ブラインドの皆さん、外へ出てゴルフをしよう!(Vol.3)

門戸を開いてくれたゴルフコース

先にも述べたが、1988年当時、ブラインドゴルファーに対して門戸を開いてくれるゴルフ場は、極めて少なかった。

その年の5月、青井プロの下でブラインドゴルファーが本格的な練習を開始する一方、私は、全国のゴルフ場に、協力をお願いして回った。

日本には、2000カ所ぐらいのゴルフ場が存在する。人口1億2千万人がひしめく狭い国土にあってのこの普及率は、まさにゴルフ場先進国の名に値する。

ただし、ゴルフ場先進国であって、ゴルフ先進国といえないところが、まことに残念である。

確かにクラブハウスはすこぶるつきの立派な佇まいである。

フェアーウェーもグリーンも、コースを彩る花々や樹木も見事に手入れされている。

海外でゴルフをされた経験のある人はおわかりだろうが、「え、ここは原野じゃないの」といった場所が、日本を除く多くのゴルフ場なのだ。

過日、イギリスのセントアンドリュースを訪ねた。ゴルフ発祥の地、英国最古のゴルフコースは、まさに荒涼たる景色であった。私はいったいいくつボールを失くしたのだろうか、覚えていない。

ただ、ゴルフバッグのポケットに、いくつものボールの空き箱を押し込んだことは記憶している。

「あるがままにボールを打つ」が、ゴルフの原点であるといわれる。

「ゴルフは、人間と戦うのではない。コースと闘うのである」ともいう。

それにしても、セントアンドリュースの、タフさには驚き、あきれるしかなかった。

しかし、プレーを終えて、クラブハウスに戻ると、コースで硬直してしまった心身が、たちまち和んだのである。

クラブの関係者、クラブのメンバーたち、そしてビジターたちすべてが、和気譲々たる雰囲気の中でくつろいでいる。謹厳実直を絵に描いたような、悪くいえば、傲岸の塊のように見える英国紳士も、向き合えば、人懐こい笑顔を返してくれるのだ。

英国のことだからメンバーになるには七面倒くさい手続きが必要と聞くが、ひとたびクラブの中に足を踏み込めば、そこは極めて上質で心を豊かに満たしてくれるサロンなのである。

もちろん、セントアンドリュースでは、多くのブラインドゴルファーが、プレーを楽しんでいる。

翻って、わが日本。どれほどの格式があるのかは知らないが、いわゆる名門と呼ばれるコースの多くに、閉鎖的な傾向が見られる。

かつて会員資格に関して、性差別が取りざたされた名門コースが問題にされたことがあったが、ことブラインドゴルファーに関しては、論議の外という姿勢をとるコースが大部分であった。

その理由の多くは、プレーの遅滞と、コースの損傷である。

だが、これは何の根拠もない言いがかりというものだ。ブラインドゴルファーは、マナーに関して徹底的な教育を受けている。

いや、その前に、他者には迷惑をかけたくないという思いを強く抱いているから、不必要なプレーの遅滞をもたらすことはない。

コースを傷つけるということに関しても、一般ゴルファーよりはるかに神経を使っている。

ターフを取ったら、必ず芝を戻し、ディボットを埋める。本人ができなくても、プレーヤー1人ひとりに付いているガイドが行う。

日本のゴルフ場では、1組3 人、4人のパーティーに1人のキャディーが付くのが通常だから、キャディーがすべてのプレーヤーの後始末をして歩くのは至難の業である。

いや、本来はプレーヤーが自己責任として、後始末をするのがマナーというものだが、そういうプレーヤーはほとんどいないのが現状である。

スパイクでグリーンを傷つけるというのも、誤った先入観だ。視覚障害者は、足の運びに極めて神経を遣う。足先を引きずるように歩けば、障害物に引っかかりやすいからである。

スパイクに関していえば、面白いエピソードが残っている。今、主流を占めているソフトスパイクは、かつては芝を傷めるという理由で、入場を断るゴルフ場が多かった。

金属のスパイクは、芝を耕し、空気の流入を良くして芝の生育を助けることができるが、ソフトスパイクは、芝の葉を寝せてしまうので、不都合というのがその理由だ。

ところが今はどうであろうか。逆に金属スパイクは芝を傷つけるという理由で入場を断るゴルフ場が多くなっているのだ。

芝の品質改良がされてきたとか、あるいは、ゴルフ用具メーカー側の事情とかさまざまな理由があるのだろう。

しかし時代の変化に対しての人間の対応があいまいなことはしばしば見られることで、そのあいまいさも、確たる理由がない場合が少なくない。

多くのゴルフ場がブラインドゴルファーに対して、門戸を開かなかったのは、いい加減な事実認識しかしていないためである。

その中で、1988年7月、千葉廣済堂カントリー倶楽部が、練習のためにコースを開放してくれた。上井草ゴルフセンターで、ブラインドゴルファーが、本格的な練習を開始してから2ヵ月後のことである。

さらに9月には、翌月のブラインドゴルフ・オーストラリア・ワールドオープントーナメントに出場するための予選会の会場を、神奈川県の清川カントリーが提供してくれた。

この予選会で、伊藤道夫さん、壁谷晴子さん、橋間信一さん、江藤昌弘さんの4人が代表に選ばれ、初の国際試合に出場が決まった。

会場は、西オーストラリアの州都・パースにあるネッドランド・ゴルフクラブである。このゴルフ場は、オーストラリアでは歴史を誇る名門ゴルフ場である。

市街地の中のうっそうとした森に囲まれた素晴らしい環境の中で、4人の代表は、体一杯にオーストラリアの光と風を体一杯に感じながら、プレーに興じたのである。

翌年の1989年には、千葉県姉ヶ崎カントリークラブが予選会場を提供してくれ、笹田三郎さん、黒羽根唯年さん、山口和彦さん、そして連続出場となる壁谷晴子さんが、代表に選ばれ、ブランドゴルフ・オーストラリア・オープントーナメントに飛び立っていった。

