ではない。

しかし、死後に全面的に認められて、百年後の現代では世界で最も人気のある画家になっている。

そういう生き方でいいという気持ちで、芸術を目指す人はいるかもしれないが、「生きているときに認められ、死んでからますます評価が高い」という生き方の方がよりべターだ。

二葉亭四迷という明治の文豪がいる。「くたばってしまえ」と親から言われたので、それをもじって二葉亭四迷というペンネームにしたという人だ。

その当時、まだ日本に紹介されていない純粋なるロシア文学を追求して、優れた作品を著した。

しかし、時代よりも一歩秀でていたものだから、その時代の人々にはその価値が理解されなかった。

代表作の「浮雲」なども、純粋なロシア文学を目指しているが、二葉亭四迷の表現はその時代よりも一歩リードしていたから、生きているときには認められなくても、死んでから時代と共に価値がわかって認められたわけである。普遍的な何かを持っていたので、タイムラグはあっても、結局多くの人々の中に認められたのだ。

それに対して、時代を半歩だけリードしていたのが、尾崎紅葉とか、私の好きな泉鏡 20 花だ。尾崎紅葉の小説は、まるでお芝居のせりふだ。

「お宮、来年の今月今夜、俺の涙であの月を曇らせてみせる」、「別れろ切れろは芸者のときに言う言葉、今の私には死ねとおっしゃって!」なんて、自分だけでお芝居をしているようなものだ。

お芝居のせりふそのものの話し言葉をストレートに小説にしたわけだが、そういう表現方法がそれまではなかったので、尾崎紅葉の作品はその時代の人たちにおおいにうけたのである。

斬新だったわけだ。代表作「金色夜叉」は新聞に連載されたので、尾崎紅葉が人力車に乗って行くと、ファンがワーッと集まって来て、「これから先、お宮はどうなるの!」と聞かれたという。

それくらい楽しみだったのだ。時代を半歩だけリードしていたから、このように受け入れられたのである。

時間が経ってきた現代では、文学としては二葉亭四迷の方が高く評価されていて、「浮雲」などは、文学を勉強する人にとって大きな位置を占めている。

けれども、尾崎紅葉もやはりひとつの時代を作った人だ。この二人を比べると、その時代を半歩リードしていて、同時に一歩リードするものも持っている人こそ、生きているときに認められ、

死後ますます高い評価を受けるということになる。半歩だけしかリードしていない人は、死んでしばらくすると評価されなくなる。

文学者として出世した尾崎紅葉のケースだ。そこをよく見取ってほしい。

自分の文学の価値の基準に合った作品だけを残そうと思ったら、あらかじめ覚悟をした方がよい。生きているときは認められなくてもしょうがないと。

ひょっとすると、死んでからも結局認められないかも知れないが、それは独りよがりだったということだ。

生きている間も、死後も認められるためには、「人々」というひとつの価値の基準にかなっているかどうかがポイントだ。

古典を学び、学問を学び、人間を学ぶということをする普遍性をもった人間が、素晴らしいと感じて認める。

この「普遍的な価値」を理解した上で、自分の個性を主張した作品であれば、多くの人々の中に認められる。

だから、結局、学問と勉強と咀嚼力の問題になる。音楽や文学や美術の研究で古典を学び、本質的なものを学んだ中で、自分はこうだ、私はこうだと自分なりの芸術性を打ち出すのはいい。

しかし、それを学んでいないのに、僕はこう思うんだ、こうあるべきなんだというのは独りよがり、自己満足、思い上がりでしかない。

芸術の世界で、出世できている人とできていない人の違いはこれだ。この基準を満たした上で表現できる人??でなければ、真の芸術家とはいえない。

会社人としての出世の道

会社人として、会社の中での出世に限定して言うと、社員一千人以上の大企業の論理と中小企業の論理は、共通するところもあれば違うところもある。

例えば、大企業で出世していこうとするときも、大企業の中の誰もが「これは会社にとって大事だ」という価値の基準がある。

その多くの人に認められる方向性、共通項を知って、そこに努力していくことによって会社人として出世する。

中小企業で、三、四人しかいなかったら、その三、四人が素晴らしいと認める社員になることが第一である。

次に関連の取引先の人たちと取引きするから、その人たちがこれは素晴らしいと認めてくれるなら、そこはいい会社だということになる。あの社長は素晴らしいね、と関連する人たちにも認められるようなら、その人もその中小企業も出世していく。

大企業において大企業の基準に合って出世する人と、中小企業で同僚や関連会社に認められて出世する人、両者に共通する条件は何であろうか。

それはやはり広い意味での学問であり、心の教養であり、頭のよさなのだ。

頭がよいといってもいろいろで、そろばんがものすごく速いとか、電卓が速い(?)とか、コンピューターがよくできる、語学もよくできるし、仕事もとにかく速いという人がいる。

しかし、その人がいろいろ言っても、他の社員は誰もいいとは思わなかったりするものだ。

計算は速いし、文章は巧みで、ものの考え方も緻密で、いろいろなことができて、天文学に詳しくて、「明日は木星と天王星が合同するからすごいだろー」とか言っても(?)、会社ではあまり関係がない。

その人が「そうだ」と言うものは、会社のほとんどの人が、「そうとばかりも言えないんじゃないの」と言う。

それでも「絶対僕はこうだ!!」と言うタイプは、絶対に出世しない。そういう人はやはり、菱研に来てまともな社会人としての常識や実力を身につけてから、社会に出て努力することをお勧めする。

そういう歪みがある人が、例えば「ここに行けば出世できる」という神社を教えられて、二十一日間お百度を踏んだらどうなるか。

上司が神がかって、「お前はバカだ、常識をわきまえろ」と、いちいち怒られることになる。

これが出世の神様の答えなのだ。仏壇で供養して、「ご先祖様、私が出世する道を導き給え」とお願いしても、ご先祖はまた上司や同僚にかかって、「常識をわきまえろ、思い上がりを捨てろ、自己満足を捨てろ、一言居士になるな、みんなが何を考えてるかをまず考えろ」と言うだけだ。

全部、結論は同じである。そこがわかってないと、神社に行っても、仏壇を拝んでも、お墓を直しても、印鑑を変えても、名前を変えても、整形手術をして顔を変えても無駄である。

