「和光同塵」「同事」でがんばれ
弘法大師は、和光同塵、同事ということを強調している。そのエピソードを紹介してみよう。
弘法大師を尊敬する人が、大師に手紙を書いた。ざっと次のような内容で、人生相談だと思うといい。
「私は官僚としてやっておりますけども、今の上司は、ほんとにやりにくい。
ほんとのゴマすりで、部下に対しても辛いし、人間として尊敬できません。あんな人と仕事をするぐらいだったら、私はもう官僚勤めを辞めて、田舎に帰って自分のしたいことをやりたいと思います。
弘法大師さま、どうでしょうか?」と、こういう手紙を書いたわけだ。
弘法大師はこれに返事を書いた。
「あなたの気持ちはよくわかる。世の中で宮仕えほど辛いものはない。右と言えば右、
左と言えば左で従わなければいけないのだから。しかも尊敬できない人間、腹の底から憤るような人間の部下となるということは、さぞかし大変で耐えられないことでしょう。
仏教では和光同塵、同事という二つのことを大事にします。この二つのことを知って、よくよく考えて、本当によくよく考えて、それでも仕方ない場合は辞めるのもよいでしょうけれども、早まってはいけません。
焦っちゃいけませんよ」と、その人間を励ました。
弘法大師は、役人をやめたいと言っている人に「和光同塵、同事の精神でがんばれ。よく考え直せ」と激励しているのだが、この和光同塵、同事とはどういうことか。
それがわからないと、返事をもらった人だって、何を言われているのかわからない。しかし、この状況が現代にも通じる問題だということは、読者のみなさんにもわかるだろう。
そこでその意味を解いてみよう。
仏様は、光が燦然と輝くように、清く正しく美しい、善なる存在だ。どんなにたちの悪い衆生も、もとは神の子、神の宮だし、仏性を持っているわけだから、仏はそんな人間をこそかえって哀れに思う。そこが、上司が嫌だから仕事をやめると言う人とは違う。弘法大師もまた違う。
相談者が毛嫌いするゴマすりの上司をも、弘法大師は理解してやりたいのだ。
上下関係においても、部下というのは、上司が理想像に合っていて素晴らしかったら尊敬するけれども、悪人だったり、罪人だったり、実は子供を殺して埋めたような犯罪者だったとわかったら、距離をおくようになる。
ところが、お父さんやお母さんや兄弟はそうはしない。犯罪者だったのだとわかれば一層憐れんで、なんとかこの子は良くならないものだろうかという心で接する。
善人であろうと悪人であろうと、その人のために無償の愛を注ぐものだ。特に母親などはそうする。
仏様も神様もこの心と同じだ。罪人だったり、犯罪者だったり、悪人だったりする者を憐れんで、そういう人間をも幸せにしていこうと思う。
思うのだけれども、仏様がじかに出てはまぶし過ぎる。神仏がそのあるがままの姿で罪人、悪人の前に出ていったら、レベルが低過ぎるほうは、まぶしくて目をあけていられない。
「わー、まばゆい。私なんかこんなまばゆさにはとても近寄れませーん」と、目が潰れそうになる。
だから、その人間を救済する慈悲と慈愛のために、仏様も自分の光をずっと和らげてくださる。それまでが百ワットの電球だったとしたら、三十ワットぐらいに光を落として、寂光、心静かなる光に変える。
これを「和光」という。光を和らげるということだ。本来は輝く仏様が、光をずーっと和らげて薄暗くする。
すると暗い所、汚い所にいる人間は、まぶし過ぎず、ちょうどよい明るさに感じるわけだ。
そして塵と同じくする。悪人や罪人がいる所は塵まみれの所だから、仏様も自分を塵と同じくするのだ。
塵と同じようにして、あっちこっちと埃だらけになりながら、「ここは埃っぽいですなあ、お互い鼻毛がこんなに伸びました」とかやっている。
「ほんとに鼻毛が伸びますねえ。鼻毛がこんなに伸びるのは空気が悪いからですねえ。
しかしもうちょっと空気のいい所もあるから、そっちへ行きましょうよ」、と仏様はそこに居た人間を連れていく。救うわけだ。
相手と同じくらいに自分の光を和らげ、塵と同じくするから、そういう所に住んでいる人間が救えるのである。
自分が高い所にいるだけだったら、燦然としてまぶしくて救えない。
だから、光を和らげ、塵と同じくして、相手のそばに行って教えて救おうとされる。慈悲のあるところ、知恵のあるところ、自在なるところ、これを和光同塵の働きというのである。
事を同じくして、間違いをわからせる
「同事」というのは、事を同じくするということだ。相手が間違ったことをやろうとするときに、正しい立場から批判しても相手はその非がわからない。
それよりも相手に同調して、一緒に間違ったことをやって、それが失敗することで相手に自分から非を認めさせるということだ。
身近な例として、それほど深刻でない例をあげておこう。「普通社員」と「同事社員」が「マチガイ課長」とやりとりしている風景だ。
マチガイ課長「今日は課内の模様替えをするぞ。普通社員君、この冷蔵庫の位置は方角が悪い。こんなところに置いたら中に入れたものがみんなO157に汚染されて、食べた人が死んじゃうと週刊誌に書いてあった。そっちに動かすぞ。手を貸してくれ」
普通社員「そっちって、課長。そこはドアの前じゃないですか。そんな所に移したら不便になるに決まってるじゃないですか。やめてください」
課長「何!生意気な。課長の指示がきけないのか!俺の言うとおりに動け」
社員「いやですね。私は自分の仕事をしますから、やりたきゃひとりでどうぞ」
課長「だまれ。業務命令も聞けないやつはクビだ!」
社員「ハイハイ、やめますよ。あんたの顔なんて見たくもない」
これが普通のケースで、弘法大師に相談した役人も、こういうタイプだった。
ところが同事の精神を心得た社員だと、対応が違ってこうなる。
マチガイ課長「そういうわけだ。冷蔵庫を動かすから、同事社員君、手を貸してくれ」
同事社員「はい、わかりました。ああ、この場所が方角がいいんですか。さすが課長だ。みんなの健康のためを考えてくださる。ちょっと邪魔になるけれど、健康には代えられませんよね。ウンショ。よしこれでOKだ」
社員「でも課長、これ少し邪魔じゃないですか。お気持ちはありがたいんですが、部長とか社長が来られて、通行の邪魔だとか言われたら……、そのときはそのときですよね。それに出入りのお客様が、冷蔵庫の背中の配線に背広を引っかけちゃうとか・・・・・・」課長「ああ、うう。方角とかいっても、他の人に迷惑になるかな。それじゃ本意に反するな。うん、ここはやっぱり元に戻そう」
社員「さすが課長、早い判断ですね」
課長「過ちて改むるにはばかることなかれ、と言うしな」
社員「いや、それがわかっていても、できない人って多いですよ。さすがは課長だ。我が社の宝ですね!」
課長「お前、少しほめ過ぎじゃないか?」
「同事」というのは、こういうことだ。はじめから間違っているとわかっていても、仏様は、一緒に地獄に落ちてあげることによって、衆生を救うこともされるのである。
ここに置くのはおかしいよなんてはじめから議論せず、とりあえず相手がそうしたいというように、事を同じくして一緒にやってあげて、一緒にやりながら、これはちょっと問題かもしれませんねとか言いながら、その人が改心して良い方向に行くように導かれるのである。