世界各国で大活躍日本のブラインドゴルファーたち

以後、年とともに、発展の道を歩んできたブラインドゴルフの足跡を振り返ってみたい。

「日本ブラインドゴルフ振興協会」の前身である「ブラインドゴルフ倶楽部」は、一層の発展を遂げる。

[1990年]
7月、静岡県・修善寺カントリークラブには、総勢120人のメンバーや関係者が集合しての、大コンペが開催された。

9月にはイギリス西南端のプリマスという美しい佇まいの街で、「第1回ブラインドゴルフ・ワールドチャンピオンシップ」が開催され、招待選手として、黒羽根唯年さんが、出場し、ベストテンに入る活躍ぶりを示した。

10月には、「第3回ブラインドゴルフ・オーストラリア・ワールドオープン」が開催され、本大会の前日に行われたプロ・アマ大会ではボランティアで出場し河合ローさんと川元徳男さんが、それぞれブラインドゴルファーの伊藤道夫さん、笹田三郎さんと組んで、伊藤組が優勝、笹田組が3位入賞を果たした。本戦では、3年連続出場になる壁谷晴子さんが女子B1(下限は、まったく明暗を弁じ得ない判断できない)、上限は光覚弁〔手の形を認識できない))で、見事に優勝を飾り、日本のブラインドゴルファーの素晴らしさを見せ付けた。

[1991年]
これまで、関東地方で活動していた「ブラインドゴルフ倶楽部」であったが、ついに関西でも5人のゴルファーが加わり、練習を開始した。

4月には「ブラインドゴルフ倶楽部」を「日本盲人ゴルフ協会(略称JBGA)」に改称、ますます発展の道をたどることになる。

7月には「第3回ブラインドゴルフ大会」が、修善寺カントリークラブで開催されたが、参加者は昨年の倍に膨れ上がった。

10月、「第4回ブラインドゴルフ・オーストラリア・ワールドオープン」が開催され、黒羽根唯年さんがB2部門(下限は手動弁、上限は視力0.03未満)で優勝、合わせて、最も練習成果の上がった人に贈られる「ベスト・プログレスト賞」を獲得、山口和彦さんも、プロアマ競技で3位入賞を果たした。

[1992年]
1月、わが国のブラインドゴルファーが初めてブラインドゴルフの先進国アメリカに参戦。アリゾナ州フェニックスで行われた「リーダードッグクラシック」に黒羽根唯年さんが参加した。黒羽根さんは視力の衰えが進行しつつあり、今回からB1クラスにエントリーしたが、見事優勝を果たした。

2月の「ブリティッシュオープン」には黒羽根さんと壁谷さんが参加、さらに「第2回ブラインドゴルフワールドチャンピオンシップ」にも転戦した。

7月には、JBGAチャリティゴルフ大会が開催され、ブラインドゴルファーとともに多くの有志が参加した。

10月の「ブラインドゴルフ・オーストラリアオープン」には、4人のプラインドゴルファーが参加した。

[1993年]
1月、アリゾナ州フェニックスでの「リーダードッグクラシック」に黒羽根さん、壁谷さん、伊藤道夫さんの3人が参加。 B1クラスで黒羽根さんが優勝を果たした。

7月には、修善寺カントリークラブで「JBGAチャリティゴルフ大会」が開催され、8人のブラインドゴルファーも、参加した。

10月の「ブラインドゴルフ・オーストラリア・ワールドオープン」に、黒羽根さん、壁谷さん、伊藤さんの常連に加え、志賀功さんも初めて海外に遠征、黒羽根さんはB1クラスで優勝、志賀さんはプロ・アマ競技で優勝した。

[1994年]
JBGAの活動のフィールドが広がっていった。

7月、ウイーンフィルのコンサートマスターとアメリカンポップスのスターを招いての「真夏の夜のイリュージョン」と銘打ったコンサートを主催。コンサートのチケット収入はすべて視覚障害者写真展の開催の資金として「日本盲人職能センター」に寄付された。

8月には、日本で初めてのブラインドゴルフの正式大会として「1994年ブラインドゴルフ・ジャパンオープン・チャンピオンシップ」を桜ヶ丘カントリークラブで主催。

この大会は、日本発の国際大会であり、6カ国21人のブラインドゴルファーが参加、志賀さんがB1で優勝を飾った。

10月、「第3回視覚障害者ゴルフ世界選手権大会」(主催・WABGA)が、パースのネッドランド・ゴルフクラブで開催され、黒羽根さん、壁谷さん、中谷伊久男さんが参加した。

[1995年]
1月17日に、「平成七年(1995年)兵庫県南部地震」による阪神・淡路大震災が発生。

6月にJBGAは「阪神淡路大震災救援ブラインドゴルフチャリティーココンペ」を、兵庫県・花屋敷ゴルフクラブで主催、ブラインドゴルファー4人を含めた80人が参加、参加費の一部は、朝日放送株式会社を通じて、阪神淡路)大震災義援金として寄付された。

6月、「ブリティッシュ・ブラインド・オープン・ゴルフ・チャンピオンシップ」に黒羽根さん、志賀さん、壁谷さんが出場、ステーブルフォード部門(ポイント加算方式)で、壁谷さんが優勝した。

9月、「1995年ブラインドゴルフ・ジャパンオープン・チャンピオンシップ」が岐阜県・美濃白川カントリークラブで開催され、6ヵ国25人のゴルファが参加。同時に「ジャパンオープン記念チャリティコンペ」も開催され、収益金が社団法人岐阜視覚障害者福祉協会に寄付された。