頭の中身を変えない限りダメなのだ。これがわからないので出世できない人が多いのだ。出世している人を見れば、大企業でも、中小企業でも、学者でも、みんなこの基準に沿っていることがわかるだろう。

平山郁夫さんのことを考えてみよう。

ご本人は出世する気で仕事をしてこられたわけではない。しかし画家としてだけでなく、人柄がみんなから愛されて、その上素晴らしい絵だと多くの人に認められているのだ。

東京芸大の中でも素晴らしい方だと尊敬され、日本画だけではなく、音楽やいろいろな分野の人にも素晴らしいと認められて、学長になられた(編集部注一九九五年学長を退官)。

平山さんは画家としての収入が一番多いのだが、世界遺産の復旧や修理保全にそのほとんどを寄付しておられる。

そうでないと自分の絵が曇るとおっしゃっているそうだ。平山さんは、毎朝六時に起きて仏壇に手を合わせ、生かされている喜びを感謝する。

原子爆弾で友達が全部死んで自分だけ生き延びたので、まず朝お祈りをして、それから絵を描いている。

その生き方が素晴らしいと多くの人が認める。お金が入ってもほとんどを寄付するから、ずっと人々から認められ続けて、ますます絵も売れ、大学でも出世し、社会的にも出世する。

やはり、それだけものを深く理解して、古典、あるいは人間の世界というものを咀嚼している智恵が平山さんには自然とあるわけで、それは賢いということなのだ。

ものの本質がわかっていて、努力がそれに適合してつながっているから出世するのだ。

どこの大学を出ているとか、どんな学位を取っているとか、語学ができるとか、頭がシャープだとかいろいろあっても、この叡知がないと出世はできない。

どんなに能力や才能があっても、出世できるとは限らない。運があるから出世しているかというと、運だけではダメで、優秀な大学を出ているからといって、出世しているとは限らない。

語学ができたり、ハンサム、あるいは美人で、あるいは謙虚だからといって出世するとは限らない。

どうすれば出世するか。それぞれの分野における当たり前のことがわかっていて、そのことに適合する自分であって、「自分」が後から来なければいけない。

「自分」が先に出ると、自分の考えが適合している場合もあれば、偏屈になっていて適合してない場合も必ず出てくる。まず、そこを見るべきなのだ。

出世する商品、出世しない商品

商品でも、出世する商品と出世しない商品がある。船井総研の船井氏は、ツキのいい商品、ツキの悪い商品と言うが、商品でも出世すると、多くの人が「いいな」と認めてくれる。これは売れ筋、売れ線とも言う。

売れ筋の商品は、多くの人々にその商品の価値が認められているから、その価値に照らしてみて値段は適当だ、安いということで売れる。

多くの人々に価値を認めていただくため、購買欲を惹起するために、宣伝広告がある。

山ほど宣伝しても、お客さんに「何これ」と思われたらダメだ。商品も人間と同じで、出世する商品と出世しない商品、世の中に出てくる商品と出てこない商品がある。

サラリーマン、特に営業関係の人にとって、出世する商品と出世しない商品を見分ける力があるかどうかは、自分の出世に関わる重大事となる。この点について少しふれておこう。

マーケティングが先か、技術が先か

マーケティングが先にたってその後に生産がくる会社は、必ずトップになる。

車では、トヨタと日産を比べると、圧倒的にトヨタが勝っている。

マーケティングが先にあって、消費者は何を求めてどういうエンジンとどういうサービス体制を求めているか、多くの人々が何がいい、何が悪い、何が尊い、何が尊くないと思っているか調べあげた上で商品開発をする。

このように、マーケティングが先にきて、それに合うものを造る。この力が強いのがトヨタで、「販売のトヨタ」といわれるゆえんである。

それに対して、売れるか売れないかではなくて、技術で勝負しようとするから、日産は「技術の日産」といわれる。販売と技術では、必ず技術の方が二番目になる。

ところがイチローをCMに起用して、技術とは関係なく、「イチローの日産」で勝負をかけたから、日産の販売成績は上がってきたのだ(?)。

しかし日産は、技術で押す限りにおいては、永遠に二番目だ。サービスと販売で先を行っているトヨタは常に一番である。

出版業界では、集英社が圧倒的に一番だ。「プレイボーイ」が「平凡パンチ」を追い越した。

平凡社はマガジンハウスになったが「編集の平凡社」と言われたくらいで、「平凡パンチ」をはじめ、次々と斬新なものを出してきた。

しかし、斬新な考えというのはやがて枯渇するわけで、ヒットもあればヒットでない場合もある。

一方の集英社は、マーケティングが先で、何が今売れているか、何が求められているかと細かくデータをとって、みんなが求めているものに絶対に合うものを商品開発する。

だから、後からきた「プレイボーイ」の方が売れて、「少年ジャンプ」も後からきて本当にジャンプしたのだ。

近年は「少年マガジン」が、やはりマーケティングに力を入れ部数を伸ばし、「ジャンプ」と激しいトップ争いをくり広げている。

セイコーとシチズンの場合は、販売のセイコーと、技術のシチズンだ。それで、販売のセイコーが一番で技術のシチズンが二番目である。

セイコーは販売会社が上場していて、製造部門であるセイコー(現セイコーエプソン)のような会社は上場していない。

シチズンはシチズン商事という販売部門の会社は上場せずに、製造の方のシチズン時計が上場している。

時計でも、製造や企画が先にきて、販売が後にくるところはやっぱり二番目で、技術の日産といっしょだ。

販売のトヨタ、技術の日産。販売のトヨタが必ず一番で、技術の日産が二番。マーケティングの集英社が一番で、編集のマガジンハウスは次。

このように、商品の出世は会章社を見てもわかる。マーケティングが先にきている方が必ず勝つのだ。

マーケットリサーチとか消費者のニーズに応えるという言葉があるが、これは、出世の法則と同じだ。商品でも会社でも、出世しているものはこの法則に合っている。

だから、サラリーマンが出世するためには、まず社内マーケットリサーチをするとよい。

大会社の場合は、大会社の社員としてあるべきニーズに応えている人が出世する。何が尊く、何がよく、何が大事と、会社の中の人々が思っていることを知って、それにかなう自分ならば出世することになる。