神仏は、このように自分の我とかブライドにこだわったり、かくあるべきだというのではなく、人々に対する慈悲の思いと叡知を持って、衆生を救うために辛抱して、和光同塵、光を和らげ塵と同じくし、事を同じくして、衆生を導いておられるのだ。
心に愛があり、人間理解ができている人ならば、これができるのである。
潔癖であるがゆえに相手にもそれを求めてしまう人、そうでなくても、人の欠点が目について好きになれないという傾向がある人のために、もうひとつ、視点を変えて相手と自分を見るということを述べておこう。
人は他人に対しては常にシビアであっても、自分自身に向ける目は甘いものだ。
嫌いだと思っている相手には、たいてい自分も嫌われているもので、人の心はあたかも鏡のようなもの。気になる相手の欠点は自分にもあるのだと考え、自らの欠点を知ることに努めるべきである。
といって私は、「人のふり見て我がふり直せ」と強調しているのではない。
欠点はお互いにあるのだということ、長所も欠点も合わせ持つのが人間なのだということを知り、それを認め合うこと。それが、人間理解への第一歩だと思っていただきたいのだ。
第2章 ヒラメキ・直感は、こうなれば得られる
ヒラメキ、アイデアで差をつける
昨今は長く続いている不景気の真っ最中で、サラリーマンやOLのみなさんには、はなはだ辛い時代だ。
うかうかしていると、若い人でもすぐリストラを喰う。長く勤めて高給取りのサラリーマンは、うかうかしてなくともリストラの危険ありだ。
それもそのはずである。これまでは高度成長時代の延長で、日本の勤め人の給料はずっと上がりっぱなしだったから、ほしいものは大体そろってしまった。
電気冷蔵庫と洗濯機とテレビが「三種の神器」などと言われた時代もあったが、今では日本国民の家庭はどこも神器だらけだ。
こういう時代には大企業でも中小企業でも、画期的な新製品を開発できないと生き残れない。
そうすると、そういう素晴らしい商品、素晴らしい技術を生みだす直感力、ひらめきの出る人が大切にされることになる。そうでないとリストラだ。
なにもリストラを怖がって生きることはないが、世のサラリーマンもOLも、どうしたら直感、ヒラメキを持てるかをこの章で学んでいただきたい。
不景気な世の中なればこそ、ヒラメキ社員、アイデア社員はぐんぐん伸びて認められるチャンスなのだ。
頭ばかりを使っていては直感は冴えない!
逆説のようだが、第一に頭を使うな、ということを私は言いたい。あまり頭を使わないで、体全体を使って、人の三倍没入しているところに素晴らしい直感がわいてくるのだ。あまり考えてはいけない。
考えたら観念が出て、常識の枠内のアイデアしか出ない。頭を使わずに何を使えばいいかというと、頭以外のすべてを動かすのだ。
すなわち手を動かす、足を動かす、口を動かす、目を動かして、全身を動かす。そうすると、本当の頭が動く、すなわちヒラメクのである。
頭の働きというのはいろいろであるが、頭の知的な観念の部分が動くと、直感は出てこなくなる。
直感はどこから出てくるかというと、全身を動かすことによって出てくるのだ。全身というものを司る部分が脳にはあるのだが、いわゆる知的な頭を使っても、脳のそういう部分は働かない。
直感を司る脳の部分は、世間の常識と反対に、全身を動かすと働く。
だから、人よりも三倍一生懸命全身を動かしている人や、そういう「気」 に満ちた会社で一生懸命働いている人は、あっ、これはこうなんじゃないかな、ああなんじゃないかな、とひらめきがわくのである。
要するに、体全体に動きが出てくると、それが脳全体の働きになってきて、直感が出てくるのだ。
だから、一生懸命、仕事の現場で働いているときに、ああじゃないかな、こうじゃないかな、と雑用の中から浮かんできた知恵というものが、やはり一番現実にふさわしい生きた知恵なのだ。
E産業社長と松下幸之助〜哲学の差が社運を分けた!
E産業の社長が、格好いいことを社員に言ったことがある。
「これからは知恵の時代、叡知の時代、インベンションの時代だ。新しいものを生み出さなきゃいけないんだ。
新しいものを生み出さなきゃいけないから、社員はことごとく知恵を出せ。新しい生み出しがなければ、これからの企業は生き残っていけないのだ」と。
そして、「知恵が出せない者は汗を出せ。汗も出せないやつは会社を去れ」と言った。
この言葉はかなり評判になったものだ。私の大学の先輩などもすっかり影響されて、こういう時代なんだぞ、だからお前、知恵を出せ、知恵を、と私に説教したりした。
これからは新しいものを生み出していかなきゃならない時代だから、テクノロジーでも、経営のノウハウでも、知恵を出せ。出せないやつは汗を出せと。
そのどちらも出せないやつは会社を去れという。何かもっとものように聞こえないだろうか?
ところがそれを聞いた松下幸之助さんは、びっくりするようなコメントをした。ああ、あんなこと言ったら、あの会社は潰れるなと。
それでどうなったかというと、松下氏が言ったとおり、E産業は潰れてしまった。
松下氏はなぜ潰れると予言したのだろうか?松下幸之助さんは、あんなことを言ったら絶対に会社は潰れると言った上で、私だったらこう言うと言った。
「社員はことごとくまず汗を流せ。汗の中からにじみ出てきた知恵を次に生かせ。それができないやつは会社を去れ。こう言わなきゃいかん」と。
どんな人間も、「まず知恵を出せ、知恵がなければ汗を出せ、汗を流さなければ会社を去れ」と社長に言われたら、誰もが上からできる人間だと思われたいから、
意見ばかり出す。知恵ばかり出そうとする。しかし、そんな知恵を出す人間ばかりでは会社は成り立たない。
荷作り発送する人間が、手を動かさないで知恵ばかり出して、受け付けをする人間も知恵ばかり出して、財務する人間も仕事をせずに知恵ばかり出したらどうなるか。
取締役会でも連絡報告せずに、営業もセールスに行かずに知恵ばかり出して、会社が成り立つか。
誰でも知恵を出して格好いいと思われたいし、知恵が出せない人間はばかだと思われるから、ばかだと思われたくない一心で、汗を流すよりも知恵ばかり出そうとする。
そうすると会社は成り立たなくなる。そんな社風を作ったら絶対その会社は潰れる、と松下さんは見抜いて予言したのである。
そして、E産業はそのとおり潰れてしまった。もちろんE産業の社長は、会社を潰すつもりでそんなことを言ったのではない。
E産葉をもっと繁栄させるために、社員全員に知恵を出すことを要求したのだ。ところが「知恵は頭で考えたら出るものだ」という古い観念で言ったために、社員をも誤らせてしまった。
そこにいくと、経営の神様と言われ、丁稚小僧から始めて一家をなした松下さんは違っていた。
本当に画期的な知恵直感、ひらめきは、いきなり頭の中から出てくるものではなく、全身を使って汗をかくところから生まれてくることを知っていた。
だから E産業という他の会社の将来でも、あっさり予見できたのである。
知恵と汗と、どちらが貴重か?