10月、「ブラインドゴルフ・オーストラリア・ワールドオープン」に黒羽根さん、壁谷さん、横内明さんが出場、黒羽根さんがB1クラスで優勝した。

[1996年]
7月に「日本盲人ゴルフ協会」を「日本盲人ゴルフ振興協会」と改称し、ブラインドゴルフを推進支援する体制の一層の強化を図った。

8月、アイルランドのキムリーンゴルフクラブで開催された「ブラインドゴルフ・ブリティッシュオープン・チャンピオンシップ」に、黒羽根さん、志賀さん、壁谷さん、伊藤さんが参加。

9月、「第4回視覚障害者ゴルフ世界選手権大会」が、この年、初めて日本(湯ヶ嶋高原倶楽部)で開催された。この大会は2年に1度、各国の持ち回りで開催されるもので、今回はJBGAの主催となった。

世界6ヵ国46名のブラインドゴルファーが参加し、志賀さんがB1で優勝、風間隆さんがB2で準優勝した。

[1997年]
4月、世界ブラインドゴルファーズ会議がオーストラリアのパースで開催され、世界盲人ゴルフ協会(IBGA)の結成が討議された。世界盲人ゴルフ協会の加盟国はアメリカ、カナダ、オーストラリア、アイルランド、日本と、イギリスのイングランド、スコットランド、北アイルランドの3地域である。後に、ドイツが加盟した。

6月、「ブラインドゴルフ・ブリティッシュオープン・チャンピオンシップ」が、ロイヤルトゥルーンゴルフクラブで、開催された。この全英オープンでおなじみの名コースに、志賀さん、壁谷さん、高松操さん、中西由夫さんが参加、中西さんが総合優勝を飾った。

8月、「1997年ブラインドゴルフジャパンオープンチャンピオンシップ」が、長野県・穂高カントリークラブで開催された。

10月、「ブラインドゴルフ・オーストラリア・ワールドオープン」で、塚本精二さんがB1部門で優勝を飾った。

[1998年]
6月、「ブラインドゴルフ・ブリティッシュオープン・チャンピオンシップ」が、ブロードストーンで開催され、志賀さん、中西さん、壁谷さんが参加した。 7月、「1998年ブラインドゴルフ・ジャパンオープン・チャンピオンシップ」が、静岡県・ラフォーレ修善寺カントリークラブで、開催された。

9月、2年間の準備期間を経て、「世界盲人ゴルフ協会(IBGA)」が正式に発足、初の正式会合が開かれた。このとき各国各地域の代表が規約を批准、ついで役員と理事会メンバーの選出が行われた。IBGA初代総裁に私が全会一致で、推挙された。また、実務面の総括責任者である初代会長には、オーストラリアのデビット・ブライス氏が選出された。私は、かねてから、世界中のブラインドゴルファーが一堂に会することのできる組織を作るために、世界各国の、盲人ゴルフ協会に働きかけてきたことが、評価されたのだと思っている。

9月、「第5回視覚障害者ゴルフ世界選手権」が、アメリカ・フロリダ州・オーランドのグリンリーフ・ゴルフクラブで開催され、志賀さん、高松さん、中西さん、壁谷さん、光沢毅さん、水嶋勝さん、三苫信彦さんが出場、中西さんが全盲クラスで準優勝した。

10月、「1998年オーストラリアン・オープン・ブラインドゴルフ・トーナメント」が、ネッドランド・ゴルフクラブで開催され、勝田正数さん、吉井道代さん、向百合恵さんが出場、吉井さんが敢闘賞を獲得した。

[1999年]
5月、フランス大使館からの要請で、来日中のハイテク分野で活躍するフランス人視覚障害者の視察団に、ブラインドゴルフを紹介。フランス人にとって、ブラインドゴルフははじめての体験となった。

7月、「1999年ブラインドゴルフ・ジャパンオープン・チャンピオンシップ」が、湯ヶ嶋高原倶楽部で開催され、風間さんが総合優勝、B1クラスで、ロン・コンウェイが、B2クラスでは山田英勝さん、B3クラスでは、トニー・マケヴォイが、優勝した。

7月、「1999年ブリティッシュ・ブラインド・オープン・ゴルフ」が、北アイルランドのキリムーン・ゴルフ・クラブで行われ、志賀さん、中西さん、壁谷さん、本田省三さん、上野卓三さん、上野利子さんが出場、中西さんがB1で優勝を果たした。

9月「カナディアン・オープン・ブラインドゴルフ・チャンピオンシップ」が、サスカチュワン州サスカトゥーンにあるグリーンブライア・ゴルフクラブで行われ、志賀さん、森山さん、壁谷さん、吉井さん、向さんが出場、B2クラス女子部門で、吉井さんが見事に優勝した。

10月、「1999年オーストラリアン・オープン・ブラインドゴルフ・トー「ナメント」が、ネッドランド・ゴルフクラブで行われ、高橋隆一さんが、敢闘賞を獲得した。


4月、「2000年ブラインドゴルフ・ジャパンオープン・チャンピオンシップ」が、静岡県のサザンクロス・カントリークラブで開催され、総合優勝は光沢毅さん、全盲部門は中西由夫さんが、弱視部門ではニール・バクスターさんが優勝を果たした。

ちなみに光沢さんは、長野県・飯田長姫高校時代、甲子園に出場、その度胸満点の投球ぶりから「小さな大投手」とたたえられた人物である。

7月には「ウェスタンカナディアン・ブラインドゴルフ・チャンピオンシップ」が、マニトバ州ウィニペグにあるキングスウッドゴルフ&カントリークラブで開催され、本田省三さん、宮崎和憲さんが出場した。