中小企業の社長で四人の社員だとすると、社長はこうあるべきだという四人のニーズに合っていたらいい社長だ。

販売先、仕入先にとっても、会社はこうあるのが本当じゃないかとされている共通項があるから、自分の会社がそのニーズに合っていれば、相手はいい取引先として引き立ててくれて、仕事が増えていく。

下請けならば、仕事を発注する側のニーズに合っている下請けなら出世していく。

当たり前のことだ。当たり前のことではあるが、みな案外わかっていない。

どんな優秀な大学を出ても、どんなにいい家柄の人でも、語学ができても、数理統計ができても、コンピューターができても、文章が上手くても、この当たり前のことがわからない人が多い。

どこか傲慢だったり、独りよがりだったり、思い上がりだったり、自己陶酔だったり、自己満足だったりして空回りしているから、世の中に出られない。人々に認められないのである。

やがて、下から吊るし上げられてどこかに去るか、上から見捨てられるか、友達から疎遠にされるかという運命をたどる。

これで人間は社会的な生き物で、社会というのは人々のかたまりである。その人々の内なる「尊い」と思う価値基準は一体何なんだろうとジーッと見つめ、そのニーズに応える自分を作り上げていくことだ。

すなわち、社会のニーズ、人々のニーズをマーケティングして、自分という商品を製造し、編集し、企画していくとヒットするのだ。それが出世するということである。

考えたら当たり前のことであるのだが、意外と気が付いていない人が多くて、みな出世できないのだ。

素直な人は出世する

故松下幸之助さんは、「素直が一番」とおっしゃっていた。素直だと、「馬鹿!」「はい、すいません、馬鹿でした」、「おまえは賢い」「はい、私賢いです」と主体性がない。

なぜ素直が一番かというと、自分の値打ちと価値は人々が決めるものだからだ。

素直な人は人々に愛される。人は誰でも成功するときもあれば失敗するときもある。失敗したときに素直に反省する人は良く思われる。

頑固者と素直な人とどちらが好きですかと聞かれて、「頑固者だ」と答える人は頑固な人だけだ。

子供でも、素直な子はかわいい。この子は素直でいい子だと言われる。この子は頑固でいい子というのはいない。

外国でも日本でも、素直かどうかはみんながいいと思う価値基準なのだ。会社でもロイヤリティー、即ち、忠誠心が喜ばれる。

上司に対して、社長に対して、組織に対して、ロイヤリティーがある人がやはり一番である。

あの世の守護霊さんから見ても、頑固な人間と素直な人間では圧倒的に素直な方が守護しやすいのが当然。

日本でも外国でもあの世でも、素直な人はみんなに喜ばれ、愛される。これは、天人地を貫く普遍の真理で、出世するなら頑固より素直な方がいいのである。

しかしながら、世の中には、素直で正直なだけでは絶対にうまくやっていけない分野もある。発明や発見、物理化学の分野がそれだ。

私もよくお会いする発明家のA氏はその典型だ。人が右と言えば左、左と言えば右と、ともかく反対のことを言う。

それもそのはずで、人の言うことに、「あー、そうですね、そうですね」などと言っていては全然発明なんかできない。

今まで誰もがいいと言っていることでも、常識に逆らって考える人間でないと、発明はできない。 A氏も、実に発明にふさわしい性格でユニークだ。変な素直さはあるのだけれど、変わった方だ。

そういう目で日常を見ているから、発明が出てくるわけである。

この手のタイプの人は出世できるかというと、そこそこ有名にはなるが大出世は望めない。

有名になったのなら出世じゃないかと思うかもしれないが、A氏は発明のためにたいへんなお金をかけている。

まわりの人々のニーズに自分を合わせて出世するという道を、A氏はとらない。「俺はユニークなんだぞ」と自分を前面に押し出すのが、彼の生き方だ。

発明した品物が優れていたらいいわけだ。

A氏は自分の作り出す商品において表現できているわけで、みんなが良いと評価するものを人間関係の中ではなく、品物を通して、発明を通して、普遍的な要求に応えているから、発明したことは認められるわけだ。

ご本人の人間性はどうかというと、ユニークな素晴らしさはある。こういうタイプは東大ではなく京大に多い。

日本の大学の中では、東京大学も京都大学も最高峰にあって、エリートを養成してきた大学だ。

ところが東大と京大は、実にタイプが正反対なのである。私のところのスタッフにも東大出身者が何人かいるが、彼らは素直で、周りのニーズに合うように考えていく。

ところが京大出身者といったらみんなユニークだ。このように違いが出てくる。体制側とか社会とか、多くの人々の認めているところからはなるべく外れていこうという、これが京都大学のやり方だ。

だから京大出身者は、ノーベル賞をたくさんもらうのだ。世間はこう言うけれど、私はこうだと。東大はそうするだろうけど、京大はこうだと。

みんなはこう認めるけれど、しかし私はそれは認めないと。世間に逆らいつつ勉強しているから、ノーベル賞をもらえるわけだ。

人々がいいというものに順応していこうというのが、私の言う出世の条件で、そうやって生きれば認められて出世するのだが、そのかわり独自性やユニークさや発明的な要素は少なくなる。

東大の出身者はというと、あまりノーベル賞をもらっていない。いくつか発明があっても、ノーベル賞を取るほどの越えたものはなかなか出てこない。

しかし東大が悪いのかというと、そうではない。実際、組織を預かる人間から見たら、東大ほどいいところはないのだ。

東大出の人間は素直にニーズを分析し、何が尊いか、何がいいかを考えてそれに適合してくれるからだ。だから、出世をしているのは東大出身者で、逆らってノーベル賞をもらうのは京大出身者なのだ。

京大出の人は、話や発明は実におもしろいけれど、出世するかと考えたとき、出世につながらない人が多いのである。

けれども、京大タイプの人がいなくなって、素直で他人に合わせる東大タイプばかりになると、世の中は前に進まなくなる。日本では東大と京大で、そこのところをカバーし合っているわけだ。

もちろん、全員がそうだというわけではない。京大出でも東大出でも、私がこの章に書いたようなことを実践している人なら、スイスイと出世していることだろう。

独自性と出世、どちらをとるか

最近の傾向として、個性や独創性が重視されるということがある。文部省も「個性重「視の教育を」などと学校に注文をつけたりする。日本人には独創性がない、ユニークさがない、