知恵ひらめき、直感について、以上のように二通りの見解があることがわかる。汗を流す努力より知恵を上位に置くか。
それとも汗を流す努力のほうを尊いとするか。私は松下さんと同じように、汗を流すことをまず尊いと考える。
だから、知恵といっても、現場の中から出てくる生きた叡知でなければいけない。一生懸命汗を流している人間は、汗を流して働くということは尊いという価値感を持っている。
会社全体として、みんなが労働ということに喜びを持って働いている中から出てくる知恵は、生きた知恵だ。
もちろん、社長自らも汗を流して働くべきである。最初に書いたように、人の三倍働く汗を流したら、その汗から出てくる知恵がある。
これが現場から出てくる生きた創造的な知恵なのだ。この知恵を生かさなくてはいけない。
汗も流さないところから出てくる知恵というのは、それは偽りの知恵、学者さんの知恵でしかない。学者で生きていくならそれもいいが、企業の場合はそれではだめだ。
汗も流さないところから出てくる知恵というのは現実離れした知恵だから、それを実行してみても会社はうまく行くはずがない。
だから、まず汗を流すことが尊いのだということを社員全体に行き渡らせて、社長自らそれを実践し、取締役全部が自ら実践して、社員全員が一生懸命よく働くという会社にしなければだめだ。
そして、その中から出てくる知恵を応用する。それもできない人間が会社を去る。松下幸之助さんの言うほうがやはり正解なのである。
これではじめて正しい会社の経営、組織の運営ができるわけで、それは中小企業でも大企業でも同じだ。
一生懸命頑張ってやるということが美徳でなければいけない。
だから、人の三倍体を動かす。頭を使うのではなく、全身を使う。体を動かし働くことを喜びとする。そういうところで出てくる「知恵」というのが、生きた叡知、神なる知恵で、一石二鳥の知恵なのである。
正しい知恵と嘘の知恵の見分け方
私は、何もないところからハッとひらめいた知恵というのは、あまり信用していない。
一生懸命何か人と話をしていたり、一生懸命書類を片づけていたり、一生懸命ああでもない、こうでもないと何かをやっているプロセスの中で、フッと浮かんでくる知恵というのが一番正しい知恵だと考えている。
みなさんも、自分の知恵が正しいものかどうかを判断するには、それがどんなときに浮かんできたかを考えるとよい。
どんなときに浮かんできた知恵なのかで、生きた知恵か非現実的な知恵かがわかるのだ。
ぼけーっとしていて、時々フッと思いつく正しい知恵もある。必死で働いて働いて働き過ぎてくたびれてしまって、死んだように横になっていて、フッと目が覚めたときに浮かんでくるような場合だ。
それはそれで、そういうひらめきが正しい場合もあるだろう。数日間病気で寝込んでいて、何も考えられないときに浮かんでくる知恵というのは現実離れしているから、その知恵は疑ったほうがよい。
一生懸命やっている中で、ふとした瞬間に、「こうするともっといいんじゃないかな」と浮かんでくるひらめきこそ一番正しい神なる知恵だと思って、その知恵を採用することを私は勧める。
一生懸命働いて汗水垂らしているときにふと上から浮かんでくるのが、天来のひらめきである。
天才は1%のひらめきに9%の努力だとエジソンは言った。確かにそうかも知れないが、私流に言い直すと、日ごろ9%努力しているときに、ハッと1%のひらめきが出てくるということになる。
その1%を現実のものにするために、また一生懸命努力していくことが必要になる。
すると、その努力をしているプロセスで、またフッとこう浮かんでくる。
ひらめきと努力を交互に作用させることができる人が天才なのであって、汗をかく努力や仕事に熱中して全身を動かすことをいやがる人は、天啓もひらめきも絶対になく、天才でもありえない。
読書は動きのある所でするひらめきを生かす読書術
だから、役に立つひらめきを得、生きた知恵を得るには、手を動かす、足を動かす、とにかく何か体を動かすことが大切で、しかもその中で本も読んでいかないといけない。
動きの中にいるときというのは、普通はなかなか読めないものだが、私の場合、何か動いている所のほうが読みやすい。台所というのは、よく本を読めて仕事ができる場所だ。
台所には三宝荒神を祀ってあったり、水や火を使うから、水気や火気の気が巡り、気が動いている。
文章を書くときも、台所で書くと一番冴える。それから川のそばだ。川のそばのホテルは水気が動いているからいい。
そういう川のそばのホテルや旅館というのは、正しい知恵がうんと浮かんでくる場所である。
そういうことで、気の流れが動いているときに、自分も動いている状態で出てくる知恵が大事であり、そんな状態で読んだ本からはいろいろなヒントが浮かんでくる。
ただ本だけ読んでいるときというのは、頭には入るけれどもあまりひらめきは浮かばない。
私の場合は、プラットホームが読書室がわりだった。今でも思い出すが「易経」や「大学」や「中庸」を読むのはいつも日比谷線や東西線のホームのベンチだった。
そのころは、会社の寮に帰るといつも先輩が、「おい、これ見ろよ。アグネス・ラム、かわいいだろう」と写真を見せにくる。
私もまた、「ああ、もうやめてくださいよ。先輩」と言いながらも「はあ、なるほどね」とつい見てしまうので、読書に集中できないのである。
それだけでなく、寮へ帰ると先輩がしょっちゅう来て、「おい、これ食わないか。これ見ないか」と誘ってくるのでなかなか本が読めない。
しかたがないから、先輩が寝てしまうまで帰るのはよそうと思い、地下鉄のベンチでずっと本を読んですごした。
何章か読み終わってから帰ると、確かに先輩は寝ているけれど、寮の御飯も片付けられているし、お風呂も冷たくなっている。それでも、そうやって本を読んだものである。
静かで何もないときに、はい、本を読みなさいと言われても、私は読めない。
歩きながら読むとか、台所で読むとか、何か動きがある所でないと、本を読むという気にもならないのである。仕事で活動している中で読むと、動きの中の読書だから、一番生きた知恵を吸収できると思っている。
電車でゴットンゴットン揺られながら読むのが一番頭に入るという人は多いと思うが、それは私と同じ理屈だと思う。
反対に、まとまった時間がないと本が読めないという人は、大体いくら暇でも本を読まない人だ。
仕事で活躍したい人は、ホームや電車の中のこま切れの時間にこそ本を読むべきだ。そうすれば先人の素晴らしい知恵を吸収できて、自分が仕事に熱中しているときに鮮やかなひらめきとなってわいてくるものである。
トップセールスマンの日常に学ぶ
いくつかの事業に携わっているので、立場上たくさんの営業マンや経営者の方と接する機会がある。
優秀な方々ともずいぶんお目にかかってきたが、その中でも最高、ピカ一の方の仕事ぶり、暮らしぶりを紹介しておこう。
特に企業と企業の仲立ちをするセールスマンのみなさんには、おおいに参考になるはずだ。私が今の会社を始めたころに会った人で、今でもはっきりと印象に残っている。
肉を卸しているA社という会社があった。そこの社長は、ジャノメミシンのトップセールスマンに、自分の会社にきて営業部長になってもらうために、家を一軒建てて提供したという。自分は借家に住んでいるのにである。
私がお話ししたいのは、そうやって引き抜かれてきたN部長という方のことである。そうまでして来てもらった部長という人は、私から見るとえらくガラの悪い人に見えた。