9月、「2000年ブリティッシュ・ブラインド・オープン・ゴルフ」が、イングランドのウェストエセックス・ゴルフクラブで開催され、高橋隆一さん、藤野博子さんが出場した。

同じく9月には「第6回視覚障害者ゴルフ選手権」が、スコットランド・エジンバラのマリオット・ダルマホイ・ホテル&カントリークラブで開催され、光沢さん、飯田眞喜男さん、高橋隆一さん、藤野さんが出場。

10月、「2000年オーストラリアン・オープン・ブラインドゴルフ・トー「ナメント」がネッドランド・ゴルフクラブで開催され、高橋隆一さん、樅山勝弘さんが出場した。

新世紀を迎えたブラインドゴルフ

[2001年]
1月に「ブラインドゴルフ・ジャパン・ツアー中四国大会」が、岡山県・長船カントリークラブで開催。この年から、年数回のツアー競技が行われることとなった。

4月、「2001年ブラインドゴルフ・ヴィクトリアン・チャンピオンシップ」が、ビクトリア州ローズバッド・カントリークラブで行われ、志賀さん、高橋隆一さんが出場。

5月、「JAS創立30周年記念ブラインドゴルフ大会」が、主催・JAS旭川カントリークラブ、特別協賛・日本エアシステム、後援・日本盲人ゴルフ振興協会で開催された。

7月、「2001年ブラインドゴルフ・ウェスタンカナディアン・オープン」が、ブリティッシュコロンビア州クエネルゴルフクラブで、開催され、高橋隆一さんが出場。

8月、「2001年ブリティッシュ・ブラインドオープンゴルフ・チャンピオンシップ」が、イングランドのパッツハルカントリークラブで開催され、高橋隆一さんが出場。

9月、「ブラインドゴルフ・ジャパン・ツアー東北大会」が、宮城県・泉パークタウンゴルフ倶楽部で開催。

12月、「ブラインドゴルフ・ジャパン・ツアー東海大会」が、静岡県・サザンクロス・カントリークラブで開催された。

[2002年]
2月、「ブラインドゴルフ・ジャパン・ツアー中四国大会」が、岡山県・長船カントリークラブで開催された。

4月、「2002年ブラインドゴルフ・ジャパンオープン・チャンピオンシップ」が、静岡県・サザンクロス・カントリークラブで、開催され、増田輝夫さんが総合優勝を果たした。

5月、「ブラインドゴルフ・ジャパン・ツアー北海道大会」が、北海道JA S旭川カントリークラブで開催された。

7月、「ブラインドゴルフ・ジャパン・ツアー東北大会」が、宮城県・泉パークタウンゴルフ倶楽部」で、開催された。

8月、「ワールド・ブラインドゴルフ・チャンピオンシップ 2002年カナ「ダ大会」が、マニトバ州ナイアクア・ゴルフコースで開催され、千木良賢二さん、本田省三さん、永田直行さん、藤野博子さん、高橋隆一さん、葛貫重治さんが、出場した。

10月、「2002年オーストラリアン・オープン・ブラインドゴルフ・トー「ナメント」が、パース・ネッドランド・ゴルフクラブ、コリアーパーク・ゴルフクラブで、開催され、壁谷晴子さん、高橋隆一さんが出場。

12月、「ブラインドゴルフ・ジャパン・ツアー東海大会」が、静岡県・サザンクロスカントリークラブで開催された。

[2003年]
2月、「ブラインドゴルフ・ジャパン・ツアー関東大会」が、茨城県・鹿島の杜カントリー倶楽部で開催された。

3月「ブラインドゴルフ・ジャパン・ツアー中四国大会」が、岡山県・長船カントリークラブで、開催された。

4月、「JBGA創立15周年記念ブラインドゴルフ・ジャパン・ツアー関西大会」が、兵庫県・社団法人神戸ゴルフ倶楽部六甲山ゴルフ場で開催された。神戸ゴルフ倶楽部は、御存知の方もおられるだろうが、日本最古のゴルフ場である。設立したのは、神戸に住むイギリス人貿易商であった。息子の健康回復を願って作ったコースだったが、同時に、彼らを温かく見守り、支援してくれた神戸の人たちにも、開放された。神戸は、横浜とならぶ国際都市だが、その地に、発祥の地・イギリスのゴルフ文化が根付いた。日本ゴルフ界の草創期を築いた多くのプロが誕生し、また、クラブライフという文化思想が定着したのもこの神戸ゴルフ倶楽部である。以来、ゴルフの古きよき伝統を伝えてきたゴルフ場が100周年を記して、ブラインドゴルフに対し、全面的な協力を申し出てくれたのである。

5月、「ブラインドゴルフ・ジャパン・ツアー北海道大会」が、JAS旭川カントリークラブで開催された。

7月、「ブラインドゴルフ・ジャパン・ツアー中部大会」が、三重県・白山ヴィレッジゴルフ倶楽部で開催された。

8月、「2003年ブリティッシュ・ブラインド・オープンゴルフチャンピオンシップ」が、イングランド・ウェストエセックス・ゴルフクラブで開催され、高橋隆一さんが出場。

9月、「ブラインドゴルフ・ジャパン・ツアー東北大会」が、宮城県・泉パークタウンゴルフ倶楽部で開催された。

10月、「ブラインドゴルフ・ジャパン・ツアー九州大会」が、福岡県・志摩シーサイド・カンツリークラブで開催された。

10月、「2003年オーストラリアン・オープン・ブラインドゴルフ・トーナメント」が、ネッドランド・ゴルフクラブと、コリアーパーク・ゴルフクラブで開催され、高橋隆一さんが出場した。