個性がないと言われている。個性、独自性、創造性というのはもちろん大事な要素だ。

しかし、そういうものがあっても出世できないという人は多いし、反対に独自性もなければ創造性もなく、ユニークさも個性もあまりないのに、ものすごく出世していて、地位と名誉と財産と奥さんや子供にも恵まれて、快適な老後を送っているという人もいる。

どちらがいいかと言ったら、一概にどちらとも言えない。それは、その人の持つ価値観によるからだ。

ただ、わがままで絶対に他人の意見に耳を貸さない人でも、言いようによってはユニークで個性的ということになる。

結婚式の披露宴で、「新郎は、学生時代から大変ユニークで個性的で独創的だったので、仲間のうちで人気者でした」というような友人のあいさつをよく聞くが、そういうのをほめ言葉だと鵜呑みにしてはいけない。

「ああ、この男は自分勝手で、協調性がなくて、独りよがりで、ほめるところがない鼻つまみだったんだな」と思うようなこともある。

独自性、独創性、ユニークという評価は、日本人の言葉使いでは両面性がある。「人並み外れて」美しいか、美しくないか。

「人並み外れて」優れたアイデアか、馬鹿馬鹿しいアイデアか。人並み外れていると一言で言っても、全く正反対の二つの意味がある。

「人並み外れて良い」ユニークさ、独創性、個性を持った人でも、出世する人としない人がいる。

出世できるのは、そのユニークさ、個性、独創性を、会社や業界や、芸術家だったら芸術作品を、観賞する多くの人に認めさせる表現力も合わせ持っている人でなければならない。

そういう人は多くはいない。だから、独自性とか、ユニークさとか、独創性は、人が認めるようなものでなければならないのである。

特に世界的な基準となると、「独創性」と「順応していく要素」の両方がなくてはいけない。

欧米の価値観では、ユニークさ、個性、その人の持っている独創性がなければ低く見られるからである。みんな似たり寄ったりではダメなんだというのがアメリカ的価値観で、現在の世界的な基準であろう。

イギリスは必ずしもそうとは言えないかもしれない。日本と似た良さがあって、古い社会体質と伝統が残っているからだ。

今は、アメリカが圧倒的に世界をリードしているから、世界のスタンダードから見ると、東京大学的な人と京都大学的な人を足した良さでなくてはいけない。

アメリカだったら、京大の方が東大よりもいいということになりかねない。もちろん東大の中にもピンからキリまであるし、京大でもピンからキリまであって、いろいろな人がいる。

しかし、共通する傾向はあるわけで、アメリカで仕事をするのなら京大的な考えの人、けれども、東京やイギリスだったら東大的な人の方が合うし出世する。

世界の共通項で言えば、東京大学的な順応していく出世的要素と、京都大学的な個性とユニークさの両方を備えた人が、インターナショナルでトップに立つ。

どちらを選んでどちらが尊いかと言えば、それはどうとも言えない。しかし、この章のテーマの出世ということを日本で考えた場合は、圧倒的に東大的思考の人の方が出世する。

この傾向は特に受験勉強でハッキリ出る。何々について答えなさいという問いに対して、「ああ、そういうことなんだな」と素直に相手の意図するところをつかまえて、それに合わせてスッと答えていったら、全問正解でいい大学に行ける。

その最高峰が東京大学だ。もちろん京都大学も最高峰であるのだが、少し入試の傾向が違う。

やはり、ひらめき的要素が必要になっている。つまり、学校教育において勉強がよくできる子というのは、素直で順応性があって相手が求めていることに応えていける子で、その最高が東大に行く。

その資質があるから、大企業の中で、あるいは中小企業の中で、求められているニーズに合うように自分が努力していく。だから出世するのである。

人たらしで日本一出世した豊臣秀吉

日本で出世のお手本は誰かと言ったら、文句なく豊臣秀吉だ。おもしろいことに、秀吉と故松下幸之助さんとは顔が似ている(?)。両者はそれぞれ出世の神様と経営の神様だ。

秀吉は、当時の日本の一番下の身分から出発して、織田信長の作った基礎の上に立って天下を統一し、太閤にまでなった。

豊臣秀吉の生き方には、出世直結の努力の秘訣がたくさん見られる。秀吉はなぜあんなに出世したのか。

中小企業でも大企業でも、どの国でも共通する出世の具体的な努力の指針を、秀吉から学びとることができる。

第一番の秘訣は「人たらしの秀吉」と言われたことだ。普通、「あいつは女たらしだ」とは言うが、人たらしという言葉はあまり使われない。人たらしとは要するに、秀吉は女をたらし込んだだけでなく、人なら誰でもたらし込んだということである。

人をたらし込む名人だったから「人たらし」。いやらしい言葉だけれども、秀吉の出世の神髄である。

女たらしは女性しかたらし込まないが、秀吉は女も男も、上の者も下の者もたらし込んだ。

だから金も家柄もないのに、トップにまでなれたのである。

秀吉は、「人たらしの術」を子供のときに子守をして身に付けた。貧乏百姓の子供だったから、よそのちょっと裕福な農家の赤ん坊を子守して、おやつくらいもらったのだろう。

やってみるとわかるが、子守というのは人によっては大変に苦しい仕事だ。子供というのは絶えず気分が変わる。

今泣いてるかと思ったらけらけら笑って、あっちに行こう、こっちに行こうと言う。

遊んでやるともっともっととしつこくねばり、叱ると泣く。絶えず興味が変わっていくし、気分がころころ変わる。

今泣いたかと思ったら喜び、喜んでいるかと思えばすぐ泣く。おしめ、遊び、ご飯、起きていると思ったら寝ているし、まだ寝ているなと思うと起きたりする。

要するに、子供は自分のペースを他の人に押しつける。子守の人が今疲れているから、その状況に合わせて僕も寝ついてやろうなんていう子供はいない。必ずその反対をやるわけだ。

だから子守の仕事は、子供のニーズや要求に自分を合わせることだ。そうするとその子守は優秀だということで、それじゃあうちの子もみてくれ、私の子も……ということになる。