口を開くと、「きょう、女とまたやりまんねん、どうのこうの……」と言うから、何て下品なんだと思ったものである。
また、「これから酒飲みに行って、三次会まで行って、どうのこうの…………」。そんな話ばかりしていた。
ところがその彼が、伊藤忠さんとの取り引きで敏腕ぶりを発揮した。
会社が不渡りを喰ってピンチに立たされたとき、伊藤忠を窓口に立てて、プリマハムなどに、自分のところの肉を卸せるようにしたのである。
商社に何%かマージンを払うだけで、逆に販路を一気に拡大してのけた。社長が家一軒建てて迎えるだけのことはあるスゴ腕ぶりであった。
そのころに私は、仕事で彼とお付き合いいただくようになっていたのである。
しかし、私の見るところ、いろいろな取り引き先の部長さんと絶えず飲み歩き、絶えず食べ歩き、絶えず女性との酒池肉林のしじまの中にいてお肉を売っていく、辣腕だけれど下品なだけの部長と思っていた。
あるとき私は、そのN部長の家に連れて行ってもらった。私はそのときまでは、この人と私とは世界が違い過ぎると思っていた。
ところが、そのN部長の家に行って驚いた。何と、応接間は全部本棚になっているのだ。
三六〇度全部本棚で、二重三重にして、何千冊という本がびっちり詰まっているのだ。
ドラッカー、ダニエル・ベルをはじめとする話題の本、大前研一などの経営の本、販売の本、税務の本、とにかくセールスに関するものや営業上必要な本が全部並んでいる。
「はあ~、N部長、すっごいですね、この本は・・・」。しかも全部読んだとおっしゃる。
「どうやって、そういう時間を作ったんですか」と聞くと、「それはもう、大学のころに章」。彼は、関西大学の社会学部を出ており、学生のころからの習慣だという。
しかも、今も毎日二時間は読書をしないと眠れないとおっしゃるのである。
私は、自分の人物評価があまりにも実際とかけ離れていたことを恥じるしかなかった。
それにしても、いつも取り引き先と「これから女とやりに行く」の「三次会まで付き合「う」のと言っている人が、一体どうやって寝る前に二時間本を読むのか、私には信じがたいことであった。
N部長の酒飲み術に大感動
それから私は、酒の席でのN部長のふるまいを徹底的にマークすることにした。
どうやったらあれほど酒を飲んで、それでも読書ができるのか?私も付き合い酒を飲まなくてはならない仕事をしている身だから、切実だったのである。
そうして観察していると、N部長が驚嘆のテクニックを使っていることがわかったのである。
まず飲みに行く。飲むことは飲むのだが、飲んでいるのはお客さんで、自分は飲んでも最少限度だ。よく観察しているとほとんど飲まない。
ウワーッと口には入れるようだが、自分ではちょっと含むだけで、相手にずっとついでいる。人にたくさん飲ませて、自分も飲んではいるのだが、時々グラスの酒をコップにあけてまた一杯ついでもらう。
飲む前に、「やあやあ~」とか何とか言いながら、少し飲んでまた他のコップにあけてしまう。
それを置いておいて、また、「いやあ~」と言いながら入れてもらうから、実際はあまり飲んでいない。
相手にだけたくさん飲ませておいて、二次会へ行っても「女のとこにまた行きまんねん、きょうは何とかちゃんと、何とかちゃんで行きまんねん」とか騒いで場を盛り上げているから、相手も気が付かないのだ。
けれど、実際は女のところなどには行かずに、そのまま家に帰って、応接室で本を読んでいる。そうやって必ず一日に二時間は読むのだ。
だから、酒を飲んだ後であろうと、接待をした後であろうと、休みの日もずっと本を読んでいるのだそうだ。
二次会、三次会に行って朝帰りのときでも、一回本を読んでから寝る。実際に二次会、三次会に行くことなどは二ヵ月に一回か二回しかない。いつも途中で女のところへ行くんだと言って退出してきてしまう。
N部長にはいっぱい女がいるんだということになっているが、実際はいないのだそうだ。
私は、酒池肉林の中にガラ悪く生きているおじさんと思っていたのだが、実はそうではなかった。アルコール量も最少限度で、ちゃんと相手をもてなしはするのだが、実は生まじめに、一日に必ず二時間、本を読んで寝る。
でなければ、あれだけの本は読破できない。伊藤忠とか、三井物産とか、商社との取り引きに際しても、セールス、業界、マネージメントに関する本は全部読んでいる。
だからそれだけの大きな会社の取締役として、部長としてやっていくだけの知識、実践の営業力があり、どれをとってみてもピカーだったのだ。
だから、商社の会長も部長も、N部長にうちに来てほしいと言い、誰が見ても優秀だ優秀だと言っていたのだ。
私のはじめの印象は、酒池肉林の中に生きているがらの悪い人、というものだったが、実際はそうではなかった。
自分で言うほど女狂いでもなく、酒狂いでもなく、アルコールの量もちゃんと調節して、勉強をしていたのだ。
そうでなければ、あれほど優秀になるはずないものなあと感心したものである。これが私が二七歳のころの大きな衝撃で、N部長の家の応接間のシーンは今でも覚えている。
自分の勉強の時間を確保するために、N部長が使っていた酒飲みテクニック女と酒に目がない人間だと思わせておいて、相手にだけ飲ませてしまうという技はすごい。
相手を気分良くさせてあげて自分も勉強できるのだから、サラリーマン道のお手本として、読者も見習っていただきたい。
努力してかく汗に勉強する汗も加えよ
中小企業の社長でも、シャーマニステックな直感力がなければならないのは、もう言うまでもないだろう。
あ、これはいけるな、こうだなというように論理で考えてはだめで、人の何倍も汗水たらしながら出てくる直感でなければならないが、同時に勉強も要る。
マネージメントにしても、税金のことにしても、人事のことにしても、会社が大きくなるプロセスにおいても、専門知識の勉強は必要になってくる。
そのうち、大企業との付き合いや取り引きも増えていくだろう。無論、現場を担うサラリーマンも進歩していかないとついていけなくなる。
そこでやはりその人に読書の習慣があるかどうかで力の差がついてくる。読書の習慣がない人というのは、どんなに商売がうまくても、ある一定以上の会社の規模になったら頭打ちになる。
その企業の仕事がいろいろな多種類の業種に広がっていくと、当然以前よりもいろいろなことを知っていなくてはならない。
その知識の広がりを背景にして直感も広がるわけだ。知識の背景がないときに、正しい直感というのは絶対に来ない。
直感は汗水たらす中から生まれると述べたが、汗水の中には、やはり勉強も入っている。N部長の例に見るように、サラリーマンが勉強することは大変な努力を必要とするのである。
だから発展性を考えた場合に、読書の習慣がない人は必ず頭打ちになるということだ。
少なくとも、若いときからそういう習慣がない人は、先が知れている。
例えば私が所長を務める研では、毎回セミナーで、国内外の経済状況を分析し勉強しているが、一人ひとりが勉強する人になっていただかないと、どんなに会社の経営はこうですよ、時代のこれから先はこうですよと伝えても、ああそうかと、右から左に抜けていって終わりだ。
それでは本当に身になる実力はつかない。一ヵ月に一回か二ヵ月に一回かセミナーに来て刺激を受けても、それ以外の毎日はどうなのかが問題だ。
取引先の仕事があったとしてみても、その日を仕事だけで絶対に終わらせないで、時間を無理やりにでも作って勉強をするなど、ひと味もふた味も違う毎日を送っている人が優秀な人になる。