12月、「ブラインドゴルフ・ジャパン・ツアー東海大会」が、静岡県・サザンクロスカントリークラブで開催された。

[2004年]
2月、「ブラインドゴルフ・ジャパン・ツアー関東大会」が、茨城県・鹿島の杜カントリー倶楽部で開催された。

3月、「ブラインドゴルフ・ジャパン・ツアー中四国大会」が、岡山県・長船カントリークラブで開催された。

4月、「ワールド・ブラインドゴルフ・チャンピオンシップ 2004年メル「ボルン大会」が、オーストラリア・ビクトリア州のローズバッド・カントリークラブで開催され、本田省三さん、藤野博子さん、高橋隆一さん、光沢さん、後藤健治さん、中西由夫さんが出場した。

6月、「ブラインドゴルフ・ジャパン・ツアー関西大会」が、兵庫県・社団法人神戸ゴルフ倶楽部六甲山ゴルフ場で開催された。

7月、「2004年ブリティッシュ・ブラインド・オープンゴルフ・チャンピオンシップ」が、スコットランドのバルバーニーパーク・ゴルフクラブで開催された。

9月、「カナディアン・オープン・ブラインドゴルフ・チャンピオンシップ」が、シャノンレイクゴルフクラブで開催され、高橋隆一さんが出場した。

10月、「2004年オーストラリアン・オープン・ブラインドゴルフ・トー「ナメント」が、パース・ネッドランド・ゴルフクラブなどで開催された。

12月、「ブラインドゴルフ・ジャパン・ツアー東海大会」が、静岡県・サザンクロス・カントリークラブで開催された。

日本の牽引的な役割

1988年に、練馬区の一角にある、ゴルフ練習場にブラインドゴルファーの有志が集まって練習を開始した「ブラインドゴルフ倶楽部」は、着実に地歩を固め、さらに進化を続け、現在の「日本ブラインドゴルフ振興協会」へと成長発展を遂げた。

かつては、ブラインドゴルフの後進国であった日本だが、世界盲人ゴルフ協会の中でも、牽引的な役割を担って、更なる進歩、発展に寄与しているのである。

ふり返ってみれば、日本ブラインドゴルフ振興協会は、バブル崩壊期のさなかを潜り抜け、今日の姿となったのである。バブル崩壊後の日本の企業を見れば、減収減益の嵐の中で、ひたすら減量経営を強いられた。

だが減量経営はひとつの危険性をはらんでいる。たとえば企業メセナである。メセナとは、フランス語で、芸術・文化を保護・支援することを意味するが、メセナに対する意識が薄かった日本の企業も、1970年から企業メセナといわれる活動を活発に展開するようになった。

日本の経済力が「アズ・ナンバーワン」と賞賛された頃のことである。

ところが、バブル崩壊と、それに続く長い不況の間にメセナから撤退する企業が相次いだ。背に腹は変えられぬという言葉があるように、文化では腹がいっぱいにならない。

そうは言わずとも、無駄な経費を使うくらいなら、社員に還元するべきだといった声に経営陣は抗し難くなったためだ。

「スポーツは文化である」という言葉があるが、各企業が野球部や陸上部、バレ一部などを廃部したり休部する動きも激しくなった。

少なくとも、企業の宣伝媒体としての価値が、これらスポーツ部門からの撤退が相次いでいることで、かな低くなっていることがわかる。

当然のことに、さほどの経済的付加価値が伴わないメセナ活動も、停滞してしまうことになったのだが、これはわが国企業の文化に対する認識が残念ながら低いことの表れといってよいだろう。その中にあって、日本ブラインドゴルフ振興協会の発展ぶりは高く評価されてしかるべきだろう。

第2章 世界女子プロとブラインドゴルファー

女子プロゴルフ界の事情

私は、数年前から、2005年に向かって、あるプランの実行に取り掛かっていた。

前に触れたが、日本ブラインドゴルフ振興協会は、稲葉真寿美プロと契約を結んでいる。稲葉プロが、トーナメントに出場するときには、必ず、JBGAのロゴの入ったウェアを身に着けている。

その稲葉プロに、女子プロゴルフ界の事情を聞いたことがある。

女子プロ界は、1967年に樋口久子プロや小林法子プロら、プロ1期生の誕生以来、現在まで38年の歴史を誇る。

その間、女王の称号を維持し続け、全米女子プロ選手権に勝った日本人唯一のメジャータイトル保持者であり、また日本人で最初にゴルフ殿堂入りを果たした樋口プロ、持ち前の豪打を武器に勝ちまくり、さらに居をアメリカに移し、LPGA(全米女子プロゴルフ協会)ツアーで通算17勝、1987年には、LPGAの賞金女王になり、2005年ゴルフ殿堂入りが決まった岡本綾子プロ、あるいは森口祐子プロ、小林浩美プロ、福島晃子プロなどのスターが誕生した。

その後、一時は$6D82阿玉プロらの台湾勢、具玉姫プロなどの韓国勢に席巻され、日本人プロの奮起を促す声が高まったが、ここに宮里藍プロ、横峯さくらプロ、諸見里しのぶプロといった若手の台頭が著しく、いまや女子プロツアーは男子ツアーを上回るギャラリーを集めているといわれる。だが、その表面の華やかさと裏腹に、1人ひとりの女子プロの将来となるとかなり、厳しいものがある。