秀吉はそうやって、人たらしの基礎を身に付けたのだ。

子守が苦手な人、子守ができないタイプの人がいる。自分のポリシーに忠実な人、言い替えれば自己中心的な人だ。

奥さんが同窓会に行くというので、ご主人が子守を頼まれたとしよう。しかし自分は九時から二時間は経営の勉強をしようと決めている。

「深見所長も出世のためには読書せよと教えているし、大体子供は九時には寝ついているべきだ」と。

そこで「おい、子供!九時だから寝ろ!」と言ったところで、子供が「はいっ!」と寝るわけがない。巨人戦がまだ7回だし、「開運!なんでも鑑定団」もやっている。

他にやりたいことだって山ほどある。しかし、子供は騒ぐか泣くか、どっちにしても父親の都合に合わせることは絶対にしない。

子供は九時に寝るべきだ。夕食の後には歯を磨いて、おやつはもう食べてはいけない。

自分は九時から二時間読書しなければ、そういうイデオロギーにこり固まった人は、子守なんてできるはずがないのだ。

こういう人は、自分も子供並みに自己中心だから、私に教わったつもりで読書だけ習慣化しても、出世どころではないだろう。

今泣くのはおかしいと言っても子供は泣く。こんなところでオシッコはすべきでない、と言っても子供はオシッコをもらす。

どんな考え方をしろと言ったところで子供は関係ない。子守をするには、子供の状態に合わせてこっちが変わらなくてはいけない。

自分のポリシーとか指針とか、かくあるべき方針なんかを持っている人間が子供をあやしにかかったら、頭がパニックになるだろう。全く自分の思いどおりにならないからだ。

それでも子供を納得させてしつけなくてはならない。子供を納得させるには、子供なりの価値基準に合わせてやらなくてはいけないから、秀吉も子守をやっていて一番苦労したのはこの点であろう。

とにかく自分の思いどおりにいかない。自分の価値基準に合わない。時間といい、好みといい、いいなあと思うものだって、子供によって全部違う。

それに適合して上手にあやしていく。これが「人たらし」の秀吉の能力を作った基盤なのである。

信長をあやせたから秀吉は出世した!

秀吉が仕えた織田信長という人は、世にも稀なほど自己中心的な人だったことは、あまりにも有名だ。天才は天才なのだが、こうだと自分が決めたら絶対に変えない。

逆らう部下は殺すか解雇してしまう。配下の有力な武将、つまり今なら幹部社員はみんな「困った殿様だ、やりにくい殿様だ」と思っていた。

その中で秀吉だけが、信長に気に入られてトントン拍子に出世した。ということは、秀吉は信長をあやしきったということだ。

いいも悪いもなく、織田信長をあやしきったということだ。織田信長様はこういう人だと見切ったら草履を温める。

柴田勝家殿はああいう性質だ、明智光秀殿はこういう性格だ。皆それぞれお侍さんだからプライドがある。

けれど、自分は尾張中村の百姓から上がってきたからプライドがない。お侍はこういうところを尊ぶのだとわかったら、その侍心をくすぐるように、「私、猿でございます」とへり下って対する。

武士のプライド、武士が求めているのはこれなんだとつかんで、頭を下げてあやしていった。あやされてる方は優越感にひたって「うい奴じゃ」と引立ててくれる。

そうやって秀吉は着々と出世していった。もちろんそのためには危ない橋も何度も渡っている。

信長が要求しても危険すぎるからと誰も引き受けなかった墨股城築城など、命がけの仕事もした。

それもわがままな信長をたらし込むには必要だったからで、おべつかだけで出世したのではないのである。

会社ではこうやって人をたらし込め!

現代のサラリーマン、OLのみなさんにとっても、出世しようと思う人には、秀吉流の人たらしは有効で強力な武器になる。

人たらしというのは、男たらし、女たらし、いろいろあるけれども、どこまでたらし込むかという程度が問題になる。

後で恨みを受けたり、奥さんとの決別が待っているようなたらし方は問題だ。たらすか、たらさざるかの微妙な雰囲気の中でたらし込む。

たらし気味というのがいいのであって、これは全然平和だ。恨みも呪いもなく、夫婦円満だから、たらし気味がいい。異性を完全にたらし込んだとなると責任が発生するし、悲劇が待っている場合もある。

男性は男性をたらし込まなければいけない。たらし込む対象の人は、自分の目上、自分の同僚、自分の目下、つまり上中下、天人地とたらす。

すると、たらされた人間は涙をたらして、お前は素晴らしい奴だ、いい奴だと言う。男性の場合、まず男たらしでなければいけない。女性をたらす場合はたらし気味にしておく。

女性の側からはどうなのかというと、男に対してはたらし気味にして、女同士でたらし込む。人間には男と女があるので、人たらしをするにも少し調節がいる。

男性社員の場合は、男をたらし込み、女性はたらし気味にする。同僚や仲間同士でも、男をたらし込み、女はたらし気味にする。目下も同じく男はたらし込み、女はたらし気味にするとよい。

これで天人地と三百六十度たらし、たらし込んだらいい。これが現代の人たらしである。

秀吉もそうだった。目上にも、同僚にも、目下にも、「はあ、なるほど」と思わせる。子供をあやすときと同じやり方を行ったのである。

ゴマすりで何が悪いか!マルコメ味噌の法則でいこう

人たらしの一番の早道は、ゴマすりだ。あいつはゴマすりだ、と言ったら誰もほめ言葉だとは思わない。ゴマすり人間は、世の中では軽蔑され毛嫌いされる。

しかし、これはおかしい。私に言わせれば、ゴマもすれない人間がゴマすりのことを偉そうに批判してはいけない。

批判する前に自分で一回すってみよ、と言うのだ。ストレスが溜まるし、屈辱感は感じるから、胃潰瘍になりそうになったりする。

食べたくないものを食べなくてはいけないし、死にそうなときでも、行きたくない麻雀とかゴルフをしなくてはいけない。

一回ゴマをすってみたら、いかに大変かがわかる。だから、ゴマをすっている人に対して、ゴマをすれない人間が偉そうに言ってはいけない。特に会社勤めの人はそうだ。

株式会社でも有限会社でも、学校法人でも財団法人でも、ボランティアのグループでも、同窓会でも、絶対にゴマをすらずに出世できるという社会はありえない。

ましてやサラリーマンやOLであれば、実力の評価では上司や同僚や部下との対人関係がものをいう。

いかにゴマをすれるかという表現力や咀嚼力も必要なことなのだ。現実に人間関係によって会社が成り立っている以上、多かれ少なかれゴマすり的要素がなければ思うように仕事はすすまないし、到底出世は望めない。