これは日本の社会でも外国でも同じだ。
特に若い読者には強調しておきたい。読書し勉強することを習慣にできていれば、未来は必ず明るいと。
第3章 人の能力は、読書量でいくらでも変わる
千冊の本を読もう
現代の若者は本を読まない。それはまったく事実だ。
受験教育で毎年何千人もの若者を見ている私は断言する。若者だけではない。セミナーなどで会う中高年の人たちも、最近は本を読まなくなってきている。
そのかわりにくだらないテレビなどを見ている。私も時々は、くだらない週刊誌もくだらないスポーツ紙も見る。
しかし、そればかりではだめなのだ。サラリーマン、OLで成功しようと思ったら、若いうちから読書をすべきだ。
それも週刊誌などではだめだ。ビジネス書を読むなどというのはハッキリ言っ当たり前のことなので、ここではもっと根源的な読書の勧めをしよう。
それは、古典、もしくは準古典を読むことである。古典というのは人類が残した叡知の結晶だ。
それを一千冊読むのだ。古典を咀嚼、読解することによって、人間としての厚みができる。古典と言われる一千冊を読破したら、大体人間として完成する。私は大学を卒業するまでに一千冊読んだ。
企業活動、音楽活動など、どんな仕事につくにしても、古典千冊読破は将来の成功の基礎となる。例えば日本の若年のオーケストラ指揮者である大野和士さんがいる。
この人は学生のころは文学青年で、古今の名作を読みあさり、深く厚い人間観をつちかった。
何十人もの楽団員を統率して、壮大な音楽をひとつの芸術としてつくりあげるには、この人間把握の力は絶対に必要なのだ。
本を読んだらどう変わるかを、私は何十人も見てきた。千冊読むのに早くて三年はかかるが、まず百冊でその人の目つきが変わる。
百冊読んだら目が聖人、聖の顔になると言ってよい。トローンとした顔だったのがシャキッとした顔になったりして、ほんとうに顔が変わるのだ。
顔も目も変わるのだから、古典というものはそれだけの威力を持っているわけだ。だから如何なる時代にも読み継がれているのだ。
必要なことは焦らないことで、通勤や通学の途中のプラットホームや電車の中などで短い時間をみつけては、とりあえず古典を一ページずつ読んでいく。
家に帰ったら、物語性のあるものを読めばよいだろう。
薄い本を一日一冊読もう
そうは言っても、ほとんどの人は本気にしないだろう。「三年で千冊なんて読めるは「ずない!」と。実際、読めるはずのない人が圧倒的なことは、私のほうがよほどよく知っている。
だから私はそれを勧めるのだ。千冊読めば、その人はがらっと変わる。運も開けるし、成功もするのだから。
千冊というのはひとつの指標であり、努力目標だ。目標があれば努力のかいがある。その意味で千冊なのだ。
しかし、どうしても取り組む気にならない人のために、便法をお教えしよう。
なにも厚い本から取り組むことはない。薄い本を選んで、一日一冊を始めるのだ。偏りなく何でも好きなものでよいのだが、なるべく薄い本から始めたらいい。
それでもま分厚かったら、本を切って自分で上巻、下巻にしたっていいのだ。私もそういうことをした。
分厚いと読む気がしないから、とにかく半分に切って自分で表紙を作って上巻、下巻にしたのだ。薄ければ読む気も起きる。
それでプラットホームや電車に乗るときに読む。サラリーマンだったら、お客様と待ち合わせるときにでも、三十分ぐらい先に行ってずっと立ったままでも読むといい。
だから、十分でも二十分でも三十分でも切って読めるように、短歌の本のように一ページずつ完結している本を選ぶといい。
物語や小説では夢中になってとまらなくなって、お客さんが来ても仕事に集中できなくなったりするからだ。
その点、親鸞や日蓮の言行録三六五日とかだと、一ページずつ完結しているから読みやすい。「論語」も短いから一ページ一ページ読んでいると、知らないうちに一冊読んでしまう。
難しい本は連続して読むと、脳がショートしてプッツンする。そういう本がいいのだ。脳がプッツンするということは、今の読解力を越えた本だからだ。
今までの読解力や知的理解を超えた本を読んでいると、眠たくなったり、わからなくなったり、頭が痛くなったり、ボーッとする。
それはいい本だから、長時間集中力がもたないのだ。だから一ページずつ切って、眠くなっても、同時に八冊ぐらいいろんな本を用意して読んでいって、脳みそを絶対に休ませてはいけない。
これはビジネスの世界に限らない。例えば宗教者を目指すにしても、宗教的な情熱的理念を深めると同時に、若いときにそれを咀嚼し表現していく中身、咀嚼力、読解力などの基礎を作らなければならない。
そうしないと、浅いままで終わっていってしまう。
悪いこともしない代わりに大していいこともできない。
私の若いころもそうだった。
私は高三の春か高二の終わりぐらいまでは、日曜日になったら家の近くの川で魚を捕るような、小中学生とあまり変わらない少年だった。
しかし、生徒会活動は活発にしていた。高一のときに生徒会をやって、高一、高二、高三と、三年間で七つぐらいの役職をやった。
だから運営や行事の企画とかは、高校時代に全部経験した。
一生懸命活動してはいたけれど、やはり浪人して孤独になってから、突然文学青年になった。それまでは毎日毎日魚を捕っていたのだが、その魚が本に代わった。
それからは一日一冊本を読んだ。一日一冊読もうと思えば分厚い本は無理だ。薄い本ばかり読めば一日一冊読めるということも、そのときわかったことだ。
あのパール・バックの「大地」を読んだときは、分厚いから七転八倒したが、だんだん厚い本も読めるようになって、「堀辰雄全集」を読み切ったときは、自分でも感動したものだ。
そうしてだんだんと厚い本が読めるようになったのだが、はじめのうちは飽きっぽいから、文庫本の、とにかく薄い本から読んだ。
ツルゲーネフの「初恋」などはえらく薄い。伊藤左千夫の「野菊の墓」とか、志賀直哉の「小僧の神様」なんかも、合本で分厚くなっていたけれど、もとは薄い。
アンドレ・ジイドの「狭き門」はちょっと分厚かったが、とにかく本屋さんで薄い古典から順番に読んでいったのである。
日本の古典では「伊勢物語」が一番薄い。「伊勢物語」を読み切ってうれしくて、それから、三百ページぐらいあったが「徒然草」を受験勉強のつもりで全巻読破した。
原文で、全部品詞分解して読んだのである。「徒然草」を今でもよく覚えているのは、全文品詞分解して読んだからだ。
「源氏物語」にも挑戦したけれど、フワフワフワフワ、同じようなことをよくやっとるわいと思って、真ん中ぐらいまできたら飽きてしまった。
「源氏物語」には「源氏物語」の世界があって、モワーンとした世界の中に入ったらズーッと没入していくのだが、一旦現実世界へ戻ったらなかなかもう一度は入れない。
「枕草子」もうんと読みやすかったが、「伊勢物語」から入るのが一番いいだろう。あとは「土佐日記」、それから「落窪物語」とか「堤中納言物語」とか、どんどん読破していった。
そうすると、岩波文庫でも、講談社学術文庫でも、目録の丸のついたのを全部隅々まで読まないと気がすまなくなる。読んだ本の中に引用してある本も気になる。
「菜根譚」によるとどうのこうのと書いてあると、「菜根譚」ってなんじゃと思って、探し出して読んで、その「菜根譚」の中で引用してある本があると、引用した先をまたたどって読んだものだ。