ゴルフは、最良の生涯スポーツといわれている。実際100歳を超えても、フェアーウェーを闊歩する元気なゴルファーもおられるが、これはあくまでもアマチュアのレベル。

自分のペースで楽しむ範囲であれば、肉体的精神的な衰えをカバーするのに効果的であるが、こと生活のかかったプロとなると、心身ともに体力の激しい消耗を要求されるのだ。

ツアー・プロとして生きていくなら、宮里プロ、横峯プロら若手や不動裕里プロ、福島晶子プロらと同じステージで戦わなければならないのだ。

ゴルフは、メンタルスポーツ、インテリジェンススポーツともいわれる。耳と耳との間でやるスポーツつまり頭のスポーツともいうが、それは一時代昔の話で、今は、アスリートゴルフパワーゴルフ全盛の時代であり、力の衰えた選手は、予選を通過することも難しくなり、生活の糧を得る手段に窮することにもなる。

とすれば、レッスン(ティーチング)・プロに転じて、アマチュアや、プロ志望の若手の育成に残りの人生を賭けるしかないということになるが、実際問題、プロ志願の選手のコーチ役は男性の独壇場といってよい。

宮里プロも横峯プロもコーチは、父親である。女性コーチによって育てられて、大成した例は、清元登子プロが育てた不動裕里プロや、古閑美保プロ、大山志保プロあるいは岡本綾子プロの門下生ぐらいのものである。

では、練習場では、どうか。やはり、圧倒的に男の職場であって、女性のレッスンプロの割合は極めて少ない。

男子プロは、50歳になるとシニア・ツアーの有資格者となり、レギュラー・ツアーとシニア・ツアーの両方に出場できるから、トーナメント・プロの道を続けることができるが、女子プロの場合は45歳になるとシニア・プロにはなれても、トーナメントでプレーをする場がないのだ。

だが、その男子のシニアツアーも、スタート時は年間十数試合のトーナメントが行われていたが、スター不在で、観客も呼べず、スポンサーも次から次へと離れていったために、いまや、後援競技を含め年間9試合(予定)しか行われなくなってしまった。

かつてAONと呼ばれた日本のスター、青木プロは、アメリカのシニア・ツアーを主舞台にしているし、59歳になったジャンボ尾崎プロは、レギュラー・ツアーで勝つことに執念を傾けている。

尾崎を敬愛している中島常幸プロも、レギュラー・ツアーで捲土重来を期している。これではなかなか、シニア・ツアーがギャラリーをひきつけることはできない。

男子プロでこの状況だから、女子プロも、当然ながらシニア・ツアーは成り立たないはずである。

当時、今から数年前のことだが、女子プロのツアーは、韓国勢、台湾勢に席捲され、日本人プロは低迷にあえいでいた。本体がこれでは、シニア・ツアーにまでは手が回らないというわけだ。

そこで、私は「もし、アメリカのシニア・ツアーと一緒にできるとしたらどうか」と稲葉真寿美プロに聞いてみた。

それが、できれば、大変に素晴らしいことではある。だが、果たして可能なのだろうか。

「それでは少し、時間をいただきましょう。私が、接触してみます。ツテはなんとか」

実際、その当時、私には何のツテもなかったが、アメリカでは真正面からストレートに意義を説き、情熱を持ってぶつかったほうが物事はうまくいく。誰にとってもいいことなのだから、きっとうまくいくと私は確信していた。

そこで、私は早速、アメリカのWSGA(米国女子シニアゴルフ協会)のジェーン・ブラロック会長に手紙を出した。返事は「いつでもお会いしたい」というものだった。

ジェーン・ブラロックとの出会い

私はアメリカに、所用で向かったとき、本業とは別に二つの心づもりを抱いていた。ひとつは、アメリカの女子プロゴルフのシニアツアーの視察であった。

しかし、シニアとなると、日本とは比較にならないほど、環境が整備されているが、それでも、いささかお寒い状況であることには違いない。

アメリカはゴルフ最強の国であり、各国の優れたプレーヤーが、アメリカのツアーに参戦することを目標に日々、研鑽を重ねている。数も、ゴルファーの底辺も広い。

PGA(男子プロ)では、タイガー・ウッズ、フィル・ミケルソン、ビジェイ・シン、アーニー・エルス、レティーフ・グーセンの5強を中心に熾烈な戦いを演じているレギュラー・ツアーがある一方、ジャック・ニクラウス、ト 62 ム・ワトソン、ヘール・アーウィン、グレッグ・ノーマンら、往年の大スターがひしめき合うシニア・ツアー(米国チャンピオンズ・ツァー)も、大いに人気を博している。

LPGA (女子プロ)では、スウェーデンのアニカ・ソレンスタムが、一頭地を抜いた強さを発揮しているものの、オーストラリア、韓国、イギリス、そしてアメリカ勢が、女王の座を虎視眈々と狙い、まさに百花繚乱といった有様で熱戦を展開している。

だが、シニアプロのおかれた立場はどうだろうか。現在、WSGTと銘打って、ツアーを開催しているが、年間わずかに3試合であり、賞金額も、レギュラー・ツアーとは雲泥の差である。それでも、ギャラリーは一日に8千人は来るそうである。日本の女子プロのレギュラーと同じくらいの数である。

WSGTを支援し、活動を活発化できて、さらに日米を中心とするシニア・プロたちとの交流を図れば、双方のメリットは限りなく大きくなるはずだ。

「ゴルフの社会貢献」を考えるなら、いま最も必要とされていることかもしれない。

私は、既に手紙で連絡をつけてあるジェーン・ブラロックWSGA会長に、面談を申し込んだ。

ブラロックは、アマチュアで赫々たる戦績を残した後、69年にプロ入り、ルーキー・オブ・ザ・イヤーに選ばれ、以後、引退するまでツアー27勝、その間 12年間、通算299試合予選落ちなしという未曾有の大記録を残したことは、既に述べた。