ゴマすりゴマすりと言うが、見方を変えれば、相手に心地よく喜んでいただけるようにあやしているということだ。

ゴマすりに問題があるとするならば、偏ったゴマすりの場合だ。あいつはゴマすりだからと嫌われるのは、目上にだけおべっかを使ってゴマをすっている人の場合が多い。

目上にだけはペコペコするけれど、同僚や目下の人には横柄で人を人と思わないような態度でいたら、それは嫌われるに決まっている。一方向にだけゴマをするからだめなのだ。

正しいゴマすりの法則というのがあって、私は「マルコメ味噌の法則」と名づけた。マルコメ坊やはツルツル頭、つまり髪がない。

髪というのは感情を表し、己の心のある状態を意味する。お坊さんが出家するときに頭を剃るのは、これらを捨てるという決意の表れでもある。

だから、髪がないということは私の感情がないということだ。「マ「ルコメ味噌」のゴマスリとは、私情とか私利私欲抜きに、すべての人を思いやる心、それを基礎とし、ゴマをすることである。

そういう心で周りをながめると、会社の中の人間関係が違って見えてくる。目上の女性はこう思ってるな、目下の男性は上司の自分にこうやってほしいと思ってるな、とそれぞれの価値基準が見出だせるから、そこでたらし込む。

目下の女子社員がこう思ってるな、こうやってほしいと思ってるなとキャッチして、その通りにしてあげる。

つまりあやしてあげられる。そうすると、上からも同僚からも目下からも、あの人は素晴らしい人だと思われる。男性からも女性からもいい人だと言われる人は、必ず出世する。

こういう人は、もちろん目上の人にもゴマをする。でも全方向でゴマをする人は、あいつがゴマすりで、と悪くは言われない。どう言われるかというと、腰が低い人だとか、人当たりの良い人だと言われる。人格者だとか人柄がいいと言われたりする。どれも最高の人物評価だ。

だから、ゴマすりという行いを落としめて考えてはいけないし、ましてゴマすりができない人間が、人をゴマすりとさげすんでもいけない。

マルコメ味噌の精神で、上中下全ての人にゴマをすることが、最高の善行なのだ。

おべっかも同じだ。相手の気持ちを良くさせる言葉を、上にだけ言っているとおべっかになる。

自分の同僚や、若い目下の人に対しても、子供が受験に合格したらどんなレベルの低い学校でも、「良かったわね。難関突破ね。おめでとう」、「英検受かったのね、「すごいわ」と声をかけてあげられる人は、おべっか使いだとは言われない。

上にだけゴマをすったり、おべっかを言う人は何人かいても、同僚や目下の人の喜び事にお祝いの言葉をかけられる人はあまりいないのではないだろうか。

残念なことだが、マルコメの反対で、私情だらけのボサボサ髪の生臭坊主が現代では多過ぎるということだ。

だからこそマルコメ精神で、天人地、上中下分けへだてなく好意で接する人の価値は大きい。当然、出世することになる。

こういう素晴らしい人、全方向ゴマすり、全方向おべっかの人は、神様の覚えもめでたい。そもそも神様へのお祈りの言葉である祝詞をみたら、全部神様へのゴマすり、おべっかであるとも言える。

神社の神様に、「神社の神様、私の心わかるでしょ。

あんた神様だから、月末に手形なんとかしてよ」とお祈りしたって、誰が助けるというのだ。神社の祝詞を見たら、いくらボロボロの神社でも、「ものふりたるこの社と鳥居の風情には感動するほかござ「いません」と言っている。

「この深く静まりかえった清浄な森が」と言っていても、すぐ後ろに駐車場があったりソープランドがあったりする。

そのことを神様が知らないわけはないが、それでもぬけぬけとほめあげるのだから、ゴマすり、おべっか以外の何ものでもない。それが祝詞なのだが、これは神意にかなった正式なお願いのしかたなのだ。

神道だけではない。バイブルを見ても、イエス・キリストやマリアさんに対するおべっかとゴマの塊だ。

仏典を見ると、文珠菩薩や不動明王やお地蔵さんをほめたたえるお経がズラーッと並んでいる。観音経では観音様がいかに素晴らしいのかと、あの手この手で、よくもここまでほめちぎれるなというくらいほめ上げる。

それが観音経だ。それで観音様もその気になってくださるわけだ。

不動明王のお経も毘沙門天のお経も、もうほめちぎって、ほめたたえて、歯が浮いて、浮き過ぎて歯槽膿漏(?)になって、治して、固めて、そこに蜜、桃、飴をすりこんで幸せのモルヒネをブチュッと打つような感じのお経だ。

バイブルも、コーランも、お経や教典も全部善意のゴマすりである。

上にも下にもゴマをすれ!

「ゴマすり野郎は悪だ」という偏見は、この際捨ててもらいたい。大体、会社で出世できない人はそういう偏見を持つ人だ。

「あいつはゴマばっかりすって」と他人をけなす人は、自分はおべっかを使ったりできないし、人が何を望んでいるか理解できない人である。だから出世できないのだ。

悔しかったら、自分も上役におべっかを使って出世して、その上で「お前、ゴマばっかりするんじゃないよ」とひとこと言ってやればよいのだ。

ゴマすりやおべっかは、それ自体は善でも悪でもない。善か悪かはそれをどういう目的でやるかで決まる。

要は、多くの人の幸せのためにゴマをすり、おべっかができるかどうかなのだ。

正しいゴマのすり方というのは、上にだけゴマをすらないで、全方向にゴマをすることだ。

だから、目上にゴマをすっておべっかを言ったら、同僚にもゴマをすっておべっかを言う。

そして目下にもゴマをすっておべっかを言って、上中下、天人地、天ゴマ、地ゴマ、人ゴマだ。米国ですったらベーゴマだし、新宿ですったら新宿コマ、梅田ですったら梅田コマ劇場になる。黒い心ですったら黒ゴマ、純粋な気持ちですったら白ゴマ、そして、愛と真心ですったら観音ゴマになる。