詩集も読んだが、ハイネは半分読んだら本を投げつけて、「よくこんな歯の浮くような言葉を続けられるな」と言いたくなった。
まだリルケの方がよかった。ピシッと数学的に整っていたからだ。ハイネだけはちょっと御免被りたい。中原中也や立原道造の詩集も読んだが、私は簡単でわかりやすい武者小路実篤と島崎藤村が好きだ。
わけのわからないことがグダグダ書いてあると、何が言いたいのかはっきり言えと思ってしまう。
私も、詩的表現はわかるつもりである。一応、楽しむのだが、「この人は、よほど暇なのか、体験がないのだろう」と思ってしまう。
もちろん詩的表現の中の美しさは感じるのだが、やはり島崎藤村の、何てわかりやすいんだろうというところがいい。武者小路実篤も単純ではあるが、なんてわかりやすいんだろうと、詩集を読んで思った。
詩人というのは半分独善家だ。しかしやはり、読んだ人にわかるものでないと、あるいはわかりにくいところがあっても、ちょっと努力すればわかるようでないといけない。
現代の詩人にしてもそうだ。私の知り合いで詩集を出した人がいる。現代の詩人の何本かの指に入っている人なのだが、最初から最後まで読んでやっと一つぐらいわかる程度で、98%までは意味がわからない。
「能」を習うにしても、重要無形文化財クラスの先生から習うと、暖かい濃い密度の感覚が体にヒュッと入ってくる。
技術だけの人から習うと、技術はわかるのだが、教えてもらうこちらの体の中がスカスカする。
教えてくれる人の咀嚼の中身が伝わってくるのだ。内的な覚醒というのは、ものの咀嚼力だ。この咀嚼力を養うには、古典を読むのが一番だ。古人、先人が咀嚼して叡知として残してくれたものが古典だからだ。
若い間に遠回りして、こんなことをやって何になるのかと思うかも知れないが、会社の経営者にしても音楽家にしても、大野和士のように指揮者になっても、古典文学をきちんと読んだ人は一流になる。
絵を描いても書を書いても何をやっても、内に何か響き第来る中身があるわけだ。
だからやはり学生時代や青春時代は閑散とした時が必要で、古典を読むべきなのだ。
読書は二十代からでいい
読書を通して、あるいは古典を通して学んでいくという自分を、二十代で完成しなくてはいけない。
十代とかあまり早すぎるとダメなのだ。諸葛孔明や吉田松陰などは、小学校のころから古典を読破していた天才だったが、普通は二十歳ぐらいからでいい。
大体、夏目漱石なんて小中学生にはわかりっこないのだ。小中学生のために書かれた作品ではないからだ。
社会経験をしている大人のために書かれた小説だから、夏目漱石の作品を理解できる小中学生がいたら、その方が異常なのである。
それともうひとつ、小中学校のときに読んでしまうと、小説というのは、脳みそが飽きてしまう。
だから、十八、十九、二十歳ぐらいからぐんぐん深い本を読んでいく方がよい。脳みそがある程度できあがっているし、人間としても少し基礎があるからわかるのだ。
だから二十代には、片時も本を離してはいけない。そういう本を全く読まずにいると先が知れている。本を読んでいるといっても、マンガではだめだ。
今や女子大の文学部の国文科の学生が、夏目漱石の現代語訳を勉強している、森鴎外の現代語訳を勉強しているというから信じられない。
しかし、今まで本を読んでいなかったから、といって悲観することはない。小中学生のときに読んでもわからない名作、古典はいくらでもある。
そういう人は、今まで読んでいなくてよかったと思って読み始めたらいいのだ。
私など、高校生までは、トンボを捕ったり魚を捕ったり、人様の家のお屋根を歩いたり、手裏剣を作ったり、新しいおもちゃを自分で開発して、弟と二人でいつも遊んでいたものだ。
魚のあらゆる釣り方を研究して、鳥も捕ったり、コウモリを捕ったり、カエルも千変万化な捕り方を考えて遊んでいた。
小学校のときに習いものは何にもしてない。お稽古事はゼロだ。それでも結局十九歳からむさぼるように本を読むことによって、千冊の古典を読破した。
飽きっぽかったから薄いものから読むように心がけた。どんなに読書が苦手という人でも、やろうと思ったらできるはずだ。
勉強も遅く始めてかまわない
咀嚼力というのは、わざわざ咀嚼力を付けようなどと思うことはない。夢中で読めばよい。
ところが、小説とかストーリーがあるものは夢中で読めるのだが、純文学となると少々かったるい。しかも、小さいころから活字に慣れすぎると拒否反応が起きることがある。
今述べたように、夏目漱石などの小説に先に入ってしまうと、本が嫌いになることがある。
だから、子供のころからあまり勉強しなかった人間は最高だ。
しかし、小さいころから勉強しなくて、大人になっても勉強しなくて、結局勉強しないまま、あの世でボケーッとした浮遊霊になっている人も多いわけだから、やはり二十歳ぐらいから人生観を変えた方がよい。
学校の勉強はできなくてもいい。読書ができたらいい。読書を通して考える力、咀嚼する力ができたら社会で大いに役に立つのだ。
私のスタッフのS君も、家が饅頭屋さんだから、高校を出てからケーキ店で修業をしたあと、実家に戻って饅頭屋を手伝っていた。
それがあるキッカケで、三年間、一日三時間、古典を中心にずーっと読書をした。中身は何でもいい。一日三時間。三年経ったらどうなったか。今では私たちのセミナーの案内チラシなどは全部S君が書いている。
そうやっていつの間にか文章が書けるようになったわけだ。
同じくスタッフのN君もそうだ。二七歳までバカのN、とんちんかんのNとずっと言われていた。
それが「お前のバカを治すのは古典を読むしかない」と言われて、「はい、わかりましたーっ」と読書を始めた。
しかし、人はそんなに簡単に変わるものではない。
「N君、「論語」にはどんなことが書いてあったかな?」と私が聞くと、「はい、それは〇Ax」「『荘子」はどうだって?」、「はい、それは××○○△□……」。
答えるのはいいのだが、確かに本にはそう書いてあるのだが、どうでもいいところだけを答える。
だから私はN君に秘策をさずけた。そのままでは教えている私の恥になる。
「N君、そんなことを人に言ってはいけないよ。それよりまず、後ろの解説文を読んで、どうでしたかと聞かれたら、解説文をそのままに言うんだ。解説文を書く人以上に今の君が賢いわけないだろ。その本はどうですかと聞かれたら、書いてあることをそのまま暗記して言うんだ。自分の考えは言わない方がいいよ」。
それでも三年それが続くと目が変わってくる。
しかし、その彼も、読書の習慣、古典を学んでいくという習慣がちょっと甘くなったときには、調子が悪くなる。
そういうときは、また原点に返って、古典を一生懸命読み、一番末端で地道な仕事をして、清々しくなるようにする。
そのスタンスを忘れてはいけない。
本から離れて、人の言葉からも自然からもいろいろな現象からも、何でも学んでいくというのが学問の姿勢なのだから。
こういう人が人の上に立つようになってきたら、人の意見も聞くし、その人が「私はこう思うんだけど」と言ったら、なるほどと受け入れられるようになる。
そうすることが、遠回りのように見えても一番の近道なのだ。これは、五十になっても六十になっても七十になっても変わらない。
そういう意味で、心の教養というものがないと、中身はいつまで経っても磨かれない。
しかしまた、小学生、中学生のときになまけていて、後から勉強を始めたとしても、何も困ることはないということだ。その例として、あえてN君のことを引き合いにしたのである。