彼女の現役生活は、16年と極めて短い。しかも、42歳という、ゴルファーとして円熟のさなかでの引退である。彼女の引退の理由を、私は彼女から直接聞いたが、自分が年齢的にも、実力的にも、下り坂を降りていくのを感じながら、プレーを続けたくないと思ったからだと言う。

これは彼女が常に新しいことにチャレンジしたいという、意欲の持ち主だったからではないか。

論より証拠、彼女は引退後、世界有数の証券会社メリルリンチに就職、営業担当として目覚しい業績を上げ、退任後は、各種のイベントを企画、プロデュースするオフィスを立ち上げた。そんな彼女の元に、昔の仲間や後輩たちから女子プロのシニアツアーの設立の相談が持ちかけられ、昔取った杵柄に加えてメリル・リンチで養ったビジネスのノウハウで、WSGAを結成したのである。

私は、彼女とニューヨークのホテルのロビーで会い、日本の女子プロシニアの現状を訴え、日米のシニア・プロを中心に、「ワールドシニアゴルフレディースオープン選手権」という名称のトーナメントを開催するプランを提案した。彼女は、私のプレゼンテーションに強く興味を示した。

「チャコ・樋口を始め、日本の親しい女子プロがたくさんいる。彼女たちと再会できるなんて素晴らしいことよ」

また、この大会の、前日に、ブラインドゴルファーを含めたプロ・アマ・ブラインドゴルファー・チャリティトーナメントを開催することに関しても、全面的なバックアップを約束してくれた。

私は、ブラロックの返事を胸に帰国し、JLPGA(日本女子プロゴルフ協会)との接触を試みた。窓口は一期生プロで、JLPGAの樋口久子会長の片腕といわれる小林法子理事である。

ブラロックの意を聞いた小林理事は、一瞬信じられないといった表情を浮かべた。それはそうであろう。ゴルフ界に何のつながりもない私たちJBGAの話をいきなり真に受けるほうがおかしい。

しかし、私たちの真摯な姿勢は、しっかりと受け止めてくれた。

「まもなく、ブラロックさんからの親書が、樋口会長に届くはずです。その上で検討してください」と、私たちは述べた。

程なく、親書が届いた。恐らく女子プロ協会が、騒然となったことは想像に難くない。

JLPGAには600人に喃々とする会員がいるが、そのうちの5割近くが、45歳以上、すなわちシニア会員である。既に述べたとおり、シニアプロの活躍する門戸は極めて狭い。

レギュラートーナメントで、活躍する人はほんの一握りであるし、さりとてシニアトーナメントという舞台はまだ、存在しない。

したがって、多くのシニアプロは、練習場でのレッスンを生業としているが、それとて、楽な世界ではない。

練習場に通われている人はご存知だろうが、女子プロがいる練習場は極めて少ないし、女性ゴルファーが必ずしも女子プロのレッスンを受けるわけではない。

いや、どちらかといえば、男子プロ、それも若くてイケメンのプロに、女性ゴルファーがこぞって教えを請うケースが多いのだ。

結局のところ、少人数のゴルフスクールで教えるのが関の山である。

その一方で、プロとして生きてきたことによって身についたファイティング・スピリッツや、己の技術の向上を希求してやまない思いが鬱積してしまう。その思いをどう解消すればよいのか。

シニアプロの仲間が、何人か集まって、ミニトーナメントを開くのが、唯一の発露の場だったようである。

トーナメントといっても、スポンサーがいるわけではない。自分たちが一人ひとり、数千円単位の賞金を持ち寄り、それを勝者や上位の成績を記録した者に提供するのだ。

ところが、アメリカのWSGAと、ともに闘うとなれば話は別である。私はしかるべき賞金を提供することを約束した。

レギュラーツアーのそれに比べれば、金額は少ないが、それでも、プロのモチベーションを刺激することができる。

さらに、ブラインドゴルフという社会福祉、新たなるゴルフ文化の創設に寄与することができるのだ。

私の構想は、アメリカを中心とした世界の女子シニアプロ、そしてわが国の女子シニアプロの全面的な賛同を得て、着実に実行に移されていったのである。

ところで、アメリカのスポーツマンの多くが慈善活動やボランティア活動に関心を払っているが、とりわけプロゴルファーには、その思いが強い。

今はなきペイン・スチュワートが、ブラインドゴルファーに強い関心を抱いていたことは既に述べたが、女子プロも、同様である。

それに対して、日本のスポーツ界には、その機運の盛り上がりがあまり見えない。

それでも、阪神淡路大震災以来、プロ選手たちからの多額の寄付が行われるようになったのは、歓迎すべきことだが、恒常的に支援を行う人は少ない。ひとつは、アメリカと日本の税法上の違いがあり、日本では寄付行為に対する優遇措置がないこともあるが、社会的な関心や視野が広くないことが大きな原因ではないだろうか。

プロスポーツマンは少なくとも、肉体的に恵まれているということに感謝し、肉体的に恵まれない人に対する、より以上のいたわりの心を持っていただきたいと思う。

ワールドシニアゴルフレディースオープン選手権

2005年ワールドシニアゴルフレディースオープン選手権は、出場選手も決まり、4月9、10日の2日にわたって開催される運びとなった。

大会は、主催が、世界盲人ゴルフ協会(IBGA)米国女子シニアゴルフ協会(WSGA)・NPO法人日本盲人ゴルフ振興協会、後援に社会福祉法人朝日新聞厚生文化事業団・東京MXテレビ・静岡県沼津市、特別協賛として社団法人日本女子プロゴルフ協会が名を連ねた。競技運営は、日本のトーナメントの多くの運営を行ってきたダンロップスポーツエンタープライズが行うことになった。