これこそが最高レベルのゴマすり法で、神仏の心に近いわけだから、出世のレベルもうんと高い。一方向だけのゴマすりだと、うまくいってもゴマせんべい屋の店長のおっちゃん止まりぐらいだろう。

いずれにしても、出世のためには、まず「ゴマすり、おべっかは悪だ」というカセをはずしてほしい。

金儲けを悪と思うな

ゴマすりに対する罪悪感以外に、まだ出世を妨げるカセがある。それは実はとんでもない間違いなのだが、案外世間でまかり通っている価値観だ。

それは、「お金を儲けることはいけないことだ」という先入観、罪悪感だ。これがある人は出世できないどころか、一歩間違うと会社が潰れてしまって、逆に大勢の人に迷惑をかけてしまうことになる。

そういう経営者の会社には、入社しない方が無難であろう。

ゴマすり、おべっかが悪でも善でもないのと同様に、利益をあげて金を儲けることも、それ自体善でも悪でもない。

これについては、故松下幸之助さんが鋭いことをおっしゃっていた。それはこういう趣旨だ。

「皆、利益をあげるとか儲けることに対する罪悪感を持っている。しかし、それは間違いだ。儲けは尊い、利益は尊い。

そうでなければ会社はやっていけない。ほろ儲けやあぶく銭では問題だが、儲けること、利益をあげること自体は善でも悪でもない。

その利益をどう還元するかが大事だ。法定準備金にするか、内部留保して株主に配当するか。あるいは投資に回していくのか。

それはさておき、利益をあげないことには会社は倒産するわけで、その会社にとって利益をあげないことは、悪に違いない。

最近の新聞広告を見ていると、企業責任とか言って、大層格好のいいことを言う会社がある。

自然を守るだとか、環境に優しいだとか、そういうことが自分のところの企業責任であるとかいうことだ。

企業が自然環境を守ろうというのは、結構なことだ。しかし、間違ってはいけない。そういうことは、企業の社会責任の中では一番大事なことではない」

ドラッカー氏も言っているが、企業の社会的責任とは、会社として儲けること、利益をあげることだ。会社が利益をあげないとどうなるか。三年ぐらいで倒産する。

倒産の悲劇についてはみんなよく知っている。債権者に追われる。ヤクザが絡んでくる。

一家離散して、どこに行ったかわからなくなって、それでもずーっと借金を返していく。倒産の悲劇ほど悲惨なものはない。

それで一生駄目になる人も多い。ヨネックスのように、倒産しても這上がってきて、立ち上がって成功する場合もあるが、ほとんどは潰れて終わってしまう。

被害は、その会社、社長、社員だけではすまない。その家族、親戚縁者、取引先、損害を被って連鎖倒産する会社も出てくる。

取引先から不渡りを喰らったら、入金予定が狂ってしまって、連鎖的に倒産して、また悲劇が蔓延する。

そうならないための企業の社会的責任は、利益をあげ続けることであり、それが第一である。

それができないのに、利益以上に自然環境に金を使ったら、人間環境をメチャメチャにしてしまう。利益があがってこそ、社員にいくらでも還元できる。

利益があがったらば、自然環境保全に力を入れることもできる。しかし、利益が出ないと、社員はボーナスが出ないとか、給料が上がらないとかで、一人去り、二人去りする。

残った社員は、その分必死で働かなくてはいけなくなる。環境はきれいに、空気もきれいに、土地は汚さないが、社員は不幸にしたというのではどうしようもない。

だから、経営者の社会的責任は、第一に利益をあげ続けること、そうやって会社を存続させることなのである。

だから広告などで見て、外面の格好良さだけで企業活動の善悪を判断してはいけないのだ。

たとえば、サントリーが野鳥保護にお金を出しているという広告をよく見かけるが、サントリーは野鳥保護を主目的としているわけではない。

本業のウイスキーや清涼飲料水をたくさん売って、しっかり儲けているからこそ、利益の一部を野鳥保護に回せるのである。

松下さんの言葉こそ真理だ

故松下幸之助さんも、こうおっしゃっていた。

利潤をあげるということ、儲けるということは善悪を超えたものなので、経営者はそれに罪悪感を持ってはいけないと。

そして松下電器は、現金商売を徹底させた。家賃や給料の支払いは、現金であって手形では払えない。

電話代にしても、電話局に手形で払うわけにはいかない。今でも松下電器は現金主義だ。

そして利潤をあげるという主義だから業績がいい。松下幸之助さんは、そこに気が付いたわけだ。利益をあげるということに罪悪感を持ってはいけない、素晴らしいことなのだと。

利益を独占するとか、あぶく銭だとか、一方的なぼろ儲けとかはしない。ほろ儲け気味ということくらいはあるかも知れないが、利益の一部は社員や取引先に還元する。

松下電器は、いい製品を作って、スケールメリットを生かし、いい品物をどんどん安く提供し、そうやって社会に貢献するんだということで、社員が燃えて頑張ったわけだ。

だから、松下電器は、「私どもの方としてもこれだけの利益、儲けがないと会社は存続できませんから、儲けさせてください」と堂々と言う。

こういうことは、関西の人はよく言えるのだが、関東の人はなかなか言えない。「うちも利潤がなければやっていけませんから儲けさせてください」と、なかなか言えないのである。

「この製品は御社のためにプラスで」とか、格好よく言いがちである。関西 33 ではもろに、「儲かりまっかー」なんて言う。

「おっさん、儲かりまっかー」、「儲かるもんやありまへんで!」とやり合うのが普通だが、関東の人から見たら、こすっからいと言う。

金、金、金、金の亡者みたいだと悪く言うが、そうではない。企業人たるもの「利潤の追求はやむを得ません」と言わなくてはいけないのだ。

「企業の社会的責任でございます。私どもも、これがなければ会社が存続できませんので、その分だけサービスを練っております」と言うべきなのである。

価格競争になったときも、なんでも値段を下げればいいというわけではない。必要以上に下げ過ぎたら共倒れになる。

だから、談合が出てくるのもある程度無理もないところだ。フェアじゃないと言われるかもしれないが、放っておけば施主はどんどんたたくから、どんどん原価割れしてきて潰れることになる。