難しいと思ったら解説文を覚えよう
古典を読めと言っても、今の若い人のほとんどは、学校教育のうちに自分で古典を読解する力まではつけていない。学習塾の経営に携わっている私にはよくわかる。
古典を読む力をつけたいのなら、「伊勢物語」や「土佐日記」「更級日記」などの現代語訳をどんどん読んでいけばよい。
私は当時受験生だったから、全部原文も品詞分解して読んだ。それから「正法眼蔵随聞記」や「歎異抄」もいい。薄いから読めそうだと思うはずだ。はじめは、厚い本はやめた方がいい。
でも多くの読者は、「伊勢物語」でも「土佐日記」でも、本を開いたら「難しい。難しすぎる!」と、すぐ壁にぶつかるはずだ。
そういう古典と、どう向き合ったらいいのだろうか。まず解説や序文を読んでみて、「ははあ」と思ったところで、有名なところから読んでいったらいい。
別に本は全部読まなくてはいけないと決められているわけではない。とりあえず一章だけでも読んでみよう。上巻と下巻があったら上巻だけ、あとの下巻は解説だけ読んで読んだ気持ちになればよい。
こうすれば、「あんなことが書いてあったな」と思い出すことがあったら、「ちょっと待てよ」と思って、もう一度見ることができる。
本を全部読むのは、無理なこともある。読むに越したことはないのだが、時間的に無理だったら、大体の概略を読んでみて、ここにこんなことが書いてあるなとザッと目を通せばよい。
そして、「あんなことがあったな」と心に引っかかるところをもう一回深く読んだらいいわけだ。
本の全体のアウトラインがわかっているということは大事なことだ。年をとってきたら、全部読めないことはままある。
だから、若い間に古典をたくさん読んでおいた方がいいけれど、焦らないで一生涯の課題として、特に若いときに百冊を目標にして、一千冊を到達点と考えて読むといい。
そういう古典を読んできたら、世の中で超一流と言われる人々の、オリジナリティーや独自の考えも、古典的な普遍性や基本を踏まえた上でのものであることがわかるはずだ。
反対に、そのままいつまでも受け売りを言っていても、独自性は出てこない。
古典の叡知で頭脳をブラッシングして、最終的にはその視点から自分の考えが出てこなくてはいけない。
そこがその人のオリジナリティーであるわけで、いい大学を出ていなくても、学校の成績が悪くても関係ない。
逆にいい大学を出ていても、大学入試まで頑張っても、その後ちゃらんぽらんな日々を送っている人がいる。
特に理科系などで、学校の成績だけは頑張ったけれど、その後あまりにも勉強しない人がいる。
そういうことを考え合わせてみても、学歴は関係ない。三年で千冊の古典を読み通せた人の方が人としての価値が高いし、神仏からも愛されることになる。
解説を読んで納得して何が悪い!
解説文だけ読んで本文を読まなくてもよいと私が言っても、心の中では反発する人がいるに違いない。
それはもっともなことだ。多分そう思っている読者は七割、いや九割ぐらいいるかもしれない。
けれども、その人たちに聞きたい。それならみなさんは、いくら難しくても古典の原文を読み通す覚悟があって反発するのかと。
おおかたの人はそうではない。難しそうな古典なんて、解説文だって読みたくないというのが本心のはずだ。
教育者として何万人もの受験生を見ているから、私には今の若い人の考えることはよくわかる。
東大を受験しようというほどの、わりとできのいい生徒にしても、受験問題の範囲外の古典を読み通そうなどとは思わない。
また、それほどの読解力は持っていないし、咀嚼力もない。
私がイチオシで薦める「伊勢物語」を例にとろう。平安時代の色男、在原業平が主人公だ。この人はヨーロッパならドンファンか、カサノバか、次から次と女性とうまくくっつく。
それでまた次々にうまく別れる。こちらは泣きながらだ。笑ってしまうのだが、その女の方もまた、あっさりくっついたり別れたりする。
よくやるなと思う。こんな時代に生まれていたら幸せだったかなと思ったり、この時代の女性の方が割り切ってるなと思ったり…。
それを、いちいち歌で締めくくっていくのだから、「伊勢物語」は本当におもしろい。短いから、とにかく薄いものから入っていくというセオリーにも合っている。
古典は難解だと思っている読者は多いはずだ。でも難しいのは、文法や品詞がわからないからで、平安時代のベストセラーである「伊勢物語」のストーリーは、「失楽園」よりわかりやすいし、おもしろいし、短い。
文法がわからなくても解説文を先に読めば筋書はすぐわかる。
業平はこの三番目のレディをどうやってたらし込んだんだろう、どう口説いたんだろうと知りたかったら、その興味あるところを原文で読んでみたらよい。
大体わかるはずだ。そうやって読んだ本は、必ずあなたの脳みその中に蓄積されるはずだ。
本居宣長の本にしても同じだ。現代語訳だけ読んで、何のことかわからなかったら解説文を読んでみて、そうなのかとわかったような気分になって次の本にいく。
そうやって何冊か読んでいくと、教養知識の裾野が広がるから本当にわかってくる。
はじめに読んでみてわからなくて、解説を読んだらますますわからなくなっても、それはそれでいいのだ。
今の自分の知性や読解力よりも上にあるものを読めば必ずそうなる。
今の読解力以下の本ならわかる。今の知性や判断力と咀嚼力と同じかそれ以下だからわかるのだが、わからないということは、それを越えたものだからわからないのだ。
だが、解説文は、そういう人にもわかるようにと考えた人が書いてくれたものだ。
だから全然読まないよりは、解説文を読むだけでもずっと実になるのである。
読書は全ての行いの基礎だ
人間の行いは実に多様で、それだから人は楽しい。職業人としての仕事もいろいろだし、芸術、スポーツ、ボランティア活動に恋愛、その他何でもありだ。
今は形を変えているが、私は東州学校(編集部注・現・ヤングスターズ・エンゼル会)という勉強を中心とした集まりを持っていた。
東州学校でもさまざまな楽しいプログラムを組んで、みんなで磨き合っていた。
その東州学校でも、私は何回も何回もくりかえし言っていた。ミュージカルも大事だし、コーラスもいい。海水浴もいいし、釣り大会もいい。神社への団体参拝もいい。
ボランティアに燃えるのもいい。しかし、東州学校でずっと勉強してきて四十代になったとしよう。
それで、東州学校であなたは何を学びましたかと聞かれて、「ミュージカルかな」ではどうだ。あるいは「コーラスやってました」、「神様ごとやボランティアをやってました」。
それはそれでいいのだが、人間としての咀嚼力はどうなった。人間としての読解力はどうなった。これらを青春時代に置き忘れたままで、ミュージカルやコーラスだけの人生ではどうだろう。
年をとっても、ママさんコーラスとかママさんミュージカルとか、できることはできる。しかし、青春時代に置き忘れてはならないものを忘れっぱなしではいけない。
人間としての中身、基礎、咀嚼力、読解力。人間とは何なんだ、人生とは何だ、職業とは何だ、愛とは何だ、神とは何だ、仕事とは何だ、自然とは何なんだと考えたり、話し合ったり、悩んだり、「この本読んでよかったよ」とか、そういうことがいつも話されているという知的レベルがないと、すべてはうすっぺらなミュージカルごっこ、コーラスごっこで終わってしまう。それでいいのか。
私は今の若い人にそう聞きたい。
英語が上手なデヴィ夫人と下手くその故スカルノ大統領〜しかし!