ジェーン・ブラロックWSGA会長は、会員たちに語り、私をWSGAの理事に据えることを決定した。今後ともに長期にわたって良好な関係を保っていくためである。

ついで、「2005年ワールドシニアゴルフレディースオープン選手権」への出場者を募ると、シニア・プロたちが、我も我もと参加を希望した。かつては、海外遠征の折は高額のギャランテイが提供されるのが常であった大選手名選手たちが「ノーギャラ、OKよ。日本へ行きたい!」

彼女らは日本が好きなのである。唯一の例外と思えたのは、重鎮ジョアン・カーナーである。当初は日本へ行くことに、乗り気ではなかったようである。では、日本嫌いなのか。そうではない。

本当は愛する夫が、1週間も彼女が外国に行くのを拒んでいたからである。その夫も4年前に亡くなり、彼女は自由に世界中を飛び回ることができるはずなのだが、夫の望みを遺言のように守っていたのだ。しかし、ジョアンはついに、日本行きを決意した。実は、彼女は、日本にあこがれを抱いていたのだ。

ジョアンは、全米アマチュア5回優勝という戦績を引っさげ、プロ入り。LPGAでは、43勝を飾り、世界殿堂入りも果たしている、まさにアメリカ女子ゴ 90 ルフ界の重鎮で、「ビッグ・ママ」である。明るくて、無茶苦茶愉快な彼女が出場すれば、一層の盛り上がりを見せるはずだった。

ところが彼女は、2005年のナビスコ選手権に出場した際、怪我をしてしまい、来日できなくなってしまった。一説によれば骨折だというが、その彼女から、お詫びと心温まるメッセージが届けられた。

そして、必ず出場すると書き添えられていたのだ。

WSGAからの出場者

WSGAからの出場者は、最終的に16名となった。これらの選手のプロフィールを紹介しておこう。

ジェーン・ブラロックは既に紹介した通りで、選手団を率いる総帥である。

パット・ブラドリーは、11歳からゴルフを始め、プロ入りしてからはメジャー6勝を含む41勝を飾った。

その間、2度のローレックス・プレイヤーに選ばれ、平均ストロークNO1に贈られるVareトロフィーを2度受賞するなど、数々の栄光に飾られた現役生活を送り、世界殿堂入りをしている。彼女が来日し折のエピソードをひとつ記しておくと、魚料理がまったく苦手な様子。

パティ・シーハンは、1980年プロ入り、メジャー6勝を含み、LPGA3 5勝をマーク。ソルヘイムカップ(ヨーロッパ連合チームとの対抗戦)アメリカチームに4度出場、2度キャプテンを務めた。世界殿堂入りをしている。

キャシー・ウィットワースは、LPGAでメジャー6勝を含め88勝と、男子のPGAを含め最多勝を記録。プレーヤー・オブ・ザ・イヤー(年間最優秀選手)を7回、Vareトロフィーを7回受賞している。もちろん、世界殿堂入りしており、樋口久子プロの殿堂入りのセレモニーでは、プレゼンターを務めた。

美しい銀髪、思慮深そうな視線は、あたかも哲学者のそれを想像させる。実際、話を交わしてみると、知性的で物静かな素晴らしい女性であることがわかる。

アリシア・ディボスは、ペルーの首都・リマに生まれ、14歳からゴルフを始めた。1975年から78年までの、南米アマチュア・ジュニア選手権を獲得、 22 83年からLPGAに参戦。

コリーン・ウォーカーは、フロリダ州立大学で、MVPを獲得するなど、アマチュアで活躍、1982年にLPGAに入り、メジャー1勝を含む9勝を記録。 88年、Vareトロフィーを獲得。2001年のWSGTツアーのHy’V eeクラシックに優勝した。

ロリー・ウェストは、22歳でゴルフを始めた遅咲き派で1983年からLP GAに参加したが、未勝利。しかし、WSGT (米国女子シニアゴルフツアー)では、2勝した唯一の選手である。

エレイン・クロスビーも、20歳からゴルフを始めた遅咲きの選手で1984 年にLPGAに参加、2勝をあげた。2004年WSGTのHyVeeクラシックで優勝、同年の賞金王にも輝いた。

キャシー・パントン・ルイスは、1978年、プロに転向、ヨーロッパ・女子ツアーの創立メンバーで、同ツアーで14勝。80年代はLPGAに参戦。英国出身。

アリス・リッツマンは、1978年LPGAに参加。1ラウンドで3イーグルを記録、これはLPGA記録となっている。現在、生地モンタナ州に住んでいる。

ジャン・スティーブンソンは、オーストラリアに生まれ、オーストラリアで、数々のアマチュアのタイトルを獲得、さらにオーストラリアLPGAで4勝、1 974年LPGAに参加し、メジャー3勝を含め16勝。美貌と見事な脚線美で、今もファンが多い。

サリー・リトルは、南アフリカ出身。14歳からゴルフを始め、1971年か LPGAに参戦。その年のルーキー・オブ・ザ・イヤー。メジャー3勝を含め 15勝。

日本女子プロ選手権にも優勝している。WSGAの創立メンバーで理事を務めている。

デビー・マッシーは、1977年LPGAに入り、その年ルーキー・オブ・ザ・イヤーに選ばれている。通算3勝を上げ、そのうち全英女子オープンでは2 連勝。

シンディ・ラリックは、アマチュアで活躍後、1985年LPGAに参加、5 勝をマーク。美人選手の誉れが高い。

さらに、ジョアン・カーナーの代役として、ビッキー・ファーゴンが急遽来日してくれた。

蔡麗香は、わが国の女子プロ協会(JLPGA)のツアーに参加し9勝。台湾 LPGAの創立メンバーで、同協会会長を務め、台湾代表女子チームのキャプテンでもある。