だから建設業界でも、存続していくために談合があるのである。アメリカ側から自由競争せよと言われても、下請けを守るために、会社を守るために、談合せざるを得ないという背景があるのだ。

談合がいいというわけではないのだが、全部が悪いわけではない。

反対に、儲けだ、儲けだと言ったって、人が嫌がったら、どの道儲けられなくなる。

だから、社会の中で認められる範囲で利潤をあげるということに対しては、罪悪感を持たないことだ。それよりも利益があがったら、時にそれを社員に還元し、取引先に還元し、社会に還元するという使い方が大切だ。けれども、まず利益があがってないと、会社が存続しない。

だから松下幸之助さんが言うように、儲けるということ、利益をあげるということに対して、罪悪感を持ってはいけない。

利益をあげることは素晴らしいことなんだと、そう信じて実行することが経営の大事なところだ。

関東の人と関西の人とでは、利益、儲けについての考え方は相当に違う。大体、東京のデパートで東京や関東の人が買い物をするとき、値切る人はまずいない。

だが関西の人は、デパートだろうが夜店だろうが、平気で値切る。

そういうわけで、関東と関西を比べると、政治的には関東が優位だが、企業活動だとどうしても体質的に関西が勝つ。

先程紹介した松下幸之助さんの言葉も、大阪の人だからこそ言える言葉だと思う。関西には、商いの伝統が何百年もある。

丸紅も滋賀県出身、伊藤忠も滋賀県出身、三井は三重県出身、三菱は高知出身、住友は京都出身というように、日本の財閥のほとんど全部が関西方面から出ている。

関東から出ているのはイトーヨーカドーぐらいで、西武グループも滋賀県出身の堤康次郎氏が始めた。

政治や文化など、いろいろな面で関東の良いところもあるけれど、企業活動、経済活動については、関西人のバイタリティーをきちんと見習ったほうがいい。

そうやって、天地人すべてにゴマをすり、利益を出すことを良いことだと確信すること。そうすれば誰でも出世するはずである。

人間を理解する力を持て

「ゴマをすれ」、「金儲けに罪悪感を持つな」とくると、その次にくるのは人間理解ということだ。つまり人間を理解する力がある人は出世するのである。

これについては、イギリスの銀行協会が行った調査で、実に興味深いデータがある。この調査は、どんな人が銀行マンとして出世しているかということを、イギリスの銀行で頭取になっている人を対象に調べた。

その結果興味深い共通項が見つかった。

それは全員シェイクスピアをこよなく愛し、シェイクスピアを研究していて、心の拠り所としている人だったということである。

統計経済の専門家でもなく、経済予測の専門家でもなく、金融論の専門家でもなく、それらはまあある程度勉強してはいるが、共通して、シェイクスピアをこよなく愛する文学的な人が頭取になっていたのである。

虫なぜ、このような結果が出たのだろうか。それはこういうことである。

例えば、マクベスでは悪妻のなんたるかがわかるし、リア王だと親子関係の悲劇がわかる。数々の作品の中には、人間の欲望や恨みつらみ、呪い、ねたみ、そねみ、悲しみ、はかなさ、そしてまた親子の情、男女の愛、夫婦の愛、その中に錯綜する人間の陰の部分も陽の部分も、いいところも悪いところも描かれていて、しかもどこか人間に対する温かい愛がある。

人間というものを理解して、いいも悪いも、酸いも甘いも、裏も表もわかったうえで、そしてなおかつその人間を愛する心がある。

これがシェイクスピアの作品に流れている特色である。それで、シェイクスピアを理解する人は、同時に人というものに対して深い洞察と理解を持つのである。

つまり、シェイクスピアを理解するものは、人間社会、人間模様を深く理解し、実践し、イギリス金融界で成功し、頭取となったのである。

現実の世界を見渡してみても、人間はいろいろ、それぞれだ。許しがたいマクベスの妻のごときワル女や、リア王の姉のような悲しい運命の人など、ひととおりではない。

シェイクスピア文学の中の人間像はいろいろで、シェイクスピアはこのあやなす人間模様を理解することが大切だと教えてくれる。

イギリスの銀行といえば世界の金融界の中心的な存在である。そこで頭取になるには何よりも、人間に対する豊かな理解力を持つことが必要なのである。

社会で成功し出世する人にとって、人間理解がいかに大切か、この調査結果があますところなく示している。

人間というものを正しく深く理解している人、そしてそれを温かく見ている人が頭取になるわけである。

人間理解がない人間は、銀行や企業では頭取級に出世できないことになるが、この定義は宗教の世界でもあてはまる。

宗教界では出世する云々は関係ないが、より多くの人を救い自分の精神のレベルアップをするためには、やはり人間理解が必要になる。

宗教が好きだという人は、愛と真心に生きる優しい性質の人が多い。しかしながら、人間の理解が足りないと、汚い人間とか、嫌らしい人間とか、変な人間が許せなくなる。

自分がきれいで潔癖だったら、人もきれいで潔癖でなくてはならないと思うわけだ。

これが、宗教は好きだけれども人間理解が足りないというタイプの人だ。

神仏について考えたいと言っている人は、ほとんどこういうタイプだ。

そしてこのタイプは、会社の人間関係が汚なくて嫌だとか、ゴマすりや金儲けが間違いだと思っている。

そういう人たちのために、私はゴマすりや金儲けはどういうことなのかと、こうして書いて伝えているのだが・・・。

自分が潔癖なのは良いとして、潔癖でない人、汚い人が許せないという気持があると、そういう人たちを救ってあげることはできない。

神様や仏様はいつもきれいで潔癖だから、自分が神仏の道を求めるときには、それでいい。

しかし、神仏はどうなのかというと、そういうきれいでない、潔癖でないドロドロした人々も、神様がお造りになった人間だから救いたいと思っておられる。

悪人とか罪人とか、どうしようもない人たちのことも理解して、少しずつその人間をいい方向へ導いていきたいと思っている。

だから、そういう神仏の心がわかったら、人間理解の努力を始め、その中に入っていかなければならない。

これを「和光同塵」の働き、「同事」の働きという。光を和らげ、塵と同じくする。

和光同塵、同事、この二つが大事なのだ。