わかりやすい例をあげておこう。人間としての咀嚼力、人間理解のある人とない人とで、どういう差が出るかということだ。
英語が苦手な人は日本人には多い。日本人だけではなく、アジアでもヨーロッパでも、苦手な人、下手な人はいくらでもいる。
そんな中で、インドネシアの故スカルノ大統領の奥さんだったデヴィ夫人は、英語はペラペラ、実に達者だ。
しかし、しゃべる中身は、津川雅彦との出会いはどうだった、パリの社交界はどうだった、このあいだ行ったブティックでああだったこうだったというのが、ずーっと二時間も三時間も続く。
新聞記者が聞いていても、何の記事にもならないわけだ。英語そのものは素晴らしいが、中身がそれでは人は動かせない。
一方、夫のスカルノ大統領の英語はバブルイングリッシュといって、お風呂の中でブクブクブクブクといった感じでさっぱりわからない。
ブクブクブク・・・・・・「アイエンカ、エイチュン、カントリフューチャー、ファリシアリアス、ビコーズ、ヨーロピアンカントリー、ヘーカラミックリー、インベイト、ドーアカントリー。アイテシスス、ニュー、トラニアル、バルセイ・・・・・・」と、何を言ってるか、読者もわからないだろう。
これは要するに、かつては武力によって帝国主義はあった。今は武力の帝国主義はなくなったが、武力以外の政治力や経済力により、旧植民地だったときの利権を先進国はそのまま維持している。
それをスカルノ大統領は新植民地政策と言っているのだ。
そこからアジアは立ち上がらなきゃいけない、ということで、スカルノ大統領のバブルイングリッシュでさえ、アジアの諸国を立ち上がらせたわけだ。何を言ってるかよくわからなくても、その一言で世界を動かした。
なにも英語でなくてもいい。
テレビを見ていると、口数だけは達者でも、まったくお風呂の中のブクブクブクほども人の心に影響を与えられないおしゃべり人間が多い。デヴィ夫人もそんな人のひとりだが。
反対に、すごく口下手であろうとも、多くの人のために頑張っている人の語る一言二言は、グッと心を打つ。
英語でも日本語でも、おしゃべりのテクニックが上手なのはいいことだが、話す当人の中身の良し悪しはもっと重要だということで、デヴィ夫人を例に出した。
だから、英語を話す技術ハウトゥイングリッシュももちろん大事ではあるが、英語で話すその人の中身というのは、もっと大事だ。
その中身はいつ養われるのかというと、それは若いときである。そして、それはずっと養い続けなくてはならないものなのである。
百冊から一千冊を目標に、古典か、あるいは準古典を読破していないと、何を言っても所詮はデヴィ夫人なみで、笑われるだけだ。
だから東洋西洋、薄い本からでも読むことは大事だ。こういう腰を据えた営みがないとどうなるか。
浅い咀嚼力と浅い考え方と浅い中身で英語をしゃべったり、コーラスを歌うのもいい。ミュージカルもいいのだが、それで会社で出世できるか。
多くの人が尊敬できるようなこれからの世界を担っていくべきリーダーになれるのか。人の心が救えるか。
世間にもの申して、人々が感激して泣くか。あるいはギャグを言って人々が笑うようになれるか。
世の中で出世したり、また人々に尊敬されたり、多くの人を幸せにできる人になるには、古典一千冊読破は不可欠の指標なのだ。私はこの真理を、浪人時代に自分のものにした。
この章で勧めている千冊読破は、その第一歩だ。古典を十年で一千冊読むとすると、一年間で百冊だ。一年に百冊ということは、月に八冊ぐらいになる。
それが難しかったら、とりあえず百冊を目標にいくということもある。
しかし、月に八冊ぐらいは読んでほしい。限りなく薄い本でいいのだ。古典で一番自分に合う本は、一番薄い本だと考えていい。
中身で選ばないで、薄かったら全部読む。分厚かったら自分で切って、上中下の三巻にする。慣れない人は、中身で考えてはいけない。
中身で考えると、どれがいいかわからなくなるからである。だから、まず本屋に行って、一番薄いものから片っ端から読んでいけばいい。
中身がわからなくても、解説だけを読んでわかったような気分になって次に行く。それを十冊ぐらい続けているとわかるようになってくる。そういう考え方でいかないと、読破できない。
古典なら、「伊勢物語」でも、「土佐日記」でも、現代語訳ならあっという間に読み終わる。
それで意味がわかってもわからなくてもいいから原文を読んでいって、わかったような気持ちになって、解説文を読んで感心する。
受験勉強ではないのだから、品詞分解などはしなくてもいい。時間がないのなら、長い「源氏物語」を全部読むことはない。
薄い古典から読んでいけばいいのだ。
とにかく一千冊いけばもう悟りの境地で、自分で何でも書けるようになる。講演もできるようになる。
百冊で変わり始めるが、三年間ずっと続けると目と顔が変わって、精神的なレベルも変わる。
まず千冊、そのレベルに達すると、それから後は何でもできる。何をやっても大成すると言っても過言ではない。
